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2013年10月12日 イイね!

Empire of the Sun 10 「太陽の帝国」 満洲事変

Empire of the Sun 10 「太陽の帝国」 満洲事変「太陽の帝国」 運命の瞬間 の続き。

自分の父方の祖父や伯父達は帝國海軍いたが母方の祖父は帝國陸軍に籍を置き上海、台湾、満洲と転任して終戦を華北で迎え、約1年後に小倉に復員した。

また軍人だけではなく 親戚が海運会社を経営していた関係で南満洲鉄道や華北交通などの運輸流通や満鉄病院など医療で外地に勤めていた方々がいる。


祖父の存命中には神戸にある祖父の知人の華僑が経営する支那料理店にもよく連れて行って貰い大陸の話しをよく聞いた。

祖父は戦中に何度となく死にかけたが、料理同様に支那や満洲が好きで懐かしんでいた。


また自分の元直属上司の父上が対ソ戦発動と三国同盟 日米開戦の反対を具申した侍従武官長 陸軍大臣 支那派遣軍総司令官と歴任し終戦前に広島で被爆した 畑俊六 元帥 陸軍大将であり 張作霖爆殺事件後に着任した関東軍司令官 畑英太郎 陸軍大将が叔父上だった元陸軍航空技術大尉からよく話しを伺って大陸・満洲に於ける日本の歴史は身近に感じる。

畑俊六 陸軍大将 寺内寿一 陸軍大将 二元帥、徐州にて   中国国民党 蒋介石 蒋緯国


自分は船員時代に天安門事件前、人民服の大連港やソビエト連邦時代から太平洋艦隊基地があるウラジオストク開港前のナホトカに入港、戦前と変わらぬ様な古い港湾設備と煉瓦作りの倉庫街並や深い森林と広がる大地を見て同じ北東アジアでありながらも日本とは全く異質な極東地域の風情に郷愁を感じた。 極東ソ連の事は、また今度書きたいと思う。


その遼東半島 大連や沿海州 ナホトカから奥入る、我々の先輩達が開拓開発した満洲とは、

満洲は現在の中国東北部、ロシア沿海州、内モンゴル東部の満州族、モンゴル族の支配故地

面積は日本の約3倍ある広大な地域で、北東はアムール川(黒竜江)、ウスリー川の対岸はロシア、南東は鴨緑江を境に朝鮮半島、南は遼東半島を有し黄海と渤海に面し、西は大興安嶺山脈を隔てモンゴル高原、南西は万里の長城東端の山海関が華北との境界「関の東」と言う意味で「関東」とも呼ばれる。



太平洋戦争は真珠湾攻撃ではなく、満洲、上海、日華事変から始まる。

その事変に至る経緯と史実は日清戦争以前まで遡らなければ正しく理解し判断できない。

満洲は中共やマスコミ左翼が言う様に日本が土足で侵略し漢民族から奪い盗ったのか。



ロシアの南下
1636年 少数民族の満洲族が満洲に清国を建国、多数であった漢民族の明朝を滅亡させて満洲地域及び中国内地全体を支配し、漢民族が満州に移入することを禁じた。

明や清の時代の一時期を除いて万里の長城の外側である満洲はチベットやモンゴルと同じく漢民族の絶対的統治領ではなかった。

17世紀になると南下を始めたロシアと清朝との間で紛争が発生、ネルチンスク条約により国際的に満州全域が正式に清朝の国土と定められたが、イギリスは阿片を蔓延させフランスと連合して弱体した清に軍を送り、不平等な天津・北京条約を結ばせ清の植民地化を図る。

これらの条約でイギリスは九竜半島と香港を手に入れ、調停に入ったロシアは清にアイグン条約を結ばせ外満洲地域(沿海州)を割譲してウラジオストクを開港する。

1894年 朝鮮で近代化を求め清国への事大政策と朝貢廃止を掲げた甲申政変に続き農民戦争が発生して日清両国は天津条約に基づき朝鮮に出兵、動乱終息後も清国は軍を撤退させず、日清の対立は激化し日清戦争に発展した。

威海衛港の清国北洋艦隊と基地を殲滅した帝國陸海軍に降伏する清国兵捕虜

日清戦争に勝利した日本は遼東半島、台湾、澎湖諸島を清から割譲して朝鮮を朝貢冊封体制から解放独立させ、沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放させる日清講和・下関条約を締結する。

しかし仏・独・露の三国干渉と賄賂に拠り、ロシアは遼東半島南端の旅順港に艦隊を強制入港させ旅順・大連を租借して不凍港を獲得すると同時に万里の長城以北と満洲全域に勢力圏を拡大。

更にロシアは朝鮮半島北部の鉱山採掘権や森林伐採権、関税権などの国家基盤を朝鮮王朝から取得し、朝鮮での影響力を増して南下政策を取り続ける。

ロシアの南下政策に危機感を持っていた日本が朝鮮王の高宗が売り払った利権を買い戻して朝鮮の国権を回復させた。

1900年 清で義和団の乱(排外運動)が起こり欧米列国に宣戦布告、ロシアは満洲へ侵攻し全域を占領下に置いて満洲の植民地化の既成事実を企み、朝鮮半島も勢力権内に取込もうとするが、日英米がこれに抗議し為にロシアは撤兵を約束する。

しかしロシアは履行期限後も撤退するどころか駐留軍の増強を図り、旅順港に強力な艦隊を配置し旅順要塞も大規模に強化した。

西洋の大国であるロシア帝国が極東の新興小島国であった日本との外交交渉に耳を貸す事はなくロシアとの戦争を決意した日本は日英同盟を頼りに借金をして戦費を調達し、シベリア横断鉄道の全線開通とバルト海を出るバルチック艦隊が日本近海に到達する前にロシアとの開戦を準備する。

1904年2月8日 帝國海軍は仁川と旅順港奇襲攻撃を以って日露戦争の戦端を開いた。


帝國海軍連合艦隊は黄海海戦で旅順艦隊、蔚山沖海戦でウラジオストク艦隊を撃退する。

日露戦争に於ける主たる陸海戦図

帝國陸軍は仁川上陸に始まる南満洲を主戦場にしたロシア帝国陸軍との会戦に勝利を重ねるが、旅順要塞攻略に苦戦し、奉天占領時には各師団の戦闘能力は既に限界を超えて戦費は底を着き武器弾薬の補充調達にも苦慮していた。

帝國陸海軍に包囲攻略された旅順港

一方のロシア帝国も国内で民衆に拠る反帝政の革命運動が高まり、各地での陸戦海戦に連敗し、日本海海戦に於いてもバルチック艦隊が連合艦隊に撃破され制海権も失っていた。


艦砲と海軍陸戦重砲、及び二八センチ榴弾砲の砲撃で大破して自沈、擱坐したロシア旅順艦隊


戦争継続能力を失いつつあった日露両国は米国の仲介により講和交渉のテーブルに着いた。



南満洲鉄道獲得、大陸進出
1905年9月4日 ポーツマス日露講和条約調印で南満洲鉄道を獲得し、遼東半島の旅順・大連の租借権など日本は大陸に於ける権益を得て朝鮮半島を保護下に置き、北緯50度以南の南樺太を奪還する。

同年、満州善後条約で日清両国間でも南満州鉄道及び附属地の権益と吉林への延伸、日露戦時に日本が建設した鴨緑江に至る安奉線の継続使用権、関東州租借権、日本軍常駐権、鉱山採掘権、森林伐採権、日本人の居留保障を確認、日露協約で朝鮮・満洲と内蒙古東部に於ける日本の権益を協約した。

しかしロシアから賠償金は取れず、戦費返済に苦しむ事になり日本国民は暴動を起こした。

1909年10月26日 ロシア蔵相 ウラジーミル・ココツェフとの会談の為に満洲を訪れていたアジア最初の立憲体制の生みの親であり、日本の初代内閣総理大臣、初代韓国統監を歴任した伊藤博文を朝鮮人の安重根がロシア権益のハルビン駅構内で襲撃し殺害した。

暗殺当時、伊藤は既に(同年6月)韓国統監を退任していた。

1910年8月29日 日本の寺内正毅 韓国統監と大韓帝国の李完用 首相により日韓併合条約が調印され大日本帝國が大韓帝國を併合した。

1912年 清国で辛亥革命が起こり、革命家孫文を臨時大総統として南京に臨時政府を置き共和制を敷く中華民国が誕生、清朝の第12代 皇帝 愛新覚羅 溥儀は北洋直隷軍閥の袁世凱に退位させられる。

君主制が終わり軍閥の勢力争いと1949年の国共内戦終結まで続く長い内乱が始まる。

1914年8月23日 日本は日英同盟に基づきドイツ帝国へ宣戦布告、連合国側で第一次世界大戦に参戦、帝国陸軍はドイツ権益の山東半島 青島要塞を攻略、帝国海軍はドイツ植民地の南洋諸島を攻略した。

1916年 満州 鄭家屯で中国軍が駐留日本軍将兵と警察官の殺害事件を起こし、長春で日中両軍が衝突した寛城子事件の勃発により日中関係は悪化する。

1918年 連合国はチェコ軍捕囚救出の名目でロシア共産革命政の権打倒と東部戦線への揺動にシベリア出兵を決定、日米主力の連合軍がウラジオストクに上陸した。

1919年4月 帝國陸軍は広がった外地領や大陸の租借地に内地から編入し駐屯守備隊を増強、台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍と同様に遼東半島と南満洲鉄道附属地の警備、邦人保護と治安維持を目的として関東軍を編成する。

1920年にはニコラエフスク(尼港)で赤軍パルチザンと中国海軍によって駐留日本軍が殲滅、領事一家以下在留邦人300人以上が惨殺され、住民 6000人余りが虐殺される尼港事件が引き起こされた。

1922年 ロシアでは内戦後ボリシェヴィキがソビエト連邦を樹立、全土が共産赤化する。

この頃より中国は排日に傾き、ソ連は南下政策を進め日本が正当に得た権益や居留民の生命財産が脅かされる事になる。

1924年 皇帝を退いた溥儀は軍閥のクーデターにより紫禁城からも強制的に退去させられ、各国の領事館に庇護を求めたが内政干渉になると拒否される。

関東大震災で溥儀から義援金を送られた日本政府は教師ジョンストンの申し出から彼を受け入れ、北京の日本公使館に保護された溥儀は後に天津の日本租界に移住する。


内地では工業化が進むも日本は依然として農業が主体で世界的な経済恐慌と冷害に因る飢饉は農村部へ大きな打撃を与え、日本政府は外地に活力を求める。


1929年 政府は外地統治の為に拓務省を新設して朝鮮総督府・台湾総督府・樺太庁・南洋庁の監督業務を行い、拓務省下に南満洲鉄道や東洋拓殖、南洋拓殖、南洋興発などの国策会社を設立する。


国策に沿って財閥民間企業も大陸や朝鮮、台湾に進出しインフラや産業は整備され、金融機関が集まり都市部は近代化が進んだ。


大陸都市部の新市街は広さやデザインに自由がありモダンで独創的な建築物が立ち並んだ。




支那軍閥と関東軍
関東軍は日露戦時に日本に寝返った満州の親日派馬賊 張作霖の奉天軍閥に軍事顧問団を送り 協力関係を保っていたが満洲を実効支配した張作霖は日本の意に反し関内へ南侵を始める。

張作霖は満洲南部に産まれ吉林で馬族になったが、漢族移民の子で満州族ではない。

安徽派や直隷派など他の北洋軍閥との戦の度に張作霖は関東軍に支援を求めながら朝鮮人安住や土地商租権など諸問題解決の約束は守らなかった。

欧米資本を取入れたい張作霖は欧米列強に追随し日本と距離を置き始め関東軍との関係も悪化、特に大陸政策に出遅れていた米国が接近し経済政治両面で積極的に張作霖を支援した。

1926年12月 山海関内、即ち中国国内に侵攻し北京に入城した張作霖は自ら大元帥に就任すると同時に中華民国の主権者であることを宣言する。

1927年3月 南京・上海を占領した中国国民革命軍内の共産党派が外国人と外国領事館を襲撃する南京事件漢口事件を起こした。

南京城内の中国軍に対して揚子江に停泊中の米英海軍艦艇が艦砲射撃を加え陸戦隊を上陸させ交戦したが日本軍は無抵抗の命令を受け艦砲射撃も防御戦闘も行わなかった為に入城した中国兵の一方的な暴虐に遭い日本と欧米の外交官と宣教師が虐殺され婦女子が強姦された。

翌年4月には山東省 済南で居留民が北伐軍内共産党派に掠奪虐殺され、警備に当たる日本軍の臨時派遣隊と武力衝突した済南事件を起こす。

国民政府は日本軍の不法行為と宣伝したが、ニューヨーク タイムズや英国紙デイリー テレグラフの現地特派員は「日本人の忍耐にも限度がある。」と中国軍の掠奪虐殺を強く批難糾弾し、日本軍の行動は当然の自衛の為に必要最低限の正当防衛で今後の日本軍の治安維持活動に期待していると国際的に報じた。

蒋介石は武漢国民政府の左派勢力に対抗し国民党から共産主義者とソ連の顧問を排除追放して南京に国民政府を設立する。

奉天軍内への共産主義の浸透を危惧し満洲の共産化を警戒した張作霖は在北京ソ連大使館官舎を強制捜索、ロシア人と中国人80名以上を検挙、武器と機密文書、煽動紙等を押収した。

蒋介石から「山海関以東には侵攻しない」と言質を取った関東軍は張作霖を積極的に支援しなくなり蒋介石の北伐国民革命軍との戦いに敗れた張作霖 奉天政府の財政は破綻し満洲の支配力も衰え国民党に擦り寄って行く。

張作霖と旧知の仲である元満州軍参謀 田中義一首相は奉天軍閥と関係を維持しようとしたが勢力争いを続ける支那軍閥に頼る安定統治に限界を見た現地の関東軍高官は社会インフラを整備して親日政権国家樹立に拠る満洲の間接統治(満洲国建国)を考える様になる。


1928年6月4日 関東軍司令官 村岡長太郎 中将が発案し、高級参謀 河本大作 大佐が首謀して張作霖が乗った南満洲鉄道の特別列車を奉天近郊の皇姑屯を走行中に爆破、国民党軍の仕業に見せ掛ける偽装工作を行い張作霖を殺害する。

田中首相は陸軍と閣僚に押され事件を隠蔽上奏し、謀略を知った天皇陛下に叱責され田中は引責辞任して内閣は総辞職、陸軍は村岡司令官を依願予備役、河本大佐を停職に処した。

爆死した張作霖の後を引継いだ息子の張学良は青天白日旗を掲げ南京国民政府へ下り、蒋介石に満州の不干渉を確約させ北満からソ連の権益排除を画策する。

蒋介石は奉天軍閥 張学良の合流により北伐を完遂させ国内の共産勢力掃討に力を注ぐ。

翌年、コミンテルンの赤化工作の謀略を察知した蒋介石は張学良に命じ活動拠点であるハルピンのソ連総領事館を強制捜査させ領事と職員を逮捕、ソ連権益の中東鉄道に軍隊を配置して南京政府が接収、ロシア人管理職員を排除して中国人を任命した。

1929年7月18日 日本が厳正中立の立場をとり関東軍の不介入を確認したソ連は南京国民政府に国交断絶を宣告して赤軍が満洲に侵攻、張学良軍を撃破し中東鉄道全線を占領して中東鉄道の経営権と特別区の行政を握り、満洲に於けるソ連の影響力を反対に強める。



1928年7月19日 中華民国南京政府は国家継承に於ける条約継承否定説を採用、日清間で締結された諸条約無効を主張し一方的に日清通商航海条約の破棄を宣言していた。

ソ連に敗れた南京政府と張学良は矛先を日本の権益と日本人に向け排日に傾いて行く。

南京政府は南満洲鉄道と並行する鉄道新設の禁止等を定めた日清間の満洲善後条約締結を無視して新たに満鉄線に並行する鉄道路線を建設、安価な輸送単価で南満洲鉄道の経営の枯渇を狙い満鉄の付属地に柵を張り廻らし通行口に監視所を設け大連港から入る物品に輸入税を掛けて更に付属地から持出す物品に対し二重の税を掛けた。

また満洲善後条約では鉄道付属地外でも営業権は保証されていたが、中国の官憲による一方的な許可取消や事業妨害に林業、鉱業、商業等の日本人企業の経営不振が続出する。

満洲鉄道、及び東清鉄道の路線図

徹底的に排日を進める南京政府は日本人や朝鮮人に土地を貸売りした者を国土盗売者として処罰する「盗売国土懲罰令」を制定、多数の朝鮮人農民から土地を奪い抵抗した500人以上の朝鮮人が奉天監獄に投獄された。

更に「鮮人駆逐令」の発令により、迫害された朝鮮人農民は長春 西北の万宝山に入植しようとし、反発した中国人が朝鮮人農民を襲撃、日本領事館が朝鮮人農民保護の為に急行させた警察官と武装した中国人の暴徒が衝突する 万宝山事件が発生し、朝鮮排華事件が起こる。


1931年6月27日 南京政府の排日政策が続く中、対ソ戦に備えて陸軍参謀 中村震太郎 大尉が軍用地誌調査の命を受けて匪賊横行を理由に一方的に設定された蒙古興安嶺の日本人立入禁止区域に農業技師と身分を隠し井杉延太郎 退役兵曹長と白ロシア人、蒙古人の4名で調査旅行中に張学良配下の屯墾軍に拘束される。

中村大尉は護照を提示したが屯墾軍は無効として取り合わず、一行が多額の旅費を所持していた為に殺害し証拠隠滅に遺体を焼いて埋め、一行の金品、護身用ピストル、その他一切の物を隊長の関玉衡とその部下が略奪した。

これと時を同じくし日本人女学生数十人がピクニック中に集団強姦される事件も発生する。

各問題を奉天の日本総領事から外務省を通じて南京総領事が南京政府に協議解決を申入れるが無視され続ける。

事変前にはこの様な懸案が370件余りに達し、また関東軍も再三に渡って抗議するも南京政府から明確な回答は無かった。

日本政府の対中・英・米外交は頓挫し、無秩序状態が続く中華民国は国家ではなかった。


関東軍に作戦参謀として赴任した石原莞爾 中佐は満洲の地域自決・民族自決に基づく分離独立、満蒙領有計画を立案する。

南京政府の排日政策と満洲・東北の治安悪化に危機感を抱いた関東軍幹部達は本国の陸軍中央参謀本部に諮ることなく再び独断で軍事行動を開始した。



満洲事変
1931年9月18日 石原莞爾中佐は着任した高級参謀 板垣征四郎大佐と奉天近郊の柳条湖付近で南満州鉄道の線路を爆破して張学良東北軍の犯行に見せ掛けた柳条湖事件を起こし、特務機関の工作で吉林も不穏な状態に持込む。

これを理由に関東軍は軍事行動を開始、東北軍兵営 奉天北大営と奉天城を制圧する。

翌日までに奉天以外に長春、安東、鳳凰城、営口の南満洲主要都市の殆どを占領した。


19日午前10時 事態に日本政府は緊急の閣議を召集「事変不拡大」と決議した。

南次郎 陸軍大臣は政府の方針に留意して行動するよう本庄繁 関東軍司令官に訓電する。

陛下は参内した若槻首相に「事変不拡大を徹底するよう努力せよ」との御言葉を掛けた。


21日 朝鮮軍司令官 林銑十郎 中将は二個飛行中隊を増援、独断で混成第三十九旅団に越境を命じ旅団は鴨緑江を越えて関東軍 本庄繁 中将の指揮下に入る。

天皇陛下の勅裁を受けない皇軍の国外派兵は統帥権干犯であり、重大な軍紀軍律違反で死刑に値する重罪であったが事後に閣議決定承認され正式の派兵となった。


満鉄線路爆破は軍事行動の口実を作る三文芝居だが石原莞爾中佐ら関東軍の作戦参謀は事前に北満を偵察して準備周到に綿密な占領作戦を計画していた。

また関東軍作戦参謀は華北の国民革命軍 第13路軍を買収し反乱を起させ張学良軍の満洲駐留兵力 約23万の半数以上の大部隊を山海関内に誘出し、満洲を手薄な状態にする陽動工作も成功させる。

1931年10月8日 奉天を放棄した張学良が拠点を移し東北軍の兵力が多数集結していた錦州を石原莞爾中佐が司令機に搭乗して作戦指導を行い関東軍の爆撃機12機が空襲した。

1932年2月 越境した朝鮮軍の増援で管轄外の北部満洲に進出、ハルビンを制圧占領。


張学良が指揮する東北辺防軍の総兵力約45万に対して、関東軍は増援を含めて1万数千名程の兵力であったが、国共内戦の為に対日戦に兵力を割く余裕が無い張学良は日本軍の挑発と衝突を避けて殆ど抵抗せず、関東軍は僅かな兵力を以って難なく日本本土面積の3倍を有する満州・東北全域を制圧占領した。


袁金鎧の奉天地方自治維持会、煕洽の吉林省臨時政府、張景恵のハルビン東省特別区治安維持委員会の東北三区が中国国民党政府からの分離独立を宣言する。



満州国建国
1932年1月28日 中国国民党軍 第十九路軍が上海付近に進出駐留し、日本人僧侶襲撃事件や排日暴動から租界の日本人居留民を警護する日本海軍陸戦隊に第十九路軍が銃撃して陸戦隊に90数名の死傷者を出す第一次上海事変が勃発していた。


1932年3月1日 関東軍の石原莞爾主任参謀らの主導のもと「王道楽土」「五族協和」をスローガンに東北三区の政都として長春を新京と命名、満州族出身で清朝最後の皇帝 溥儀が国家元首として政務を執り、日本に国防・鉄道・通信の管理を委ねる親日国家 満洲国が建国される。


1933年3月 国際連盟創立以来の原加盟国で常任理事国でもあった日本は国連の総会で満洲を支那の一部分とする撤退勧告を受け国際連盟を脱退する。

その後、当時の国連加盟独立国は60ヵ国程でアジアやアフリカは欧米の植民地が殆だが、満州国は中華民国南京国民政府をはじめ植民地を除く23ヵ国から承認された。

1934年3月1日 満洲国は溥儀が皇帝に即位し満洲帝國となった。

独ナチス党や伊ファシスト党を強く批難し対立していた時のローマ法王 ピオ11世のバチカン市国は枢軸国のドイツやイタリアより早く1934年から満洲国を承認している。

1932年4月 満州国軍が創設され治安維持と国境警備に当たり、日満議定書により国防は関東軍が担い、日本人将校が満洲国軍の軍事顧問や教官を務め、部隊長等は日本軍から転籍した将兵が任官する事もあった。

当初、部隊構成は軍閥の配置を踏襲したが陸軍軍官学校が設立され将校を養成、満洲国国民の満州族、漢族、蒙古族、ウイグル族、白系ロシア、日本人、朝鮮人、台湾人が入学した。

後の韓国大統領 朴正煕(日本名は高木正雄)は新京の満洲国軍軍官学校を首席卒業後、東京の帝國陸軍士官学校を卒業、関東軍部隊に配属され見習士官として勤務した後、満洲国軍の少尉に任官奉職し中尉に昇進して終戦を迎えた。

また奉天の満州国軍軍官学校には丁一権や白善燁が入学し、後に彼らは韓国軍の主力中枢として朝鮮戦争で指導的役割を果し、韓国陸軍の第19代までの歴代参謀総長は全て旧日本軍若しくは満州国軍出身者で占められている。


嘗て国民党 蒋介石は日本に留学し帝國陸軍に籍を置き砲術や用兵を学び日本に亡命経験もある反共親日であった。

1936年12月 共産党と密かに接触していた張学良と楊虎城は西安で蒋介石を拉致監禁し息子の蒋経国も留学先のソ連に人質に捕られ、それまで日中友好と反共討伐の政策を推進して満洲国も黙認した蒋介石の国民党は共産党軍との内戦を停止、国共合作と排日抗日政策に転換する。


欧米列国を対日戦争に巻込みたかったコミンテルンと民国政府や軍閥内に潜り込んだ共産党員は北・中支各地で日本軍を挑発して日中開戦を嗾ける。

1937年7月 北京 盧溝橋で通達済の夜間演習中に日本軍駐屯部隊を国民革命軍 第二十九軍の兵士が狙撃、抗議と解決協議中にも迫撃砲を撃込まれる 盧溝橋事件と中国人自治政府保安隊が在留日本人・朝鮮人200人以上を猟奇的に虐殺した 通州事件を起こす。

同年8月 上海停戦協定を破り、非武装地帯にトーチカと強固な要塞線を構築したドイツ軍事顧問が指揮する最新装備で完全武装した3万の国民党中央軍の精鋭が上海国際租界の日本人居留区を包囲攻撃する 第二次上海事変 を起した。

ソ連の南侵を警戒する石原莞爾ら事態不拡大派の意に反して日中は全面戦争に突入する。




ノモンハン事件
満州国建国以来、満州・ソ連国境のアムール川(黒竜江)では越境上陸し乾岔子島を不法占拠したソ連軍に日・満軍が応戦してソ連軍砲艦を撃沈した乾岔子島事件や満州東南端の朝鮮に近接する豆満江とハサン湖間にある国境不確定な緩衝地帯の丘陵に陣地構築を謀り越境侵攻したソ連軍を日本軍が撃退した張鼓峰事件などの国境紛争が起り、満州・蒙古国境西部フルンボイル平原では哈爾哈(ハルハ)廟事件など国境哨戒中にモンゴル軍の侵犯挑発に拠る銃撃戦が頻発していた。

1939年5月11日 ハルハ河付近 ノモンハンの国境係争地で満州国軍 国境警備隊とモンゴル軍の交戦に端を発し、両国を支援する日本軍とソ連赤軍に拠る大規模な軍事衝突に発展する。

この突発的な武力衝突に即応してソ連軍 第57特別軍団は戦車、装甲車、自走砲、機関銃狙撃兵、モンゴル騎兵団を投入してハルハ河西岸に榴弾砲を据えて架橋した東岸に陣地を構築した。

日本軍は第23師団捜索隊、歩兵大隊、輜重輸送部隊、山砲、速射砲、重機関銃、満州国軍騎兵の混成支隊を送り、戦車を伴うソ連軍の装甲部隊と戦闘になる。

衝突直後は日本軍が戦闘に勝利して東岸に応急陣地を構築したが、日・ソ両軍ともに指揮通信の混乱から統制を失い組織的な展開や戦闘の連携がとれず、分散した各部隊が個々の判断で攻撃・防御と孤軍奮闘する。

ソ連軍に火力で劣る日本軍は夜襲を掛けて反撃、上空では九七式戦闘機が空戦でソ連軍機に圧勝を続けて日本軍航空隊が制空権を抑え機銃掃射や哨戒偵察、陣地爆撃で地上軍を航空支援した。

日本軍の増援攻勢を警戒した ソ連・モンゴル軍はハルハ河西岸に撤退して5月の大規模な衝突は一時的に終息する。

第一次衝突の損害

日本軍 戦死傷者 約290名 装甲車 2輌 トラック 8台 乗用車 2台 速射砲 1門

ソ連軍 戦死傷者 約370名 戦車・装甲車 13輌 トラック 15台 火砲 3門



第二次ノモンハンの衝突

6月20日 戦車を伴う十数輌のソ連軍装甲部隊とモンゴル軍騎兵が越境し、集落内にある日本軍の宿営地を砲撃、日本軍は速射砲と機関砲で応戦し戦車・装甲車4輌を撃破、越境部隊を撃退する。

この頃、ソ連軍は日本軍飛行場への越境爆撃と小兵力の地上部隊を侵入させては威力偵察攻撃を繰り返し、452輌の戦車と装甲車旅団を投入する大規模な侵攻を準備していた。

ソ連軍を指揮するのは第一次衝突を観察分析酷評、二次侵攻を緻密に計画して地上及び航空戦力を増強して関東軍に挑み、後に屈強なドイツ第6軍をスターリングラードで包囲、モスクワ侵攻阻止、東部戦線からドイツ軍を駆逐し自らベルリンに入城、「ソビエト連邦英雄」の称号を受けて上級大将、元帥まで昇り詰めるゲオルギー・ジューコフである。

冷酷なスターリンが認める冷徹な司令官ジューコフは容赦なく自軍兵士を銃殺処刑の督戦を行い、勝利の為には兵の生命、兵力の消耗を厭わず間髪を容れぬ打撃重視の電撃戦を得意とする。


日華事変勃発で中国戦線に兵力を抽出していた日本陸軍中央の満・ソ国境紛争の不拡大方針に関東軍は第6軍と第23師団、第7師団の一部で衝突に対応するが、実際は一個師団程度の兵力であるのに対してモスクワの国防部は第57特別軍団にジューコフの要求以上の増援を送り込み、最終的にソ連軍は8個師団を投入した。


関東軍はソ連軍の火力と機動力に対して第1戦車団の戦車2個連隊を増派、自動車化歩兵大隊、歩兵1個連隊、独立野砲1個連隊、工兵連隊、砲兵・高射を含む戦車(戦車73輌・装甲車19輌)を主力とする機械化混成部隊を編成、第23師団の別動支隊とする。

 
日本軍 戦車隊・装甲機械化部隊は第23師団本隊に先行してハルハ河の前線に向かう。

夏期の辺境モンゴルの草原、砂丘でのソ連軍の戦車・装甲車旅団との戦闘になった、ノモンハンの第二次衝突が日本陸軍の戦車対戦車、両軍機甲部隊に拠る近代的な集団機甲戦の初戦となる。


7月2日 ハルハ河東岸に進出した日本軍戦車連隊はソ連 第11戦車旅団の戦車・装甲車と交戦、ソ連軍戦車20輌、装甲車12輌、トラック20台を撃破しながら、西岸の砲兵陣地から強力な榴弾砲の激しい砲撃に前進出来ず釘付けにされた歩兵第64連隊を支援、ソ連軍の防御陣地を突破して東岸の野砲陣地を蹂躙し無力化する。

一方、ハルハ河の渡河作戦に成功し西岸に進出した歩兵中心とする砲兵、工兵の第23師団主力もソ連軍 第11戦車旅団、第8、第7装甲車旅団の攻撃を受け、戦車67輌、装甲車41輌を撃破撃退したが、東岸での戦闘で日本軍戦車隊も戦車30輌を喪失、関東軍司令部は前線から戦車連隊を後方支援部隊まで後退させた。

7月4日 第23師団は弾薬枯渇と退路遮断の危険性から橋を渡りハルハ河西岸から撤退を開始、以降、東岸での対戦車戦、砲撃戦、空中戦、空爆、夜襲、白兵戦、塹壕戦、高地攻防戦など激しい戦闘は 9月15日の停戦合意まで続いた。


第一次、第二次の参加兵力

日本軍 約30,000名 戦車73輌 装甲車19輌 歩兵中心の機関銃・野砲混成部隊

ソ連軍 約70,000名 戦車438輌 装甲車385輌 戦車主力の機甲・機械化部隊

加えてソ連軍は機動兵力だけでなく支援火砲でも圧倒しながら更に増派増強していた。


日本軍の損害 戦死傷者 約19,000名 戦車 約30輌 航空機 約160機

ソ連軍の損害 戦死傷者 約26,000名 戦車 約250輌 航空機 約360機


過去、ノモンハン事件はソビエト連邦が崩壊してソ連側の正しい情報が公開されるまで「ソ連赤軍の圧勝、日本軍の惨敗」と言われてきた。

関東軍から増派も僅かな第23師団に対してソ連赤軍 第57特別軍団のハルハ河での開戦布陣は戦車輌数2倍、装甲車13倍、榴弾重砲3倍、野砲も優勢で歩兵と航空機数は互角。

戦力で日本軍を圧倒しながらソ連軍は自軍の戦車兵の逃亡を防ぐ為に乗員ハッチを外から施錠し、戦線を離脱した兵の処刑督戦に火炎放射器まで使い、戦車1個旅団と装甲車1個旅団を損耗壊滅させて戦車2個旅団、装甲車3個旅団、化狙撃兵3個師団、空挺1個旅団の30,000名以上の増援を受けて、疲労した一個師団に勝てないならジューコフも赤軍政治将校も無能である。

戦車・装甲車が8倍以上のソ連軍に日本軍は軽装甲に小口径搭載砲の戦車戦、速射砲や機関砲に拠る正確な接近射撃と死力を尽くした肉薄戦の火炎瓶、地雷、手榴弾でソ連軍戦車250輌を撃破、多勢に無勢の空戦でも360機を撃墜した。

これは精神論ではなく、兵力、火力、装備の物理的な劣性に銃砲弾薬も不足する辺境最前線での日本軍歩兵、戦車兵、騎兵、砲兵、工兵、整備兵、航空兵達の技能技術を応用駆使した奮戦敢闘は称賛されて然る可きである。

尤も敵を侮り万策を講じず、最前線からの情報や意見具申を無視した上に己の失策と用兵の責任を部下に押付け腹を切らせる無能な軍司令官や師団長、作戦参謀などは万死に値する。

このような軍上層部の体質がポートモレスビー、ガダルカナル、インパールなど南方作戦で失う必要がない多くの皇軍兵士の命を失わせた。


1941年10月15日 停戦後の国境画定交渉に於いてノモンハン以北は従来の国境線、南方地区は停戦前の日本軍の占領地は満州国の領土とする満州国に有利な議定書がハルビンで調印され モンゴルは1,140㎡を領土を失うと言う結果になった。

日本は政府が関与せず、外地駐屯軍の一師団が対応し、ソ連が国家的な対日戦争として対応したノモンハンの領土争奪戦は日本の勝利に終わる。


「ノモンハンはソ連赤軍の圧勝、日本軍の惨敗」は共産主義左翼のプロパガンダである。


1945年 ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、ソ連赤軍が大挙し満洲に侵攻した。


1905年にポーツマス条約で南満洲鉄道の権益を獲得して以来、日本人が満蒙開拓開発を続けて40年の歳月で重工業を発展させ、辺境の荒野は近代的産業地域に生まれ変わった。

極東の近代国家満洲國は日本の敗戦まで13年間続いた。

旧満洲国 大慶で深々度の大油田が発掘されたのは日本の敗戦後であった。



関東軍の功罪
日本人は努力して匪賊が横行する無法地帯に産業を発展させ近代都市を作り、満洲は急速な発展を遂げたが、満洲の中国人や朝鮮人は支那軍閥政府の圧政に苦しめれていた。

条約や外交により権益を保証されるのは当然だが、相手が約束を守らない中露であるうえに内戦で混乱中の一時的短命政権とは条約も外交も機能不全に陥いり、大陸では権益や家農地などの資産どころか人権や生命の安全すら保障されなかった。


五族協和を謳い満洲国の建国を目指した石原莞爾は日本人も国籍を離脱して満洲人になるべきで国民党の蒋介石と共闘し中国共産党軍を抑えソ連の南下を阻む為に中国戦線不拡大を主張した。


皇軍を裁可無く、軍事行動に使った関東軍高級参謀らの独断先行は正当化できない。

しかし中ソは条約を破り、日本が日清・日露の戦役で多大な犠牲を払い正当に得た権益を脅かし、移住した日本人と朝鮮人に危害が加えられ満洲鉄道警備と邦人保護を目的として派遣されていた治安維持軍である関東軍が指を咥え放置する事はできなかった。

古来、山海関 即ち万里の長城東外の関東・満洲は漢民族の土地ではなく、軍閥は徴税収奪しても保護統治せず、民国政府の施政権下にも無かった。

満洲国には漢族に反目する満洲族をはじめ赤化の圧政から逃れた来た白系ロシア人やユダヤ人、ソ連に抵抗する蒙古人、台湾や半島から移住してきた台湾人や多くの朝鮮人がいた。

満洲国に人種差別が無かったとは言わない、日本人の中にも職業や貧富の差別はあった。

大陸の覇権に出遅れていたアメリカも満洲の利権を狙い、ソ連は中国赤化による領土侵略を企み、支那軍閥と左右思想、民族間の勢力争いに中国人同士が殺し合っていた。

荒野を開発し満洲の産業発展と近代化に努力した日本は搾取する悪の帝国にされている。


果たして関東軍が行動を起こさなければ、居留民達は満洲で安全に暮らせたであろうか。

現地の居留民や関東軍からの緊迫する訴えに国際連盟常任理事国であった日本政府は南京政府や欧米列強の思惑に対し北京議定書、日清通商航海条約、満州善後条約、日英同盟に基づき国連や二国間交渉で政治的に大陸の権益を守る外交戦略を尽力すべきであった。

日本は例え再び三国干渉されても国際連盟を脱退したのは大間違いだ。



ソ連赤軍の侵攻に日本軍は邦人居留民を置き去りにして逃げた言う論調がある。

1945年8月9日 越境侵攻してきた圧倒的な兵力と重装備で優勢なソ連赤軍と中国兵に対して、日本軍はただ敗走したのではない、陸軍は南方方面の作戦に兵力を転用され、兵員不足に火力も不十分ながら各師団は最後まで抗戦し多くの連隊、部隊が全滅している。


ポツダム宣言受諾後、日本軍は一切の武力行動禁止が命じられたが領土拡大を企むソ連赤軍は侵攻を止めなかった。

千島・占守島では陸軍 第91師団、満洲から転出した戦車第11連隊と海軍警備隊が強力に抵抗しソ連赤軍を撃退して、日魯漁業の女子従業員達の脱出後に停戦、降伏した。


また北支・内蒙古の警備に当たっていた駐蒙軍司令官 根本博 中将は1927年の南京事件の際に無抵抗の命令を受けた日本軍が防御戦闘を行わなかった為に外国人と日本人が入城した中国軍の一方的な暴虐に遭い、婦女子は強姦され南京領事館付武官であった自身も領事館内で発砲され銃剣で突き刺されて重傷を負った経験から根本中将は停戦命令と武装解除に従わず、破竹の勢いで進撃してくるソ連赤軍に対して独断で反撃命令を下し駐蒙軍は激しく抵抗反撃して八路軍の攻撃も抑えて、4万人の在留邦人が内蒙古から避難し天津へ脱出が終わる8月21日まで防衛戦闘を行い避難民を守り抜いた。

1946年8月 終戦から一年後、北支那方面軍司令官を兼任していた根本中将は在留邦人の帰国と北支那方面の将兵35万の内地復員を終わらせた最後の船で帰還した。

1949年 根本中将は在留邦人と将兵の復員帰国協力また国体護持への恩義を蒋介石に返すべく台湾に渡り金門島の戦いを指揮し殺到する中共軍を撃破して台湾の独立に貢献する。



撤退には、優勢な敵に陣地や防衛線を突破された際、抵抗しつつ味方の損害を最小限に抑え戦線を後退する退却戦、または局所的な攻勢に出て敵の進撃速度を低下させる遅滞戦と急速に部隊を拠点まで撤退させ戦力を整える迎撃戦がある。

撤退に付いて行けない落伍兵や民間人が犠牲になる事は欧州戦線に於いても多くあった。

1946年4月迄、有効な日ソ中立条約を破って侵攻したソ連はクソであるが、条約を当てにし不穏な動きを察知しながら、居留民の夫人子供を退避させなかった政府と軍にも責任がある。


関東軍の罪は独断で軍事行動を起した事と条約を守らない強盗ソ連赤軍と蛮族支那兵に対し邦人の安全が確保される前に停戦を受入れ武装解除に従った事だ。

張作霖の爆殺は張学良の個人的な恨みと不信感を強め、より反目するようになった。

奉天軍閥を倒閥、武装解除し旧態に復すれば国際世論も敵に回す事もなかったであろう。

また早い時点で反共、北伐の蒋介石と手を結び、反ソ的な張学良との仲介も可能であった。


日本の歴史番組や左巻きが偏った思想で作った映画の中では日本政府と財閥や帝國陸海軍、特に関東軍は悪役にされ中共軍やパルチザンは正義と人民の味方である様に描かれている。

帝國陸軍は民間人を凌辱虐殺し、八路とソ連赤軍や朝鮮パルチザンは兵隊だけを殺したか。

日本降伏後の満洲を見よ

蛮族は葛根廟事件敦化事件小山克事件通化事件牡丹江事件麻山事件を起こした。

敗戦の結果、内地の農村で貧困に喘ぎ、満州・大陸に夢と希望を求めて移住した人々は家財総てを失い家族や命まで失う事になった。

帰国出来た人達は幸運であり、無事に日本に帰れなかった方々が沢山いる。


戦勝国を名乗る中ソの蛮行は、一例も戦犯として裁かれる事は無かった。

戦後、中共と日本国内の左巻連中が史実を隠蔽し、70年経った今でも南京事件は捏造水増しされ反日のプロパガンダに都合良いツールとして利用している。

全てを日本の侵略悪業にして共産主義者と偏狭左翼は尼港事件も無かった事にするな。

共産主義とは分け合うのではなく他人から奪い盗り恥ずかしげも無く嘘をつく事か。

祖父は停戦命令に拠り武装解除され、八路に外套、時計、万年筆など私物を身ぐるみ剥がれたが、まだましであった。

近所の叔父さんは火事場泥棒のソ連赤軍の捕虜となり終戦後に8年間もシベリアに抑留され強制労働させされラーゲリで足先を失い痩せ細って帰還した。

ソ連は約107万人を終戦後に抑留し強制労働させ、約34万人の日本人を殺している。


「武装解除に応じず最後まで戦って死んだ方が良かった。」

叔父さん達はシベリアの冷たく固い土を掘り戦友の亡骸を埋めながら涙を流した。

帝國軍人は戦場で戦って死ぬ覚悟をする。

しかし火事場強盗のソ連に強姦され、扱使われて命と領土まで盗られる覚えはない。

日本人なら帝國と陸海軍を一方的で阿漕な侵略者と決めつけず史実と経緯を検証すべきだ。



欧米列強は支那の植民地化を企み中国人に阿片を売りつけ中毒にして奴隷の如く搾取した。

支那軍閥は権力勢力争いに明け暮れ国家を分割破壊して山賊の如く庶民から略奪し農民から糧を徴収し殺し犯した。

日本は満洲鉄道支線を延長し鉱山を開発、ダム、工場、農場を作り産業を発展させ雇用を産みだしインフラを整備し、銀行、学校、図書館、病院などの公共事業施設を街に創り未来に投資した。


日本やドイツ、現在の韓国、フィリピンはアメリカの傀儡国家なのか。

満洲国を傀儡と言うならば、他国の力を借りて独立し保護された国は皆、傀儡国家になる。


独立主権国家であっても援助支援を受ける国の影響を受け傾倒するのは当然の事だ。

親日、親米、親ソ、親中国家になり、同盟、連邦を構成し、自治州に取込まれるという形もある。

戦後、NATOとワルシャワの条約機構で東西に別れ資本主義と共産主義は互いに牽制してきたが、東側共産主義陣営の縛りは厳しいものであった。


中共は自治州・解放と言う欺瞞と武力で統治し、チベットやウイグル自治区に独立を絶対に認めず、思想粛清と人権弾圧を行ない独立運動を潰し他国からの暴力的弾圧に対する抗議を内政干渉だと跳ねつける。

戦前、大日本帝國、大英帝國、ロシア帝国、帝政を敷く国だけでなく、国外に覇権を求めて植民地を持つ国は総て帝國主義であり、列強と並び日本も国際連盟常任理事国であった。


敗戦で日本は帝國主義侵略国家と呼ばれ続け戦後、多大な賠償と国際貢献をして来たにも拘らず中露の政治戦略的な妨害により未だに敵国扱いされ国連常任理事国になれないでいる。



民主主義独立主権国家である日本が何時まで戦犯国扱いされるのか。




太陽の帝国 上海事変 に続く。


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Posted at 2013/10/12 17:39:41 | コメント(1) | トラックバック(0) | 太陽の帝国 | 日記

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