オアフ島、マウイ島、昨夜から外出禁止条例発令で、夜11時以降の巷がとても静かになりました。これ、結構いいかしらって、夜更に騒音撒き散らして住宅街をたまに走りぬける小型日本製の改造自動車を見かけなくなったので嬉しいです。
さて、またまたスチュードベーカーの話題。
1960年代に入り、財政危機に陥っていたインデイアナ州のサウスベンド市に本拠があったスチュードベーカー社、最後の賭けが失敗してその次が続最後の賭け。それがまた失敗してと。。。ちゃーならんって事で、1963年に乗用車生産部門を以前から保有していたキャナダはオンタリオ州ハミルトンの工場へ全て移管します。どうしてキャナダかと申しますと、このハミルトンにある工場、以前は対空砲の生産工場だったのを戦後1947年にスチュードベーカー社が買い取り、合衆国より低賃金、サウスベンド工場より遥かに近代的な施設、キャナダドルに対して有利な為替変換率、それと一旦合衆国で生産された部品をキャナダ工場に持ち込む際の輸入関税の猶予など好条件だったので、サウスベンド生産車より幾らかは利益率が向上する木阿弥でした。所が為替の率が悪化、人件費の値上がり、それとエンジンをキャナダ・オンタリオ州のセイントキャサリンにあるGM工場、これもGM傘下のマキノン工業での受託生産でしたが、に変えるとコストが上がり、赤字の溝は果てしなく深まります。
丁度その頃、CMIと言う会社がキャナダで始まります。キャナデイアン・モーター・インダストリーズと言いまして、現在のトヨタのキャナダ部門がこの会社から始まりました。創業者は2人の若者。1人はハンガリー生まれのピーター・ムンク。もう1人は裕福な家庭から来たデイヴィッド・ギルモア。2人はクレアトーンと言う音響機器の会社を始めて財を成します。クレアトーンと言えば伝説の最高級音響機器で、北欧デザインに長けていたギルモア氏のデザインで今で言うバング&オルフセンみたいな感じですね。
この2人、まずキャナダで自動車会社創業を夢見て、まず手始めに1964年、日本に飛び北米トヨタの輸入権とキャナダでのいすゞ自動車販売権を取り付け、翌年からいすゞ・ベレットをキャナダに持ってきます。同時期、貧しい東部ノヴァ・スコーシャ州ポイント・エドワードにあった元海軍の港、HMCSプロテクターの港が閉鎖されたので(流石英国圏ですので、HMCSとは "女王陛下のキャナダ籍船舶"、Her Majesty Canadian Ship の略です)その跡地を州政府から特別税制優遇してもらい自動車工場を建て、1968年からいすゞ・ベレットの生産開始します。
時を前後に、スチュードベーカー社は1965年5月にCMI社と合併契約の覚書をかわし、いすゞ・ベレットをスチュードベーカーとしてキャナダで売る事になります。両者の役員は皆調印に賛成し、これでCMIはポイントエドワード工場でベレットの大量生産が可能になり、スチュードベーカー側は旧態化していた車両しか置いてなかったスチュードベーカーのお店にお客が少しでも戻ると期待したんですが、それも僅かの間で、スチュードベーカー社の刻々悪化する財政状態に危機感を感じたCMI社は3ヶ月後の1965年の8月に契約破棄してしまいます。
途方に暮れたスチュードベーカー社、キャナダ部門の社長さんは財務畑出身のゴードン・グランデイー氏。CMIとの合併に破れてサウスベンドの本社から、んじゃあ今度は日本の日産自動車と車両供給の話をつけて来なさいと命令され、1965年、極秘で日本に渡ります。日産の130型セドリック が出たばかりの頃なのでもしかしたら、セドリック がスチュードベーカーとして売られる事を狙っていたのかも。
この頃は、丁度ジェームス・ボンド 007の影視、丹波哲郎がショーン・コネリーと地下鉄丸の内線に乗り活躍する、 ユー・リヴ・オンリー・トワイス が東京で撮影される前年ですね。グランデイー氏もショーンコネリーと同じくホテル・ニューオータニにでも泊まったのかしら。
兎も角グランデイー氏は日産自動車を訪れ交渉を始め、まあ一旦はいい線に乗っていたそうなんですが、ホテルにサウスベンド本社の弁護士から国際電話がかかって来ます。
今から直ぐ、トヨタ自動車に行きなさい。日産と比較したらトヨタの方が優れているらしいと指示が飛び、グランデイーさん今度は日産に内緒でトヨタさんに行くんですが、トヨタさんはちゃんと日産側に御用聞きを入れておりグランデイー氏が日産と既に交渉している事を知っており、現れたグランデイー氏に冷たくあたり、日本一の自動車会社はウチなんだ、日産に先に話に行くとは、出てけとケンホロほろに追い返されます。その頃には日産自動車もグランデイー氏がトヨタに行った件がバレており、日産もこれじゃメンツは丸潰れだと交渉拒否。結局グランデイー氏は何の収穫も得られずキャナダに帰ったとか。
そして結局全ての救済計画を失ったスチュードベーカーは翌年、1966年の3月に最後の車両をハミルトン工場から出荷した後、扉を閉めました。
ここで興味深いのが、日本まで国際電話を掛けてトヨタに行きなさいと命令したスチュードベーカー本社の弁護士と言うのが、後に合衆国37代大統領になるリチャード・ニクソンだったのです。当時ニクソン氏は弁護士をしていて、ナッジ ローズ ガスリー アレクサンダー & ファードン と言う合弁弁護事務所に籍を置いていてました。彼の本職は大体弁護士であって、ペプシ・コーラ社の顧問を務めていた事でも有名でした。
この有名な写真、左は佐藤栄作氏。高い確率で1967年型のキャデラック75リムジン、トラックタイヤから判断すると防弾仕様?
キャナダのCMI社を売り払ってまたまた財を増したピーター・ムンクとデイヴィッド・ギルモアの両氏。ギルモア氏はその後、スカンデザインと言う有名な北欧家具の会社を創立して成功。その内南洋に憧れてフィージーに移り住みワカヤ島を買い取り一大リゾートを作り上げリゾートホテル王になった後、同じくフィージーで水源を発見。世界で有名な飲料水、フィージーウオーターの会社も創立しちゃいます。ついでに言えばぼくもお世話になっている、電子雑誌の供給会社、ZINIO も彼の会社ですから凄い。。。これら全てはいすゞ・ベレットのキャナダ販売から始まっているとは誰が想像できた事でせうか。
道にい〜倒れて誰かの名を〜、呼び続けた事がありました。。。
リチャード・ニクソンのリムジンを追いかける人。リムジンは珍しい自家製のリムジンを持っていなかったクライスラーのインペリアル。政府がホワイトハウス用に2台だけ特注した定番、架装はヘス&アイゼンハード社製。これは素の屋根仕様。
面白いのはこの2台、実際は1972年型何ですけど、独自にトリムやらバンパーを替えて1973年型に見せている所。この車両はニクソンとフォード大統領時代まで使われました。
1972年型と1973年型、インペリアルの違い、結構あるんです。分かりにくいんですが5マイルバンパーの法律が適用される1973年には既にクライスラーは衝撃吸収の構造を採用しており、インペリアルもニューヨーカーも最初はこの様に曲がる性質を持った鋼板板とゴムのオーヴァーライダーなどを使っていました。
バンパに付いた黒いゴムブロックを除けば同じ様に見えるんですが、1973年型のバンパは僅かに突き出していて、縦型の部分の上部を見ると分かります。まあ、あとグリルの格子が違うのでも直ぐ分かりますが。。。
小さいバンパの1972年型。
大きなバンパの1973年型。
1972年。
1973年
1972年
1973年
インペリアルの後席のたまらない装備がこの、Cピラーに付いた枕、読書灯と吊革。
この吊革には正式な名称がありまして、ラヴァリエー・ストラップと申します。
結構後々まで装備されていたみたいで。。。矢張り少し歳をとった人が使った方が似合いますね。
大里化学の事務所はホテル・ニューオータニのペントハウスの想定ですが、アイスクリームコーン状のブラントレー・へりぽくたーの背後には関西電力の文字が。。。
操縦士が飛び降りて危機に直面するのは世にも珍しいメイヤーズ200と言う軽飛行機。航空機設計の天才、アル・メイヤーズがミシガン州で細々と作っていた軽飛行機で、後にロッコウェル社に吸収されるも、1960年代後半で生産中止。全部で124機作ったか作らなかったか。全て手作業の鋼鉄パイプにアルミナムのスキンを貼った強靭なエアフレーム、ぼくは何回か目撃した事あります。007この危機一髪の撮影は英国で行われたので、最低一機は輸出された事になりますね。。。大里の字がかわゆい。
ニクソン大統領、ホワイトハウス最後の日。。。
同じポーズ、真似したかったのよん。。。。
お隣さんは日ッペリの試験飛行。

Posted at 2020/04/12 11:19:01 | |
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