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2023年08月27日 イイね!

めんそーれ、那覇空港

めんそーれ、那覇空港








沖縄の玄関口、那覇空港。識別記号ではROAHと申します。旅客業務ではOKAですね。この空港、現在では日本の自衛隊と共用運行していますが、返還前はここ、正式な米国空軍那覇基地と言うバリバリの軍事施設だったんです。その片隅を民間が使わせてもらっていると言う感じで。ひもじいですね。まあそれは別として、1972年の返還前、米軍の基地として住宅施設から商業施設からのフル装備だったんですが、人知らず、専用のビーチがあったんです。

現在の東側滑走路の西(イリ)に、超短波航空無線標識のアンテナがありまして、その脇に小さな入江状の海があってそこの弓形状のビーチです。  ここ、名前を当時はフィッツ・ウッデイー・ビーチと呼ばれていました。現在は当然の如く、立入禁止区域なので一般の人は入れません。

このビーチの名称は、創立時に関わった、フィッツ氏とウッデイー氏の名前を使って、フィッツ・ウッデイー・ビーチと命名されたんですが、そのロバート・ウッデイー中佐、東亜戦争時代はバリバリの戦闘機乗りで数々の成績を上げ、勲章を貰い、戦後、冷戦時に沖縄に配置され、ナハ・エヤベースのお偉がたさんになります。

ある日、そのナハ・ベースで働いていた若い軍の航空整備士が、飛行機を盗んで逃げると言う、イチデージな事件が発生します。ところがバカな話で、この整備士、飛行機の操縦をした事がないと言う度胸物で、上がったのはいいが、今度は降りられず途方に暮れていた所、元戦闘機乗りのウッデイー中佐が予備の飛行機に飛び乗り、盗難されたカーチスC46コマンド(双発輸送機)と編隊飛行を組み、無線で手を取り足を取り着陸の作法を教え、結局盗難機は無事、戻って来れたと言う前代未聞の事件を解決した話でした。

そのウッデイー中佐は2012年に他界されました。

那覇空港は西側を開発して新しいターミナルやら施設を作る計画があるそうです。その際、このフィッツ・ウッデイー・ビーチでまた、泳げるようになるといいですね。

那覇空港北側。下の入江がフィッツ・ウッデイー・ビーチ。


画像の左側です。


これは少し昔の画像。丸い施設は超短波航空標識アンテナ。左の赤いボーリングボールはタカンと言って軍事用の航空無線標識。左がフィッツ・ウッデイー・ビーチ。緑色の屋根は多分ビーチの管理棟っぽいですね。。。いかにも当時の米軍施設と言う。


そのクロースアップ画像。


後日、その小さな建物は取り壊されていました。


返還前、ビーチとして機能していた頃の写真。ビーチ・チェアとか、前記の米軍建物が見えます。


現在の同じ場所。。。


これが整備士が盗んだ、カーチスC46コマンド輸送機。DC-3よりかなり大きく、運転は難しいらしいです。よくこんな物盗んだなと。。。。
Posted at 2023/08/28 16:10:07 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2023年08月25日 イイね!

計画された陳腐化

計画された陳腐化














毎年この頃、夏の終わりになると自動車雑誌は一斉に、来年度の新車特集を飾るのが慣わしです。我が国はモデル・イヤー制と言う慣習がまだありまして、毎年同じ車種でも変更があり、それが故、来年型が発表されると現行型はガタッと値引きを始め在庫の調整なんかがあり、年を超えると年式落ちとして売れ残りがかなりの割引で売りに出されたりします。

米国三大自動車雑誌のモータートレンド、カー&ドライヴァーとロード&トラック各誌。

以前は性格が随分違い、モータートレンドは媚びれた製造側に寄った宣伝誌の印象が強く、ロード&トラックは競走自動車などに重点を置き、カー&ドライヴァーは技術的にも文化的にも反抗的な性格で丁度、モータートレンドとは逆で製造側を大激怒させる記事を書き宣伝収入が激減したり読んで一番面白い雑誌でした。でも今やモータートレンドは以前より格段に車両評価に重点を置くようになり、犬猿の仲だったカー&ドライヴァーが同じ出版社の傘下に入っちゃったなど、ひと昔の話を知っている者にしては信じられないような世の中になっちゃいました。残念無念。







各誌、その秋口、9月号くらいになると各社の翌年の新型車の説明、それと同時に翌年に消滅する車種なんかを紹介します。なのでこの号を読んでさえいれば、翌年の自動車事情にかなり詳しくなれます。

この、毎年新型車を出して購買意欲を刺激する事を、業界ではプランド・オブソレセンス、Planned Obsolecense、計画化された陳腐化とよく表現され、これはGMが販売促進のために始めた商法で、新型車を出す際、最初から悪い意味で人気になるのは数年間だけと言う考えを計画していて、次に新型を出してまた販売拡大を目論む商法ですね、経営学などを学ぶと必ず出てくるこの言葉。一般にはこれを考案したのは、産業デザイナーのブルックス・ステイーヴンスと言う方の発明だとされています。

産業デザイナー、レイモンド・ロウィーと同じ位有名だったブルックス・ステイーヴンス氏。



皮肉な話で、彼のデザインした1車種、ジープ・ワゴニアは1963年の登場から1991年まで、28年間、殆ど変わらず生産され続ける、全然陳腐化はしなかったのですが、その代わり長い間生産されとっくに生産・開発などの経費は回収されていたので、逆に付加価値を加えて非常に高利益の車種になったと言えるでしょう。

1963年登場当時のジープ・ワゴニア。丁度この頃、ジープは親会社のウィリス・オーヴァーランドからヘンリー・カイザーが率いるカイザー社に買収されたので、ワゴニヤはまずカイザーのブランド下で売り出されました。ぼくが幼稚園の頃見ていた自動車図鑑でも、カイザー・ジープと紹介されていましたね。でもジープがカイザー下だったのは7年間だけで、1970年にジープのブランドは、AMC、アメリカン・モータース社に売られます。AMC下でジープは長い間売られ、1988年にAMCがクライスラーに売られた後も、ワゴニヤは1991年まで継続販売されたのですから、長寿ですね。それだけ製造側には旨みがあった車種だったんでしょう。ヘンリー・カイザーがAMCにジープを売ったのも、クライスラーがAMCを欲しがっていたのも、全てジープが主役だったそうです。因みにブルックス・ステーイヴンス氏はジープ車のデザイン、ウィリス・オーヴァランド時代から関わっていました。軍用車を民生用に改良した、ジープ・スターやらが彼の作品です。





ジープスター。


話は前後しますが、以前短い間、ヴォルクスワーゲンは中型車として411・412と言うヘンテコな乗用車を短期間作っていました。まあ、ビートルから一つ上の上級車種として作られた、俗に言う ”タイプ3” の改良版で、パンケーキ・エンジンと呼ばれる空冷対向の平たいエンジンを後ろに積んで(発電機と同軸だった冷却ファンをクランクシャフトと同軸上にして全高を抑え、後ろに積んでもエンジンの上に荷室などを設けられた)装備を豪華にしたりしたんですが、同時期に現代式な大衆車、ゴルフを既に開発中でこの411・412は何とも中途半端に終わりました。その後期型の車両前部を改良したのがブルックス・ステーイヴンス氏と伝えられています。



ブルックス・ステイーヴンス氏が、頭をイジった。前傾型で少しトンガっています。


計画された陳腐化に反する自動車。ヴォルヴォの140・240シリーズ。1966年から始まり、最終型が1993年。ぼくも何台か乗り継ぎました。最終型でも驚くべき長所が結構あって、北欧人って言うのは矢張り考え方が何か根本的に違うなって思いました。人生経験が長くなる程、こう言う自動車が魅力的に見えてくるんですよね。。。





そうそう、その自動車雑誌、来年に発売中止になる車種をいくつか。

電気自動車元年って我が国では去年の話題でしたっけ?まあ、その中でも結構な数を売っていたシェヴォレイの小型電気自動車のボルト。今年が最後です。確か韓国のLG製の部品を使って我が国で製造していたのかな。矢張り計画していた儲けが出なかったみたいです。その名称、ボルトの綴りは、”BOLT" です。


ややこしい事に、シェヴォレイは以前、エンジンの載った電気自動車、まあ、プラグイン・ハイブリッドですね、の自動車を売っていて、その名称が ”VOLT” でした。日本では V と Bの発音が同じなので難しいです。この車も技術の発達に遅れたと、二代目まで出したのにあえなく生産中止。補足ですが、この車、4人乗り。後席がセパレートシートになっていて、車体中央に電池が鎮座。


今年で最後、一時期は凄く売れたクライスラーの300。キャナダ製。最終年の一台買って未登録で20年後に売ったら、魅力的な投資になりそう。。。これも消えて悲しい一台です。散々自分で借りて乗った一台。(ちとガラが悪いのがタマニキズ)


トヨータと同じく、デトロイト独占市場に殴り込みをかけた、いや、したかった日産のフルサイズ・ピックアップトラック、2004年登場のタイタンも今年で終わり。5,600ccのV8エンジンやら、カミンズの過給機付ジーゼルエンジンまで搭載していたのに、矢張り日産の方針で商業車市場からの全面撤退。これからは電気自動車に力を注ぐそうです。





トヨータと日産、フルサイズ・トラック市場に挑戦するも、両社、やり方の違いが非常に大きく、いつぞやこれに付いて書いても面白い題材だと思ってます。


そう、セダーン型車が消滅する現代、日産ブランドの最上級車、マキシマも今年が最後。昔は4DSC(4ドア・スポーツ・カー)なんて言ってましたね。マキシマの名称が使われ始めた頃、日産はダットサンのブランドを闇に葬る大プロジェクトを始めていて、この810・マキシマが最初でした。確かニッサンのブランドに全面移行するのに四年くらいかけたんですかね。当時も今でも、賢い決断だとは思っていませんでした。

去り行くマキシマ。


いつかマキシマは縦型ハメ殺しの天窓を装備してた時期があって、あれは一体何の為にあったのだろうと、今から思えば不思議です。


ダットサンの文字がだんだん小さくなって行った時代。910も先代が810として売っていたので、建前では810・マキシマとして売り出しましたが(810は廉価版、マキシマは高級版)、すぐ810の名称が消えて、ただ単にマキシマになっちゃいました。


マキシマの前は810。2扉ハードトップはついぞ一回も目撃した事はありませんでした。本当に売ってたの??


ZーCarのエンジンで走る豪華セダーン!が謳い文句。1977年から1980年までしか売られなかったのに、車種が結構あったり、中途改良されてたり、お金は掛かっていた様子。






ブランド名称を変えたと言えば、1970年代のアウデイとポーシャがそうでした。貧弱な販売体制と全く名前の知られてなかったアウデイは1969年から全てヴォルクスワーゲンの傘下の元で、同一のマーケティングやら販売の統合を開始。常に宣伝は、ポーシャ+アウデイで宣伝してました。アウデイが最後にポーシャの名称を使ったのが1984年。丁度、空気抵抗の非常に少ない大型車、アウデイ5000が登場した翌日から、アウデイ独立ブランドとして独り歩きを始めます。




先日、古物屋で見かけた、ポーシャ・デザインのスピーカー・サウンドバー。911のマフラーを使っているのか、なんと2,000ドル也。。。


冒頭の画像。ヴォルヴォは1960年台から、計画された陳腐化に異議を問う!と言う広告を出していましたね。
Posted at 2023/08/27 05:17:58 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2023年08月19日 イイね!

となり組

となり組













ホノルルの東側、ダイアモンドヘッドの東麓の住宅街はカハーラ地区と申しまして、オアフ島内でも指折りの高級住宅街でございます。カハーラとはハワイ語でお魚のカンパチを意味します。カハーラは別に昔から裕福層が住んでいたわけでなく、オアフ島には珍しく平らな地形だったので養豚やらに使われいたのですが、大地主のビショップ女王が他界された後、ビショップ財団に地権が移り、1900年代になり平らな地形が住宅地に向いている事を誰かが発見し、現在の住宅街が成形されたのが歴史です。

朝のカハーラ地区。平たい地形が分かります。     上がダイアモンドヘッド。右上がワイキキー。


平らな地形なので内陸に入ると景色は見えないのですが、その代わりオアフ島に多い、もと ”植民地住宅” 風の建築と違い、最初から近代的で豪華な西洋式建築がゆったりとした道並みに並び、島の外から来た感じが醸しでる場所です。

そのカハーラ地区でも海岸線を跨いで走る、カハーラ通りは不動産価格が群を抜いて高価なので知られています。勿論自分の家の前に素晴らしい砂浜が広がりますからね。海外や米本土から来る富豪達はこの景色を持つ物件を一目見て、アリー、即購入さー!と行くのですが、現実はそう易しくはなく、海辺の物件は絶えず吹いてくる強い海風で建築構造の痛みの進行がハンパではなく、潮の高い日の浸水に悩まされ、台風が来ると大変な事になり、まあこう言った類の物件を考える人は別に銀行からローン組んで買う人は殆どいないでしょうが、ローンを組む際これらの危険性が加わるので利子が高くなるか、高額な保険を抱き合わせさせられるか、最初から条件ではローンを拒否される事があります。それに素晴らしい風景を手に入れたとしてもこの地、プライヴェート・ビーチを言う物自体が無く、いかなる海岸線・砂浜でも公共の出入りが出来なければならぬ、と言う法律があるので、20億のビーチフロントの豪邸手に入れても、家の砂浜に浮浪者が屯しても追い出せない事になります。先日日本の報道で有名人がハワイのホテルのプライヴェート・ビーチを満喫した、と書かれていましたが、正確な表現ではありません。

そのカハーラ通りの物件等、我が国では通常、著名人が高価物件を購入する際、実名で登録するのを非常に嫌がり、小さな会社を立てて企業名義にしたり、実際の持ち主が分からないよう登記する専門業者に頼んだり、あの手この手で手を打つのですが、面白い事に日本の購買層はまさにその逆で、自分名義で登記するだけではなく、有名人だと自分から媒体に出て自宅を紹介する例が結構あります。

そのカハーラ通りの西側を少し入った所に、”シャングリラ” と呼ばれる美術館があります。ここは素晴らしい豪華建築の中に、古い歴史代回教徒の美術品を展示する場所なのですが、実はこの建物、戦前に米東海岸の大富豪令嬢、ドリス・デユークが建てたお家なのです。





ドリス・デユークは当時、世界でで最も裕福な女性として有名でした。彼女の祖父母時代から主にタバコ産業、繊維産業、電力供給、教育機関に関わる家系の方で、バスケットボールなどえ非常に有名な ”デユーク・ユニヴァーシテイー” と言う大きな大学校がありますね、あの学校はデユーク一家に因んで付けられた学校です。

全米でも有名な名門校、デユーク・ユニヴァーシテイー。


大富豪の資産を受け継いだ、ドリス・デユーク女史。(1993年没)


その令嬢、ドリス・デユーク女史が最初の結婚した時、ハニムーンで世界中を旅して帰途に寄ったのがホノルルで、カハラ地区を大変気に入ったらしく、そこに建設したお家が現在のシャングリラで、これまた世界を旅した時に気に入った回教徒の美術品を集めてここに持っていたそうなんですね。

シャングリラを西側から望む。シャングリラに昔からあった船着場が地元民で人気の格好の泳ぎばだったんですが、死亡事故が何回もあって、近頃取り壊されると報道に出ていました。


そのドリス・デユーク女史に起きた、1966年の事件。

ドリス・デユーク女史とエデユアード・テイレラ氏。


彼女は世界中各地にお家を持っていましたが、その内の一つ、ロードアイランド州ニューポートの豪邸の、主に美術品の収集を管理していた若い男性、エデユアード・テイレラ氏が加州ハリウッドに転職するので、辞職を申し出た際、ドリス・デユーク女史と激しい口論・取っ組み合いになり、逃げる彼を追うように彼の乗ってきたレンタカア、1965年にヴァージル・エックスナーのデザインから離れ出したばっかりのモデルチェンジした、ダッジ・ポラーラのステイションワゴン、まあそのレンタカアにドリス・デユーク女史が飛び乗り彼を追いかけ轢いた後、邸宅の門柱に激突。テイレラ氏は死亡し、大富豪の殺人!と大見出しの新聞三面記事になったのですが、あれは事故だったんだ、と警察はそそくさ事件を片付けこの事件は闇に葬られたのでした。因みに後日、テイレラ氏の方とは示談補償が出たそうですが。。。。









この門柱に激突したんでしょうね。。。


ヴァージル・エックスナーが首になり、急遽デザインを宇宙的から直線多用の現代的に転身を図っていたクライスラー。


ドリス・デユーク女史はロードアイランドでの事故後、邸宅があった地元市政府に多額の寄付金を送り、その資金が使われた公共施設は血の金が使われたと批判的な声が随分あがたそうです。彼女の死後、遺産は一旦唯一の子供、養子に入れた女性、に渡るはずでしたが、この2人は仲違いがあったらしく随分揉めたようですが、結局示談成立したようで、後の資産ほとんどはチャリテイー団体運営になり、あちこちに慈善寄付するのが現在のドリス・デユーク団体の仕事です。

彼女の乗っていた実車たち。1979年型キャデラック・セヴィル。大富豪にしては中々渋い色ですね。多分自分で運転していたのかしら? 何年か前に競売に出てました。


1974年型メルセデス300SEL 4.5。おお、いいセンスですなあ。自分としてはこの4.5の方が、6.3より好きなんですよ。まさしく北米の需要の為に作られた、ドンピシャの自動車。これに軽量アルミナム製エンジンのM117でも積んだら凄い自動車になるんじゃないかしら。。彼女は余り特定の色には拘らなかったみたいですね。


1980年型ジャギュアXJS。もしかして6気筒だったりして?いや、大富豪なら12気筒?壊れる英国車、でもこの頃有名人はジャギュアって結構好んでいたみたいなんです。ブルー・グレーの浅い色、いいですね。


そう、あのフランク・シナトラも晩年にXJS乗ってました。正真正銘の12発!車輪は英国得意のワイヤ・ホイールに見えますが、これは標準のメッシュタイプをメッキした物。キンキラキンがパームスプリングの強い砂漠の日差しに映える?


そう、キャレン・カーペンターも1979年型XJSに乗ってましたね。自分のメルセデス450SLを修理に出していた時、お兄さんのXJSを借りたら気に入っちゃって自分のも買ったそうでした。エンジ色が女の子っぽいですね。ステキ。


ドリス・デユーク女史が使っていた飛行機。意外とこじんまりしたボーイング737型機で、運行はデユーク・ユニヴァーシテイー大学航空部に受託されていた模様。この機は一般航空会社で使われた事は一回も無く、いまだに個人専用機としてとこかで飛んでいます。


タバコに繊維産業。昔の米国で、特に東南部を話題にしたら、当時一般的だった、スレイヴ(奴隷)の売買・管理に白人の大企業が多く関わっていた事はすぐ分かると思います。特にコットン、綿ですね、それを利用して作られたジーンズの生産は、米東部、特に南北キャロライナ州が有名で、リーヴァイスとかラングラーとかが頭に浮かびます。

ノースキャロライナ州出身の競争自動車の運転で有名な、デール・アーンハートさん、場所柄に主なスポンサーはジーンズのラングラーでしたしね。でも今じゃ他の産業と同じで、こう言った人件費のかかる産業はメキヒコやら海外に移っちゃって、それでもまだノースキャロライナで生産されているジーンズになると、高価な特別価格になったりするのが近頃の状況みたいです。

ノースキャロライナと繊維産業(と、昔の雇用文化)は切っても切れない仲。


ラングラー・ジーンズは以前ポト・リコ工場から自社のジーンズを運ぶための専用航空会社を持っていました。使われたいたのは世にも珍しいキャナデアCL44と言うターボプロップ機。キャナダの工場で、英国製ブリストル・ブリタニア旅客機のお尻が折れるようにガバッと開いて、長丈物やらの貨物の搭載を容易に改造されたもの。エラく運転が難しかったらしい。。。


よくぞまあこんな事、考えついたと思ってたら、過去には数件、似たような方式があったみたいですね。しかしC L44....これはフライング・タイガー・ライン社。


何を隠そう、以前働いていた会社でも飛ばしてました。名古屋はセントレアからボーイングの工場まで部品を運ぶ、ドリーム・リフター機。



衛星を使って現在位置を測定するGPS。今ではこの装置を使ってない産業はない程普及していますが、その世界一大手のガーミン社。この社名のガーミンは、創業者2人の名前を合わせて作られた造語で、その創業者とは電気技術者のギャリー・ビューレル氏(2019年没)と、台灣から来て米国の大学に留学した後、米国国務省にも雇われた経験のある技術者、ミン・カオ(高 民環)氏。GaryのGarとMinを合わせてGarMin、それでGarminと言う社名になった訳です。そのカオ氏の長男がケネス・カオ氏、若き彼はハリウッドで影視のプロデユーサーをやっているそうですが、このケネス・カオ氏の奥さんが、日本の女優、ジェシカ・道端さんだそうです。ケネスさんはカハラ通りを上がった崖っぷちの物件を購入改築、これまた日本の媒体で紹介されたそうですが、結構うるさい交通量の多い場所だったりします。。。

GPSの会社、ガーミンの創業者、Gary Burrell氏とMin Kao氏。2人合わせてヤンマーじゃなくて、Garminだ〜。


小型機の世界ではガーミンは圧倒的なシェアを誇っています。GPSだけではなく、総合的な航空機の計器盤全てを供給。


カハーラ地区、赤い印がドリス・デユーク女史のシャングリラ博物館。左側、ダイアモンドヘッドの麓がケニス・カオ氏の住宅、断崖絶壁。


交通量が多い。この右側にある碑はあの女性飛行家、アメリヤ・イヤハートさんが初めてハワイから米西海岸まで飛んだ時のもの。


冒頭に書いた様に、海辺の物件はよほどの理由がない限り、お勧めはしないんです。借りた方が余程得ですので。例のコニシキさんの豪邸も去年でしたか、売れちゃいましたね。彼を知っている友人にその後、どこにお家買って移ったの?って聞いたら、彼は日本に引き上げちゃったそうです。。。
Posted at 2023/08/20 04:41:09 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記

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何シテル?   07/26 10:58
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