
以前にも書きましたが, 日本のイタリヤへ持つ好感は毎度驚かされます.
北米自動車業界とイタリアの共同事業.
最初はGMのデザイナー, ハーレーアール (Harley Earl) が1934年にGMのショーカー, ラサールを見せに欧州を巡業していた際に出会ったファリーナ氏(ピニンファリーナのファリーナ)と共謀し, 1959年と1960年だけ遂行したキャデラック/エルドラード/ブロウハムが思い浮かびます. 当時キャデラックはあの尾翼の建った恐ろしいほど手の込んだ高級車の製造に限界が来ており, フィッシャー車体部門傘下のフリートウッド工場の空きを作るため, エルドラード/ブロウハムをピンファリーナに任せます. 車台をデトロイトからイタリヤに送り, ピニンファリーナはほぼ手作業で板金叩いたり曲げたりして車体を架装後デトロイトに送り返し, 最終検査の後販売しました. 当然台数は非常に限られており1959年は99台, 1960年は101です. 二年間だけ作られたこの高級車, 他の同時期のキャデラックに比べて高さは低く飾りも控えめで矢張り欧州調を気にしていたのかしら, でもデザインはチャックジョーダンでそう言うわけでもなさそうで... 販売台数は芳しくなく, その上イタリヤでの工作水準がデトロイトより劣り, 納車前の仕上げのやり直し, 特に鉛で繋いだ板金の不具合などがつずき目論んでいた結果を出せず, このイタリヤ製キャデラックはたったの2年で廃止になります.



それにも懲りず, 後年キャデラックはアランテと呼ばれるコンヴァーチブル車で同じく大西洋を渡る生産をしますがこちらもあまり評判は良くなかったみたいです.
ぼくもアリタリア貨物便を下請け運行した経験ありますが, 毎回遅延遅延で参りました. アランテは運びませんでしたが, 連中の苦労が容易に想像できます.


1959年型は尾灯が一つ, 車体後方中央のメッキ飾りが中央に走ります.1960年型は尾灯が上下に二つ, 同じメッキの飾りは下の方側面に移ります. 後扉の切り方, 特に換気窓あたりの形状が異なるのが興味深いです.



次はフォードがリンカン・マーキュリー販売店で売っていたデトマソ・パンテーラでしょうか. これは当時フォードにいたリー・アイアコッカがデトマソ氏との友情をもとに始めたプロジェクトで, まああの車はフォード製クリーヴランドV8を積んでいたのでその関係もあったでしょうが, 流石イタリヤ製品, 品質管理, 防錆不足に苦しみ, 1971年から1975年で終わります.

アイアコッカはそれにも懲りず, クライスラーに移植後, またもやデトマソと一緒にTCと言う豪華コンヴァーチブルを生み出します. 簡単に言ってこれは当時売られていたクライスラーのレ・バーロンに豪華内装を与えて, デトマソがいじった四気筒エンジンを載せイタリヤで生産, (のち普通の三菱製V6になる)レ・バーロンの二倍の値段で売ると言うハナシでした. ごく自然ななりいきで品質管理, 中古価値に多大な問題を抱え, 大幅な割引にも関わらず在庫が増えつずけ, 三年間で売れた台数が7300台. このプロジェクトにかかった総費用が$500ミリオン. 単純計算で一台につき約600万円の損出になります.....
こちらは普通のレ・バーロン
初期の日産は公には公表されてませんでしたが, ピニンファリーナの直接的, または間接的な影響が多大にあったと察します.

因みにあのピニンファリーナと言う名称はピードモント地方でちっちゃなと言う意味のピニンと名前のファリーナをくっつけて彼のあだ名, ピンファリーナ ちっちゃなファリーナ坊やと言う意味らしいです.
Posted at 2019/11/22 07:16:04 | |
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