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JetBoyのブログ一覧

2022年04月18日 イイね!

アーニー・パイル

アーニー・パイル










今日はアーニー・パイルの命日です。

アーニー・パイルとは第二次世界大戦時の軍属記者で、一応陸軍に属していましたが、主に戦場の人間ドラマを親しみやすく記する優しい記者で、全国で非常に有名になりました。

その彼が沖縄戦に行き、77年前の今日、第二次世界大戦中、面積において最多の爆弾が落とされた伊江島で命を落とします。沖縄戦が始まって間も無くでした。

これが伊江島。本部町から渡し船で行きます。


彼の死を悼んで戦後、各地の映画館がアーニーパイル・シアターと名付けられ、那覇市では國際通りの現在のテンプスにあった劇場がそうでした。

そのアーニー・パイルの遠い親戚が以前一緒に飛んでいた同僚のクリスさんでして、次回スケジュウル組んで、沖縄でレイオーヴァーの際、伊江島のアーニー・パイル記念碑を一緒に見に行こうと約束しながら、暫くして会社は倒産。その後風の便りでクリスさんが他界した事を知りました。ぼくとそんなに歳は違わなかったんですがね。




数年後、仕方ないので自分一人で伊江島に行って来ました。。。約束だけは果たそうと。

伊江島は真っ平ら。綺麗な砂浜がたくさんあります。



流石、海兵隊が管理しているとかで綺麗な記念碑でした。





アーニー・パイルは前線に行く前、最後に住んでいた場所がニューメキシコ州アルブカーキーとかで、以前アリゾナとコロラド間を往復していた時に、此方も見に行きました。現在は歴史指定建造物で図書館として利用されていました。



お墓はホノルル市内にあるパンチボウル、国立太平洋記念墓地に祀られています。


使い尽くされ余りインパクトを失った言葉ですが、戦争は本当に残酷です。
Posted at 2022/04/19 16:14:50 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2022年04月17日 イイね!

バスの旅

バスの旅先週から国営放送、朝の連続番組、チムどんどんが始まりましたね。同じ家族なのになぜか皆、発音が違うのが気になりますが(笑)、流石、山原の風景は素晴らしいです。まあこの手の企画としては上々の始まりと感じます。中でも驚いたのが、あの懐かしいGMCのバス、通称フィッシュボール(金魚鉢)が出てきます。一体何処から調達してきたのか、まさか合成画像?1960年代のヤンバルに当時としては新しい金魚鉢の大型35フィート長乗合バスが走ってたかは分かりませんがそれこそ、あきさみよ〜です。一応年代的には合ってます。





ちらっと見えるのは1964年式シェヴォレイ・インパーラ?


この金魚鉢、またの別名をGMCのニュールック・バスと申しまして、当時としては画期的な新型バスだったんです。まあその前走っていた ”オールドルック” のバスが戦前からのバスを改良しながら使っていたので当然かもしれませんが、1959年に発表されたこのバス、金魚鉢のあだ名は6枚に分かれた前窓の中央が前に反り出していて金魚鉢みたいだからです。以前の ”オールドルック” のバスの3倍の面積になった前窓に角度を付けたのは、光などが反射しない為と優れた視界確保からですが、外から見るとシワを寄せたおバーみたいでとても愛嬌がある形です。



 

この金魚鉢は結局20年間生産され、60年代と70年代の北米の風景を象徴する様な形になりましたが、1994年配給の大ヒット影視、”SPEED” でサンドラ・ボーラックとキアヌ・リーヴスを上回る主役で世界中にその印象を裏づけたのが記憶に残ります。






金魚鉢ニュールックの前は、当然 ”オールドルック” と呼ばれるバス、戦前からの製造でしたが、ニュールックが出た後も1960年代後半まで製造されていた様子。ヒッチコックの ”North by Northwest” (北北西に進路を採れ)の中で、ヒッチコックは作品の中に必ず自分がカメオ出演するのですが、North by Northwest では、作品初頭に1959年のマンハッタンの忙しい場面が次々と出る中、バスに乗り遅れる太ったおっさんが、よく見るとヒッチコック自身、その出発してしまうバスが、金魚鉢の前身の、”オールドルック” 型バスです。








この金魚鉢が真っ盛りだった頃のGMCは飛ぶ鳥を落とす勢いの商業車の固茹卵(ハードボイルドね)集団で、業界を引っ張る最先端の商業車で元気が良かった頃です。例のGMCのモーターホームもそうですが、1970年代初頭に連邦政府が誘っていた、新時代のバス輸送構想に参加して、GMCが出展した未来のバスのデザインなんかがGMCのモーターホームをほぼ、同じ時期として似ているのは偶然ではなかったみたいです。

これがGMが連邦政府のコンペに出展した未来のバス。





その新時代輸送構想にGMCが提案したバスはターバイン・エンジンを原動力とし、未来的な外観を持つ今でも斬新なバスでして、まだ高床式の車台ながら初めて、乗降口のある前方右側の車高を、膝を折り曲げてしゃがむ様に下げる、”ニーリング” 機構を持ち乗降を容易にしていました。ターバインの原動力(ジェットエンジン)は1960年代、自動車やらトラック会社各社が研究開発没頭していた技術で、クライスラーは実際、限定的ではありましたがターバイン・エンジンで走る自動車を販売しましたが、当時の技術では未だ色々問題があり、ターバイン駆動に適するのは大型の商業車でして、GMも戦前から航空機のターバインエンジンを製造する大企業、アリソン・ギャス・ターバイン部門を傘下に持っていましたから、数種の商業車にターバイン・エンジンが積まれ研究されていました。

ターバイン駆動の前提で考案されたと思われるGMトラックの未来図。




シェヴォレイ(GMCではない!!)のターバイン動力の未来トラック、ターボ・タイタンIIは実際に試作されました。


この新時代輸送構想は何の成果も出せず結局終了したのですが、応募した3社、GM、ローア企業(後にグラマンに吸収される)とAMジェネラルの内、GMとローア社は提案した試作車をハッテンさせ新型バスとして登場させます。




そのGMが出したのが、ブッタまげる程、夢物語の試作車から、殆どど変わっていない感じの新世代のバス、名付けてRTS II (ラピッド・トランジット・システム)なぜ II=2代目かと申しますと、政府に提案した試作車が初代のRTSだったからです。



このやんばるを走っていた(ホント?)GMCの金魚鉢からは想像もつかぬ程近代的になったRTS-IIは、1977年から納車開始。実際の車台は高床式金魚鉢の車台を流用し、金魚鉢の床がが32インチ高だったのがRTS-IIでは若干低めの22インチに (って言うか、当時は低床式のバスなんて誰も考え付かなかった)改良された程度。



原動力は残念ながらターバインではなく普通の2ストローク・ジーゼル。この未来的な外観は流線型で、スムーズな外板はガラス繊維強化樹脂をパネル化して構成され、ぶつけた際そのパネルを交換するだけで容易に修理可能、そのパネル自体がアクリリック樹脂の皮膜塗装がされていて、汚れに強いだけでなく落書きを殆ど寄せ付けない工夫が凝らされていました。因みに客室側窓もアクリリック樹脂製です(現在のバスは大概同じですね、でもよくイタズラで傷を付けられると修理できない)。膝を折る ”ニーリング機構” が本採用されたのもこのRTS-IIが最初で、乗り口は最低13インチ高まで下ろせますが、ずっと後に車椅子で乗降出来る事が必須になると、車体中央の扉にリフトを設置する事になります。




この新型バスをぼくは子供の頃、ニューヨーク市で心待ちに待って心が湧いたものですが、実際は余り評判良くなく、矢張り新機構や斬新なデザインで犠牲になった実用性やら信頼性が問題になり、GMCは大型トラック部門を後日売り払うのと同じく、RTS-IIを含む大型バス部門を1987年に売却してしまいました。それでもしぶとくRTS-IIは売却先の企業で製造及び維持供給され結局最後に作られたのが2007年、大改造し低床式にまで進化したものの、既に原型を止める訳もなく未来のバスの未来が終わってしまいました。

これはGMC売却後、改良され乗降扉が幅広になる新型。


製造権を売られた会社がまたひっくり返り、有志が集まり製造続行、でも此方も倒産。試験的に低床式に大改造された試作車が出ますが、資金不足で頓挫。結局RTSシリーズは2007年が最後でした。



RTS-IIの問題の一つは冷房装置でした。乗合バスの冷房化は金魚鉢が出たずっと後、1970年代中盤からの記憶ですが、当然RTSーIIも冷房装置を最初から装備配慮されていたのですが、機構過熱の問題が深刻になり、結局あの特徴的な傾斜した後窓(実際はパネルで窓ではなかったみたいです)の傾斜部分に巨大なコンデンサを背負わせて美しい外観を大いに損させざる得ませんでした。



おんぶする冷房装置も数種類ありました。外観を大幅にスポイルされてます。





序でに記するのはRTS-IIが納入されるも不具合が発生していた頃のニューヨーク市、先記の連邦政府新時代バス構想に参加したローア企業・グラマンのフレキシブル・バス870型を大量導入を1979年でしたっけね、するんですが、数ヶ月でフレームの欠陥が発生し出し、何百台の車両が運行不可能に陥り大問題になりました。フレキシブル・バスとは米国老舗のプロフェッショナル車両を製造する車体架装会社の一部門でして、別にフレームがくねくね曲がるからフレキシブルなのではなく、最初に作った製品は二輪車に付けるサイドカーをフレキシブル(曲がる)マウントを使い二輪車にくっつけた所、非常に成功したので、フレキシブルと言う社名が付いたのです。そのフレキシブル社が航空機部品製造のローア企業が買収、それをこれまた航空産業にも深い関係を持つグラマン社が買収。その時に起きたバスのフレームのひび割れ欠陥事件でした。ニューヨーク市はフレキシブル・バスが使えず、ぼくはマンハッタンで待てど暮らせどバスが来ない。。代わりに此方も出たてのGMC、RTSーIIを酷使、するとこちらも故障の連続で大訴訟になりました。。。

フレームの亀裂問題で大騒動になった、グラマンのフレキシバス。外観とは裏腹に高床式。



米国内のバス製造産業は結局、欧州、及びキャナダ勢らに吸収、合併などが続き現在はどうなっているやら自分でも混乱します。

やんばるで乗合バスに乗った事はないのですが、沖縄のバス、郊外に行く線は通常、整理券を受け取り、乗車距離により運賃が変わるのですが、乗り込む際、目的地方面により停留所が同じでない事があったりします。それよりウチナーなのは、糸満辺りで停留所付近を歩いていると、高い確率で乗合バスが近づき、外部PAで、乗りませんか〜と呼びかけてくる事があります。運転手さんもたまに、思い出した様に観光さん達が乗車していると、次の停留所は、と流れる録音テープの合間に、突如観光案内などを車内放送してくれたり、お客さんもお客さんも和気藹々の雰囲気が多く、通学の子供らは乗車すると運転手さんに皆、挨拶したり。特に郊外へ走る路線は東陽バスが一番独特の運転手さんに遭遇する割合が高いのが経験です。でもぼくが以前通っていたコザから那覇行きのバスはずっと現代的で少し、寂しかったのを覚えています。。これも近代化、時代の流れか。

香港に住んでた頃はバス出勤。特急列車の方が速いですが、空港バスの方が断然安く、イタリヤ製革張りの座席、無線電網、今や電源も取れて、二階席は見晴らしもよくお気に入りでした。


ずっと昔の旧正月、お姉さんの家で夕飯食べた後、ワンポア・ガーデンを歩いていたら群衆に出会いました。違法駐車で曲がり切れなくなったKMBのバス。


ここいら辺、道はそんなに狭くはないんですが、駐車禁止の場所に停めるとこういう事態に。。。違反者はトヨタ・カリーナII。


香港はモーターサイクルのお巡りさんが直ぐ、すっ飛んできます。


騒ぎを聞き付け違反車の持ち主が現れ、結局注意だけで逃してもらった様子。お正月ですからね。観客も笑顔。一件落着う〜。


香港のバスは日本電装製の特別冷房装置が付いているので、冬でも冷蔵庫の方が暖かい程、強力に冷えます。香港人は何故か冷房機は空気を浄化すると信じ込んでいて、温度を下げれば下げる程空気が浄化されると、真冬でも冷房をガンガンいれます。


独国ネオプラン社製のユーロライナー。格好は良いですが、よく壊れる。
Posted at 2022/04/18 07:19:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2022年04月14日 イイね!

イタリヤ・デトロイト、コンヴァーチブル

イタリヤ・デトロイト、コンヴァーチブル

1970年代、排気ガス対策、燃費向上と安全性の三重苦に追い込まれたデトロイトの自動車産業。その犠牲になった一つが屋根の開く形態、コンヴァーチブル車でした。あの頃、コンヴァーチブルは大型車なら大抵選べて結構普通にありましたが、購買層が今、考えてみると掴みにくいと言うか、どう言った客層に好まれていたか思い出せないんですが、矢張り太陽をさんさんと浴びて椰子の木なんかを背後にゆっくり駆け抜ける南加州、またはフロリダ州辺りが最大の市場だったみたいです。因みに我が州、ハワイでもさぞかし皆、コンバーチブルに乗っているかと思うと全くその反対で、この暑い日差しを浴びてこれ以上日焼けしながら暑い中運転するなんて考えられないし、保安上の関係もあって、当地でコンヴァーチブルに乗るのは殆ど観光客だけです。不思議な事に欧州では南より北欧に近い方がコンヴァーチブル形態を好み、寒くても少しでも日が差すと目一杯白い肌に太陽光を当てるのが好きみたいです。

そのコンヴァーチブル、1970年代に何故廃止に追いやられたかと申しますと、吹き荒れていた安全性規制での新しい法案が次々に出てくる中、次は横転時の安全性に問われコンヴァーチブルが禁止になると、一体誰が何を根拠に言い出したかは知らないのですが、まあ兎も角デトロイトはそれを信じていた傾向があり、時期は丁度、大型車のダウンサイズを考えていた頃ですから、常にオマケみたいに余り売れない車種ですから、いっその事やめちゃえと知らない内に車種整理が行われ、一般大衆が買える、スタンダード・サイズのGM車のコンヴァーチブルも1975年が最後。シェヴォレイのフルサイズが450,000台くらい売れたその1975年にコンヴァーチブルの生産台数はたったの8,349台、全体の1.9パーセントに過ぎませんでした。

電視番組、ブレイデイ・バンチに出てくる1975年型シェヴォレイのコンヴァーチブル。ホント、ちょっと裕福な中流階級の家庭なら家庭の奥さんが乗り回しても全く不思議じゃない世の中でした。



そしてGM最後のコンヴァーチブル(まあ後で復活するんですが)が1976年式のエルドラード。最後のコンヴァーチブルと言う事で非常に話題になり、その年のエルドラードは総生産車数の30%に当たる14,000台が作られました。キャデラック社は声明を出して、幌屋根を作る会社が既に多数撤退しており、2年間かけて集めたのが14,000セット、もっと入手できたらもっと生産できたんですけど、残念でしたと。この幌屋根製造会社とは有名なあの、ASC社でした。

最後のエルドラード・コンヴァーチブルのラインオフ。



最終生産車はGMの博物館に送られ、わざわざヴァニテイープレート登録されその番号が ”LAST” 丁度バイセンタニアル(独立200周年の記念行事)の翌年だったので、Stars And Stripes 絵柄のミシガン・プレートが素敵でした。



されど連邦車両安全基準法ではコンヴァーチブルの禁止は結局成立せず、各社も第二次燃料危機の真っ定中、しばらく様子を見ていて、細々とキャデラックなんかも再度、コンヴァーチブルの受注を受け出したんですが、これらは量産ではなく、コーチビルダーが架装する、まあ又、ASC社だったりしたんですけどね、少量生産で余り普及しませんでした。それを脇目に見ながら突進してたのはあの古いメルセデスのW107系です。その時点でいい加減古臭い機構だったのですが、選択種を失った裕福層はこのSLを結構好み一定の数が売れていたのでした。あの押し出しの凄いエルドラードから乗り換えてもメルセデスなら一応メンツは多少持たれると。。

先日見た素晴らしい状態のW107。内装から察すると1984年か1985年式。フェンダのクロームのトリムと銀めっきされた車輪を除けば完璧ですね。このV8は一列のタイミングチェインとそのガイドが弱点。交換するのが凄く面倒です。




これは随分ヤレた450SL。このフェンダの銀メッキのトリム、一時期凄く流行ったんです。あれだけ銀めっきてんこ盛りのメルセデスをもっと強調したかったんですかね。車輪もメッキが流行りましたけど、メルセデスから公式に車輪メッキするなと通達が出てました。空気が漏れるらしい。。


個人輸入の珍しいアルミナムのケミカル・ミリング・ボアのエンジンの500なのに、フェンダの銀メッキや下げた車高やら車輪などで株が下がります。ガラが悪い。



80年代に入り安全・公害・燃費の問題が少しは軽減し始めた頃、キャデラックは第二のダウンサイズで大失敗を犯し、リンカンだけでなくその頃伸びていた輸入車勢、特に欧州の高級車に完全に負けてしまい、また危機に立たされます。

以前も書きましたが、自動車会社が危機にさらされると高い確率で経営陣は全く会社を救えないニッチな高級車、 ”ヘイロー・カー” を出したがるんですが、キャデラックはアランテと名付けた(合成名、この名称意味は無い)2座コンバーチブルを作る計画を立てます。一番の目標は打倒、メルセデスSL。前輪駆動のV8にイタリヤはピニン・ファリーナの車体を載せ製造・組み立てはデトロイトとイタリヤ両方で行い車体を専用のボーイング747機で輸送すると言う壮大な計画。経理の人たちはさぞかし恨めしやと呟いたんでしょうね。初期の車体雨漏りから始まって電装系やらの不具合。高価格。我が国では控えめ過ぎる格好など、販売台数は目標には到底足りず。それでもへこたれず7年間、改良を続け、最後に積んだ世紀の欠陥エンジン、ノーススターV8だった事もあり、忘れたい夢の如き、アランテ計画は終了。

例のアランテ輸送大計画。


欧州デザインでもこのような背後に置くと完全に米国車に見えますね。


アランテはその為に建設された、北イタリヤ、トリーノ郊外の田舎町、サン・ジョージ・カナヴェーセと言う村に工場を建て製造したんですが、1993年にアランテ計画が終わった後、ピニン社は様々な受託製造をしていたんですが、10年くらい前に工場閉鎖。あの頃からピニン社は傾き始めあちこち工場を随分閉じ始めてました。。






ピニン・ファリーナ社とキャデラックは結構昔から関係があり、1959年と1960年だけ、エルドラードの4扉をイタリヤのピニン・ファリーナに製造委託。デトロイトの工場稼働に余裕がなかったからと言うのが理由でしたが、やはり品質に問題があったのとコストの兼ね合いで普及しませんでした。


1961年に出展されたキャデラック・ジャクリーン。ジャクリーンはケネデイ大統領夫人から名をとっています。1960年代の日産セドリックとプレジデントに似てますね。。。


計器盤も昔のセドリックに似てます。


同じ開発責任者は後日、XLRと言う似たような2座コンヴァーチブルを、今度はC6コーヴェットを元に宿敵相手、メルセデスのW129の対抗馬と考え再度、ヘイローカーとして出すのですが、此方も呆れる程品質が低く、ノーススターエンジン不具合も手伝いたったの5年で消え去りました。

同時期にクライスラー再建を見事成功させたリー・アイアコッカ氏は、故郷イタリヤのアレハンドロ・デ・トマソ氏と再び意気投合。以前はアイアコッカ氏がフォードに在籍していた頃にデ・トマソ氏のパンテーラをリンカン・マーキュリー屋で販売したのが最初、今度はクライスラーに移ったアイアコッカ氏は、当時マセラーテイを保有していたデ・トマソ氏に豪華2座のコンヴァーチブル車の製造を提案。

同胞意気投合のデ・トマソ氏とアイアコッカ会長。



その結果生まれたのがクライスラーTC by Maserati。事実上Kカー車台のダッジ・デイトナに過給器付きの(過給器は石川島播磨製)四気筒、三菱製のV6やらを載せ、豪華な内装を得て、イタリヤはミランにあった、マセラテイ傘下だったイノチェンテイのランブレッタ工場で組み立てられ出荷。3年間で製造された数はたったの7,300台。製造開発経費を考えると一台につき数十万円の損出だったそうですが、これまた最大の仮想競争相手は相変わらず、メルセデスのSLでした。

いつもホノルルの中華街で見かけるクライスラーTC。後のバンパをぶつけられちゃった様子。可哀想。


イノチェンテイが持っていた(いやその逆?)ミラーノ郊外のランブレータ工場、ここでクライスラーTCが作られていました。ご存じデ・トマソ氏の没後、会社は傾き工場も閉鎖。


現在の様子。


イタリヤの自動車工場は流石に面白く、1995年にアリタリアの受託運航していた際、よくトリーノに泊まりましたが、あそこにはフィアットのリンゴット工場があって、自動車を組み立てながらラインは階上に動き屋上にはテストコースがあるという画期的な構造。

フィアットのリンゴット工場。屋上のテストコースが凄い。




組み立てが終わるにつれ上へ上へと行ったんですね。



メルセデスW124を基本に新設計されたW129、新型SLは例の魔法の後輪独立懸架、樹脂多用の軽量化、1968年登場のW114を元に作った先代SLは1971年から1989年まで作られたので、末期は完成度が頗る高く、かつ昔のメルセデス気質を保っている貴重な車だったんですが、光り物を控えた空力ボデーの新型W129も中々魅力的、特に一番軽い300SLは良かったのですが。。。。



後日判明した技術問題の数々。1990年代メルセデスが使っていた環境性に良いとされていた生分解性の高い電気配線網、10年も経つとあっと言う間に樹脂の皮膜がボロボロになりありとあらゆる警告灯が灯り電子・電気系の悩みが次々と現れます。あっちを直せばこっちが壊れと。それに輪をかけた問題が油圧で作動する幌屋根で、総計12本だったかしら、油圧のシリンダのシールがこれまた10年経たずどんどん圧力に耐えられなくなり漏れ始め、シリンダの一つを交換すると次に弱いシリンダが漏れ始めての泥沼化。対策部品の部品番号が猫の目の様に色を変えても結局問題解決されず。この悩みは次世代の畳格納式屋根のモデルにも受け継がれと。。。




そのW129の報道向け発表会がポーチゴのエステリル・サーキットで行われた際。日本から招待された男女の記者2人。速度の出し過ぎで車両が一旦ジャンプして地を離れます。緩い下り坂、目の前には急カーブが迫っており、慌てた彼女は車両が接地前に操舵を切り、着地後車両はひっくり返りそのまま滑走。車両は大破。乗員2人は流石メルセデス。かすり傷だけで転がり下りてメルセデスの安全性を身をもって証明したとか。メルセデスは凄い度胸で大破した車両を報道陣に公開。急激な減速がなかったのでエヤバッグは作動せず。例のロールバーは瞬時に展開。Aピラーも強靭に曲がるのを拒み、ほぼ設計が正しかったのを証明された形になったとか。英国の権威ある雑誌、Car のイアン・フレーザー氏の記事が頗る面白かったのは、1989年のハナシ。


それでも皆、メルセデスの真似をしたかった。。。








アイアコッカ氏は引退後、電動自転車の会社で何やら働いていましたね。時代先取り。




夜のカリーヒ地区で見たメルセデスの219。確かモデル末期に数年だけ作られた元祖Sクラスの短い奴、6気筒。この時期のメルセデスはスチュードベーカーが販売してたんでそれも不発の理由だったかも、兎に角余り売れなかった。ぼくはこの ”ポントウーン” 型の短い奴、190dbって言うジーゼル4気筒を一時期いじってた事がありました。




夜の超級市場でおお、カトラス。それに442!今としてはこのミッドサイズ車も小さく見えます。


改装終了で開店した北海岸、タートルベイ・リゾートにあるミニ・モーク。でも電動。


通勤途中で見た日産アトラスのトラック。最近日本からの中古車が非常に増えてます。
Posted at 2022/04/15 17:44:14 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2022年04月10日 イイね!

比較して納得

比較して納得














フェアラーリより速い2CV。2CVの最高速度は時速71マイル。フェアラーリ・モンデイアールが65マイルで走っていたら、2CVの方が速く走れる!

2CVとロールスロイス・シルヴァースピリット。なんと車輪の数は同じ、でも価格はうん10倍!

ポーシャ911より広い荷室!

やっぱり2CVね。



1977年にGMの一番ポピュラーで基本的なフルサイズ、Bボデー車がダウンサイズされフルモデルチェンジした時。様々な事情でGMより普通車の小型化、と言うより効率化をするのが遅れていたフォードとクライスラー。クライスラーは単純に倒産の危機が近くダウンサイズなんて贅沢な事考えている余裕は無く、フォードは2年遅れで普通車の衣替えを計画してはいたのですが、皆、GMの新型Bボデーがこれだけ成功するとは想像出来無かった様で、後から追う者、大パニックになります。

その際、フォードが出した苦肉の広告。Cボデーのキャデラックを槍玉に挙げ、ウチのLTDは、一番大きなキャデラックと同じ大きさ(でもダウンサイズされたキャデラックですよね。。。)なのに価格はダウンサイズされたシェヴォレイと同じ!と。ダウンサイズの相手にサイズと価格で挑戦しようと言う話。当然の事ながら、古めかしく見える様になったLTDの販売数は下落の途を走るのでした。。。



営業の人から言われた言葉で、真横から車体を撮影して印刷物に掲載するのは、余程デザインに自信がないと出来ないと。。昔のヴォルクワーゲン・ビートルやら1970年代の本田車がそれに当てはまりましたが、このダウンサイズされたシェヴォレイもそのプロポーション、伸びやかなライン、綺麗な線に鋭角に折れ曲がった後窓、破綻のない格好が堂々としています。これだけの寸法で2扉の贅沢さ。因みに此奴は廉価版のインパーラ。



フォードも負けちゃいられません。ダウンサイズしたLTD。撮影角度、背景がとても似てます。オペラ窓の後ろの横長の飾り、前半分の文字が描いてある所だけ、ほのかに光ります。



ダウンサイズされたシェヴォレイのカット・アウェイ図。これは未だ初期型なのでフルサイズのスペヤタイヤに全窓の昇降機構はパンタグラフのレールとローラーの機械式。1980年の大変更で窓の昇降は穴の開いた樹脂のテープで上下させる簡易式に。重量削減の為です。



因みにこの樹脂テープで窓を上下させる機構はGMが考案した物で、特許は1998年に失効しています。


後を追うフォードも似たような構造図で対抗します。昔からフォードの普通車は燃料タンクが後車軸の後ろに縦置きに配置されるのでトランクが異様に深いのが伝統。でもそのお陰で後日、クラウンヴィックの警察車が追突されると懸架装置のブラケットの一部が燃料タンクを突き刺さる位置にあり火災に発展する事が判明し、大騒ぎになりました。。。



もっと露骨に比較するのが好きだったのはAMC。アンバサドーとロールスロイスのシルヴァーシャドーの比較。いくら何でもチョット厳しい。。。


ロールスロイスより静かだから、一応フォード車も検討して下さいと。。。クラウンヴィック、じゃない、まだLTDと言われてた頃の話。


ビュイックのルセイバーからヴォルヴォ245にダウンサイズされた主婦。自分の以前の写真と現在の写真を比べて、1,000パウンズの脂肪を減らす事が出来たわ、と言うのは自分の事では無く自動車の事よ、と。。。


ヴォルヴォのターボ・ワゴンはまあ、基本的にはこの様にお考え下さい。黒塗りのランボーギーニ・クンターッシュ、ちゃんと正規輸入版になってますね。エライ。


比較して何でも自分が一番だ、と言うのが最良の案でないと問う広告。スバル、カローラ、ダットサンにVWラビット。商品比較で2位だったビュイック・オペル(いすゞジェミナイ)も良いですよ、と。でもこの広告のお陰でVWラビットの販売台数が随分増えたとか。。。


比較する車が冴えなかった。。。VWダッシャー(パサート)。  でも比較された車はもっと酷かった。この頃ポンテイアックは輸入車との経済性比較を毎回出してました。



フォード・グラナーダは執拗にメルセデスとの比較を展開してましたね。まあ実際の所、全然比較の対象にならない車種なんですが、でもそれを主張する理屈が結構面白かったりして。それにグラナーダは開発時、寸法をメルセデスのW114を目標にしていたと言う話でした。これ宣伝に使われたのはクープ版のSLC。1980年代初頭で廃止になりました。フォードは興味深い事に、2扉のクープやらは窓のフレーム桟を残すのが伝統と言うか非常に好きで、このグラナーダは勿論、フォックス車台に移行したマスタングも窓のフレームは残されていました(Tバー屋根仕様は除く)この点、GM系は皆フレーム無しのスッキリした格好。


モデル末期の1978年になってもメルセデスとの比較。どうだい、格好似ているだろう! でもグラナーダって結局は1960年代に設計された小型車マヴェリックの皮を新しくしただけだろ?って言われたか言われなかったか。このメルセデス(280SE )とのギャップの深さが当時のフォードの焦りを表している様に感じます。


矢張りメルセデスにコンプレックスを感じるのは何処でも同様らしく、1988年から始まったキャデラックの宣伝キャンペインは、その名も ”キャデラック・スタイル” TVの宣伝で ”キャーデラック、キャーデラック、キャーデラック・スタイル” と歌う背後で、紳士淑女が競馬、帆掛け船、演奏会などに颯爽とキャデラックで乗り付けるのですが、大失敗の惨めに縮んだキャデラック車の中で一つだけ輝く願いを込めてたのが、2座スポーテイー車のアランテでして、このキャンペインで沢山使われました。特に目の敵にしていたのがメルセデスのSLで色眼鏡をかけた女性がSLの運転席から追い越して行くアランテを羨望の眼差し、でも色眼鏡で見えない、で追うのが印象的で今でも覚えています。興味深いのはそのSLで、黄色の前照灯、進入不可の標識からしてどうもモナコ辺りで撮影されたのではないかと。まあアランテはイタリヤで製造された上、欧州でも販売された筈なのでそんな所から来ているのかもしれません。








尾翼が聳え立つ前夜のキャデラックは1958年型。サンフランシスコですね。コイト・タワーは見えますが、現在の高層ビルは一つもありません。


ああ、こう言う時代に戻りたい。


1960年型、カジュアルなデヴィル。セスナ機の翼の下で何やらチャートを見ています。翼の形状からしてセスナの172。機体番号N6225E。そこでこの機体を調べてみると。。。


実機の写真は見つかりませんでしたが、1959年式のセスナ172型機と判明。2004年まで同じ登録番号で飛び続け、2004年の暮れにケンタッキー州で墜落大破していました。長寿。同じ年式の機体の宣伝。

Posted at 2022/04/11 15:57:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2022年04月02日 イイね!

GMが作ったモーターホーム。

GMが作ったモーターホーム。

















GMCとは将軍様の昔の商業車部門、ジェネラル・モータース・トラック&コーチ・デヴィジョンの略です。(コーチとは通常バスやらの事を指します)で、その昔は飾りも何も全くない、業務専用車だけだったんですが、今ではバスもバリバリのトラックも辞めて、消費者向けのピックアップトラックやらを作る軟派になっちゃいましたが、今でもスローガンにGMの ”プロ仕様専門団” 見たいなフレーズ使いたがりますが、事実上、シェヴォレイのトラックとほぼ変わりない車種構成です。

そのGMCが未だ ”本気” だった頃。。。

そもそもその発端は1966年に先端技術が好きなオールズモビルがパーソナル・クープとして2扉の巨大なハードトップ車、トロナードを華麗に登場させました。この自動車、ただ単にビル・ミッチェル氏の指揮した美しい姿だけではなく、前代未聞の新技術が満載されていて、その代表が前輪駆動の技術です。7リッターのスーパーロケットV8にヘヴィーデユーテイーの自動変速機、ターボハイドラマチックTHM400をエンジンのオイルサンプ横に持って行き、クランクシャフトから恐ろしく幅の広いチェインで駆動すると言う、サーブ四気筒を逆さにした様な配置になっていて、似たような形式は実はフォードがサンダーバードを前輪駆動にしようと考えていた際、実際に特許を獲ってはいたのですが技術的に断念していたのを持って来たのかと何時も思ってました。

登場したての1966年型トロナード。やはり最初の年が細部を含め一番美しいです。1966年型の特徴は格納式前照灯に ”庇” があるのと、ラジエータ・グリルが横線だけのデザイン。これ、実際に座ると床は前輪駆動なのでテニスコートの様に真っ平、上部が後ろに向かって聳え立つ計器盤、高い側窓シルと、低い車高なのにまるで広い洞窟に入った様な感じがしました。



兎も角、この動力源をGMではUPP、ユニタイズド・パワー・パックと命名し、今ふと思い出したんですが、いすゞ・エルフがマイパックと言う前輪駆動のトラックを販売していましたが、あのエンジン・駆動系はどう言う機構だったのか。。。。もしかしてトロナードと似ていたのしら?

これがそのUPP。左側が前部。基本的には強靭型のターボハイドラマチックTHM400をエンジン左側に持ってきた物。エンジン後部の横長の箱の中にずぶといチェインが入っている。


これがクランクシャフト(実際にはトークコンヴァータの後)から変速機側に落とす幅広チェイン。これが伸びたとか、音を出すとか問題がある事、聞いた試しがないです。



安全・公害などの規制が勃発する寸前の60年代後半、大人気だったキャンピングカーやらモーターホーム類は、通常、自動車製造社が開発・生産・販売するものでは無く、大手製造会社が売る、自走できる本格的なトラックのベアシャーシに星の数程ある、様々な架装会社(特にインデイアナ州北部に多数あるのが有名)が独自の上屋を載せて売るのが一般的でした。

これはシェヴォレイの作っていたモーターホーム用シャーシの架装例。これらはPシリーズと呼ばれ、モーターホーム以外ではボックスヴァン(ステップヴァン)に使われるシャーシです。さまざまなモーターホームを架装する会社、デザインも飯吹物も結構ありました。


これはダッジ系ね。アイランダー。


産業機器や軍に納入する特殊機械を作るFMCと言う大企業(今でも健在)以前は1970年台に数年間モーターホームを製造していました。非常に珍しい。。。


FMCは航空機の貨物搭載ローダで有名でした。ぼくは以前地上支援業務でこのFMCのローダを数台受け持っていて随分苦労しました。これはFMCのMDL40と言って40,000パウンドの重量物を持ち上げられます。


こんな可愛いのもありました。その名もウルトラ・ヴァン。シェヴォレイ・コーヴェアの空冷対向6気筒のパワーパックを使った小型モーターホーム。確か総繊維強化樹脂の車体。


その傾向を見ていたGMCの親分、丁度その頃、GMCにも例の、優勢さやら最新技術を象徴する ”ヘイロー”  車種が要るなと考え、どうせ架装会社にシャーシを売るんならいっその事、シャーシの製造元の我らがモーターホームを設計・製造したらどうかと考えたのでした。その時、注目されたのが例のトロナードのUPPです。これを使って巨大なモーターホームを前輪駆動にすれば後部へ向け床下を走るプロペラーシャフトが要らないだけでなく、左右に伸びる後車軸も要らなくなるので恐ろしく低床で重心の低いシャーシを作れるので画期的な操縦性に繋がると考えたのです。

でも同じ事考えた人も先にいて、1960年代後半からこの、UPPを流用したモーターホームが既に数車種売られており、でも殆どは以前からの上屋を合体させた感じで見かけは冴えないどころか、耐久性に問題あるんじゃないと疑われて余り普及はしてなかったみたいなんですね

そのUPPを既に流用していたモーターホームのトラヴォイ。1969年型。


コーテズSDもオールズの前輪駆動UPP流用のモーターホーム。因みにコーテズ社はフォークリフトで有名なクラーク社の一部門でした。我が国の業界で、フォークリフトは俗にリフトトラックと呼びます。




その前輪駆動のモーターホームを作っていた会社の一つがRevcon、レヴコンと言う会社で、その代表がジョン・ホールと言うお方、実はこの人、あの有名なエヤストリームの創業者、ワリー・バイアムの義息子さんでして、ジョン・ホールさんは実際、エヤストリーム社でエンジニヤとして長らく働いた後、暖簾分けみたいに独立して自分のモーターホーム会社を始めたのでした。

レヴコンの前輪駆動モーターホーム。


んでGMはそのジョン・ホールさんから例のUPPの耐久性はどうだいと色々データを貰っておいて、数年後、自社製の画期的なGMCモーターホームを登場させました。

GMCが描いていた夢の乗合バス、RTS II (その内このバスの話もしますね) にも似た未来を描いた外観も凄いのですが、UPPとトーションバーを使った前輪駆動に乗用車並みの趙低床骨格の車体後部は左右独立懸架の画期的なエヤサスペンションを使った片側二輪の足回りを持ち、腰下はガラス繊維強化樹脂、腰上はアルミナムの外板を貼ると言う航空機みたいな構造で、重心の低さ、前輪駆動効果との効果で、それまで高重心で硬い乗り心地のトラック・ベースのモーターホームからは考えも及ばなかった走行性能が得られたのでした。



内装は他のモーターホーム製造社に外注。されど室内も画期的なデザインでした。


前方、窓に囲まれ金魚鉢如きの広視界が分かります。運転台は更に高い位置にあったのですからさぞかし視界は良さそうです。腰上は屋根も含め、アルミナム製。



同じ頃、GMCが作っていた革新的なデザインの乗合バス、RTS-II。GMCはバス事業もこれが最後でバス部門を他社に売り飛ばします。


前輪駆動のパワーパックと完全左右独立後輪懸架がもたらす超低床、その間に設けられた二つの燃料タンク。重心の低さがよく分かります。以前の一般モーターホームはこれよりずっと高い所に床があり硬い板バネに支えられた足回り、操縦性の違いは目を見張る事だったんでせう。後輪、空気バネの黒い空気袋が見えます。中の空気は専用のポムプから取る圧縮空気。後輪自動車高調整をこなすだけでなく、任意に圧力を調整できました。


魔法の操縦性をもたらす後輪空気バネ。これも現在は改良型を作る会社が数社あり、更に性能・耐久性向上が提供可能です。


プロペラーシャフトの無い事、後輪左右が車軸で繋がってない事がわかります。なお前輪はトロナードと同様、トーションバー捻り棒式バネ。


曲芸的な走行披露で、操縦安定性を誇る広報資料。アリゾナ州フィーニクス近郊メーイサの砂漠試験場ですね。今や、住宅地。




少数ながら商業版もありまして、送迎バス、貨物輸送から走る重役室みたいな仕様もありました。







長胴体と短胴の2種類があり、水流トイレ、流し台、プロペーンを使った冷蔵庫から冷暖房、オナン製の小さな発電機を積み1970年代最先端の樹脂を多用した内装デザインは、目を見張る物がありました。それまでのモーターホームと言えば難燃剤とか安全性が未だ厳しくなかった事もあって、大抵概成の汎用材が多用され、風が吹けば倒れるような小規模会社の連立で、当然の如く品質は低く耐久性の検査なんかも殆どいい加減だったのですが、さすが、製造元のGMCが本気で作った製品です。ハンドブレーキと乗降扉の作動試験を50,000回、変速レヴァーの作動試験を100万回、フットブレーキと前窓のワイパー作動試験を1,000,000回(ちなみに前窓ワイパーは油圧駆動、油圧はパワーステアリングから来ている)、エクサラレータ・ペダルに於いては1,500,000回の試験が実行された後、市販が始まったのが1973年。悲劇だったのは登場して直ぐ、例の第一次石油危機が訪れて自動車産業は壊滅的な打撃を喰らいます。それでもこの画期的なモーターホームは生き延びて、一番売れた年が3,260台。最初は7.5リッターV8だったエンジンも、乗用車のダウンサイズが始まったおかげで、オールズのUPPも1976年から6.6リッターになり、1979年にはさらにダウンサイズされて5.7リッターになる直前、より利益の多いトラック事業に専念すると言う理由で、GM自家製のモーターホームの生産は終わりました。総生産数が12,921、その内7,000台以上が現役として残っており、古く磨耗した部品を改良された最新型にする部品を開発、売る会社、この車種を専門に扱う修理工場など、熱心なファンが未だ沢山います。。。

冒頭で出て来たレヴコンのジョン・ホール氏は、GMCがモーターホーム事業から撤退後も、GMCに似た改良型の前輪駆動モーターホームを1980年代まで製造していました。これが1983年型レヴコン。


ジョン・ホールの義理のお父さんのエヤストリームが自走式のモーターホームを製造し始めたのは1974年(それまでエヤストリーム社は牽引型だけだった)。こちらもGMCに似てますね。


でも矢張りぼくに言わせると昔のモーターホームを代表するのはこの、ウィニイベゴF17です。この外観がたまりません。この上屋を最新式のフォードF53かなんかのシャーシに乗せたら素敵なクラシックが作れるんじゃ無いかと。。。




他の話題。GoogleアースとアップルMAPは結構違いがある様で、特に3D画像が気になります。何気なく職場の画像を見ていたら駐機場、上に写っているのはかつて飛ばしていた機体でしたが、お隣に泊まっているエヤバス、これは以前ぼくの友人がオウストラリヤで経営していたストラテージックエヤという会社の機体で、2012年にお客さんをホノルルに下ろした後倒産して、皆、自国に戻れなくなると言う事件を起こした会社、考えてみたら自分でちゃんとこの機体、写真を撮っていました。。。なので、このアップルMAPは10年前の画像ですね。


地上から見た図。。。


先週は結構雨が降りました。それでも去年からの降雨量少なく、夏を前に節水のお触れが既に出ています。こう言う天気だと観光さん、可哀想です。


夕飯後、近所で電気をもらう図。日の入りが随分遅くなり、本土は既に夏時間。


光山虎夫(とらお)チャンの熱演。演歌を歌わせたらこの子の右に出る者は無い、トンガ人が何でこんなに日本語を流暢に喋るのかも不思議。。。


シーミーもうすぐでしょ、と言うのが今日の言い訳。チャイナタウン行きつけのゴールデン・ドラゴンで。相変わらず安くて旨い。


ウジモリさんのアンダーギ、最近値上げ、と言うか、以前は1ドル4個だったのが3個に減った。。物価高インフレーション仕方がないか。アチコーコーでまーさんね〜

Posted at 2022/04/03 19:25:07 | コメント(5) | トラックバック(0) | 日記

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