• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

JetBoyのブログ一覧

2020年04月18日 イイね!

魚運び 救難装備 

魚運び 救難装備 

















外出規制発令数週間前から既に到着便が激減し、と言う事は出発便も減りますので、一番困ったのは鮮魚屋さんです。ハワイで水揚げされた、または近海から空輸された鮮魚は殆どその日の内にベリーフレイトと申しまして、旅客機の床下貨物室に搭載され米本土または日本・アジアに送られるのですが、その旅客便がなくなればベリーフレイトも消えるのですが、海に出た漁船は次々に鮮魚満載して戻ってきます。既に大口顧客のホテルの食べ放題等も全て閉鎖。行く場所を失った鮮魚が港で叩き売りされていると聞き、まだ外出自由でしたのでホノルル港の38番埠頭へ急ぎました。

行ってみると漁船が丁度戻ってきた所で数人のアンちゃんがたかっています。頭風情のネーネーに頼んで卸してもらったのはイエローフィンと言う、日本でキハダマグロって言う種類ですね。




ぼくは以前南太平洋で鮮魚の運搬機飛ばしていたので鮮魚は少し詳しいんですが、今回、コレ等はまあ、業界で言うBグレード、刺身で食べられる中の下辺りの等級ですが、僕らにとってはジョートーです。店頭価格が普通1キロ3,200円くらいの奴が、1キロ何と、195円です!  5パウンド程買い求めます。



帰宅後即、夕飯分除いて冷凍。胡麻油、醤油と薬味を混ぜた当地の名物ポキにして食べた所、流石に新鮮ですね。いっぺーまーさんだったさあ〜。




以前の仕事では、航空機運行する親会社が水産会社を持っており、系列の漁業基地から魚を運ぶのですが、陸側に膨大な投資をしても魚の漁れる海域って一定ではなく常に動いており、数年おきにあそこの工場閉鎖して次はあそこの島でまた始めると言うやり方で、その上地球温暖化と資源確保の動きと、次第に鮮魚を食べない中共の人とか西洋人も刺身を食べだす傾向が強まり、魚をいかにして供給するか、国際規制やらコストやらの問題もありますし、結構複雑なギョーカイでした。

港に入るのを待つ漁船群。


キハダマグロ。冷凍ではなく冷蔵です。


魚工場。


梱包され積んだ魚。非常に綺麗で匂いも全くしません。アイスパックみたいなものを内蔵に入れている場合もありますが、温度管理はこっちが心配する程、厳しく言われてませんでした。自分は気を使って飛行中はギンギンに機内、冷やしてましたけど。


赤道越えて南半球にある米領サモア。こんなに合衆国から離れていても領地なので郵便も通過も合衆国本土に準じます。んで、ここで作ったもの獲れたものは米国産になるのでその国内生産と言う特権を利用して、スターキストと言う老舗のブランドのツナ缶工場があります。そこ所属の漁船。


漁船には大抵小型のヘリポクターを搭載し、魚群を探しに飛びまわります。


従業員割引で持って帰ったマグロ。小分けして真空パックにして冷凍します。






漁港のあるマーシャル諸島の夜明け。


運んできた鮮魚、地元のお店で見かけます。


南洋では刺身をココナッツ・ミルクに浮かべて島ライムをギュッと絞ってチップスと一緒に食べたりするんですが、これがまたまーさんど〜。。。





型は古いがシケには強い。。。。


話は変わって、昔むかし、遠洋に出る船舶やら航空機は皆、これを持っていました。その名もギブソン・ガール。この中に何やら色々入ってます。最初に普及しだしたのが第二次世界大戦中。。。


遭難時、ライフボートに乗り移った後、まずギブソン・ガールの箱から凧を取り出し空に上げます。コレ、タコ糸が電線になっており、上げるとアンテナの役割をします。


そして配線を接続し、スイッチを入れ膝に挟んでストラップを締め、クランクハンドルをエイッサエイッサと回すと、発電機が動き出し短波の遭難信号を自動送信できるものなのです。


500キロサイクル送信周波数で、5ワット弱の出力を出し、到達距離は300キロ程。けど結構重労働みたいです。定格発電力になると電気が灯り、スイッチにより自動救難信号、手動モースコード、はたまたは照明灯接続も出来ます。戦後は8メガヘルツも送信できるようになり、軍用・民生とも使われてたとか。たまーに海岸を歩くと落ちているなんて話も聞きました。


この救難送信機を何故にギブソン・ガールと言うかと申しますと、膝に挟んで使う際、グリップし易いように本体中央がくびれています。そのくびれ形状が当時流行ったギブソン・ガールと言う女性の描写を彷彿させたからだそうです。


ライフヴェスト、日本語では古典的に救命胴衣と言いますね。。。あれは我が国では年配の人はメイ・ウエストと呼びます。

航空乗務をしていると数年おきに緊急装備の取り扱い実施訓練をさせられます。


我が家の風呂場の扉には元パンナムの機体潰した際にもらってきたデモ用の救命胴衣をかけてあります。


なぜメイ・ウエストと呼ぶかと言いますと、この救命胴衣を着用すると浮きの形状から胸が出るんです。それが昔の女優、メイ・ウエストを彷彿させるから使われた名称になったんです。



今週の悩み事。


1960年代のクライスラーだと思っていたんですが。。。


1965年型のキャデラックでした。




モロカイ島のカネミツ・ベーカリーが我が町にも来た! 創業1935年!


これこれこれ、コレ何ですよ。モロカイ・ホットブレッド。今回はブルーベリー入り。


ビッグワンよ。
Posted at 2020/04/19 09:51:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2020年04月11日 イイね!

スチュードベーカーと日産自動車 インペリアルその他

スチュードベーカーと日産自動車 インペリアルその他
















オアフ島、マウイ島、昨夜から外出禁止条例発令で、夜11時以降の巷がとても静かになりました。これ、結構いいかしらって、夜更に騒音撒き散らして住宅街をたまに走りぬける小型日本製の改造自動車を見かけなくなったので嬉しいです。

さて、またまたスチュードベーカーの話題。

1960年代に入り、財政危機に陥っていたインデイアナ州のサウスベンド市に本拠があったスチュードベーカー社、最後の賭けが失敗してその次が続最後の賭け。それがまた失敗してと。。。ちゃーならんって事で、1963年に乗用車生産部門を以前から保有していたキャナダはオンタリオ州ハミルトンの工場へ全て移管します。どうしてキャナダかと申しますと、このハミルトンにある工場、以前は対空砲の生産工場だったのを戦後1947年にスチュードベーカー社が買い取り、合衆国より低賃金、サウスベンド工場より遥かに近代的な施設、キャナダドルに対して有利な為替変換率、それと一旦合衆国で生産された部品をキャナダ工場に持ち込む際の輸入関税の猶予など好条件だったので、サウスベンド生産車より幾らかは利益率が向上する木阿弥でした。所が為替の率が悪化、人件費の値上がり、それとエンジンをキャナダ・オンタリオ州のセイントキャサリンにあるGM工場、これもGM傘下のマキノン工業での受託生産でしたが、に変えるとコストが上がり、赤字の溝は果てしなく深まります。



丁度その頃、CMIと言う会社がキャナダで始まります。キャナデイアン・モーター・インダストリーズと言いまして、現在のトヨタのキャナダ部門がこの会社から始まりました。創業者は2人の若者。1人はハンガリー生まれのピーター・ムンク。もう1人は裕福な家庭から来たデイヴィッド・ギルモア。2人はクレアトーンと言う音響機器の会社を始めて財を成します。クレアトーンと言えば伝説の最高級音響機器で、北欧デザインに長けていたギルモア氏のデザインで今で言うバング&オルフセンみたいな感じですね。


この2人、まずキャナダで自動車会社創業を夢見て、まず手始めに1964年、日本に飛び北米トヨタの輸入権とキャナダでのいすゞ自動車販売権を取り付け、翌年からいすゞ・ベレットをキャナダに持ってきます。同時期、貧しい東部ノヴァ・スコーシャ州ポイント・エドワードにあった元海軍の港、HMCSプロテクターの港が閉鎖されたので(流石英国圏ですので、HMCSとは "女王陛下のキャナダ籍船舶"、Her Majesty Canadian Ship の略です)その跡地を州政府から特別税制優遇してもらい自動車工場を建て、1968年からいすゞ・ベレットの生産開始します。





時を前後に、スチュードベーカー社は1965年5月にCMI社と合併契約の覚書をかわし、いすゞ・ベレットをスチュードベーカーとしてキャナダで売る事になります。両者の役員は皆調印に賛成し、これでCMIはポイントエドワード工場でベレットの大量生産が可能になり、スチュードベーカー側は旧態化していた車両しか置いてなかったスチュードベーカーのお店にお客が少しでも戻ると期待したんですが、それも僅かの間で、スチュードベーカー社の刻々悪化する財政状態に危機感を感じたCMI社は3ヶ月後の1965年の8月に契約破棄してしまいます。

途方に暮れたスチュードベーカー社、キャナダ部門の社長さんは財務畑出身のゴードン・グランデイー氏。CMIとの合併に破れてサウスベンドの本社から、んじゃあ今度は日本の日産自動車と車両供給の話をつけて来なさいと命令され、1965年、極秘で日本に渡ります。日産の130型セドリック が出たばかりの頃なのでもしかしたら、セドリック がスチュードベーカーとして売られる事を狙っていたのかも。





この頃は、丁度ジェームス・ボンド 007の影視、丹波哲郎がショーン・コネリーと地下鉄丸の内線に乗り活躍する、 ユー・リヴ・オンリー・トワイス が東京で撮影される前年ですね。グランデイー氏もショーンコネリーと同じくホテル・ニューオータニにでも泊まったのかしら。



兎も角グランデイー氏は日産自動車を訪れ交渉を始め、まあ一旦はいい線に乗っていたそうなんですが、ホテルにサウスベンド本社の弁護士から国際電話がかかって来ます。


今から直ぐ、トヨタ自動車に行きなさい。日産と比較したらトヨタの方が優れているらしいと指示が飛び、グランデイーさん今度は日産に内緒でトヨタさんに行くんですが、トヨタさんはちゃんと日産側に御用聞きを入れておりグランデイー氏が日産と既に交渉している事を知っており、現れたグランデイー氏に冷たくあたり、日本一の自動車会社はウチなんだ、日産に先に話に行くとは、出てけとケンホロほろに追い返されます。その頃には日産自動車もグランデイー氏がトヨタに行った件がバレており、日産もこれじゃメンツは丸潰れだと交渉拒否。結局グランデイー氏は何の収穫も得られずキャナダに帰ったとか。

そして結局全ての救済計画を失ったスチュードベーカーは翌年、1966年の3月に最後の車両をハミルトン工場から出荷した後、扉を閉めました。



ここで興味深いのが、日本まで国際電話を掛けてトヨタに行きなさいと命令したスチュードベーカー本社の弁護士と言うのが、後に合衆国37代大統領になるリチャード・ニクソンだったのです。当時ニクソン氏は弁護士をしていて、ナッジ ローズ ガスリー アレクサンダー & ファードン と言う合弁弁護事務所に籍を置いていてました。彼の本職は大体弁護士であって、ペプシ・コーラ社の顧問を務めていた事でも有名でした。

この有名な写真、左は佐藤栄作氏。高い確率で1967年型のキャデラック75リムジン、トラックタイヤから判断すると防弾仕様?



キャナダのCMI社を売り払ってまたまた財を増したピーター・ムンクとデイヴィッド・ギルモアの両氏。ギルモア氏はその後、スカンデザインと言う有名な北欧家具の会社を創立して成功。その内南洋に憧れてフィージーに移り住みワカヤ島を買い取り一大リゾートを作り上げリゾートホテル王になった後、同じくフィージーで水源を発見。世界で有名な飲料水、フィージーウオーターの会社も創立しちゃいます。ついでに言えばぼくもお世話になっている、電子雑誌の供給会社、ZINIO も彼の会社ですから凄い。。。これら全てはいすゞ・ベレットのキャナダ販売から始まっているとは誰が想像できた事でせうか。




道にい〜倒れて誰かの名を〜、呼び続けた事がありました。。。
リチャード・ニクソンのリムジンを追いかける人。リムジンは珍しい自家製のリムジンを持っていなかったクライスラーのインペリアル。政府がホワイトハウス用に2台だけ特注した定番、架装はヘス&アイゼンハード社製。これは素の屋根仕様。


面白いのはこの2台、実際は1972年型何ですけど、独自にトリムやらバンパーを替えて1973年型に見せている所。この車両はニクソンとフォード大統領時代まで使われました。




1972年型と1973年型、インペリアルの違い、結構あるんです。分かりにくいんですが5マイルバンパーの法律が適用される1973年には既にクライスラーは衝撃吸収の構造を採用しており、インペリアルもニューヨーカーも最初はこの様に曲がる性質を持った鋼板板とゴムのオーヴァーライダーなどを使っていました。


バンパに付いた黒いゴムブロックを除けば同じ様に見えるんですが、1973年型のバンパは僅かに突き出していて、縦型の部分の上部を見ると分かります。まあ、あとグリルの格子が違うのでも直ぐ分かりますが。。。

小さいバンパの1972年型。


大きなバンパの1973年型。


1972年。


1973年


1972年


1973年


インペリアルの後席のたまらない装備がこの、Cピラーに付いた枕、読書灯と吊革。


この吊革には正式な名称がありまして、ラヴァリエー・ストラップと申します。


結構後々まで装備されていたみたいで。。。矢張り少し歳をとった人が使った方が似合いますね。


大里化学の事務所はホテル・ニューオータニのペントハウスの想定ですが、アイスクリームコーン状のブラントレー・へりぽくたーの背後には関西電力の文字が。。。


操縦士が飛び降りて危機に直面するのは世にも珍しいメイヤーズ200と言う軽飛行機。航空機設計の天才、アル・メイヤーズがミシガン州で細々と作っていた軽飛行機で、後にロッコウェル社に吸収されるも、1960年代後半で生産中止。全部で124機作ったか作らなかったか。全て手作業の鋼鉄パイプにアルミナムのスキンを貼った強靭なエアフレーム、ぼくは何回か目撃した事あります。007この危機一髪の撮影は英国で行われたので、最低一機は輸出された事になりますね。。。大里の字がかわゆい。



ニクソン大統領、ホワイトハウス最後の日。。。


同じポーズ、真似したかったのよん。。。。


お隣さんは日ッペリの試験飛行。
Posted at 2020/04/12 11:19:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2020年04月10日 イイね!

22年前の今日

22年前の今日隔離生活、家に居たら結構やる事はあって、今日は昔の書類の整理。

1995年から今年までの飛行記録、見ていたら丁度22年前の今日、チャーターでアージェンテイーナのブエノス・アイレスからペルーのリーマ経由でマイアミまでコールサインがフロリダウエスト834便として飛んでいました。覚えているのはきな臭い革命前夜のブエノス・アイレスは未だ景気が良くて、古いフランス車が未だ沢山走っていてよだれを垂らしながら街を歩き回りました。残念な事にその時の写真、皆どっかへ行っちゃて無いんです。チャーター主はフロリダウエストと言う貨物航空会社で、一回倒産を経験し、再起した際未だ機体の手配が整ってなかったか、自分の機材が重整備に入っていたかで、ウチの機体をチャーターした感じで、現在はもう消滅した会社です。機長は空軍大佐上がりのフィルさんで、確か運行重役かなんかでいつもはオフィスに座っている人なので、たまに現場に出てくると世話をするのが大変です。副操縦士は最近なくなったデイヴ機長で彼も空軍出身だったので階級の差が未だあるんでしょう、フィルさんとは余り仲が良くなかった覚えがあるんですが、デイヴさんは以前ヴォルクスワーゲンの営業をやっていてぼくと話が良く合いました。冒頭の画像は正式にはジェネラル・デクレアレーション、通称GD、ジェンデッキと申しまして、日本では出入港届と言うらしく、出入国、検疫、税関などに必要な書類で機体番号、国籍、乗務員、日付、出発地、経由地、目的地などが記され、各官僚にハンコを押してもらい、国にっよってはこれが入国証明になるので、ゼロックスして旅券と一緒に携帯する重要な書類です。自分でもテンプレートがあるので発行できました。

今日の売り物。インターネットに出ていた、キャデラック・セヴィル、あいや、これ、ビヤリッツ仕様?この年代には無かった筈なのに。。。


ブラッシュド・ステインレス・スチールの屋根、屋根後半のパデッドルーフ。純正品にしてたら結構いい線行ってたかも。。。


これはオハイオ州はクリーヴランドのローマ・帝国、イヤイヤ、ローマン・エンタープライズ社の製品で、創業者の名前がジェリー・ローマンと言う人で、1961年から改造車用の部品を扱う老舗で、驚いた事に未だ営業しています。普通の車体にランダウバーを付けたり、成金ラジエータグリルを被せたり、お決まりの後方コンチネンタルキットから、一時期はこのセヴィルの様な完成車も売っていたらしいです。





まあ人の趣味はそれぞれで、こういった非常にゴテゴテした漫画みたいなキンキラキンの装飾は1970年代に、まあいわゆる有色人種系の文化内でもてはやされて、今ではそのリヴァイヴァルでピンプモビルなどと言われてますが、合衆国は多文化国家ですから、そう言った系列の文化も一環として認識すると結構面白いです。ローマンさんの製品はその走りだったんですね。。。


彼らの文化、主に中南部から南東海岸区域はぼくにとっては外国ですから、勉強になります。その文化・歴史が前面に押し出されたのが1973年に公開された影視、ジェームスボンド007シリーズのリヴ・レット・ダイです。


協賛がシェヴォレイでインパーラやベルエヤがギョーさん出てくるのですが、悪役が乗っているのがその、当時の改造車ブーム時に作られたコーヴォラードと言って、要するにシェヴォレイのコーヴェットにキャデラック・エルドラードの車体外板を装ったと言う奇天烈天外なもので、この後に続くスタッツやらに比べれば遥かに過激的な性能だったみたいです。。。


話は全く変わります。

ハワイでは昔から各国からの移民が到来し独特の文化が作られましたが、日本から来たのは発酵技術が噛んだ食材で、主に醸造品のお酒、醤油、それと豆腐・納豆などが盛んで、面白い事に醸造品は山口縣やら関西系が多く、豆腐はウチナンチュが幅を利かせていたんですが、それも今やお醤油はアロハ醤油だけになっちゃって、数件あったお豆腐屋さんもぼくが知っている限りで残っているのは2軒、台灣系のミセス・チャングとウチナンチュ上原さんのアロハ豆腐だけになっちゃいました。そう言えばお味噌屋さんも最後に残ったのがマル比じるし、こちらもウチナンチュ比嘉さんが戦後からやっているハワイアン味噌醤油会社です。この比嘉さんの白味噌が美味しくて、多分日本の人の舌には合わないかも。。。甘さと辛さが素晴らしく、味噌汁だけでなく魚の味噌煮とか、何にでも使えちゃいます。因みにミセス・チャングは豆腐作った後に残るオカラを農家に豚の肥料として処分しているので、工場へ行くと格安でギョーさん分けてくれます。これがまた美味しく重宝するんですよね。。。。




来島観光客が事実上ゼロになった現在、行く場所を無くしたレンタカー群はアロハ・ステージアムの駐車場に押し込まれています。



Posted at 2020/04/11 16:33:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2020年04月07日 イイね!

隔離生活

隔離生活
















集団感染予防の為、州政府発令の隔離生活、在宅余儀なき日々、暇に任せてまた印刷写真のスキャンやら画像整理の毎日。。。。

合衆国の小学校で、親御さんがどんな仕事しているかを子供が皆に説明する授業科目がよくあります。逆に子供を仕事場に連れて行こうと言うのもあります。子供が学友の前で親、それも父親だけとは限らない、の職業を紹介する際、お父さんまたはお母さんはナンバープレート、我々が言うライセンスプレート、の製造に関わってますとは、決して言ってはいけないと言われてます。どうしてかと申しますと、昔からライセンスプレートの制作は州の刑務所で行われる受託作業として知られているので、お父さんライセンスプレート作ってると言えば、お父さん牢獄で隔離生活に入っていると言う事を示すからなのです。

かと言っても全ての州がそうな訳では無く、我がハワイ州のライセンスプレートはオレゴン州ポートランドの民間会社が作っています。

1991年に変更になったハワイ州のライセンスプレートは虹の描かれた素敵なデザインでして、通常は三桁のアルファベットと三桁の数字が使われ、車両を売った際には自分でライセンスプレートを外し、買った人は自分で登録しに陸事へ出向き新しいライセンスプレートを購入します。最初のアルファベット、ぼくの住んでいるホノルル郡は頭文字がE, F, G, J, N, P, R, S とTを使います。ウチのもう一台のプリアスは電気自動車登録なのでその限りではありませんが。。。。

Pはホノルル郡の登録車。


同じ様な車両、大いに迷う。。。






特権を持つ、デイプロマテイック(領事、外交官、国連、大使館)のライセンスプレート、(欧州で言うCDコー・デイプロマテイークやらCCに相当)最近ははどの州でも同じ。これは韓国領事の車。


昔のニューヨーク州は黄色に濃紺の文字で、ぼくが子供の頃は皆、これでした。最初は3桁数字と3文字の組み合わせで、3文字は登録された郡の場所を示してました。それも組み合わせが困難になると不規則な組み合わせになってたみたいですが。その内4桁数字と3文字に移行。

算術の先生が乗っていたホンダ・シヴィック。ぼくの住んでいたアレゲーニ郡はこのHFFってのが多かったみたいです。




学校のドライヴァーズ・エジュケーション科目の教習車だった、ウイスコンシン州ケノーシャ製の、ルノー・アライアンス。ハイスクールの校長先生と。


通常、州によって毎年の登録標を(と、執行する州は車検証も)ステッカーとしてライセンスプレート(通常後ろの)の隅に貼るのと、前窓にステッカーを貼るのと色々あるのですが、ニュウヨーク州、ステッカーを貼る場所がライセンスプレートにちゃんと区別されているのに何故か登録標と車検標は前窓左隅に貼る条例なんです。。。これはコロラドから持ってきたぼくのフェアモント。ライセンスプレート右下端にステッカーを貼る(筈)為の小さな四角い囲みが見えます。4桁数字は後期型。背景にはオールズの大トロが3台写っている。。。!



ニューヨークを始め、以前、数州はレンタカアは特別なライセンスプレートになっていて、大概もじがZで始まるのが多かったんですが、レンタカアの観光客、特に外国からの運転の際、強盗の目当てになる事件が多発したので、現在は一般と同じライセンスプレートになっています。

エイヴィスから借りたプリムスのKカーとオールズ・カトラス。Z登録です。




独国で借りたマインツ登録のオペル・ザフィーラ。これ、凄くヨカツタ。


独国では自動車よく借りました。これもご覧の通りマインツ登録の直噴ゴルフはジーゼル車。TDIは3種類の風味がありまして、これは中間馬力でTDIの文字のうち二つだけが赤い110馬力仕様。150馬力の最強型はTDIの文字が全て赤です。駆動制御を切って2速で急発進すると前輪からモクモクと白煙が出た。。。





親がキャナダはブリテイッシュコロンビア州はヴァンクーヴァで乗っていたヴォルヴォ960のステーションワゴン。隣はぼくの1981年型ジェッタ・ジーゼル。金曜日の午後5時に退社してオレゴン州はポートランドから一目インターステーツ高速道路を北上。三時間でシアートル通過、その二時間後キャナダとの国境通過。夜11時半頃親の家に到着。日曜日の午後ヴァンクーヴァを午後3時頃出発してオレゴンに戻るのが夜の10時。片道580キロ。そんな旅を一年に5、6回走ってました。若かった。




フォードは何故か安全性を表に出していた時期があり、偉い事にこのフォーカス、まだちゃんとガンジュウな5マイルバンパーを装備していました。


自分のプジョーと2CV2台。本社裏の駐車場。504の欧州仕様のバンパとダブル反射鏡の付いたガラス製マーシャルのヘッドライトはキャナダから密輸してきた貴重品。。。


1956年頃だと察しますが、コンチネンタル(リンカンでは無い!)マークII (トヨタでも無い!!!)の試験車両。ニューメキシコ州ローズバーグにあったホテル・ヒダルゴの前。この建物、まだあります。ローズバーグはアリゾナ州ツーソン からインターステート10号を東に行った所。


ホノルル空港のエル・カミーノ。


イズラエルはハイーファで組み立てられていたBMW700。その隣は同じ会社で組み立てられていた日野コンテッサの初期型。両方リヤエンジンで、前部の格好が何となく似ているう。。。


ハイーファ組み立ての日野コンテッサ。後期型。


キャデイーナでも今年からやっと軽装で作業できる様になりました。。。


冒頭画像は刑務所で作られるライセンスプレート。
Posted at 2020/04/08 18:11:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

プロフィール

「合衆国のVW文化、その4 http://cvw.jp/b/1945280/48458481/
何シテル?   05/30 15:26
I'm JetBoy. Nice to meet you. 実家は西キャナダ、住むのは米ハワイ州オアフ島、家族は香港と日本の、日系アメリカ人です。多分...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2020/4 >>

   1234
56 789 10 11
121314151617 18
19202122232425
2627282930  

愛車一覧

トヨタ プリウスPHV トヨタ プリウスPHV
税金控除。駐車代無料。充電免費。貧乏家族の頼り者。
トヨタ プリウス トヨタ プリウス
家に置いてある自動車、でも出稼ぎ生活なので殆ど使用していません。走行距離が11年で590 ...
プジョー 505 プジョー 505
矢張り安物ルノー車を毎日修理していると、”いつかはプジョー” と言う流れに溺れて、最後の ...
ルノー その他 ルノー その他
シカーゴで姉貴の乗っていたマズダRX-5 (コスモ) が珍しく動いていたので中古車屋に乗 ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation