• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

JetBoyのブログ一覧

2025年03月15日 イイね!

ジーン・ハックマン氏とトヨータ

ジーン・ハックマン氏とトヨータ















ジーンハックマンさん夫妻が他界したので、フレンチ・コネクションを思い出しました。

戦後から1970年代にかけての麻薬の輸入は欧州の東側から大西洋経由で我が国に運ばれてたそうで、一つ有名だったのが、1962年製のシトロエン・DS・シャプロン・デカポタブル(デカポタブルは英語のDecapitate, 頭を切り落とす意味です、要するに自動車の屋根を切り落とすと言う訳ですね。フランス語、流石です)が不思議な事に大西洋を7回も往復している事実に米税関が気付き、1968年の4月にニューヨーク港に陸揚げされた際、税関が極秘にバラして燃料タンクやら内部に麻薬が隠されているのを発見。その後バレない様に元の状態に戻して引き取りに来る人物を待つども誰も来ず。結局犯人は逮捕されたそうですが、その実車は北米に残りどこかの博物館に最近まで展示されていたそうですが、ぼくは見逃しました。

シトロエンDSの燃料タンクは後部座席の下。この黄色いパッドの下に鉄板があり、それを取り外すと現れます。


普通自動車の燃料タンクはとても難しい場所に設置されていて、燃料ポムプやら燃料計の測定部などを交換する際には難儀しますが、DSはいとも簡単です。後車軸前方、さらに左右に走る図太い骨格に囲まれていて非常に安全な設計になっています。


その代わり給油口は後フェンダの後端にあるので、この長い鉄パイプで燃料タンクまで繋がっています。パイプとタンクはゴムの短いパイプで接続されていて、年次が経つとゴムが硬化して亀裂が入り、燃料がじゃばじゃば漏れます。


デカポタブルはステーションワゴンのシャーシを使っているので、ジャッキアップする際のつっかえ棒の支点が前後2つあります。床下側面に見える2つのの黒い穴がそうです。


セダーンのつっかえ棒支持点は一つだけ。


ステーションワゴンにも穴が2つ見えます。このステーションワゴン、荷物は余り積めないんですがぼくの好きだった車種の一つで、北米だけには特別仕様でシトロマチックが用意されていました。本国でもステーションワゴンは高級仕様のパラースはなかったので、米仕様のシトロマチック車にパラースの装備を植え付けたら素晴らしいなどと昔は空想していました。(偽パラース仕様は結構多く、でも細部を見れば直ぐバレます)


これが密輸に使われたデカポタブル。当然植物性油のLHS仕様。この頃はエンジン室内の温度管理に苦労したらしく、クロームで縁取られた換気口がフェンダー上に付いており外観を台無しにしていました。燃料タンク内に ”ブツ” を積んでいたので、他に容量の小さい補助燃料タンクを増設して、短距離の走行を可能にしていたそうです。ライセンスプレート下2桁の ”77” は登録場所がセイヌ・エ・マーン縣を示します。




フレンチ・コネクションの原作、と言うか実際に元になった事件に使われていたのは、ビュイックのインヴィクタ、この自動車です。


フレンチ・コネクション2ではジーン・ハックマンさん、DS、じゃなくて廉価版のIDの後席でアイスクリームを食べます。劇中で、マヨネーズと言う言葉が通じなく、何回もメーヨ、メーヨと繰り返すのが可笑しかったです(ハイ、我らはマヨネイズの事を略して ”Mayo" メーヨと言うことがあります。


そのジーン・ハックマンさんの駆る(いや、乗っ取る)のはポンテイアック・ルマンズ・ハードトップ・セダーン。このミッドサイズ車に何のエンジンが載っていたかは知る故もありませんが、望めば7,500ccの強力エンジンも選べたのですから凄いです。


そのレマンズ、1971年と1972年だけにあった趙廉価仕様のT-37。非常に珍しい車種です。装備が殆ど省かれているのに、エンジンは同じく7,500ccまで積めたので、それに手動変速機などを選べばとんでもない ”スリーパー” が作れました。2年間で合計36,000台のT-37が生産され(当然廉価車を望む家庭主婦やら老人達が主な購買層を生産側は見ていた)その内V8エンジンが5,802台、7,500ccの高性能エンジンがたったの54台!たまに市場に出回りますが、気の遠くなるような値が付きます。


フレンチ・コネクションの影視で密輸に使われたのはシトロエンでは無く、リンカン・コンチネンタル・マークIII。当時フォードの社長だったリー・アイアコッカが、キャデラックのエルドラードやらに危機を感じ、設計部の副社長、ジーン・ボーデイナントさんに、(モデル末期の)サンダーバードにロールスロイスのラジエータグリルを付けて、豪華な内装にしてみろ、と最低限の経費で開発、目論見は見事に当たり、コンチネンタルがモデルチェンジするまでの3年間、一度もエルドラードに販売台数で負けた事はありませんでした。その上最低限の開発費用とサンダーバードとの共用部品点で非常に高利益の車種でした。


印象に残るブルックリンでのカーチェース場面。こう言う時に限って必ず乳母車(非常に興味深い日本語ですね、乳母とは)が出てきます。


その場所の現在。ブルックリンは86丁目とニューアトレクト通り。


その撮影車。


あれ、何処かで見たような計器盤、ジーン・ハックマンさんは競争自動車の運転でも有名でした。特に1977年の加州ロングビーチで開催されたトヨータ提供の有名人レースに参加してから、長い間トヨータ車を使っての競争。その一場面です。




当時は自動車製造業、運転技術の優れた有名人を起用して宣伝に使うのが流行っていたのか、他に有名なのはポール・ニューマンさんですね、彼は勿論日産自動車。でも彼とジーン・ハックマンさんの違いは、ポール・ニューマン氏は日産自動車の宣伝・広報に積極的に活動したのですが、ジーン・ハックマン氏はトヨータの広告などには全く起用されませんでした。運転の腕は一級だったそうですが、1980年代後半になると、自分は役者で、競争自動車の運転には向いていないと、自分から遠のいていった話でした。


ハックマンさんが1番有名だった競争は、1983年にフロリダ州はデイトーナ・ビーチで行われた、ペプシコーラ協賛の、24時間耐久競争ですね。でもこれは彼が直接トヨータ傘下で出場した訳ではなく、オール・アメリカン・レーサーズと言う競争会社の専属運転手と言った形で参加したものでした。


余談ですがこの競争、ジーン・ハックマン氏と一緒に運転したのは日本のマサノリ・セキヤ氏。後にルマンズ24時間競争で優勝した方です。

このオール・アメリカン・レーサーズと言う会社は、あの有名なダン・ガーニーさんの率いる会社でした。ダン・ガーニーさんは言わずと知れた競争自動車の設計、製造、運転、兎に角頭脳の優れた天才的な人でした。1960年代は彼とフォード自動車との協力があり、マーキュリー・クーガーのダン・ガーニー仕様などと言う特別車もあったほどです。これは近代にもマスタングで再現されました。


ヒコーキ屋の分際で空力學は少しは知っていなければならない我が身で、この、ダン・ガーニーさん、翼の境界層制御の装置を発明して(競争自動車の空力に使う)、ガーニー・フラップと言うのがあるそうです。恥ずかしながら、知りませんでした。。。境界層の剥離速度を抑える装置らしいです。ふむふむ、なかなか勉強になるわい。。




ガーニーさん、例の米国東海岸から西海岸まで最速を競う、キャノンボール・ランの第一回に、その競争の創立者、ブロック・イェイツ氏と共謀して無改造のフェラーリデイトーナで2,876マイルをたった36時間弱で走り神話を作ったのも思い出です。以前書きましたが、ブロック・イェイツ氏はぼくの育った近く、西ニューヨーク州のキャスタイルと言う田舎町に大きな家を持っていて、お元気な頃は結構な数の有名人が訪れていたとか。


ガーニー氏は1970年後半からトヨータと関係する機会が多くなり、多分その影響で、このデイトーナでの耐久競争に走るセリカを使うことになったと思います。1980年代に入ると彼はトヨータの宣伝にも出演するようになり、特に新型になったスープラをロングビーチ市内で走り回る広告が思い出されます。


最近になってもフォードからダン・ガーニー仕様が出ていました。彼は2018年に他界されました。


ブリスター・フェンダのA60も好きな自動車の一つですけど、その一つ前のA50も憧れますね。伸び伸びとしたロングノーズ、鏡面を細いメッキで枠囲されたBピラー。運転してみると、まだボール循環式の操舵、固定後車軸などお世辞にも ”スポーテイー” では無いのですが、その雰囲気ですね、外も中も、が素敵でした。


ぼくはこの革張りの内装より、細い縦線の入った布ばりに憧れました。特に赤い内装のやつが。。




2000GTを彷彿させるT文字ラジエータグリルにEFIのバッジ。嗚呼。


この場所は加州サンデイエーゴにあるバルボア公園です。




こちらもサンデイエーゴにある、創業1888年の由緒あるホテル・デル・コロナード。


ジーン・ハックマンさん、その後もトヨータ好きは続いていたみたいで、わずか数年前に5700cc8気筒375馬力のトヨータ・ツンドラ四輪駆動トラックTRD仕様を購入、愛車にしていたと記事が出ていました。


ポパイ・ドイル


キーリー上院議員


話の筋が非常に上質につながっている、泣いて笑ったバードケージ。あのロビン・ウイリアムスもあっちへ行っちゃった。。涙。


今日のオマケ。1972年マズダの試験車。広島登録のライセンスプレートなのが不思議です。。。


場所はロスアンジェリース、535グランド通り。
Posted at 2025/03/16 20:09:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2025年03月01日 イイね!

ロータリーエンジン じゃましないでね

ロータリーエンジン じゃましないでね













2月最後の日。ニミッツ大通りを左折しようとしたら、あれま、ありま。トラックの上に載ってたのは何と、マズダのステーションワゴン、おまけにヴァンケルエンジン搭載のRX−3ではないですか!かなり錆びていますが、加州のライセンスプレートをぶら下げていたので、多分本土から持ってきてサンドアイランドで陸揚げされて、今から修理工場にでも持って行かれるのでしょう。


当時、夢のエンジンとされていたヴァンケル・エンジン、またはロータリー・エンジンですね、マズダが最初に北米に進出して来た頃、1970年4月14日、ワシントン州シアートル港へ60台のR100を送り出したのが最初でした。あの、現在の軽自動車より軽いサブコムパクトの車体に1リットル弱の排気量で100馬力を叩き出す、おまけに電気モーター如く無振動のエンジンに、関係各社、ぶったまげたのは想像に容易です。


マズダの初めての北米車、品揃えは小型の1200、ロータリーエンジンのR100と、中型の1800。


ピックアップトラックもあるでよう。




ハワイにも結構あったらしい。。。ダイハツ・コンパーニュ、いすゞのべレルとベレット、日野コンテッサにプリンス・スカイライン、あの頃のハワイは非常に面白い自動車社会だったと思います。。。




これはモンタナ州ミズーラ。結構田舎なんですが、ここにも1800が。ぼくが以前働いていた会社の昔の写真で、森林火災消火を業務とする会社でした。ヒコーキは第二次世界大戦時の海軍艦船雷撃機で、これを改造して火災遅延剤を空から噴霧します。ジョージWブッシュ大統領がこれを駆る操縦士として有名でした。


その後、業界異例の趙長期エンジン保証、なんと50,000マイルに魅力を感じて買った消費者が、その距離を越える頃になるとエンジンのオイル消費が増え、幸運だった人は無償で修理してもらいましたが、その該当台数があまりにも増大したのと、50,000マイル越えてからの車両は保証対象外となり、ロータリーエンジンの不評が広がったのでした。マズダはピストンエンジンの同車種を揃えなんとか生き延びます。

いつも不思議に思っているのは、衝撃吸収バンパが始まっても、RX4、それもハードトップだけが以前からのバンパでやり過ごしていた事です。これは1975年の広告。多分何らかの理由でエグゼンプションを貰っていたとは察しますが、理由は?


モデル末期やら、販売台数がごく僅かに限られているとかで、エグゼンプションは得られる場合があるのですが、RX-4は1976年に車体前部だけをちょっと弄って、大型バンパを装備。一層1975年の謎が深まります。


謎と言えば、例のコザのRX-2ですね。その後近所の自動車やさんとの会話で、とうマズダは左側通行に近くなってもLHDの車両を結構売ってた話を聞きました。でもこの車両は単にLHDだけではなく、明らかに北米仕様。なのにSOFAのEプレートではないのが摩訶不思議。いずれかはここの地主さんに事情を聞きに行かなくては。。。




ロータリー化はピックアップ・トラックまで広がり、REPU
RotaryEnginePickUp) と呼ばれ、これは一定の数が出たみたいで、ぼくが1980年代に自動車整備学校に通っていた時、実験の相棒の若い子がコレに乗ってました。


そのREPU、加州の砂漠の飛行場の裏に、数台が保管されていました。この写真を撮った数年後、コレらの車両は跡形も無く消え去ったそうで、警備のオッサンも目撃していたらしく、一体何が起こったんだろう、と言ってました。






RX-4の2扉ハードトップは一足先に廃止され、その代わり投入されたのが、あの、瞬間コスモの匂いの、アレです。日本製オールズモビル・カトラスと言いたくなる様な素敵なデザイン。今でもぼくの好きな一台です。でも導入されたのがRX-7が登場する前の2、3年間だけ、販売数は微々たるものでした。




余り知られてない事ですが、(いや、余り知られたくない事でしょうけど、特にこの時勢では)。ロータリーエンジンの発明者として知られる、フェリックス・ヴァンケル氏、戦前戦中はヒットラーのナチ党の支持者だけでなく、その傾き方が余りにも熱狂的過ぎて、ナチ党から解脱、それに2回も!ジュイッシュ嫌いの人だったらしいです。ヘンリー・フォードとは会話があったのかどうか。。ヴァンケル氏はその後ネッカーサルムのNSUで働きますが、彼は一生、自動車の運転免許を取得できなかったそうで(近視が酷かったらしい)、移動は自分のRo80をお抱え運転手に乗り回していたとか。


ラムシュタイン空軍基地にて。
Posted at 2025/03/02 06:05:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

プロフィール

「津波警報 盆ダンス et al. http://cvw.jp/b/1945280/48590822/
何シテル?   08/10 06:11
I'm JetBoy. Nice to meet you. 実家は西キャナダ、住むのは米ハワイ州オアフ島、家族は香港と日本の、日系アメリカ人です。多分...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/3 >>

       1
2345678
91011121314 15
16171819202122
23242526272829
3031     

愛車一覧

トヨタ プリウスPHV トヨタ プリウスPHV
税金控除。駐車代無料。充電免費。貧乏家族の頼り者。
トヨタ プリウス トヨタ プリウス
家に置いてある自動車、でも出稼ぎ生活なので殆ど使用していません。走行距離が11年で590 ...
プジョー 505 プジョー 505
矢張り安物ルノー車を毎日修理していると、”いつかはプジョー” と言う流れに溺れて、最後の ...
ルノー その他 ルノー その他
シカーゴで姉貴の乗っていたマズダRX-5 (コスモ) が珍しく動いていたので中古車屋に乗 ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation