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2023年02月05日 イイね!

米国トヨータ。北米のクラウン。

米国トヨータ。北米のクラウン。













ジョンFケネデイーさんが現役大統領時代に生まれたぼくら、ウチの整備の若い衆と会話すると、直ぐ昔はこうだったんだゼイと話の方向を向けてしまう自分をなるべく咎めようとはするのですが、つい口に出てしまうんですよね。連中が生まれた頃には既にレコード盤もカセットテープも無くなり、コムパクトデイスクの出回ってる時代ですからね。時代は進み変化に追いて行かねばならないのは仕方がないですけど、古い人、柔軟性に欠けるのは政府の閣僚だけではないみたいです。我々、最近のメルセデスやシトロエンを見て、ああ何と言う事ぞ、昔はこうじゃなかったと騒いでも、結局、時代の流れで昔と同じ物作って売れる時代じゃないんですから。会社や作っている自動車の車名は同じでも、製品は全く違うものだ、と理解しなければと自分に言い聞かせればならない今日時分です。

トヨータの最上級車だったアヴァロンが去年生産終了となりました。人気車種だと最後の一台が出荷する際、結構話題になるのですが、アヴァロンは殆ど人気の出なかった模様でひっそりとケンタッキー州のジョージタウンで生産が終わりました。

去年定期点検時にデーラーで待ってた際見た、最終型のアヴァロン。以前は最善のビュイックと言われ、広い室内、寛大な乗り心地、最高の信頼性と、中高年代の支持を得て、ピーク時の2000年には104,078台も売り捌いたのに、近頃のスポーテイー路線に舵を切ってからは販売台数の低下に歯止めがかからず、ここ数年は年間20,000台って言う所でした。因みに中京では続行生産販売され、あちらでは年間で軽く100,000台を超えてます。


なんでこの大型車に軍事秘密特攻隊みたいな形相を与えるのか理解に苦しいのですが、このレジエータグリル、実際の空気取り入れ口はエンブレムの周りとチンスポイラ上のわずかな部分で、(エンブレムの下部は左右に隠れたバンパ部が入っているのでグリルの穴を開けられない事は分かりますが)大部分は飾り。最近のホンダもそうですが、何故こんな事するのか、不思議に思います。。。ガキっぽい?



トヨータの最上級車はアヴァロンの前はクレシーダが1970年代後半から受け持っており、寸法としては日本のマークIIですから一番でっかいのではありませんでしたが、値段的にはそれ相応で、小型、かつ豪華装備、抜群の信頼性、トヨータ店で見守ってくれる安心感ゆえに、台数は大して出ませんでしたが、1980年代から販売が結構力を入れて宣伝はよく見たもんでした。そのクレシーダ以前の米国トヨータの最高級車は6気筒のマークII。1972年から1977年まででしたが、此方も別に宣伝を盛んいする訳でもなし、ただ単にお店に来た顧客に、これよりいい奴無いの?と聞かれた際、ハイ、マークIIってーのがありますぜ、と勧められる為に置いていたような感じで、マークIIを見かけた事は殆どありませんでした。同時期にダットサンも最高級車種は同じような状態だった頃、810ブルーバードに6気筒を詰め込んで3年間だけ売りましたが、実際巷で見た記憶は一回も無し。

前期型は前照灯が円形4灯。280Zの心臓を持った豪華車、と言うのが謳い文句。


角目の後期型。同色ハブキャップやツートン塗装、ゴテゴテしてますね。


そのクレシーダ、及びマークIIが守っていた、トヨータの最上級車種、1971年まではお馴染み、クラウンが導入されていました。クラウンは1958年にトヨータが合衆国に導入した最初の車種の一つで(もう一つはランドクルーザー)ステーションワゴン、ピックアップトラックなどの種類も持ち込んだ様子ですが、ご存知の通り、諸所の問題が次々に明るみになり、1960年の12月でクラウンの輸入を中止。考えてみると、1959年とか1960年と言えば、デトロイトでは天をも突くテイルフィンの聳え立つ大型車が売れまくった年です。

前照灯が無いのは、当時未だ日本ではSAE規格の前照灯が無かったので、現地調達だったせいらしいです。


この方、女優さんですかね?名前を知りたいです。これが東京ローズさんだったら。。


トヨータさん、1957年に起こした最初の事務所はロスアンジェリースのハリウッド大通り6032番。ランブラーのお店を買い取ったそうです。


面白い事に、66年経った現在も、同じ番地はトヨータのデーラーです。(本社とは関係なし)


広報写真とは言いながら、祭りのハッピ姿やら天井から下がる提灯でオリエンタルの雰囲気満々、果たしてこれらの演出が良い方に向かったか。。オリエンタルって昔の人がアジアの事を指す時に使われますが、近代は単に、エイジャンで表現される場合が多いです。そう言えば昔、名古屋にオリエンタル中村って言う百貨店があったっけ。これは全米最初のトヨータ販売店、ホルト・トヨータ。ロスアンジェリース郊外のヴァン・ナイスにある店舗。今はアキュラのお店。



”トヨペット” クラウンは2種類のステーションワゴンと確かピックアップトラックも用意されていた様子。観音開きのステーションワゴン。これで中柱の無い構造だったら面白い事になっていたかも。。




当時の広報動画から。ここ、ロスアンジェリースのウィルシャー大通り。


今にもマリポサ街からクラウンが左折して来る図。背後に取り壊された有名なアンバサドー・ホテルが見えます。


現在の様子。アンバサドー・ホテルも街路樹の椰子の木も無くなっちゃいましたが、背後に見える、IBMビルヂングは今でも健在です。


クラウンの輸入が途絶えた後、今度は準備万端で持ってきたのがクラウンよりさらに小さい、独オペルそっくりの、トヨータ・テイアラ、日本のコローナですね。1962年と思います。それでなくてもクラウンはちっちゃかったのに、この広い大陸で何故、一層小型の車種を持ってきたのか。。。。まあ、その後さらに小型のカローラを導入して爆発的な人気になるので一概には言えないかもしれませんが。


沖縄でもテイアーラは自家用より、主に的士として抜群のシェアを誇っていたみたいです。営業小型車に分類されますね。この広告のリヴリーは我が家で乗っていたのと同色、同車種。


軽便トラックのスタウトも数年間、同時期に来てました。この個体はロスアンジェリースからラスヴェイガスまで行く道中の村、加州ベイカー村に佇む放置車両。流石砂漠のど真ん中、もう20年程大して程度変わらず置いてある。。。


クラウンが戻ってきたのは、1965年。”トヨペット” の名称も捨てています(余り良い響きでは無かった)この頃はモデルチェンジが結構頻繁で、この型のクラウンは3年後の1968年にまた新型に変わります。


いくら車両が優れていても、矢張り販売台数はデーラーの数と比例します。特に広大な国土の我が国ではそれが1番の問題になります。なのでアジアから来た輸入車勢は、事実上の普及がデーラーが契約した、西海岸に集中していました。1963年に125店舗しか無かったトヨータも、1972年には850店舗までほぼ7倍に増えます。当時のデーラー・リストを見ていて驚くのは、全米ネットを謳う中、西部の荒野、本当に小さな町に、トヨータ契約店の名前があったりする事です。当時の営業の方達は何日もかけて、こう言った小さな村まで出かけて行って、東洋から来た聞いた事もないちっちゃな自動車の販売店になってくれと、大苦労された事が容易に察しできます。
ちなみに現在の合衆国のトヨータの店舗数はレクサスを含めて、1,270店舗。1987年にAMCが買収された時、AMCのデーラー数が約1,200店舗でした。。。(ジープ、AMC・ルノー含む)

米トヨータは税金優遇などの特典を狙い、2014年に発祥地のキャリフォーニアから出て行き、 現在はテキサス州ダラス郊外に大世帯を構えています。


トヨータ本社の技術部の駐車場にはいつも興味深い車両が隠れている。。。


1966年に、テイアーラに変わって出てきた新型コローナが大ヒットします。その後、1968年にクラウンも新型に。これは1970年型のキャタログ。












この頃のクラウンは冷房のエヴァポレータがトランクにあって小さな冷蔵庫が付いていたり、イグニッションの鍵を一番手前に回すとトランクが開いたり、前照灯の上下切り替えは勿論床のスイッチでしたが、床のスイッチがもう一つあって此方を踏むとラジオの自動選曲がジージーと動いたり、エンブレムは七宝焼だったり。。ステーションワゴンにも初めて補助椅子が設置されました。この補助椅子、フォード系と同じで横向きに座るんですが、片方にしか付いておらず、対面膝を擦りながら座らなくても済む仕様。テールゲートは蝶番が左側に。日本仕様は右側でしたね。





前席シートベルトの外側取り付け部に注意。いかにも後から考えたって言う形相。さぞかし後席の乗員は足元に手こずったでしょう。。。



1969年型はサイドマーカーが申し訳程度の小さな奴。マイナーチェンジ後の1970年からは大型に。


後部反射鏡が追加されサイドマーカが大型になった1970年型。このサイドマーカ、例の連邦車両安全基準法の一環なんですが、発効された1969年は反射鏡でけで済み、翌1970年からは反射鏡および電球で発光する事が義務付けられてました。ややこしい事に製造元によっては1968年から既にサイドマーカを装着する車種があったので、まんちゃー・ひんちゃー状態。


そして排気ガス規制、本格的になる安全基準が始まる前夜、1971年の、経ったの1年間だけ持って来てた、いわゆる ”クジラ・クラウン”。 こいつだけは多分宣伝はゼロ。キャタログにも申し訳程度に小さな写真が出ているだけで、なぜわざわざこれだけの莫大な費用を費やしてたったの一年だけしか持ってこなかったのか。残っている資料が極端に少ない車種の一つです。結構キャナダの方が売り物でてくる感じです。






これはボリヴィアで見かけたクラウン。両車、手動変速機仕様でした。




矢張りクラウンはこうでなくちゃね。この電動後席、一度でも見たかった。。。


パワーステアリングも自動変速機も、エヤコンも付かない簡素な仕様、いいなああ。


アヴァロンの生産が終了し、それに変わる車種として今年から、52年ぶりにクラウンの名称が付く車種が登場します。ぼくとしては、あのクラウンが戻ってくるのではなく、ただ単に 旗艦車種の名前にクラウンを用いた車種と理解しています。まあ、我が国は、52年前にあった、クラウンなんてクルマを知っている人は殆どいませんから、今更名称でドタバタ騒ぐ事は無いのですが、時代の変化に付いていくのに数歩遅れる自分の事ですから、余り意見は述べない方が無難なのかもしれません。。。

先日見たトヨータのピックアップトラック。素晴らしい状態。おまけにどこも改造してない点に、所有者のセンスの良さが痛いほど伝わります。加州から来た個体ですね。今、この類の車両、恐ろしい価格で取引されてます。






アラ・モアーナ大通りを走る、今は無きブランド、サイオンのの後窓にはカタカナで大きく、トースター・マフィアの文字が。このトースター・マフィア、以前にも近所で別のサイオンに表示されていましたが、全く意味不明。調べてみると、このサイオンやら、ホンダの以前あったエレメントの支持者達が作るグループらしく、言葉の発端は、それらの車両の形状が長方形でトースターに似ているから見たいです。日本でも同じ様な団体、あるのかしら。。。。


スバルと仲良く電気貰ってます。
Posted at 2023/02/06 11:35:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2023年01月28日 イイね!

廉価車の勧め。そんな物要らない、デリート注文。

廉価車の勧め。そんな物要らない、デリート注文。










最近の物価上昇には閉口と言うより、仰天しています。それでなくても全米で物価が一番高い当地ハワイ州では、値段が高い事にはいい加減慣れっこと言うか、本土に行かなければこれが普通なんだと思われるフシがあるんですが、それを差し位引いても近頃の値上げには驚きます。中でも卵の価格上昇は印象的で、それまではワン・ダズンが390円(相当)だったのが1週間であらよあらよろ値上がり、気がついて見れば910円になっているではありませんか!これ、値札間違ってると聞いてみるも、諸所の理由で価格が上がったとか。始末の悪い事に、企業は大抵一旦価格が上がると、上昇理由が去っても価格だけは下がらないと言う悪い癖があるようで、頭の痛い所です。まあ当地はワイキキーの観光地でも野生の鶏が雛を連れてうろついているのは何時も見られる光景なので、ウチの近くで餌でも置いて手懐けたら無料で卵がもらえるかしら、などと思ったりして。。アハハ。



物価上昇して家計が苦しくなると、自動車、特に廉価版が売れるようになるかと思ひきや、何故か売れるのは高価格車、または同じ車種でも上級車種が売れるのが我が国の不思議な所で、その点、国境越えて北のキャナダになると、廉価版の売れる比率が非常に高いのは昔から。

ぼくは昔から、廉価版、いわゆる ”スタンダード”  仕様が好きで、自動車を評価する際、スタンダード仕様だと一番その自動車の本性と言うか、性格が現れやすく、興味の対象になっていました。豪華仕様を好むこの国なのですが、一部では、兎に角安い奴が一番欲しい、と言うヒネクレタ人種も一定の数がいまして、昔の自動車のキャタログには必ず、隅っこに廉価版が一コマだけ、紹介されていました。

知られざる廉価車、その1。オールズモビル・オメーガ F85。F85と言われて記憶にある人はもう余り居ないと思いますが、後に中型車の代名詞になったカトラスの別名です。でも最初のF85は小型車だったのですが、出生魚よろしく次は中型車に格上げされたのですが、1972年でF85の名称が一旦消えたかと思えば、1976年と1977年にだけあった、オールズモビルの小型車、オメーガの廉価版の名称に使われました。大体オールズモビルと安い自動車とは通常、同じセリフではないのですが、このV6型エンジンの簡素車種、素のままで売られた試しは無かったようで、最低白壁タイヤくらいを履かせてオールズモビルのお店に置くのに恥ずかしくない様にしていたみたいですが、実際の販売数、微々たる物だったみたいです。


知られざる廉価車、その2。シェヴォレイのフルサイズ、Bボデーのベルエヤは、1977年の大ダウンサイズする直前までありました。その上1973年までは直6エンジンに手動3段変速機と言う仕様もありました。(1974年からは全て自動変速機のみ)うーむ、この巨大なフルサイズ車をクラッチ踏みなが転がせるなんて、一度、試してみたかった一台です。因みに1977年以後、フルサイズのシェヴォレイの廉価版はインパーラになりましたが、キャナダだけはなぜかベルエヤが1981年までありました。

1975年、大規模なマイナーチェンジ後のベルエヤ。


上級版のインパーラ等には尾灯が片側3つ。最上級版のカプリースはこれに装飾板が付きます。これはモデルチェンジされた年、1971年型。


尾灯が片側2つに簡素化されたベルエヤ。


キャナダではベルエヤは1981年まで残りました。流石、廉価車天国のキャナダ。


1960年代シェヴォレイで一番小型のコーヴェアにもちゃんと廉価版アリ。その名もコーヴェア500。


矢張りシェヴォレイのブランドは大衆車ですから、その一番安価なサブコムパクトとなると気合いが入り、GMの世界車、Tボデーのシェヴェットには ”スクーター” と呼ばれた趙廉価版があって、なんと後席が省かれた2座車で、そこには鋼板剥き出しの荷室床となっており、扉の内張には樹脂で覆われたカードボードに肘掛けが省かれ引っ張り取手だけと言う硬派の仕様。矢張りキャナダではこの仕様にかなりの需要があったみたいです。そう言えばシェヴェットには最後まで電動窓が装備できなかったなあ。。。。

メッキ類が殆ど省かれた最廉価版、スクーター。これは後期型。エンブレムも単なるステッカーが貼られただけ。誰が買ったかって?大学生が初めて買う車、それと年金生活のご老人なんかにも人気ありましたね。昔から年配の方は小型で維持簡易な低車格を好んでました。あとは連絡用の業務用にも結構需要がありました。


スクーターは2座仕様。省かれるものは全て省いて低価格に賭けた人生。


前後バンパはメッキもされてない地肌。


そのシェヴェット・スクーターの運転席。流石に絨毯は敷かれていましたが、扉の内張が凄い。。。座席の背もたれは当然固定式。


同時期のカローラにも廉価版がありましたが、こちらは主に燃費を稼ぐ為の簡素化だったキライがあります。この未だ触媒の付いていない1977年型の廉価版は上級版の3Tエンジンより非力な2Tエンジンに小排気量化されて、1ギャロンのギャソリンでなんと49マイルも走ると言う趙燃費仕様。当然排気ガス規制の厳しい加州と標高の高い地域では買えませんでした。


ちょっと疲れた画像ですが、その燃費仕様の安いカローラ、絨毯は敷かれず扉の内張もシェヴェット同様。


シェヴォレイが大衆車ブランドで安い車種があるんだったら、それよりさらに下を行くブランド、第四の自動車製造会社、AMCも政府納入競売で最低価格で楽勝で納入された、と言う感じの車種が沢山売られていて、実際、それらを一般大衆が買っていた時代ですから、懐かしいやら、悲しいやら。AMCの小型車、ホーネットなんかがそれに当てはまります。

例に漏れず、VWのビートルに対抗するために生まれてきた小型車のホーネット。


AMC製品の安風情さには伝統?が感じられました。


ジープを含め、AMCの計器盤は大抵左右対称のデザイン。どうしてかって言いますと、南アフリカやらオウストラリヤでも売られていたからです。


でも心変わりしたホーネットは名前をコンコードに変え1980年代になると、路線を180度変えて、豪華を目指します。あれだけの安風情が急遽、本革座席やらになり、ちょっとドラッグクイーン的な装飾がホーネット系の最後でした。

基本的にはホーネットと同様だったAMCコンコードの内装。豪華路線に変更され、ダンナ仕様、革座席にガラッと変わった後期型コンコード。


1975年型のAMCホーネット。後のヒコーキは再度登場、非常に珍しいメイヤーズの200型機。1968年のシェヴォレイのGヴァンの広告にも同機種が映ってました。


これが同じホーネットか?とは思えない程印象の変わったAMCコンコード。






このAMCコンコードと同時期にAMCで売られていたルノー・アライアンスことR9の2扉型にも廉価版があって、一応文化的な装備は付いていましたが、見かけはシェヴェット・スクーターと同じ顧客を狙ってました。でも簡素化されても元はフランス車。いくら北米化されたと言っても性格は隠せず。長大なサスペンションの伸び縮み幅、高速道路を手放しでピタリと直進する安定性、包み込まれる柔らかい座席。廉価版の方が返ってそのフランス車の性格を端的に表していました。




そのスタンダード仕様よりさらに下を(?)行く廉価版を買える裏技がかつてありました。それは例の、デリート・オプションです。要するに最廉価版でも標準装備される装置を省くと言う、工場出荷時点での(逆)注文装備です。その代表的だったのがヒーター・デフロスタでした。このデリート・オプション、GM系ではRPOコードでC48と呼ばれていました。RPOコードとは各車種に星の数程ある注文装備一つ一つのコードです。(Regular Production Optionの略)ひと昔は通常自動車を買う際、デーラーが需要予測を見込んで、あるいは製造側からの都合で特定の注文装備が最初から装備されている個体を大量仕入れして割引幅などで調整するんですが、(あとCOPOと言う、Central Office Production Orderと言う隠れ技もある)それとは別に、顧客は注文装備表を時間かけて睨んで、アタイは一番低いグレードの外装と内装、エンジンは一番強力なV8にポジトラクション付けて3段手動変速機。それに強化型冷却装置とクルーズコントロールだけを付けるわ、なんてのもありまして、セールスマンの頭を抱えさせられるのでした。

その暖房・デフロスタを省く、C48オプション、暖房とデフロスターを省くなんてと思うかも知れませんが、これも場所によりけりで、例えば加州やアリゾナ州南部、当地ハワイ州(または州になる以前のテリロリー)で暖房など要らん、その分負けてくれ!と迫る偏屈者、(ハイ、暖房・デフロスタのデリート・オプションを選ぶとその分、車両価格から差額が引かれます)または重量増加、構造複雑化を嫌う、主に自動車競争を眼中に入れて注文するニーニーなどの需要でした。デリートの注文装備と言ってもそう簡単な話では無く、操作系のある計器盤が違う部品だったり、それ用のブランク板があったりで、逆に今になってその様な仕様の車両、またはその専用部品は貴重品としてかなり高価に流通しているようです。

その暖房・デフロスタのデリート・オプションも1968年でほぼ消滅しました。どうしてかと申しますと、1967年辺りから始まったFMVSSと呼ばれる、連邦自動車安全基準法の中に、デフロスタの装備が盛り込まれていたからなのです。このFMVSSには4ウェイフラッシャー、側面ポジションライト、後退灯、衝撃吸収式の操舵軸、外側リヤヴュー・ミラーなども含まれており、これを境に、以前のような聳え立つテールフィンやら非常に複雑なラジエータグリルの飾りなどが事実上作れなくなりました。

その当時、製造側各社は来たり安全基準を見越して、車格の高い車種には標準で各安全装置を付けて売っていたので、1966年から1968年辺りは装備の結構チグハグな車種が見られたものです。

因みにRPOコードC48はFMVSS発令後も一応リストに載っており、注文できるのは国外に輸出される車両(メキヒコ・キャナダ等)あと、ハワイ州で1970年代初期まで注文出来たと言う噂があって、ウチの同年代の整備の人に聞いたら、子供の頃、1969年型のシェヴォレイがヒーター・デリートだったゼイ、との証言があったのでその噂は結構本当だったかもしれません。因みに常夏の島ハワイなんて良く言われますが、あれは全くの間違いで、ハワイにはちゃんと夏と冬の季節(春と秋はテーゲー)があり、オアフ島でも谷間にある家などには暖炉があったり、島中央のワヒワ村では冬の朝、気温が15℃まで下がるのはザラで、マウイ島やらハワイ島の山では雪がふります。ぼくなぞ今週の寒い日の朝、通勤にはシートヒータと最新装備、操舵輪にヒーターが装備されて持つ手が暖められるのがデージ重宝するくらいです。

1966年型のシェヴォレイ・マリブー。リアビュー・ミラーが左右どちらにも付いていません。FMVSS発令以前、法的に問われなかったからです。非常にクリーンに見えますね。


ダッジ・ダートだったかしら。これはヒーターもラジオも付いています。


ヒーター・デリートのオプションを選択するとこの通り。でも通常、足元に開閉するフラップがあり外気導入はできました。それと横窓には換気ウインドが開閉できましたから。


1967年のダッジ・コロネット、多分。


そのヒーター・デリートのオプション装備。覚えておくのはこれらの車種、最廉価版でも暖房は標準装備で付いてくるんです。それをわざわざ注文で省かせるのがヒーター・デリートです。


これは泣く子も黙るポンテイアックGTO。1967年型。


でもRPOのC48を注文するとご覧の通り。


オールズモビルの高性能車、4−4−2。1966年型。


C48 ”装着車”’


今日のおまけ。夜遅く、駐車場でこんなの見るのは心臓に良くないです。。。凝った座席カヴァーを付けたホンダ車。あきさみよ〜。


ホンダ・シヴィックも今じゃ昔のクラウン並みの寸法。同色車ですが、車輪が違ってますね。



超級市場の駐車場にて。ラジエータグリルのバッジ。結構 ”知っている” 御人ですね。
Posted at 2023/01/29 17:14:38 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2023年01月07日 イイね!

ミニヴァンの普及、奈落、その2。

ミニヴァンの普及、奈落、その2。













クライスラーの画期的なファミリー・カー、T115ことミニヴァンのダッジ・キャラヴァンとプリムス・ヴォイジャー。これらが出るまではご存じ、我が国の家庭には必ず一台、ステーウォンワゴンがあるのが常識でした。ドラマなどでお父さんが出勤時にステーウォンワゴンでも乗ってくると、会社の駐車場で、同僚に聞かれる前に、いや、ぼくの車が修理に入っているので今日は女房の車を借りてきたんだ、と言い訳を言うのが定説で、ステーションワゴンは男性の乗る自動車ではありませんでした。

それがあっという間にステーションワゴンがミニヴァンに入れ替わり、それから20年後、今度は家庭の主婦がミニヴァンを乗り回すのを嫌がる事になります。。。その理由はまたあとで。

さて、このミニヴァン時代夜明けの1980年代前半は、景気の悪化に反比例して、日本からの優秀な経済車の輸入が膨れ上がり、全米自動車業界は爆発する怒りの矛先を日本へ向けていました。丁度強硬派の大統領、元俳優のロナルド・レーガンが大統領選挙前から自国産業保護を約束していたので、日米自動車産業の関係は非常に緊迫な状態が続き、各官僚からの関税やら政治的な圧迫から出た、妥協策が1981年始まった Voluntary Export Restrain、略してVERと言う日本製乗用車の輸出自主規制です。最初の1981年が年間最大1,680,000台。1984年が1,850,000台と次第に枠が広がり、その間に大統領は保守派のジョージ・H・ブッシュから1993年に自由派のクリントン大統領に変わると、この輸出規制は1994年の2,300,000台を最後に撤退されます。自主規制にした事で一応、両方のメンツが保たれた形だったんですが、合衆国で売れる自動車の数が制限されるとなると、損出分を上乗せと言う形で値上げした日本製の自動車のお陰で結局被害を被ったのは一般消費者だと言う観察もありましたが、この輸出規制下を生き延びるのは、結局三つの方法が考えられました。一つは工場を北米に建てて現地生産する事。もう一つは一台当たりの利益率が高い高級車を増やす事。最後の一つは、輸出規制枠の中には入っていなかった、商用車の輸出を増やす事です。商用車は昔から輸入代数の規制はありませんでしたが、25%と言う高い輸入税が課せられていました。(乗用車は2.5%)。

北米工場の新設はホンダ、日産、トヨータを始め盛んになり、高級車の販売はレクサス、インフィニテイにアキュラ(マズダにも幻のアマテイと言う計画がありましたが頓挫)と言うブランドで各社、一斉に動き出すのが1980年代後半。

んで商用車の方なんですが、日本勢各社が目に付けたのは、クライスラーのT115がきっかけで、爆発的な売れ筋のミニヴァン系車両でした。

最初に日本からミニヴァンを持ってきたのがトヨータさんで、1984年です。その名もただの ”ヴァン” 。なんとも色気の無い名前ですね。これはタウンエースを急遽北米様に改造し、豪華にしたミニヴァンは、クライスラーより若干小型で取り回し容易、かつお手頃な値段でトヨータの信頼性、豊富な装備などを売りにしましたが、所詮、寸法が小さすぎ、おまけに車軸間が短く、小回りが効く宣伝文句は事実でしたが同じ分、走行安定性も優れず、その上ドライヴトレインが全て運転台下から床下にあり整備性の悪さも後に有名になります。それでも結構頑張り、商用車版、四輪駆動版も加え、6年間で170,000台を売り、1990年からは卵形のミニヴァン、プレヴィアで再挑戦、こちらはタウンエースと違い開発時から北米輸出を配慮して設計された筈だったんですが、これまた特異な機械構造、それと矢張り室内の狭さ、高価格、あと衝突時の安全性の問題が指摘され、泣かず飛ばすで1998年まで売られ、結局トヨータさんが本格的にクライスラーに対抗出来るミニヴァンを作り始めたのは1999年、のキャムリを土台にしたシエナでした。

これは前期型の乗用版。


前期型、商用版。


1986年からの後期版。商業パネル型。




次に登場した日本製ミニヴァンは日産自動車、旧プリンス自動車の技術者が開発した画期的な自動車のプレイリーを、日産スタンザ・ワゴンとして1986年に持ってきました。スタンザ・ワゴンの販売は1986年から1988年までの短い期間でしたが、その特異な中央柱が無い斬新な車体構造も相まって、今でも熱狂的なファンがいます。この頃の車両に共通している興味深い事はこのスタンザ・ワゴンもそうなんですが、2輪駆動版は環境保護庁からは室内容量からミッドサイズ・ワゴンとされ普通の乗用車と同様の安全基準法が求められるんですが、4輪駆動版は特殊用途車両と見なされ、安全基準が甘い、商用車として区分されるんです。5マイルバンパーの法律は1982年が最後でしたが足並み揃える各社はバラバラで、まだ5マイルバンパー同様の構造を持っている車両がありました。このスタンザ・ワゴンもその一例で、2輪駆動版は油圧シリンダを備えた立派な突き出た前後バンパーを持ってますが、4輪駆動版は衝撃吸収構造材だけを入れた、ひ弱なバンパでやり過ごしています。これと同じ現象はスバルでも見られました。

スタンザ・ワゴンは3年間だけの販売。これは2輪駆動なので乗用車と見なされ内部に衝撃吸収する油圧シリンダの付いた本物の5マイルバンパ。


4輪駆動板は形状の異なる、バンパ。


後ろ姿だとバンパの違いが顕著に見えます。大きいのは2輪駆動版。


4輪駆動版、小さなバンパ。


スタンザ・ワゴンとプレイリーは後部の構造がかなり異なります。2輪駆動、4輪駆動と欧州仕様2輪駆動。








日産は同時期に愛知機械製の日産・ヴァネットの北米版、こちらも味も素っ気もない名称、ただの ”ニッサン・ヴァン” として1986年から1989年まで、クライスラーのT115より安いミニヴァンとして、主に南部、キャリフォーニア州、フロリダ州とテキサス州で合計、32,000台程売ったのですが、2,400ccの四気筒エンジンに格上げしたにも関わらず非力さは隠しきれなかった上、その分酷使されたエンジンは過熱から火災を起こし、記録されているだけでも135台の出火事件に至り集団訴訟、4回にわたるリコール(これが非常に高くつく)になり、結局米国日産が車両を全て買い取ると言う前代未聞の話になりました。でもこの買取は法的強制性は無かったので、買取拒否する消費者も多少いたらしく、数回、ロスアンジェリースかどっかで未だ走っているのを目撃した事があります。

火災問題でリコール4回、結局回収に至ったニッサン・ヴァン。費用は日産自動車が払ったか、愛知機械が払ったか。興味深いところです。




日産はニッサン・ヴァンの後釜として、日本で続行して売られていたプレイリーの2台目を日産・アクセス (AXXESS) と名乗って、合衆国に僅か一年だけ、1990年モデルイヤーに持ってきますが、お隣キャナダではこのAXXESSを余り改良もせず1995年まで販売しました。合衆国のAXXESSとキャナダ版のAXXESSの違いは、合衆国版は当時あった受動安全規制法のお陰で自動シートベルトが付いていた事、キャナダ版はこの、電動モータで肩帯がジーッと扉沿いに動く仕掛けが省かれていました。モデルイヤー1990年だけ、販売総計合衆国で20,000台弱。キャナではその後も継続販売1995年まで。



日産はおかしな事に、スタンザ・ワゴン、ニッサン・ヴァンとAXXESSと同時期、1987年にフォードとミニヴァンの共同開発を始めており、こちらはニッサン・クエストと姉妹車、マーキュリー・ヴィレジャーとして1993年から売り始めます。なので、キャナダの日産デーラーに出向くと、1995年まではこのクエスト・ミニヴァンとAXXESSミニヴァンが同時に同じショールームに置かれていた頃になります。

クエストは立派な事に、ちゃんと油圧シリンダの付いた5マイルバンパーを装備していました。製造者のフォードは1980年代は空力を自慢、1990年代は安全性を前に出していましたから当時の宣伝にはバンパの事、ちゃんと出ていましたね。


後に日産は大型ピックアップトラックを基本にNVシリーズの、フルサイズのシェヴィーGヴァンやらメルセデスのスプリンターと同じクラスの、大型ヴァンを2011年から国内製造し、商業版、乗用版と、一時期は日産の商業車部門は本格的になるとおもひきや、採算取れる台数に販売が乗らなかったと言う理由で、一つ小さいサイズのNV200も含めてヴァン事業から完全撤退してしまいます。国境を越えたメキヒコではその代わり、これも結構昔から、日産・キャラヴァンは続行販売してますが。

日産が商業車から撤退(ピックアップトラックを除いて)したのは残念です。このNVヴァンはウチの近所にもありますが巨大です。シェヴィーのGヴァンが小さく見える。。


国境南、お隣のメキヒコでは売られる日産・キャラヴァンことアーバン。


メキヒコでは自国製、旧マーチ・マイクラをまだ製造販売してます。このメキヒコ製マイクラは合衆国では一回も売られた事はありませんでしたが、キャナダでは初期版とこの型が売られてました。



小型のNV200も同じく2021年で廃止。鳴物入りの的士版は堂々とニューヨークはマンハッタンの的士に選ばれたのに、これもおしまい。この個体は2014年から4年間だけ売られていたシェヴォレイ版のシテイー・エクスプレス。シェヴォレイの蝶ネクタイのエンブレムが似合います。






最後の日本製ミニヴァンは三菱自動車。デリカを急遽、北米版にして持ってきたのが、1987年。商業版もあったのですが、たったの三年間、乗用版16,485台と商業版を6,542台売り終了。

北米三菱は販売網が極めて弱いのと、経営方針・車種がはっきりせず、到底本気で自動車売っている様には見えません。以前はいい自動車作ってたのになあ。。。


前後のでかいバンパ。でも5マイルバンパではなく、衝突時の構造材が入っているだけ。





バンパの構造。



あとは余り関係ないかもしれませんが、ルノーとの共同経営にハッテンしていたアメリカン・モータースも、ルノーのエスパース・ミニヴァンを北米に持って来れないかと思案していたそうです。アルピーンA610は、AMCの ”ヘイロー・カー” として北米仕様の開発を終了していたんですが、生産前夜にAMCをルノーがクライスラーに売却して全ての計画はおじゃん。



量産試作まで行ってたルノーGTA V6。北米基準灯火類と大型バンパ。


ではどうしてミニヴァンの人気が落ちたか。1990年代後半、ミニヴァンはお母さんが子供の放課後のサッカー練習などに子供を送迎する時に頻繁に使われるので、サッカー・マム、サッカーお母さん御用達と言う評判が定着し、これが主婦の評判を落としたそうなんです。お母さん、子供がテイーンエイジャーになっても活発で綺麗で躍動的と見られたいらしく、それにはミニヴァン=子供と言うより、新しく定着してきたスポート・多目的車、いわゆるSUVの方が絶対魅力的な女性に映ると言う動きが始まり、2000年代になるとミニヴァンとSUVの比率がひっくり返り、近頃、ミニヴァンと言えば業界内のシェアが2%とか3%とか言われるまで落ち今日に至ります。

でも業界の話では、ミニヴァンの需要は一定で持続し、種類は限られますが、これからも消滅はしないと言うのが噂です。皮肉な話で、アメリカ合衆国の象徴みたいな車種だったステーションワゴンやミニヴァンは、今じゃ日本勢と韓国勢しか選択余地がないと言うおかしな事になっちゃいました。

余談その1

フランス勢はステーションワゴンになると本気で開発し、車軸間を長くした、素晴らしいのを持ってきてました。プジョー504のステーションワゴンは後車軸にコイルバネが片方2個ずつ、ハーフトンの搭載量の癖に溶かしたバターの如くの乗り心地。僕の青春の一台でした。米国では504、後半になってから売れ出した。。。特にジーゼルは。


これも合衆国で何台売られたかは謎ですが、ぼくはルノー21のブレーク、名称を何故かネヴァーダと本国では呼ばれますが、を1987年の夏、欧州中乗り回した思い出の深い一台です。北米、三列座席型を売った。エンジンが排気量により縦置きだったり横置きだったりする変なクルマでした。(なので車軸間も少し違う)


因みに1988年の統計から。トヨータはヴァンを14,322台販売。火を吹く日産・ヴァンは10,846台。三菱は3,870台のヴァン。ヴォルクワーゲンのヴァナゴンが5,416台。GMのアストロ・サファーリが190,000台。そして、クライスラーのT115が、ナント合計、422,413台!!も売れた年でした。もう独走、無敵でしたね。このウッドパネル、最近すっかり見かけなくなりましたけど、最後にウッドパネル使った車、何年前だったのかしら。。。


余談その2

先日カポレイの商業施設で見かけたヴォルヴォのステーションワゴン、おう程度が素晴らしく良いねえ、それに珍しい欧州仕様の前照灯、思わず写真撮り、後で見れば、アイや、これ、RHDの日本仕様じゃないですか、おまけに車検証までまだ貼ってある! 最近こういったJDM仕様車の輸入が盛んで、毎朝、電視でコマーシャルまで流す中古車会社もあり、特に軽トラックが法外な値段で売られているのを見ますが、コレら、当然25年以上前の車両で(25年以上古い車両は連邦安全基準法、排気ガス基準規制らが免除になる)誰も前照灯を右側通行用に変えてないし、業者は売り捌くだけで古い日本の軽自動車の部品なんて揃えてる訳ないし、整備なんて買ったら最後、あと1、2年すればRHDのJDM不動車が乗り捨てられている図が今から頭に浮かびます。。。。


Posted at 2023/01/08 19:54:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2023年01月01日 イイね!

ミニヴァンの普及、奈落、その1。

ミニヴァンの普及、奈落、その1。









一昔前、保守派が幅を効かせる我が国の典型的な家族像としては、子供が2人、郊外に家があって芝生と白い木柵の庭、バーベキューセット。会社員の旦那さんは2座軽量車かなんかで通勤して、家に残る奥さんは必ずと言って良い程、ステーションワゴンを運転して買い物やら子供の送迎に使うのが一般的、かつ理想像にされていた時代がありました。

1963年のフォード。昔はステーションワゴンには専用のフルラインアップのキャタログがありました。ファルコンより大きいのはギャラクシー、その上はエコノラインのフルサイズ・ヴァンと、ちゃんと格が決まっていたのはGMも同じ。




1968年のシェヴォレイのGヴァン。家族生活を思わせるより、商業で多人数を送迎する、って感じですね。背後の小型ビジネスジェット機は初期型のノースアメリカン・セイバーライナー。ミズーリ州セントルイスで製造されていました。その手前の小型機はたった135機しか製造されなかった、世にも珍しいマイヤーズ200と言う単発軽飛行機。セーバーライナーもこのマイヤーズ社もこの頃にロッコウェル社に買収されたので、何となく納得。因みに1967年のジェームズ・ボンド 007、スパイは2度死ぬに出てくる、ショーン・コネリーが日本人に扮し、1960年代の日本で活躍するフィルム、その中で架空の会社、大里化学の社有機が墜落する場面、あれもこのマイヤーズ200で撮影。


縦書きの大里の文字がかわゆい。連中は オ・サ・ト と呼んでいましたが。この場面、実際の撮影場所は英国。



変化が見られるようになったのが、1960年ですかね。ヴィエトナム戦争、人種差別撤退の公民権運動、男女平等権、無限に続くかの様に信じられていたアメリカン・ドリームが揺らぎ始めたのはこの時期じゃないかと思います。

電視の番組は勿論スポンサーの考え方も多大に影響がありますが、当時の世相を結構正直に反映した物が見受けられたのが興味深いところです。その中でもドラマに登場する主人公が配偶者を失っているケースが、60年代からの保守派の時代に結構見受けられて、例えば田舎の保安官のお話のアンデイー・グリフィス・ショーは子供1人置いて奥さんが他界した想定ですし、イルカのフリッパーは奥さんを亡くして子供を2人育てるお父さん、と言う設定でしたし、あのデイヴィッド・キャシデイーで大ヒットしたパートリッジ・ファミリーも主演を演じるシャーリー・ジョーンズも未亡人役だったし、同時期のザ・ドリスデイ・ショーも主人公は2人の子連れの未亡人でした。1970年代に入れば大ヒットしたブレイデイ・バンチになると妻に先立たれた子供とお父さんの家族と、旦那に先立たれた娘とお母さんの家族が一緒に住みだすと言う壮大な構想でした。

田舎の保安官と友人の朗らかな生活を描いた、アンデイー・グリフィス・ショー。子供役はロン・ハワード。こう言うお父さん1人の役には必ず老婦人がサポート役で出てきますね。薬師丸ひろこちゃんの探偵物語のお手伝いさんみたいに。


そのロン・ハワードはアメリカン・グラフィーテイーで1958年型のシェヴォレイ・インパーラを駆るハイスクール卒業生役を演じます。ぼくの大好きな影視の一つです。左はシトロエン2CVに乗る若き、カートくん役を演じるリチャード・ドライファス。


1958年型インパーラも活躍しますが、カートくんの2CVも負けたもんじゃない。


イルカのフリッパー。確か協賛はフォードで、国立公園を管轄するお父さんは政府所有のフォードFトラックのキャンパー仕様だったと思います。


パートリッジ・ファミリーのオンボロ・バスは1957年のシェヴォレイ・シャーシ。主役のデイヴィッド・キャシデイー、筋書きのお母さん役が彼の実際の義理の母、シャーリー・ジョーンズで、その事を知らされてなかったデイヴィッドは、初日に撮影所で母親に遭遇し、ここで何してるんだい?と聞き、真相を聞き仰天したとか。シャーリー・ジョーンズの旦那のジャック・キャシデイーはこの、テイーン・アイドルだった長男デイヴィッドと仲が良くなく可哀想でした。ジャック・キャシデイーは1976年に、コロンボのエピソード、2回目の出演後、自宅の火事で49歳の若さで他界。デイヴィッドはラスヴェイガスで長らくショーをやっていた後、アル中・肝臓疾患で数年前、67歳で帰らぬ人に。


あのバスは今、何処。ところで番組ではシャーリー・ジョーンズもデイヴィッドもこのバス、平気で運転するんですが、当時の加州でバスの運転免許、彼らちゃんと合法だったのかしら?


珍しく3人揃って笑顔の図。シャーリー・ジョーンズ、旦那のジャック・キャシデイーとデイヴィッド・キャシデイー。


ドリス・デイ・ショーはクライスラーがスポンサーだったのかしら。このドラマ、人気だったんですが、シーズン別にあらすじ、出演者がコロコロ変わっていき、新しいシーズンが始まると以前と全く話が変わっていて付いて行くのにナンギしました。はい、2人の息子を抱える未亡人が東海岸からサンフランシスコに移ってきたと言う想定です。




ドリス・デイが颯爽と走り去るのは、1969年型プリムス・バラクーダのコンヴァーチブル。


ブレイデイ・バンチ、奥さんはプリムス・サテライトのステーションワゴン、建築家の旦那さんはいつもダッジかシェヴォレイのコンヴァーチブル。コレ、ロスアンジェリースと言う、暖かい所の設定だったから選べた車種だったのかも。


そう言った昔とは変化しつつある米社会も、以前は見向きもされなかった小型車と言う業界に、ヴォルクスワーゲン・ビートルと言う、到底米大陸には不向きとされていた自動車がじわじわと増殖し出し、遂に大手の自動車会社も怯えるシェアを取得するのに対抗し、三大自動車製造会社は急いで小型車を作りますが、今まで得意でなかった小さな自動車です、開発、販売、に手こずり失敗また失敗。日本車勢に危機を感じる20年前の話です。

その頃、ビートルに散々ニガ汁吸わされていた各社、VWがビートルの背後で売りまくっていたタイプ2、此方では一般的にタイプ2を ”バス” と呼びます(VWが始めた呼び名)に目をつけます。

ビートル程ではないにしろ、タイプ2のバスの販売台数も無視出来ない状態に。。
隣で羨ましそうな顔しているのは、1970年型のAMCレベル。このラジエータグリルはこの年だけ、次の年から前後がガラッと変わるマタドーに変わります。


役員らは小型化されたフルサイズのヴァンを ”ガレージアブル”  (車庫に入る) サイズと呼び始め、フルサイズのヴァンの背丈を低くして、一般家庭の車庫に収まる事を想定した車種を考えます。その中でも一番意欲的だったのがフォードで、アイデイアを推していたのが紛れもなく、あの、リー・アイアコッカ氏でした。その小型ヴァンの開発は ”キャロウセル計画” と命名され、余り仲ののよくないヘンリー・フォード2世にもこの案は気に入られ、あれこれ試作車を出している内に例の、第一次石油危機が訪れ開発は中断されます。

フルサイズのヴァンの高さを低くしたり、小型車の背を高くしたり、試行錯誤のフォード、キャロウセル計画の試作車。右から3人目がアイアコッカ氏。


これは1975年にモデルチェンジするEシリーズ(フォードのフルサイズ・ヴァンの名称)の全高を低くした試作車。かなり生産直前まで行ったそうです。






その後、アイアコッカ氏はフォード2世から仲違いの上、突如クビになり、間髪入れずクライスラーに移籍し、歴史に記される倒産寸前から奇跡のVの字復帰するのは有名ですが、クライスラーも実は同じような小型ヴァンを1970年代に企んではいたのですが、資金難などで断念していたんです。そこにフォードで小型ヴァンのキャロウセル・計画を勧めていたアイアコッカが移ってきたんですから話が進のに時間はかかりませんでした。そして登場したのが、コードネームT115こと、ダッジ・キャラヴァン及びプリムス・ヴォイジャー。



当時、国内産で当たり前のフルサイズ・ヴァンの下のクラスはフルサイズのステーションワゴンになるので、車体の寸法自体はフルサイズ・ヴァンより遥かに小さく、室内容量はフルサイズのステーションワゴンより遥かに大きいミニヴァンが爆発的な人気を博したのは盲点を見事に突いたと同時に、それを政府からの低金利借金で作った、Kカーの車台を応用したんですから、経理部から見れば夢の様な話です。

不思議な事に、フルサイズ・ステーションワゴンの必須条件の横4フィート、縦8フィートの合板は、クライスラーのミニヴァンには長丈版でも初期型には積めませんでした。横幅はいいんですが、長さが足りず。商業用の派生車、後扉はハッチバック式と2扉式が選べました。




1985年と1986年だけにあった、前席ベンチシート仕様8人乗り。ベンチシートが40/60の割合で個別に前後移動と傾斜調整が出来、40側が運転者、60側に乗員2人乗ると言う仕組み。殆ど誰も注文しなかった極めて珍しい仕様。


GM, フォードも追従を掛け、様々な車種のミニヴァンが出回った1990年代、住宅街の代名詞の様なミニヴァン。一度はアイアコッカに構想をクライスラーに持ち逃げされたフォードは、小型ピックアップトラックのレンジャーを元に当時凝っていた流線形を持ち入りアエロスターを出します。コレ、運転するとピックアップトラックそのもの、室内は狭く作りも雑で、買い手は政府系の企業が多かったみたいです。次世代のウインドスターにモデルチェンジしても、フォードご自慢の市場調査で左側スライド・ドアは顧客は誰も欲しがらないと頑なに設計変更を拒み、左側運転台の扉の幅を広げただけで済ませ、左側にもスライデイング・ドアを設けたのは1999年になってから。クライスラーは両側スライデイング・ドアを1996年から揃えてました。

流線形のアエロスター・企画。


生産型のアエロスター。実際の方が格好、よくない。


GMはお馴染みアストロで対抗。こちらもアエロスターと同じく新型小型ピックアップトラックのS10の車台の上に架装したもの。クライスラーみたいな乗用車感覚はないですが、その代わり牽引、商業版の搭載量や堅牢性では上を行き、マーケティングも上手だったお陰でT115とは違った分野で成功し、長期間生産されます。ぼくの想像ではS10ピックアップと同様、藤沢のいすゞが開発に結構関与していた様な気がしてなりません。



つずく。。。
Posted at 2023/01/02 18:42:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2022年12月25日 イイね!

クルマに光を。

クルマに光を。












以前どこかの慈善事業の番組で番組名が、”心に光を”、と言うのがあったんですが、アナウンサーの言い方が独特で、どう聞いても、”心に怒りを”、と聞こえるんですよね。ぼくの日本語の理解度が足りなかったのかしら。

冬至を過ぎて日は長くなり始めた筈とは言え、まだまだ冬が続くこの頃。我が家のプリアスは最新式なので前照灯は暗くなれば自動的に点灯し、対向車が来れば自動的にロービームに切り替えてくれる上、駐車すれば前照灯は数秒間点きっぱなしなった後、自動消灯すると言う便利さ、でもコレ、ひと昔のGM車で言うトワイライト・センチネルとガイドマチックと同じではないですか。

昔のGM車、特にキャデラックを知ってる人にはお馴染みの注文装備の、トワイライト・センチネル、それとガイドマチック。

トワイライト・センチネルは暗くなれば自動的に前照灯が灯き、駐車後にはタイマーで一定の時間後に前照灯が消灯する機構。

ガイドマチックは自動的に前照灯のロービームとハイビームを切り替えるものです。

この二つの装置は、GMの系列会社、”ガイド部門” (Guide Division)、GMの灯火類を専門に開発する会社が考え出した物で、不思議な事に機構的に凝っている、ロービーム・ハイビーム自動切り替えの方が先に登場しています。

ガイド部門が普及させた、当時物、T3型シールドビーム。最近の人は何から何まで最新型の前照灯に変える勢いですが、ぼくに言わせば、毎日実用に乗るなら別として、古い車には古い電球使わないと、雰囲気がぶち壊しになると思うんですがね。
T3とは、下に3°、左に3°向けて組み付ける意味。初めて電球表面に三つの突起がつけられ、射程調整装置を使えるようにした物。1970年代前半まで使われた電球。





最初、1952年のキャデラック、ビュイックとオールズモビルに搭載された自動切り替え装置の商品名は、オウトロニック・アイと申しまして、計器盤の上に小さな照準器みたいな物がデンと置かれていて、その先にあるレンズから集光された光を電気信号に変え、電源が6ヴォルトから150ヴォルトに昇圧れて、真空管で制御して動く装置。1958年に小型化・改良され、名称をガイドマチックに変えて発売。その後トランジスタ化され、最後に搭載されたのが、ダウンサイズ2回目のCボデー・キャデラック、1987年型(FWD/RWD) が最後でしたが、近年になって高知能前照灯が登場して、同じ機構が組み込まれているそうです。

この猫目の物体が前方を監視してハイビーム・ロービームの切り替えをするのです。




そのオウトロニックの制御機構は、トランジスタの出回る前の話で、150Vに昇圧して真空管で動いていました。その際、振動させるヴァイブレータから結構音がでます。気にしない。気にしない。あっ、それから真空管ですから、エンジン始動させた後、オウトロニック機構の作動させるまで、一定の暖機時間が必要です。


これがその真空管。


その後、1958年からオウトロニックはガイドマチックと名前を変え、ギョロ目のセンサー部分を計器盤上部からラジエータグリルの中やら、フェンダ先端の飾りモールに組み込んだりして目立たなくなり、制御機構も小型真空管、のちにはトランジスタに変えられ改良されていきました。

左側フェンダ先端の飾りに隠されたガイドマチックのセンサー部.


センサ部が車室外に出たことで、精度が上がったとか。問題は次第に普及していった色付き青ガラスで誤作動が結構増えたそうで。色々レンズにフィルタかけたり可視色の調査はしたそうですが。。。


1970年代になるとセンサ部はラジエータ・グリル内に隠れます。これは1970年型エルドラード。




センサ部も小型化。


トワイライト・センチネルの登場は1960年から。ダッシュボード左上部にCDS感光部があり、それに応じて点灯・消灯する仕組み。そのCDSに穴の開いたカヴァーが付いており、それを回すと感光部の穴を塞いだり開けたりして感度を調節。後日は電気的に感度調整になりましたが。



消灯タイマーは俗に言われる、夜間の下車後暴漢に襲われるのを防ぐ為と言われてますが、実際は、下車後家までの足元を照らしてくれる為だと思われます。大体昔はそんな物騒な世の中じゃなかった。。。トワイライト・センチネルは此方も現在、高知能前照灯の機能の一部として継続されています。

ガイドマチックとトワイライト・センチネルが両方搭載されると、昔の車両は前照灯のスイッチの根本にあるリング、上部回すとロービームに下がる相手車両までの距離を調整でき、下側の部分を回すと、トワイライト・センチネルの残照時間を最大三分間まで調整できます。この頃の前照灯のスイッチはどの会社の車両でも、丸いノブ部分が回転し、計器盤の背後照明の明るさを調節でき(連邦安全基準法)一番右に回しデイーテントを越して右に当たると室内灯が点くのが常でした。(よって室内灯にはスイッチが無い)





トヨータさんはコンライトと言う名称で同じような前照灯自動装置をクラウン・エイトからつけてましたが、さすが、最初からトランジスタ制御。コンライトと言う可笑しな名称は Light Control から来てると広報誌には出ていましたが、英語で 
”CON"と言うの考え物で、”コン” とは一般的に ”騙す” 事を指し、詐欺師の事は  ”コン・マン” と呼ばれ、もう一つ、”Convict”、いわゆる囚人の事も、Ex−Con
(もと囚人)などと言います。



これらの照灯装置に加え、昔からあったのが、灯火装置の作動確認をする為の小道具、その名もヴィジライト。フェンダの先端に小さいコブ状の突起物があり、夜間前照灯やら方向指示器を操作し、それらが通常点灯していると、その突起物が光り、運転台居ながらにして点灯確認できると言う物。

ヴィジライトが付いていると、前照灯などの接合部に光樹脂の光源を拾うもう一つの配管が来てます。中央の黒いのがソレ。


なのでヴィジライト装備の前照灯、シールドビームだと小さなガラスの ”おへそ” 突起があり、これと配管を小さなゴム製の短いパイプで繋ぎます。方向指示器、尾灯なども同じ機構。






これは尾灯にも付いていまして、此方は天井後方に付けられていて、後鏡で確認できます。

こう言う風に光ます。


この装置は光伝導樹脂を使っており、それぞれ光源の後ろに光が漏れる突起があり、そこから細い紐状の樹脂が光をフェンダ上の突起物後ろに導くのです。これを開発したのは、GMの系列会社、パッカード電気部門と言う会社でして、名称から分かるように、昔は高級車のパッカード社の技術部門を1932年にGMが買い取った物。でも電気部門との名称とは裏腹に、実際は樹脂技術に強く、その樹脂繊維技術を応用したのが、このヴィジライトでした。




ひと昔のキャデラックなどには必ず付いていた装備ですが、1996年型のフリートウッド・ブロウハムを最後に姿を消しました。


この小さな突起がそれ。


昔のダットサンにもフェンダー上に突起物がありましたが、これはヴィジライトではなく、日本であるフェンダミラー取り付け穴を塞ぐ飾り。


でも1974年型から形状変更で消滅した。


GMの電気部門が一部車種で対抗立場にあったパッカードだったと言うのも面白い話ですが、戦前は、パッカード、ピアス・アローとピアレスは3Pと呼ばれ(いや、そんなんじゃ無いですよ)豪華車3羽と呼ばれていました。

この頃の宣伝は素晴らしかった。。。これは1929年型ピアレス。ピアレスは1931年で消滅。


パッカードは戦後、スチュードベーカーと一緒になり1960年代初めまでありましたが、この華麗な上流階級の図の裏で我が国は有色人種の奴隷に使い野蛮な事をやったいたんですから、何ともですね。まあこの後、大恐慌で大変な事になりますが。


ピアス・アローはぼくの育った西ニュウヨウク州、ハリソン・ラジエータの本社がある、バッファロー市が本拠地。そのせいか、ハイスクールの学校自動車運転技術科の実地練習の契約教官のデイートリック氏がピアス・アローを持っていると言う噂でした。。しかしこの松並木、戦前の普天間の松並木街道の図を彷彿させます(今や宜野湾中古車街道。。)


ピアス・アローの後席。素晴らしい。。本当の高級車。


最後のピアス・アローの流線形、シルヴァー・アローの室内。


1977年にダウンサイズされたCボデーのキャデラック、生涯操作系は殆ど変わりませんでした。

最初の年の1977年。燃料計は何故か中央上部に。その横は水晶発信と電気モータで動くドラム式の時計。


1979年には小改良され、ラジオが電子表示になり時間表示出来るようになったので、上部燃料計横のドラム式時計は廃止になります。ステアリング・ホイール中央両端部が削られ視認性が向上と共に材質変更で耐久性の改良。


1981年型は空調操作部が電気式に変更。裏操作でエンジン制御やらの診断、表示が可能になります。


1987年型からデルコ製のラジオが以前からの横に細長の、両端に大きな回転ノブがある奴から、大型の新式装備が始まります。


そして1990年からデジタル表示に変わり中央部空調の吹き出し部も横から縦型に変更。燃料計も速度計の横に表示されたので、中央上部にあった燃料計も廃止。そこにはエンブレムが。


移ってきた燃料計はここ。


昔の燃料計と同じ高さにあった黒いバンドは速度計上部で警告灯を内蔵していましたが、デジタルになってた後は、警告灯は前幅木目の中に隠れて表示されるタイプに変更されました。普段は木目なのに警告灯が点くと現れる。ちょっと不思議です。






これは1988年型。速度計上のひさし位置にある黒いストリップが警告灯群。ここが木目で埋まると結構印象が変わりますね。。。


おまけ画像、オウストラリヤのRHDキャデラックの計器盤。不思議な配置様々。


おまけその2。いすゞ・ベレル。


1957年型、ナッシュ・アンバサドー。
Posted at 2022/12/26 09:18:04 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記

プロフィール

「合衆国のVW文化、その4 http://cvw.jp/b/1945280/48458481/
何シテル?   05/30 15:26
I'm JetBoy. Nice to meet you. 実家は西キャナダ、住むのは米ハワイ州オアフ島、家族は香港と日本の、日系アメリカ人です。多分...
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