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JetBoyのブログ一覧

2020年12月29日 イイね!

ピエー・カーデインとデザイナー・カー

ピエー・カーデインとデザイナー・カー





まあ、疫病の影響も多大にあったでしょうが、今年は多くの方々があっちの世界へ行っちゃいました。今朝の知らせはイタリア産まれでフランスに帰化したデザイナーのピエー・カーデイン氏。98歳だったそうです。



彼の名前を聞いてすぐ思い起こすのはアメリカン・モーターズの高性能車、ジャヴェリンの内装を手がけた事です。その後流行る自動車の装飾を有名なデザイナーに任せる、今で言うデザイナー・カーの最初がこのジャヴェリンでした。座席に大胆なストライプが左右上下にズンと入っていて初めて見た人は驚いた事でしょう。機構自体は非常に古い車台を焼き直してやりくりしていたAMCはこう言った事で新鮮さを補充したかったのか。カーデイン氏も試作車を見にケノーシャまで行ったのかな?ウィスコンシン名物のチーズでも食べながらあーしろ、こーしろって注文つけてたんじゃないかと。。。AMCは次に大衆コムパクト車、ホーネットのステーションワゴンの1972年と1973年型にイタリヤはトスカニー出身のデザイナー、グッチオ・グッチに内装をしてもらい、これがまたド派手でそのパターン、色使い共に今でも新鮮に見えます。そしてAMCがルノーに乗っ取られるまでの間は、フランスから米合衆国へ逃げてきたロシア人、オレグ・カッシーニに内装をやってもらいました。

この、”知られざるマッスル・カー” のジャヴェリンは一時期、架装会社のカーマン社の独國工場でも生産されてました。


ホーネット・スポータバウトのグッチ仕様。2年間限定、5000台強が世に出ました。


その内装が凄い。。。


マタドー・クープのカッシーニ仕様。


マタドーには特別なバーセローナ仕様って言うのもあり、クープから始まり後にセダーンにも選べました。このマタドー・クープは異様に低く幅が広く、実物を見るとたじろぎます。






カッシーニ氏ご満悦。


将軍様は1973年型オールズモビル・NinetyEight・リージェンシーにオールズモビル創立75年記念車を出しますがその内装細部に宝石屋のテイファニーの名の付いた時計やらイグニッションの鍵を付けたのが将軍様が外部有名デザイナーを起用した最初の例かもしれません。73年型の前部バンパはしなる鋼板で衝撃吸収可能になってます。




オールズモビルの次は1978年型のキャデラック・セヴィルをグッチに託します。このグッチ・セヴィルは正式なキャタログ・モデルなんですが、架装はフロリダ州マイアミにあった、英国の企業、インターナショナル・オートモテイヴ・デザイン、通称IADの手に依って改装され、天井が剥がされキャデラックと名の付くエムブレムは全て外され、その代わりにフローレンスのグッチとくどいほどにエンブレムが嵌められ、トランクにピッタリ収まるカバン類まで含まれ、数は少ないですが、安定した台数が ”生産” され、セヴィルが1980年にモデルチェンジしてからも暫くは続きました。余談ですがこのIAD社は産業デザインを幅広く手がけるデザイン企業で、自動車などの試作・開発・生産も得意とし、東洋工業からの受託で、初代マズダ・ミアータMX5の試作開発時、RX7の車台に323のパワートレインをくっつけて走らせたのも、このIAD社でした。残念なことにその後この会社は経営不振に陥り、韓国の大字に買い取られたそうです。。。


天井が凄い。。


パデット屋根、ちゃんとメッキの帯が左右を繋ぐ。これにオペラ・ランプがあったら。。。。


フーパーテールのセヴィルにも続きます。屋根のパデット部が随分前まで伸びています。



グッチと共に、カーデイン氏は、ダウンサイズされたEボデーになった前輪駆動のキャデラック・エルドラードに手を加えて、その名もキャデラック・エルドラード・ピエー・カーデイン・エヴォルーション1ってのを出します。これはエルドラードの前後を伸ばして、内装を総手縫いの皮張りにして、計器盤を木製の枠にしたり、音響装置を最新型にしたりして売り出します。その数、200台、300台とも言われてますが、現実的には20台が作られたら多い方との噂で、でもたまに売り物が出てます。悲しい事にこう言った手作りの革張り内装ってーのは耐久試験など全くやってませんから、数年経つと垂れ下がったりひび割れたり変色したりで悲壮な様になりがちで、生き残った個体も哀れな形相なのが殆ど。。。なんか80年台のマゼラーテイもそうでしたね。。。




この派手なエヴォルーションとは別に、キャタログに載らなかった、キャデラックのピエー・カーデイン仕様も数年あったらしいです。。。






デイアボーンでは、んじゃリンカンを数名の著名人にいじってもらおうと始めたのがその後大ヒットする、1975年のリンカン・マークIVから始まった、デザイナー・シリーズです。カーテイエ、ビル・ブラス、プッチ、ジーヴェンシーと揃い、ありきたりの装飾に飽きた富裕層に大いに受けます。

リンカンの、デザイナー・シリーズの始まり。アイアコッカ氏がさぞ喜んだと。




デザイナー、一挙に集めて喧嘩なんかしなかったのかしら、いや、各自の仕様を作ったんだから、誰の仕様が一番売れるかなんて会話していたのかも。


リンカンも今じゃくだらない多目的車SUV製造会社に落ちた。。。過去の権威も栄光もあったもんじゃない。涙。


マークIVは巨大化しすぎて、このマークVがバランスが取れて好きでした。でもたったの3年しか作られず、フォックス車台へダウンサイズ化されバランス崩れたマークVIになってしまう。。。。


日本では流行る考え方が違うのか、ゴルフ選手のジャック・ニクラウス仕様やらが有名ですが、赤塗りの百恵ちゃん仕様も泣けますな。。。



ピエー・カーデイン氏。日誌をめくれば1996年らしきある日、東京でお仕事を一旦終え、次は南韓国の鳥山へヒコーキを取りに行かねばならず、成田から金浦機場まで移動する際、JASと言う航空会社の切符を買ってくれました。そのDC10はピーターパンの漫画胴体に描かれ、まるで幼稚園バスの気分でしたが、このJASと言う航空会社、どうやら昔の東亜国内航空だそうで、なぜか記念品にボールペンを頂いたのですが、その樹脂製のお世辞にもジョートーとは言えない贈答品、クリップにはピエー・カーデインと記されています。恐ろしい事にこのボールペン、まだ家にありました。しかも、インクが切れていない!







追伸:2年間だけあったAMCホーネットのグッチ仕様はステーションワゴン版、彼らが言うスポータバウトでして、このホーネット・シリーズは後にファーガソン・駆動のトランスファーケースを得て我が国最初の乗用四輪駆動車、その名もイーグル、として、4扉セダーン、2扉セダーン、3扉ハッチバックとこのステーションワゴン形態で活躍し、ステーションワゴン版は1987年まで製造されます。最終型はリミテッドと言ってクライスラー系のベイジュか赤かなんかの柔らかい皮張りで、まあ、ジープ・ワゴニヤの弟版みたいでした。そのイーグル、ごくわずかの間だけ、ジーゼル版が作られたんです。AMCの本社から受託され実際に試作・製造したのは、キャリフォーニア州サンファーナンドのスペシャライズド・オートモテイヴ・エンジニアリングと言う小さな会社で、使われたエンジンはイタリヤは今で言うMVモトーリのHR692HTと呼ばれる3,600cc6気筒エンジンで過給機を使い150馬力を発生します。ただしこのエンジン、非常に重たく燃費向上をあまり期待できず、結局生産されたのが20台と言われてますが、実際には8台程度だったと言うのがホントの話だそうです。このジーゼル四輪駆動のイーグルにグッチの内装移植したらそれこそ凄い万能車ができそうな感じが。。。。と。ああ、いけない。助けて、ももえちゃん。。

Posted at 2020/12/30 17:03:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2020年12月28日 イイね!

昨日をもう1度、吸う空気の見える天使の街

昨日をもう1度、吸う空気の見える天使の街







その昔、ウチの会社がオウストラリヤのクワンタス航空(QANTASは Queensland And Northern Territory Aerial Services の頭文字です)貨物部門の総括運航契約を20年近く持っていて、我々乗務員の一番人気のある航路でした。最低週5便くらいの頻度で、出発はJFKニュヨウクでシカーゴを経由してロスアンジェリースで乗務員交代、ロスアンジェリースからホノルルで再度乗務員交代、ホノルルから米領サモアかフィージーのナンデイー経由でシドニー、又はメルボーンで終点に到着。帰りはオウストラリヤからシンガポー、ジャカータ、又は台北を経由し香港で乗務員交代。一応香港が終点でした。便名は今でも使ってますね、QF7550、QF7554、懐かしいです。従って我々乗務員はロスアンジェリース、ホノルル、シドニー・メルボーンと香港で皆、タムロしていて各地、結構詳しくなるのですが、変な話でぼくはロスアンジェリースの休息日が結構充実していました。先祖が北キャリフォーニア出身だと言うのに自分はキャリフォーニアに住んだことが無く、当時住んでいた雨のよく降るオレゴン州と比べると太陽はさんさんと輝き、有名だったメルローズ大通りにあったシトロエン屋のチャレンジャーモーターズとかヴァンナイズの自動車専門の本屋とかに通ってました。でもLAX空港営業所のボス、ハワイ出身のブレンダンくんは僕がスケジュールに載ると身構えていたらしいです。当時、ぼくは、特に整備から、アンデイーくんはロスアンジェリースを二回離陸する男と呼ばれていました。それは以前機材故障で離陸直後二回も戻ってきた経験があったので。。出発時、機体のドア閉める際、ブレンダンが扉の隙間から、”じゃあ、また後で” と、意味ありげな言葉を発し大笑いする仲良しでした。彼は今じゃ聯合航空公司から引退し、うちの近くに住んでます。。。

そのロスアンジェリース、特徴なのは敷地中央にある巨大な宇宙船みたいな建造物。あれ、1961年に建てられたセントラル・シーム・ビルデイングと言って、空港の象徴とともに展望食堂があるので有名ですが、実は何も書かれていない一階の扉を開けると地下に行け、そこには従業員食堂があり、ぼくらは運航休息以外にも、LAX空港西側にあったフライングタイガー社の訓練所のシミュレータを借りて使っていたので、訓練後などにこの地下食堂によく通いました。現在は展望食堂も閉鎖、残念です。



LAXに降りる際、シカーゴやら東部から来る便はダウニー・ワン到着経路と言う航路を良く使いました。ダウニーと言うのはロスアンジェリース東部にあるベッドタウン、のダウニーと言う街の上を通るので名付けられていたみたいです。残念な事にこの到着経路ももう使われていないみたいですが。

そのダウニーと言う街、1970年代に一世を風靡した歌唱兄弟姉妹、ザ・カーペンターズの故郷として知られています。カーペンター家族は東部コネクチカット出身ですが、子供の音楽才能に気づいて芸能盛んな街、ロスアンジェリース界隈に引っ越してきて、ダウニーの家は兄弟姉妹が親に買ってあげた家だそうで、1973年に発表されたアルバム、Now and Then のアルバム表紙の背後に写っている家です。構図が素晴らしい。昔のレコード盤はジャケットが一つの芸術でしたね。


現在の状況。世界中から絶えず熱心なファンが訪れるそうですが、現在住んでいる家主はいい加減に迷惑だそうで一時期、取り壊しすると話題になりましたが、まだある模様。。。



二人の乗っている自動車はフェラーリ365・GTB4。兄のリチャードがカーキチで音楽で高収入になると色々な自動車を買い揃え、今でも結構なコレクションを持っているそうです。彼は高性能車がお好みだった様ですが、妹のキャレンはおてんば娘らしく、2扉が好みだったそうで、1973年型、まだバンパが小さかったメルセデス・ベンツの350SLに乗っていて、それを整備に出している間、お兄さんが乗っていたジャギュアXJSを借りてみたらそれを気に入って、1979年型のXJS-HEが最後に所持した車だったそうです。

1973年型の350SLはDジェトロニックの燃料噴射、鋳鉄製の小型V8エンジンでした。バッジとは裏腹に排気量は4500cc。


2扉ジャギュアは余程お気に入りだったのか、兄弟姉妹、揃って持っていたとか。これはキャレンの乗っていた個体。


彼らは親御さんにも新車を買ってあげて、その一台が1975年型クライスラー・インペリアル・レバーロン2扉の黒塗り。それがこの前オークションで競に出てました。こう言った有名人ゆかりの車両が売りに出ると話題になります。


威風堂々ですね。黒塗りで。おまけに2扉と言うのが恐ろしい。。。1975年型は悪名高きクライスラー・希薄燃焼エンジンの出る前夜。この個体は今年、350万円で落札されたそうです。



ところでこのロスアンジェリース、天使の街と言う意味ナンですが、空気汚染が深刻、それで有名になる事しばしば。あまりにもスモッグが酷く視程が悪いので、貴方の吸う空気が見える街、と冗談めいて言われる故であります。。。。アハハ。
Posted at 2020/12/29 16:11:08 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2020年12月26日 イイね!

クリスマスの想いで ヒコーキの話

クリスマスの想いで ヒコーキの話














今年も無事、クリスマスが終わり巷は一段落。ぼくら物資輸送に関わる人々は、一年中で一番忙しいピークシーズンと言われる時期が大体9月からクリスマス前夜まで続き、毎年上へ下への大騒ぎになります。

丁度10年くらい前でしたかねえ。。。独國から中東への往復便何回かこなし、ザーランド州の片田舎の宿で蒸気暖房の熱交換器が放つ独特のパイプを叩いた様な音を聞きながら窓外のクリスマス飾りを眺めていたら電話が鳴ります。狂うスケジュールのクルースケジュール部の兄ちゃんが、明日、カイロまでチャーターあるんだけど行きたい?とやけに優しく聞くので当然何か下心があるのかと疑うもの、別にタダのチャーターよ、っと言われ引き受けました。翌日出社してみると積荷は軍事基地に運ぶクリスマス用の物資、ターキーだの、飾りだの、それに出発間際に持ってきたデイプロマテイック・パウチです。何やらカイロの領事館に行くもので、パウチとは言いますが実際は大きな麻袋に鍵が付いており、書き留め郵便扱いのシグネチャー・サーヴィスと言うもので、ぼくが袋、受領のサインをして受け取ります。このデイプロマテイック・パウチとは大使館やら領事館に通常郵便以外の経路で送る時に使われ、発送から受領まで扱う人々皆サインする必要があり、重要書類やらが入っているそうですが、この荷物の中は実質的に治外法権扱いで、よく、推理小説の小道具に出てきます。普段なら別に気にしないこの特別荷物、マズい事になるのは途中で天候不良とか故障で目的地に着陸できなくなると、受領サインをした自分がこのバッグを責任持って守らなければならないんです。推理小説だと必ず暗号解読表とか多額の現金とか怪しい物がデイプロマテイック・パウチに隠されてるなんて言われますが、今回はタダのクリスマス郵便だそうで一安心。独國フランクフォートからイージプトの首都カイロ、でも僕らが使うのはカイロ・ウエストと言う飛行場で片道4時間弱。朝出て夕方には帰ってこられる簡単なお仕事で、ケータリング屋さんが気をきかしてホリデイ季節的なお食事載せて呉れたので楽しかったです。カイロ・ウエストに着けば兵隊さんがシグネチャー・サーヴィス受領の書類を持ってきてそれに僕がサインして、晴れてデイプロマテイック・パウチのお守りをする責任を解かれお仕事終了。が、問題は次の日に起こりました。

クリスマス間近、ピークシーズンは北米国内便にかり出される事が多く、翌日はそのお客さん、ユナイテッド・パーセル・サーヴィス社からの契約で、独國フランクフォートからフロリダ州はオーランドまで空便を回送するお仕事です。今でもその便の飛行計画書を持っています。搭載貨物なし。予定飛行時間10時間14分。大西洋横断トラックは経路A。平均向かい風が49ノット。搭載燃料168,450リッター、予定消費燃料131,353リッター。離陸重量292トン。外部点検を入念に済ませ徐氷液をたっぷり翼と胴体にかけてもらい寒い曇天の朝空へ離陸しました。10時間強の長丁場です。巡航に入ったらオーヴンでパンを温めてから何を食べようかなど頭に浮かんでいた途端、離陸後十分もしない高度で、エンジン火災の警報鈴がけたましく鳴り響きます。警報鳴ったのは第三エンジン、操縦席からは全く目視できません。ありひゃ〜、機長のビルさんはぼくとコンビを組んで何十年、兄弟船の様に息の合う仲間だったので、慌てず騒がず訓練された通りの手順をこなします。まず警報鈴をキャンセル、火のついたエンジンを火災警報器で再確認、スラストレヴァー(スロットル)をゆっくりアイドルに戻し燃料を切りエンジン停止。頭上のエンジン消火器のスイッチを引き消火剤噴霧のスイッチを押す。ストップウオッチを起動させ30秒を計ります。その間に緊急チェックリストを出し無線で地上へ通報。火災探知機が消火完了を示した所で緊急引き返しのチェックリストを読んでその後エンジン火災緊急チェックリストそ上から一つずつ操作確認し、少し時間が余ります。オレゴン州の本社運行管理に衛星電話で事情を報告しフランクフォートの運行所にも連絡を入れ我に帰れば着陸まであと10分。着陸チェックリストを読み上げもう一回ドジ踏んでいないかパネルを再確認、油圧、電気、圧縮空気全て正常です。該当エンジンは停止して火災も消えたハズですが、チェックリストに従い最終着陸体制に入った所で2個ある消火器の2個目を念の為作動させます。まずい事に天候が悪く降りても降りても地上が見えません。結局地上から千メートル位の場所で滑走路確認。あとは通常着陸、逆噴射もそんなにかけず滑走路のど真ん中で停止すると消防車が数台追っかけてきてくれ炎上した(はず)のエンジンを目視点検、炎も見えず異常なしとの連絡でゲートに戻ります。無事駐機場まで辿り着き全ての仕事を終え問題のエンジンを見に行くと、矢張りデージ焦げていました。怖かったのは火災探知機も燃えちゃったので一旦消火出来たと思っていたんですが実際はもうちょっと燃えていたみたいで、まあ、これが大西洋のど真ん中で起きなかったのが僕の悪運の強い所か。以前成田空港に故障で緊急着陸した時の書類の製作と同程度の手続きを恐れていたのですが、独國側はびっくりする程後始末が簡単でぼくらは程なくして開放、宿に戻り寒い独國からフロリダへの逃避叶わずの寒いクリスマスでした。。。。

火災の原因はジェットエンジンの圧縮側からの高温圧縮空気を制御する管が破損したのが火元だったそうです。


ここまで燃えたと言う事はかなりの高温に達したのでエンジンを支える支柱に影響がないか、ロッコウェル硬質試験と言うのを行わないとなりません。


画面中央が発電機やら始動機に動力伝達する歯車箱。丸い穴は発電機冷却用の穴。4つのごっつい配線が発電機。右側の黒いものは発電機をエンジン回転数にかかわらず一定の回転数でまわす為のコンスタント・スピード・ドライヴと言う、油圧斜面ポムプで動く装置。専用の油圧回路と冷却装置が付いてます。その下の網が圧縮空気で回るスターター。右の焦げた太いパイプはそのスタータに送る圧縮空気の管。上はエンジンの潤滑油のタンク。


そのユナイテッド・パーセル・サーヴィス社はトラックで地上運輸から始めた会社で1980年代、その航空部門を開設する際の創立立ち上げ後、数年間の運行は全て弊社に任されていました。その関係で毎年冬になると彼らの本拠地のケンタッキー州はルイヴィル(地元民は限りなっくルーヴォーと発音します)に2週間ほど詰めるんですが、どう言う訳だか我々の指定される宿の近辺には食堂と言う施設が全くなく、ぼくらは常に食べ物、食べ物と会社側に文句を垂れるのですが、解決策が見つからず、毎年悩まされました。皮肉な事にこの宿のお隣がナント、ケンタッキー・フライドチキン社の総本社。そのお隣で空腹に悩まされるとは。。。これもクリスマスの思い出。

もう一つの思い出は、以前流行ったアクション物の、俳優ブルース・ウィリス主演のダイ・ハードの連続物。そのダイ・ハード2にウチのヒコーキが使われる事になり会社は大騒ぎになります。その物語の想定がこれまたクリスマス帰省の筋書きで、ぼくらはクリスマス・ピークの大忙期がピタッと終わるクリスマス・イヴに詰め先の宿で必ずクリスマス・イヴになるとどこかで放映しているこのダイ・ハード2を見ながら一杯やるのが習わしでした。。。因みに銀幕中でブルース・ウィリスが翼の上で敵と格闘後、エンジン・パイロンにある扉を開け燃料がズバズバ漏れ出しますが、実際にはそんな装置、ありません。実際に機が爆発するのは巨大な模型を制作して実行しました。



クリスマスが想定時期の良い影視。その一。1975年配給、シドニー・ポーラック監督、若きロバート・レッドフォード主演のコンドーの三日間。結構現実味のある筋書き。レッドフォードがヴェロ・ソレックスに乗ります。最後の傭い殺し屋の助言が良い。”多分それはこう言う風に始まるんだ、3月の春の最初の暖かい日に歩道を歩いていると一台の車が近づき、中から知人が、いや、信頼できる知人が出てきて笑顔で挨拶する。車の扉は開いたままで、乗せていってあげようと彼は言う。。。” 有名な場面です。フェイ・ダナウェイも若かった。。。



クリスマスが想定時期の良い影視。その2。忘れられぬ情事(An Affair to Remember)。1994年にも再度、作り直されてそれは客船が航空機に変わっていますが、それはそれでアネット・デミングの演技が良く、キャサリン・ヘップバーン最後の演技として知られています。この題材、自体は元祖が1939年の同名のなんですが、矢張りキャリー・グラントとデボラ・カーの共演が素晴らしいと思います。最後の場面でカウチでリラックスしているデボラ・カーに話しながら次第に事実を悟っていき部屋を探しまわすキャリー・グラントの場面は涙が出ずにはいられませぬ。。。”貴方が絵を描けるなら私は歩いて見せるわ。。。” 



日本ではクリスマスには7~Eleven便利店でストロウベリー・ショートケーキを買って、ケンタッキー・フライドチキンを食べる習慣があると我が国では常に報道されていますが、あれは本当なのかしら。。。。

そのKFC。昔、アジアから北米へ飛ぶお仕事の際、有償貨物目一杯積んで飛ぶ我々貨物やさんの古いジャムボ機は最大離陸重量に制限されてアンカレッジまで無着陸で飛ぶ燃料を積めないので途中、日本か極東ロシアで給油に立ち寄ります。ある寄港地でのハナシ。着陸して直ぐ燃料補給して出発まで丁度1時間程度なので入国もしませんし通過扱いで地上業務を受託している会社さんも慣れているもんでトントンとんと事は運びます。そのある日、陽気なキチョーさん、そう言えばここで以前故障して立ち往生した時、ターミナル内のKFCで食べたチキンが美味かった。あれ、時間があったら買ってこれないかねえ?と仰います。その件、受託会社のネーネーに相談すると、あっ、KFCあります。月末請求なら何とかなりますから、今からいってきますと踵を返し四輪駆動の白塗り日産キャラヴァンかなんかですっ飛んで行きます。燃料補給もおわり飛行計画書も受理されそろそろ扉を閉めるんだけどな、と思っていた際、間髪のタイミングでネーネーがあの紅白色のチキンの入ったバケツとコンデイメンツの袋を両手に抱えながら、ハイヒールで階段を上がってきました。だー、いっぺーにふえーデーびる!揚げ鶏の匂いぷんぷんさせながら扉を閉め2階へ上がり出発です。巡航に入って皆で小分けしたジューシーなチキンの美味しかった事よ。キチョーさんにデージ褒められた自分でした。しかしこの後に続きがあり、この経由地でのKFC美味の話、口コミで同僚の間に伝わり、一人、また一人と、ここでKFCを無理矢理頼む連中が増え出して、1ヶ月もするとその請求書が主任機長に届き、こりゃ一体何だべ?と聞かれ皆が一斉にぼくに向かって指をさすので白状せにゃならず、その後、KFCの注文は途絶えたとか。受託会社もありゃ一旦税関に届け出なきゃならないので難儀したと、僕のせいでその節はご迷惑おかけしました。それに比べてサウジアラビアの帰りに、キャナダはニューファンランド州のギャンダーで給油の際、上空から無線でピッザの出前頼んだのは簡単だった。。。。。



 
Posted at 2020/12/28 06:23:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2020年12月19日 イイね!

師走の輸出規制、日本車バッシングとエル・デオーラ

師走の輸出規制、日本車バッシングとエル・デオーラ









あっという間に12月、今年も後2週間を切る所まで来ました。

12月と言えば我々、日系人の、一年で憂鬱な3日間の一つ、真珠湾攻撃の日(もう2つは原爆投下の日)今年は疫病の影響で大した行事も無く無事終わりましたが、毎年この日が来ると、特に本土では、肩身が狭く感じるものでした。まあここハワイでは日系人の人口が多いのでそれ程問題にはなりませんが。昔の事、ことごとく覚えているんですよね、特に年配は。まあ、あたりまえか。

第二次石油危機が暫し、一段落して全米、節約は美徳と言う前代未聞の言葉が普及しだした頃、廉価版カローラ30やらダットサン・ハニービーを産め増せ増やせの勢いで輸出していた日本が、この頃から急にスポットライトを浴びる様になりました。悪い意味で。。。安全基準法、排気ガス規制、省燃費の三重苦にもがいていたのがデトロイト。フォードなんかは後に以前に比べて今年の新型は以前に比べてXXパーセント良くなったと広告に出す際、その一番悪かった年の1979年がよく使われました。自分も1979年式のフォード・フェアモントに乗っていたので良く知ってます。まあ基本的にはその三重苦と同時に製品品質と労働組合の問題も抱えていたんですけどね。それらを尻目に快進撃を続けていた日本勢が槍玉に上がるのには時間がかかりませんでした。実際、週末ごとに日本製の自動車をショッピングセンターの駐車場で5分1ドルだかでスレッジハンマーで叩き壊すパーテイーがあったり政治的に権力の強い労働者組合はそれに油を注ぐ感じで煽り立て愛国心を強調し、敵國を名指しにするその最中、確か1979年の秋でした、収穫感謝祭のお休みにペンシルヴェニア州サスコハーナ川沿いのハリバーグで過ごしていた際、日本のピンクレイデーがNBCのお茶の間時間に突如、登場したんです。何故か水着を纏いカタコトの英語で漫才をやったり日本語で歌を謳ったりし、前に記した日本嫌いが始まった世の中の情勢もふまえ非常に評判は悪く、ぼくらアジア人はあの番組時間になると何処へとなく人前に出なくなるなんて事がありました。そのピンクレイデーが日本では圧倒的な人気の演芸グループだと知ったのはずっと後になってからです。

ピンク・レイデーを見ると冬、紅葉の散った寒いサスコハーナ川岸を思い出す。。。
ちょうどあの年は亡きクリストファー・リーヴのスーパーマンが出て映画館へ皆で見に行ったな。。。


日本車バッシングの夜明けの時分に全米ネットで日本語で歌う芸能番組を出すタイミングも悪かったですが、その日本攻撃を最強の武器に使ったのは先日亡くなったリー・アイアコッカです。彼は電波に乗るのがかなり好きだったみたいで、会長自ら、コマーシャルにバンバン出演して、俳優顔負けの演技(いや、演技じゃなかった?)で日本の自動車をコケおろし、一躍有名になったんですが、面白い事に、そのクライスラー、まあ、アイアコッカはずっとフォード人でクライスラーに入ったのは1979年からですけど、日本バッシング元年ですね。クライスラーはご存知、三菱からコルトを1970年代初めからキャプテイヴ・インポートとして自分のお店で売っていたんですが、1970年代の輸入車と言うのは、まだ世の中、輸入車と言えどもどこの国のどこの会社で作られ売られているのかが曖昧で(まあ、今でもそうですが。。)ビュイック屋に行けば独國製のオペルだったりはたまた藤沢製のいすゞだったり、リンカン・マーキュリー屋に行ってカプリーを見れば独國のコロン製だったりフォードも欧州からフィエスタを持ってきていたり混乱する最中、クライスラーは堂々と、うちのコルトは日本製ですたい!と胸を張って宣伝していた事です。その主張は日本車バッシング音頭を引率するアイアコッカが主幹になっても続きました。その矛盾さを指摘する人は誰もいなかったですけど。

クライスラーは初っ端から日本から持ってきましたよ〜と広告で自慢していました。まだその頃は日本製が高品質と言うハナシが広がる前です。自信あったんですね(まあその頃のクライスラーのキャプテイヴ・インポートが不治の病を抱える英国車や変態揃いのフランス車ばかりだったので。。。)


1980年代に入っても大きく漢字でデーンと、 ”高性能” 全米自動車製造組合の組合員等の神経を逆撫で100パーセントだったと思います。それでもクライスラーは日本製を強調。今となっては不思議ですね。大ボスが日本車反対の音頭を取るアイアコッカ氏だったんですから。


名前まで ”札幌” として日本製をさらに強調します。とは言っても当時、いや、今でもSapporoの意味を知らない人が殆どだと思いますが。。。ぼくはチャレンジャより白壁タイヤでステインレスの屋根帯の入った初期型の札幌の方が好きです。洒落てるう。。


二人のアジア系人を出し、一人がミスターT、一人がミスターD。お互いの製品だと勘違いしているのに気がつき、じゃ一体誰がこんな高品質で安い車を作っているんだ?と嘆き合う図。勿論ミスターTはトヨータ、ミスターDはダットサンの事を示してます。


こっちは本物のミスターT。日除け跳ね上げて走る無蓋車がステキ。


今じゃこんな広告、人種差別で絶対に訴えられます。当時はそれ程、アジア人は怖がれれ、敵対象になってたんです。でもポニャックのグランプリとセリカ、どう比べても格が違うと思うんですけど。。。。そういう当て付けみたいな無理な製品企画にデトロイトのどうしようもない危機感を感じました。(因みにコレ、オールズモビル製のジーゼル版もあった)


初めて使った側曲面窓、メッキの使い方。当時の広告代理店が素晴らしかっただけでなく、このセリカの格好は素敵でした。特にこの2扉ノッチバックは。確かCALTYのデザインだったっけ?



その政府、一般市民、労働者組合総出の日本車攻撃の勢いが少しずつ弱火になるきっかけが日本が始めた輸出自主規制でした。これも我が国政府の立場から、日本側から始めた自主的な動き、と言うのが売り物でこれで両者のメンツを有つ事が狙いだったらしいですが、兎も角1981年から日本からの輸入乗用車台数を1.68ミリオン台として始まり次第に枠数が限られ1984年には2.4ミリオンまで増えます。その輸入規制が実施されている時に我が国の自動車業界は技術的にも、労働者組合との契約も次第に向上し息を吹き替えし、日本車の輸入規制は1994年に終わります。その間、日本勢も指を咥えて見ていたのではなく、各社、輸出がダメなら現地に工場作っちゃえと、本田に習って各社、米合衆国各地、それも労働組合があまり強くなく、されど職難に悩む南東部、に工場、及びその部品系列工場を沢山建設します。と、同時に枠があるなら高利益車種の割合を増やして利益を確保しようと始めたのがレクサス、インフィニティとアキュラ。1980年代後半から1990年代始めのハナシです。

自主規制と同時期に例の鶏税を上手く回避していた小型ピックアップトラックも税制変更で現地組み立ての旨味がなくなり、よってGMはいすゞ製のLUVを止め、自製のS10コムパクト・ピックアップトラックを1982年に登場させます。自製とは言え、当時の藤沢工場では登場前のS10トラックが結構走り回っていたので当然開発にいすゞが関与していたんでしょうね。。

豪華版のトリムの名称が ”mikado” って言ってました。クライスラーと同じで日本バッシング恐れなかった?


S10、一部のエンジンと変速機はいすゞ製。それ以上に開発に藤沢が関与していたんだと察します。S10を元に小型商業車のアストロが生まれました。


実際には1990年代に入ってみれば人々は、自分の購入検討する自動車が何処で組み立てられていて、何パーセントの部品が何処の国から来て、なんて事を真剣に考える消費者は全く居なくなり、第一、1970年代は未だ輸入車を乗り回す事自体が今で考える程非一般的と言うか、白い目で見る人たちが少なからず居たのですが、今じゃ本田さんもオハイオ州工場操業から38年ですよ。ウチは親の時代から本田車に乗りつづけ、信頼できる家族の一員、だから今度孫が来る子供の家もシヴィックを買うんだと自慢する保守派家庭がフツーになった現状。世の中も変わったものです。同じ間隔で昔は6人乗りの乗用車って一定の貫禄ですか、独特の意味があったんですが、今じゃ4人乗り以上になると前席ベンチシートに仲良く3人座るんじゃなくて、小熊風情の多目的SUV車になっちゃうんで、何人乗りと言うより、座席が何列あるか、で判断するみたいです。6人乗りセダーン車。日本語で言う死語ですか。この前、学びました。

そうです、以前、6人乗り乗用車は購入判断の重要項目だったのです。


輸入規制はかかりませんでしたけど、日本車同様、現地生産になり、近頃はすっかり市民権を得た感じの南韓国車。フォードは提携相手の起亜自動車製造のマズダ121フェステイーヴァを売っていて、GMもキャプテイヴ・インポート導入中、手中にあった大字自動車製造、一昔前のオペル(米人はオペルの事を限りなくオーポーと発音します)の、所謂 Tカーの、カデットEを、何を間違ったのか、ポンテイアック・レマンズと名付けて売り出します。勿論、硬茹卵勢(マッスルカーファンのハードボイルドの人たちね)から総スカンを食います。ビッグブロックV8で駆動輪から白煙を上げて突進するマッスルカーの名前をポニャック(本当にこう言います)の一番廉価版に、それも韓国からの輸入車!それを知ってか知らずか、全国ネットでは無かったと察しますが、この大字製ポニャックのTVコマーシャルに、英国発の昔の流行歌、ミュージック・エクスプロージョンと言うグループの歌う、曲名、”Little Bit of Soul" と言う軽快な楽しい歌を使ったんですが、勿論、企画側、及び視聴者側が その Little bit of soul が本当は、Little bit of Seoul を言いたかったんだと今でもぼくは覚えているんですけど、そのコマーシャル、今となってはいくら検索しても出てこない。。。。。その大字自動車も今ではGMに捨てられて印度のタータグループの一員。

小さな心は小さなソウル。ポンテイアック・レマンズ。


南韓国でも大字レマンズで出てた様子。確かに90年代に仁川界隈で結構見た記憶があります。


こっちが欧州オペルのオリジナル、カデットE。


3扉ハッチバック、5扉ハッチバック、4扉セダーンがありました。


本家の3扉。ステーションワゴンは北米には来なかった。



時代は巡り巡ってもう直ぐ2021年。今じゃ輸入車を乗り回す事は完全に一般的になっただけではなく、昔からある愛国心溢れる信頼できるブランドにまで成長したのは大したもんです。勿論日本勢の血の滴る努力があった上での成果ですが、その努力に協賛、援助し、次第に自分達の文化の一員として受け入れた我々米国民もココロの変化があったようです。。。。

だから今の30代、40代の人に昔、日本車バッシングってーのが流行ってショッピングセンターで1ドル払ってスレッジハンマーでカローラを。。。。と言っても誰も信じてくれないでしょうね。



だから今、ピンク・レデイーを復活させたら結構流行るかも。。。。。

今日の一台。先日、ハレイーヴァに行った時、おお、往年のキャデラックじゃ、と近寄れば、ただ事ではない、これは、あのASC社改装のエル・デオーラと呼ばれたデーラーで買えた特装車。あの頃流行った、今で言う下品な言葉でピンプ・モビルです。この手の自動車はジェームスボンドの007シリーズ、Live and Let Die にフルサイズのシェヴォレイと共にワンサカ出演するので鑑賞お勧めです。この個体は先月キャリフォーニアから来たばかりで、陽気なオーナー、ぼくの興奮沙汰を見て座ってみな、座ってみなと勧められ久しぶりに座る運転台、20年ぶりかな。。。思っていた程大きく感じなかったのが新鮮でした。ああ、欲しい。

この前後のバランスの贅沢さ。


ついに扉まで伸びたパデット部。


このもちもち感(新米の事ではありません)とキャリッジバー。二段のオペラ窓


低く平たい、懐かしの運転席。嗚呼。涙。


もう満面の笑顔でシャカ・サイン。


締めは昨夜のロイヤル・ハワイアン・ホテル、通称ピンクパレス。創業1927年。カラカワ大通りから数フィートしか離れていないのに別世界。家族連れ、団体旅行の方達はお隣のシェラトンへどうぞ。此方は完全に大人の世界。言葉少なげに悶々と、かすかに聞こえてくる喧騒を聞こえないふりしてオーキッドの薫る暗めの回廊を漆喰の暗さに落ちていく海辺に向かって歩くと背中を押すように冷たい貿易風が台風の如きの風速で後押ししてくれ、人っ子ひとりいない海岸でふと頭上の椰子の葉を見上げると三日月が。いずれ戻る、世の中の喧騒が再開戻るまで、この束の間の時間、脳裏の隅に記録して起きませう。

このピンク色をケバいと思うか、南国を彷彿させるか。その辺でこの施設にあっているか、そぐわないか、が決まると思います。因みにピンク色の理由はハワイ特有の赤土の汚れが目立たない為です。同じ理由で陸軍トリプラー病院も同色に塗られています。






Posted at 2020/12/20 07:52:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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