
隔離生活、家に居たら結構やる事はあって、今日は昔の書類の整理。
1995年から今年までの飛行記録、見ていたら丁度22年前の今日、チャーターでアージェンテイーナのブエノス・アイレスからペルーのリーマ経由でマイアミまでコールサインがフロリダウエスト834便として飛んでいました。覚えているのはきな臭い革命前夜のブエノス・アイレスは未だ景気が良くて、古いフランス車が未だ沢山走っていてよだれを垂らしながら街を歩き回りました。残念な事にその時の写真、皆どっかへ行っちゃて無いんです。チャーター主はフロリダウエストと言う貨物航空会社で、一回倒産を経験し、再起した際未だ機体の手配が整ってなかったか、自分の機材が重整備に入っていたかで、ウチの機体をチャーターした感じで、現在はもう消滅した会社です。機長は空軍大佐上がりのフィルさんで、確か運行重役かなんかでいつもはオフィスに座っている人なので、たまに現場に出てくると世話をするのが大変です。副操縦士は最近なくなったデイヴ機長で彼も空軍出身だったので階級の差が未だあるんでしょう、フィルさんとは余り仲が良くなかった覚えがあるんですが、デイヴさんは以前ヴォルクスワーゲンの営業をやっていてぼくと話が良く合いました。冒頭の画像は正式にはジェネラル・デクレアレーション、通称GD、ジェンデッキと申しまして、日本では出入港届と言うらしく、出入国、検疫、税関などに必要な書類で機体番号、国籍、乗務員、日付、出発地、経由地、目的地などが記され、各官僚にハンコを押してもらい、国にっよってはこれが入国証明になるので、ゼロックスして旅券と一緒に携帯する重要な書類です。自分でもテンプレートがあるので発行できました。
今日の売り物。インターネットに出ていた、キャデラック・セヴィル、あいや、これ、ビヤリッツ仕様?この年代には無かった筈なのに。。。
ブラッシュド・ステインレス・スチールの屋根、屋根後半のパデッドルーフ。純正品にしてたら結構いい線行ってたかも。。。
これはオハイオ州はクリーヴランドのローマ・帝国、イヤイヤ、ローマン・エンタープライズ社の製品で、創業者の名前がジェリー・ローマンと言う人で、1961年から改造車用の部品を扱う老舗で、驚いた事に未だ営業しています。普通の車体にランダウバーを付けたり、成金ラジエータグリルを被せたり、お決まりの後方コンチネンタルキットから、一時期はこのセヴィルの様な完成車も売っていたらしいです。
まあ人の趣味はそれぞれで、こういった非常にゴテゴテした漫画みたいなキンキラキンの装飾は1970年代に、まあいわゆる有色人種系の文化内でもてはやされて、今ではそのリヴァイヴァルでピンプモビルなどと言われてますが、合衆国は多文化国家ですから、そう言った系列の文化も一環として認識すると結構面白いです。ローマンさんの製品はその走りだったんですね。。。
彼らの文化、主に中南部から南東海岸区域はぼくにとっては外国ですから、勉強になります。その文化・歴史が前面に押し出されたのが1973年に公開された影視、ジェームスボンド007シリーズのリヴ・レット・ダイです。
協賛がシェヴォレイでインパーラやベルエヤがギョーさん出てくるのですが、悪役が乗っているのがその、当時の改造車ブーム時に作られたコーヴォラードと言って、要するにシェヴォレイのコーヴェットにキャデラック・エルドラードの車体外板を装ったと言う奇天烈天外なもので、この後に続くスタッツやらに比べれば遥かに過激的な性能だったみたいです。。。
話は全く変わります。
ハワイでは昔から各国からの移民が到来し独特の文化が作られましたが、日本から来たのは発酵技術が噛んだ食材で、主に醸造品のお酒、醤油、それと豆腐・納豆などが盛んで、面白い事に醸造品は山口縣やら関西系が多く、豆腐はウチナンチュが幅を利かせていたんですが、それも今やお醤油はアロハ醤油だけになっちゃって、数件あったお豆腐屋さんもぼくが知っている限りで残っているのは2軒、台灣系のミセス・チャングとウチナンチュ上原さんのアロハ豆腐だけになっちゃいました。そう言えばお味噌屋さんも最後に残ったのがマル比じるし、こちらもウチナンチュ比嘉さんが戦後からやっているハワイアン味噌醤油会社です。この比嘉さんの白味噌が美味しくて、多分日本の人の舌には合わないかも。。。甘さと辛さが素晴らしく、味噌汁だけでなく魚の味噌煮とか、何にでも使えちゃいます。因みにミセス・チャングは豆腐作った後に残るオカラを農家に豚の肥料として処分しているので、工場へ行くと格安でギョーさん分けてくれます。これがまた美味しく重宝するんですよね。。。。
来島観光客が事実上ゼロになった現在、行く場所を無くしたレンタカー群はアロハ・ステージアムの駐車場に押し込まれています。
Posted at 2020/04/11 16:33:27 | |
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