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「太陽の帝国」 大和出撃 から時を戻る。
1944年7月24日の早朝、米海兵隊第2海兵師団は百数十隻の上陸用舟艇を島の南西部、テニアン港沖に一斉に前進させた。
1920年 第一次世界大戦後、ドイツ領であった北マリアナ諸島は国際連盟から正式承認されて日本の委任統治領となり 無人島のテニアンに約15,700人の民間人が入植する。
サイパンとテニアンの南洋興発の砂糖黍栽培園や製糖工場には多く人が従事してコーヒーや綿花、バナナ等も生産され、昭和初期には台湾に次いで砂糖生産量は東洋第2位になる。
また漁業では鰹漁が盛んになり、島内には鰹節工場も作られて街には学校、日本的な商店や料亭、映画館にカフェなども並び人々は、この南洋の楽園で平穏に暮らしていた。
帝國海軍は戦略的に価値が高い同島に囚人1280名を横浜刑務所から派遣し飛行場建設に充当
1,450mの滑走路を持つ南洋諸島最大のハゴイ(ウシ)飛行場を完成させる。

米軍名ノースフィールド飛行場は後に滑走路を 2,500m 4本に拡長された。
闘将 角田覚治 中将
1944年2月 先のソロモン海域での南太平洋海戦に於いて、米空母に向け艦載機の作戦行動範囲外から攻撃隊を発進させ、座乗する空母「隼鷹」単艦で敵機動部隊に向かって最大戦速で突進、米空母「ホーネット」を沈没させ、「エンタープライズ」を大破し撃退した、闘将 角田覚治 中将揮下の第一航空艦隊 第1021及び第121航空隊からなる基地航空部隊がハゴイ飛行場に進出する。
空母「隼鷹」は正規建造空母に比べて速力や装甲防御力が見劣りする商船改造艦ではあったが、正規空母と並び多くの作戦に参加して活躍、爆弾魚雷の多数直撃を受けながらも終戦まで生き残り報国、正規高速空母「蒼龍」に匹敵する航空機搭載能力は帝國海軍の貴重な航空戦力を支えた。
テニアン島守備兵力
海軍の陸上兵力は第56警備隊と防空隊の約1400名 基地司令部要員等 他約3000名
帝國陸軍は満州遼陽の第29師団から、連隊長 緒方敬志 大佐揮下の歩兵第50連隊を移駐
既営の第135連隊 第1大隊と合わせて歩兵4個大隊、砲兵1個大隊 九五式軽戦車9両
約4000名を配備した。
防御火力は14cm砲9門 12cm砲4門 12cm高角砲14門 25mm連装機銃24門
陸海軍の合わせて 約8400名の陸上兵力となる。

6月20日のマリアナ沖海戦で日本機動部隊に勝利した米軍は7月9日 サイパン島を攻略。
テニアン島に進出した第1航空艦隊は、これまでの太平洋各方面の作戦とサイパン島防衛に艦爆・艦攻・陸攻・零戦など総ての航空機を投入消耗し、航空兵力は既に消滅していた。
テニアン攻防戦
7月24日、テニアン島上陸作戦を開始した米海兵隊の上陸用舟艇が海岸から約200mまで接近、日本軍守備隊が一斉に砲撃を開始して上陸部隊を撃退、また海岸砲台は米海軍戦艦「コロラド」に対し22発の命中弾を与え、駆逐艦「ノーマンスコット」も多数の命中弾を浴び艦長以下多くの死傷者を出したが、これは米軍主力上陸の陽動作戦だった。
7月24日07時 米第4海兵師団が水陸両用装甲車等約150両を以って防御が手薄な島北西部のチューロ海岸に上陸を開始する。
テニアン守備隊は陸軍第3中隊と海軍警備隊は米艦の艦砲射撃と爆撃、水際の戦闘で全滅、
米第4海兵師団主力と第2海兵師団1個大隊、山砲(75㎜曲射砲)4個大隊が上陸する。
7月24日深夜 日本軍が反撃開始、米軍の猛烈な射撃と照明弾に拠り日本軍は2500名にも及ぶ損害を出して反撃は失敗に終わり、戦車も4両を残すのみとなった。
7月25日 米第2海兵師団主力が上陸して南下を開始、日本軍はカロリナス高地北方に新防衛線を構築、16から45歳までの民間人男子 約3500名が義勇隊6個中隊を編制する。
7月30日 米軍は防衛線を突破し、テニアン市街を占領。
7月31日 日本軍が反撃を開始、夕刻まで続いた戦闘に日本軍は敗れ、島南端へ撤退した。
島唯一の水源地マルポの井戸を米軍が占領、日本軍は長期抵抗が困難となり、緒方連隊長は夜半にグアム島の第31軍司令官小畑英良中将に対し最後の報告を打電する。
8月1日 日本軍の反撃で栗野原 海軍大佐、林技術少佐をはじめ多くの将兵が戦死した。
8月2日 残存部隊と民間義勇隊 約1000名が突撃を敢行し、緒方敬志 大佐も戦死する。
第1航空艦隊司令長官 角田覚治 中将は笑顔で「じゃあな。」と言い手榴弾を抱え壕を出て兵士と共に戦闘に参加し戦死、三和参謀長以下海軍幕僚は自決、第56警備隊司令 大家大佐も戦死。
8月3日夜明け 日本軍は玉砕、テニアン島に於ける組織的戦闘は終結した。
その後も生存者は数名単位に別れ米軍施設の破壊を続けたが、地形が平坦なテニアン島では長期遊撃戦は難しく多くが米軍に掃討され、桝谷中尉以下61名が終戦まで抵抗を続けた。
日本軍将兵 戦死者 約8100名 米軍将兵 戦死者 389名
角田中将は米軍の上陸前に昼夜を問わずして野戦陣地構築に協力した島の住民に対して
「ありがとう、皆さんは民間人なのですから私達軍人の様に玉砕しなくともいいのですよ」と、笑顔で最後の挨拶をして回ったが、多くの島民が自ら義勇隊の戦闘参加、また上陸前の艦砲射撃や爆撃、自決等で民間人 15700人の内 約1500名が亡くなられている。
帝國海軍は、この戦いで地勢軍事的な重要拠点を失っただけではなく、第一航空艦隊の歴戦有能な参謀幹部と山口多聞少将に並ぶ勇猛な提督 角田覚治中将を失った。
またサイパン島の戦いに於いては 、陸軍は 第43師団長 斎藤義次中将 井桁敬治少将
海軍は中部太平洋方面艦隊司令長官 南雲忠一中将 第六艦隊司令長官 高木武雄中将が自決
約30,000名が戦死、サイパン島守備隊は全滅、民間人約10,000人が亡くなっている。
北太平洋まで絶対国防圏は破られテニアン島が陥落し、マリアナ諸島全域が米軍の手中に堕ちた事により、日本本土は常に空襲にさらされ、焼夷弾に拠る無差別絨毯爆撃に脅かされるようになる。
不定期南洋航路
今から25年位前に自分は初めて北マリアナ諸島サイパン島の南隣に位置するテニアン島に入港上陸して本船は6日間ほど揚荷役で停泊した。

テニアンの小さな港には補給待ちの大型遠洋漁船の他に本船と同じような ”Freego Oceania” と ”Rose Mary”と言うパナマ籍の冷凍貨物運搬船が荷役で着岸しているだけでクルーザーやヨット等レジャーボートは一隻もなく、貿易港とは思えないほど静かでノンビリしていたが、この2隻も翌日には荷役を終え出港して行き、在泊の貨物船は本船一隻だけになり更に寂しくなった。

この頃のテニアン島は観光の島グアムやサイパンとは違い、レジャー施設や観光ホテルなども無く、店と言えば出稼ぎのフィリピン娘が2、3人いて踊れる船員相手のBARが数軒と韓国人ママがやっている雑貨店兼レンタルバイク屋くらいで米兵軍属の姿も無かった。
朝からバイクを借りて島内観光に出掛けたが、何も無い島は観光と言うより探索だった。
雑貨屋で地図が書いている古い島のパンフレットを貰い、学校や駐在所、神社跡など日本統治時代の名残と日本軍のトーチカや壕、朽ち果てた対空機銃や6インチ砲等を見て回った。

この島も他の南洋の島々と同様に静かで、僅か40数年程前に多くの将兵が戦死、玉砕して多くの民間人が亡くなった事や嘗ての島の繁栄は千年以上も大昔の出来事に思えた。
右下の建物は第一航空艦隊の司令部跡と思われる。

SanJose村を出て熱帯の草木が鬱蒼と生い茂った細く長い道を抜けると急に視界が開けた。
1944年 米軍が日本軍航空基地を接収し拡張した長距離爆撃機の滑走路に自分は立った。

この長い滑走路の先にある青く広い空は日本の空に続いている。
新型爆弾揚陸
1944年8月 テニアン島を占領した米軍はグアムやサイパンと共に日本の本土を直接空襲すべく、日本軍から接収したハゴイ飛行場を拡張しB-29戦略爆撃機を大量に配備した。
1945年7月26日 サンフランシスコから米海軍の重巡洋艦「インディアナポリス」 USS Indianapolis が、テニアンに新型爆弾を輸送して来た。
数日後に”Enola Gay”と”Bockscar”の2機のB-29に搭載される、”Little Boy” ウラニウム型と ”Fat Man” プルトニウム型の2タイプの原子爆弾だった。

この滑走路から人類初の核爆弾が日本の広島と長崎に実戦投下する為に飛立った。
昭和20年8月に投下された広島と長崎。
あの夏の日はテニアンのように暑かったのだろうか。
平和で静かな南の島に立つ自分に、日本本土爆撃の惨状は想像できなかった。
重巡インディアナポリス撃沈

7月29日 米巡洋艦「インディアナポリス」はテニアン島基地で原子爆弾の輸送揚陸任務を完了した4日後の深夜、グアム島を経由してレイテに向うパラオ島の北方250マイル付近で哨戒任務中の艦長 橋本以行 少佐の伊58潜水艦(神潮特別攻撃隊の回天搭載)浮上時に電探で発見される。
「インディアナポリス」は護衛駆逐艦を伴わず日没後は対潜回避運動もとらずに月明かりの水平線を16Ktで直進巡航を続けていた。
艦橋から双眼鏡で戦艦級の艦影を視認した伊58潜は急速潜航して右転舵、潜望鏡深度で間合いを詰めながら「インディアナポリス」の右舷側60度の攻撃位置に就き魚雷戦を挑む。
この時、回天搭乗員達多聞隊は橋本艦長に何度も出撃許可を請うが「通常魚雷で沈められる時は通常魚雷で攻撃する」と橋本少佐は若い搭乗員達を説き伏せて回天の出撃を却下する。

午後23時26分 伊58潜水艦は「インディアナポリス」に対し、九五式酸素魚雷を距離1500mから 深度4m 雷速48Kt それぞれ3度の角度を持たせ扇状に3本を発射、2,3秒間隔を開け更に3本の計6本を時差雷撃で全門発射した。
航走した初弾が「インディアナポリス」右舷1番砲塔直下と2番砲塔後部に命中、続けて時差発射した一本が初弾が引き裂いた外板の奥に入り込み炸裂、2番砲塔下部の弾薬庫が誘爆を起こし大きな火柱を上げ右舷に傾斜し艦首から海中に突っ込み行き足を停める。
伊58潜は深度30mに潜航して魚雷装填を行い止めを刺すべく再び潜望鏡深度に戻るも艦影は無く 浮上航行しながら艦隊司令部宛に戦闘戦果報告を打電する。
主砲弾薬庫の誘爆と水密扉閉鎖の不徹底も重なり急激に浸水した「インディアナポリス」は雷撃から僅か12分後に転覆沈没していた。
米海軍は「インディアナポリス」からのSOSと伊58潜が打電した暗号を傍受解読しながら不手際に拠り乗組員の捜索救助が遅れる。
7月31日のレイテ到着予定を過ぎた8月2日に米軍の爆撃機が漂流者を発見する。
雷撃の生存者約800名は最長8日間もボートも無く、水も食糧も無い状態で洋上に漂い、衰弱溺死または鮫に襲われ最終的な救助者は僅か316名だった。
乗組員1,199名の内 883名が戦死した。
重巡「インディアナポリス」は、第二次大戦中に雷撃に拠って沈んだ米海軍の最後の戦闘艦となり、伊58潜は雷撃で敵艦を撃沈した帝國海軍最後の潜水艦となった。
「インディアナポリス」の生存者が救助された8月6日 広島、9日 長崎に原爆投下。
撃沈が原爆の輸送中であれば、広島と長崎、太平洋戦史は変わっていたかも知れない。
椰子の葉影に十字星

島内探索の帰りにタイヤがパンクして汗だくでバイクを押して歩きながら色々考えた。
レンタルバイク屋に着くと韓国人ママにパンクしたことを何故だか異常に怒られる。
それまでの感傷の総てを暫く忘れさせてしまう高額な修理代の請求と日射病で気絶しそうになりながら支払いを済ませて港まで歩く。
サンタマリア・・・
こんな時に限って目も開けていられない強烈なスコールに叩かれる。
泳ぐ様にして本船に戻り、冷房の効き過ぎた船室で着替え午後の荷役当直にデッキに出る。
スコールが強烈過ぎてシャワーは必要なかったが、南の島で風邪を引きそうになる。
ニューギニアのマノクワリ港で帰船するサンパンに乗り遅れ、錨泊中の本船まで送ってくれた現地人のカヌーが浸水転覆して鮫に食われそうになりながら必死で本船のギャングウェイタラップまで泳いだ時の事を思い出したが、また別の機会に書こうと思う。

午後の荷役終了、ホールドハッチを閉めて夕方から若い機関長と二機士と3人で上陸した。
昼間、密かに偵察してきた”ムーンライト”と言うBARを奇襲攻撃する。
店のドアを開けると最初にフィリピーナに「あなたは韓国人ですか?」と聞かれる。
「たぶん日本人だと思うよw」と答えると彼女達はニコっと笑い急に愛想が良くなった。

後から当直外のクルー達も店にやって来て皆は酒を飲み彼女達とダンスを踊った。
自分はワムやライオネル・リッチーを歌いマイケルを踊ったが。
彼女達にはアル・ヤンコビッチにしか見えなかったようで、思い切り笑われた。
マイケルに成り切れなかった敗北感より、彼女達に「日本人だよ」と言いながら話す言葉も歌う音楽もアメリカに占領されていることに気付いたが仕方ない。
この島は日本の委任統治領からアメリカ合衆国の領土になった。
自分の十八番「ラバウル小唄」がカラオケのリストに無く、南洋航路を歌えなかった。
因みに初日のお会計は、非常にリーズナブルだった。

楽しい時間を過ごし、バーから帰船する途中、星灯だけの夜路を気持ち良く歩いていると
「Korean!」て、叫び声と石コロが暗闇から飛んで来た。
「No!We are Japanese!」と口だけで反撃すると・・・
「So~rry~」ってスグに降伏謝罪された。
「こんな遠い南の島で何をしたら、ここまで韓国人は嫌われるんだ?」
と皆と笑いながら歩いた。
後でバーの女の子達に韓国の船員は日本人だと嘘を吐き飲んで暴れる。と聞いた。
しかし、これは自分が入港した太平洋中の何処の港でも同じような雰囲気であった。
翌日の午後、岸壁で荷役中の本船に店の女の子3人が、わざわざ手紙を書いて渡しに来る。
手紙の内容は「○○愛してる、今夜も遊びに来てね」
一晩、歌って踊っただけの自分を愛してくれる。
仕事真面目で熱心な営業である。
案の定、本船は出港まで彼女達の監視下に置かれ、自分達は他の店には行かせて貰えない。
お会計も順調に上昇していったOrz。
数日後の午後に荷役は終了し出港準備に掛かる、日没前に離岸抜錨。
彼女達は律儀に岸壁に見送りに来て、見えなくなるまで手を振ってくれた。
日本の海員は酔っても女の娘を殴らない、身ぐるみ剥がれても飲み逃げ食い逃げはしない。
本船は港外に出てカロリナス岬を躱しながら針路をSEに取る。
間もなく降納する船尾にたなびく日章旗と遥か水平線に沈む夕陽に照らされたテニアン島に向かい、自分は独り敬礼し戦没者に手を合わせると目頭が熱くなった。
角田中将、ありがとう。 また来ます。
さらばテニアンよ、また来る迄は、暫し別れの涙が滲む
恋し、懐かし、あの島見れば、椰子の葉影に十字星。
自分はデッキの上で 独り口ずさんだ。
本船は赤道と日付変更線を越える仕向地 サモアに向け航跡を曳きマリアナ諸島を後にした。
近年、グアムやサイパンは身近になり、多くの日本人が訪れレジャーを楽しんでいる。
それは、とても良い事。
敗戦の荒廃から立ち上がり、豊かになった日本。
終戦から、もうすぐ70年になる。
しかし未だに日本に帰れない遺骨や魂が多くいる。
沢山の日本人が家族を連れて戦地を訪れ、子供達が笑顔を見せに来る事は戦没者にとっても慰霊になると自分は思う。
ただ青い海と空、美しいこの島で多くの日本人が亡くなった事を心の隅に留め置いて欲しい
この時か2度目に入港した時か忘れたが、荷役中に現地人の若いステベ(作業員)数名から
「日本の女学生やOLはスグに股を開く、女が島の男を漁りに来て金まで貰える」
「餓えた女は廃墟や壕、戦跡など人が亡くなった場所でも平気でヤル。」
「日本の女は薬物、乱交、何でも大好き、俺には日本にSフレンドの女が3人いる。」
「彼女らは給料が高い会社で働いて毎年、金を持って日本からヤリに来る。」と聞いた。
情けない。
本人らはアバンチュールを楽しんでいるのだろうが・・・
現地の若い男達から汚いゴミの様に思われ、日本の品格を貶めている事に気付いていない。
いや日本人の品格など考えた事も無いだろう。
日本で人目を憚り出来ない事を、外国で大胆にやるな。
家族を養う為に出稼ぎに来ているフィリピン娘の方が、母国と貞操を大事にしている。
話半分、一部のアホ女だと思いたいが、鳩山同様に政府が旅券を没収すべきだと思う。
日本は豊になっても、バカになってはいけない。
「太陽の帝国」 大日本帝國に続く。
日本の近代史・戦史を書いたブログ
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