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2013年11月12日

Empire of the Sun 11 「太陽の帝国」 上海事変

Empire of the Sun 11 「太陽の帝国」 上海事変 前回の「満州事変」にも書いた日中戦争の続き。

「太陽の帝国」には、嘗て帝國海軍に奉職していた父方の祖父や伯父達の体験談と自分自身が船員時代に訪ねた南洋の戦跡の記憶から海軍艦艇や海戦史を書いて来たが、太平洋戦争は真珠湾攻撃ではなく、満州、上海、日華事変から始まる。

母方の祖父は大戦前から帝國陸軍に籍を置き、香川県 善通寺 第11師団に所属、兵員輸送船勤務、上海、台湾、日本を往復、後再び上海、満州と転任、北支(華北)で終戦を迎え北京を経由して約1年後に北九州小倉に復員した。 



上海国際租界 Shanghai International Settlement

1842年の南京条約に拠り開港した上海には外国政府が行政自治権と治外法権を持つ外国人が居留する租界地が在り、自国居留民保護の為に北京議定書に基づき外国の軍隊や警察保安隊が駐留して市内を流れる黄浦江には列国海軍の警備艦艇が停泊していた。

1937年 上海 黄浦江 帝國海軍 軽巡洋艦「長良」 米海軍砲艦 USS ”Asheville”

日本の租界は天津 漢口 杭州 蘇州 重慶にもあるが特に上海は国際色豊かで華だった。 

上海にはイギリス、アメリカ、日本などが自治管理する共同租界とフランス租界があった。


揚子江の下流に位置する上海は中国とアジアの貿易と金融の中心となり、黄浦江西側にある租界の外灘(バンド)地区には外国資本の銀行や大手商社ビル、高級ホテル、百貨店、飲食店、映画館、劇場、ショッピングモールなどモダンな西洋高層建築物が建ち並ぶ。

まだ幼かった母は休暇で帰って来た祖父から、上海の珍しい靴やゴムボール、祖母はバッグや洋服と香水、台湾の砂糖キビなど土産を貰った事を嬉しそうに話していた。

装甲巡洋艦「出雲」から見た上海バンド(海岸通)  敷設艦「八重山」


租界には多国の様々な文化が溢れ、また中国政府や支那軍閥が行っていた思想の取締りはなく、自由に活動発言できた為に中国の思想家、学術者、音楽家、芸術家など多くの知識人達が集まり、図書館や美術館も建って、キャバレーにダンスホールなどの社交場や舞台や映画の製作も盛んに行われて活気に溢れ華やいだ国際都市上海は「東洋のパリ」と呼ばれた。

この自由な風潮に世界各地から迫害を逃れてきた多くのユダヤ人達も移住して来る。

その繁栄の反面、上海の街には麻薬や売春や賭博が横行、裏社会の中国人ギャング達が暗躍し貧困に餓死した中国人の死体が毎日の様に黄浦江に浮いては流れ「魔都」とも呼ばれる。



第一次上海事変

1932年 蒋介石の命令に服さない軍閥客軍が中国各地の租界や租借地で挑発や衝突を繰返し、上海事変は1月18日に上海共同租界で起きた日本人僧侶襲撃事件に対する暴動に端を発する。

江西省で共産党軍との戦闘を終えた中国国民党 第十九路軍 3個師 約3万の兵力が南京、鎮江、蘇州、常州など上海付近に進出駐留、排日暴動から租界の居留民を警護する為に日本海軍陸戦隊は黄浦江に停泊する警備艦艇から上陸させ2700名に増強した。

警備を増強する列強軍との衝突を回避したい蒋介石の国民党中央は十九路軍に撤退を勧めるが、蒋介石に疑心を抱く第十九路軍 軍長 蔡廷は給与未払いを理由に首都南京以上に繁栄していた上海周辺の支配を狙い、撤退を拒否する。

1月28日 日本海軍陸戦隊に第十九路軍が銃撃し陸戦隊に90数名の死傷者が出た。

帝國海軍は空母「鳳翔」「加賀」 重巡「那智」 軽巡「阿武隈」「那珂」「由良」 駆逐艦「沖風」「峰風」「沢風」「矢風」を派遣し航空支援を行う史上初の正規空母の実戦参加であった。  

帝國海軍 第一艦隊 第一航空戦隊 空母「鳳翔」

日本政府は陸軍部隊派遣を決定、金沢 第9師団、久留米 第12師団の2個師団を動員。

これに対抗し中国国民党軍は約3個師からなる第五軍を増強した。

2月18日 上海に到着展開した第9師団 師団長 植田謙吉中将は更なる軍事正面衝突を避ける為に中国側へ国際租界から20Km後退を要求したが、第十九路軍 軍長 蔡廷は要求を拒否。

2月20日 日本軍は中国軍に対し総攻撃を開始、上海の戦闘は拡大する。

3月1日 帝國陸軍は増援の善通寺 第11師団と宇都宮 第14師団の2個師団を加え上海派遣軍を第十九路軍の背後、揚子江沿岸 七了口に上陸させ撃退した。

3月3日 十九路軍の敗退に日本軍は戦闘の中止を宣言、日中の全面戦争には至らなかった。

5月5日 英米仏伊4カ国列強の仲裁により上海停戦協定が成立し日本軍も内地へ帰還した。



第二次上海事変

中独合作・上海包囲

第一次大戦で敗北して多くの植民地と租借地を失ったドイツは中国から資源を得ており、北伐統一を完遂した蒋介石の国民党を経済と軍事の両面で支援していた。

蒋介石は日本政府の戦争不拡大方針を逆手に取り、上海停戦協定に違反して郊外の非武装地帯にトーチカと強固な要塞線をドイツの軍事顧問の指揮指導に拠り構築する。

1937年 中国国民党中央軍 最強の精鋭部隊 第87師、第88師が上海付近に集結。

ドイツ・チェコ製最新装備で完全武装した3万の中国兵が上海共同租界の日本人居住地区を包囲、市内の保安隊と警察に工作兵を紛れ込ませ対日戦闘を準備、上海周辺の無錫や蘇州に20万以上の中国国民革命軍が攻撃命令を待ち倦ね、更なる兵力増強に各地で進撃体制を整えていた。

ドイツ軍事顧問 ファルケンハウゼン中将が指揮する ドイツ式精鋭部隊 国民党軍 第87師と第88師、中独合作の兵士はドイツ製モーゼルM98歩兵銃やチェコ製機関銃で武装する。

また国民党と内戦停止・一致抗日を訴える共産党との国共合作も成立し、共産党の八路軍も加わり中独共合作で増強された国民革命軍の兵力は充実し士気は高く抗日戦闘意欲も旺盛であった。


上海市街戦
8月9日 中国保安隊が日本海軍特別陸戦隊の中隊長 大山中尉と斎藤一等水兵が運転する車両を共同租界内の自由通行路上で待伏せて銃撃、 2名を惨殺する事件を起こした。

これまでにも共同租界では巡洋艦「出雲」から上陸し安全区域内で買物散歩中の日本人水兵4名が便衣兵と思われる数名の中国人に銃撃され死傷する事件が起きており大山中尉殺害事件と中国軍の不穏な動静に共同租界の警備に駐留していた海軍陸戦隊は警戒を厳にする。



当時、上海を包囲した3万以上の中国兵に対し共同租界の邦人居留民 約2万数千人を守れるのは帝國海軍上海特別陸戦隊に艦付を含めた2400名と在泊中の第三艦隊旗艦司令部である旧型の装甲巡洋艦「出雲」と軽巡「川内」他、揚子江警備任務に就く軽駆逐艦と特務艇数隻のみ。

第三艦隊旗艦司令部 装甲巡洋艦「出雲」 上海 黄浦江




8月13日 海軍陸戦隊陣地へ包囲していた中国軍が突然、機銃掃射を浴びせる。


上海停戦協定を守ろうとする海軍陸戦隊は応戦するも極力交戦を回避し防御戦闘に徹していたが、中国軍の砲撃を伴う総攻撃に已む無く反撃を開始、日中両軍は市街戦に突入した。



上海空襲
同日、中国軍の軽爆撃機21機が黄浦江に停泊中の日本艦艇を狙い空襲、キャセイホテルやパレスホテルが並ぶ繁華街と婦女子の避難所である大世界娯楽センターに爆弾を投下。

約3000人の市民が犠牲になり、租界に関係する各国は中国側に空爆の抗議を行った。

またフランス租界上空の中国軍機に対してフランス駐屯軍も高射砲の一斉射撃を行なう。


「出雲」「川内」は艦載の九五式水偵を上げ迎撃、艦高射砲とで応戦し中国軍機3機を撃墜する。

イギリス海軍 重巡洋艦「カンバーランド」と米国アジア艦隊 旗艦 重巡洋艦「オーガスタ」も日本艦と誤認され標的にされたが、中国軍爆撃機2機の急降下爆撃は失敗に終る。

中国軍機から爆撃を受ける米海軍重巡洋艦 USS ”Augusta”

標的を大きく逸れた中国機の爆弾は欧米商社の倉庫と石油タンクを炎上させた。


渡洋爆撃・航空支援
8月14日 帝國海軍は渡洋爆撃を開始、台北、台南、済州島、長崎大村の海軍航空隊各基地から、九六陸攻爆撃隊が東シナ海を横断、南昌・南京・広徳・杭州・蘇州など上海周辺の中国軍飛行場を空襲して大戦果を上げたが、航続距離の短い援護戦闘機を伴えない強襲は爆撃隊にも多大な損害を出した。

帝國海軍 九六式陸上攻撃機 電波航法で 1000海里以上の基地と大陸間を往復する。

8月15日 第二航空戦隊の空母「加賀」、22日には第一航空戦隊「鳳翔」「龍驤」の3空母が参加して九六式艦上戦闘機隊が加わり中国軍が有利であった上海周辺の制空権を掌握した。

第二艦隊 第二航空戦隊 空母「加賀」


中国軍は第15師、第118師、17日には第36師も参戦、上海は7万の中国兵に包囲された。

8月18・19日 横須賀、呉、佐世保から特別陸戦隊の増援2400名が上海に到着する。


上海派遣軍
海軍は上海の不穏な情勢に危機感を持ち、陸軍部隊の派遣を要請していたが、既に北支方面にも兵力を取られ、中支方面での戦火の拡大を危惧する陸軍参謀本部は最小限の兵力の派遣を決め、名古屋の第3師団と第一次上海事変に動員した善通寺 第11師団に再び命令が下り上海派遣軍を編制、松井石根大将が司令官となる。


8月23日未明、派遣軍2個師団が揚子江から上海北部に艦砲援護射撃下に敵前に強襲上陸を開始、沿岸で敵の抵抗を排除しながら第3師団は呉淞鎮に第11師団は川沙鎮に上陸する。

両師団は敵に包囲され揚陸を阻まれながらも、翌24日までに 戦車1個大隊、軽装甲車1個中隊、機関銃1個大隊、野戦重砲1個連隊、迫撃砲1個大隊、工兵1個連隊、防空隊、衛生病院隊などの主力と装備の揚陸を完了させ進撃を開始した。


既に兵力を15個師に増強し迎え撃つ中国軍の優勢な火力に派遣軍は苦戦を強いられる。

9月6日 第3師団の後続部隊、歩兵1個大隊、山砲1個中隊編成の飯田支隊が戦車1個小隊を伴い公大飛行場周辺の敵を強撃、支隊長を失うも飛行場の制圧奪取に成功。

2日後には海軍 第12・13航空隊が進出、陸軍の地上戦を航空支援の陸上基地として運用を開始以降、公大飛行場は重慶など内陸部への爆撃隊基地として機能する。

また同時期に第3師団は宝山城攻略に成功、第11師団 天谷・浅間支隊は月浦鎮に突入占領し、第3師団は上海陸戦隊本部前面から中国軍を駆逐し、第11師団と連結する。

8月13日の中国軍の包囲攻撃から約3週間に渡り海軍特別陸戦隊は2400名の陸戦隊増援だけで殺到する10倍の最新装備の敵精鋭部隊を相手に大損害を出しながらも孤軍奮闘して共同租界の日本人居留区を死守した。

しかしドイツ軍軍事顧問 ゼークト大将の指導に拠り、郊外に構築された トーチカと水路を利用した要塞線は兵力を増強され依然頑強で激しい戦闘に消耗しながらも僅か2個師団で戦う上陸部隊の戦死者は既に2560名 負傷者7560名に昇り、揚子江岸近くに釘付けにされた派遣軍は大規模な増援を陸軍参謀本部に要請する。

9月28日 急遽、台湾守備隊から増援された重藤支隊を編入した第11師団は攻撃方向を転換して強力に抵抗する敵陣を突破し羅店鎮を占領した。

10月8日 東京 第101師団、金沢 第9師団、高田 第13師団の3個師団が加わった上海派遣軍は攻勢を開始、頑強な要塞線を突破して要衝の大場鎮を占領。 第一次上海事変の停戦協定ラインの蘇州河 南岸まで敵を追いやるが、中国軍も上海周辺へ逐次、兵力を増強し続けていた。

10月20日 戦線の膠着が続く上海周辺の戦況を打開する為に、熊本 第6師団、久留米 第18師団、宇都宮 第114師団、広島 第5師団 歩兵第9旅団(国崎支隊)が、第10軍として新たに編成され、苦戦する上海派遣軍の増援に動員が決定された。


10月31日 上海の南側から中国軍の脅威を排除する為に第3師団、第9師団、第101師団が個々に蘇州河の渡河を開始するも対岸には敵の強力な野戦機関銃陣や強固なトーチカがあり、渡河作戦は激烈を極めながら成功する。

第9師団は南進を続けて、第3師団は租界地南側の龍華を占領して南市まで進み、第101師団は黄浦江東岸付近の激しく抵抗する敵兵を掃討、上海国際租界の安全は一時的に確保された。


8月23日の揚子江上陸開始から続いた激戦で上海派遣軍の死傷者は約2万名に達していた。


杭州湾・白茆口 二面上陸作戦
11月5日 第6師団と第18師団は杭州湾 金山衛に上陸成功、第18師団は敵の退路遮断に西進、第6師団と国崎支隊は北上し金山鎮、8日 黄浦江を渡り国崎支隊は松江を攻略する。


11月7日 上海派遣軍と第10軍、上海方面の全作戦を統括指揮する「中支那方面軍」が創設され、上海派遣軍の松井石根大将が司令官を兼任する事となり、中支那方面軍の任務は従来の居留民の保護から敵掃滅に拠り戦争終結の動機を得る事に変更された。

しかし戦線拡大を望まない陸軍参謀本部は作戦地域を蘇州ー嘉興の線迄を制令線と定めた。

11月9日 第10軍に拠る退路断絶に大きく動揺した中国軍は一斉に退却し始める。


第6師団は蘇州河に向けて前進、後退中の敵を追撃して損害を与えながら 14日に平望鎮を占領、15日には崑山を占領した。

11月13日 中国軍の後方、揚子江の上流に位置する白茆口に重藤支隊と北支方面から増援された京都 第16師団が上陸、強固な敵陣地への攻撃を開始する。


上海・南京追撃戦
上海派遣軍と第10軍は平行追撃戦に入り、第101師団は13日 嘉定を奪取して更に前進を続け、第13師団は14日に劉河鎮を攻略、第3師団と第11師団は並進し14日に太倉を占領、第9師団は滬寧鉄道沿に前進して15日に崑山を占領した。

11月19日 第9師団は蘇州を第13師団は蕭家橋と謝家橋を第11師団は莫城鎮を占領、白茆口に上陸した第16師団は常熱を奪取、杭州湾に上陸した第18師団は嘉興を占領、南西方面への敵の退路遮断に成功する。

第10軍は独断で揮下兵団に南京攻略作戦を発動、蘇州ー嘉興の制令線を越え進撃を開始。

陸軍参謀本部では制令線を越えた部隊を全て後退させる強い意見も出たが、24日に参謀本部は作戦地域の制限を解除、但し南京方面へ進撃しないよう打電する。

現地の中支那方面軍から「敵の継戦意志を粉砕する為に南京攻略が必要である」との意見具申が通り、28日 参謀本部は南京攻略作戦を追認した。


上海派遣軍と第10軍は戦機を逃さず攻勢に敗走する中国軍を追って南京攻略に向かった。



兵力60万の中国国民革命軍との戦闘に帝國陸海軍が25万の兵力を投入した第二次上海事変は日中の本格的全面戦争の緒戦となった。

結果、日本軍は陸海軍合わせ約1万名が戦死、日露戦争の旅順攻略以来の損害を出した。

最終的に北中支への動員兵力は16個師団にも及び、内地に残る常設師団は禁闕守護の任を負う帝都 近衛師団と札幌 第7師団のみとなり、日本は莫大な戦費を出費困窮した。


蒋介石は虎の子の精鋭部隊と兵力25万を失い暗躍したコミンテルンと共産党を喜ばせた。

力を失った蒋介石と国民党は後の国共内戦再発で大陸を追われ小さな島に渡る事になる。




盧溝橋の銃弾と侵略戦争

「軍拡と侵略戦争を計画準備した帝國主義日本が土足で中国に押し入った。」

「上海を先制攻撃した軍国主義日本が中国の首都南京で30万人大虐殺した。」


アホか。

日本の敗戦を良い事に満洲事変や第一次上海事変の前1927年に中国国民革命軍共産党派が起こした日本や欧米の領事館を襲撃して外国人居留民を暴行殺害した 南京事件漢口事件などの中国に拠る暴挙を全く無かったことにするな。

揚子江に停泊中の米海軍と英海軍艦艇は南京城内の中国軍に艦砲射撃を加え陸戦隊を上陸させ交戦したが日本軍は無抵抗の命令を受け艦砲射撃も防御戦闘も行わなかった為に入城した中国兵に一方的暴虐に遭い多くの日本人と外国人が殺害され婦女子が強姦された。

当事者である各国の領事館員や目撃した新聞記者も事件を中国を批難糾弾し日本軍の治安維持の介入に期待していると国際的に報道された。

翌年4月には山東省 済南で北伐軍内の共産党派が掠奪を働き、居留民を虐殺して警備に当たる日本軍の臨時派遣隊と武力衝突した済南事件を起こした。

南京事件の当時に領事館付陸軍武官少佐で後に駐蒙軍司令官となる根本博 中将は領事館内で発砲され銃剣で突き刺されて重傷を負った経験から終戦時に停戦命令と武装解除に従わず、破竹の勢いで進撃してくるソ連赤軍に対して独断で反撃命令を下す。

駐蒙軍は激しく抵抗反撃して八路軍も抑え、4万人の在留邦人が内蒙古から天津へ脱出が終わる8月21日まで防衛戦闘を行い避難民を守り抜いた。



「盧溝橋のたった一発の銃弾から日中戦争が始まった。」


違うな。

盧溝橋の支那駐屯軍 夜間演習部隊は中国兵の挑発狙撃に応戦せずに冷静に撤収し抗議したが、事件発生と同時に中国軍は城門を閉鎖して日本軍の増援を阻止し飛行場を占拠、電話線を切断、交渉中も銃撃を続け、非常呼集した日本軍に迫撃砲を撃込み一斉射撃を浴びせた。




「最初に撃ったのは誰だ。 日本軍の陰謀だ。」 

誰が最初に撃とうが謀略であろうが偶発であろうが日中戦争に大きな捩れは生じない。 

狙撃されたのはサラエボの皇太子でもハルビン駅の首相統監でもない。


盧溝橋の弾丸は、最初の一発ではない。

溢れそうになったコップに落とした最後の一滴だった。

国共独合作後の南京政府には強い対日戦争の意思があり、戦争準備さえ整えば何時か何処かで日本軍の兵力分散を狙い陽動誘出の蛇口を開く。



1937年7月7日 盧溝橋事件に始まった一連の戦闘は不拡大方針で処理に当たる支那駐屯軍が関東軍からの増援を断り折衝を重ね、駐屯軍司令官 香月清司中将に中国第二十九軍の親日的な軍長 宋哲元が謝罪を行い停戦協定が結ばれた。


15万の北支中国軍に対し僅か4個中隊に拠る通達済の夜間演習を日本軍の挑発と言うな。

1935年12月頃から共産党配下の第二十九軍幕僚は日本軍を敵として作戦計画を立案、頻繁に演習を実施、盧溝橋一帯の兵力を増強して機関銃陣や野砲陣地、散兵壕を構築した。

更に日本軍の演習を偵察して周到な対日戦準備を整え、中国軍営地の射程内接近時には射撃を指示して日本軍の火網包囲を画策していた。


廊坊事件、電話修理の通信隊と軽装備の護衛中隊で、中国軍の一個旅団 数千名、且つ 重装備の兵営を襲撃するか。

天津への通信線は度々中国軍に拠って切断され、日本軍は中国側に事前通知し折衝を終えてから電線修理を始めたが、中国軍兵営から機関銃と迫撃砲の攻撃を受けた。

広安門事件では、北平城内の駐営地へ戻る日本軍部隊の通過中に中国軍が城門を締めて隊列を分断し、手榴弾と機関銃の猛射を浴びせた。

何れの事件も中国 第二十九軍が停戦協定を破り日本軍に待伏せ攻撃を仕掛けてきた。

この一連の流れから中国側の一方的な挑発攻撃であり、日本政府が戦争不拡大方針であった事は明白である。

7月29日 第二次上海事変の10日前に中国人保安隊が北京で在留日本人・朝鮮人200人以上を猟奇的に虐殺した通州事件まで無かったように揉み消すな。



「他国で戦ったから侵略戦争だ」とバカを言うな。 

ならば鴨緑江を越えた中ソ赤軍も沖縄と朝鮮で戦った米軍やPKO部隊も侵略軍になる。

第二次上海事変は日本が領土侵略を目論み始めた戦闘ではない。

中隊長と運転手の水兵と二人で車に乗り拳銃で中国保安隊が警備する飛行場を襲うか。

兵力20万の中国中央軍を相手に計画も無く、2400名の海軍陸戦隊で侵略を始めるか。

上海包囲攻撃は対日強行政策とドイツ軍事顧問の綿密な作戦立案指導に拠るものだ。

3年掛けて要塞線を構築し兵力60万を移動させて日本軍を誘き出し待伏せ攻撃を企んだ。

攻防兵力比 3対1の法則、常識を考えろ、上海で日本軍はドイツ軍とも戦った事になる。

戦争は大量の物資を投じる経済力の消耗戦である。

内地に2個師団しか残せず、戦費もない日本は戦争不拡大を望んでいた。

上海の日本軍は不拡大方針に基づき可能な限り交戦回避の努力を行い、戦闘が国際区域に拡大させぬよう防衛的戦術に限定し、低空で侵入する中国軍機に対しても爆撃を受けるまでは対空防御を行わなかった。

当時ニューヨーク・タイムズ上海特派員は「日本軍は中国軍の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し数日間全ての日本軍部隊を兵営の中から一歩も出さなかった。 但しそれに拠り日本人の生命と財産を危険に曝した。」と記して「中国軍が上海で戦闘を無理強いして来たのは疑う余地は無い」と他紙も報じている。

満洲国を承認してナチスやファシストを批難し対立していたローマ法王ピオ11世は「日本軍の行動は侵略ではない。日本はシナを守ろうとして共産主義を排除する為に戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会信徒は遠慮なく日本に協力して下さい。」と言う声明を出した。

鉄道付属地や租界など国際条約で保証された日本の権益や邦人居留民達の生命や財産を武力で脅かされ、日本軍が応戦反撃して守った事を侵略と言うな。

第二次上海事変も中国軍の包囲攻撃に始まった自衛戦闘であった。

当初、これら全面戦争に繋がる中国軍の日本軍への挑発攻撃はアメリカでさえ批難した。

欧米列国を対日戦争に巻込みたかったコミンテルンと民国政府や軍閥内に潜り込んだ共産党員が北・中支各地で日本軍を挑発して開戦を嗾けた。

サイクス・ピコにヤルタ密約、中立不可侵条約を一方的に破棄し宣戦布告前に大挙して満洲や千島など他国の領土に攻め込み占領したソ連の対日参戦こそが侵略戦争である。


だが戦争は勝ち負けが全てだ。 

卑怯な陰謀でも自衛の為に始めた戦闘であっても負けた者が悪くなる。


問題はコミンテルンや中共、戦勝国のプロパガンダを多くの日本人が鵜呑みにし史実を無視し検証もせず教育者やマスコミ解説者が「上海事変は日本が中国に仕掛けた侵略戦争だ」と真顔でバカを言いながら日本の侵略を前提にアホがテレビで朝まで熱く語っている事だ。



「日本が大陸に行った事が間違えだ」と言う者がいる。

日本が日清、日露、第一次世界大戦の戦役で権益を得て国際条約や協定に基づき、満州や租界に行った事は間違いではない。

大陸には英、仏、米、独、露他、多くの国から来た外国人が居留生活し事業を行っていた。

日本が馬賊の奉天軍閥や南京政府、ソ連が条約を守ると思った事が間違いの元だった。

中共の条約・契約軽視は今に始まった事ではない、中国は昔から約束を守らない国である。

日本は同盟協力の相手に張作霖や上海の包囲攻撃を主導したドイツを選んだのも間違いだ。

米英もやっていたからと言って、日本は中国に欧米列強と同じ振舞いをしてはいけない。

革命家 孫文も、知日派 汪兆銘も中国から逃れ支援を求め日本で亡命生活をしていた。

蒋介石は日本に留学し帝國陸軍で砲術や用兵を学び孫文と亡命して来た反共親日だった。

周恩来も留学していた日本には同じ東洋人にしかできない支援協調政策の選択肢があった。

倒閥した軍閥を武装解除し旧態に復すれば足元を掬われ国際世論を敵に回す事もなかった。

空母「加賀」艦載機日本海軍パイロットは450 トンの小さな河川砲艦に爆弾を命中させる。

中立国である米海軍砲艦「パナイ」の誤爆撃沈事件は米国民の対日感情を悪化させた。




暴支膺懲

「暴支膺懲 南京政府の反省を促す。」

悪い奴を懲らしめ成敗倒閥する。 気持ち良い言葉だ。

南京まで殴りに行くのは良い、敗軍も放置すれば体制を立て直し反撃攻勢に出てくる。

しかし正統な理由で始めた自衛戦闘も支那の横暴と味方の犠牲に怒り過剰防衛になった。

近衛内閣は「国民党政府を対手とせず」と声明を出したが、それを言ってはお終いだ。

文民統制、シビリアンコントロールは万能なブレーキではない。

中国は軍事力の後ろ盾の無い外交交渉が通じる相手ではない。

だが外交力の無い軍事力の行使はブレーキが壊れた暴走機関車になる。

叩いて弱った交渉相手は潰さず残すべきだ。

陸軍参謀本部は戦争不拡大方針をとり、蒋介石の国民党を交渉相手と認めていた。

「暴支膺懲」とマスコミは国民世論を煽動して戦争を支持させた。

近衛内閣は戦争遂行の予算をとり、全面戦争に消極的だった軍部のケツを叩いた。

これは軍上層部や現地派遣軍だけの過ちではなく、民主主義に拠る文民統制の結果だ。


中国兵を殺しても南京政府は反省せず、反省を促す為に日本兵を死なせてはならない。

殺せば殺すほど敵対心と殺意は募り、敵兵ゲリラの志願者は増える。

民心を掴む事が大切だ、当時、日本人に対し敵意を抱く中国人ばかりではなかった。 

戦闘になれば降伏するまで叩くのも良いが停戦講和は勝っている方が申入れるものだ。

また停戦交渉は降伏勧告ではなく、休戦協定は最後通牒ではない。

大陸の安全を確保しないまま、欧米列強の喧嘩を買ってはいけない。

中国で戦闘を続け、多勢の連合国軍を相手に太平洋で戦端を開いたのは大間違いだ。



「日本帝國主義がアジアの平和を脅かした。」と言われる。 

外国に覇権を求め進出、アジア、アフリカ、南米を植民地支配する列強は全て帝國主義だ。


支那軍閥は勢力争い国共内戦に明け暮れ分裂、義和団は再び青龍刀で居留民を襲った。

民国は国の体をなさず、条約協定を破り武力挑発を続け国際共同租界を包囲攻撃した。

欧米列強は大陸に近い新興島国の台頭に大陸権益の危機感を抱き日本の排除を考えた。

米英は香港・仏印・ビルマからの援蒋ルートを使い軍需物資を輸送して蒋介石を支援した。

英軍は仏領シリア・レバノンを攻撃占領しながら、許可を得た日本の仏印進駐を抗議した。

日本を包囲、経済封鎖した米国の海兵隊は日本陸海軍を仮想敵として強化されていた。

米国は日本に消耗させ日英同盟を四ヵ国条約で妨害しチャーチルはハルノートを書かせた。

ノモンハンで仕掛けたソ連は日中米の衝突消耗を謀り、中共を支援し南下の隙を伺った。

戦闘で負け戦略で勝ったイギリスはアヘンで手に入れた香港を97年まで返還しなかった。



「日本は中国に宣戦布告をせず、戦争を「事変」と偽り、国民を騙した」と左巻は言う。

日本が布告しなかったのは中立国アメリカから石油や物資の輸入ができなくなるからだ。

武器弾薬を輸入に頼る中華民国が国際法上、戦争当事国になれば軍需物資の調達が困難になる故に蒋介石も宣戦布告をしなかった。

日本が米英に宣戦布告した翌日の12月9日、蒋介石は日本に対して宣戦を布告した。



日清間で締結、中華民国にも継続された日清通商航海条約の破棄を一方的に宣言した。

「列強が押付けた不平等条約だ」と中国が言う。

長年に渡り不平等な朝貢強制で周辺国を搾取支配して来た中国が言うな。

当時、欧米列強や戦争に勝った者と負けた者が平等の条約を結べなかった。

列強との不平等条約を甘んじて受けて来た貧国弱兵だった日本は富国強兵に努力した。

「政権政府が変わったから以前の条約は無効だ。」と言う道理が通れば条約に不満を持つ国は何度でも国名党名を変更して条約や協定を破棄すれば良い事になる。

前者から権利は相続したが義務は知らん。 と言う身勝手な言い分は通用しない。



「日本軍が捕虜を虐殺した。」

上海戦敗退後も多くの中国軍敗残兵が民間人を襲い、食糧や服を奪い便衣兵となり避難民に紛れ込み日本軍や民間人を襲撃していた。

敗残中国兵がフランス租界の重要機関に放火、フランスの警備隊も避難民に紛れた便衣兵に対して銃撃戦を行っている。

多くの敗残兵が強盗匪賊となり日本軍に処刑されたが、便衣兵は捕虜と見なさない。

「隠れ戦闘員」便衣兵は捕虜とは異なり、国際法である陸戦法規の保護を適用されない。

戦場では殺るか殺られるか、躊躇すれば己が死ぬ。

観測兵や狙撃兵が身を隠し、反撃や狙撃の拠点になりうる家屋や建物は初隊の通過時に調査して潰しておくものだ、撃たれてからでは遅い。 


しかし掠奪や強姦は軍律に反し人として失格だ。 

愚かな兵により、国と軍旗に泥を塗る犯罪が無かったと言わない。

戦陣訓を読め、強姦するような愚か者が外交官を殴る。 



上海派遣軍司令部周辺に毒ガス弾を撃込んだ中国軍は対日戦だけでなく内戦や民衆の鎮圧にも毒ガスを使用した。

国民党軍の督戦隊は自軍兵士の逃亡防止にトーチカに錠を掛け離脱兵を処刑、前線から後退した部隊を銃撃して何度も同士討ちを起こした。

中国軍は追撃する日本軍の足止めに焦土作戦を行い長沙の街に放火して市民2万人を焼殺、黄河の堤防を決壊氾濫させ農作物に被害を与え100万人を水死と飢餓、疫病で苦しめた。

日本軍は進撃を停止して数万人の黄河流域の避難民を救助し住民と共に堤防修理や流路誘導を行い、後の大飢饉でも軍糧を放出して被災地で救援活動を行った。

大洪水を起こしたうえに農民から牛や食糧を徴発する国民党軍から離反した民衆は日本軍を支持、大陸打通作戦時に河南省では民衆の自主的な協力を得て6万の日本軍が30万の中国軍掃討戦に成功し、国民党は漢奸狩りで自国人民を日常的に処刑した。


南京、武漢と二度も首都を失った蒋介石は民衆の支持まで失い共産党分子を増殖させた。


共産党軍は長春包囲戦で国民党軍と長春市民を合わせて33万人を餓死させている。

国民党軍も共産党八路軍も各地で外国人居流民だけでなく多くの中国人を虐殺した。




帝國海軍はスラバヤ・バタビア沖海戦で撃沈した連合国艦艇の漂流する米英壕将兵800名以上を敵潜水艦から雷撃される危険を顧みず救助した。

一方で日本軍はビルマやタイで連合軍捕虜を泰緬鉄道建設に役使しバターン半島では収容所への移動中に多くの捕虜を死亡させた。

日本はジュネーブ条約には加入していたが捕虜の待遇に関する条約(全97条)に批准していない日本軍では捕虜の扱いの教育が統一徹底されず、また自軍の食糧、医療品確保や補給も充分できなかった為に多くの捕虜を病死させ、B・C級戦犯として軍事裁判で裁かれた。


では連合国は日本人捕虜をジュネーブ条約やハーグ陸戦協定に則り正しく扱ったのか。

ソ連赤軍はポツダム宣言受諾後も停戦せず南侵を続け満州で多くの民間人を殺害し略奪と強姦を繰返し日本人をシベリアに抑留し劣悪な環境下で強制労働させ34万人を死亡させた。

豪軍は移送中の輸送機から後手に縛った日本人捕虜全員を突き落とし殺害し、カウラ収容所から脱走した545名の内235名を射殺、ナウル島では降伏投降した700名の捕虜に水も与えず行進させて殺したが、これは一部であり戦闘後の虐殺が日常的に続いた。

米軍はルソン第一捕虜収容所で食事を与えず日本兵捕虜 1万2千名が栄養失調で死亡した。

白い船体に赤十字を明示した病院船「ぶえのすあいれす丸」はラバウルから傷病兵を乗せてパラオに回航中にB-24に爆撃され沈没、その後も来襲した米軍機が海面を漂う負傷者や看護婦、医師、乗員の救命艇へも機銃掃射を掛けて殺害した。

この7ヵ月前、同船は香港近海でも米潜水艦 SS-275の雷撃を受け7名が負傷者した。 

犠牲者174名を出した非情な攻撃を日本は抗議したが米国は「赤十字の表記不明瞭による誤爆で抗議は筋違い」と回答、同船には条約規定以上に標識が追加され連合国籍の病院船と同じ表記がなされた何処から見ても病院船だった。

史実から連合軍がハーグ陸戦条約を遵守せず日本人の命と尊厳を軽視していた事が分かる。

この他にも雷撃沈没させた日本艦船の乗員を米潜水艦は浮上して機銃を撃込み殺している。

日本本土で米戦闘機は非戦闘員と目視確認できる低空から婦女子を機銃掃射で殺害した。

日本人を人とは見ず東洋の黄色い猿として首を刈り、捕虜を捕らない事を自慢する部隊が米壕軍に存在し、両手を上げ投降する無抵抗の日本兵を嬲り殺して楽しみ民間女性を強姦して殺した。

人間から金歯や手首、頭蓋骨を集めていたのはアウシュビッツのナチスSSだけではない。

こうして多くの日本人 WIAやPOWは、MIAやKIAになった。


しかし戦勝国の米英豪中ソ軍の蛮行は、一例も戦犯として裁かれる事は無かった。
 
戦うなら絶対に負けてはいけない。

侵略、大虐殺、戦犯、敗者が悪となり、勝者が正義を騙り裁く戦争に勧善懲悪など無い。


また日本軍の多くが玉砕し民間人が自決した理由は戦陣訓や軍上層部の強要だけではない。

降伏しても殺されるなら、最後まで応戦して死ぬ事を多くの将兵が選んだからだ。

戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず」は捕虜にならず自決せよ。 と言う意味ではない。


栗林忠道中将 率いる小笠原兵団の硫黄島での戦いを見よ。

島民を強制疎開させ敵の艦砲射撃と爆撃に曝される水際の防御戦を採らず、地下要塞を構築して無意味な肉弾突撃や自決を厳禁とし、最後の総攻撃まで敢闘、栗林中将は戦死した。




軍紀と戦陣訓

自分の元直直属上司で元陸軍航空技術大尉の父上、畑俊六 元帥陸軍大将の日記より

支那派遣軍も作戦一段落とともに軍紀風紀漸く類廃、掠奪、強姦類の誠に忌はしき行為も少からざる様なれは、此際、召集予后備役者を内地に帰らしめ現役兵と交代せしめ、 また上海方面にある 松井大将も現役者を以て代らしめ、また軍司令官、師団長等の召集者も逐次現役者を以て交代せしむるの必要あり。

畑俊六 陸軍大将 寺内寿一 陸軍大将 二元帥、徐州にて   中国国民党 蒋介石 蒋緯国 ドイツ軍装


畑俊六 大将は松井石根 大将の後任で中支那派遣軍司令官になり徐州・武漢作戦を指揮。

大陸打通作戦を完遂、元帥府、教育総監、広島で原爆に被爆する。


畑俊六 大将は戦後に下記の日記を残している。


昭和十三年二月、私は松井石根 大将の後を受けて上海に到着した。

私は直接には兵団と関係がなかったので、各郷土の特質についてはあまり良く知らないが、上海に到着するまで、南京の虐殺と言う事は夢にも考えていなかった。

南京に到着してみても、なんの痕跡もなかった、人の耳にも入ってない。

ところが、東京裁判が始まると南京虐殺の証拠が山の様に出された。

それが為に松井石根 大将は、ついに悲惨な最期を遂げられた。

それも運命と思えば諦められないこともないが、今にして思えば、南京の虐殺も若干行われたことを私も認めている。

けれどもこれは戦場という特種の環境の下で働いた心理作用のなせる業で平静に帰った時、これを責めるのも無理だと思っている。

元々、この裁判の遠因が、所謂、復讐の為の裁判だったのだから止むを得ないことだろう。



左翼が畑俊六 大将の日記を引用、編集し、南京大虐殺が有った証拠だと喚く。


日記の何処にも大虐殺が有った、大虐殺を見たと書いてない。


南京で処刑はあったのか。   答えは「YES」だ。

南京大虐殺はあったのか。   答えは「NO」だ。


南京も他の戦場と同じように便衣兵掃討、敗残兵捕虜の虐殺が起こっても不思議ではない。

しかし上海派遣軍参謀の通達また下令に拠る民間人の大量虐殺は行なわれなかった。

大量虐殺の現場を見た証言者はおらず、証拠の写真とされる物も捏造や通州事件で中国保安隊が起こした物と擦換えられ、また戦闘前25万だった南京の人口が攻略後5万人増加している。


だが右翼も全く虐待虐殺が無かったと言うな、虐待虐殺の無かった戦争など無い。


盧溝橋事件、大山中尉事件、廊坊事件、広安門事件、全て中国軍が仕掛けた戦闘だ。


上海市街爆撃、南京虐殺、長沙大火、黄河決壊など中国は自軍の掠奪虐殺の蛮行を常に日本軍の暴挙として喧伝した。


戦後、中共と日本国内の左巻連中が史実を隠蔽し、70年経った今でも南京事件は捏造水増しされ反日のプロパガンダに都合良いツールとして利用している。



「天皇崇拝と戦陣訓が日本人を人殺しにして玉砕を産んだ。」とバカが言う。

天皇陛下の御心は常に友好と安寧を望んでおられた。

戦陣訓を曲解するな。

戦陣訓は教育総監を務め旧会津藩士 畑俊六 大将が陸軍大臣時代に皇軍軍紀の乱れを憂い戒める為に発案した。


戦陣訓 本訓 其の三 第一 戦陣の戒

一 一瞬の油断、不測の大事を生ず。 常に備へ厳に警めざるべからず。
   敵及住民を軽侮するを止めよ。 小成に安んじて労を厭ふこと勿れ。 
   不注意も亦災禍の因と知るべし。

二 軍機を守るに細心なれ。 諜者は常に身辺に在り。

三 哨務は重大なり。一軍の安危を担ひ一隊の軍紀を代表す。
   宜しく身を以て其の重きに任じ厳粛に之を服行すべし。
   哨兵の身分は又深く之を尊重せざるべからず。

四 思想戦は、現代戦の重要なる一面なり。 
   皇国に対する不動の信念を以て、敵の宣伝欺瞞を破摧するのみならず、
   進んで皇道の宣布に勉むべし。

五 流言蜚語は、信念の弱きに生ず。 惑ふこと勿れ、動ずること勿れ。 
   皇軍の実力を確信し、篤く上官を信頼すべし。

六 敵産、敵資の保護に留意するを要す。 
   徴発、押収、物資の燼滅等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。

七 皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。

八 戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ皇軍の威信を損じ、
   奉公の身を過るが如きことあるべからず。
   深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。

九 怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。
    一瞬の激情悔を後日に残すこと多し。
   軍法の峻厳なるは特に軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信を完うせんが為なり。
   常に出征当時の決意と感激とを想起し、遙かに思を父母妻子の真情に馳せ、
   仮初にも身を罪科に曝すこと勿れ。


  第二 戦陣の嗜

一 尚武の伝統に培ひ、武徳の涵養、技能の練磨に勉むべし。  
   「毎事退屈する勿れ」とは古き武将の言葉にも見えたり。

二 後顧の憂を絶ちて只管奉公の道に励み、常に身辺を整へて
   死後を清くするの嗜を肝要とす。
   屍を戦野に曝すは固より軍人の覚悟なり。
   縦ひ遺骨の還らざることあるも、敢て意とせざる様予て家人に含め置くべし。

三 戦陣病魔に斃るるは遺憾の極なり。  
   特に衛生を重んじ、己の不節制に因り奉公に支障を来すが如きことあるべからず。

四 刀を魂とし馬を宝と為せる古武士の嗜を心とし、戦陣の間常に兵器資材を尊重し、
   馬匹を愛護せよ。

五 陣中の徳義は戦力の因なり。常に他隊の便益を思ひ、
   宿舎、物資の独占の如きは慎むべし。 「立つ鳥跡を濁さず」と言へり。 
   雄々しく床しき皇軍の名を、異郷辺土にも永く伝へられたきものなり。

六 総じて武勲を誇らず、功を人に譲るは武人の高風とする所なり。
   他の栄達を嫉まず己の認められざるを恨まず、省みて我が誠の足らざるを思ふべし。

七 諸事正直を旨とし、誇張虚言を恥とせよ。

八 常に大国民たるの襟度を持し、正を践み義を貫きて皇国の威風を世界に宣揚すべし。
   国際の儀礼亦軽んずべからず。

九 万死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば、具に思を護国の英霊に致し、
   言行を慎みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし。



帝國軍人は兵士である前に、武士、紳士、人として己を戒め高めよ。と言うことだ。



日本兵が中国の子供達と遊び笑顔で話している写真。

左翼は侵略戦争を隠す為に日本軍がやらせで撮った宣伝だと言う。 

米兵がガムを配る写真も原爆や焼夷弾を落とした無差別爆撃を誤魔化すプロパガンダか。



「日本軍は弱かった。 八路軍は強かった。」

大陸で日本兵は旧式装備と劣勢な兵力で300万の中国軍を相手に8年間も連戦連勝した。

上海戦で敢闘精神ある中央精鋭部隊の壊滅後、中国兵は局所を襲撃しては逃げ回った。

幾つ都市を落とそうが中国軍は殲滅できない、国府軍は都市を死守して決戦全滅はしない。

そもそも、街や田畑に放火して黄河の堤防を壊す中国兵には領地領民を守る意識がない。

日本軍に負ければ便衣兵になり良民に紛れ込み、農民から牛や食糧、衣服を強奪する。

武器弾薬など軍需物資を外国の援助に頼る中国の都市産業に重爆撃を加えても効果は薄い。

日本軍は英米からの援助物資の輸送路である援蒋ルートを遮断する為、仏印に進駐した。



インパール作戦は中盤まで完全に日本の勝利の連続だった。と言う者がいる。

敵の放棄地帯への進撃を勝利と言うな。

防御戦闘をとりながら後退する英軍に攻撃限界点まで引込まれ兵站は延び切り疲弊した。


ディマプールさえ落とせば英軍の食糧が手に入ったはずだ。と言うアホもいる。

占領軍部隊は占領地の放棄退却時、食糧、燃料弾薬を敵に残さず処分するのが鉄則だ。

敵の糧食、燃料を当てにする作戦を無謀と言う。 

日本軍はディマプール攻略どころか陥したコヒマの維持も不可能な状態だった。


陸軍最強と謳われた菊兵団 久留米 第18師団は友軍の53師団から糧食武器を強奪した。

最強兵団も飯と弾がなければ戦はできぬ、強い軍隊には強い兵站補給が必要だ。

戦争に強い精神力は必要だが精神力だけでは勝てない。

兵站を無視したインパール攻略は400km後方のメイミョウいた牟田口の無責任な妄想。

味方の兵を殺す無謀な作戦を立案強行した無能な高級参謀や指揮司令官こそ戦犯である。


日本軍は追撃殲滅戦を繰返し兵站補給線は延び消耗を続け南方へも兵力を抽出した。

広い大陸で兵站を陸路鉄道に頼っては勝てない、大陸の行動には機動空輸力が必要。

戦線を延ばす事は難しくないが、拡大した占領警備地域の安全と兵站維持は難しい。

広い敵地、アウェイである中国大陸での戦いは大きな肥溜に嵌ったも同然だった。

奪取占領した点と線は翌日から糞の中に沈み始める。


だが海軍特別陸戦隊は兵力10倍の包囲攻撃から共同租界を守り抜き、上海派遣軍は兵力10倍の敵要塞線の防御を撃破、日本軍は攻防兵力比 3対1の常識を破った。

ノモンハンの戦いでは関東軍 第23師団は戦車・装甲車輌数8倍の圧倒的優勢なジューコフのソ連赤軍第57特別軍団の戦車250輌・装甲車70輌を撃破、戦死傷者約2万6千名の損害を与えた。

マレーの虎 山下奉文中将はマレー半島上陸から95回の戦闘に勝利し55日間で1,100kmを走破進撃、一週間でシンガポール要塞を攻略、英軍13万名を捕虜にした。

栗林忠道中将は参謀長として僅か18日で九龍要塞を落し香港を攻略、英軍1万1千名を捕虜にし硫黄島の戦いでは米軍の戦死傷者はノルマンディー上陸時を上回る約2万8千名に達した。




「八路軍が日本軍から中国を解放した」と中共と左翼が言う。


八路も上海で国府軍と共に日本軍を包囲攻撃したが、形勢不利になると真っ先に逃げた。 

国共独合作の結果は記した通り、上海はおろか上陸した3個師団に首都南京まで奪われた。

日本が連合軍に降伏し、停戦命令を受け武装解除された祖父は、八路に外套、時計、万年筆など、私物を身ぐるみ剥がれたが、戦闘で八路に負けた事は一度も無い。

日本軍が戦闘初段で八路に不意討ちを食らう事は1,2度あるが全て反撃撃退している。


1945年のソ連参戦以前に八路軍が戦闘で日本軍から奪回した街は一つも無い。

有ると言うなら都市の名を上げてみろ、聞いた事もない百人に満たない村の名を言うな。

内戦停止、一致抗日を訴え国共合作を叫んだ共産党は国民党軍と日本軍を戦わせておきながら、己は逃げ回り、ちょこちょこ山から降りて来て散発的な襲撃を繰返した。

最後には美味い話しで農民を騙し、国府軍の足を掬って飯と大陸を手に入れた。

通化事件、いったい何処が解放軍だ。

人民解放軍と名乗る毛沢東の八路は独立国チベットに解放と嘯き侵攻 して武力で征服する。 

漢民族解放軍は国民の軍隊ではない、人民解放軍は中国共産党の私兵だ。

人民解放軍はポルポトの虐殺に手を貸し、親ソ国であったベトナムにも侵攻した。


ベトコン NVAは強い、仏米との終戦4年後、兵力6倍の人民解放軍と戦い負けなかった。

たとえ敵であっても祖国の為に勇敢に戦う将兵には敬意を持つべきだ。

インドシナに駐屯していた帝國陸軍 第38軍 第34独立混成旅団 参謀 井川省少佐ら高級将校から下士官、兵卒に至る 約600余名の日本人志願兵が祖国の降伏後も復員帰国せず植民地ベトナムとフランスとの間に勃発したインドシナ独立戦争に参加した。

インドネシア、ビルマ、ベトナム、マレーで独立戦争で数千名の日本兵が戦死した。




「日本は反省もせず、新しい国際秩序へ挑戦している。」と中共の報道官が嘯く。

「新しい国際秩序」 狂った様に軍拡し海外覇権を狙う中共に都合の良い言葉だ。

共産主義を捨てた覇権主義中華帝国はチベット、ウイグル族など少数民族を搾取虐待し周辺諸国に対して嘘と挑発による侵略を今日現在も行なっている。


大陸から復員して起業した祖父は華人の友人や取引相手が多く中国が好きだった。

片言ながら中国語を話せた祖父は記したように南京攻略には参加していない。

漢奸だと言われれば、それまでだが平穏時は日本軍衛生兵が中国人を診る事もあった。

祖父は日本兵が虐殺や強姦する現場を見た事はない。

満州や北支でも祖父と中国人との関係は敗戦まで悪く無かったと聴いた。

自分の華僑の友人や上海、大連の海運会社の知合いは日本と日本人が好きだ。 

全中国人の行儀が悪いわけではなく生れ育った環境や思想知識は人格形成に影響する。

頭が回る左は人民を洗脳、粛清し邪魔者を消す。 

頭の悪い左は他国に利用され祖国を売り滅ぼす。

感情的な左は革命に酔いテロと内ゲバで市民も仲間も殺す。

狡く賢い左は共産主義を騙り、独裁と搾取で私腹を肥やす。

平気で嘘を並べ他人の物を欲しがる中国共産党を自分は信用しない。


戦後、中国と友好条約を結んだ日本は再び中国に行った。

日本は中国に莫大な資金援助を行い空港や地下鉄、港湾設備を整備し工場やプラントを作り、惜しみなく技術を教え、中国は物を作れる国になり消費を楽しむ国になった。

中共は抗日と建国を援助した米国を裏切り、紅い同志ソ連も裏切った恥知らず恩知らずだ。

経済的に繁栄すると共産党は歴史・領土問題を持ち出し反日を指導し排日運動を煽動した。

「我が中国は豊になった、小日本鬼子は出て行け。」

中国大陸に赴いた在留邦人が再び襲われた。

排日を叫ぶ暴徒達は日本企業の工場や店舗に火を放ち日本車を壊し日本大使を襲撃した。

青龍刀や銃こそ使わないが、やっている事は義和団や事変の便衣兵と変わらない。

「愛国無罪」・・・・・ 上海租界や通州の中国保安隊か。 

チベットやウイグル、天安門では容赦ない武警や公安が反日排日暴動は傍観している。





負けても強い国

再び中国は横暴になり南シナ東シナ海で無法を繰返し尖閣や沖縄を狙い米軍と日米安保の弱体化を工作、朝鮮半島の利用を企み、対日長期戦を想定し挑発と罠を仕掛ける。


時に感情的な振りをする事も必要だが国家が感情で行動していけない。

戦いは冷静な者が勝つ、相手の真の意図とリスクを分析しなければならい。 

武力に拠る正面衝突だけが戦争ではない。

勝者が正義を騙り、敗者を悪とする戦争に正義はない。

衝突を回避し、軍事と経済力を後ろ盾にした外交努力が最優先。 

だが掛る火の粉は払わねばならない、戦わざるを得ない時、絶対に負けてはいけない。


戦わねばならぬ時は全力で戦い負け戦を美化せず、検証反省しなければ同じ過ちを繰返す。

過去に学んで未来に活かす。 

自分は祖父や伯父が陸海軍にいたからと言って擁護や欲目、左右思想で歴史を見ない。

日本は敗戦を反省しなくてはならないが必要以上に自虐的になる事は無い。 

今に生きる日本人は祖国の歴史事実を知っておくべきだ。


米・英・壕・中・ソ他の連合軍を敵に回し、8年間も戦った島国など世界の何処にも無い。

連合国から袋叩きに遭い、原爆を2発も落とされ人類初唯一の被爆国となり、敗戦した資源も無い日本は焦土から這い上がり産業を復興し、僅かな歳月で世界有数の経済技術大国になった。

自分は国と家族の為に戦った日本軍将兵を誇りに思い感謝し、絶対に忘れない。


日本人は一度、戦争に負けた事で誇りと自信まで失ってはいけない。 


負けても立ち上がる国が本当に強い国だ。



「太陽の帝国」 兵に告ぐ 二・二六事件 に続く。

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この記事へのコメント

2013年11月13日 0:31
今回も素晴らしいブログをありがとうございます。
やはり満州事変と同じでちょっとこの辺は辛いです。
又、仰せの通りこのままでは嘘の情報を信じ取り返しのつかない事になりそうでとても心配です。
戦争は悪いなどと言って戦争をした人が悪いと教えるマスコミもおります。
情けないですね。
やらなければならなかったのであり、先人たちが戦ってくれなければ、日本なんてとっくになかったと思います。

シナや半島は歴史の捏造で日本もある意味同じですね。なぜこうも自虐史観の塊になるのでしょうか?

文句ばかりですみません、私ももっと勉強を続けてみようと考えてます。
そのきっかけをありがとうございました。



コメントへの返答
2014年12月11日 15:12
こんばんは、長い駄文で失礼致します。
他国の都合の良いように造り変え隠された史実を
掘り返し検証しなければ善悪を正しく判断反省する事も出来ません。
隣の婆さんが叫ぶ、半島独自の正しい歴史認識や
中共の歴史教育と史実は異なり、物理的にも矛盾が生じています。
この複雑な時代の日本を明白に理解しないと先の
舵取を誤る事になります。
たかすぎ2さんが、仰るように新聞のコラムや雑誌
TVのコメンテーターが日本が始めた侵略戦争だと
前提に澄まし顔で現代の情勢と未来を語っている
のを見ると失笑を通り越し寒気がします。
日本も過剰防衛になった間違いは認めなければなりません。
結果、欧米列強を敵に回し敗れたのですから。

中華圏は歴史を好きにするでしょうが自国民をアホにするだけです。

>なぜこうも自虐史観の塊に
GHQの占領政策、過剰な反戦左翼疾患と経済優先主義が日本人の心の目を潰していたと自分は思います。
中韓朝の横暴が、自制と自虐の錯覚から日本人を
目覚めさせてくれると思っています。

>文句ばかりで・・・
自分のブログ、半分以上が文句ですw

中華圏外のアジアには日本の援助を本当に必要
としている兄弟がいます。

経済優先も大事ですが、日本はアジアの兄弟を大切にするべきです。

今度は、災害人道支援です。
躊躇なく日本の艦隊をレイテ湾に突入させましょう。
個人的には「いずも」を派遣させたいですが「いせ」でもOK。

中共への牽制に。
2013年11月13日 3:03
先月帰省した際に、父の友人がちょうど遊びに来られてた際に興味深い話を聞きました。
父も、その友人も満州生まれです。

現在では日本が支那へ侵略し、一方的に悪い事を行った…そんな自虐的な歴史観になってますが、当時、大陸にいた日本人の認識はむしろ逆で中国人から多数の民間人が虐殺にあったという左巻きの方々とは真逆の認識だったらしいですね。

Mikkolaさんのブログがいかに正確かを物語っています。

祖父も良く語ってました、満州で中国人に銃口を突きつけられ、あわや殺される寸前だったのを同じ中国人にたすけられたとか。確率は非常に少ないですが良い中国人も中にはいるんですよね。
ただ祖父は、殆どの中国人は金の事しか考えておらず信頼出来る人は実に少ないとも語ってたのを思い出しました。

日本が敗戦し引き上げの時が悲惨だったみたいで、無抵抗の引き上げる日本人にハイエナの様にまとわりつき金目の物を奪って行ったとか…

残留孤児の話しも聞きました。家族で名乗り出ることができない話しも…
つまり食料がなく生死の境い目を漂うと、生きることを優先し、幼い我が子をわずかなお金と引き換えに中国人へ渡したとか…
中国人は日本人の子は優秀だから欲しがってたらしいです。
そんな僅かな金で我が子を手放したうしろめさから名乗り出れない人が沢山いるんじゃないかなと聞きました。

Mikkolaさんの仰る通り、大陸での立ち回りをうまくやれば、ABCD包囲網を引かれることもなかった、日本人の馬鹿正直さは昔から変わらないんですね^^;

コメントへの返答
2014年7月10日 19:34
こんばんは
満州事変にも書きましたが、貧しかった日本人が
夢を求め満州の荒野に広がって行きました。

勿論、移民は不況と失業に苦しむ日本の国策でも
ありましたが、左翼が言う様に満州国は財閥が軍
と共謀して作ったと言うのは映画の見過ぎです。

南京政府や張学良が日本の権益である満州鉄道
や付属地を脅かさなければ満州国は建国していなかったでしょう。
差別が無かったとは言いません、欧米列強や日本
にも差別はありましましたが虐待はしていません。
その証拠に満州や租界、南京でも、日本の支配地域に中国人が流入して来て人口は増えました。
虐殺する日本人の元に中国人が集まってくる訳がないのです。

コミンテルンも戦争を画策しながら左巻きの人間は、おかしな世界感、偏った正義感で物を考えます

日本が悪かった、侵略戦争だったと言う事に正義を感じるナルシストです。
中韓の言う歴史感に同調し、その結果、中韓に利用されている事にも気付きません。

正義の戦争だったと言う右翼も極端です。

侵略ではなく、自衛の為に始めた戦争であった事は事実であり、問題は大人しく我慢して来た日本がブチ切れて自制を失ってしまった事です。
「暴支膺懲 南京政府の反省を促す。」
村を襲う鬼の退治は良いが、鬼ケ島に乗込んで鬼の家を壊し、鬼ケ島を占領して返さなければ植民地を持ち日本に脅威を抱く欧米列強から過剰防衛と言われます。

自分は書いている通り、日本にも反省すべき点は幾つもあります。

南京攻略後、勝っている日本から停戦協定を申入れ、南京を返していれば、少なくとも国際社会は、筋を通した日本の味方をしたはずです。

その後、中国軍が体制を立て直し、再び包囲攻撃して来ても、日本の反撃に国際世論は抗議制裁できないです。

満州から引あげてきた、お父さんのご友人が仰る様に、弱い者に強く、強い者に弱い中国人は、日本が敗戦した途端に掌を返し日本人を襲い、総てを奪い残忍に殺しまくりました。

何方でもが読む事ができるブログなので、具体的な事は書けませんが、酷い事をやっていたと祖父や満鉄に勤めていた親戚のお爺さんから聞きました。

反面、教育、知識を持っている良い中国人もいたのも事実で、彼らは理性的でした。

青龍刀を振り回す匪賊、釜を振り回す農民は未開の首狩り族と変わりません、教育が如何に重要か。

日本の兵隊に字の読書きが出来ない者はいませんでした。

>残留孤児
多くの子供が掠われましたが、預かって育ててくれた中国人もいます。

>ABCD包囲網
喧嘩は何時も一対一とは限りません、虐めもあるものです。
少年だった日本は、狡い大人達を相手に上手く立ち回る事が出来なかったと思います。
完全包囲されない方法もあったと。
2013年11月13日 8:39
おはようございます。
心が引き締まります。

賢者は歴史に学ぶ。

この言葉の意は深い。
歴史とは勝者の歴史、それだけが後に伝わり、敗者の理が認めらることはない。
学ぶ歴史とは何なのか。
他人の都合で押し付けられた史実とやらを学んでも賢者にはなれない。

仰る通り、日本は敗戦国ですが、自尊心まで喪うべきものではない。
敗戦国だったからこそ、自国の歴史を違わずに後に伝えていかねばならない。
現在を生きる国民の義務ですね。

歴史を顧みない国は滅ぶ。
この言葉も正しいと思います。
コメントへの返答
2014年7月8日 17:09
おはようございます。
いつもコメントを頂きありがとうごさいます。

歴史観は、国により異なるのは当然で、感情や国策によって調理され、歴史感に変わます。
しかし、真実は一つであり、史実を変える事はできません。

憂うべきは、敗戦国日本の兵士は口を噤んでしまい、左翼の台頭により多くの日本人が、中韓に都合の良い歴史観を史実と認識してしまった事です。

開戦を煽ったアサヒなどは戦勝国に拠る東京裁判の戦犯を新聞紙面上で処刑しマスコミや日本全体の責任を一部の軍人だけに押付ました。

中立冷静、客観的に話さなければならないTV番組司会者が史実を検証せず、日本による侵略戦争だったと前提に解説、司会をしてます。

この上海事変にしても、日本軍は上海を先制攻撃したことに拠って日中戦争が起こったと、NHK出身某氏などは、澄まし顔で解説しています。

中国側から仕掛けた事や八路が弱かった事は、最近の若い中国人ネットユーザーでも知っている事実で共産党のプロパガンダだと笑っています。

>現在を生きる国民の義務
嘘で造られた国は嘘に拠って滅びます。
日本が同じ轍を踏むような事がないよう自分達は考えていかなければならないと思います。

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