• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

JetBoyのブログ一覧

2024年12月29日 イイね!

4扉ハードトップ

4扉ハードトップ







4扉ハードトップ。思い出すのは子供の頃、ぼくを可愛がってくれてたハイスクールの校長先生が自動車好きで、よく彼の後をついて行ったものです。当時彼が乗っていたのが、1976年型、Bボデー、ダウンサイズする直前のフルサイズ、インパーラの4扉ハードトップでした。車体が銀メタリックで屋根が赤いヴァイナルトップ、内装は真っ赤なヴァイナル張り。エンジンは勿論、排気量350立法インチ5,700cc、所謂スモールブロック・シェヴィーV8。秋になると僕らの学級は放課後に町外れの野生の林檎の木からりんごを取って(拾う?)、校長先生のインパーラで引っ張る小型トレーラーにりんごを満載して、30分程走ったキャスタイルと言う村にある(キャノンボール・ランで有名な、あのブロック・イェーツの住んでた近く)りんごをジュースにしてくれる工場に持ち込んでりんごジュースにしてもらい、後日、放課後やら週末に、国道を行き交う自動車にりんごジュースを売り、その売上金で週末のピッザ・パーティーをしたり、遠出の資金にしてました。いい思い出です。

角目が高級版のカプリース。廉価版のインパーラは丸目の前照灯。このオペラ窓が付いているのは1975年と1976年だけ。以前と随分印象が違うと共に、同じ廉価版のキャデラック・カレイと殆ど姿が非常に似ていました。まあシェヴォレイもそれを狙ってたのかも知れませんが。


全米最後の4扉ハードトップだったのは1978年型クライスラーの廉価版ニューポートと豪華版のニューヨーカー。このニューヨーカーは実質的に1975年で消えてインペリアルと同じです。


4扉ハードトップ、GMはスポーテイーな印象で売っていました。これは1956年、ほぼGM全てのブランドに用意されてた様子の宣伝。


フォード・フルサイズ最後の4扉ハードトップはGMより早く終わりを告げ、1974年が最後でした。


フォード中型は1971年のトリーノが最後の4扉ハードトップ。


昔は4扉ハードトップ・ステーションワゴンなんて素敵な車種もありました。なんと豪華な発想。。。これは1957年型ビュイック。


ランブラーなど4扉ハードトップもあれば。。。


普通のステーションワゴンも選べたと言う、摩訶不思議な車種構成。




一番小さい4扉ハードトップは多分、リヤエンジンのコムパクト車、シェヴォレイ・コーヴェアの後期型でしょう。素敵な形です。ぼくのハイスクールの先輩のショーンくんがこのコーヴェアに凝っていて、卒業後も寄宿舎のあちこちにコーヴェア部品を隠し持っていて、たまに取りに戻ってきてました。彼の実家はニューヨーク州北、キャナダはモントリオールに近いウオータータウンと言う街で、近くのマシーナと言う村にあるアルミナム製造で有名なアルコア社の工場のお向かいにGMがアルミナム鋳物工場を作り、コーヴェアに積まれる特異な水平対向空冷エンジンの部品を製造してました。コーヴェアの生産中止後は、同じくシェヴォレイのコムパクト車ヴェイガのこれまた特殊な総アルミナム製の直列四気筒エンジンの製造に切り替えて生計を立ててました。

シェヴォレイ・コーヴェアの後期型。なんともカッコいい姿、サメを彷彿させるのはコーヴェットに似てます。でも消費者安全鬼のラルフネーダーに叩かれ長続きしませんでした。



インターネットを見ていたら、あれま、日本にも、素晴らしい状態のコーヴェアが。おまけにココ、横浜中華街の天后!ぼくの生まれた病院はこの近所にありました。


1969年型、最終年ですね。素晴らしい状態。左手前にA.I.R. (Air Injection Reaction) 2次空気供給のエアポンプが見えます。1968年と1969年にはこのエヤポンプのおかげでエアコンを付けられないんです。排熱処理の余裕がなかったとの事。




コーヴェアのエアコンはコンデンサーがエンジンの上にデーンと載っかっていて、トランクリッド(フッド?)に切ったルーヴァーから直接空気を取り入れ下にある水平に回転する羽根で空冷6気筒のシリンダを冷却していました。エアコン車は矢張り冷却や整備の取り回しと、色々問題あった様です。。。





そこで1966年と1967年はコンデンサを後席背もたれ裏に移動して、随分スッキリしました。でも最初から廉価車のコーヴェアのエアコン装着率は総生産数のたった3%くらいで、あまり普及しなかったそうです。コンプレッサフリジドエア社製の有名な、A6型ですね。1962年から当時のGM車をはじめ様々な車種に使われたこの、斜板式六気筒のコンプレッサ、最大42,000BTUの熱量を発揮でき、下手な小型住宅一軒冷やせる物です。オリジナルの鉄製は40パウンドくらいの重さが欠点でしたが、アルミナム製もあり、あれは確か20パウンドくらいでしたっけ。何せ1981年頃まで使われていたので、部品豊富です。


そう言えば思い出したんですが、コーヴェアの自動変速機って、パーキング P のポジションが無いんです。なので駐車の際、エマージェンシーブレーキをしっかり踏まないと転がり出します。シフトレヴァーはダッシュボードのレヴァー。


これは同時期に登場した、同じくGMのコムパクト車、ポンテイアック・テンペストも同様で、シフトレヴァに ”P” がありません。初期型に。これはテンペストは車体の床部と、車体後ろ!にあるパワーグライド自動変速機をコーヴェアとほぼ共用してたからみたいでした。現在は自動変速機の表示がFMVSS102法で決められていて、PRNDLは時計回りに表示されないといけないとか色々決まっています。まあ、最近の電気式シフトレヴァは随分違う法律に当てはまる様ですが。。

これがテンペストの駆動系。以前この事、書きましたっけ。自動変速機、トークコンヴァータは後車軸にあります。


これがそのテンペスト、自動変速機のシフトレヴァー。コーヴェアと同じくダッシュボードから生える。でもこれが頗る不評でのちに普通のステアリングコラムから生えるレヴァーになっちゃいました。


テンペストのもう一つのへんちくりんな機構は、3,200ccの四気筒エンジン(通称トロフィー4)。同じポンテイアックの6,400cc V8エンジン(通称トロフィー8)の方バンクを削ぎ削った!空いた場所に吸気管、気化器を持ってきて、排気はいじらず外側。何という発想でしょう。


ああ、脱線、脱線。4扉ハードトップに戻りましょう。

1970年に入り連邦車両安全基準法FMVSSが始まると、各自動車製造業には激震が走りました。ちゃーすがやーです。

車体の構造では側面衝突の基準が生まれ、これがFMVSS214法。これは扉の中に衝撃緩和の補強材、所謂インパクトビームを装備し対応し、GMは法律が発効する以前、1960年後半には既に対処始めてました。

側面衝突法より4扉ハードトップに影響を与えたのが、FMVSS216法、屋根の強度基準法案だと察します。この試験は、自重150%の重さをAピラーの頂点に加え、構造変形が最大5インチ以内に収まらないといけないと言う物です。1973年に発効したこの法律は今後改定され次第に厳しくなるとの見解で、各社、4扉ハードトップを廃止したんですね。皮肉な事にこの改定は製造側の圧力で、結局変わらず現在に至ります。


製造側、それ以上に恐れていたのが、いずれかはもっと厳しい検査基準、ロールオーヴァー(動的な横転・回転)がFMVSSに追加されるかが話題になりますが、今だにFMVSSには入っていません。

ロールオーバーの試験は自分達でも既に行って、結果がどの様になるかは知っていたはずです。これは1973年型フルサイズBボデーのインパーラの横転試験の結果。Aピラーが見事に潰れています。




実際、1974年でしたか、GMの試験場でタイヤの性能評価試験中、車両が横転し屋根が潰れ運転手が死亡して、以後、社内規定が変更になり、同様の試験をする場合、運転手のヘルメット着用とロールバー装備が義務付けられました。

FMVSSがロールオーヴァー基準を取り入れない代わり、保険会社が出資して運営する民間団体、IIHS (Insurance Institute for Highway Safety, ハイウェイ安全保険財団)が独自に実施する衝突実験で各車種を分析・評価し、政府及び製造側に働きかけ構造の改良を求める動きが根強くあります。彼らはロールオーヴァー(動的転倒事故)の試験、さらにFMVSS216と同様、Aピラー頂点に圧力をかけ、どの程度変形するかを割り出し、自動車購買時の評価として発表しています。(これをSWR数値、Strength to Weight Ratio と言いまして、 A ピラーが5インチまで変形する時の重量を車重で割った数値を使います)

車両が動的に横転し、回転する事故が4扉ハードトップの消滅に一番関与したと思われるのですが、一向に進展しないFMVSS基準が話題に上らない間、巷ではフォード・ブロンコII、いすゞ・ツルーパー、スズキ・サムライ等の横転問題が社会問題になり、何せこれらは商用車または多目的車なので、適応するFMVSSは乗用車の基準よりはるかに緩く槍玉に上がり、結局車体の近代の車両設計を汲んだ補強、前面、後面、側面の新しい衝突基準への適合も飛躍的に進み、2009年からはFMVSS126法、車両安定装置(スタビリテイ・コントロール)装着の義務化が始まりました。そうすると、近頃の多彩な機能を持つ新型エヤバッグ装備の普及と相まって、各技術の相乗効果とも相まって総合的に安全技術が進み、ロールオーヴァー基準の発足を待たずに、次第にロールオーヴァー事故の件数が格段に減りました。




1970年代、ロールオーヴァーの基準が法律になると恐れ、各社、コンヴァーチブル形状も全て廃止にしたのですが、結局1980年代にそれらの車体形状が徐々に戻ってきたのも、これらに関する法律が実現しなかったのも、ちょうど時期を同じく政権交代があり、安全性より経済性を重視する方針に進路が変わり、バンパー基準の緩和と同じ理由でした。

ぼくが経験上、ロールオーヴァーで一番感心したのは、サーブと古いメルセデスですね。サーブは99の時代からAピラーと屋根の部分からホイールハウス下まで貫くぶっとい補強柱を入れていて、車体を逆さ落下させる試験を公表したりしていましたが、以前働いていた会社の重役秘書のダーリーン叔母さんの、灰色のちょっと入った北欧独特の燻んだ青い色のサーブ900セダーン4扉のノッチバックで冬場に単独事故をお起こし、畦道に転落しゴロゴロ4回転したのに彼女は殆ど無傷で、気丈な彼女は家に帰る前にサーブの販売店に寄り、同じ車種をもう一台注文してから帰宅したと言うのを知ってます。昔のサーブはこう言った安全性になりふり構わず独自の技術で答えた、面白いくるまを作る会社でした。


古いメルセデスもロールオーヴァーにご熱心でよく車両を転がしていましたね。彼らの感心する事は、例のコーン型ドアラッチやらを開発すると、一番安い車種から一番高い車種まで全てに装備する事でした。まあ、今じゃこんな風に転がす実験やらなくても全部下請けやらがコンピュータのシミュレーションでやっちゃうんでしょうけどね。会社の風紀が変わっちゃったのが残念です。


ウチの親が未だ、キャナダのウエスト・ヴァンクーヴァに住んでいた頃、奥の細道と言って森林の中にある暗い家、でもお隣さんが歌うたいのブライアン・アダムスの家、である冬の夜、親の帰ってくるのが遅いんです。そのころは携帯電話なんてまだ普及していませんでしたから、心配していると遠くで緊急車両のサイレンが聞こえ始めるのです。それも高速道路の方からです。居ても立ってもいられなく我がVWジェッタで高速道路の出口まで行くと、あちらから来る親のヴォルヴォ965と鉢合わせになり、どうしたのと聞くと、いや高速道路の出口で大事故があり、メルセデスがひっくり返っていたのよ、と言うので見にいけば、W124が横になって寝ており、路上に残した傷から見れば、最低4回は回転していた模様。それでも緊急隊が例のピラーを切る巨大なカッターなど使わず、普通に扉を開けて救助していたのを見て、矢張り凄いなと感心した次第。。


長年、日本の自動車製造会社は輸出国別に、安全基準の緩い国へは違うドンガラの車両を生産していたのですから、まあ企業気質が違うと言えばそれまでですが、考え方の違いが随分あるものだと思いました。

最後に一つ、自動車雑誌の有名記者、ジーン・ジェニングスさんが先週亡くなりました。ぼくにとっては彼女はいつまでもジーン・リンダムードです。(結婚する前の名前)彼女はお父さんが業界誌クレイン出版社が発行する、Automotive Newsのお偉方で、彼女はデトロイトでタクシーの運転手をしていた時、お父さんの紹介でクライスラーの実験部門に入り運転試験を担当し、クライスラー労働組合の機関誌に文を書いたのを皮切りに、  1981年からは、全米最大の自動車雑誌、昔は硬派で有名だった、Car and Driver誌の記者になり、後日独立したDavid E. Davis氏の創刊したAutomobile誌で長らくウイットの富む独自の記事を書き、媒体各社にも出演し、有名になりました。化粧道具に入っている爪を磨くヤスリ板で、自分が乗っていたダッジ・パワーワゴンのブレーカーポイントを磨いてたり、今でも覚えている名文の数々。没70歳。アールツハイマー病だったそうです。



Posted at 2024/12/30 19:59:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2024年12月25日 イイね!

ボクシング・デイ 12月の旅日記。













日本はクリスマス翌日、すでにボクシング・デイですね。ウチの人は英国圏で育っているので、北米ではボクシング・デイが無いので家事放棄できずにブツクサ言ってます。そう、米国人の殆どはボクシング・デイを多分知らないと思います。以前のお仕事で、旧英国領、フィージー、ニュージーランド、オウストラリヤ、シンガポー、香港をぐるぐる回っていた際、ボクシング・デイが公休日となっている所を覚えておかないと、荷下ろしやら燃料補給が遅れたりするので我らはクリスマス頃になると頭に浮かんできましたが。そうです、昔ぼくらのクリスマス時期は悪夢でした。運輸各社のクリスマス増便支援で駆り出され、12月初旬から米国内線の比較的短い路線を当てがわれ、我々だけでなく普段は中東なんかを飛んでいた会社もこぞってケンタッキー州やらに集合するので、これぞとばかり、連邦航空局の検査官も夜の夜中まで現れ抜き打ち検査なども行われ、その上この時期は当然天候も悪く、寒い中雪とかミゾレとかに悩まされ毎晩飛ばなければなりませんでした。。。そしてクリスマスの日になると契約最終日で、激務を終えた機体を整備工場まで回送し、機内食の残飯を宿で食べながら、我が社の機体が爆破されるブルース・ウィリス主演のダイハードを見て爆眠するのがいつもの習わしでした。。。。ああ、懐かしい。でも無いか。笑。

今月、用事で再度日本へ行った際、例の巨人機は予想していた通りガラガラ、1人で一列占拠させていただき、良く眠らせていただきました。しかし二等席が全部で320座くらいあるのに、実際に搭乗した数は僅か80人前後。これを毎日2便飛ばしているんですから凄いです。昨日発表された報道も考えもので、この会社、今年は好調でハワイ便は最高の予約数と出てましたが(満席とは表現されなかったのがミソ)、これは以前の数に比べての話で、年末年始だけの瞬間風速的な数字なんですよね。一月からが一番日本からのお客さんの少なくなる時期なので、春先までまた寂しい搭乗数になると考えています。

空席の海。はい、これ到着1時間半前の図です。


1975年頃、横浜から自転車で通っていた東京・調布飛行場。もう飛行機は殆ど見掛けられず、以前の活気は完全に無くなっていました。


滑走路の反対側、京王多摩川線の多磨駅から火車に乗ろうと歩けば、一角が工事中。思えばこの一帯、以前は米陸軍の関東村居住区だった所。この街灯やらは1974年頃の返還後、ずっとあった奴ですね。なぜかこの区画だけ50年間放置されていて、やっと今年から商業施設の建設に向かって工事が始まった様子です。


関東村は一応米陸軍の管轄でしたが、実際には横田、立川、入間、府中などの各きちの従業員が住んでいた場所で建設されたのは1963年。それから11年間、軍属家族のホーム・スイート・ホームだったのです。面白いのは、関東村の前、この一帯はなんと、世界最大のハイドロポニックス・農場だったのです。ハイドロポニックスとは今流行りの、通常の土壌を使わず植物を育てる、所謂野菜工場です。戦後、進駐してきた軍隊は日本の衛生状態が悪く、畑では未だ人糞などを肥料にしているのを目にし、これじゃイカンと、戦後の進駐とほぼ同時に接収した調布飛行場の西側の用地に世界最新・最大のハイドロポニック農場を作ったのです。運営は米陸軍。そうです、軍隊が野菜の栽培を本格的にしていたなんて。こう言った軍の異業種参加って結構あるんです。

滑走路左側のソーラーパネルみたいな施設がその野菜栽培工場。


日本の技術者の養成も含めてこの巨大な野菜栽培のプロジェクトは1946年から1961年まで続き、専用の灌漑施設、冷蔵施設、引き込み線路やらもあり、収穫された新鮮野菜は日本国内中の米軍基地、及び韓国の軍施設にも流通されたそうです。

そのハイドロポニック農場が転用されて、関東村・居住区になったわけです。


新しスイーカのタッチパッドには少しの ”ひねり” が付いていて、これだけの工夫で混雑時の通過客数が格段に増加できるらしい。。流石日本の技術。


世にも珍しい、あのゲンバラのポーシャ。創立者が殺害された後、まだ営業はしているみたいですね。


沖縄に帰り、今回お世話になったのはダイハツ車。160,000キロ走っている割には良く走る。さらっと1リッターで20キロの燃費。10月に借りたこれより新しい三菱より燃費、使い勝手、格段に良い印象。5日で660キロ走りました。
 

おっとっと。南風原でカローラ20を発見。沖縄仕様車。この個体は目撃初めて。


後日、もう一回見に行きました。1973年型?ヴァイナル・トップだと思えば、2色塗装でした。まだ現役らしき。がんじゅ〜ね。




20の最終型ですね。


例のコザにあった20よりジョートー。


那覇軍港。返還後、どうなるんでしょうかね。因みにこの敷地内に軍属の機構、海兵クラブがあり、中のレストランは一般の人も使えます。返還後、何処へ移るのか。


那覇から羽田まで、対地速度はなんと620ノット!所要時間1時間30分。多分過去最速の記録かも。。。鶴さん最新のエヤバスA350。興味津々。


日本では電気自動車の普及、特に充電施設の少なさに驚きました。後日、家に帰れば相変わらず町中テスラだらけ。充電施設の取り合い。


こう言うのも売っているらしい。後は今流行りの輸入軽自動車。


ここの所ブログ更新サボっておりました。週末からまた書き始めます。ネタは結構あるので、ご期待を。
Posted at 2024/12/26 06:06:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2024年11月15日 イイね!

去り行くセダーン車、シェヴォレイ・マリブー

去り行くセダーン車、シェヴォレイ・マリブー








情報によりますと、1965年から続いていたシェヴォレイの中型車、マリブーの生産が今日、2024年11月15日限りで終了するそうです。

ご存知、マリブーは1965年に中型車のシェヴェルがモデルチェンジされた時に出された高級仕様のグレード名称。それがいつの間にか、シェヴェルの名前が落ちて、ただ単にマリブーと名付けられて今日まで生き延びてきました。

一昔前は恐ろしい程の数を売り捌き、アメリカ合衆国の象徴の一つとも言える自動車になりましたが、御多分に洩れず最近のSUV車の流行に押され、今日の生産分で横綱シェヴォレイの生産する最後のセダン型車になってしまいました。

これが最後になった現行型シェヴォレイ・マリブー。フルサイズのインパーラが無くなって久しくなりますが、貸自動車屋に行って一番大きなセダーンを持って来い、と言うと大抵このマリブーがあてがわれていました。


ぼくが最後にマリブーに乗ったのが、2013年となってます。この月にラスヴェイガスでボーイング737の限定免許を取得して、訓練の時に使っていたこの貸自動車を返す為にラスヴェイガスからロスアンジェリースまで転がしていったのがこの写真。いつもなら灼熱地獄の7月に試作車群を追いまくるデスヴァレーにて。


1978年にダウンサイズされた頃には中型車からはシェヴェルの名称が消えていました。この頃のGM2扉車はBピラーはあるのですが、扉窓は窓枠のないハードトップ型で軽快でした。対してフォードは殆どの2扉車に窓枠を残していたのが対照的でした。このダウンサイズされた型から4扉車の後扉窓が固定式になった際、余り文句が出なかったのが不思議です。おまけにあの頃は未だ冷房車が普及してなかったと言うのに。。。そうそう、この型からエンジンが全てV型エンジンになったんですよね。手動変速機も選べられました。この広告のセリフ、新しく切ったりんご!と言うのは、以前建国200年記念の際、大ブレイクした広告キャンペーン、野球、アップパイ、ホットドッグとシェヴォレイ (アメリカ合衆国を象徴する物の事です) を再度髣髴させたセリフなのです。ダウンサイズしてもやっぱりシェヴォレイはアメリカ合衆国を象徴する自動車なのよ、と。補足ですが、この広告の背後の人たちを見てみると、有色人種系の顔が殆ど見られず、特にアジア系が全く出てません。今じゃこんな広告は許されないんですな。。。近代の合衆国は随分違う国になっちゃいました。
 

この時代のシェヴォレイ中型車が一番輝いていたかな。特にSSスーパースポーツの高性能版がまだ活躍していて。セダーン型は例の、コロネード型ピラーをまとって、そうそう、4扉も窓枠がなかったですよね。背後の客船はクイーン・メリー号。ロスアンジェリース港に係留・展示されてある昔の豪華客船です。


豪華客船で思い出したのが、世界最速だった豪華客船、SSユナイテッド・ステーツ号(船の名称でよく使われるSSとは、スチーム・シップ、要するに蒸気で推進力を得る船の事を指します)が廃棄処分される裁判所の決定が今月下りました。SSユナイテッド・ステーツはメリーランド州バルテイモア港に係留されて随分長くなり、この歴史的遺産を博物館にしよう、会議場にしようなど、色々な計画が浮いては沈み、船舶自体も係留させておくだけでも莫大な費用がかかり、それを管理しているNPO財団も流石に裁判で負け、結局沖に曳航した後、海に沈める判決が今月下りたのでした。海に船やら、それこそ廃棄された飛行機を沈めると言うのは結構前例がありまして、当地ホノルルでも日本製の旅客機、YS-11を以前沖に沈め、人工魚礁にしてました。

そう、昔は豪華客船が花形旅行手段だったんですよね。これはキャデラックのリムジンから降り立ち、今からロンドンにでも行く光景を再現したのでしょうか。背後のお船がSS United States. GM系フィッシャー車体部門の宣伝。


SS United States は殆ど大西洋路線に使われていたみたいですが、西海岸加州からハワイにも当時は皆、客船で来ていました。殆どがマトソン海運社の客船。創業者のマトソンさんはスウェーデンからハワイに流れ着いて捕鯨の資材などを補給する会社から海運会社に成長して、その後不動産屋らにも業務を広め、現在でも貨物船をたくさん運行しています。とにかくこのSS United States は足のやはい事で記録を立てた有名な客船だったんです。




これが現在の、SS United States の哀れな姿。余りにも巨大で煙突が高く、灣のの外へ曳航するにも潮が一番低い日を選ばないと灣の外にかかっている橋をクリヤできないそうです。


1957年封切の銀幕、”Affair to Remember"  主演のキャリー・グラントとデボラ・カーが欧州からニュウヨウクへ戻る際に撮影された船が同じく、SS United States で、この船内で色々と出来事があるのです。その欧州からニュウヨウクへ戻る船上の2人を見ながら、自分は欧州からニュウヨウクへ行くデルタ航空便で、同じ大西洋を同じ方向に向かっている図。2012年6月14日となっています。






因みにこの1957年版、”Affair to Remember" は復興版で、原作は1939年の題名、”Love Affair" まで遡ります。近代では1994年に3回目の復興版、こちらの題名はまた ”Love Affair" と原作に戻り、キャサリン・ヘップバーンが出演する最後の作品でした。こちらは客船が太平洋を飛ぶボーイング747に変わり現代風になるのですが、アネット・ベニングの演技も素晴らしく、こういった類の復興版としてはかなり良い線を行ってました。



でもこの三つの内、一番有名なのは矢張り1957年版でして、トム・ハンクスとメグ・ライヤンの大ヒット作、”Sleepless in Seattle" もこの1957年版 Affair to Remember があらすじの基本になっています。


日本では ”めぐりあい” と言う題名だったみたいです。ふむふむ、的を得てますな。


1957年版の主役、デボラ・カーと言えば、代表作は矢張り、”From Here to Eternity" でしょうね。撮影は当地、オアフ島中央にあるスコーフィールド陸軍基地。真珠湾攻撃と恋愛物語を描いた名作です。特に浜辺で絡むシーンは非常に有名です。日本では地上より永遠なりの題名なのですね。フランク・シナトラも出てきます。若い頃の。


これが今でも語り継がれている浜辺の場面。


これが主な撮影現場の、スコーフィールド陸軍基地。今でも殆ど外観は変わってないです。






Posted at 2024/11/16 04:25:12 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2024年11月05日 イイね!

アラ来てたのね。知られざる輸入車、その1。

アラ来てたのね。知られざる輸入車、その1。













米合衆国に輸入されていた、知られざる珍車などを書いて行きたいと思います。連載と言っても気分次第の不定期になるので、ご容赦を。。。

その昔、仕事で寄る寄港地で、同僚とスズキ・サイドキックを共同所有して使っていた事がありました。二輪駆動の自動変速機、手動操舵仕様で、これがかなり単純ですが素直な良い自動車で結構気に入ってました。


鈴木が最初に合衆国へ四輪車を持って来たのが1985年。スズキ・サムライ。


後に操縦安定性で業界を覆すどえらい問題に発展する、スズキ・サムライ、一般には1985年がこのスズキ製ジープ型車が北米へ最初に輸入されたスズキ四輪車と認識されているのですが、実はこの軽便四輪駆動車、1970年代前半に合衆国に輸入されていたのでした。


輸入・販売をしていたのはスズキでは無く、キャリフォーニアはサンデイエーゴにあった、競走自動車に関与する一家で、インターナショナル・イクイプメント・コーポレーションと言う会社。輸入、デイストリビューション、法規適合、宣伝、やら一挙に抱えて、1970年から1974年、多分排気ガス規制が厳しくなる直前まで、合計にして3,000台を超える数を、主に西海岸地域で発売していたそうです。360ccの排気量、勿論分離給油でしたが2ストロークのエンジン。これで灼熱地獄のデスヴァレーから標高数千フィートの高山まで、車両保証付けて売ってたのですから大したもんですね。


今でもごく稀にこのLJ10が売りに出ているのを見かけます。




北のお隣、キャナダでも別途の輸入企業が1970年代後期から1980年代前期まで、このLJ 10・20・50やらを独自に輸入販売していたそうでした。

合衆国スズキはサムライで始めた1985年から2012年の末まで、数えて約224のデーラーで販売を展開し、一番売れた年、2007年には、102,000台の販売記録を残しましたが、その後デーラーとの問題、限られた仕入れ台数、不利な為替などなどさまざまな問題を解決出来ず、北米市場から撤退しました。

我が国で自動車を売り始める前には、形式認定、即ち非常に厳しい(億単位の高額な試験)の投資、これまた億単位の販売網の確保、製造物責任法、整備網、製品保証、部品確保などなどが必要ですから、彼らもそう軽い判断だったわけではなかったでしょうね。ダイハツも同じ道を辿る結果になりましたから、販売台数が桁違いの北米市場では、成功すれば儲けも桁外れになりますが、失敗すると会社がひっくり返るくらいの被害になるのです。。。

末期には魅力的なセダーン型車、キザーシも北米に持って来ましたが、4年間で僅か20,319台を売った後、スズキの北米撤退で輸入終了。このキザーシ、導入当時は宣伝に力を入れていて、自動車雑誌の老舗、モータートレンドと共謀して、静岡県のスズキ製造工場からモータートレンド誌本社のロスアンジェリースまで運転して行こう!と言う企画を実行しYouTubeにも特集を組みました。仕掛け人はアンガス・マケンジーさん、オーストラリヤ生まれの記者で以前英国の権威ある自動車誌 ”Car” の編集長を経て現在はモータートレンド誌の編集長をやっている人です。


この冒險、よく見ると鳥取県の堺港からロシヤはヴラダヴォストックまで船に乗せ、極東マガダンまで自走、マガダンからはアラスカ州アンカレッジまで空輸して、残りを陸路で走ろうというもの。


動画では日本国内を加州のライセンスプレートで堂々と走って入りうのが不思議ですが、まあ無事、完走したのでした。YouTubeで今でも見られます、此方でどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=utbHTrMo3qU&t=58s

力の入ったマーケテイングに反して、販売が芳しくなかったのが残念です。オアフ島にも以前はたまに見たキザーシも最近はめっきり見かけなくなりました。




日本から走って北米に行く、と言う計画は以前にも聞いた事があり、その一例は、1980年代、日本車の北米市場侵略が大問題になっていた時期に、日本からデトロイトまで米国車で乗り付けて米国市民の勢いを取り戻そう!と言う愛国心抜群の企画をある人が考えだし、デトロイトの自動車生産各社に声をかけた所、唯一関心を示したのが当時、日本車バッシングで一躍人気者になっていた、クライスラーのリー・アイアコッカ会長。丁度Kカーの発展版、レバーロンのコンヴァーチブルの普及に使えるかもしれんと計画は前に進み、企画者は船の設計をする会社に設計を頼み、双胴の船の中心にレバーロンを置き、駆動輪から船を進める装置をローラーで回し太平洋を越える!と言うもの。結局アイアコッカ氏が最後に首を縦に振らなかったので財政的にこの計画は立ち消えしたそうです。

このレバーロンを船に載せて、ゴムローラで駆動輪から推力を取ると言う。。。


その計画模型。丁度中央部にレバーロンが載っているのが見えます。でも多分クープ仕様。


末期の米国スズキは中型ピックアップトラックも売っていました。 その名は、  スズキ・イクエーター。イクエーターとは赤道の事です。こんな車種、スズキは作ってませんでしたから、中身は日産のフロンテイアー・ピックアップトラック、所謂昔のダットラです。生産はミシシッピー州のキャントン工場。4年間で売れたのはたったの5,808台。今となっては非常に珍しいトラックになりました。


イクエーター、赤道、昔は船などで赤道通過する際には赤道儀礼祭と言う大きな行事があったそうです。そう言えば昔の日本航空では日付変更線通過証とか、北極通過証なんて乗客に配られてましたっけ。10年ほど前、ぼくは毎週金曜日になると、ホノルルから赤道越えて南半球の米領サモアへ郵便を運んでいました。日帰り片道5時間半。当然赤道を1日に2回通過するわけですね。まあそれを月に何回もするわけですから、儀礼祭どころの話じゃないのですが、1990年代、初めて赤道上空を通過した時、機長がぼくをからかって、ホラ、見てご覧、もう直ぐ赤道通過だよ、と慣性航法装置の位置表示を指さして、馬鹿な自分は外界を凝視したのを覚えています。笑。。

赤道儀礼祭。今でも実施する船あるそうです。


サモア島は米領と西サモア領と二つの国に分かれているだけでなく、その間に日付変更線が走っているんです。プロペラー機で30分くらい(れっきとした国際線です)の距離のこの二つのサモア。米領は一応、通貨、法律も全て米本土に倣いますから、当然米領サモアには米郵便局があり、そこへ行く郵便物を運ばなければならないと言う訳です。

ぼくが最初に米領サモアに行ったのは1990年代中盤。豪クワンタス航空の貨物便でホノルルからオウストラリヤに行く途中の給油中継地でした。


それから20年後、毎週金曜日の米領サモア往復は小さい飛行機で。


でもここは米国自治領と言う領地の階級なので、彼らは米国領なのに米国市民ではなく、大統領選挙にも投票はできません。米国に住んで働くことはできます。では旅券はどうなっているの?と言いますと、一応米国旅券は発行されるのですが、中に但し書きが記されており、この旅券は正規の旅券ではあるが、保持者は米国市民ではありませんと書かれています。それと米国市民でも米領サモアに行く際は旅券を持って行かなければなりません。米領サモアは結構険しい山々と深い入江が特徴で、米海軍が駐留していますが、米軍人には世界中どこに駐留していても連邦選挙に投票可能と言う規則があります。

同じ理由で、米国市民でもアメリカ準州に当たるグアームに住居を構える人たちは大統領選挙に投票できません。グアームはハワイやら沖縄と同じく、軍人とその家族の比率が非常に高い島で、その特別法で、軍人とその家族に限ってはグアムに住んでいても大統領選挙に参加できます。因みにプエト・リーコの住民も大統領選挙には参加できません。なので知らないと、米国人でもハワイからグアームに引っ越した人たちは、連邦選挙に投票できず愕然とするケースをよく聞きます。

米領サモアの空港はPagoPagoと言う街にあり、(パゴパゴと書き、パンゴ・パンゴと発音します)街中に行くと一番大きい産業のマグロ缶詰工場があり、ぼく時代の米国民なら馴染みのあるツナ缶、スターキストの缶に描かれているマグロの坊や?チャーリー・ザ・ツナの立体像があります。これだけ離れた小さな町でもここで缶詰されるツナ缶は米国製造になるので、(一応)付加価値が高いそうです。

人気者マスコット、マグロのチャーリーくん。ぼくらの年代なら誰でも知ってます。




米領サモア、パンゴパンゴ空港。


この手前が丘になっていて着陸進入の際、地上が結構迫るのですが、1974年、パンナムのボーイング707がこの丘から下がり滑走路へと続くジャングルの中に墜落して大惨事になった事がありました。太平洋の孤島、勿論レーダー管制も無く、夜間の発着に赤道近く特有のスコールなどで視界が著しく低下する場合があり、燃料計睨みながら着陸復行したり、結構神経を使うのは今も昔も変わりなかったです。


険しい山々に守られる、水深の深いパンゴパンゴ灣、客船の寄港地としても有名です。この向こう側の山頂とこっち側の山頂の間に昔、ケーブルカーがあり移動を簡単にしていたのですが、1980年の航空祭の時、展示飛行をしていた米海軍のロッキードP3対潜哨戒機が飛行中、垂直尾翼をそのケーブルに引っ掛けホテル・レインメーカーの敷地内に墜落してこれも大惨事になりました。それからこのケーブルカーは、廃止に。。。


日付変更線で思い出しましたが、もう一つ、太平洋の孤島、キリバス共和国のクリスマス島にも月に一回の頻度で通ってましたが、地図を見ると、真っ直ぐ南北に走る日付変更線がキリバス諸島の周辺だけ曲がりくねって西側に入っているんです。これは1994年位キリバス共和国が自分たちで宣言して日付変更線を動かしたそうです。ふむふむ。


クリスマス島は世界で一番大きい環礁と言われ、ほとんど真っ平、ホノルルから僅か2時間ちょっとの距離で、最近は空の便が復活し、ホノルルまたはフィージーのナンデイーから飛行機が寄るみたいです。島には打ち上げ衛星の追跡施設と、昔、日本の航空宇宙技術研究所が進めていた小さなスペースシャトルみたいな飛行物体の実験を旧英軍(キリバスは昔、英領でした)が使っていた滑走路を直して使っていた様子で、それが良く見えました。ビキニ諸島での原爆の実験は水面下でしたが、クリスマス島で行われていた英国軍の核実験は上空で爆発させた物で、ビキニ諸島は今だに核の掃除をやっているのに、クリスマスは何もやらないのが不思議でした。。。

クリスマス島の飛行場、キャシデイー国際空港(名前だけは勇ましいですが、1950年代英国軍が撤退した後の基地を利用したバラックだけの施設)。今はキリバスの首府、タラワからも小型機が出ているみたいです。


日本の宇宙研究機構がリースし整備・仕様していた、クリスマス島のイオン飛行場。


さて、今日は合衆国大統領選挙の日、ハワイ州は郵便で投票書類が来て、折り返し郵送するか島中に設置された大きな投票箱に投函するので、我が家は既に投票済み。結果がどうなるか。。。。
Posted at 2024/11/06 09:20:35 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2024年11月03日 イイね!

旅の夜風

旅の夜風












今回は簡単な旅行記です。

海を越えて日本へ。お墓参り。慰霊碑掃除。親戚訪問などなど。中年後期になるとこのような用事が増えます。

一度でいいから観光で行ってみたい所です。

小さなブルーツースの発信機で自分の無線イヤフォンに機体のAVODの音声を飛ばしていたら、前のお客さんも同じ事をしていた。。。


中野サンプラザ。色々揉め事があるようで、未解体。


雨の戸越銀座駅。幹線でも無いのに駅舎の素晴らしい事よ。東急池上線。確かこれを歌う流行歌がありましたね。


日野自動車博物館。高速バスの水平対向12気筒ジーゼルエンジン。並列噴射ポムプが片側バンク一個ずつ。連結駆動はされているようですが、左右バンクのタイミング調整、難しそう。プライマー用のプランジャーがかわゆい。




おお、こんなところにウチナーが!


今年はコザが沖縄市になって50周記念。この車両は1974年式と書かれていたので、その時に配備されたんですね。それでもぼくにとっては今でもコザはコザです。


藤沢のいすゞ博物館。シェヴォレイのLUV軽貨物車。それも初期型が。バンパー下にもう一つの補助バンパーみたいなの装備されていたの思い出しました。


初期型、1972年と1973年だけにあったスペアタイヤを下ろす時に使うクランク棒を入れる穴。初年1972年は尾灯も丸い別物でした。


紛れもなく古いボーイング747翼の下。懐かしいなあ。。。


成田空港の滑走路16Lの端にある高速道路を跨ぐ赤い橋。これに着陸進入灯やらレーダー高度計を正確に反射させる役目を果たしますが、あと数年でこの一帯、滑走路延長で高速道路は地面下に埋めて平たく埋め立てられるそうです。でも相変わらず横風に弱い。。用地確保の際、滑走路の方向、地球温暖化現象など配慮されていませんでしたからね。


おお、珍しいデイムラーDS420. おまけに後期型。雨ざらしがかわいそう。こういった車種、古いシトロエンと同じで、車庫に入れてないと車体が腐食する速さが凄まじく、おまけに板金直すのにどえらい手間暇かかるんですよね。。。


コザボーリングセンターの取り壊し。


福岡、中洲端の昼と夜。



三年前に亡くなった、沖縄最後の歌姫、大城美佐子さんのお店。既に違う店舗が入ってましたが、看板だけは残り、寂しいですね。。。”片想い”




借りたのは10万キロ以上走った三菱eK 軽自動車。燃費が余り良くなかったです。900キロ走って、うーん、この前に乗ったオレンジ色の三菱の軽自動車の方が良かったかな、と。




グレイスホテルも、ホテル・テキサスも既に営業していない様子。



オリオン・ビーヤの創業者、元警察署長だった具志堅宗精さんが首里で経営していた赤マルソウ味噌の工場も今では新築住宅が建ちますが、この石碑だけは残っています。

慰霊碑の掃除。10月と言うのに気候は8月下旬並み。頭からつま先まで汗でびっしょり。

南城市に新しく出来たコスコで給油。リッター150円。コスコの会員権は世界中で有効なのです。



13年前、例の沖縄仕様のカローラ20が駐車してあった場所、沖縄市市役所向かいの駐車場。現在はこんな具合。この一帯は戦後、米軍が接収して一旦更地にした後、軍の施設を作って暫くして1950年代から返還された後に区画整備されたので、通りが碁盤目のように作られているのが特徴です。でも最近になっての再開発でまたもや景観が変わりつつあります。






只今JALで移動中。ボーイング767の300型機。テーブルの皿面が樹脂で一体形成されているだけでなく、支柱も全て樹脂製。軽く。安く。


木更津の君津製鉄所。なんかブルースブラザースの冒頭に出てくるキャリューメット・シテイーの工場群に似てますね。ここに見学展望台があるらしい。。。数マイル先にルフトハンザ航空の747ジャムボジェットが着陸進入中で我が便は減速している模様。。

東京散歩。あり〜。トヨタ・クラウン。4扉ハードトップ。それに過給機付き!


やっと帰宅すれば二重虹のお出迎え。でも12月にまた沖縄へ戻る事に。ちゃーすがやー。。。
Posted at 2024/11/04 06:20:39 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記

プロフィール

「合衆国のVW文化、その5 カーマン・ギア http://cvw.jp/b/1945280/48688035/
何シテル?   10/01 12:28
I'm JetBoy. Nice to meet you. 実家は西キャナダ、住むのは米ハワイ州オアフ島、家族は香港と日本の、日系アメリカ人です。多分...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/10 >>

   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 

愛車一覧

トヨタ プリウスPHV トヨタ プリウスPHV
税金控除。駐車代無料。充電免費。貧乏家族の頼り者。
トヨタ プリウス トヨタ プリウス
家に置いてある自動車、でも出稼ぎ生活なので殆ど使用していません。走行距離が11年で590 ...
プジョー 505 プジョー 505
矢張り安物ルノー車を毎日修理していると、”いつかはプジョー” と言う流れに溺れて、最後の ...
ルノー その他 ルノー その他
シカーゴで姉貴の乗っていたマズダRX-5 (コスモ) が珍しく動いていたので中古車屋に乗 ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation