先日、母の幼馴染の兄上で業務上の大切な取引相手でもあり自分にとっても数少ない尊敬できる人生の先輩だった伯父の様な方が93歳で旅立ち、お別れをした。
大戦中の海軍時代から造船設計研究技術者として日本の海運造船界に貢献し、軍艦から商船の設計に携わり日本初の原子力研究船建造計画にも委員として参加した。
また造船会社の顔として世界各国に赴任して来られた知識と欧米人的なユーモアに溢れ笑顔を絶やさぬ紳士で幾つになっても頭が柔軟な工学博士であった。
氏の軍歴は東京帝國大学工学部船舶科を卒業した後、帝國海軍に奉職。
海を渡り中国へ、占領下の青島 海軍特別根拠地で海軍士官としての訓練を受けて帰国。
その後、呉海軍工廠勤務、東京目黒の海軍技術研究所配属、佐世保海軍工廠に転勤。
伊号潜水艦や水上艦艇の設計や建造に携わり海軍技術大尉で終戦を迎える。
伯父さんとの年齢は、かなり離れてはいたが、自分も元船員で祖父も海軍であり以前、自分の上司が陸軍の航空技術大尉であった事や海運業界も広い様で狭く、船舶代理店時代には自分も業務で神戸工場の本船を訪船したり新造船の進水式にも行っていたことから年齢や時代に関係無く好きな話はよく弾んだ。
また海軍技術士官と言う軍歴から、祖父達の目で見た海戦、陸戦や上司の陸軍 航空技術士官の目から見た体験とは違った立場から見た貴重な体験談を聞かせて頂いた。
「太陽の帝国」 インド洋作戦・珊瑚海海戦 の続きとして
故人を偲んで生前、お聞きした話を故人の手記より抜粋し数回に分けて書こうと思う。
故人の回顧録より・・・
<進路を決めた、先生の言葉>
私が中学五年になったのは 昭和12年。 二・二六事件、蘆溝橋事件、南京攻略の年。
その年が今後の自分の進路を決めねばならない年であった。
当時の学制は中学校五年、高等学校三年、大学三年で、これらの間には結びつきがなく、
如何なる組合わせでもよい。
その他の進学先としては、専門学校、師範学校、陸軍士官学校、海軍兵学校等もあった。
軍靴の音の高まりつつあるなか、軍人学校への志望者も増えつつあった。
当時、豊原先生という方がおられた。 難しい感じの先生だった。
ある日、先生に呼び付けられ「これからは若人は兵隊にとられる徴兵制度の時世だ。
どうせ兵隊にとられるなら最初から将校になったらよい。 それも海軍だ。
スマートで技術を重視する。 君の場合、海軍の技術士官になったらよい。」と言われた。
結局その勧告にそって私はその後の進路を決めた事になる。
その頃の技術分野の花形となる軍艦と飛行機だ。
第三高等学校から大学に進む時に東京帝國大学の工学部船舶工学科を志望した。
卒業後は海軍の造船技術士官の道を選んだ。
大学に入学後、先生に会った時に私が「造船屋になりました」と報告すると、
「なんだ、つまらん。 造船屋では潰しが利かん。 機械屋になれば良かった。」
と渋い顔をされた。
豊原先生は東大地質学科出身で、明治の気骨と大正のリベラリズムを備えていた。
二・二六事件、先生が教室で顔を真っ赤にして陸軍将校の「非」を糾弾 したのを思い出す。
「彼等は子供の時から幼年学校で詰め込まれた思想で頭が固まって、そこで思考が停まる。
真理は一生求め続けるものと言う事を知らない不幸な人間だ。
それが重臣を殺し、日本を改造しようなんて以ての外だ」と。
当時、それは非常に勇気ある、また危険を伴う発言だった。
二・二六事件の直後、教壇から一部将校の行為の「非」を説かれたのは僕の記憶で言えば、
あの書物の虫のような豊原先生だけであった。
幼い僕等にだって、良い悪いは判っている。
有為の要人を暴力で沢山殺して良い訳がない。
僕等があの時、欲したのはあの事件に対する先生方の姿勢であったわけである。
あの様な世相だったから正しい意見も憚る事もあったろうが、
豊原先生が当時の世相の背景にも拘らず、
激しい口調で一部将校の行為を非難したのを今でも覚えている。
尚、当時の校風について一言を加えると、校長の坂斎先生は東大英文科の出身であり、
教諭にも豊原先生の他にも東大出、東北大出がおり学究的な空気も漂っていた。
彼等の「校友会誌」に掲載された論文は軍靴の響く当時はかなり睨まれる可能性もあった。
だが、このような文を書く教員がいて、その文の掲載を認める校長がいたとなると
教壇陣のある種の雰囲気もうかがわれる。
<献穀使より関西志向へ>
その年の十月、井上教頭に呼ばれた 「 献穀使のお供をして伊勢神宮参拝に行かんかね」と
当時、千葉県では毎年秋になると県内でとれた「新米」を伊勢神宮に献上する為に
「 献穀使」という使命を帯びた県役人を遣わす慣習があった。
その際、随員として県庁の教育関係者、県内の教員、中学校、女学校の代表等がお供する。
たまたま、この年の中学校の代表を佐原中学より出す番に当たっており、
上記の井上教頭よりの下命になったわけだ。
その頃は其れまでの慣例の「関西修学旅行」も中止されていた時代だ。
これは良いチャンスと喜んでお受けした。「受験勉強で忙しいだろうが御苦労さん」と、
気持ちと裏腹のねぎらいの言葉を戴き、まことに恐縮。庶務の伊達先生から旅費を拝受。
これが私の生涯で延々と続く公費、或いは社費による出張の記念すべき第一号となった。
昭和十一年十一月六日朝、 献穀使ならびに随行神宮参拝団 の一行が千葉駅を発った。
当日熱田神宮参拝、伊勢宿泊。
翌日伊勢神宮参拝、献米奉納、お神楽をあげ、本来の使命を果たす。
ついで橿原神宮、神武天皇御陵参拝ののち奈良宿泊。
次の日、春日神社、大仏殿を見て京都へ向かう。
桃山御陵参詣のあと平安神宮参拝、知恩院、丸山公園散策。
夕刻京都駅発夜行列車にて帰途につく。あくれば九日東京駅着。
だがここで旅行はまだ終らない。
宮城遙拝、明治神宮参拝があって漸く解団式、三泊(内車中一泊)四日の任務が終わる。
今、メモを見て行程を思い出し書きながらも、
当時のしんどさが伝わってくるハード・スケジュールの旅だった。
この旅を通じての大きな収穫は、関西の持つ歴史の重みを認識した事だ。
更にその緊張を解きほぐすのは八坂神社の近辺で見た舞妓の艶姿の可憐さだった。
関西は、もはや無縁な国ではなくなった。
それからの人生で京都の第三高等学校を受験する機会が与えられた時、
また戦後の職場を神戸の川崎造船を選ぶのに何等の抵抗を感じなかった。
由来の遠因はこの辺にあると言えるだろう。
・・・以上、故人の回顧録より、後へ続く。
JMSDF SS-504 「けんりゅう」 Souryu class No.4 AIP Attack Sub. Sea Trial at KHI Kobe
遣独・遣日潜水艦作戦
1941年6月 日独同盟国間の陸上連絡輸送路であるシベリア鉄道が独ソ開戦に拠り途絶する。
また12月8日の日米開戦と大西洋での連合国海軍の通商破壊戦で海上輸送も困難となる。
ドイツは軍用車両・航空機生産に必要な原材料を入手の為に潜水艦に拠る物資輸送を提案。
日本はレーダー・ジェット・ロケットエンジン・暗号機など最新の軍事技術情報を入手する為に日本とドイツ間を両海軍の潜水艦で連絡輸送すると言う計画が実行に移された。
基本ルートはバルチック艦隊と同じ、日本~マラッカ海峡~インド洋~マダガスカル島沖~アフリカ大陸最南端喜望峰~東大西洋~ドイツ本国または占領下のUボート基地往復。
伊30号同型艦 伊号第一五型潜水艦(巡潜乙型)
全長 108.7m 全幅 9.3m 吃水 5.14m 基準排水量 2,198トン ディーゼル機関2基2軸
水上 12,400馬力 水中 2,000馬力 水上速力 23.6kt 水中 8kt 航続距離 14,000海里
潜航安全深度 100m 零式小型水偵1機搭載 呉1-4型カタパルト 揚収デリック1基
40口径14cm単装砲1門 25mm機銃連装1基 53cm魚雷発射管 艦首6門 九五式魚雷17本
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第一次遣独艦
伊30号潜水艦(艦長 遠藤忍 中佐)
1942年4月22日 ペナンを出港した伊30潜は英軍支配下のアデン・ジブチ・ザンジバルなどを艦載の零式水偵で航空偵察を行いながら南下する。
6月17日 マダガスカル島東方で伊30潜は特設巡洋艦・大阪商船の愛国丸・報国丸と合流、燃料を補給、九一式航空魚雷設計図や零式水上偵察機、鉱物資源を積込みドイツへ向う。
特設巡洋艦 愛国丸 1942年 シンガポール・セレター軍港 同型姉妹艦 報国丸・護国丸
全長 160.8m 全幅 20.2m 吃水 8.8m 総トン数 10,437トン ディーゼル機関2基2軸
最大出力 15,833馬力 最大速力 20.9kt 航続距離 不明 乗組員 133名 乗客定員 400名
兵装 三年式14cm砲8門 九三式13mm対空機銃連装2基4門 九六式25mm連装機銃2基
六年式53cm連装水上魚雷発射管2基4門 零式水上偵察機2機搭載
6月30日 南アフリカの英軍哨戒機に発見されるも喜望峰を回り、8月6日にドイツ軍占領下のフランス大西洋岸 ロリアン港のUボート基地に到着、輸送物資を陸揚げする。
8月22日 整備を受けてメトックス電探とエリコン20mm四連装機銃を装備し灰色迷彩塗装を施された伊30潜はウルツブルク射撃管制レーダー、魚雷発射誘導装置、潜水方位盤、英軍の暗号解読機、エニグマ暗号機50台などを搭載してロリアンを出航し帰途に就く。
10月13日 シンガポール入港、暗号機10台を陸揚げして出航するも港内で機雷に触れ沈没。
伊30潜の乗組員13名が死亡、搭載物の引揚げを図ったが、多くの荷物は破壊され最も重要な積荷であったウルツブルク射撃管制レーダーも破損した。
暗号機入手の遣独作戦中に味方の暗号が変更された為、伊30潜には安全航路が伝えられず触雷沈没すると言う皮肉な結果となった。
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チャンドラ・ボース密航
伊29号潜水艦(艦長 伊豆寿一 中佐)
1943年4月5日 伊29潜はベルリンの日本大使館向け金塊2トン、赤城型空母と特殊潜航艇の設計図、八九式空気式魚雷、魚雷艇用二式魚雷、情報技術士官の友永英夫中佐(潜水艦建造技術)と江見哲四郎中佐(潜水艦戦術)を乗せてペナンを出港した。
4月28日 インド洋マダガスカル島南南東400浬の洋上でインド人の独立運動家
チャンドラ・ボース を乗せたドイツ海軍 U-180と密会合を行い積荷を積替える。
ボースは伊29潜に移乗して日本に向い、友永中佐らはU-180でドイツへ向かった。
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インド独立連盟のチャンドラ・ボースは日本占領下シンガポールに自由インド仮政府を樹立し英米に対し宣戦を布告、インド領内に進撃を望みインパール作戦に参加したインド国民軍は日本軍と共にイラワジ会戦等のビルマ戦線でイギリス軍と戦った。
ドイツ海軍 Uボート 呂号第五〇〇潜
1943年5月10日 ドイツ海軍より日本海軍に無償譲渡されるU-511が艦長フリッツ・シュネーヴィント海軍中尉と乗組員他に東京へ向かうドイツ大使、野村直邦海軍中将、ドイツ人の科学者と技術者を乗せてロリアンを出港、航海中にインド洋で米商船2隻を撃沈する。
8月7日 呉に入港後、日本海軍の艦籍に入り、日潜名:呂号第五〇〇に艦名変更される。
German Navy Ocean going Submarine U-Boot Klasse IX
第二次遣独艦
伊8号潜水艦(艦長 内野信二 大佐)
1943年6月1日 伊8潜はドイツから無償譲渡されるU-511と別艦種9型CのUボート2番艦U-1224(日潜名:呂501号潜水艦)を受取り、日本へ回航する要員51名を輸送する為に呉の海軍工廠で魚雷発射管室を居住区に変更する等の改装を行ない呉を出港する。
途中、シンガポール、ペナンに寄港、インド洋上で伊10潜から燃料補給を受ける。
8月20日 大西洋アゾレス諸島西方で U-161と会合しレーダー逆探知装置を受領。
8月30日 ドイツ水雷艇3隻と会合、翌31日 フランス大西洋岸ブレスト港に到着。
U-1224回航要員上陸の他、積込んでいた酸素魚雷、潜水艦自動牽吊装置図面、錫、天然ゴム、雲母、キニーネ等がドイツ側に引渡された。
艦長の内野信二大佐と士官達はパリ経由でベルリンを訪問してカール・デーニッツ海軍総司令官と面会し、通信長の桑島斉三大尉他数名がベルギーのオーステンデにある電波兵器学校に派遣されレーダー装置の取扱い訓練を受けた。
U-1224(呂501号)に乗田貞敏少佐以下51名が乗艦した。
10月5日 伊8潜はドイツからの提供品である Sボート用のダイムラー・ベンツ製ディーゼルエンジン MB501を積込、第一次遣独艦の伊30潜と同じくメトックス電探とエリコン20㎜機銃等が搭載、後甲板に20㎜四連装対空機銃が装備されブレスト出港する。
10月27日 敵哨戒機に発見され至近弾を受けるも被害無し。
12月5日 伊8潜はスンダ海峡経由でシンガポール港に到着し補給整備を受ける。
12月21日 呉に無事到着した。
5回の遣独潜水艦作戦で日本~ドイツ占領下フランス~日本の間を無傷完全往復に成功したのは、この伊8潜のみだった。
伊8潜は有泉龍之助 中佐に艦長交代後、再びインド洋に戻り通商破壊任務に就く。
帝國海軍潜水艦U-1224
1944年3月31日 乗田貞敏中佐揮下の呂501(U-1224)は半年近く掛けてバルト海のドイツ海軍潜水艦学校で習熟訓練を受けた日本海軍の回航員によりキールを出航する。
同艦には江見哲四郎大佐の他、根木雄一郎技術中佐(潜水艦建造技術)・吉川春夫技術中佐(Me262ジェット戦闘機)・山田精二技術中佐らが便乗した。
5月13日 東京の軍令部と阿部勝雄海軍中将 間の暗号通信が米海軍に傍受解読され呂501潜は大西洋のカーボベルデ北西で米海軍の護衛空母 ボーグ ACV-9 USS Bogue 艦載機と護衛駆逐艦 フランシス・M・ロビンソン DE-220 USS Francis M. Robinson の爆雷攻撃により撃沈された。
貴重な技術者と共に、B-29爆撃機の高高度迎撃に効果が期待されたMe163型ロケット戦闘機とMe262型ジェット戦闘機のエンジン他の資料は大西洋に消えた。
第三次遣独艦
伊34号潜水艦(艦長 入江達 中佐)
1943年9月13日 ドイツに向け呉を出港、シンガポールに寄港し補給を受け同港を出航。
11月13日 マラッカ海峡で英海軍潜水艦 トーラスP-339 HMS Taurus の雷撃で沈没。
イタリア海軍の伊号潜水艦
1943年には日独の同盟国イタリア海軍の潜水艦3隻がドイツ海軍の指揮下で輸送任務に就き、ウルツブルクレーダー器材・図面・ドイツ人技官を乗せフランス南西部を出港、無事にシンガポールの日本海軍基地に到着した。
同年9月にイタリアが降伏、3隻の潜水艦はドイツ海軍に編入されドイツの降伏後、内2隻が神戸の川崎・三菱重工で修繕整備され日本海軍に編入された。
コマンダンテ・カッペリーニ Comandante Cappellini ドイツ海軍 UIT-24 伊503潜
ルイージ・トレッリ Luigi Torelli ドイツ海軍 UIT-25 伊504潜 呉鎮守府籍の特殊警備付属となり日本本土防衛の任務に就いた。
レジナルド・ジュリアーニ Reginald Giuliani は日本まで来ることはなく、UIT-23としてドイツ海軍に編入後、ペナン沖で英潜水艦タリーホー P-317 HMS Tally-Ho の雷撃を受け沈没した。
第四次遣独艦
伊29号潜水艦(艦長 木梨鷹一 中佐)
1943年12月16日 伊豆寿一中佐から木梨鷹一中佐に艦長が交代した伊29潜は駐独大使館付海軍武官として赴任する永盛義夫技術少佐(航空機)、田丸直吉技術少佐(電波兵器)の他、鮫島龍雄 海軍大学独語教授らが乗艦してシンガポールを出航する。
1944年3月11日 ロリアンに入港、ドイツ空軍向けのタングステン約30トン他を陸揚した。
4月16日 伊29潜はMe163、Me262のエンジン資料、ウルツブルク対空射撃管制レーダー、エニグマ暗号機他を積込みロリアンを出航する。
7月14日 シンガポールに無事入港するも、7月26日 呉に向い、ルソン北方のバリンタン海峡を浮上航走中に米海軍潜水艦ソーフィッシュ SS-276 USS Sawfish が発射した魚雷3発が命中して戦没、艦長 木梨鷹一中佐以下乗員95名、乗客10名が戦死した。
シンガポールで下艦して輸送機に乗換えた巌谷海軍技術中佐が持ち出した極一部の残された資料は後に秋水・橘花の開発に活用された。
空母ワスプ撃沈
二次ソロモン海戦後の1942年9月15日 伊29潜で戦死した艦長 木梨鷹一 中佐は乗艦指揮を執る前艦の伊19潜でソロモン諸島海域の哨戒中にサンクリストバル島南東約150浬で大型艦船多数の推進器音を潜航中に感知、北上するガダルカナル島への増援部隊輸送船団の護衛に就いていた空母、巡洋艦、駆逐艦数隻からなる米海軍機動部隊を潜望鏡で確認する。
伊19潜は対潜警戒ジグザグ航行を行う米艦隊に距離900mで九五式酸素魚雷6本を発射、内3本を米空母 ワスプ CV-7 USS Wasp に命中させ浸水、艦載機のガソリンに引火する。
ワスプは格納庫で気化した航空燃料から爆弾に弾薬と次々に誘爆を起し激しく炎上、黒煙を上げながら右舷に傾斜し航行不能となり総員退艦、僚艦が雷撃処分する。
伊19潜が全門同時に放った残り3本の魚雷は更に航走を続け 10,000m 先を航行する別任務部隊に到達、戦艦 ノースカロライナ BB-55 USS North Carolina の左舷1番主砲塔真横に1本が命中して真珠湾で修理に6ヶ月間を要する損害を与え、もう1本も駆逐艦 オブライエン DD-415 USS O'Brien の艦首に命中、大破して修理回航中に船体が折れサモア沖で沈没した。
九五式酸素魚雷
当時の米海軍主力 Mk 15 艦艇用の魚雷は蒸気タービン 最大射程 5,500m 雷速 45kt 炸薬量 375kg 潜水艦用主力 Mk 18 電気魚雷は射程 3,650m 雷速 45kt 炸薬量 272kg の性能。
日本海軍の酸素魚雷 水上艦艇用 九三式は最大射程 22,000m 以上 最大雷速 52kt 潜水艦用に小径短化した九五式は最大射程 12,000m 以上 最大雷速 49kt と高速で窒素を排出しない為に、雷跡が見えず隠密性に優れ敵に発見され難い、また炸薬搭載量は九七式爆薬 490kg (TNT588kg に相当)と多く強力な破壊力は命中すれば軍艦でも一発で轟沈を可能としたが、バタビア沖海戦やソロモン海戦までは不発や自爆が多発した。
ドイツ海軍も対英開戦直後からUボート用の新型魚雷 射程 7500m 雷速 40kt 炸薬量 280kg のG7a魚雷が磁気信管の誤作動と深度調節機の欠陥で魚雷攻撃が不可能になり、デーニッツ提督は一時、通商破壊戦を中止させている。
世界で唯一日本海軍のみが実用化に成功した長い射程で雷跡が見えず破壊力も高い酸素魚雷を米海軍将兵は恐れ、戦後「ロング・ランス(長槍)」と呼ばれた。
第五次遣独艦
伊52号潜水艦(艦長 宇野亀雄 中佐)
1944年3月23日 第一次遣独で伊30潜が持ち帰ったドイツ工業製品の製造技術取得に民間技術者を派遣することになり、伊52潜は技術者とドイツからの技術供与への対価として金塊2トン、スズ、モリブデン、タングステンなど計228トンを積載してシンガポールを出港。
6月20日 喜望峰を越えて大西洋に進出、危険海域に突入した伊52潜の位置撹乱にドイツ側の提案で偽の情報の無電が発信されたが、この無線を傍受解読した米海軍は5月13日に呂501潜を沈めた護衛空母 ボーグ ACV-9 USS Bogue を日独2隻の潜水艦の会合海域に急行させた。
6月23日 伊52潜は北緯15度、西経40度の会合点に到着、U-530と合流してドイツの連絡将校が乗艦後、護衛空母 ボーグ から発進したアベンジャー雷撃機の攻撃を受ける。
翌日24日 午前1時 伊52潜は第二派攻撃を受けて北緯15度16分、西経39度55分の地点に沈没、乗員106名、便乗者9名全員戦死した。
通商破壊
第一次世界大戦にドイツは対戦相手連合国の海上輸送を妨害して食糧・燃料・材料など物資を止め経済的に疲弊させ戦況を優位に導く為に潜水艦や軽巡洋艦で商船を拿捕または沈めた。
ドイツ海軍はUボートを約300隻建造、大戦中に約5,300隻の商船を撃沈する戦果を上げた。
敗戦後ベルサイユ条約で艦艇の保有数と新造を厳しく制限され空母も航空隊も弱小なドイツ海軍は条約破棄、英独海軍協定の締結後も圧倒的に優位な海軍力を誇る英国との開戦に備えUボートの建造を優先しポケット戦艦や魚雷艇で再びシーレーンを断つ通商破壊戦を行う。
ドイツ海軍潜水艦隊司令長官 カール・デーニッツが海軍総司令官に就任、Uボートの数不足を補い効率的に複数で待ち伏せ攻撃する狼群戦術で連合国の艦船に多大な損害を与えた。
第二次大戦でUボートは1,131隻建造され商船約3,000隻 空母2隻 戦艦2隻撃沈の戦果を上げたが連合国海軍の対潜技術・戦術・兵器の進化により 849隻のUボートと乗組員を失う。
日本海軍の通商破壊作戦
帝國海軍に於いては通商破壊戦略を卑怯なゲリラ戦法と蔑み空母や航空主兵を疎む旧態依然の大艦巨砲主義の戦艦主兵や艦隊決戦に固執する者が上層部にもいたが、真珠湾攻撃の直後からハワイ作戦で哨戒偵察任務に就いていた日本海軍の潜水艦がアリューシャン・アラスカ・カナダ・米国本土・メキシコ沿岸に進出展開して南・北太平洋で通商破壊戦が行われた。
日本海軍は航続距離が長く零式小型水偵を搭載する巡潜乙型潜水艦を米西海岸に展開する。
伊17潜はクェゼリン環礁基地から2度目の西海岸出撃でサンタバーバラの製油所を砲撃。
伊26潜は横須賀を出てアリューシャンでのAL作戦参加後に南下してシアトル沖で米貨物船を雷撃撃沈、バンクーバー島のカナダ軍無線局を砲撃。
伊25潜もAL作戦でダッチハーバーの航空偵察後に南下してフラッタリー岬の沖で英貨物船を雷撃撃破してアストリア近郊のフォート・スティーブンス米陸軍基地を砲撃する。
伊25潜は3度目の米国沿岸への出撃で零式小型水偵に76kg焼夷弾2個を搭載しオレゴンの森林を2回空襲して延焼させ後、米タンカー2隻とソ連潜水艦L-16を撃沈した。
インド洋制圧
北アフリカで苦戦していた同盟国ドイツ・イタリアは日本海軍に後方支援となるインド洋での英連邦国間の通商遮断と英海軍東洋艦隊の撃滅を強く要請する。
米海軍を主敵とする日本海軍はインド洋での後方支援活動より南太平洋のフィジー・サモアに進出して米豪間のシーレーンを遮断するFS作戦を軍令部は計画、連合艦隊司令部はハワイ攻略の前哨戦となるミッドウェー作戦を立案提唱していた。
日本軍は南方作戦で英領マレー半島・蘭印インドネシア、ビルマ、フィリピンを制圧、豪州ダーウィン空襲、ペナン港とシンガポール要塞を攻略占領して要衝マラッカ海峡を押さえ、セイロン島の攻撃で英海軍東洋艦隊を駆逐してインド洋を制圧、1942年4月頃には敵艦載機や水上艦艇からの攻撃を受けず日本海軍の潜水艦や特設艦はインド洋で自由に行動できた。
特設巡洋艦 報国丸 1942年 シンガポール・セレター軍港 同型姉妹艦 愛国丸・護国丸
全長 160.8m 全幅 20.2m 吃水 8.8m 総トン数 10,439トン ディーゼル機関2基2軸
最大出力 19,427馬力 最大速力 21.1kt 航続距離 不明 乗組員 130名 乗客定員 400名
兵装 三年式14cm砲8門 九三式13mm対空機銃連装2基4門 九六式25mm連装機銃2基
六年式53cm連装水上魚雷発射管2基4門 零式水上偵察機2機搭載
大阪商船が南アフリカ航路用に建造した貨客船を海軍が徴用し武装を施し特設巡洋艦に改装した愛国丸と報国丸で連合艦隊直隷 第二十四戦隊として南太平洋で通商破壊の任務に就く。
後に両艦は内地で潜水艦への補給設備を装備して第六艦隊 第八潜水戦隊に編入されインド洋で遣独作戦を支援し潜水戦隊と共にマダガスカル島ディエゴ・スアレスの連合軍攻撃や通商破壊戦に参加して連合国の貨物船やタンカーを拿捕または撃破した。
日本海軍潜水艦の戦果
太平洋で撃沈撃破78隻・インド洋で撃沈撃破130隻 計208隻 内商船184隻
帝國海軍潜水艦撃沈数第1位は伊10潜の撃沈数14隻 81,553トン 撃破2隻 16,198トン
伊10潜はインド洋で同じ第八潜水戦隊の愛国丸・報国丸と行動して補給支援を受けた。
21世紀の現代に於いては無警告の無制限潜水艦戦自体が戦犯に問われ兼ねない。
1942年9月12日 大西洋リベリア沖で赤十字旗を掲げて救助活動を行うU-156とU-506に対して米軍のB-24が目視確認のうえ爆撃と機銃掃射を行い捕虜と女性や子供を含む民間人を殺害した
ラコニア号事件 以降、ドイツ海軍将兵は連合国船舶の乗員救助に消極的になり、潜水艦隊司令官デーニッツは撃沈艦船の生存者救出を一切禁止するラコニア指令を全部隊に通達してドイツ海軍のUボートは情報収集以外は生存者を無視するようになる。
日本も白い船体に赤十字を明示して傷病兵を乗せた
病院船「ぶえのすあいれす丸」 が米潜水艦の雷撃を受けB-24の爆撃で沈没、生存者が機銃掃射で殺害され、ドイツからは乗組員全滅の要請があり、日本海軍の潜水艦も伊8潜・伊26潜・伊37潜で救命ボート銃撃や生存者への拷問虐殺など武人として恥ずべき行為が行われたことは日本の海員として非常に残念だ。
当然、この命令に反対し従わない多くの潜水艦艦長が日本にもドイツにもにいた。
島国日本は海軍の将兵や艦艇数より遥かに多くの徴用商船と海員が命を失っている。
通商破壊戦は日本や英国の様に四方を海に囲まれた島国や半島国また植民地や占領地の封鎖には効果的だがロシアや中国などの大陸国家や大陸でありながら強大な海軍力を保持し資源食糧の自給率が高く工業生産力も有る米国には効力は薄い。
また日本の10倍以上の国力と25倍の国土に海岸線を持つ米国を完全封鎖できない。
カール・デーニッツは英国の通商破壊でさえ300隻のUボートが必要だと嘆いていた。
日本海軍は真珠湾攻撃で空母機動部隊やマレー沖海戦で航空主兵と制空権の重要性を証明して ドイツ海軍は潜水艦による通商破壊戦の効力を米英海軍に示し、快進撃を続け戦線占領地を拡大し過ぎた島国日本は大戦後半、週刊空母機動部隊の奇襲と潜水艦ウルフパックに補給路を断たれ飢餓作戦で海上封鎖の厳しい反撃を受けることになる。
日本海軍の潜水艦保有数
開戦時64隻 108隻建造 計172隻以下 終戦時54隻中 伊号12隻
日本海軍の潜水艦隊は艦隊攻撃の斥候や空母機動部隊の哨戒が主任務で作戦や偵察の合間に通商破壊を行う形になり、制海空権を失えば輸送任務にも就く。
補給が乏しい高額な魚雷は武力脅威となる空母や戦艦巡洋艦に使い貨物船やタンカーはなるべく砲撃で仕留めたいのが人情でもある。
現代の海上自衛隊の潜水隊群は哨戒や艦隊護衛が主任務、そうりゅう型の敵は日本の周辺海域に忍び寄るミサイル原潜や攻撃型原潜、空母や強襲揚陸艦の艦隊を深く静かに待ち伏せて沈めることで高価な誘導魚雷や対艦ミサイルを商船に使う事はない。
海峡湾の封鎖や上陸阻止には91式など高性能な複合誘導型追尾上昇機雷がある。
重巡インディアナポリス撃沈
米重巡洋艦 インディアナポリス CA-35 USS Indianapolis は7月16日 サンフランシスコ出港。
7月19日 真珠湾に寄港しテニアン島基地で原子爆弾の輸送揚陸任務を既に完了していた。
1945年7月29日深夜、レイテに向かう途中の重巡洋艦インディアナポリスをパラオ島北方約250浬で哨戒任務中の橋本以行 少佐の伊58潜水艦が浮上時に電探で発見する。
インディアナポリスは護衛の駆逐艦を伴わず、日没後は対潜回避運動もとらずに月明かりの水平線を西に向かい16ktで直進巡航を続けていた。
この時、回天搭乗員達多聞隊は橋本艦長に何度も出撃許可を請うが「通常魚雷で沈められる時は通常魚雷で攻撃する」と橋本少佐は若い搭乗員達を説き伏せて回天の出撃を却下する。
艦橋から双眼鏡で戦艦級の艦影を視認した伊58潜は急速潜航して右転舵、潜望鏡深度で間合いを詰めながらインディアナポリスの右舷側60度の攻撃位置に就き魚雷戦を挑む。
伊58潜はインディアナポリスに九五式酸素魚雷を距離1,500mから深度4m雷速48kt それぞれ3度の角度を持たせ扇状に3秒間隔で3本発射、時差雷撃で更に3本の計6本を全門発射した。
暗中を航走した初弾がインディアナポリスの右舷側1番砲塔直下と2番砲塔の後部に命中、続けて時差発射した1本が初弾が引き裂いた外板の奥に入り込み炸裂、2番砲塔下部の弾薬庫が誘爆を起こし大きな火柱を上げ右舷に傾斜し艦首から海中に突っ込み行き足を停める。
伊58潜は深度30mに潜航して魚雷装填を行い止めを刺すべく再び潜望鏡深度に戻るも艦影は無く 浮上航行しながら艦隊司令部宛に戦闘戦果報告を打電する。
主砲弾薬庫の誘爆と水密扉閉鎖の不徹底も重なり急激に浸水した重巡インディアナポリスは雷撃から僅か12分後に転覆沈没していた。
米海軍はインディアナポリスからのSOSと伊58潜が打電した暗号を傍受解読しながらも、不手際に拠り乗組員の捜索救助が遅れる。
7月31日のレイテ到着予定を過ぎた8月2日に米軍の爆撃機が漂流者を発見する。
雷撃の生存者約800名は最長8日間もボートも無く、水も食糧も無い状態で洋上に漂い、衰弱溺死または鮫に襲われ最終的な救助者は僅か316名だった。
乗組員1,199名の内 883名が戦死した。
テニアン島に原爆を輸送した重巡インディアナポリスは第二次大戦中に雷撃で沈んだ米海軍最後の戦闘艦となり、伊58潜は敵艦を雷撃で沈めた帝國海軍最後の潜水艦となった。
インディアナポリスの生存者が救助された8月6日 広島、9日 長崎に原爆が投下された。
撃沈が原爆の輸送中であれば、広島と長崎、太平洋戦史は変わっていたかも知れない。
テニアンの戦いと原子爆弾のことは別の機会に書きたい。
最後のUボート
1945年3月24日 ドイツ海軍潜水艦U-234 艦長 ヨハン・ハインリヒ・フェーラー海軍大尉が分解された2機の戦闘機Me163・Me262とウラニウム鉱石560kg他を積載する。
東京に赴任するウルリヒ・ケスラー空軍大将、海軍法務官カイ・ニーシュリング海軍大佐、電波兵器の専門家ハインツ・シュリッケ博士、他ドイツ人技術将校と帰国する友永英夫中佐と庄司元三技術中佐(航空機エンジン)らが乗艦して日本に向けキールを出航した。
3月29日 キール出港後、バルト海で潜航中にU-1301と接触事故を起こし引返す。
4月16日 U-234は修理後、ノルウェーのクリスチャンサンドから再度出航した。
5月10日 大西洋上で浮上した際に祖国ドイツが降伏した事を知ったフェーラー艦長は二人の日本人技術将校を中立国の南米アルゼンチンまで送り届ける事に決めるが、デーニッツ海軍総司令官の降伏命令と部下の安全を優先して米海軍に投降することを決心する。
友永と庄司 両技術中佐は捕虜となる事を潔しとせず艦内で自決した。
5月14日 U-234は北大西洋上で拿捕命令を受けた米海軍の護衛駆逐艦 サットン DE-771 USS Sutton に停船を命じられ、乗組員は操艦要員を除く全員が退艦する事となった。
故人の回顧録より・・・
戦争・第一部 「ドイツから来た三人の技師達」
当時、日独両海軍の間で協定を結びドイツから日本へ小型潜水艦の実物と設計図面を譲渡
またドイツの設計技師を派遣する。
日本はそれに基づき小型潜水艦を建造しインド洋に進出、通商破壊する壮大な計画だった。
戦時中、日本とドイツの交流は潜水艦に拠るルートで行われる。
潜水艦とドイツ人の技師達は昭和十八年七月十五日、昭南港(シンガポール)に入港した。
目黒の技術研究所に計画室を設け、海軍の技術陣が参集しドイツ人技師と折衝した。
小型潜水艦の技術的分析、試設計の他、到来資料の高張力鋼(ST52)の研究等があった。
これらの計画を統括されたのは、艦本四部長を退任されたばかりの福田啓二技術中将。
私も調査部隊の一人に編入されたが、ドイツ語会話がさっぱり。
泥縄式に或るドイツ人のもとへ会話をならいに通った。
ところがある日、憲兵が突然尋ねて来て「辞められた方がいいですよ」と言う。
彼がユダヤ系と言うのがその理由だ。
それで断念したが、憲兵の眼がこんなところにも光っていた時代だった。
福田技術中将の命で、先輩の緒明亮作技術大尉と小官が
ドイツ人達の個人的な面倒をみる様に命じられた。
国技館の相撲に案内し<砂かぶり>で見て、また歌舞伎座も<かぶりつき>で見た。
後日、中将閣下が緒明大尉を呼び「あの人達、あれはどうしているか」と御下問があった。
大尉は「この頃は在京のドイツ人とも付合っている様ですから、その方面でなんとか」
と返答されたようだ。
だが大尉が何か心配顔で「この頃はあれもなかなか手にはいらないようだから・・・」
ここまで聞くと察しのよい中尉は了解し翌日横須賀へ飛んだ。
三高時代からの友人の軍医中尉に会い所望の物を無心し、軍医は快諾した。
だが大組織の融通の利か無さで、百袋とか三百袋といった半端は分けてくれない。
一単位という段ボール一杯の支給を受ける事になり、
小脇に抱えて電車に乗るも軍服姿だから氣にしながら帰る。
手に入ったは良いが、さてどうしよう・・・この箱のままドイツ人に渡すわけにいかない。
適当に渡したが、後に残る物品の処分に困った。
下宿先の息子の若手検事に云うと喜んで手を出したがその後の分はどうしたか?
今となっては明らかではない。
その年末、私は佐世保工廠に転勤になり、ドイツ人達と別れた。
終戦となり東京に戻った時に彼等の消息を訊くと、箱根に収容されているとの由。
その後、本国へ送り戻されたものと思う。
緒明大尉は戦後、自決した。
先輩の友永、庄司中佐が志し半ばでドイツ潜水艦内にて戦死せるを悼んでの自決か。
・・・以上、故人の回顧録より。
回顧録にある伯父さんが関わった来日ドイツ人達は1943年5月10日にフランスのロリアンを出港してドイツ海軍より日本海軍に譲渡された潜水艦 U-511(呂501潜)に乗艦して来たと思われる。
回顧録の続きは、「太陽の帝国」の中に載せていきたいと思う。
この後、伯父さんは佐世保海軍工廠で伊号潜水艦や水上艦艇の設計や建造に携わった。
今から70年以上も前に世界初のドック型強襲揚陸艦「神州丸」や「あきつ丸」、大和型戦艦、 高雄型高速重巡洋艦に空母機動部隊を建造し運用していた日本はカタパルトを装備し攻撃機を搭載して長大な航続距離を誇る世界最大の潜水艦・潜水空母も就航させていた。
伊号第四百型潜水艦(潜特型一等潜水艦)伊400・伊401・伊402潜
全長122m 全幅12m 吃水7.02m 基準排水量 3,530トン ディーゼル機関1,925馬力4基2軸
水上 7,700馬力 水中 2,400馬力 水上速力 18.7kt 水中 6.5kt 航続距離 37,500海里(約4ヶ月)
潜航安全深度 100m 特殊攻撃機「晴嵐」3機搭載 四式一号一〇型カタパルト 揚収デリック1基
22号電探1基・13号1基 40口径14cm単装砲1門 25mm機銃3連装3基・25mm単装1挺
53cm魚雷発射管 艦首8門 九五式魚雷20本 燃料重油1,750トン 乗員 157名
資源の無い小国、日本とドイツは物量の大国に勝利する為に技術の革新に励み互いに技術の同盟を結んだ。
自分は政治的に信用できないドイツとの同盟には反対だが、ドイツ人の物造りへの気質や技術力は信頼に値する。
両国は大戦に敗れたが、21世紀の今でも良い船舶、車、鉄道、製品を作り続けている。
VIDEO
海上自衛隊 第1潜水隊群 第3潜水隊 そうりゅう型潜水艦 SS-504「けんりゅう」
全長 84.0m 全幅 9.1m 吃水 8.5m 基準排水量 2,900トン 満載排水量 4,200トン
ディーゼル機関2基 スターリング機関4基 電動機1基 スクリュープロペラ1軸
蓄電池 480個 水上出力 3,900ps 水中出力 8,000ps 水上速力 13kt 水中巡航速力 20kt
水中最大速力 33kt(推定)航続距離 非公開 AIP持久力 6,100海里 連続潜航 30日(推定)
潜航作戦深度 非公開 最大潜航深度800m(推定) X型後舵・セイル潜舵 吸音・反射材
ZQQ-7B ソナーシステム ZPS-6F 対水上捜索用レーダー1基 潜水艦戦術武器管制システム
HU-606 533mm 魚雷発射管6門 89式 アクティブ/パッシブ・ホーミング追尾誘導長魚雷
ハープーン級USM アクティブレーダーホーミング対艦ミサイル 対魚雷防御システム
そうりゅう型潜水艦は深深度攻撃能力、長距離水中探知能力、高い静粛性を誇り、非大気依存推進AIP機関(現在)から充放電・潜行時間を大幅に向上させるリチウムイオン蓄電システム搭載、また浅海域で目標探知、デコイを抜く新型長魚雷やハープーン等の兵装やCPUも開発と進化を続ける世界有数の高性能攻撃型潜水艦である。
そうりゅう型の次級では全個体蓄電とウォータージェット推進の採用を期待する。
Deutsche Marine Hapag-Lloyd Oldendorf
艦船のブリッジやエンジンルームを見ると生産国や乗組員の国柄人柄が判る。
「太陽の帝国」 ミッドウェ-海戦 に続く。
日本の近代戦史を書いたブログ
Empire of the Sun 1 「太陽の帝国」その1 真珠湾攻撃・マレー・蘭印作戦
Empire of the Sun 2 「太陽の帝国」その2 インド洋作戦・珊瑚海海戦
Empire of the Sun 3 「太陽の帝国」その3 遣日独潜水艦・海軍技術士官
Empire of the Sun 4 「太陽の帝国」その4 ミッドウェ-海戦
Empire of the Sun 5 「太陽の帝国」その5 聯合艦隊旗艦
Empire of the Sun 6 「太陽の帝国」その6 大和出撃
Empire of the Sun 7 「太陽の帝国」その7 マリアナ諸島 テニアンの戦い
Empire of the Sun 8 「太陽の帝国」その8 大日本帝國
Empire of the Sun 9 「太陽の帝国」その9 運命の瞬間
Empire of the Sun 10 「太陽の帝国」その10 満州事変
Empire of the Sun 11 「太陽の帝国」その11 上海事変
Empire of the Sun 12 「太陽の帝国」その12 兵に告ぐ 二・二六事件