1970年代、排気ガス対策、燃費向上と安全性の三重苦に追い込まれたデトロイトの自動車産業。その犠牲になった一つが屋根の開く形態、コンヴァーチブル車でした。あの頃、コンヴァーチブルは大型車なら大抵選べて結構普通にありましたが、購買層が今、考えてみると掴みにくいと言うか、どう言った客層に好まれていたか思い出せないんですが、矢張り太陽をさんさんと浴びて椰子の木なんかを背後にゆっくり駆け抜ける南加州、またはフロリダ州辺りが最大の市場だったみたいです。因みに我が州、ハワイでもさぞかし皆、コンバーチブルに乗っているかと思うと全くその反対で、この暑い日差しを浴びてこれ以上日焼けしながら暑い中運転するなんて考えられないし、保安上の関係もあって、当地でコンヴァーチブルに乗るのは殆ど観光客だけです。不思議な事に欧州では南より北欧に近い方がコンヴァーチブル形態を好み、寒くても少しでも日が差すと目一杯白い肌に太陽光を当てるのが好きみたいです。
そのコンヴァーチブル、1970年代に何故廃止に追いやられたかと申しますと、吹き荒れていた安全性規制での新しい法案が次々に出てくる中、次は横転時の安全性に問われコンヴァーチブルが禁止になると、一体誰が何を根拠に言い出したかは知らないのですが、まあ兎も角デトロイトはそれを信じていた傾向があり、時期は丁度、大型車のダウンサイズを考えていた頃ですから、常にオマケみたいに余り売れない車種ですから、いっその事やめちゃえと知らない内に車種整理が行われ、一般大衆が買える、スタンダード・サイズのGM車のコンヴァーチブルも1975年が最後。シェヴォレイのフルサイズが450,000台くらい売れたその1975年にコンヴァーチブルの生産台数はたったの8,349台、全体の1.9パーセントに過ぎませんでした。
電視番組、ブレイデイ・バンチに出てくる1975年型シェヴォレイのコンヴァーチブル。ホント、ちょっと裕福な中流階級の家庭なら家庭の奥さんが乗り回しても全く不思議じゃない世の中でした。
そしてGM最後のコンヴァーチブル(まあ後で復活するんですが)が1976年式のエルドラード。最後のコンヴァーチブルと言う事で非常に話題になり、その年のエルドラードは総生産車数の30%に当たる14,000台が作られました。キャデラック社は声明を出して、幌屋根を作る会社が既に多数撤退しており、2年間かけて集めたのが14,000セット、もっと入手できたらもっと生産できたんですけど、残念でしたと。この幌屋根製造会社とは有名なあの、ASC社でした。
最後のエルドラード・コンヴァーチブルのラインオフ。
最終生産車はGMの博物館に送られ、わざわざヴァニテイープレート登録されその番号が ”LAST” 丁度バイセンタニアル(独立200周年の記念行事)の翌年だったので、Stars And Stripes 絵柄のミシガン・プレートが素敵でした。
されど連邦車両安全基準法ではコンヴァーチブルの禁止は結局成立せず、各社も第二次燃料危機の真っ定中、しばらく様子を見ていて、細々とキャデラックなんかも再度、コンヴァーチブルの受注を受け出したんですが、これらは量産ではなく、コーチビルダーが架装する、まあ又、ASC社だったりしたんですけどね、少量生産で余り普及しませんでした。それを脇目に見ながら突進してたのはあの古いメルセデスのW107系です。その時点でいい加減古臭い機構だったのですが、選択種を失った裕福層はこのSLを結構好み一定の数が売れていたのでした。あの押し出しの凄いエルドラードから乗り換えてもメルセデスなら一応メンツは多少持たれると。。
先日見た素晴らしい状態のW107。内装から察すると1984年か1985年式。フェンダのクロームのトリムと銀めっきされた車輪を除けば完璧ですね。このV8は一列のタイミングチェインとそのガイドが弱点。交換するのが凄く面倒です。
これは随分ヤレた450SL。このフェンダの銀メッキのトリム、一時期凄く流行ったんです。あれだけ銀めっきてんこ盛りのメルセデスをもっと強調したかったんですかね。車輪もメッキが流行りましたけど、メルセデスから公式に車輪メッキするなと通達が出てました。空気が漏れるらしい。。
個人輸入の珍しいアルミナムのケミカル・ミリング・ボアのエンジンの500なのに、フェンダの銀メッキや下げた車高やら車輪などで株が下がります。ガラが悪い。
80年代に入り安全・公害・燃費の問題が少しは軽減し始めた頃、キャデラックは第二のダウンサイズで大失敗を犯し、リンカンだけでなくその頃伸びていた輸入車勢、特に欧州の高級車に完全に負けてしまい、また危機に立たされます。
以前も書きましたが、自動車会社が危機にさらされると高い確率で経営陣は全く会社を救えないニッチな高級車、 ”ヘイロー・カー” を出したがるんですが、キャデラックはアランテと名付けた(合成名、この名称意味は無い)2座コンバーチブルを作る計画を立てます。一番の目標は打倒、メルセデスSL。前輪駆動のV8にイタリヤはピニン・ファリーナの車体を載せ製造・組み立てはデトロイトとイタリヤ両方で行い車体を専用のボーイング747機で輸送すると言う壮大な計画。経理の人たちはさぞかし恨めしやと呟いたんでしょうね。初期の車体雨漏りから始まって電装系やらの不具合。高価格。我が国では控えめ過ぎる格好など、販売台数は目標には到底足りず。それでもへこたれず7年間、改良を続け、最後に積んだ世紀の欠陥エンジン、ノーススターV8だった事もあり、忘れたい夢の如き、アランテ計画は終了。
例のアランテ輸送大計画。
欧州デザインでもこのような背後に置くと完全に米国車に見えますね。
アランテはその為に建設された、北イタリヤ、トリーノ郊外の田舎町、サン・ジョージ・カナヴェーセと言う村に工場を建て製造したんですが、1993年にアランテ計画が終わった後、ピニン社は様々な受託製造をしていたんですが、10年くらい前に工場閉鎖。あの頃からピニン社は傾き始めあちこち工場を随分閉じ始めてました。。
ピニン・ファリーナ社とキャデラックは結構昔から関係があり、1959年と1960年だけ、エルドラードの4扉をイタリヤのピニン・ファリーナに製造委託。デトロイトの工場稼働に余裕がなかったからと言うのが理由でしたが、やはり品質に問題があったのとコストの兼ね合いで普及しませんでした。
1961年に出展されたキャデラック・ジャクリーン。ジャクリーンはケネデイ大統領夫人から名をとっています。1960年代の日産セドリックとプレジデントに似てますね。。。
計器盤も昔のセドリックに似てます。
同じ開発責任者は後日、XLRと言う似たような2座コンヴァーチブルを、今度はC6コーヴェットを元に宿敵相手、メルセデスのW129の対抗馬と考え再度、ヘイローカーとして出すのですが、此方も呆れる程品質が低く、ノーススターエンジン不具合も手伝いたったの5年で消え去りました。
同時期にクライスラー再建を見事成功させたリー・アイアコッカ氏は、故郷イタリヤのアレハンドロ・デ・トマソ氏と再び意気投合。以前はアイアコッカ氏がフォードに在籍していた頃にデ・トマソ氏のパンテーラをリンカン・マーキュリー屋で販売したのが最初、今度はクライスラーに移ったアイアコッカ氏は、当時マセラーテイを保有していたデ・トマソ氏に豪華2座のコンヴァーチブル車の製造を提案。
同胞意気投合のデ・トマソ氏とアイアコッカ会長。
その結果生まれたのがクライスラーTC by Maserati。事実上Kカー車台のダッジ・デイトナに過給器付きの(過給器は石川島播磨製)四気筒、三菱製のV6やらを載せ、豪華な内装を得て、イタリヤはミランにあった、マセラテイ傘下だったイノチェンテイのランブレッタ工場で組み立てられ出荷。3年間で製造された数はたったの7,300台。製造開発経費を考えると一台につき数十万円の損出だったそうですが、これまた最大の仮想競争相手は相変わらず、メルセデスのSLでした。
いつもホノルルの中華街で見かけるクライスラーTC。後のバンパをぶつけられちゃった様子。可哀想。
イノチェンテイが持っていた(いやその逆?)ミラーノ郊外のランブレータ工場、ここでクライスラーTCが作られていました。ご存じデ・トマソ氏の没後、会社は傾き工場も閉鎖。
現在の様子。
イタリヤの自動車工場は流石に面白く、1995年にアリタリアの受託運航していた際、よくトリーノに泊まりましたが、あそこにはフィアットのリンゴット工場があって、自動車を組み立てながらラインは階上に動き屋上にはテストコースがあるという画期的な構造。
フィアットのリンゴット工場。屋上のテストコースが凄い。
組み立てが終わるにつれ上へ上へと行ったんですね。
メルセデスW124を基本に新設計されたW129、新型SLは例の魔法の後輪独立懸架、樹脂多用の軽量化、1968年登場のW114を元に作った先代SLは1971年から1989年まで作られたので、末期は完成度が頗る高く、かつ昔のメルセデス気質を保っている貴重な車だったんですが、光り物を控えた空力ボデーの新型W129も中々魅力的、特に一番軽い300SLは良かったのですが。。。。
後日判明した技術問題の数々。1990年代メルセデスが使っていた環境性に良いとされていた生分解性の高い電気配線網、10年も経つとあっと言う間に樹脂の皮膜がボロボロになりありとあらゆる警告灯が灯り電子・電気系の悩みが次々と現れます。あっちを直せばこっちが壊れと。それに輪をかけた問題が油圧で作動する幌屋根で、総計12本だったかしら、油圧のシリンダのシールがこれまた10年経たずどんどん圧力に耐えられなくなり漏れ始め、シリンダの一つを交換すると次に弱いシリンダが漏れ始めての泥沼化。対策部品の部品番号が猫の目の様に色を変えても結局問題解決されず。この悩みは次世代の畳格納式屋根のモデルにも受け継がれと。。。
そのW129の報道向け発表会がポーチゴのエステリル・サーキットで行われた際。日本から招待された男女の記者2人。速度の出し過ぎで車両が一旦ジャンプして地を離れます。緩い下り坂、目の前には急カーブが迫っており、慌てた彼女は車両が接地前に操舵を切り、着地後車両はひっくり返りそのまま滑走。車両は大破。乗員2人は流石メルセデス。かすり傷だけで転がり下りてメルセデスの安全性を身をもって証明したとか。メルセデスは凄い度胸で大破した車両を報道陣に公開。急激な減速がなかったのでエヤバッグは作動せず。例のロールバーは瞬時に展開。Aピラーも強靭に曲がるのを拒み、ほぼ設計が正しかったのを証明された形になったとか。英国の権威ある雑誌、Car のイアン・フレーザー氏の記事が頗る面白かったのは、1989年のハナシ。
それでも皆、メルセデスの真似をしたかった。。。
アイアコッカ氏は引退後、電動自転車の会社で何やら働いていましたね。時代先取り。
夜のカリーヒ地区で見たメルセデスの219。確かモデル末期に数年だけ作られた元祖Sクラスの短い奴、6気筒。この時期のメルセデスはスチュードベーカーが販売してたんでそれも不発の理由だったかも、兎に角余り売れなかった。ぼくはこの ”ポントウーン” 型の短い奴、190dbって言うジーゼル4気筒を一時期いじってた事がありました。
夜の超級市場でおお、カトラス。それに442!今としてはこのミッドサイズ車も小さく見えます。
改装終了で開店した北海岸、タートルベイ・リゾートにあるミニ・モーク。でも電動。
通勤途中で見た日産アトラスのトラック。最近日本からの中古車が非常に増えてます。
