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JetBoyのブログ一覧

2022年01月31日 イイね!

カトラス目撃!

カトラス目撃!









信じ難いコッテスガ、ふた昔前、このオールズモビル・カトラスは全米ベストセラーの地位を何年も維持していて、年間50万台!(1日で1,300台)を安定して売り捌いてた車種。物凄く一般的な車種で廉価版から豪華仕様、スポーテイータイプまで様々な仕様がありました。典型的な中西部、街中の一コマに溶け込む自動車。

それが今じゃ、カトラスを見かけると、よっぽどの好き者、カーキチ、珍しい自動車のを集める人、そんな車種になっちゃいました。



毎朝早朝の通勤で見かけるこのカトラス、ラジエータグリルがまだ垂直のダウンサイズされたAボデーの前期型。車輪や後軸を見ると、多分高性能に改造してありそうですね。



一度、昼間に駐車場ででもじっくり観察・撮影してみたいもんです。

初期型はセダーンがファーストバックの2扉4扉だったり、後席扉の窓がはめ殺しだったり、V8・350のジーゼルエンジンが選べたり、手動5段変速機プラス小さめのV6を合わせた経済仕様があったり、結構普通じゃなかったんですが、普通じゃなかったのはこの内装の注文装備でデザイナーシリーズと呼ばれる生地を選択できる事。それが原住民インデイアンのモチーフだったんです。おまけに2扉、4扉、ステーションワゴンにクープ、全車種に。大胆かつオシャレ、でも結構派手で殆ど注文する人はいなかったみたいですが、この内装を注文してずっと車庫に動態保存して30年くらい寝かせていたら、下手なワインより高価な値段がついたかもしれません。。。




これがモハーヴィ仕様。


もう一つはタホ仕様。




実車はかなり派手に見えますね。


今日の脱線。。。

全く関係のないお話。このメルセデス、何故に排気管が3つもあるの??


それはトランク内に装備されたヴァベストのパーキング・ヒーターの排気用なんでした。


24時間タイマー予約で事前に車内と冷却水を温められるこの装置。北欧では結構普及しているというか、商業車やらの長時間エンジンのアイドル運転が禁止されているので必需なんですね。寒い冬、汽車の駅バーノフへ行くと、乗合バスの後部からこの燃焼暖房ヒータから低いボーっと言う音を出して客待ちしているのを思い出しました。

Posted at 2022/02/01 16:17:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2022年01月30日 イイね!

東の風

東の風













ロシヤとウクレーンの緊迫した情勢をよそに、これは家にあった旧ソヴィエト連邦のVAZ社(ヴォルガ自動車製造)が作っていたラーダのキャタログ。販売店の住所がブラッセルになっているので、これもダッチ語?よく解らない語学で書いてあります。







ご存じ、共産国と仲が良かったイタリヤはフィアットの名車、1966年発表のオーソドックスなセダーン車の決定版、フィアット124の共産版。輸出名はシグネット、リーヴァとかノーヴァとか言いましたけど中身はほぼ同様。整った工具セットとか空気ポムプまで入っているのが興味深い所。クランク棒でエイやっと手動始動できたんですが(昔のダットサン510同様)改良型でバンパが大きくなってからはどうなったのか。燃料ポムプにレヴァーがあって、それを押し引きすると手動で燃料を気化器に送れる便利な仕組み。ぼくの古いシトロエンにもあったかな。長期間運転してなかった時に便利。







何回か以前にも書きましたが、北の隣人、キャナダは何故か昔から車種構成が非常に廉価な経済車を好むきらいがあり、英国連邦の一味だった事も現れて、欧州の廉価な自動車を導入していて、第二次石油危機勃発後の1979年、更に経済車を求む年に、矢張り共産国には優しいキャナダでロシヤ製ラーダの販売が始まりました。最初は安い価格を武器に結構売れ出し、特に四輪駆動の連絡車、ラーダ・ニーヴァは荒野の広がる寒いキャナダでは結構人気が出たんですが、それも束の間。品質も共産党労働者の作る製品ですから頗る信頼性が低く、運の悪いことに同時期にコリアンエヤ007便撃墜事件が起こり、販売数は激減します。それでも細々と90年代後半まで売り続けた後、消滅した模様。

キャナダのラーダ。白側壁タイヤ履かせて、共産党でもちゃんと気使いしてるのね。


廉価で利益の薄いラーダ車、ニーヴァもこれだけ注文装備つけないと、販売店の利益が上がらなかったんでせう。


面白い話として、当時、ソヴィエトでは自家用車を持てるなど余程の官僚かお金持ちの出来る話で、お金があっても共産党は平等に配当制ですから、ラーダを注文しても納車するのに3、4年かかるのはザラだったそうで、それならばとキャナダで売れ残り、在庫の余ったラーダを買い取りロシヤに送り返して販売し、がっぽり儲けた人達がかなりいたそうです。


1980年代、ソヴィエト崩壊前の共産圏、ラーダの成功を見て他国も同様を試みます。今はもう無いチェコスロヴァキアから来たシュコーダ。これまた共産国社会主義に友好的なフランス・旧ルノー公団の作るドーフィーンを下敷きに作られた後輪駆動車と言われていますが、本当なのかは知りません。これ、事実だったらシュコダは日野コンテッサと従兄弟関係だったのかも。一度、実地見聞して調べてみたい懸案です。

アメリカ大陸に来れば、皆、白側壁タイヤ。かわゆい。大きめのバンパ。サイドマーカーライトなどなど。


シュコダで有名なのは横に開く前部トランク。他に横開きのフロントフッドの車、何車種か知ってますけど、何が理由だったのかしら。


旧態化したシュコダにも前輪駆動の新型、フェイヴォリットが出ると、此方もキャナダ輸出を考え、北米仕様2,000台の注文に対し、1,000台を製造、キャナダへ輸出するも、政府の輸入検査で構造上での問題で引っかかり、無事路上を走れたのはたったの222台。不具合のあった車両は製造元での改善に限ると言うキャナダの法律に基づき全て母国に送り返され改造を考えられたもの、費用が全く採算に合わず、無事キャナダの地を踏んだ222台も利益の出る価格では売れず、最終的には半分は本国に送り返され、結局残った100台程度が販売店の手元に残るも、時を待たず、本家のシュコダ社は倒産、暫くしてチェコスロヴァキア国家自体が分離して消滅。


これも共産国だったルーマニア、デーチアの北米版。シュコダより販売台数は優ったものの、矢張り数年間で撤退。ピックアップトラックが面白そう。これ、ご存じルノー12の共産国版。結構最近まで独自に進化したモデルがターキーで生産されてました。大きなバンパ。定番の白側壁タイヤ。


ぼくがシカーゴのルノー屋で丁稚奉公していた頃、ルノー12の顧客は未だ数名居て、結構いじらして貰いました。1975年くらいまで輸入されていましたから、合衆国仕様のルノー12は本格的な5マイルバンパ装備されてたんですよ。これが重い。。


キャナダのデーチア。30年以上過ぎても、稀に売り物でる様子。。


ルノー公団は古い車種を外地生産及び製造施設技術を売り払いボロ儲けするのが上手で、ルノー12はブラジル・フォードに売り払われた後、フォード・コーセルとして長い間南アメリカ圏で売られてました。


外観は現代的に変わっても下を見ればルノー12由来、頭でっかちな、縦置きエンジンが前、トランスミッションが後の前輪駆動なのがバレます。考えてみれば1970年台のVWダッシャー・パサーとも縦置きエンジン前輪駆動でしたっけ。似てましたね。




イタリヤでミニの製造をしていたイノチェンテイもデトマゾ仕様がごく僅か、キャナダに来てましたね。合衆国の安全基準には到底適合できなかったでせう。エンジンは大阪発動機製。確かこの頃になると足回りもシャレードのを流用してたっけ。


ミニはミニで、キャナダへは1979年頃まで販売、バンパの高さが足りず苦肉の策を講じて何とか持ってきていたものの、これに乗ってあの広大な北米大陸を横断するなど、矢張り大都市でしか売れなかった、売らなかった?


ぼくの通ったハイスクールはキャナダの国境に近かったので、キャナダの生徒も何人か来てたんですが、その一人、何かの会社の社長のご子息、ブレントくんはたまに新車の空色のミニに乗って来てました。この頃になるとミニは実用性云々と言うより、流行性を追う自動車になっちゃったきらいがありました。記憶では結構な数が日本の業者に買い取られ輸出されて行ったとか。


ミニは限りなく本田のNに思想が似てましたねえ。。。。


本田の軽自動車といえば、水冷4扉の新型車、ライフ。これはオウストラリヤはシドニー近郊の販売店の広告。


合衆国では1年間だけ、電気自動車仕様が1,400台売られた以外は販売されず。キャナダでは普通に売られました。今でも。


荻窪プリンス自動車の傑作車、初代マイクラ。キャナダでは人気車。合衆国では販売されず。キャナダではこの代で販売は一旦終了、廉価版はメキヒコ製のB12サニー・セントラに代用されますが、後にK13型になり復帰。メキヒコ製。でも一昨年でしたけ、キャナダでのマイクラは再度終了。されどメキヒコではK13は継続生産。


帰ってきたマイクラ。でもコチラもキャナダでは販売終了。合衆国ではマイクラ、ついに販売されず。


メキヒコで続行生産されるマイクラ。ちょっとケバい。


おまけ画像。スバル。600。チリ(塵ではありません)仕様。彼方では結構売れていた模様。チリは古い日本製自動車の宝庫らしく、行ってみたいです。


前回の続き。最近何故かホノルルでよく目にする、旧ソヴィエト連邦の未だ一部だった頃のウクレーンにあったアントノフ航空機製造で作られてたAN12型機。フロリダ州のマイアミ近郊のオッパロッカにウクレーンのこの、アントノフAN12を使う使用事業者があって、一応連邦航空局の認可を得た運航をしていた模様ですが、今は不明。これは2014年頃の写真。


アフガニスタンを長く占領していたソヴィエト連邦。そのカブールで見かけた同じく、アントノフAN12。これも随分前、チャーターで行った際の図。


ウクレーンとロシア、早く仲直りして貰いたいです。


冒頭の画像は1959年にソヴィエト連邦首都で開かれたアメリカン・ナショナル・展示会に現れたクルシュチョフ書記長氏と当時副大統領だったリチャードニクソン氏。敵相手の合衆国とソヴィエトの友好を深めようとファッション、技術、芸術を紹介する為に行われた展示会(イサム・ノグチ氏の作品も展示された)。笑えるのはこれに対抗しようと、資本主義がいかに貧困を産むかと共産党がばら撒いたニューヨークはハーレムあたりの貧困街の写真。どうだ、ソヴィエト共産主義の方が遥かに幸せな生活を送れるだろうと見栄を張るのが中央局の魂胆だったらしんですが、窓から窓へ洗濯物が干されている貧困街の写真を見たソヴィエトの市民。目を見張りました。えっ、アメリカ合衆国は皆、一人一枚以上の下着を所持できるのか!と。逆効果。じゃーふえー。
Posted at 2022/01/31 07:13:23 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2022年01月29日 イイね!

憎むな 殺すな 赦しましょう 苗字の無いカプリー

憎むな 殺すな 赦しましょう 苗字の無いカプリー

















何処からか送られてきた航空貨物の写真。


多分ボーイング社の広報写真ですかね。機体は多分、鶴さんが初めて導入したB747の貨物型、B 747-246F、登録番号JA8123だと察します。1974年製造の機体、B 747の貨物機としては初期型、頭が開いて貨物の積み下ろしには都合が良い様には見えますが、機首の2階には操縦室があるので開口部の高さが8フィートに限られているので、高さ制限がかかります。操縦室から後ろは当然荷室の高さも胴体一杯高くなり、後方側方の荷物扉の高さが10フィートあるので、後ろの貨物扉があれば高さを効用できるので容積目一杯詰めます。でも長い丈の貨物は側方の扉から入れるのは90度に曲がる制限があるので、そういう時は頭の開くこの様な機体が便利です。もちろん機首と後方横側、両方にドアがある仕様なら一番便利なんですが、このドア、結構構造が重くて、確か頭の開く奴は8,000パウンドくらいだったかしら、機体重量が重かった覚えがあります。頭が重いと重心が前寄りになり、基本的には性能にはプラスにならないのですが、やはり便利に越したこたーありません。

面白いのはこの写真、手前に傾いた車両搭載ULDに自動車が3台、傾けて載せられています。この業界に30年いてこの形式のULDは実際一回も見た事がありませんが、1970年台初代の写真では何回か見た事あります。床面積を節約出来るので効率が良いわけですね。でも普及しなかったのは何かの理由があったのかも。さて、この立て掛けられている自動車、一体何なのかしらと頭をひねる事数十分。結構直ぐ判明しました。後輪前縦ニ個の空気取り入れ口みたいなのがヒントでした。これは1970年台、リンカン・マーキュリー屋が輸入販売していたキャプテイヴ・インポート、独国コロン製のフォード・カプリーです。フォード帝国の中でも主に高級車を扱うリンカン・マーキュリー販売店網(リンカンとマーキュリーは常に同義語みたいにいつも一緒に語られる、姉妹関係みたいな位置付けでした)で販売されていて、不思議なことに、カプリーの車名の前には、フォードとも、マーキュリーとも無く、ただ単に 
”カプリー” だけなのでした。

第一世代の車体、でも前後が大型の5マイルバンパになった1974年式。


なので車体にはフォードともマーキュリーとも書かれてなく、ただ単にカプリーとしか表示されていません。(北米版はフッドの先端にC A P R I と描かれたバッジがありますが、他の地の仕様はそれが F O R D になってます)。ちょうどこの頃が、安全基準法、排気ガス規制法、極めて不利になる変動相場制、石油危機による経済の低迷と、欧州から小型のスペシアルテイー車を持ってくるのには極めて不利な時代でした。


同じ様な環境下で将軍さんは、あちらも高級車種を扱うビュイック屋でオペル・マンタをビュイック・オペル・オペルとして持ってきていましたが、売る一台一台全て損出で1975年にはそそくさ北米から撤退、名前だけ同じで物はいすゞ製のジェミナイを欧州製スポーテイーカーから経済車として衣替えして売ってたのとは対照的に、カプリーは1975年(実質的にカプリーに1975年型は無く、再登場した時は1976年型)にカプリーIIとして改良型をもう数年売り続けました。そして1979年にフォックス車台のフォード・マスタングが出た時にマーキュリー版を、晴れてマーキュリー・カプリーとして発表。ややこしいです。

ビュイック屋で売られていた独国オペルのマンタ。他にアスコーナの2扉セダーンと2扉ステーションワゴンが選べました。


晴れて ”マーキュリー・カプリー” になったのはフォックス車台になってから。


どうしてこのボーイングの広報写真の車両が1974年型だと言いますと。。。1973年から始まった、例のバンパーの法律ですね。エクゼンプションを申請して導入遅らしていた車種も結構あったんですが、カプリーは1973年型、法律通りに前のバンパは5マイルの軽傷型、後は2.5マイル軽傷型、1974年は前後5マイルの軽傷型、そして1975年型から(カプリーは実質上カプリーIIになった1976年型から)前後頑丈型5マイルになっているからです。この写真の車両、まだ後輪前方に空気取り入れ口みたいな飾りがあるので、カプリーIIの前の奴で、後ろのバンパは既に大型の5マイル仕様になっているので、1974年型と解るのでした。このB747は1974年の9月に納機されていますから、年代的にも合点する訳です。

1972年型カプリー。前バンパ規制以前の小さい奴。


1973年型カプリー。前バンパ5マイル軽傷型の突き出た奴。


1973年型カプリー、後ろのバンパは2.5の小さな奴。


1974年型カプリー。前後5マイルの大型になっています。カプリーIIになる前の最後の年。


1975年をスキップして戻ってきたのはカプリーII。モデルチェンジで随分変わってます。これであと2年持ちこたえて、1978年は売れ残りの一掃販売、1979年型からは国内製、フォックス車台の新型に。


最初はケント2000ccの4気筒だけでしたが、北米の要望で独国フォード、所謂コロンV6も搭載。コロンV6を北米で使われた最初の車種がカプリーでした。フォードは同時期に英国製の通称エセックスV6と似たようなエンジン2種類持っていましたが、エセックスは短命に終わり、コロンV6は幅広い車種に結構最近まで使われていました。後期型には高級版の ”ギア” 仕様 (カロッツエリアのギアですね)もあり、普通版でも内装は豪華。いかにも法規改正対応の後付け的な巨大なヘッドレストが目立ちます。


ヘッドレストと言えば、ごく数年、北米に輸入されていたオーステイン・アメリカ(本名オーステイン1100)一般的に知られているADO16 (アマルガメーテッドデザインオフィス、総合デザイン設計)コヤツの初期型ヘッドレストがそれは巨大で、なんと2扉式(しか北米には持って来なかった)の後席へ出入りする際、前席の背もたれを倒すとき、巨大なヘッドレストが天井と干渉して倒れないので、いちいちヘッドレストを外さなければならないと言う、ケッタイな代物でした。。。

巨大なヘッドレストの輪郭が見えます。ブリテイッシュ・レイランド、北米総本山は例のニュージャージー州レオニア市。ローヴァーP6とSD1, トライアンフTR7とTR8、MG, オーステイン、ランドローヴァーにジャギュア。70年代北米英国車、悲劇の震源地でした。。。。1978年だったか、キャタログ送ってと手紙を出したら、レオニアから分厚い封筒にMG、MGB、TR7などのキャタログ沢山が送ってこられ感激したのを今でも覚えてます。




機内を後尾から前方を眺めると一番前の天井が下がっているのが分かります。あそこの高さが8フィート、そこを除けが機体殆どが10フィート以上の高さです。左の黄色いロープがかかっている場所がカーゴ・ドア。ドアの高さは10フィート。


機体後方側方のドア、高さが10フィート。このドアの高さのお陰で荷物パレットは大抵10フィートの高さで作られ持ってきます。これは成田機場、東日本大震災の援助物資を運んだ時。


横ドア式なら二段階式車両運搬パレットも余裕で運べます。これはマーキュリーじゃなくて、”フォード” クーガー。北米ではマーキュリー・クーガーとして売られていましたが、全く売れず。


全く関係の無い画像。画面中央下の真円形の物は、昔ユニロイヤル・タイヤの試験場だった所。キャリフォーニアはモハーヴィ砂漠の西側にあります。ここら辺は空軍のエドワーズ基地があり、常に試験飛行などやっている制限区域で、この辺りを通過できるのは珍しい。。


普通滑走路の中心線などは白が規定なんですが、何故か北海道はオレンジ色。これは新千歳、面白い事に新千歳空港は軍用千歳と同じ敷地にあるのにあちらの滑走路中心線は白。まあ雪の深い所なので見易くするのが目的なんでしょうが、寒い所で、スウェーデンのストックホーム・アーランダ機場に行った事がありますが、あそこも白線でした。。


あっ、カトラス!朝の通勤でたまに見かける車両。


あっ、ポーシャのボクスター?この年代なら多分フィンランドのサーブ組み立て部門、ヴァルメット社製かな。。


オアフ島北海岸、ワイルーアにあった製糖工場跡にて。ここで珈琲焙煎するお店があってそこで求める地元産チヨコレイトが非常に美味しく、カカオ70%のがお気に入りで、何故かほろ苦いのに後味に微かな酸味がの頃のが絶妙。でも高価なのでちっちゃい奴しか買えない。。その方が良いのかも。笑。


久しぶりに乗合バスに乗って定期検査と車検に出していた自動車を販売店に受け取りに行きます。オアフ島乗合バスはやっとカード式乗車券に。ホロカードと申します。


販売店に展示されていた最新型コーヴェット。写真で見るより実車は小型ですね。
真っ赤なコーヴェット。中年のチムにデージ響きます。車体一番前、アゴ下のスポイラを映し出すキャメラがあってスポイラ擦りそうな場面を事前に計器盤で見られる上、そう言う状態には車体前部をヒョイと上げられる技も備えているだけでなく、その場所をGPSで位置登録出来、次回同じ場所に戻れば自動的に車体前部が上がると言う、凄い機構。


この値段。宝くじでも当たればね、でもぼくには似合わないかも。。


去年の夏頃から見かける時代物のプロペラ機はソヴィエト製のアントノフ機、ウクレーン登録。今、ロシアと戦争直前まで行っている、あのウクレーンですよ。何故か同じ塗装の2機体制でメキヒコ、テキサスからホノルル経由してアジアのヴィエトナムあたりまで行ったり来たり。離陸時、黒煙を噴きながらゆっくり登っていくのを見て大丈夫かと思えば数週間後にはまた戻ってきます。


プーチンさん、月光仮面に習いましょう。


冒頭画面、アウデイ車の媒体発表会をラスヴェイガスで開催した際、弊社がキャリフォーニアまで運んだ時の図。
Posted at 2022/01/30 19:57:40 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2022年01月23日 イイね!

1987年型 スバル車 キャタログ

1987年型 スバル車 キャタログ家に転がっていた資料から。

1987年型スバル、3扉車のキャタログ、販売店の住所が昔、よく通っていたブラッセル機場のあるザヴェンテムになっています。ベルジャム仕様ですね。

公用語が3つもある国。これは多分ダッチでしょうか。ぼくにはチンプンカンプンです。

でも印刷は日本。

四輪駆動は過給器仕様の1車種だけに限られていた様です。

ご参考までに。

 







Posted at 2022/01/24 15:39:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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「津波警報 盆ダンス et al. http://cvw.jp/b/1945280/48590822/
何シテル?   08/10 06:11
I'm JetBoy. Nice to meet you. 実家は西キャナダ、住むのは米ハワイ州オアフ島、家族は香港と日本の、日系アメリカ人です。多分...
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