クライスラーの画期的なファミリー・カー、T115ことミニヴァンのダッジ・キャラヴァンとプリムス・ヴォイジャー。これらが出るまではご存じ、我が国の家庭には必ず一台、ステーウォンワゴンがあるのが常識でした。ドラマなどでお父さんが出勤時にステーウォンワゴンでも乗ってくると、会社の駐車場で、同僚に聞かれる前に、いや、ぼくの車が修理に入っているので今日は女房の車を借りてきたんだ、と言い訳を言うのが定説で、ステーションワゴンは男性の乗る自動車ではありませんでした。
それがあっという間にステーションワゴンがミニヴァンに入れ替わり、それから20年後、今度は家庭の主婦がミニヴァンを乗り回すのを嫌がる事になります。。。その理由はまたあとで。
さて、このミニヴァン時代夜明けの1980年代前半は、景気の悪化に反比例して、日本からの優秀な経済車の輸入が膨れ上がり、全米自動車業界は爆発する怒りの矛先を日本へ向けていました。丁度強硬派の大統領、元俳優のロナルド・レーガンが大統領選挙前から自国産業保護を約束していたので、日米自動車産業の関係は非常に緊迫な状態が続き、各官僚からの関税やら政治的な圧迫から出た、妥協策が1981年始まった Voluntary Export Restrain、略してVERと言う日本製乗用車の輸出自主規制です。最初の1981年が年間最大1,680,000台。1984年が1,850,000台と次第に枠が広がり、その間に大統領は保守派のジョージ・H・ブッシュから1993年に自由派のクリントン大統領に変わると、この輸出規制は1994年の2,300,000台を最後に撤退されます。自主規制にした事で一応、両方のメンツが保たれた形だったんですが、合衆国で売れる自動車の数が制限されるとなると、損出分を上乗せと言う形で値上げした日本製の自動車のお陰で結局被害を被ったのは一般消費者だと言う観察もありましたが、この輸出規制下を生き延びるのは、結局三つの方法が考えられました。一つは工場を北米に建てて現地生産する事。もう一つは一台当たりの利益率が高い高級車を増やす事。最後の一つは、輸出規制枠の中には入っていなかった、商用車の輸出を増やす事です。商用車は昔から輸入代数の規制はありませんでしたが、25%と言う高い輸入税が課せられていました。(乗用車は2.5%)。
北米工場の新設はホンダ、日産、トヨータを始め盛んになり、高級車の販売はレクサス、インフィニテイにアキュラ(マズダにも幻のアマテイと言う計画がありましたが頓挫)と言うブランドで各社、一斉に動き出すのが1980年代後半。
んで商用車の方なんですが、日本勢各社が目に付けたのは、クライスラーのT115がきっかけで、爆発的な売れ筋のミニヴァン系車両でした。
最初に日本からミニヴァンを持ってきたのがトヨータさんで、1984年です。その名もただの ”ヴァン” 。なんとも色気の無い名前ですね。これはタウンエースを急遽北米様に改造し、豪華にしたミニヴァンは、クライスラーより若干小型で取り回し容易、かつお手頃な値段でトヨータの信頼性、豊富な装備などを売りにしましたが、所詮、寸法が小さすぎ、おまけに車軸間が短く、小回りが効く宣伝文句は事実でしたが同じ分、走行安定性も優れず、その上ドライヴトレインが全て運転台下から床下にあり整備性の悪さも後に有名になります。それでも結構頑張り、商用車版、四輪駆動版も加え、6年間で170,000台を売り、1990年からは卵形のミニヴァン、プレヴィアで再挑戦、こちらはタウンエースと違い開発時から北米輸出を配慮して設計された筈だったんですが、これまた特異な機械構造、それと矢張り室内の狭さ、高価格、あと衝突時の安全性の問題が指摘され、泣かず飛ばすで1998年まで売られ、結局トヨータさんが本格的にクライスラーに対抗出来るミニヴァンを作り始めたのは1999年、のキャムリを土台にしたシエナでした。
これは前期型の乗用版。
前期型、商用版。
1986年からの後期版。商業パネル型。
次に登場した日本製ミニヴァンは日産自動車、旧プリンス自動車の技術者が開発した画期的な自動車のプレイリーを、日産スタンザ・ワゴンとして1986年に持ってきました。スタンザ・ワゴンの販売は1986年から1988年までの短い期間でしたが、その特異な中央柱が無い斬新な車体構造も相まって、今でも熱狂的なファンがいます。この頃の車両に共通している興味深い事はこのスタンザ・ワゴンもそうなんですが、2輪駆動版は環境保護庁からは室内容量からミッドサイズ・ワゴンとされ普通の乗用車と同様の安全基準法が求められるんですが、4輪駆動版は特殊用途車両と見なされ、安全基準が甘い、商用車として区分されるんです。5マイルバンパーの法律は1982年が最後でしたが足並み揃える各社はバラバラで、まだ5マイルバンパー同様の構造を持っている車両がありました。このスタンザ・ワゴンもその一例で、2輪駆動版は油圧シリンダを備えた立派な突き出た前後バンパーを持ってますが、4輪駆動版は衝撃吸収構造材だけを入れた、ひ弱なバンパでやり過ごしています。これと同じ現象はスバルでも見られました。
スタンザ・ワゴンは3年間だけの販売。これは2輪駆動なので乗用車と見なされ内部に衝撃吸収する油圧シリンダの付いた本物の5マイルバンパ。
4輪駆動板は形状の異なる、バンパ。
後ろ姿だとバンパの違いが顕著に見えます。大きいのは2輪駆動版。
4輪駆動版、小さなバンパ。
スタンザ・ワゴンとプレイリーは後部の構造がかなり異なります。2輪駆動、4輪駆動と欧州仕様2輪駆動。
日産は同時期に愛知機械製の日産・ヴァネットの北米版、こちらも味も素っ気もない名称、ただの ”ニッサン・ヴァン” として1986年から1989年まで、クライスラーのT115より安いミニヴァンとして、主に南部、キャリフォーニア州、フロリダ州とテキサス州で合計、32,000台程売ったのですが、2,400ccの四気筒エンジンに格上げしたにも関わらず非力さは隠しきれなかった上、その分酷使されたエンジンは過熱から火災を起こし、記録されているだけでも135台の出火事件に至り集団訴訟、4回にわたるリコール(これが非常に高くつく)になり、結局米国日産が車両を全て買い取ると言う前代未聞の話になりました。でもこの買取は法的強制性は無かったので、買取拒否する消費者も多少いたらしく、数回、ロスアンジェリースかどっかで未だ走っているのを目撃した事があります。
火災問題でリコール4回、結局回収に至ったニッサン・ヴァン。費用は日産自動車が払ったか、愛知機械が払ったか。興味深いところです。
日産はニッサン・ヴァンの後釜として、日本で続行して売られていたプレイリーの2台目を日産・アクセス (AXXESS) と名乗って、合衆国に僅か一年だけ、1990年モデルイヤーに持ってきますが、お隣キャナダではこのAXXESSを余り改良もせず1995年まで販売しました。合衆国のAXXESSとキャナダ版のAXXESSの違いは、合衆国版は当時あった受動安全規制法のお陰で自動シートベルトが付いていた事、キャナダ版はこの、電動モータで肩帯がジーッと扉沿いに動く仕掛けが省かれていました。モデルイヤー1990年だけ、販売総計合衆国で20,000台弱。キャナではその後も継続販売1995年まで。
日産はおかしな事に、スタンザ・ワゴン、ニッサン・ヴァンとAXXESSと同時期、1987年にフォードとミニヴァンの共同開発を始めており、こちらはニッサン・クエストと姉妹車、マーキュリー・ヴィレジャーとして1993年から売り始めます。なので、キャナダの日産デーラーに出向くと、1995年まではこのクエスト・ミニヴァンとAXXESSミニヴァンが同時に同じショールームに置かれていた頃になります。
クエストは立派な事に、ちゃんと油圧シリンダの付いた5マイルバンパーを装備していました。製造者のフォードは1980年代は空力を自慢、1990年代は安全性を前に出していましたから当時の宣伝にはバンパの事、ちゃんと出ていましたね。
後に日産は大型ピックアップトラックを基本にNVシリーズの、フルサイズのシェヴィーGヴァンやらメルセデスのスプリンターと同じクラスの、大型ヴァンを2011年から国内製造し、商業版、乗用版と、一時期は日産の商業車部門は本格的になるとおもひきや、採算取れる台数に販売が乗らなかったと言う理由で、一つ小さいサイズのNV200も含めてヴァン事業から完全撤退してしまいます。国境を越えたメキヒコではその代わり、これも結構昔から、日産・キャラヴァンは続行販売してますが。
日産が商業車から撤退(ピックアップトラックを除いて)したのは残念です。このNVヴァンはウチの近所にもありますが巨大です。シェヴィーのGヴァンが小さく見える。。
国境南、お隣のメキヒコでは売られる日産・キャラヴァンことアーバン。
メキヒコでは自国製、旧マーチ・マイクラをまだ製造販売してます。このメキヒコ製マイクラは合衆国では一回も売られた事はありませんでしたが、キャナダでは初期版とこの型が売られてました。
小型のNV200も同じく2021年で廃止。鳴物入りの的士版は堂々とニューヨークはマンハッタンの的士に選ばれたのに、これもおしまい。この個体は2014年から4年間だけ売られていたシェヴォレイ版のシテイー・エクスプレス。シェヴォレイの蝶ネクタイのエンブレムが似合います。
最後の日本製ミニヴァンは三菱自動車。デリカを急遽、北米版にして持ってきたのが、1987年。商業版もあったのですが、たったの三年間、乗用版16,485台と商業版を6,542台売り終了。
北米三菱は販売網が極めて弱いのと、経営方針・車種がはっきりせず、到底本気で自動車売っている様には見えません。以前はいい自動車作ってたのになあ。。。
前後のでかいバンパ。でも5マイルバンパではなく、衝突時の構造材が入っているだけ。
バンパの構造。
あとは余り関係ないかもしれませんが、ルノーとの共同経営にハッテンしていたアメリカン・モータースも、ルノーのエスパース・ミニヴァンを北米に持って来れないかと思案していたそうです。アルピーンA610は、AMCの ”ヘイロー・カー” として北米仕様の開発を終了していたんですが、生産前夜にAMCをルノーがクライスラーに売却して全ての計画はおじゃん。
量産試作まで行ってたルノーGTA V6。北米基準灯火類と大型バンパ。
ではどうしてミニヴァンの人気が落ちたか。1990年代後半、ミニヴァンはお母さんが子供の放課後のサッカー練習などに子供を送迎する時に頻繁に使われるので、サッカー・マム、サッカーお母さん御用達と言う評判が定着し、これが主婦の評判を落としたそうなんです。お母さん、子供がテイーンエイジャーになっても活発で綺麗で躍動的と見られたいらしく、それにはミニヴァン=子供と言うより、新しく定着してきたスポート・多目的車、いわゆるSUVの方が絶対魅力的な女性に映ると言う動きが始まり、2000年代になるとミニヴァンとSUVの比率がひっくり返り、近頃、ミニヴァンと言えば業界内のシェアが2%とか3%とか言われるまで落ち今日に至ります。
でも業界の話では、ミニヴァンの需要は一定で持続し、種類は限られますが、これからも消滅はしないと言うのが噂です。皮肉な話で、アメリカ合衆国の象徴みたいな車種だったステーションワゴンやミニヴァンは、今じゃ日本勢と韓国勢しか選択余地がないと言うおかしな事になっちゃいました。
余談その1
フランス勢はステーションワゴンになると本気で開発し、車軸間を長くした、素晴らしいのを持ってきてました。プジョー504のステーションワゴンは後車軸にコイルバネが片方2個ずつ、ハーフトンの搭載量の癖に溶かしたバターの如くの乗り心地。僕の青春の一台でした。米国では504、後半になってから売れ出した。。。特にジーゼルは。
これも合衆国で何台売られたかは謎ですが、ぼくはルノー21のブレーク、名称を何故かネヴァーダと本国では呼ばれますが、を1987年の夏、欧州中乗り回した思い出の深い一台です。北米、三列座席型を売った。エンジンが排気量により縦置きだったり横置きだったりする変なクルマでした。(なので車軸間も少し違う)
因みに1988年の統計から。トヨータはヴァンを14,322台販売。火を吹く日産・ヴァンは10,846台。三菱は3,870台のヴァン。ヴォルクワーゲンのヴァナゴンが5,416台。GMのアストロ・サファーリが190,000台。そして、クライスラーのT115が、ナント合計、422,413台!!も売れた年でした。もう独走、無敵でしたね。このウッドパネル、最近すっかり見かけなくなりましたけど、最後にウッドパネル使った車、何年前だったのかしら。。。
余談その2
先日カポレイの商業施設で見かけたヴォルヴォのステーションワゴン、おう程度が素晴らしく良いねえ、それに珍しい欧州仕様の前照灯、思わず写真撮り、後で見れば、アイや、これ、RHDの日本仕様じゃないですか、おまけに車検証までまだ貼ってある! 最近こういったJDM仕様車の輸入が盛んで、毎朝、電視でコマーシャルまで流す中古車会社もあり、特に軽トラックが法外な値段で売られているのを見ますが、コレら、当然25年以上前の車両で(25年以上古い車両は連邦安全基準法、排気ガス基準規制らが免除になる)誰も前照灯を右側通行用に変えてないし、業者は売り捌くだけで古い日本の軽自動車の部品なんて揃えてる訳ないし、整備なんて買ったら最後、あと1、2年すればRHDのJDM不動車が乗り捨てられている図が今から頭に浮かびます。。。。