ジーンハックマンさん夫妻が他界したので、フレンチ・コネクションを思い出しました。
戦後から1970年代にかけての麻薬の輸入は欧州の東側から大西洋経由で我が国に運ばれてたそうで、一つ有名だったのが、1962年製のシトロエン・DS・シャプロン・デカポタブル(デカポタブルは英語のDecapitate, 頭を切り落とす意味です、要するに自動車の屋根を切り落とすと言う訳ですね。フランス語、流石です)が不思議な事に大西洋を7回も往復している事実に米税関が気付き、1968年の4月にニューヨーク港に陸揚げされた際、税関が極秘にバラして燃料タンクやら内部に麻薬が隠されているのを発見。その後バレない様に元の状態に戻して引き取りに来る人物を待つども誰も来ず。結局犯人は逮捕されたそうですが、その実車は北米に残りどこかの博物館に最近まで展示されていたそうですが、ぼくは見逃しました。
シトロエンDSの燃料タンクは後部座席の下。この黄色いパッドの下に鉄板があり、それを取り外すと現れます。
普通自動車の燃料タンクはとても難しい場所に設置されていて、燃料ポムプやら燃料計の測定部などを交換する際には難儀しますが、DSはいとも簡単です。後車軸前方、さらに左右に走る図太い骨格に囲まれていて非常に安全な設計になっています。
その代わり給油口は後フェンダの後端にあるので、この長い鉄パイプで燃料タンクまで繋がっています。パイプとタンクはゴムの短いパイプで接続されていて、年次が経つとゴムが硬化して亀裂が入り、燃料がじゃばじゃば漏れます。
デカポタブルはステーションワゴンのシャーシを使っているので、ジャッキアップする際のつっかえ棒の支点が前後2つあります。床下側面に見える2つのの黒い穴がそうです。
セダーンのつっかえ棒支持点は一つだけ。
ステーションワゴンにも穴が2つ見えます。このステーションワゴン、荷物は余り積めないんですがぼくの好きだった車種の一つで、北米だけには特別仕様でシトロマチックが用意されていました。本国でもステーションワゴンは高級仕様のパラースはなかったので、米仕様のシトロマチック車にパラースの装備を植え付けたら素晴らしいなどと昔は空想していました。(偽パラース仕様は結構多く、でも細部を見れば直ぐバレます)
これが密輸に使われたデカポタブル。当然植物性油のLHS仕様。この頃はエンジン室内の温度管理に苦労したらしく、クロームで縁取られた換気口がフェンダー上に付いており外観を台無しにしていました。燃料タンク内に ”ブツ” を積んでいたので、他に容量の小さい補助燃料タンクを増設して、短距離の走行を可能にしていたそうです。ライセンスプレート下2桁の ”77” は登録場所がセイヌ・エ・マーン縣を示します。
フレンチ・コネクションの原作、と言うか実際に元になった事件に使われていたのは、ビュイックのインヴィクタ、この自動車です。
フレンチ・コネクション2ではジーン・ハックマンさん、DS、じゃなくて廉価版のIDの後席でアイスクリームを食べます。劇中で、マヨネーズと言う言葉が通じなく、何回もメーヨ、メーヨと繰り返すのが可笑しかったです(ハイ、我らはマヨネイズの事を略して ”Mayo" メーヨと言うことがあります。
そのジーン・ハックマンさんの駆る(いや、乗っ取る)のはポンテイアック・ルマンズ・ハードトップ・セダーン。このミッドサイズ車に何のエンジンが載っていたかは知る故もありませんが、望めば7,500ccの強力エンジンも選べたのですから凄いです。
そのレマンズ、1971年と1972年だけにあった趙廉価仕様のT-37。非常に珍しい車種です。装備が殆ど省かれているのに、エンジンは同じく7,500ccまで積めたので、それに手動変速機などを選べばとんでもない ”スリーパー” が作れました。2年間で合計36,000台のT-37が生産され(当然廉価車を望む家庭主婦やら老人達が主な購買層を生産側は見ていた)その内V8エンジンが5,802台、7,500ccの高性能エンジンがたったの54台!たまに市場に出回りますが、気の遠くなるような値が付きます。
フレンチ・コネクションの影視で密輸に使われたのはシトロエンでは無く、リンカン・コンチネンタル・マークIII。当時フォードの社長だったリー・アイアコッカが、キャデラックのエルドラードやらに危機を感じ、設計部の副社長、ジーン・ボーデイナントさんに、(モデル末期の)サンダーバードにロールスロイスのラジエータグリルを付けて、豪華な内装にしてみろ、と最低限の経費で開発、目論見は見事に当たり、コンチネンタルがモデルチェンジするまでの3年間、一度もエルドラードに販売台数で負けた事はありませんでした。その上最低限の開発費用とサンダーバードとの共用部品点で非常に高利益の車種でした。
印象に残るブルックリンでのカーチェース場面。こう言う時に限って必ず乳母車(非常に興味深い日本語ですね、乳母とは)が出てきます。
その場所の現在。ブルックリンは86丁目とニューアトレクト通り。
その撮影車。
あれ、何処かで見たような計器盤、ジーン・ハックマンさんは競争自動車の運転でも有名でした。特に1977年の加州ロングビーチで開催されたトヨータ提供の有名人レースに参加してから、長い間トヨータ車を使っての競争。その一場面です。
当時は自動車製造業、運転技術の優れた有名人を起用して宣伝に使うのが流行っていたのか、他に有名なのはポール・ニューマンさんですね、彼は勿論日産自動車。でも彼とジーン・ハックマンさんの違いは、ポール・ニューマン氏は日産自動車の宣伝・広報に積極的に活動したのですが、ジーン・ハックマン氏はトヨータの広告などには全く起用されませんでした。運転の腕は一級だったそうですが、1980年代後半になると、自分は役者で、競争自動車の運転には向いていないと、自分から遠のいていった話でした。
ハックマンさんが1番有名だった競争は、1983年にフロリダ州はデイトーナ・ビーチで行われた、ペプシコーラ協賛の、24時間耐久競争ですね。でもこれは彼が直接トヨータ傘下で出場した訳ではなく、オール・アメリカン・レーサーズと言う競争会社の専属運転手と言った形で参加したものでした。
余談ですがこの競争、ジーン・ハックマン氏と一緒に運転したのは日本のマサノリ・セキヤ氏。後にルマンズ24時間競争で優勝した方です。
このオール・アメリカン・レーサーズと言う会社は、あの有名なダン・ガーニーさんの率いる会社でした。ダン・ガーニーさんは言わずと知れた競争自動車の設計、製造、運転、兎に角頭脳の優れた天才的な人でした。1960年代は彼とフォード自動車との協力があり、マーキュリー・クーガーのダン・ガーニー仕様などと言う特別車もあったほどです。これは近代にもマスタングで再現されました。
ヒコーキ屋の分際で空力學は少しは知っていなければならない我が身で、この、ダン・ガーニーさん、翼の境界層制御の装置を発明して(競争自動車の空力に使う)、ガーニー・フラップと言うのがあるそうです。恥ずかしながら、知りませんでした。。。境界層の剥離速度を抑える装置らしいです。ふむふむ、なかなか勉強になるわい。。
ガーニーさん、例の米国東海岸から西海岸まで最速を競う、キャノンボール・ランの第一回に、その競争の創立者、ブロック・イェイツ氏と共謀して無改造のフェラーリデイトーナで2,876マイルをたった36時間弱で走り神話を作ったのも思い出です。以前書きましたが、ブロック・イェイツ氏はぼくの育った近く、西ニューヨーク州のキャスタイルと言う田舎町に大きな家を持っていて、お元気な頃は結構な数の有名人が訪れていたとか。
ガーニー氏は1970年後半からトヨータと関係する機会が多くなり、多分その影響で、このデイトーナでの耐久競争に走るセリカを使うことになったと思います。1980年代に入ると彼はトヨータの宣伝にも出演するようになり、特に新型になったスープラをロングビーチ市内で走り回る広告が思い出されます。
最近になってもフォードからダン・ガーニー仕様が出ていました。彼は2018年に他界されました。
ブリスター・フェンダのA60も好きな自動車の一つですけど、その一つ前のA50も憧れますね。伸び伸びとしたロングノーズ、鏡面を細いメッキで枠囲されたBピラー。運転してみると、まだボール循環式の操舵、固定後車軸などお世辞にも ”スポーテイー” では無いのですが、その雰囲気ですね、外も中も、が素敵でした。
ぼくはこの革張りの内装より、細い縦線の入った布ばりに憧れました。特に赤い内装のやつが。。
2000GTを彷彿させるT文字ラジエータグリルにEFIのバッジ。嗚呼。
この場所は加州サンデイエーゴにあるバルボア公園です。
こちらもサンデイエーゴにある、創業1888年の由緒あるホテル・デル・コロナード。
ジーン・ハックマンさん、その後もトヨータ好きは続いていたみたいで、わずか数年前に5700cc8気筒375馬力のトヨータ・ツンドラ四輪駆動トラックTRD仕様を購入、愛車にしていたと記事が出ていました。
ポパイ・ドイル
キーリー上院議員
話の筋が非常に上質につながっている、泣いて笑ったバードケージ。あのロビン・ウイリアムスもあっちへ行っちゃった。。涙。
今日のオマケ。1972年マズダの試験車。広島登録のライセンスプレートなのが不思議です。。。
場所はロスアンジェリース、535グランド通り。
