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JetBoyのブログ一覧

2019年07月29日 イイね!

イズラエルと日野自動車 コンテッサ ブリスカ

イズラエルと日野自動車 コンテッサ ブリスカポタムキンとワイズマン大統領について触れましたが、お次はイズラエルと日野自動車のハナシです。

イズラエル建国早々、国内産業と外貨取得を目的に、我が国からはカイザー・フレーザー・ジープで有名なヘンリー J カイザー氏がジープとフレーザーの中型車、後にスチュードベーカーをハイファの工場で組み立て始めます。それと同時期にフランスのルノー・ドーフィンも作っていたのですが、ルノー公団から一方的に契約破棄で生産中止になります。契約のキャンセル料は貰ったもの、丁度税金改革で乗用車の売れ行きが1960年から一年で230パーセントも上昇していた頃で、はて、ドーフィンの代わりに何を作れるかと模索していた頃、日本を行き来していた商人と当時日本でルノー4CVを作っていた日野自動車に辿り着きます。当時生産していた日野ルノーは契約上の制約から輸出が難しいとの事ですが、暫くしたらコンテッサ900と言う自社開発の乗用車を出すからそっちは如何と打診され、このコンテッサ900とは、今までハイファで生産していたルノー・ドーフィンと殆ど機構的に同じ自動車なので皆、扱いに手慣れてるし、んだべ、と、ノックダウン生産をハイファ工場で行う事で合意します。その頃ズイム海運会社が日本への航路を持っていたのですが、帰りの荷物が集まらなかったので、日本からノックダウン部品を運ぶのに丁度都合がよかった事もあります。



ハイファ製の日野コンテッサ900は運転席の座席スライドの幅を長くするくらい以外は改造もされず生産始めると評判上々。それと共に商用車のブリスカ・ピックアップトラックの生産も始まります。コンテッサがモデルチェンジし、1300になると人気は益々高まり近郊他国への輸出も始まり外貨取得に大いに貢献するのですが、時期を同じくして、日本政府の行政指導でトヨタが日野自動車を吸収する事になり、アラブ圏で多少シェアがあったトヨタさんはアラブボイコットを恐れて、金銭的に旨味のなかったイズラエルでの日野自動車の生産を終了する事を通達。1968年に最後のコンテッサがロールアウトしてイズラエルでの日野自動車の歴史が終わります。

コンテッサ900の生産台数が2292台。
コンテッサ1300生産台数が4310台。
ブリスカ900の生産台数1403台。
ブリスカ1300生産台数258台。

総計8263台がハイファで生産され、その20%は輸出に出されたとか。



素敵なコンテッサ2扉車がイズラエル生産に含まれていなかったのが惜しいですね。



冒頭の写真は文とは全く関係の無い図。名古屋セントレア空港で燃料屋さん待っている図。ゴメンなさい。

さらに関係の無い画像。ジョギングに持って行く携帯ラジオの調子が悪く小さいトランジスターラジオを探しているのですが、この昔持っていた様な機種はとっくのとうに姿を消していて。。。。中古のをネットオークションで探してます。


これは連邦刑務所内で売られているソニーの携帯ラジオ。物を隠せない様にケースが透明に作られています。ソニーのSRF-39FPと申しまして、FPはフェデラル・プリズン(連邦刑務所)の意味です。一般用は普通のSRF-39。これらもネットオークションで買えられる他、現在はデジタル選曲の改良型もあるそうです。




1982年の冬でしょうか?初めて借りてきたクライスラーのKカー、ダッジ・エリアスと一緒に。
Posted at 2019/07/30 15:14:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2019年07月23日 イイね!

生活その他もろもろ

生活その他もろもろ毎年ある自動車登録更新を行いました。ハワイ州は州内でも郡によって値段が変わり、ここホノルル郡は基本料に車両の重量に応じて価格が変わり、我がプリアスを1年間路上走行する登録料・税金は約37,000円でした。これとは別途に毎年簡単な車検があり其方は2,500円くらいで、30分もあれば終了します。注意せねばならないのは車検の期限と登録の期限が必ずしも一致しない事で、車検を受けていないと当然再登録も出来ません。車検期限は車体後部、通常はバンパーに期限を記されたステッカーを貼られ、登録期限は小さなステッカーをライセンスプレートの端に貼ります。

登録更新は催促状に小切手またはクレジットカードの情報を書いて郵送すれば向こうから新登録書とステッカーが送られ自分でステッカーを貼るか、陸事に出向き料金払いステッカーを貰うか。んで近年はスーパーマーケットやら市役所または受託市事務所に設置された機械でも出来るので今回はそれを試してみました。数ヶ月前コロラド州で登録更新したのとホボ同じ手口で、催促状をスキャンし、簡単な返答を画像で入力し、登録料をクレジットカードで支払うとステッカーと新登録書が即、出て来ます。待ち時間ゼロ。簡単で中々便利なシステムでした。

本土系のスーパーマーケット、セイフウェイ〜に設置された車両登録更新装置。

催促書のバーコードを読ませるか車両登録番号などを入力。

お金を払うと新登録書とステッカーが出て来ます。

ステッカーを自分で貼って作業終了。



以下は最近の画像。

本土系の大型スーパーマーケットの駐車場に設置されたロット・コップと呼ばれる警備監視塔。このお陰で犯罪が随分と減少するらしいです。


お寺や教会の蚤の市。さすがハワイは面白い物を見かけます。


虹のカローラ。盆ダンスの会場で。ハワイでは6月最初の週末から8月終わりまで毎週末島内各地のお寺や教会で盆ダンスが行われます。


盆ダンスの夜店に必ず出店するのが沖縄のドーナッツ、アンダーギ。これはウジモリ一家がやっているその名も "ダ・アンダギ・ガイ"。一番美味しく安いです。グラントくんが一心不乱でアンダギを袋に詰めてます。


ハワイは沖縄文化の影響が非常に強いので、盆ダンスでもエイサー隊が色々登場します。


車体後部に貼られたサイン・ステッカー類。意味、解ってるのかしら?若い子が運転してました。クヒオ大通り。


ハワイ島のヒロで日系の家族が1950年代から作っているワントン・チップス。ワンタンの皮を揚げてほのかな塩味が付いていて美味しいのですが、なにせローカル商品なので手に入りずらい。。ワンタンが原料なので力が付くと語呂合わせでワン・トン(1屯)の名前になってます。カワイイですなあ。


片付けていた際出て来たライセンスプレート。真ん中の独国(なぜかマインツ登録)を除いて全部自分で使った物。。。


以前は旅券のページが足りず、昔は領事館へ行けば無料で増刷してくれたんですが、最近は高価格か駄目らしいです。その後電子式入国審査を香港、日本、米国で登録したので以前より旅券のページが埋まる速度は低下しました、と言うか、世界中グルグル回る仕事終えたので、もうこんな悩みはなくなりました。


冒頭の画像は世にも珍しいスズキ・キザシ。と言ったら行く先あちこちで目撃するようになったのは気のせいか?スズキが撤退して久しくなります。整備どこでするんでしょうかしら。。。

最後の口直し。素敵な形ですね。ビュイックのリヴィエーラ。
Posted at 2019/07/24 08:00:13 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2019年07月19日 イイね!

チェッカー・タクシー ユダヤ リンカン

チェッカー・タクシー ユダヤ リンカン全米タクシーの代名詞にもなったチェッカー・キャブ。
GMの社長エド・コールと悲劇の顛末。
ユダヤとフォードとポタムキン。
チェッカー・キャブとVWラビット果てはシェヴォレイ・サイテーション。

これら、皆、繋がっている物語なのです。少し長くなりますがお付き合いを。

米国のタクシー・リヴリー業界は矢張り台数からニューヨーク市の営業車部門の管轄が非常に影響力を効かせ、その規制変更などの要望に答えてモデルチェンジした1950年中盤に出たチェッカーのタクシーがその後20数年間米国タクシーの代名詞になり映視などでもお馴染みになります。



営業用に設計されたフレームはX状の骨格が走り、床がその分少々高いですが、客室は床が完全に平らで奥行きも深く、丸いジャムプシートを上げればお客さん5人乗せられる仕様で、その内長胴のステーションワゴン版や、一般消費向けの豪華版のマラソン仕様も売り出されました。


初期型はコンチネンタルのフラットヘッドのエンジン、(吸気排気弁がエンジンブロック側にあり燃焼室がL字型の旧式エンジン)で60年代にクライスラー系の直列6気筒とV8を使用した以後は生産終了するまでずっとGMそれもシェヴォレイ系の直列6気筒、V6、V8が使われ、車体の使用部品もGMからの流用が殆どでした。



初期型チェッカーの尾灯はシェヴォレイの流用。



殆ど独占的にタクシー車両を提供してきたチェッカー社ですが、1970年代の燃料危機が二度勃発すると、そろそろ時期車両の開発をせねばならず、戸惑っている間に他の車種の使用も認め始められ、1979年のオイルショック後にはジーゼルエンジンと言う理由で出たばかりのプジョー505(と、504)が結構な数でマンハッタンを走り回っているのをぼくは覚えていますし、便乗してリムジン向けに数台プジョーの604ターボジーゼルも納入実績がありました。


生産開始後20年も経ち旧態化したチェッカー、丁度GMを引退した技術畑出身の凄腕社長、エド・コール氏を迎える事に成功。彼はGM時代からの知人の米東北部で自動車販売を展開するユダヤ人の大富豪、ヴィクター・ポタムキンをチームに加え、2人で相談に行った先は、丁度ペンシルヴァニアでラビット経済車を生産しようと企てていたヴォルクスワーゲン社でした。ポタムキン氏の経済と政治の影響力、コール氏の技術力と自動車生産知識、ヴォルクスワーゲンの北米進出を合わせて新しいタクシーを作ると言う壮絶な計画です。

それが計画始めに悲劇が起こります。1977年5月、ミシガン州カラマズー市に行く途中、非常に稀な英国製の小型双発機、ビーグル206を自分で操縦中、着陸進入時悪天候の最中墜落、エド・コール氏は67歳で事故死します。


事故機と同型のビーグル206。米国では非常に珍しい。


ポタムキン氏は若い頃から卓越した商売腕で東海岸に集まるユダヤ裕福層を相手に財を築くのですが、そのユダヤ裕福層が嫌っていたフォード車に目を付けます。ヘンリー・フォードはユダヤ嫌いだけではなく反ユダヤ運動の後押しをしていたくらいで、フォード2世は財力で政治を動かすユダヤ系の反感を煽るのもここいら辺で辞めようと思ってた頃、ポタムキンから提案されます。1950年、合衆国を訪れるイズラエルの最初の首相、ドクター・ワイズマンに最新型のリンカン・コスモポリタンを献上したらどうか?ぼくがドクター・ワイズマンを説得して快く受領するようにしてあげるからとフォード2世に働きかけ、大統領仕様のあの、深海魚のお顔をしたリンカンが納入されただけでなく、その後政府用にフォード・リンカン車が続々と採用され、それを見た米国ユダヤ裕福層はこぞって同じフォード・リンカン車を買いに走り、もちろんそのデイーラーはポタムキン氏の系列店だった事は言うまでもありません。その後イズラエルとカイザー車、それに続く日野コンテッサ・ブリスカの現地生産のお話はまた次回に。。。

ワイズマン博士とリンカン・コスモポリタン。





ポタムキン氏はフォードの後に経営不振だったマンハッタンの艦旗店の再建をGM本社から頼まれ、今度はキャデラック全米1の販売店として有名になります。その頃自分はマンハッタンでポタムキンのお店にキャタログ貰いに行ったり、とに角ポタムキンのキャデラックはリヴリー業界で絶大なるシェアが有り、GMは下品な宣伝は控えてくれキャデラックのイメージにそぐわないからと陳情するども、ポタムキン夫人が恥ずかしげなく、”他でキャデラック買ってたらウチより高い料金払ったのね!” と言うセリフを毎晩テレヴィジョンで放映しているの、記憶に深いです。(それとクレージー・エデイーの電化製品夏のクリスマスセールのコマーシャル)。


結局コール氏の死後、ポタムキンとVWでラビットを伸ばした試作車を作りますが、技術的に無理があり断念。1980年代に入りもう一度、今度はシェヴォレイのサイテーションを伸ばした試作車を作りますが、サイテーションの車体を製造していたGMフィッシャー車体部門がサイテーションの車体を長期供給できないが故にこれもご破算に。結局財力もたなくチェッカー・タクシーは1982年に製造終了になります。



ニューヨークのタクシーはその営業権利のメダルをリヴェットかなんかで打ち付けないといけないんですが、その営業権は競りなどで競売されるんですが、ウーバーなどの進出で価格が劇的に下がり、最近はそのメダルの取引が以前は七千万円以上だったのが今じゃ二千万円もいかないらしいです。
Posted at 2019/07/20 07:14:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2019年07月17日 イイね!

お尻の重い車達。コーヴェア NSU などなど

お尻の重い車達。コーヴェア NSU などなど有名なスモールブロックV8、所謂シェヴォレイの350V8、V8エンジンの代名詞的な排気量5.7リッターは後にGMの社長になるエド・コール氏が産みの親とされています。技術畑出身のコール氏はスモールブロックV8の他にシェヴォレイ・コーヴェア、ヴェーガなど矢張り技術的に凝った機構を取り入れた自動車の開発に熱心でした。



コーヴェアは特有の操縦安定性が問題沙汰になり惨めな生涯を辿ったクルマでしたが、興味深いのは当時の欧州の小型車の外観デザインに多大なる影響を及ぼした事でしょうか。

コーヴェアは奇抜な格好と思いがちですが、当時の他のシェヴォレイやらに使われていたデザインの細部を取り入れてるのが観察すると判ります。前照灯の上の庇、横に回り込む後窓、前傾の窓枠などが目立ちます。

以前自分は丸っこい初期型よりとんがった後期型の方が好きでしたが今では両方好きになりました。


そのコーヴェアを真似たのがNSUの小型車プリンツ。こいつは二代に渡って何とアメリカ合衆国にも輸入されてました。プリンツとコーヴェアを並列して走らせたらカワユイでしょうね。。。写真は後期型、空冷4気筒の110・1200。



合衆国仕様は異型の前照灯がブザマな規格型に変えられています。如何にも後ずけって感じですな〜。


そのプリンツの古い奴のデザインは。。。。


ロシヤはZAZの968ザポロジェッツに見事にパクられ。。。


ついでに大英帝国のヒルマン・インプにも真似されて。。。


後期型の日野コンテッサもコーヴェアには似ていると言われますが、ありゃミケロッテイの作品でトライアンフの方に似てると思うんですがね。。。


初期型2気筒のプリンツは連中が作っていたモーターサイクルのエンジンを元にしていて、シリンダヘッド頭上のキャムシャフトに付いた偏心板をクランクシャフトから長い棒で上下に動かし駆動していたのが特徴。4気筒になってからは通常のチェインで頭上のキャムシャフトを回してましたが。この空冷4気筒を水冷にしたのが後釜になるK70に使われます。これは同僚のマイカくんがそのNSUエンジンをキックスタートを使って回している図。ネッカーサルムのNSU博物館にて。彼は若いくせにダグラスのDC–3輸送機での操縦経験が長い静かなる詩人。本業は回転翼なのに、現在はスイスランドから来た奥さんとジェネーヴに住んでる様子。。


技術難、財政難、八方塞がりでVWに吸収される直前のNSUはRo80/K70の二本立て。両方一台足りとも利益が出なかった。。。。



そのK70が日本で売られていたのが非現実的で。。。小田急線相模大野沿線のある家の軒先に一台ずっと放置されてたのを見た事がありました。因みにこの広告は沖縄です。。


ヴァンケル・エンジンの製造権を持っていた米カーチス・ライト社が研究用に持って来たRo80の残骸。Ro80は一応北米では売られていなかった筈なのですが、丸目規格四灯のそれらしい車両が何台か目撃されており、プリンツを売っていた販売店が使っていた可能性はありますね。


かつてのNSUのあったネッカーサルムは今やアウデイの工場。そんな格好しとるから醜いアメリカ人と言われるんだよ、とは家族の一言。反省してます。。。
Posted at 2019/07/18 16:23:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2019年07月16日 イイね!

トルコのクライスラー プジョー 小型貨物車

トルコのクライスラー プジョー 小型貨物車日本に行きいつも新しい発見をする自分でありますが、興味深いのは、飛んでイスタンブールのトルコ、英語圏ではターキーと呼びますが、非常に親日国で日本への恩返しとか学校で日本の事習うとか、ターキーは観光に素晴らしいとか皆口を揃えて絶賛するんですね。大都市イスタンブールなんかはそうでしょうが、ぼくがイラク戦争から通っていた中継地の南ターキーはその日本の通説からかけ離れた文化でした。土耳古は昔から同族間で内戦がくすぶっていてテロ行為が止まらず、ほんの数年前のクーデターの記憶も新しく、お隣のアーメニア共和国とは領土の取り合いでドンパチ紛争をやっていて、お隣と言えばシリヤとイラクとも繋がっているのできな臭い事件が多発する上、昔からのサイプラスとの紛争は今でも凄まじく、ウチのグリーク系のロードマスターは土耳古便には絶対乗務しなかったし、いくらイスラムの教えを目立たなくしようと思っても結局はイスラム教支援を嫌う欧州に反対されて、土耳古は喉から手が出る程加盟したい欧州連合には門前払いを喰らいと。。冷戦時代にロシヤの共産党側と民主主義側のアメリカ合衆国のどちらか一方を支持していたらもっと話は簡単だったんですが、アメリカ合衆国が土耳古に建設した空軍基地から飛び立った偵察機U2号が1960年にロシア上空で撃墜されたと言うのに我々には冷たい扱いをした挙句、基地からは完全に一時追い出される状態になったりと(後に全世界が破滅する数時間前まで行ってしまったキューバ危機に繋がります)、のんびり観光に行くような場所には思えないんですけどね。。でも非常に優れた農産業(食べ物が美味い)と高度な労働技術で、特に自動車産業は安い賃金とも相まって昔から自動車の輸出(貧しい自国では自動車の販売は限られていたらしい)は長けていたみたいです。

デソート、三菱、シュコーダにレイランド、なんでもあります。


欧州も土耳古も数年前、韓国の大字自動車をシェヴォレイのブランドで売ってた時期がありましたが、今は完全撤退してます。


いすゞのバス。車体の架装得意そうです。


アクサム・ファーゴ社(ファーゴは昔のクライスラーのブランド)のHi-Exと言う大型トラック。実態は独国MAN社のL2000と言うトラックの運転台を使った焼き直し。


ロンバーデイ(コーラー)のエンジン売り。灌漑用みたいですね。


その土耳古には昔、クライスラーが合資会社を作りまして、本家が経営難で撤退した後も懐かしいデソートのブランドを現在でも使っていたりてます。街中では古いプジョーのJ9と言うミニバスが走り回っています。このフランス本国ではとっくに生産終了した(土耳古でも新型に切り替わったらしい)古い小型貨物車で、以前作っていたJ7の改良型です。そのプジョーJ7は戦前フランスの自動車競争ルマンズで強かった名門、シェナード・ワルカー社が経営危機に陥った際、第二次世界大戦の需要を狙って開発した小型貨物車のD3が源流です。当時リヤエンジン後輪駆動のルノーやらへんてこりんな前輪駆動のシトロエンを冷ややかな目で見て、保守派の我が社はいつも絶対前エンジン後輪駆動と威張っていたプジョーが突如、小型貨物車に前輪駆動を採用したのもシェナード・ワルカーの貨物車が前輪駆動を採用していたからなのでした。そのシェナード・ワルカー社にエンジンを供給していたプジョーは代金踏み倒しの代償としてD3の生産施設と権利を得て、プジョーD3として売り出します。当時はシトロエンのHY、ルノー・ドーフィンのパワープラントを使ったエスタフェットやら競争が激しい中、戦前設計のD3は随分格闘したそうです。その生き残りがJ9として結構最近まで土耳古で生産されていたのですから、プジョーはシェナード・ワルカー社の負債、何倍にして返してもらった事になりますね。。。

これがそのプジョーJ9ミニバス。



その前のプジョーJ7。


J7はD3の改良型。D3は戦前シェナード・ワルカー社が開発した前輪駆動のこの商用車。


同じ時期、戦争に負けた独国もフランスに負けぞとテンポ社やらハノマーグ社も小型貨物車を出しますが結局はメルセデス・ベンツに吸収されてしまったのは寂しいです。

独国テンポ社のヴァイキング。テンポ社は後にハノマーグに買収され結局メルセデス・ベンツの一族に。


テンポ社のマタドー。初期型は強豪相手VWビートルのフラット4を積んでいた。運転台がエンジンの上にあるので超低床式のもあるう。。。アメリカン・オーヴァーシーズ・エアラインズとは現在のアメリカン・エアラインズ。コヤツはロッキード・コンステレーション ”コニー” ですね。



マタドーのバス。お顔がカワユイ。


改良されたマタドーのバス。


改良されたマタドーのトラック版ラピッド。なんかテンポ社の商品ってどれも口元が可愛いですね。どれも口紅塗りたくなるような。。。


テンポ社は3輪トラックでも有名でそのハンシート型三輪車はインドのバジャジ社(インドの三輪ベスパを製造する会社)に製造権を与えられ結構最近まで作られていた。。。



ルノー・ドーフィンのパワーパックを反対側に載せたエスタフェット。日本の日野自動車がエスタフェットを真似てコンマースを作ったとか作らなかっとか。。。


沖縄コザ、胡屋十字路から北へ行く330号線、BC通りを過ぎて現在ボーリング場がある辺りを走行する、その日野コンマース、それも当然左ハンドル車。左に見えるのは多分、当真材木店。まだ営業中。。。。


余談ですが、記した通り、西にも東にも揺れるトルコが最近また、ロシヤ製のミサイル防衛システムを導入し、西側の総スカンを喰っています。。。そうそう、土耳古でトルコ・アイスなる物、一回も見た事ありませんでした。。。(東京で初めて見た)。
Posted at 2019/07/17 15:08:32 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記

プロフィール

「津波警報 盆ダンス et al. http://cvw.jp/b/1945280/48590822/
何シテル?   08/10 06:11
I'm JetBoy. Nice to meet you. 実家は西キャナダ、住むのは米ハワイ州オアフ島、家族は香港と日本の、日系アメリカ人です。多分...
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