「太陽の帝国」 ミッドウェ-海戦の続き。
帝國海軍技術士官だった氏を偲んで生前にお聞きした話を故人の手記より抜粋し数回に分けて書いている。
戦争・第一部「遣日独潜水艦」故人の回顧録の続きより
戦争・第二部
「海軍中将 平賀 譲」
平賀譲は1901年(明治34年)東京帝国大学工科大学校を卒業。
海軍造船中技士(中尉) 1918年(大正7年)東京帝国大学教授
1926年(大正15年)造船中将 1931年(昭和6年)予備役となる
1938年(昭和13年)より、東京帝国大学総長を務める。
平賀譲は外国人技師の手を借りることなく帝國海軍が大艦の建造を始めた日露戦争の当時より、戦艦「長門」「陸奥」など八八艦隊の主力艦(八八艦隊はワシントン海軍軍縮条約に拠り建造中止。)また補助艦として重巡洋艦「古鷹」「妙高」、軽巡洋艦「夕張」型など欧米列強の技術水準を凌ぐ艦艇を設計、日本最後の戦艦となった大和型の設計に至るまで長期に渡り艦艇設計の中枢にあった。

戦艦「長門」 長門型戦艦 一番艦 八八艦隊計画一号艦 日米開戦時 連合艦隊旗艦。
全長215.8m 全幅28.96m 41cm連装砲4基 14cm単装砲18門 12.7cm連装高角砲4基 53 cm魚雷発射管8門 最高速力26.5kt 基準排水量33,800トン
1920年の完成当時は世界最大・最強・最速の高速戦艦であり世界中の海軍に大きな影響を与えワシントン軍縮条約の切っ掛けになった大型戦艦である。

軽巡洋艦「夕張」 同型艦無し
全長139.99m 全幅12m 14cm連装砲4門 12cm単装高角砲 61cm連装魚雷発射管2基 主機ギアードタービン3基3軸 最高速力35.5kt 基準排水量2,890トン
コンパクトな艦体に格上の戦闘力を施し世界の注目を集めた実験艦で重巡設計の礎となる。

重巡洋艦「古鷹」 同型艦「加古」
全長185.2m 全幅16.9m 20.3cm砲3基6門 12cm高角砲4門 61cm四連魚雷発射管2基 ギアードタービン4基4軸 最高速力34.6kt 基準排水量8,700トン
ワシントン条約下で建造した8千トン級巡洋艦で欧米列強の15cm砲搭載艦を凌駕する。
上記「夕張」と第八艦隊に所属し、第一次ソロモン海戦では同型姉妹艦「加古」と共に敵の重巡4隻を撃沈している。

重巡洋艦「妙高」 同型艦「那智」「足利」「羽黒」
全長203.7m 全幅20.7m 20.3cm連装砲5基10門 12.7cm連装高角砲4基 61cm魚雷発射管4基16門 艦本式ギアードタービン4基4軸 最高速力34.6kt
改装後に基準排水量10,902から13,000トンに増加した1万トン級の重巡洋艦で開戦の直後から重巡「妙高」はダバオ・ホロ攻略、スラバヤ沖海戦、珊瑚海海戦、ガダルカナル島ヘンダーソン基地艦砲射撃、ブーゲンビル島沖海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦など多くの重要作戦に参加した。
しかし、ここに至るまでの彼の行程は淡々とした道程ではなかった。
軍艦の設計は一般的な船の基本性能(速度、強度、復原力)に加えて戦闘力、防御力を過不足なく見合わせねばならない。
そのバランスを維持する為、平賀は時に用兵側の要求する戦闘力(兵装)の重量を制限したり、搭載を拒否することも度々あった。
「技術屋の任務は用兵側の注文を形にする事にある」と用兵側の反撃。
「船の基本性能重視」と平賀は譲らない。
あれでは「平賀 譲」ではなく「平賀 不譲」だと、用兵側の反感が募る。
一方技術側にも、平賀の設計内容、部下の扱い方などをあげて、反平賀派が台頭する。
こうした不満が鬱積した1923年(大正12年)平賀に欧米出張の命が下る。
時に平賀は造船少将、艦政本部・第四部(艦艇建造所掌)の計画主任だった。
帰朝後の第四部長就任を確信してロンドンへ旅立ったが、四五歳の大人としては平賀の認識は甘かった、これは反平賀派の陰謀だったのだ。
翌年帰国した平賀に与えられた場所は、第四部長室はおろか会議室の片隅の衝立で囲まれた一郭で、今の時代の窓際族、艦艇設計のラインから外された処遇だった。
しかし海軍はこれまでの平賀の功績を忘れる事なく、技術研究所造船研究部長に任命した。
翌年1926年(大正15年)には位を造船中将に進める。
1934年(昭和9年)技研時代(既に東大教授を兼務)の平賀は、ロンドンでの国際水槽会議で論文を発表した。
摩擦抵抗の実験式を演繹した「第一論文」と、実験式の精度を実船で検証した「第二論文」との二編である。
特に「第二論文」は、日本海軍が欧米列強に先んじて、駆逐艦「夕立」を実験艦として大規模な海上曳航抵抗実験を行い、貴重な実験成果を得た事で聴衆に深い感動を与え、平賀は満場の拍手に包まれ報告を終わった。
1934年(昭和 9年)平賀が艦政本部を離れた後に設計した艦艇の転覆事故
「友鶴事件」
第四艦隊の水雷艦隊の船首損傷事件は何れも造船設計陣が用兵側の要求に妥協した結果
復原性や強度が不足した事が原因であるとされた。
事件の翌年、海軍は計画の強度改正を審議する「臨時艦艇性能改善調査委員会」を設立。
既に予備役となり海軍を離れた平賀も海軍嘱託、東大教授としてその委員の一人だった。
平賀は秋霜烈日、後任者の設計を否定した。 彼は電気溶接を信用しなかった。

水雷艇「友鶴」 千鳥型水雷艇三番艦 同型艦「千鳥」「真鶴」「初雁」
全長82m 全幅7.4m 12cm単装速射砲3基 25mm連装機銃2基 25mm単装機銃6基 連装魚雷発射管1基 爆雷投射機1基 基準排水量 615トン 最高速力 30kt
ロンドン軍縮条約の影響に拠り、当時の新鋭艦「吹雪型駆逐艦」の武装搭載比率が約14%に対し、千鳥型は24%と言う重武装だったが本事件後、復元性能改善工事が施された。
またこの頃、昭和12年から始まる無条約時代に備え、大艦の設計が進められていた。
一八インチ(46センチ)主砲三連装三基搭載の巨大戦艦、後の大和型戦艦の設計である。

これにも平賀は海軍嘱託として参加、いや主力艦の計画に関する限り、経験といい、実力といい、彼抜きでは作業は進まなかったに違いない。

戦艦「大和」 大和型戦艦一番艦 同型艦「武蔵」
全長263m 全幅38.9m 46cm三連装砲塔3基 15.5cm三連装砲塔2基副砲2基撤去 12.7cm連装高角砲12基 25mm三連装機銃52基 25mm機銃6基 13mm連装機銃2基 零式水偵7機搭載 カタパルト2基 基準排水量 64,000トン 最大速力 27.46kt
艦政本部第四部の大和型戦艦 基本計画主任であった福田 啓二造船中将(当時 技術大佐)は柔軟な頭脳と性格の持主であり、平賀の力量を認め、設計理念も平賀の流れを汲んで巨艦計画は順調に進んだ。
昭和10年10月19日 高等技術会議で後に「大和」「武蔵」となる巨大戦艦の大綱が決まった。
平賀自薦の案は棄却されたが一部を除き平賀案そのもの頑固なまでの古典主義踏襲だった。
昭和12年11月4日 明治節の翌日、呉工廠で戦艦「大和」の起工式が極秘裏に行われた。
東大に戻った平賀は、時代の空気に取りまかれる。
昭和13年 東大総長に選出され、続いて所謂「平賀粛正」が始まる。
以上、艦艇設計者としての平賀の足跡を足早に辿って来たが、内藤 初穂著『軍艦総長 平賀 譲』には背景となるワシントン・ロンドン条約に対応する政府の方針、時局の流れ、海軍首脳の動き、艦政本部、第四部の人脈、平賀を巡る毀誉褒貶、迂路曲折、綿密な調査に基づいた記述が続き、平賀が守り抜いた「船を構成する各性能バランス、過不足無き重量配分の為の努力」に造船屋の本領を見出す。
今日のコンピュター使いに徹した設計・技術・造船屋に是非、読んで貰いたい本である。
私と著者の内藤は、平賀総長下の東大船舶工学科に、昭和15年入学した。
その年の10月8日 天皇陛下の行幸をお迎えし、グランドの式台に海軍中将の軍服で持立する彼の晴れの容姿を見た。
昭和16年 私は海軍委託学生に採用され、「新顔はどんな奴か?」と、海軍学生製図室を珍しく覘かれた総長から、お言葉を戴いた事がある。
昭和17年9月の卒業式には平賀総長の激励の辞を聞いて送り出された。
昭和18年2月18日 平賀総長は春を待たずに急逝した。
・・・以上、故人の回顧録より。 戦争・第三部 「大和出撃」に続く
※自分が入れた写真と艦艇注釈文の艤装・兵装スペックは各艦の改装と時期に拠り異なる。
故人に拠る、
旧海軍小艦艇 の復原性能 の解析 昭 和29年5月 造船協会春季講演
論文一覧
「日本の造船技術は素晴らしい、日本で作られた船が好きだ。」
これは自分が船員時代に実感し、船舶代理店時代に欧米の海運会社から来日したドイツやイギリス、ノルウェー、ギリシャ人の海務・工務監督の口から直接聞いた日本の技術に対する世辞抜きで評価する言葉だと思う。
故人の形見として自分は読切れない程、沢山の旧海軍関係や造船関係の書籍を戴いた。
その中に、「戦艦武蔵建造記録」と付属の軍艦武蔵艤装図と第一号艦最大中央横断図があり、分厚く重い建造記録と大きな図面を広げて見た。
昭和10年から2年間も掛けて引かれた設計。
全長263m 全幅38.9m 吃水10.4m 排水量65,000トン 150,000馬力
今から75年も前に設計された艦であるが、当時の最新技術が詰込まれ、様々な条件や被害を想定し配置など熟慮工夫された戦艦だと言う事は、船素人の自分にも容易に理解出来る。
「大和」「武蔵」は帝國海軍が誇る世界史上最大の戦艦であり、連合艦隊の旗艦であった。
連合艦隊旗艦とは艦隊司令長官が座乗して指揮官旗を掲げ作戦指揮を執る艦であり、艦隊全体の統制司令を行なう能力の高い通信設備と作戦会議室や参謀将官の居住設備が備わる。
帝國海軍の連合艦隊司令部が置されていた旗艦は日露戦争の戦艦「三笠」以降、「陸奥」「長門」「大和」「武蔵」など歴代、艦隊主力である重武装の大型戦艦が務めた。
だが太平洋戦争で連合艦隊司令部が海戦で艦隊の先頭に立つ事はなく、後方で指揮を執り帝國海軍最強の大和、長門型戦艦も後方に温存され末期まで敵と砲火を交える事は無かった。
巨大な風呂や冷房など近代的設備が整い居住性が高い上、食事も優遇され軍楽隊もあった為に、他艦の乗組員や陸軍将兵からは「大和ホテル」「武蔵御殿」と揶揄された。

トラック島の描地に停泊中の「大和」と「武蔵」
戦闘艦でありながら豪華海上ホテルの風格。 しかも連合艦隊揮下4万の護衛付である。
レイテ沖海戦に至る捷号作戦では第二艦艦隊 旗艦として重巡洋艦「愛宕」が嘗て連合艦隊旗艦を務めた戦艦「長門」「大和」「武蔵」を従えた栗田中将の第一遊撃部隊がブルネイを出撃、高速且つ小回りが利く「愛宕」であったがパラワン水道で米潜水艦の雷撃を受けて沈没、栗田中将が移乗して第二艦隊司令部を戦艦「大和」に移した。
栗田中将の判断については栗田艦隊の反転と共に旗艦・司令官が先頭に立つ義務と旗艦を先陣艦とする、しないの根強い意見の対立もある。

重巡洋艦「愛宕」 高雄型 二番艦 同型艦「高雄」「摩耶」「鳥海」
20.3cm連装砲5基 12.7cm単装高角砲4基 13mm連装機銃4基 4連装魚雷発射管4基 水上偵察機4機搭載 最大速力 35.5kt 基準排水量11,350トン
高雄型は基本計画主任の平賀 譲が妙高型の設計を最後に海外出張した為、後を引き継いだ藤本喜久雄大佐(当時)が担当した1万トン級 重巡洋艦。
妙高型の攻撃力を維持、居住区を画拡充し、戦艦に次ぐ準主力艦として、高い艦隊指揮能力を付加すべく塔型艦橋を大型化させた。
また、防御区画を短縮する為に煙路上に載るという配置上の理由でも大型化している。

艦橋楼には下部艦橋、中部艦橋の両脇に機銃台、上部艦橋の両脇には1.5m 測距儀、羅針艦橋、防空指揮所、測的所の天蓋に主砲用一四式射撃方位盤、その後ろに主砲用6m測距儀が載る。
また魚雷発射管も中甲板から上甲板に移設され被弾時の損害を押え作業性は向上している。
最新技術が詰込まれ、ミサイル重巡洋艦に生れ変わった現代の「愛宕」

イージス ミサイル護衛艦 DDG-177「あたご」 あたご型一番艦 同型艦「あしがら」
情報衛星にSPY-1D対空レーダーやFCS射撃管制レーダー等の電子の盾とサジタリウスの矢で武装され コンピュータで守れたバベルの塔 CICで指揮を執る。
1932年 就役の重巡洋艦「高雄」と 2007年 就役の最新イージス護衛艦 「あたご」両艦の艦橋楼を比べると「高雄」は装備こそアナログだが、今から81年も前の就役艦とは思えないくらい現代的なスタイルは年代を感じさせない。
重巡「高雄」の主機関は重油ボイラーと蒸気タービン4基 4軸スクリューで、全長203mの鋼鉄の重い船体を現代でも充分に通用する、最大速力 35.5kt まで引っ張り上げた。
しかし、重量が重くなれば機動性や航続距離など、船としての航行運動能力を下げる。
大型化し過ぎてトップヘビーになった「高雄」「愛宕」は、第四艦隊事件を機に艦上の縮小工事を行い重心を下げたが、速力や安定性は、バランスの良い妙高型に及ばない。
高雄型を設計した藤本大佐は艦艇の事故、駆逐艦「友鶴」の転覆事件で謹慎処分となった。
戦前、ワシントンとロンドン海軍軍縮条約に拠り艦艇の保有数が制限される。
帝國海軍は数で勝る列強海軍を艦隊決戦で打ち砕く為に、アウトレンジ戦法を模索する。
大艦巨砲主義、即ち艦隊決戦を想定し、主砲の巨大化に拠る貫徹力・破壊力の向上と有効射程の長距離化を図り、防護装甲を強化し多重隔壁を持つ大和型戦艦の建造を進める。
空母機動部隊に拠る海戦に備え、航空機の増槽や航続距離の長い艦載機や陸攻を開発した。
世界で唯一、日本海軍だけが窒素を排出せず雷跡が見えない隠密性に優れた長射程の酸素魚雷を実用化に成功させた。
開戦初期、日本海軍は各方面で勝利するがアウトレンジ戦法は次第に勝てなくなる。
海戦での日本海軍の敗因は連合国との国力や物量差だけではない。
対地攻撃には戦艦「大和」の46cm主砲の射程42kmは有効だが、当時のレーダー射撃の精度や着弾観測など命中率を考えれば双方が動く艦隊戦に於いては有効射程は20~30km程度。
対艦攻撃はゴルフの打ちっ放しではなく、飛距離だけが伸びても正確に敵艦艇に命中弾を与えなければアウトレンジからの攻撃の意味がない。
夜間戦闘に於いても照明弾を上げる肉眼射撃と悪天候下でも正確なレーダー射撃の命中率の差は歴然で、「大和」にも電探は装備されたが米海軍のレーダーの性能には及ばなかった。
また航空海戦でアウトレンジを採った事に拠り搭乗員が攻撃戦闘までに長時間飛行を強いられ体力を消耗し、方向を間違え行方不明になる機や撃墜される機が続出した。
命中すれば軍艦でも一発轟沈可能な九三式酸素魚雷の長い航走距離も港湾施設や停泊中の艦艇の雷撃には有効だが、艦隊戦や航行中の敵に対しては距離的優位性は高くない。
大戦中は日露戦争当時の様に艦砲の撃合いや体当りして撃沈する事は殆ど無くなった。
旧海軍艦艇に比べ合成繊維ケブラー材や高張力鋼材を使用している現代のイージス護衛艦の装甲や外板はとても薄い。
装甲や外板船底を厚くしても対艦ミサイルや魚雷爆圧を跳ね返す事は出来ないからだ。
現代は弾を受ける防御ではなく、弾を妨害または迎撃して避ける防御策を採っている。
また万が一被弾した場合も多くの隔壁に拠ってダメージコントロールしている。
装甲が薄くなり船体が軽くなり機動性が向上した半面、イージスの分厚い楯内、つまり衝突事故や近接攻撃、自爆テロ、海賊、偽装工作船に拠る至近距離からのロケット弾や爆弾攻撃に対し脆弱である為に現在その弱点の解決と対策が課題になっている。
大戦末期、連合艦隊司令部は軽巡洋艦「大淀」を最後に慶應義塾大学構内の地下防空壕に移り、陸上で指揮を執るようになり連合艦隊旗艦は消滅した。
以降、旗艦が先頭にあって艦隊を率いるより、通信機に拠って全体を指揮するものとされて個艦の戦闘能力(速力・攻撃力・防御力)より、指揮通信能力が重要視される様になる。
現在、米海軍第7艦隊の旗艦は横須賀港を母港とする LCC-19 「USS Blue Ridge」

揚陸指揮艦「ブルー・リッジ」のフラットな甲板上には各種通信アンテナが設置され、優れた指揮通信能力と広い居住設備を持ち積載輸送能力は高いが戦闘能力は殆ど無い。
1970年就役、ベトナム戦争に参加、サイゴン陥落時は脱出作戦で米海軍と海兵隊の指揮を執り、湾岸戦争では「砂漠の盾作戦」「砂漠の嵐作戦」にも旗艦として参加した。
東日本大震災では寄港先シンガポールから救援物資を積載し日本への輸送任務に当る。
米海軍の遠征艦隊は高い指揮能力の旗艦を持つが、多くの国は陸上で指揮を執っている。
世界初のドック型揚陸指揮艦
日本は高い上陸戦遂行能力を持つ「神州丸」を1934年に建造運用している。

全長144m 全幅22m 吃水4.2m 基準排水量7,100トン 航続距離7,000浬
最高速力20.4kt 機関ボイラー2基 蒸気タービン1基 最大出力7,500馬力
対空指揮施設 兵装 7.5cm単高射砲11門 20mm機関砲6門 7.5cm野砲1門
対潜水中聴音機 爆雷 12cm対潜用迫撃砲1門
最大収容兵員約2,000名 冷房・医務設備 船尾泛水装置
搭載上陸用舟艇 八九式中戦車搭載可大発29隻・小発26隻・装甲砲艇4隻・高速偵察艇4隻
搭載航空機 九一式戦闘機・九二式偵察爆撃機 最大12機 搭載機射出カタパルト2基
1937年 帝國陸軍「神州丸」は日華事変勃発直後、天津河口の太沽上陸作戦を初陣に実戦運用を開始、第二次上海事変、マレー作戦と参加、荒天下の揚陸に活躍した。
1942年には航空機運用能力を向上した全通飛行甲板の強襲揚陸艦「あきつ丸」を建造する。

全長152.1m 全幅22m 基準排水量9,190t 九七式戦闘機13機 大発27隻搭載
対空指揮施設 兵装 7.5cm単高射砲8門 25mm機関砲12門 7.5cm野砲10門
対潜水中聴音機 爆雷60個 12cm対潜用迫撃砲1門
「あきつ丸」は「神州丸」と共に蘭印作戦にも動員されジャワ島上陸制圧に貢献、爆雷60個を搭載して対馬海峡で対潜哨戒輸送任務も就いた。
この2隻の先進的な揚陸艦は後の おおすみ型LST輸送艦、ひゅうが型DDH護衛艦や強襲揚陸艦の運用に影響を与えた。
ヘリ搭載護衛艦 「いせ」 DDH-182 ISE ひゅうが型2番艦 基準排水量13,950トン

全長 197m 全幅 33m ガスタービン 4基2軸推進 100,000ps 最大速力30kt
艦載機 SH-60K哨戒ヘリ 3機 MCH-101掃海輸送ヘリ 1機 最大積載機 11機
CIWS 20mm対空機関砲 2基 12.7mm重機関銃 7基 HOS-303 三連装短魚雷発射管 2基 97式短魚雷 対艦潜ミサイルMk.41 VLS 16セル
艦名の「いせ」は、旧国名「伊勢」に由来し、帝國海軍 航空戦艦「伊勢」に次いで二代目。

本艦は従来の軽空母・強襲揚陸艦に匹敵する艦体に広大な全通甲板を配し、艦内容積により多数のヘリを同時運用できる強力な航空運用能力は、優れたゾーン対潜戦能力を実現する。
CICの後部に隣接設置した FIC旗艦運用司令部作戦室は艦隊個艦の戦闘統制用CDSと連接され、衛星通信機能には米海軍の基幹指揮回線を併設し高度な日米共同作戦が可能である。
優れた指揮旗艦能力は大規模災害時に自治体を迎える対策本部や海外派遣統合司令部の役割を果たし、艦内に集中治療室や手術室を備えた医療設備を有し、大型輸送ヘリや救難ヘリに対応する海上基地として機能し、本来用途である揚陸作戦以外にも災害派遣、国際平和活動や邦人救出等の多彩な任務を柔軟に遂行する。 乗員 360名
揚陸艦 「おおすみ」 LST-4001 OSUMI おおすみ型1番艦 基準排水量 8,900トン

全長 178m 全幅 25.8m 2軸推進ディーゼル2基 26,400ps 最大速力 22kt
搭載艇 LCAC-1 エアクッション型揚陸艇 2隻 兵装CIWS 20mm対空機関砲 2基
艦名の「おおすみ」は大隅半島に由来、日本海軍の慣例で特務艦に半島などを命名する。

本艦の全通甲板は複数のヘリ発着運用が容易であり、後部艦内に設置されたウェルドックに揚陸、輸送用ホバークラフト2隻を搭載、岸壁使用時には大型戦車や作業車は艦体両舷サイドランプから車両甲板に直接搬入揚陸可能な優れた輸送能力は実力上、ドック型強襲揚陸艦である。
陸上部隊 1個普通科中隊戦闘群(約330名と装備品)、民間人の輸送時は約1000名が収容可能であり艦内医療設備は集中治療室や手術室を備えている。 乗員137名(他、揚陸要員330名)

艦載 LCAC-1 エアクッション型揚陸艇
積載能力70トン 90式戦車1両積載可能 搭載最大限界 240名の揚陸を行う。
「おおすみ」は東日本大震災や他に1999年のトルコ北西部地震では被災者救援に補給艦「ときわ」掃海母艦「ぶんご」を伴いスタンブールへ派遣出動、2002年 東ティモールへPKO部隊を輸送。
2004年にはイラクへ陸上自衛隊の軽装甲機動車や給水車など車両70台を護衛艦「むらさめ」と共に輸送している。
同型艦「くにさき」も2004年のスマトラ沖地震被災地へ、護衛艦「くらま」、補給艦「ときわ」と共に派遣され人道援助活動と援助物資輸送任務に従事した。
現代のイージス艦が、70年前の太平洋戦争中にタイムスリップすれば、↓こうなるのか。
海上自衛隊イージス艦 VS 米海軍 潜水艦「ガードフィシュ」
日本の「未来」
警察予備隊から自衛隊、国防軍となり、強力な兵器を装備し、何時の時代にあっても日本国自衛隊は専守防衛に徹し、日本国民の生命と尊厳を守る強く優秀な部隊である事を願う。
「太陽の帝国」 大和出撃に続く。
日本の近代史・戦史を書いたブログ
Empire of the Sun 1 「太陽の帝国」その1 真珠湾攻撃・マレー・蘭印作戦
Empire of the Sun 2 「太陽の帝国」その2 インド洋作戦・珊瑚海海戦
Empire of the Sun 3 「太陽の帝国」その3 遣日独潜水艦・海軍技術士官
Empire of the Sun 4 「太陽の帝国」その4 ミッドウェ-海戦
Empire of the Sun 5 「太陽の帝国」その5 聯合艦隊旗艦
Empire of the Sun 6 「太陽の帝国」その6 大和出撃
Empire of the Sun 7 「太陽の帝国」その7 マリアナ諸島 テニアンの戦い
Empire of the Sun 8 「太陽の帝国」その8 大日本帝國
Empire of the Sun 9 「太陽の帝国」その9 運命の瞬間
Empire of the Sun 10 「太陽の帝国」その10 満州事変
Empire of the Sun 11 「太陽の帝国」その11 上海事変
Empire of the Sun 12 「太陽の帝国」その12 兵に告ぐ 二・二六事件