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Mikkolaのブログ一覧

2013年06月28日 イイね!

Empire of the Sun 5 「太陽の帝国」 聯合艦隊旗艦

Empire of the Sun 5 「太陽の帝国」 聯合艦隊旗艦「太陽の帝国」 ミッドウェ-海戦の続き。
帝國海軍技術士官だった氏を偲んで生前にお聞きした話を故人の手記より抜粋し数回に分けて書いている。

戦争・第一部「遣日独潜水艦」故人の回顧録の続きより

戦争・第二部   「海軍中将 平賀 譲」 
                               
平賀譲は1901年(明治34年)東京帝国大学工科大学校を卒業。
海軍造船中技士(中尉) 1918年(大正7年)東京帝国大学教授
1926年(大正15年)造船中将 1931年(昭和6年)予備役となる
1938年(昭和13年)より、東京帝国大学総長を務める。


平賀譲は外国人技師の手を借りることなく帝國海軍が大艦の建造を始めた日露戦争の当時より、戦艦「長門」「陸奥」など八八艦隊の主力艦(八八艦隊はワシントン海軍軍縮条約に拠り建造中止。)また補助艦として重巡洋艦「古鷹」「妙高」、軽巡洋艦「夕張」型など欧米列強の技術水準を凌ぐ艦艇を設計、日本最後の戦艦となった大和型の設計に至るまで長期に渡り艦艇設計の中枢にあった。


戦艦「長門」 長門型戦艦 一番艦 八八艦隊計画一号艦 日米開戦時 連合艦隊旗艦。
全長215.8m 全幅28.96m 41cm連装砲4基 14cm単装砲18門 12.7cm連装高角砲4基  53 cm魚雷発射管8門 最高速力26.5kt 基準排水量33,800トン
1920年の完成当時は世界最大・最強・最速の高速戦艦であり世界中の海軍に大きな影響を与えワシントン軍縮条約の切っ掛けになった大型戦艦である。


軽巡洋艦「夕張」 同型艦無し
全長139.99m 全幅12m 14cm連装砲4門 12cm単装高角砲 61cm連装魚雷発射管2基  主機ギアードタービン3基3軸 最高速力35.5kt 基準排水量2,890トン
コンパクトな艦体に格上の戦闘力を施し世界の注目を集めた実験艦で重巡設計の礎となる。


重巡洋艦「古鷹」 同型艦「加古」
全長185.2m 全幅16.9m 20.3cm砲3基6門 12cm高角砲4門 61cm四連魚雷発射管2基 ギアードタービン4基4軸 最高速力34.6kt 基準排水量8,700トン 
ワシントン条約下で建造した8千トン級巡洋艦で欧米列強の15cm砲搭載艦を凌駕する。
上記「夕張」と第八艦隊に所属し、第一次ソロモン海戦では同型姉妹艦「加古」と共に敵の重巡4隻を撃沈している。


重巡洋艦「妙高」 同型艦「那智」「足利」「羽黒」
全長203.7m 全幅20.7m 20.3cm連装砲5基10門 12.7cm連装高角砲4基 61cm魚雷発射管4基16門 艦本式ギアードタービン4基4軸 最高速力34.6kt 
改装後に基準排水量10,902から13,000トンに増加した1万トン級の重巡洋艦で開戦の直後から重巡「妙高」はダバオ・ホロ攻略、スラバヤ沖海戦、珊瑚海海戦、ガダルカナル島ヘンダーソン基地艦砲射撃、ブーゲンビル島沖海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦など多くの重要作戦に参加した。



しかし、ここに至るまでの彼の行程は淡々とした道程ではなかった。

軍艦の設計は一般的な船の基本性能(速度、強度、復原力)に加えて戦闘力、防御力を過不足なく見合わせねばならない。

そのバランスを維持する為、平賀は時に用兵側の要求する戦闘力(兵装)の重量を制限したり、搭載を拒否することも度々あった。

「技術屋の任務は用兵側の注文を形にする事にある」と用兵側の反撃。

「船の基本性能重視」と平賀は譲らない。

あれでは「平賀 譲」ではなく「平賀 不譲」だと、用兵側の反感が募る。


一方技術側にも、平賀の設計内容、部下の扱い方などをあげて、反平賀派が台頭する。

こうした不満が鬱積した1923年(大正12年)平賀に欧米出張の命が下る。

時に平賀は造船少将、艦政本部・第四部(艦艇建造所掌)の計画主任だった。

帰朝後の第四部長就任を確信してロンドンへ旅立ったが、四五歳の大人としては平賀の認識は甘かった、これは反平賀派の陰謀だったのだ。

翌年帰国した平賀に与えられた場所は、第四部長室はおろか会議室の片隅の衝立で囲まれた一郭で、今の時代の窓際族、艦艇設計のラインから外された処遇だった。

しかし海軍はこれまでの平賀の功績を忘れる事なく、技術研究所造船研究部長に任命した。

翌年1926年(大正15年)には位を造船中将に進める。

1934年(昭和9年)技研時代(既に東大教授を兼務)の平賀は、ロンドンでの国際水槽会議で論文を発表した。

摩擦抵抗の実験式を演繹した「第一論文」と、実験式の精度を実船で検証した「第二論文」との二編である。

特に「第二論文」は、日本海軍が欧米列強に先んじて、駆逐艦「夕立」を実験艦として大規模な海上曳航抵抗実験を行い、貴重な実験成果を得た事で聴衆に深い感動を与え、平賀は満場の拍手に包まれ報告を終わった。



1934年(昭和 9年)平賀が艦政本部を離れた後に設計した艦艇の転覆事故「友鶴事件」

第四艦隊の水雷艦隊の船首損傷事件は何れも造船設計陣が用兵側の要求に妥協した結果
復原性や強度が不足した事が原因であるとされた。

事件の翌年、海軍は計画の強度改正を審議する「臨時艦艇性能改善調査委員会」を設立。

既に予備役となり海軍を離れた平賀も海軍嘱託、東大教授としてその委員の一人だった。

平賀は秋霜烈日、後任者の設計を否定した。 彼は電気溶接を信用しなかった。

水雷艇「友鶴」 千鳥型水雷艇三番艦 同型艦「千鳥」「真鶴」「初雁」
全長82m 全幅7.4m 12cm単装速射砲3基 25mm連装機銃2基 25mm単装機銃6基 連装魚雷発射管1基 爆雷投射機1基 基準排水量 615トン 最高速力 30kt

ロンドン軍縮条約の影響に拠り、当時の新鋭艦「吹雪型駆逐艦」の武装搭載比率が約14%に対し、千鳥型は24%と言う重武装だったが本事件後、復元性能改善工事が施された。



またこの頃、昭和12年から始まる無条約時代に備え、大艦の設計が進められていた。


一八インチ(46センチ)主砲三連装三基搭載の巨大戦艦、後の大和型戦艦の設計である。

これにも平賀は海軍嘱託として参加、いや主力艦の計画に関する限り、経験といい、実力といい、彼抜きでは作業は進まなかったに違いない。


戦艦「大和」 大和型戦艦一番艦 同型艦「武蔵」
全長263m 全幅38.9m 46cm三連装砲塔3基 15.5cm三連装砲塔2基副砲2基撤去 12.7cm連装高角砲12基 25mm三連装機銃52基 25mm機銃6基 13mm連装機銃2基 零式水偵7機搭載 カタパルト2基 基準排水量 64,000トン 最大速力 27.46kt


艦政本部第四部の大和型戦艦 基本計画主任であった福田 啓二造船中将(当時 技術大佐)は柔軟な頭脳と性格の持主であり、平賀の力量を認め、設計理念も平賀の流れを汲んで巨艦計画は順調に進んだ。

昭和10年10月19日 高等技術会議で後に「大和」「武蔵」となる巨大戦艦の大綱が決まった。

平賀自薦の案は棄却されたが一部を除き平賀案そのもの頑固なまでの古典主義踏襲だった。

昭和12年11月4日 明治節の翌日、呉工廠で戦艦「大和」の起工式が極秘裏に行われた。

東大に戻った平賀は、時代の空気に取りまかれる。

昭和13年 東大総長に選出され、続いて所謂「平賀粛正」が始まる。

以上、艦艇設計者としての平賀の足跡を足早に辿って来たが、内藤 初穂著『軍艦総長 平賀 譲』には背景となるワシントン・ロンドン条約に対応する政府の方針、時局の流れ、海軍首脳の動き、艦政本部、第四部の人脈、平賀を巡る毀誉褒貶、迂路曲折、綿密な調査に基づいた記述が続き、平賀が守り抜いた「船を構成する各性能バランス、過不足無き重量配分の為の努力」に造船屋の本領を見出す。

今日のコンピュター使いに徹した設計・技術・造船屋に是非、読んで貰いたい本である。

私と著者の内藤は、平賀総長下の東大船舶工学科に、昭和15年入学した。

その年の10月8日 天皇陛下の行幸をお迎えし、グランドの式台に海軍中将の軍服で持立する彼の晴れの容姿を見た。

昭和16年 私は海軍委託学生に採用され、「新顔はどんな奴か?」と、海軍学生製図室を珍しく覘かれた総長から、お言葉を戴いた事がある。

昭和17年9月の卒業式には平賀総長の激励の辞を聞いて送り出された。

昭和18年2月18日 平賀総長は春を待たずに急逝した。


・・・以上、故人の回顧録より。  戦争・第三部 「大和出撃」に続く

※自分が入れた写真と艦艇注釈文の艤装・兵装スペックは各艦の改装と時期に拠り異なる。

故人に拠る、旧海軍小艦艇 の復原性能 の解析 昭 和29年5月 造船協会春季講演

論文一覧





「日本の造船技術は素晴らしい、日本で作られた船が好きだ。」

これは自分が船員時代に実感し、船舶代理店時代に欧米の海運会社から来日したドイツやイギリス、ノルウェー、ギリシャ人の海務・工務監督の口から直接聞いた日本の技術に対する世辞抜きで評価する言葉だと思う。

故人の形見として自分は読切れない程、沢山の旧海軍関係や造船関係の書籍を戴いた。

その中に、「戦艦武蔵建造記録」と付属の軍艦武蔵艤装図と第一号艦最大中央横断図があり、分厚く重い建造記録と大きな図面を広げて見た。

昭和10年から2年間も掛けて引かれた設計。

全長263m 全幅38.9m 吃水10.4m 排水量65,000トン 150,000馬力

今から75年も前に設計された艦であるが、当時の最新技術が詰込まれ、様々な条件や被害を想定し配置など熟慮工夫された戦艦だと言う事は、船素人の自分にも容易に理解出来る。

「大和」「武蔵」は帝國海軍が誇る世界史上最大の戦艦であり、連合艦隊の旗艦であった。


連合艦隊旗艦とは艦隊司令長官が座乗して指揮官旗を掲げ作戦指揮を執る艦であり、艦隊全体の統制司令を行なう能力の高い通信設備と作戦会議室や参謀将官の居住設備が備わる。

帝國海軍の連合艦隊司令部が置されていた旗艦は日露戦争の戦艦「三笠」以降、「陸奥」「長門」「大和」「武蔵」など歴代、艦隊主力である重武装の大型戦艦が務めた。

だが太平洋戦争で連合艦隊司令部が海戦で艦隊の先頭に立つ事はなく、後方で指揮を執り帝國海軍最強の大和、長門型戦艦も後方に温存され末期まで敵と砲火を交える事は無かった。

巨大な風呂や冷房など近代的設備が整い居住性が高い上、食事も優遇され軍楽隊もあった為に、他艦の乗組員や陸軍将兵からは「大和ホテル」「武蔵御殿」と揶揄された。

トラック島の描地に停泊中の「大和」と「武蔵」

戦闘艦でありながら豪華海上ホテルの風格。 しかも連合艦隊揮下4万の護衛付である。


レイテ沖海戦に至る捷号作戦では第二艦艦隊 旗艦として重巡洋艦「愛宕」が嘗て連合艦隊旗艦を務めた戦艦「長門」「大和」「武蔵」を従えた栗田中将の第一遊撃部隊がブルネイを出撃、高速且つ小回りが利く「愛宕」であったがパラワン水道で米潜水艦の雷撃を受けて沈没、栗田中将が移乗して第二艦隊司令部を戦艦「大和」に移した。

栗田中将の判断については栗田艦隊の反転と共に旗艦・司令官が先頭に立つ義務と旗艦を先陣艦とする、しないの根強い意見の対立もある。


重巡洋艦「愛宕」 高雄型 二番艦 同型艦「高雄」「摩耶」「鳥海」 
20.3cm連装砲5基 12.7cm単装高角砲4基 13mm連装機銃4基 4連装魚雷発射管4基 水上偵察機4機搭載 最大速力 35.5kt 基準排水量11,350トン

高雄型は基本計画主任の平賀 譲が妙高型の設計を最後に海外出張した為、後を引き継いだ藤本喜久雄大佐(当時)が担当した1万トン級 重巡洋艦。

妙高型の攻撃力を維持、居住区を画拡充し、戦艦に次ぐ準主力艦として、高い艦隊指揮能力を付加すべく塔型艦橋を大型化させた。
また、防御区画を短縮する為に煙路上に載るという配置上の理由でも大型化している。

艦橋楼には下部艦橋、中部艦橋の両脇に機銃台、上部艦橋の両脇には1.5m 測距儀、羅針艦橋、防空指揮所、測的所の天蓋に主砲用一四式射撃方位盤、その後ろに主砲用6m測距儀が載る。

また魚雷発射管も中甲板から上甲板に移設され被弾時の損害を押え作業性は向上している。



最新技術が詰込まれ、ミサイル重巡洋艦に生れ変わった現代の「愛宕」

イージス ミサイル護衛艦 DDG-177「あたご」 あたご型一番艦 同型艦「あしがら」
情報衛星にSPY-1D対空レーダーやFCS射撃管制レーダー等の電子の盾とサジタリウスの矢で武装され コンピュータで守れたバベルの塔 CICで指揮を執る。

1932年 就役の重巡洋艦「高雄」と 2007年 就役の最新イージス護衛艦 「あたご」両艦の艦橋楼を比べると「高雄」は装備こそアナログだが、今から81年も前の就役艦とは思えないくらい現代的なスタイルは年代を感じさせない。

重巡「高雄」の主機関は重油ボイラーと蒸気タービン4基 4軸スクリューで、全長203mの鋼鉄の重い船体を現代でも充分に通用する、最大速力 35.5kt まで引っ張り上げた。

しかし、重量が重くなれば機動性や航続距離など、船としての航行運動能力を下げる。

大型化し過ぎてトップヘビーになった「高雄」「愛宕」は、第四艦隊事件を機に艦上の縮小工事を行い重心を下げたが、速力や安定性は、バランスの良い妙高型に及ばない。

高雄型を設計した藤本大佐は艦艇の事故、駆逐艦「友鶴」の転覆事件で謹慎処分となった。



戦前、ワシントンとロンドン海軍軍縮条約に拠り艦艇の保有数が制限される。

帝國海軍は数で勝る列強海軍を艦隊決戦で打ち砕く為に、アウトレンジ戦法を模索する。

大艦巨砲主義、即ち艦隊決戦を想定し、主砲の巨大化に拠る貫徹力・破壊力の向上と有効射程の長距離化を図り、防護装甲を強化し多重隔壁を持つ大和型戦艦の建造を進める。

空母機動部隊に拠る海戦に備え、航空機の増槽や航続距離の長い艦載機や陸攻を開発した。

世界で唯一、日本海軍だけが窒素を排出せず雷跡が見えない隠密性に優れた長射程の酸素魚雷を実用化に成功させた。 


開戦初期、日本海軍は各方面で勝利するがアウトレンジ戦法は次第に勝てなくなる。

海戦での日本海軍の敗因は連合国との国力や物量差だけではない。

対地攻撃には戦艦「大和」の46cm主砲の射程42kmは有効だが、当時のレーダー射撃の精度や着弾観測など命中率を考えれば双方が動く艦隊戦に於いては有効射程は20~30km程度。

対艦攻撃はゴルフの打ちっ放しではなく、飛距離だけが伸びても正確に敵艦艇に命中弾を与えなければアウトレンジからの攻撃の意味がない。

夜間戦闘に於いても照明弾を上げる肉眼射撃と悪天候下でも正確なレーダー射撃の命中率の差は歴然で、「大和」にも電探は装備されたが米海軍のレーダーの性能には及ばなかった。

また航空海戦でアウトレンジを採った事に拠り搭乗員が攻撃戦闘までに長時間飛行を強いられ体力を消耗し、方向を間違え行方不明になる機や撃墜される機が続出した。

命中すれば軍艦でも一発轟沈可能な九三式酸素魚雷の長い航走距離も港湾施設や停泊中の艦艇の雷撃には有効だが、艦隊戦や航行中の敵に対しては距離的優位性は高くない。

大戦中は日露戦争当時の様に艦砲の撃合いや体当りして撃沈する事は殆ど無くなった。

旧海軍艦艇に比べ合成繊維ケブラー材や高張力鋼材を使用している現代のイージス護衛艦の装甲や外板はとても薄い。

装甲や外板船底を厚くしても対艦ミサイルや魚雷爆圧を跳ね返す事は出来ないからだ。

現代は弾を受ける防御ではなく、弾を妨害または迎撃して避ける防御策を採っている。

また万が一被弾した場合も多くの隔壁に拠ってダメージコントロールしている。

装甲が薄くなり船体が軽くなり機動性が向上した半面、イージスの分厚い楯内、つまり衝突事故や近接攻撃、自爆テロ、海賊、偽装工作船に拠る至近距離からのロケット弾や爆弾攻撃に対し脆弱である為に現在その弱点の解決と対策が課題になっている。



大戦末期、連合艦隊司令部は軽巡洋艦「大淀」を最後に慶應義塾大学構内の地下防空壕に移り、陸上で指揮を執るようになり連合艦隊旗艦は消滅した。

以降、旗艦が先頭にあって艦隊を率いるより、通信機に拠って全体を指揮するものとされて個艦の戦闘能力(速力・攻撃力・防御力)より、指揮通信能力が重要視される様になる。



現在、米海軍第7艦隊の旗艦は横須賀港を母港とする LCC-19 「USS Blue Ridge」 

揚陸指揮艦「ブルー・リッジ」のフラットな甲板上には各種通信アンテナが設置され、優れた指揮通信能力と広い居住設備を持ち積載輸送能力は高いが戦闘能力は殆ど無い。

1970年就役、ベトナム戦争に参加、サイゴン陥落時は脱出作戦で米海軍と海兵隊の指揮を執り、湾岸戦争では「砂漠の盾作戦」「砂漠の嵐作戦」にも旗艦として参加した。

東日本大震災では寄港先シンガポールから救援物資を積載し日本への輸送任務に当る。

米海軍の遠征艦隊は高い指揮能力の旗艦を持つが、多くの国は陸上で指揮を執っている。


世界初のドック型揚陸指揮艦

日本は高い上陸戦遂行能力を持つ「神州丸」を1934年に建造運用している。

全長144m 全幅22m 吃水4.2m 基準排水量7,100トン 航続距離7,000浬 
最高速力20.4kt 機関ボイラー2基 蒸気タービン1基 最大出力7,500馬力
対空指揮施設 兵装 7.5cm単高射砲11門 20mm機関砲6門 7.5cm野砲1門 
対潜水中聴音機 爆雷 12cm対潜用迫撃砲1門 
最大収容兵員約2,000名 冷房・医務設備 船尾泛水装置
搭載上陸用舟艇 八九式中戦車搭載可大発29隻・小発26隻・装甲砲艇4隻・高速偵察艇4隻
搭載航空機 九一式戦闘機・九二式偵察爆撃機 最大12機 搭載機射出カタパルト2基

1937年 帝國陸軍「神州丸」は日華事変勃発直後、天津河口の太沽上陸作戦を初陣に実戦運用を開始、第二次上海事変、マレー作戦と参加、荒天下の揚陸に活躍した。

1942年には航空機運用能力を向上した全通飛行甲板の強襲揚陸艦「あきつ丸」を建造する。

全長152.1m 全幅22m 基準排水量9,190t 九七式戦闘機13機 大発27隻搭載
対空指揮施設 兵装 7.5cm単高射砲8門 25mm機関砲12門 7.5cm野砲10門 
対潜水中聴音機 爆雷60個 12cm対潜用迫撃砲1門 


「あきつ丸」は「神州丸」と共に蘭印作戦にも動員されジャワ島上陸制圧に貢献、爆雷60個を搭載して対馬海峡で対潜哨戒輸送任務も就いた。

この2隻の先進的な揚陸艦は後の おおすみ型LST輸送艦、ひゅうが型DDH護衛艦や強襲揚陸艦の運用に影響を与えた。


ヘリ搭載護衛艦 「いせ」 DDH-182 ISE ひゅうが型2番艦 基準排水量13,950トン

全長 197m 全幅 33m ガスタービン 4基2軸推進 100,000ps 最大速力30kt
艦載機 SH-60K哨戒ヘリ 3機 MCH-101掃海輸送ヘリ 1機 最大積載機 11機
CIWS 20mm対空機関砲 2基 12.7mm重機関銃 7基 HOS-303 三連装短魚雷発射管 2基 97式短魚雷 対艦潜ミサイルMk.41 VLS 16セル 

艦名の「いせ」は、旧国名「伊勢」に由来し、帝國海軍 航空戦艦「伊勢」に次いで二代目。

本艦は従来の軽空母・強襲揚陸艦に匹敵する艦体に広大な全通甲板を配し、艦内容積により多数のヘリを同時運用できる強力な航空運用能力は、優れたゾーン対潜戦能力を実現する。

CICの後部に隣接設置した FIC旗艦運用司令部作戦室は艦隊個艦の戦闘統制用CDSと連接され、衛星通信機能には米海軍の基幹指揮回線を併設し高度な日米共同作戦が可能である。

優れた指揮旗艦能力は大規模災害時に自治体を迎える対策本部や海外派遣統合司令部の役割を果たし、艦内に集中治療室や手術室を備えた医療設備を有し、大型輸送ヘリや救難ヘリに対応する海上基地として機能し、本来用途である揚陸作戦以外にも災害派遣、国際平和活動や邦人救出等の多彩な任務を柔軟に遂行する。 乗員 360名



揚陸艦 「おおすみ」 LST-4001 OSUMI  おおすみ型1番艦 基準排水量 8,900トン

全長 178m 全幅 25.8m 2軸推進ディーゼル2基 26,400ps 最大速力 22kt
搭載艇 LCAC-1 エアクッション型揚陸艇 2隻 兵装CIWS 20mm対空機関砲 2基 

艦名の「おおすみ」は大隅半島に由来、日本海軍の慣例で特務艦に半島などを命名する。

本艦の全通甲板は複数のヘリ発着運用が容易であり、後部艦内に設置されたウェルドックに揚陸、輸送用ホバークラフト2隻を搭載、岸壁使用時には大型戦車や作業車は艦体両舷サイドランプから車両甲板に直接搬入揚陸可能な優れた輸送能力は実力上、ドック型強襲揚陸艦である。

陸上部隊 1個普通科中隊戦闘群(約330名と装備品)、民間人の輸送時は約1000名が収容可能であり艦内医療設備は集中治療室や手術室を備えている。 乗員137名(他、揚陸要員330名)


艦載 LCAC-1 エアクッション型揚陸艇
積載能力70トン 90式戦車1両積載可能 搭載最大限界 240名の揚陸を行う。

「おおすみ」は東日本大震災や他に1999年のトルコ北西部地震では被災者救援に補給艦「ときわ」掃海母艦「ぶんご」を伴いスタンブールへ派遣出動、2002年 東ティモールへPKO部隊を輸送。

2004年にはイラクへ陸上自衛隊の軽装甲機動車や給水車など車両70台を護衛艦「むらさめ」と共に輸送している。

同型艦「くにさき」も2004年のスマトラ沖地震被災地へ、護衛艦「くらま」、補給艦「ときわ」と共に派遣され人道援助活動と援助物資輸送任務に従事した。






現代のイージス艦が、70年前の太平洋戦争中にタイムスリップすれば、↓こうなるのか。


海上自衛隊イージス艦 VS 米海軍 潜水艦「ガードフィシュ」




日本の「未来」

警察予備隊から自衛隊、国防軍となり、強力な兵器を装備し、何時の時代にあっても日本国自衛隊は専守防衛に徹し、日本国民の生命と尊厳を守る強く優秀な部隊である事を願う。


「太陽の帝国」 大和出撃に続く。



日本の近代史・戦史を書いたブログ

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Posted at 2013/06/28 18:01:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | 太陽の帝国 | 日記
2013年06月25日 イイね!

Super Manager  部長とオカマと裁判と選挙

Super Manager  部長とオカマと裁判と選挙少年飛行兵すずめのピィがPCを飛行甲板にしてウンチだらけでキーの反応が猛烈に鈍くなりジャリジャリしながらブログを書いている。

こんばんは Mikkolaです。

今日、オフィスの移転先予定の第一候補物件がタッチの差で既に終ってる政党の選挙事務所に取られて参院選挙が終わる8月まで引越が出来なくなったので困まった。

候補者は どうせ落選するだろうに・・・・・


先日、書いた、弁護士とコスプレイのブーメランなのか。


気を取り直し、ボケたA4のO2センサーの交換に出掛けようとした時に電話が鳴った。


うちの佐藤浩市(仮名)部長からであった。 

人物説明(彼は超ド級のナルシストで、クルマの運転は超ドヘタだ。)

部長「もしもし、佐藤です。 今、電話、大丈夫ですか?」

自分「どうぞ。」

部長「事故しました。プジョーがタクシーにオカマほりました。どしたら良いですか?」

自分「無言」

この間も部長は一方的に送信を続け、ケガ人がいない事は確認できた。

部長「聞こえてますか? 坂道で、プジョーが動いて、タクシーにオカマほりました。」

自分「プジョーが動いたって? Pに入れたか? サイドが甘かったのか?」

部長「いいえ、信号待ちで音楽を選曲してたら、ブレーキが離れて勝手に動いたんです。」

自分「無言」

この間も、部長は一方的に送信を続け、声から自分は情況を検想した。

ブレーキが離れたんじゃなく、足がブレーキから離れた。

いや、足をブレーキから離したが正しい。

部長「どしたら良いですか?」

自分「無言」

どしたら良いですか?って・・・んな事、俺に聞くな、俺の方が聞きたい。

部長「タクシーの運転手さんは[全然平気、大丈夫、ケガはないけど一応病院に行くわ]
    って言ってくれて、とても良い人でー車は両方ともあんまり凹んでないです。
    僕は、このままでも平気、全然、気にならないです。」

自分「無言」

この間も、部長は一方的に送信を続け、自分は相手と307の被害を査想した。

相手がタクシーだと聞いて「不味いな」と思ったがケガがなくて幸い、相手の被害を確認。

警察を呼んで、保険会社に連絡させた。


部長は、全然、気にならんかも知れんが、俺は凹むわ・・・Orz。

プジョーを武装解除して部長に渡した時から、何時かまたヤルな

と思っていたが早過ぎるだろ。


この事件で自分は彼を普通の部長から、スーパー部長に昇進させる事にした。



明日も佐藤スーパー部長絡みの裁判の件で弁護士事務所に打合わせに行かにゃぁならん。

部長よ、クルマ音痴にも程がある、少しは反省して欲しいぞ。


車も自分も凹んだハードな一日だった。 

が、怖くて307をガレージに、まだ見に行っていない。



ああ、また偏頭痛と熱が・・・・・明日は給料日だが、会社を猛烈に休みたくなってきた。





昨日、哨戒中のパッソ チャーリー機が偶然、事故現場を通る。

事故った青い307 部長機を発見。 

部長は笑顔で手を振り、チャーリーも振り返し、そのまま基地へ帰投したと。

今朝になって、チャーリー二等兵から報告があった。  



貴様ら~!。。。



本日は、パッソの車検、消耗戦は辛い。



7月10日 追記

スーパー部長が「とても良い人です。」と言っていた相手は、

「首が痛い」と2週間通院している。

タクシーはバンパー新品交換の見積もり、休業補償を言って来た。

10月10日 追記

スーパー部長が「とても良い人です。」と言っていた相手は、

あれから3ヶ月経った今でも元気に通院している。

Posted at 2013/06/25 00:25:58 | コメント(6) | トラックバック(0) | 稼業 | クルマ
2013年06月22日 イイね!

The Pacific Storm  太平洋の嵐 11人の侍

The Pacific Storm  太平洋の嵐 11人の侍6月21日 午前07時50分頃、第2管区海上保安本部に拠ると小型ヨットで太平洋横断に挑戦している辛坊治郎さんと目の不自由な岩本光弘さんの関係事務所から「ヨット船内に海水が浸入した。2人の命に別条は無いが救助して欲しい」との通報があった。

11時44分 海上保安庁の航空機 LAJ500が救難ラフトを最初に発見。

辛坊さんら2人はヨットを放棄し備え付けのライフラフトに移乗しており生存が確認された。

午後13時過、海保から出動要請を受けて発進した海自P3C哨戒機もオレンジ色の同ライフラフトを確認した。

辛坊さんらが乗ったラフトの位置は宮城県金華山沖 1,200km の太平洋上にあって、遭難当時の海況は風速16~18m 波高3~4m。

最初に救助に向かった先遣機が悪天候と燃料切れで救助出来ず引き返した。

17時53分 2機目である岩国基地 第71飛行隊の救難飛行艇 US-2が荒天の中を着水。

18時14分 US-2より救命艇を出して二人を収容、この際に4発のエンジンの内、1発が波を被り停止したがF/Wでエンジンウオッシュ後、再始動し18時23分に離水した。

22時31分 海上自衛隊厚木基地に無事到着した。


到着後、辛坊氏は岩本氏とともに涙を浮かべながら頭を下げ、死も覚悟した漂流を振り返り、「本当に沢山の方にご迷惑を、お掛け致しました。」と謝罪した。

食料は1週間分あったが「体温がどんどん下がっていって明日の夜までもつかな」と死を覚悟。

ライフラフトの中で救助を待っている最中は「何回も上空で(航空機)が旋回して下さっていて。
「とにかく生きよう。大丈夫だから」と、2人で話した。

「たった2人の命を救う為に自衛隊、海上保安庁の何百人の皆さんが命を投げ出す覚悟で、4mの高い波を越えて助けに来て下さった。」

「岩国第71航空隊の皆さんに『訓練でも経験した事が無い』と言う波の中、助けて頂いたおかげで無事に生きて家族の元に帰るという約束を果たす事が出来ました。本当に有り難う御座いました。」


最後に「この国の国民で良かった」と、海上保安庁と海上自衛隊に深く頭を下げ感謝した。




兎に角、二人とも嵐の太平洋から無事に生きて帰って来れて良かった。



海難では水上警察に海保や海自の捜索救助費用は本人や家族に請求される事はなく国民の税金でカバーされる。

自分は政党、政治家や犯罪を非難しボロカスにも書くが、個人への批難は本意ではない。

しかしながらTVで自らを「船乗り、海の男」と称し、海山でのレジャー事故を「自己責任」と発言していた氏の今回の遭難はどうだったのだろうか。

出港前から安全第一を唱えていた辛坊氏はそれなりの準備はしていたと思いたい。

「良い天気だったのに」と遭難された方はよく口にされる。

海や山の天候変化は非常に早い。

巨大貨物船や時化に強い遠洋漁船でも台風や低気圧、前線に伴う突風を予想し荒天大時化を回避する為、早目にコース変更は行う。

海洋気象予測力と正しい判断力は何時の時代になっても航海者にとって重要な条件だ。



レーダーレンジ内に船影や機影が映らなければ安全なのか。 

ヨットの低いスキャナーで良く見えて精々30マイル位、海面下のクジラは勿論、半沈コンテナや流木等の漂流物は映らない。

オートパイロットやレーダープロッティングに拠るアラームが装備されていても目が見えない方、一人に当直を執らせる事は正しい判断だと自分は思わない。

航海当直(ワッチ)とは見張りであり海を眺めているだけではない、当直時間内は針路、船体、機関、海象、船位の安全確認、及び針路修正を行う責任業務である。

また目が見えない人達による陸上での競技ではなく、辛坊氏の航海経験は別にして随伴艇もない独航で危険な外洋に小型艇で乗り出す。

太平洋横断中に転覆等、もしもの時に岩本さんを一人でサポートして生還出来るのか。

辛坊氏が衝突でケガを負ったり、海中転落する場合も有り得る。

随伴艇は必要だし緊急時や当直の事を考えれば、最低限もう一人はクルーが必要だ。

木造やFRP船はWL下の衝突に弱く、大きく割れ裂ければ浸水も早く急激に浮力を失う。

装備されたビルジポンプの操作方法を浸水後に事務所に訊ねたとはどう言う事だろうか。

外洋に出る心構えと体制、気象予測を含め危険予知や訓練が万全であったとは言い難い。


海に投げ出された人間は無力である。


今回の遭難はUS-2が届く海域内で本当に運が良かった。


思った事を書いたが、彼らの上げ足を取ったり責めているのではない。

自分もプロの船員になる前の学生時代、ヨット部に所属しスキッパーとしてヨットレースもやった。

なので彼らヨットマンの気持ちも分るつもりだ。



彼らの冒険は出港前から経験豊かな他の人達の単独横断より気になっていた。

「冒険には危険が付き物。」だと言う人がいる。

しかし遭難すれば仲間を死なせ、多くの人達に迷惑を掛ける事になる。

カッコ良く聞こえるが、無責任でカッコ悪い言葉である。 

無謀と冒険は違う。

冒険にも遭難、事故等の緊急時を想定した綿密な計画と体制が必要だ。


以前より「自己責任」「海山の遭難」について「海山、自然を舐めるな」と、みんカラでも多くの皆さんが書いておられる。

辛坊氏は「救助に沢山の人手や税金を使うことになり、反省しなければいけない事はきりがないぐらいあります。」と涙を流しながら、あらためて謝罪。
さらに「岩本さんを無事に家族の元に帰せてよかった」と声を震わせた。

取材陣から再チャレンジについて質問され「もう一回やりたいとは口が裂けても言えない。」と厳しい表情だった。

また、あなたはコメンテーターとして意見発信する立場だがどうか?と問われると「正直、今後、どの面下げてという思い、自らを省みる時間がいる。今後の仕事は白紙です。」と話し、コメンテーターをしばらく休業することも示唆した。

辛坊さん、ものすごく今は反省されている様だ。

だが、このタイプの人は立ち直りも早く、喉元過ぎればスグに調子が戻る。

自分は知合いでもない辛坊氏の擁護も避難もしないが、

相変わらず検証するでもなく、ただ折れた釘を叩くだけのマスコミの心無い質問は酷い。


しばらくは叩かれそうだが、辛坊さん辛抱だな。




今回、二人を救助した、帝國海軍 長距離雷撃・爆撃 哨戒飛行艇 川西 二式大艇。

違う。




こっちだ。

海上自衛隊 救難飛行艇 US-2 新明和  二式大艇の血統を受け継ぐ。

日本の飛行艇技術、性能は世界唯一無二。



今回の航海で後悔した辛坊氏も、一つ良い事をした。

荒天時の洋上に於ける救難飛行艇 US-2の優秀な性能と日本国自衛官の技量と勇気、人命救助に対する使命感を世の中に証明してくれた。



太平洋の嵐、11人の侍


訓練や救助でも経験した事が無い荒天、機体試験で行なった事の無い波高での離着水強行。

失敗すれば、二重遭難を招き、遭難者2名と飛行艇乗員11名の命も危険に曝す事態になる。

なればマスコミは騒ぎ強行した自衛隊を批難し、優秀なUS-2も欠陥機扱いする。

荒天、しかも日没前の遠い洋上での救助には様々な危険要因と多くプレッシャーがあった。


最終は現場、艇長の決断であろうが決行した11名の乗員の使命感、これを許可した上官。

自分は、

彼らの身を挺した勇気ある決断に敬服し、日本の自衛官を誇りに思う。



が、成功して当り前、マスコミは自衛隊とUS-2の活躍については何時ものようにスルー。





救難飛行艇 US-2 ”Made in Japan”


中共がアジア、アフリカなど第三世界に中華兵器を供給して軍事属国を目指している現在。

日本は武器輸出三原則は相手により緩和すべき、共同出資や供給により価格低減にもなる。

既に輸出が決まっている国や製品を拡大し、日本と諸国の同盟の関係強化に取組む。




US-2は救難飛行艇だ、武器ではない。  共産、民主、みずほ党、邪魔するな。

衝突したのは海自や米海軍の潜水艦だったかも~って、言い出すなよ。






Posted at 2013/06/22 15:51:54 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日本の未来 | 日記
2013年06月18日 イイね!

Empire of the Sun 4 「太陽の帝国」 ミッドウェ-海戦

Empire of the Sun 4 「太陽の帝国」 ミッドウェ-海戦「太陽の帝国」 遣日独潜水艦・海軍技術士官の続き。

日米開戦の翌年 1942年(昭和17年) 
前年12月8日に決行され日米の初戦であった日本海軍の真珠湾攻撃で米国海軍太平洋艦隊は艦隊主力を失って以来、小規模な空母機動部隊を編成し、中部太平洋の各方面に出撃させて一撃離脱戦法による拠点への奇襲攻撃を繰り返し、日本海軍はこの防御に悩まされていた。

「ミッドウェ-作戦」
連合艦隊は守勢に回る事の困難性を認識、先任参謀 黒島亀人を中心にハワイ攻略を見据えた攻勢作戦計画を立案、作戦の前段階として米海軍の重要拠点である、ミッドウェー島を攻略する事に拠り、米空母機動部隊を誘出し捕捉撃滅する事が主眼に置かれた。


しかし軍令部は日本の国力ではハワイ攻略と占領後の拠点維持など不可能と判断し、本作戦に激しく反対する。

また連戦激務により艦船、兵員ともに疲労し広範囲の転出入等の人事異動で機動部隊全体の技量低下を補う訓練時間をとる為にも南雲忠一中将、近藤信竹中将、山口多聞少将や源田実 航空参謀らは作戦延期を求めたが、山本五十六司令長官 以下連合艦隊司令部は却下した。



ドーリットル空襲


4月18日 米海軍第16任務部隊 空母「エンタープライズ」「ホーネット」が犬吠埼東方600浬まで接近、米陸軍ドーリットル中佐が率いる B-25ミッチェル双発爆撃機16機を発艦させて帝都東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸の6都市を空襲、日本本土を初めて爆撃する。

米海軍第16任務部隊 空母「ホーネット」

この空襲に拠って、米空母機動部隊の奇襲的な本土爆撃と北方アリューシャン方面から航続距離の長い新型長距離戦略爆撃機による帝都への直接空襲が行われる可能性も指摘され作戦本来のミッドウェ-島攻略にアリューシャン列島西部要地攻略を追加することになり、連合艦隊司令部は様々な問題を抱えながら本作戦を実行に移す事となる。


連合艦隊参加兵力(アリューシャン方面・北方部隊は除く)

南雲忠一中将揮下 第一航空艦隊 第一機動部隊 

旗艦「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」空母4隻 艦載機261機

零式艦上戦闘機 84機 九九式艦上爆撃機 84機 九七式艦上攻撃機 93機

戦艦「霧島」「榛名」 重巡「利根」「筑摩」 軽巡「長良」 駆逐艦12隻 給油艦8隻



近藤信竹中将揮下 第二艦隊 攻略部隊 

戦艦「金剛」「比叡」 空母「瑞鳳」 水上機母艦「千歳」「神川丸」 

重巡「愛宕」「鳥海」「妙高」「羽黒」「三隈」「最上」「熊野」「鈴谷」 

軽巡「由良」「神通」 駆逐艦21隻 輸送艦12隻

第六艦隊 潜水戦隊 先遣部隊 潜水艦「伊168」13隻


山本五十六司令長官 直率 連合艦隊 主力部隊 

戦艦「大和」「長門」「陸奥」 空母「鳳翔」 水上機母艦「日進」 潜水母艦「千代田」 

軽巡「川内」 駆逐艦22隻


高須四郎中将揮下 第一艦隊 主力部隊警備 

戦艦「伊勢」「日向」「扶桑」「山城」 軽巡「北上」「大井」 駆逐艦12隻



米太平洋艦隊参加兵力

フレッチャー少将揮下米海軍機動部隊 第17任務部隊 空母「ヨークタウン」 

スプールアンス少将揮下 第17任務部隊 空母「エンタープライズ」「ホーネット」

艦載機 F4F戦闘機 79機 SBD爆撃機 113機 TBD雷撃機 43機

重巡「ミネアポリス」「ニューオーリンズ」「ノーザンプトン」「ペンサコラ」「ヴィンセンス」 

軽巡「アトランタ」 駆逐艦9隻 潜水艦19隻



ミッドウェー島陸上基地航空兵力 

F4F戦闘機7機 F2A戦闘機20機 SBD爆撃機16機 SB2U爆撃機11機 

TBF雷撃機6機 B-26爆撃機4機 B-17爆撃機17機 

PBYカタリナ飛行艇31機

上記のように米海軍は太平洋艦隊の残存艦艇の殆どをミッドウェ-海域に投入している。



空母機動部隊出撃

5月27日 海軍記念日、南雲中将率いる第1機動部隊が瀬戸内海 広島湾柱島を出撃する。

第一航空艦隊 第一機動部隊 旗艦 空母「赤城」

5月29日 山本司令長官 直率 旗艦「大和」 連合艦隊 主力部隊と護衛の第一艦隊、攻略部隊の第二艦隊も出撃、第1機動部隊の300マイル後方に続く。 


一方、米海軍は日本海軍機動部隊が必ずミッドウェ-を攻撃する事を暗号解読により察知、珊瑚海海戦で傷いた空母「ヨークタウン」を真珠湾で突貫修理して「エンタープライズ」「ホーネット」を追わせ ミッドウェー守備隊と索敵哨戒を行い迎撃態勢を整えていた。

米海軍第16任務部隊 空母「エンタープライズ」

6月3日 日本軍攻略部隊輸送船団と護衛の第二水雷戦隊がミッドウェー基地から哨戒に出ていたPBYカタリナ飛行艇に発見され、B-17爆撃機9機の攻撃で輸送船「あるぜんちな丸」と「霧島丸」が至近弾を受けるも無傷に終わるが、夜間にオアフ島より増援されたカタリナ飛行艇4機が、輸送船「清澄丸」を機銃掃射「あけぼの丸」に魚雷1本が命中して戦死者が出たが両船とも航行を続けた。


日本海軍は二式大艇と潜水艦に拠る事前の情報収集が不十分に終わり、依然として米空母の所在は不明であったが艦隊一の高い通信マストと優秀な傍受能力を持つ後方の主力部隊 旗艦「大和」の敵信傍受班はミッドウェー付近での敵空母の呼出符号を傍受した。

しかし主力部隊は、この情報を無線封止を重視して南雲機動部隊には伝えなかった。 



ミッドウェー島基地攻防


6月5日 04:30 南雲機動部隊の4空母より、友永丈市 大尉が指揮するミッドウェー島基地攻撃隊(零戦36機、九九艦爆36機、九七艦攻36機、計108機)に続き九七艦攻偵察機2機を発進、戦艦「榛名」重巡「利根」「筑摩」から対潜哨戒機に遅れて水上偵察機6機が索敵に発進する。

この時、各空母格納庫で待機中の第一航空戦隊の艦攻は航空魚雷を装着、第二航空戦隊は陸上攻撃・艦船攻撃の何れにも対応出来る様に未爆装状態であった。

05:30 PBYカタリナ飛行艇が南雲機動部隊を発見し、ミッドウェー島基地から迎撃の戦闘機26機 雷撃機6機 B-26爆撃機4機 急降下爆撃機28機が発進した。


06:16 ミッドウェー基地上空の米軍戦闘機隊が友永攻撃隊を発見、米戦闘機が先制攻撃、零戦隊と約15分間の空中戦となり迎撃したF2A戦闘機13機、F4F戦闘機2機が撃墜され帰還した7機が使用不能と出撃可能な米軍戦闘機は2機となった。

友永攻撃隊は航空機のない滑走路を爆撃して基地施設に打撃を与えるも滑走路の損傷は小さく、艦攻5機、艦爆1機、零戦2機を失った友永大尉は「カワ・カワ・カワ」(第二次攻撃ノ要アリ)と機動部隊に打電して第一次攻撃の成果は不十分であることを伝えた。


その頃、南雲機動部隊はミッドウェー島基地から発進した雷撃機と爆撃機に空襲を受けていたが、基地防御に全戦闘機をミッドウェー上空に残し護衛戦闘機を伴わず勇猛に突入してきた攻撃隊は「赤城」と「利根」の防御対空砲火と直掩の零戦に撃退され、投下された魚雷も全て回避される。


第八戦隊 重巡洋艦「利根」 零式水上偵察機1機 九五式水上偵察機 3機搭載

被害は機銃掃射で旗艦「赤城」の送信アンテナが使用不能となる他、軽微な損害で終った。

南雲中将は攻略部隊の6月7日上陸開始と友永隊の報告を踏まえ、ミッドウェー島基地への第二次攻撃を決定、艦攻に魚雷を装着していた「赤城」「加賀」第一航空戦隊に対し兵装を陸上爆弾に転換させ「飛龍」「蒼龍」第二航空戦隊に対しては爆装せず待機が命じられた。


07:00 ミッドウェー島基地航空隊の報告により南雲機動部隊の位置を特定したフレッチャー少将は「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」の3空母から、148機の攻撃隊を順に発進させる。


07:28 索敵中の利根4号機から「我、敵らしきもの見ゆ」との通報が入り、「敵艦隊の艦種知らせ」と南雲司令部は返電し、魚雷から陸用爆弾への兵装転換作業を一時中断した。

07:55 ミッドウェー基地の海兵隊所属SBDドーントレス爆撃機16機が艦隊上空に到達、「飛龍」と「蒼龍」を狙い急降下爆撃を慣行するが爆弾は命中せず直掩零戦の迎撃で8機が撃墜される。


08:00 米攻撃隊との防戦中にミッドウェー島から攻撃を終えた友永隊が母艦上空に戻ってきたが、着艦出来ず上空の混乱から護衛の駆逐艦に友永隊が誤射される。

08:10 「赤城」「蒼龍」「飛龍」をB-17爆撃機17機編隊が空襲、損害撃墜無し。

続いて空母攻撃を諦めた海兵隊所属SB2Uビンディケーター爆撃機11機が零戦の防御を避けて戦艦「榛名」を急降下で狙うも命中せず、1機が撃墜され2機が不時着した。



米空母発見

08:10 艦種観測を続ける利根4号機から「敵兵力は巡洋艦5 駆逐艦5」の入電、その20分後には「敵はその後方に空母らしきもの一隻を伴う ミッドウェー島より方位8度250浬」と再入電するが、更に正確な情報を求め「蒼龍」から最高速度 520㎞/h の高速偵察機「彗星」の試作機を発進、後方の空母は「ホーネット」だった。

第二航空戦隊 空母「蒼龍」

08:30 第二航空戦隊 山口多聞少将は「現況は一分一秒を争う、準備出来次第、敵空母へ攻撃隊を出すべき」と信号で「直チニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」と意見具申したが、南雲司令部は進言を却下、各空母は上空で待機中のミッドウェーから帰還した攻撃隊の着艦収容を開始する。

08:55 利根4号機から「敵攻撃機10機 貴方に向かう」と通報が入る。

「赤城」は第一次攻撃隊を収容、空母攻撃へ向け艦攻の雷装への転換作業に追われた。



米空母艦載機の雷撃

09:20 戦闘機隊と逸れたホーネット雷撃隊14機が南雲機動部隊を発見、護衛戦闘機が無いまま「赤城」を狙い突入、零戦のより全機が撃墜され内一機が艦橋に接近墜落した。

ホーネット戦闘機隊と爆撃隊は厚い雲に遮られ先の雷撃隊を見失い南雲部隊も視認出来ず、一部はミッドウェー島の基地へ向うも全戦闘機と爆撃機3機が燃料切れで不時着水、残りの爆撃機20機は戦果を上げず「ホーネット」に帰艦した。

09:37 利根4号機から「燃料不足のため帰投する」と連絡が入り、10:00まで接触の維持を命ずるも「我れ、出来ず」との返答を受け、帰還を許可する。

09:50 エンタープライズ雷撃隊14機が来襲「加賀」を目標にするが、通信不良とミスにより彼らにも戦闘機の掩護が無く、雷撃隊は10機を失い命中魚雷はなく、零戦1機が撃墜された。

第一航空戦隊 空母「加賀」

10:00 利根4号機のコンパス自差により米空母の報告位置が100km以上ずれていた為に「蒼龍」から出た高速偵察機は索敵線上に敵空母を発見できず引き返す。

10:10 ヨークタウン雷撃隊12機と戦闘機隊6機が「飛龍」に対して攻撃を開始する。

直掩零戦がTBDデバステーター雷撃機10機とF4Fワイルドキャット戦闘機1機を撃墜して5本投下した魚雷も「飛龍」の加来止男艦長が操鑑で全弾回避、零戦5機が撃墜された。


ここまで日米両軍にトラブルや不運は続き、勝利の女神は微笑む相手を決め兼ねていた。




急降下爆撃・三空母炎上

10:23 「加賀」を狙ってヨークタウン艦爆隊30機が急降下爆撃を開始、この時、零戦の殆どが低空で雷撃機に対応し、見張員も雷撃機に気を取られ急降下爆撃隊に気付かなかった為に対空砲火も間に合わず飛行甲板に4発が命中した。

「加賀」は艦橋近くの命中弾と燃料爆発で艦橋が破壊され、岡田次作艦長以下戦闘指揮官が戦死、総員退艦を決め乗組員は駆逐艦「萩風」「舞風」に移乗するも尚、機を見て救出を試みる。


10:24 「蒼龍」にヨークタウン艦爆隊17機が攻撃開始、艦爆隊ドーントレスは投下装置の不具合で数機が既に爆弾を落下喪失、機銃掃射で突入し投下した爆弾3発が命中して前部エレベーター前で大爆発を起こし「蒼龍」は被弾から20分後、総員退艦が発令される。



10:26 旗艦「赤城」は直衛零戦が補給を終えて再び発艦中、エンタープライズ艦爆隊4機の急降下爆撃が飛行甲板三番リフト前方に命中、出撃準備に追われる第二次攻撃隊機の爆弾魚雷が誘爆し火災発生、発艦寸前の零戦1機が爆風で逆立ち、飛行甲板上にいた淵田中佐も両足骨折の重傷を負い、エンタープライズ艦爆隊はドーントレス14機を喪失した。

「赤城」は機関部へのダメージはなく、航行可能だったが格納庫内の爆弾、魚雷、航空燃料と次々に誘爆を起こし大火災を発生、操舵装置も故障し南雲中将は軽巡「長良」に移乗して将旗を掲げた。


「赤城」「加賀」「蒼龍」の三空母が被弾炎上する中、「飛龍」は雷撃回避に部隊から離れスコールの厚い雲下に在り、唯一 急降下爆撃による被弾を免れていた。



「飛龍」反撃

10:58 「飛龍」座乗 第二航空戦隊 山口多聞少将は「我レ、今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」と米空母に全力攻撃を掛ける意を告げ「飛龍」は反撃を開始、敵空母との間合いを詰める。

第二航空戦隊 空母「飛龍」

山口は「飛龍」乗組員に対し、「飛龍を除く三艦は被害を受け、特に蒼龍は激しく炎上中である。帝國の栄光の為、戦いを続けるのは一に飛龍に掛っている。」と訓示した。

11:00 「飛龍」飛行甲板から小林道雄大尉が指揮する第一波攻撃隊の零戦6機、九九艦爆18機が米空母に向かい次々に発艦開始、九九艦爆のうち12機は250kg通常爆弾、陸用爆装機は6機であった。

「飛龍」は攻撃隊の発艦後、米機動部隊に向い進撃を続け、第二波攻撃の準備に掛かる。

11:10 筑摩5号機から「敵空母ノ位置 味方ノ70度90浬 我 今ヨリ攻撃隊ヲ誘導ス」と入電があり飛龍第一波攻撃隊の電波誘導を開始する。

この頃、降りる母艦を亡くした「赤城」「加賀」「蒼龍」の零戦隊20機が「飛龍」に着艦した。


第17任務部隊 空母「ヨークタウン」

12:00 攻撃隊の着艦収容が終了した「ヨークタウン」のレーダーが南西46浬に日本軍機を探知 、フレッチャー少将は護衛の重巡「アストリア」「ポートランド」駆逐艦4隻に輪形陣を組む様に命じてF4Fワイルドキャット戦闘機12機を発進させた。


11:20 帰還するエンタープライズ艦爆隊を日本艦隊へ攻撃に向うと勘違いした零戦隊から2機が迎撃に向かい、1機が弾薬を使い果たして帰還、1機が被弾し不時着救助されために攻撃隊護衛の戦闘機は4機に減る。


筑摩5号機からの電波誘導を頼りに進む飛龍第一波攻撃隊が「ヨークタウン」を発見する。

攻撃隊は直掩のワイルドキャット戦闘機隊の迎撃で零戦3機、九九艦爆10機が撃墜されながらも、九九艦爆8機が迎撃網を潜り抜けて急降下爆撃を慣行、急降下中に更に3機が撃墜されたが5機が爆弾投下に成功して3発が命中、ボイラー室に火災発生「ヨークタウン」は動力を失い航行不能となり、フレッチャー少将は重巡「アストリア」に移乗した。


この攻撃で飛龍第一波攻撃隊は小林隊長機を含む零戦3機、艦爆13機を失った。

13:30 ミッドウェー島攻撃の際に被弾し燃料補給と雷装した友永大尉が指揮する第二波攻撃隊の九七艦攻10機と零戦6機が「飛龍」から発艦、入替わり第一波攻撃隊が着艦する。

13:45 着艦した高速偵察機の搭乗員が三群の米機動部隊との接触を報告。 

山口少将は筑摩5号機が通報した空母1隻の他「エンタープライズ」「ホーネット」が存在することをこの時に知る。

14:30 筑摩5号機が撃墜された為に、第二波攻撃隊は火災もなく航行する米空母を自力で発見、友永隊は左右から雷撃を開始、これを直掩戦闘機隊16機が迎撃して零戦2機、艦攻4機が撃墜、続いて艦攻1機が対空砲火で撃墜されたが両舷からの魚雷挟撃で4本が左舷に命中しボイラー室と発電機を破壊して航行不能となり左舷に傾斜、乗組員全員が脱出した。


戦果をあげた飛龍第二波攻撃隊は、零戦3機、九七艦攻5機を失う。

黄色い尾翼の九七艦攻、友永隊長機は対空砲火で被弾炎上し艦橋付近に突入自爆した。


友永隊が攻撃した空母は火災を鎮火し20ktまで速力を回復した「ヨークタウン」だった。

山口少将は小林隊と友永隊の攻撃で2隻の空母を大破させたと判断「ヨークタウン」に2度攻撃したことに気付かなかった。


6月7日 「ヨークタウン」は曳船に引かれ修理の為に真珠湾に向かうが、ミッドウェー島を砲撃後も同島周辺海域に留まっていた伊-168潜が接近して九五式魚雷4本を発射、2本が「ヨークタウン」左舷に1本が護衛の駆逐艦「ハンマン」に命中し、両艦は沈没した。

第三潜水戦隊 「伊-168」潜水艦

14:45 偵察機から空母「飛龍」発見電文を受信した「エンタープライズ」は爆撃隊24機を戦闘機の護衛なしで発進させる。

15:40 飛龍第二波攻撃隊が着艦したが「飛龍」の戦力は戦闘機6機、艦爆6機、艦攻4機に減少、「赤城」「加賀」「蒼龍」から着艦した零戦が交替で「飛龍」上空を守っていた。

17:20 エンタープライズ艦爆隊が「飛龍」上空到達、飛行甲板の日の丸を目標に突入開始。

直衛零戦6機が迎撃に向い「飛龍」も操艦によって6機の爆撃は失敗、続いて3機が太陽を背にして攻撃、護衛の「利根」「筑摩」が対空砲で応戦したが阻止できず爆弾4発が命中。

飛行甲板もしくはエレベーターの破片が艦橋の前に突き刺さり「飛龍」も炎上した。 

19:13 空母「蒼龍」は火災の勢いが衰え防火隊を編成して再度乗艦の準備を始めた。

直後に再び爆発を起こして沈没、柳本柳作 艦長以下准士官は艦内に残った。

19:25 空母「加賀」は大爆発を2回起こして艦首と艦尾が水平になりながら沈んだ。

19:25 空母「赤城」は青木泰二郎艦長が消火作業を続行させるが再度誘爆により断念。

総員退艦を命令した後に処分命令が下る。

6月5日 05:00 第四駆逐隊の「萩風」「舞風」「野分」「嵐」が瀕死の「赤城」を雷撃処分した。



「飛龍」沈没

6月5日 23:50 最後まで戦い、敵米空母に一矢報いた空母「飛龍」は駆逐艦を横付けして消火に務めたが機関制御不能、爆発を起こして消火不能となり、軍艦旗降下。

6月6日 00:15 総員退艦命令、生存者は第十駆逐隊の駆逐艦「巻雲」「風雲」に移乗。

山口少将は甲板に総員を集合させ、「皆が一生懸命努力したが、この通り本艦も遣られてしまった。力尽き陛下からお預かりした御艦をここに沈めねばならなくなった事は極めて残念である。 

どうか皆は、生き残って奉公を期し、より強い海軍を作って貰いたい。 ここでお別れする。」と挨拶し、一同水盃を交し宮城を遥拝し聖寿の万歳を唱え軍艦旗と将旗を撤去した。

部下達は山口少将に退艦を懇請したが受け入れず、「何か、お別れに戴ける物は御座いませんか」と伊藤清六主席参謀が頼むと黙って自分の被っていた戦闘帽を渡し、加来 艦長と艦に残り温顔、従容とし部下達の退艦を見送った。

6月6日 06:15 空母「飛龍」は駆逐艦「巻雲」に拠る雷撃処分を受けて沈没する。

山口多聞 少将と艦長 加来止男 大佐は艦と運命を共にした。


「飛龍」は本海戦に参加した四空母中、最も艦載機搭乗員の戦死者が多い艦となった。




重巡「三隈」沈没

第一機動部隊 空母群が受けた損害に対し第二艦隊の近藤信竹中将は栗田健男中将の第七戦隊の重巡「熊野」「鈴谷」「三隈」「最上」にミッドウェー島へ向かうよう命じ、南雲中将の残存艦艇と策応して陸上航空基地を砲撃破壊、米軍機動部隊に夜戦を挑む方針を示した。

しかし「飛龍」の被弾炎上により米機動部隊とミッドウェー基地航空隊制空権下の水上戦闘は困難と南雲は判断、そこで一旦西方に反転し改めて夜襲を企図する。

第七戦隊 重巡洋艦「三隈」

近藤中将の第二艦隊は軽空母「瑞鳳」を有しており 米艦隊に積極的に戦闘を挑む方針を示し炎上する空母を護衛した第四駆逐隊の有賀幸作大佐は「敵機動部隊接近なれば刺し違えよ」と配下の駆逐艦に下令する。 (後に有賀大佐は、戦艦「大和」最後の艦長となる。)

18:10 筑摩2号機は南雲司令部に「炎上米空母の後方に更に米空母4隻を発見」と報告。

6月6日 00:15 連合艦隊は第二艦隊と南雲第一機動部隊に対し、夜戦の中止と主力部隊の旗艦「大和」以下 第一艦隊への合流を命じた。

この時、最大戦速 35kt で南進急向していた第七戦隊は僅か2時間程でミッドウェー島を砲撃可能な射程距離内まで到達していたが、砲撃中止命令を受け北北西に針路反転する。


6月6日未明、戦闘海域から離脱し、旗艦「熊野」を先頭に「鈴谷」「三隈」「最上」の順で単縦陣航行していた第七戦隊は針路反転から1時間20分後、右前方45度5000mに米潜水艦「タンバー」を発見、同戦隊は直ちに対潜艦隊運動を開始したが左45度緊急転舵 一斉回頭の際に「熊野」から 更に発令された左45度増舵の伝達ミスにより危うく「熊野」と「鈴谷」が衝突しかけバタビア沖海戦 で 活躍した重巡「三隈」と「最上」の両艦は回避できず衝突した。

特に「最上」は 28ktで「三隈」の左舷中央部に衝突した為に左方向に艦首が潰れ航行速度が著しく低下したが応急作業により、14ktまで速力を回復させる。

また「三隈」は艦橋下から煙突下に掛けて破孔が生じ火災が発生し消火、左舷燃料タンクを損傷し燃料油が流出する損害を生じる。

だが、「熊野」に気付かれ、急速潜航の寸前に位置情報を打電した、米潜水艦「タンバー」は衝突で速力を落とした恰好の獲物である傷ついた「三隈」と「最上」を追跡し魚雷攻撃を行わなかった。

栗田中将は速力が落ちた両艦を戦隊から分離、護衛に駆逐艦「朝潮」「荒潮」を残し現場から南西のトラック島基地へ退避を命じ、栗田は「大和」以下主力部隊との合流を急ぎ北西に向かった。

退避速度が落ち油を曳く両艦は間も無くPBYカタリナ飛行艇に発見されミッドウェー島から飛来した ビンジゲーター6機とドーントレス6機から急降下爆撃、8機のB-17に水平爆撃を受けたが両艦ともに大きな損害は無かった。

しかし両艦は追撃して来た米空母「ホーネット」「エンタープライズ」の二艦からの攻撃隊により再び袋叩きの空襲を受け、「最上」は爆弾5発を被弾し四番、五番砲塔と飛行甲板に命中大破、誘爆を避ける為、酸素魚雷を緊急投棄する。

「三隈」は「最上」の護衛に「荒潮」と「朝潮」を残してウェーク島基地に向い単艦で退避行動をとっていたが、艦橋に被弾し機銃砲座の弾薬が炸裂して火災が発生、三番砲塔、両舷機関室にも直撃を受け「三隈」は航行不能となり、艦長の崎山釈夫大佐も重傷を負う。

また火災発生により酸素魚雷が誘爆して副長が総員退艦を命じ、「荒潮」が乗組員の救助に当るが、後部砲塔に爆弾が命中して戦死者が続出、この間も米軍機は容赦なく海面を漂う乗組員に対し執拗な機銃掃射を繰り返し「荒潮」は約240名を救助して退避を余儀なくされ「三隈」から離れた。


空襲に曝された重巡洋艦「三隈」

「最上」は米軍機空襲の危険を回避し日没後「朝潮」に「三隈」生存者救援に向かわせたが戦闘海域には既に「三隈」の艦影は無かった。

近藤中将は空母「瑞鳳」第二艦隊に「敵空母部隊を捕捉撃滅し三隈、最上を救援せんとす」と命じて反転したが、米軍機動部隊の捕捉に失敗し、6月8日午前中、大破した「最上」は救援に駆け付けた第二艦隊と合流して敵空襲圏外へ脱したが、航行不能に陥った「三隈」は救えずに沈没した。

6月9日 米潜水艦「トラウト」は漂流していた救命筏の「三隈」乗組員2名を救助した。





ボコボコである。 悔し過ぎる。

真珠湾攻撃からマレー沖海戦、セイロン沖海戦と航空戦力が新しい海戦の主力である事を実戦で証明した帝国海軍が空母同士に拠る航空海戦であるミッドウェー海戦に於いて連合艦隊の虎の子であった空母機動部隊「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の正規空母4隻と艦載機289機 重巡洋艦 「三隈」を一度に失い、3,057名(内艦載機搭乗員110名)戦死させた。

米海軍側損失 

空母「ヨークタウン」駆逐艦「ハンマン」沈没 戦死者307名 内艦載機搭乗員172名


開戦当初に真珠湾を叩かれた米海軍太平洋艦隊は空母3隻を残して殆ど撃滅状態であり、決して物量に物を言わす贅沢な戦いが出来た訳ではなく、寧ろ第一機動部隊の遥か後方に艦隊主力を置いた山本連合艦隊の方が艦艇を温存する戦い方をしている。


この頃の撃墜率・急降下爆撃・雷撃の命中率を見れば日本海軍パイロットの技量は米軍パイロットよりも優秀で練度も高く、零式艦戦・九九艦爆・九七艦攻・九一式航空魚雷の性能も米海軍の装備よりも優秀だった。

米海軍はレーダーの存在に頼りきらず、PBYカタリナ飛行艇を全方位に展開させ索敵哨戒する努力をしている。

ミッドウェー作戦発動前の図上演習の結果、作戦の主目的である敵空母部隊の補足撃滅が難しく、高いリスクを伴う作戦である事が判明し「ミッドウェー島攻撃中に敵からの先制攻撃を受けた場合はどうするか」と宇垣纏参謀長が尋ねると草鹿は「そうならないよう行動する」と答えた。

その為、宇垣は注意喚起を続け「第一航空艦隊はミッドウェー攻撃を二段攻撃とし第二次は敵に備える」とした。

また当時の作戦会議で中沢佑 第五艦隊参謀長が「機動部隊と連合艦隊主隊の距離が離れ過ぎている」と指摘したが、黒島は問題無いと発言し、山本は「本作戦に異議のある艦長は即刻退艦せよ」と強く訓示して連合艦隊司令部は問題点を確認することなく作戦を発動した。

事前に山口少将から相談を受けていた宇垣参謀長は南雲司令部の指揮能力に不安を感じ予想外の敵攻撃に備えるよう注意している。


主な敗因は以下である。

1.暗号電文が傍受、解読されていた。

2.情報収集・偵察軽視、索敵の不徹底で米艦隊を捕捉できなかった。

3.連合艦隊司令部が無線封止に固執して機動部隊に敵情を伝えなかった。

4.艦攻半数・雷装待機の原則を破り索敵完了前に雷装を解き爆装を始めた。

5.敵艦を発見した際に準備済攻撃隊だけでも発艦し上空待機させなかった。

6.敵空母を確認した後も兵装転換を行い迅速な攻撃を行わなかった。

7.雷撃機に気を取られ急降下爆撃機の接近に気づかず攻撃された。

8.戦隊を分けず4空母を集中しながら臨機応変に発着艦を運用しなかった。

9.主力艦隊が後方に離れ過ぎてバックアップの作戦が取れなかった。

等が主因として挙げられるが、他にもあった。

これはインド洋作戦・珊瑚海海戦の戦訓が全く活かさなかったと言う事か。

命令不服従、忠告無視、年功序列人事、帝國海軍の悪しき習慣もある。

操艦達者な水雷屋の南雲中将も航空戦の指揮判断を参謀の草鹿や源田に任せていた。

本作戦は米空母を誘出撃派を謳いながら必要の無い陽動にアリューシャン方面へ兵力を分散させ、充分な護衛も付けず、4空母を纏めて突っ込ませ、旗艦「大和」と連合艦隊主力部隊は300マイルも後方の米艦載機攻撃範囲外、基地にも敵空母にも夜襲を掛けるには遠過ぎる安全圏で観戦。

何時も奇襲、騙し討ちが成功する訳がない、常に会敵と失敗に備え2段、3段構えでバックアップの作戦が重要である。

山口多聞少将が機動部隊の指揮を執り、またアリューシャン方面へ向けた北方部隊 第四航空戦隊の角田覚治少将と空母「龍驤」「隼鷹」をミッドウェーに投入、6空母3機動航空部隊を編成し3方向からの分散攻撃にしていれば索敵範囲も広がり先に発見されても違う結果になっていただろう。

真珠湾攻撃に於いても、第一目標である米空母を討ち漏らし、第二次攻撃を行わずして帰投した為に港湾修理施設の壊滅には至らず、沈めた戦艦8隻の内6隻が引揚げ修理されて艦隊に復帰させ大打撃を与えた米太平洋艦隊を立ち直らせてしまう事になった。


陸軍・海軍軍令部はおろか開戦に及んでも連合艦隊内ですら意志統一がなされていない。

真珠湾からの海戦史実が示す様に戦闘指揮官は強引だけでは勝てない、臆病でも負ける。

戦いには賢明で慎重な作戦と現場の正しい判断と大胆さが必要だ。



真珠湾とミッドウェイは博打だった。と以前にも書いた。

山本長官を貶めたり、賛美することもしたくない。

米太平洋艦隊に大打撃を与え米国の戦意を喪失せしめ早期に講和に持込む。

米国の国力を知り三国同盟に反対した博徒山本は大博打を打つ他になかったのだろう。



日本海軍はガダルカナル、レイテ沖海戦と大敗し情報管理の甘さから暗号電文を敵に傍受解読された事により、視察激励にラバウル基地から一式陸攻で飛立った山本司令長官はブーゲンビル島上空でP-38戦闘機の編隊に待伏せ撃墜され戦死する事になる。

情報は戦いを制する。

出撃前、兵卒から呉の芸者までが「次はミッドウェー」だと噂していたと言う。

また空を制する者は海を制し陸をも制する、島を制する者が空を制し海をも制する。

特に、ガダルカナル攻防戦は制空権争いに制空権で負けた戦いであった。

そして帝国陸軍も開戦当初は香港を攻略、マレー作戦に於いて山下奉文中将が率いる第25軍が、マレー半島コタバル強襲上陸から電撃戦でクアラルンプール、シンガポールを攻略。 

蘭印作戦で今村均中将の第16軍がバリクパパンへ上陸、アンボン攻略、第一挺進団の空挺作戦に拠ってスマトラ島 パレンバンの油田設備と飛行場奪取に成功、バリ島、ジャワ島占領などの快進撃を続けたが、ニューギニア、ガダルカナル、フィリピン、マリアナと大敗、日米の制海空権は逆転して兵站補給が困難になり、無茶なインパール作戦でも大敗を喫する。


日清日露と連戦連勝して来た帝国陸海軍は過信と驕りから来る敵兵力の過小評価、索敵不徹底、情報管理分析の甘さが多くの判断ミスを招き、広く長く伸び過ぎた戦線は自給力が無い帝国陸海軍の首を絞めていく。

ミッドウェ-海戦は太平洋戦争のターニングポイント、日米両国の勝敗を決した戦いだったと言われるが、日露のように一海戦だけに勝利しても帝國は対米戦争には勝てなかった。



日本は短期を見て、長期を見ず、連合国アメリカとの圧倒的な工業生産力と物量・補給能力の差、国際社会からの孤立に拠ってアジアの新興国日本は完敗したが・・・・・



果たして負けた理由は本当に、それだけか。


「太陽の帝国」 聯合艦隊旗艦に続く。



日本の近代史・戦史を書いたブログ

Empire of the Sun 1   「太陽の帝国」その1   真珠湾攻撃・マレー・蘭印作戦

Empire of the Sun 2   「太陽の帝国」その2   インド洋作戦・珊瑚海海戦

Empire of the Sun 3   「太陽の帝国」その3   遣日独潜水艦・海軍技術士官

Empire of the Sun 4   「太陽の帝国」その4   ミッドウェ-海戦

Empire of the Sun 5   「太陽の帝国」その5   聯合艦隊旗艦

Empire of the Sun 6   「太陽の帝国」その6   大和出撃

Empire of the Sun 7   「太陽の帝国」その7   マリアナ諸島 テニアンの戦い

Empire of the Sun 8   「太陽の帝国」その8   大日本帝國

Empire of the Sun 9   「太陽の帝国」その9   運命の瞬間

Empire of the Sun 10   「太陽の帝国」その10  満州事変

Empire of the Sun 11   「太陽の帝国」その11  上海事変

Empire of the Sun 12   「太陽の帝国」その12  兵に告ぐ 二・二六事件


Posted at 2013/06/18 22:14:49 | コメント(3) | トラックバック(0) | 太陽の帝国 | 日記
2013年06月11日 イイね!

Empire of the Sun 3 「太陽の帝国」 遣日独潜水艦・海軍技術士官

Empire of the Sun 3 「太陽の帝国」 遣日独潜水艦・海軍技術士官先日、母の幼馴染の兄上で業務上の大切な取引相手でもあり自分にとっても数少ない尊敬できる人生の先輩だった伯父の様な方が93歳で旅立ち、お別れをした。

大戦中の海軍時代から造船設計研究技術者として日本の海運造船界に貢献し、軍艦から商船の設計に携わり日本初の原子力研究船建造計画にも委員として参加した。

また造船会社の顔として世界各国に赴任して来られた知識と欧米人的なユーモアに溢れ笑顔を絶やさぬ紳士で幾つになっても頭が柔軟な工学博士であった。


氏の軍歴は東京帝國大学工学部船舶科を卒業した後、帝國海軍に奉職。

海を渡り中国へ、占領下の青島 海軍特別根拠地で海軍士官としての訓練を受けて帰国。

その後、呉海軍工廠勤務、東京目黒の海軍技術研究所配属、佐世保海軍工廠に転勤。

伊号潜水艦や水上艦艇の設計や建造に携わり海軍技術大尉で終戦を迎える。

伯父さんとの年齢は、かなり離れてはいたが、自分も元船員で祖父も海軍であり以前、自分の上司が陸軍の航空技術大尉であった事や海運業界も広い様で狭く、船舶代理店時代には自分も業務で神戸工場の本船を訪船したり新造船の進水式にも行っていたことから年齢や時代に関係無く好きな話はよく弾んだ。

また海軍技術士官と言う軍歴から、祖父達の目で見た海戦、陸戦や上司の陸軍 航空技術士官の目から見た体験とは違った立場から見た貴重な体験談を聞かせて頂いた。

「太陽の帝国」 インド洋作戦・珊瑚海海戦の続きとして

故人を偲んで生前、お聞きした話を故人の手記より抜粋し数回に分けて書こうと思う。



故人の回顧録より・・・

<進路を決めた、先生の言葉>
私が中学五年になったのは 昭和12年。 二・二六事件、蘆溝橋事件、南京攻略の年。
その年が今後の自分の進路を決めねばならない年であった。

当時の学制は中学校五年、高等学校三年、大学三年で、これらの間には結びつきがなく、
如何なる組合わせでもよい。

その他の進学先としては、専門学校、師範学校、陸軍士官学校、海軍兵学校等もあった。

軍靴の音の高まりつつあるなか、軍人学校への志望者も増えつつあった。

当時、豊原先生という方がおられた。 難しい感じの先生だった。 

ある日、先生に呼び付けられ「これからは若人は兵隊にとられる徴兵制度の時世だ。 
どうせ兵隊にとられるなら最初から将校になったらよい。 それも海軍だ。
スマートで技術を重視する。 君の場合、海軍の技術士官になったらよい。」と言われた。

結局その勧告にそって私はその後の進路を決めた事になる。 

その頃の技術分野の花形となる軍艦と飛行機だ。
第三高等学校から大学に進む時に東京帝國大学の工学部船舶工学科を志望した。
卒業後は海軍の造船技術士官の道を選んだ。

大学に入学後、先生に会った時に私が「造船屋になりました」と報告すると、
「なんだ、つまらん。 造船屋では潰しが利かん。 機械屋になれば良かった。」
と渋い顔をされた。

豊原先生は東大地質学科出身で、明治の気骨と大正のリベラリズムを備えていた。

二・二六事件、先生が教室で顔を真っ赤にして陸軍将校の「非」を糾弾 したのを思い出す。

「彼等は子供の時から幼年学校で詰め込まれた思想で頭が固まって、そこで思考が停まる。
真理は一生求め続けるものと言う事を知らない不幸な人間だ。
それが重臣を殺し、日本を改造しようなんて以ての外だ」と。 

当時、それは非常に勇気ある、また危険を伴う発言だった。

二・二六事件の直後、教壇から一部将校の行為の「非」を説かれたのは僕の記憶で言えば、
あの書物の虫のような豊原先生だけであった。 

幼い僕等にだって、良い悪いは判っている。 
有為の要人を暴力で沢山殺して良い訳がない。 
僕等があの時、欲したのはあの事件に対する先生方の姿勢であったわけである。

あの様な世相だったから正しい意見も憚る事もあったろうが、
豊原先生が当時の世相の背景にも拘らず、
激しい口調で一部将校の行為を非難したのを今でも覚えている。

尚、当時の校風について一言を加えると、校長の坂斎先生は東大英文科の出身であり、
教諭にも豊原先生の他にも東大出、東北大出がおり学究的な空気も漂っていた。

彼等の「校友会誌」に掲載された論文は軍靴の響く当時はかなり睨まれる可能性もあった。

だが、このような文を書く教員がいて、その文の掲載を認める校長がいたとなると
教壇陣のある種の雰囲気もうかがわれる。


<献穀使より関西志向へ>
その年の十月、井上教頭に呼ばれた 「 献穀使のお供をして伊勢神宮参拝に行かんかね」と

当時、千葉県では毎年秋になると県内でとれた「新米」を伊勢神宮に献上する為に
「 献穀使」という使命を帯びた県役人を遣わす慣習があった。   

その際、随員として県庁の教育関係者、県内の教員、中学校、女学校の代表等がお供する。
たまたま、この年の中学校の代表を佐原中学より出す番に当たっており、
上記の井上教頭よりの下命になったわけだ。

その頃は其れまでの慣例の「関西修学旅行」も中止されていた時代だ。

これは良いチャンスと喜んでお受けした。「受験勉強で忙しいだろうが御苦労さん」と、
気持ちと裏腹のねぎらいの言葉を戴き、まことに恐縮。庶務の伊達先生から旅費を拝受。

これが私の生涯で延々と続く公費、或いは社費による出張の記念すべき第一号となった。

昭和十一年十一月六日朝、 献穀使ならびに随行神宮参拝団 の一行が千葉駅を発った。
当日熱田神宮参拝、伊勢宿泊。 

翌日伊勢神宮参拝、献米奉納、お神楽をあげ、本来の使命を果たす。 
ついで橿原神宮、神武天皇御陵参拝ののち奈良宿泊。

次の日、春日神社、大仏殿を見て京都へ向かう。
桃山御陵参詣のあと平安神宮参拝、知恩院、丸山公園散策。
夕刻京都駅発夜行列車にて帰途につく。あくれば九日東京駅着。

だがここで旅行はまだ終らない。
宮城遙拝、明治神宮参拝があって漸く解団式、三泊(内車中一泊)四日の任務が終わる。
今、メモを見て行程を思い出し書きながらも、
当時のしんどさが伝わってくるハード・スケジュールの旅だった。

この旅を通じての大きな収穫は、関西の持つ歴史の重みを認識した事だ。
更にその緊張を解きほぐすのは八坂神社の近辺で見た舞妓の艶姿の可憐さだった。

関西は、もはや無縁な国ではなくなった。

それからの人生で京都の第三高等学校を受験する機会が与えられた時、
また戦後の職場を神戸の川崎造船を選ぶのに何等の抵抗を感じなかった。
由来の遠因はこの辺にあると言えるだろう。

・・・以上、故人の回顧録より、後へ続く。



JMSDF SS-504 「けんりゅう」 Souryu class No.4 AIP Attack Sub. Sea Trial at KHI Kobe



遣独・遣日潜水艦作戦

1941年6月 日独同盟国間の陸上連絡輸送路であるシベリア鉄道が独ソ開戦に拠り途絶する。

また12月8日の日米開戦と大西洋での連合国海軍の通商破壊戦で海上輸送も困難となる。

ドイツは軍用車両・航空機生産に必要な原材料を入手の為に潜水艦に拠る物資輸送を提案。

日本はレーダー・ジェット・ロケットエンジン・暗号機など最新の軍事技術情報を入手する為に日本とドイツ間を両海軍の潜水艦で連絡輸送すると言う計画が実行に移された。

基本ルートはバルチック艦隊と同じ、日本~マラッカ海峡~インド洋~マダガスカル島沖~アフリカ大陸最南端喜望峰~東大西洋~ドイツ本国または占領下のUボート基地往復。


伊30号同型艦 伊号第一五型潜水艦(巡潜乙型) 
全長 108.7m 全幅 9.3m 吃水 5.14m 基準排水量 2,198トン ディーゼル機関2基2軸 
水上 12,400馬力 水中 2,000馬力 水上速力 23.6kt 水中 8kt 航続距離 14,000海里 
潜航安全深度 100m 零式小型水偵1機搭載 呉1-4型カタパルト 揚収デリック1基 
40口径14cm単装砲1門 25mm機銃連装1基 53cm魚雷発射管 艦首6門 九五式魚雷17本 






第一次遣独艦

伊30号潜水艦(艦長 遠藤忍 中佐)
1942年4月22日 ペナンを出港した伊30潜は英軍支配下のアデン・ジブチ・ザンジバルなどを艦載の零式水偵で航空偵察を行いながら南下する。

6月17日 マダガスカル島東方で伊30潜は特設巡洋艦・大阪商船の愛国丸・報国丸と合流、燃料を補給、九一式航空魚雷設計図や零式水上偵察機、鉱物資源を積込みドイツへ向う。

特設巡洋艦 愛国丸 1942年 シンガポール・セレター軍港  同型姉妹艦 報国丸・護国丸
全長 160.8m 全幅 20.2m 吃水 8.8m 総トン数 10,437トン ディーゼル機関2基2軸 
最大出力 15,833馬力 最大速力 20.9kt 航続距離 不明 乗組員 133名 乗客定員 400名
兵装 三年式14cm砲8門 九三式13mm対空機銃連装2基4門 九六式25mm連装機銃2基
六年式53cm連装水上魚雷発射管2基4門 零式水上偵察機2機搭載


6月30日 南アフリカの英軍哨戒機に発見されるも喜望峰を回り、8月6日にドイツ軍占領下のフランス大西洋岸 ロリアン港のUボート基地に到着、輸送物資を陸揚げする。

8月22日 整備を受けてメトックス電探とエリコン20mm四連装機銃を装備し灰色迷彩塗装を施された伊30潜はウルツブルク射撃管制レーダー、魚雷発射誘導装置、潜水方位盤、英軍の暗号解読機、エニグマ暗号機50台などを搭載してロリアンを出航し帰途に就く。
 
10月13日 シンガポール入港、暗号機10台を陸揚げして出航するも港内で機雷に触れ沈没。

伊30潜の乗組員13名が死亡、搭載物の引揚げを図ったが、多くの荷物は破壊され最も重要な積荷であったウルツブルク射撃管制レーダーも破損した。

暗号機入手の遣独作戦中に味方の暗号が変更された為、伊30潜には安全航路が伝えられず触雷沈没すると言う皮肉な結果となった。




チャンドラ・ボース密航

伊29号潜水艦(艦長 伊豆寿一 中佐)
1943年4月5日 伊29潜はベルリンの日本大使館向け金塊2トン、赤城型空母と特殊潜航艇の設計図、八九式空気式魚雷、魚雷艇用二式魚雷、情報技術士官の友永英夫中佐(潜水艦建造技術)と江見哲四郎中佐(潜水艦戦術)を乗せてペナンを出港した。

4月28日 インド洋マダガスカル島南南東400浬の洋上でインド人の独立運動家チャンドラ・ボースを乗せたドイツ海軍 U-180と密会合を行い積荷を積替える。

ボースは伊29潜に移乗して日本に向い、友永中佐らはU-180でドイツへ向かった。



インド独立連盟のチャンドラ・ボースは日本占領下シンガポールに自由インド仮政府を樹立し英米に対し宣戦を布告、インド領内に進撃を望みインパール作戦に参加したインド国民軍は日本軍と共にイラワジ会戦等のビルマ戦線でイギリス軍と戦った。



ドイツ海軍 Uボート 呂号第五〇〇潜

1943年5月10日 ドイツ海軍より日本海軍に無償譲渡されるU-511が艦長フリッツ・シュネーヴィント海軍中尉と乗組員他に東京へ向かうドイツ大使、野村直邦海軍中将、ドイツ人の科学者と技術者を乗せてロリアンを出港、航海中にインド洋で米商船2隻を撃沈する。

8月7日 呉に入港後、日本海軍の艦籍に入り、日潜名:呂号第五〇〇に艦名変更される。

German Navy Ocean going Submarine U-Boot Klasse IX


第二次遣独艦

伊8号潜水艦(艦長 内野信二 大佐)

1943年6月1日 伊8潜はドイツから無償譲渡されるU-511と別艦種9型CのUボート2番艦U-1224(日潜名:呂501号潜水艦)を受取り、日本へ回航する要員51名を輸送する為に呉の海軍工廠で魚雷発射管室を居住区に変更する等の改装を行ない呉を出港する。

途中、シンガポール、ペナンに寄港、インド洋上で伊10潜から燃料補給を受ける。

8月20日 大西洋アゾレス諸島西方で U-161と会合しレーダー逆探知装置を受領。

8月30日 ドイツ水雷艇3隻と会合、翌31日 フランス大西洋岸ブレスト港に到着。

U-1224回航要員上陸の他、積込んでいた酸素魚雷、潜水艦自動牽吊装置図面、錫、天然ゴム、雲母、キニーネ等がドイツ側に引渡された。

艦長の内野信二大佐と士官達はパリ経由でベルリンを訪問してカール・デーニッツ海軍総司令官と面会し、通信長の桑島斉三大尉他数名がベルギーのオーステンデにある電波兵器学校に派遣されレーダー装置の取扱い訓練を受けた。

U-1224(呂501号)に乗田貞敏少佐以下51名が乗艦した。

10月5日 伊8潜はドイツからの提供品である Sボート用のダイムラー・ベンツ製ディーゼルエンジン MB501を積込、第一次遣独艦の伊30潜と同じくメトックス電探とエリコン20㎜機銃等が搭載、後甲板に20㎜四連装対空機銃が装備されブレスト出港する。 

10月27日 敵哨戒機に発見され至近弾を受けるも被害無し。

12月5日 伊8潜はスンダ海峡経由でシンガポール港に到着し補給整備を受ける。

12月21日 呉に無事到着した。


5回の遣独潜水艦作戦で日本~ドイツ占領下フランス~日本の間を無傷完全往復に成功したのは、この伊8潜のみだった。

伊8潜は有泉龍之助 中佐に艦長交代後、再びインド洋に戻り通商破壊任務に就く。




帝國海軍潜水艦U-1224

1944年3月31日 乗田貞敏中佐揮下の呂501(U-1224)は半年近く掛けてバルト海のドイツ海軍潜水艦学校で習熟訓練を受けた日本海軍の回航員によりキールを出航する。

同艦には江見哲四郎大佐の他、根木雄一郎技術中佐(潜水艦建造技術)・吉川春夫技術中佐(Me262ジェット戦闘機)・山田精二技術中佐らが便乗した。

5月13日 東京の軍令部と阿部勝雄海軍中将 間の暗号通信が米海軍に傍受解読され呂501潜は大西洋のカーボベルデ北西で米海軍の護衛空母 ボーグ ACV-9 USS Bogue 艦載機と護衛駆逐艦 フランシス・M・ロビンソン DE-220 USS Francis M. Robinson の爆雷攻撃により撃沈された。

貴重な技術者と共に、B-29爆撃機の高高度迎撃に効果が期待されたMe163型ロケット戦闘機とMe262型ジェット戦闘機のエンジン他の資料は大西洋に消えた。


第三次遣独艦

伊34号潜水艦(艦長 入江達 中佐)
1943年9月13日 ドイツに向け呉を出港、シンガポールに寄港し補給を受け同港を出航。

11月13日 マラッカ海峡で英海軍潜水艦 トーラスP-339 HMS Taurus の雷撃で沈没。



イタリア海軍の伊号潜水艦

1943年には日独の同盟国イタリア海軍の潜水艦3隻がドイツ海軍の指揮下で輸送任務に就き、ウルツブルクレーダー器材・図面・ドイツ人技官を乗せフランス南西部を出港、無事にシンガポールの日本海軍基地に到着した。

同年9月にイタリアが降伏、3隻の潜水艦はドイツ海軍に編入されドイツの降伏後、内2隻が神戸の川崎・三菱重工で修繕整備され日本海軍に編入された。

コマンダンテ・カッペリーニ Comandante Cappellini ドイツ海軍 UIT-24 伊503潜 

ルイージ・トレッリ Luigi Torelli ドイツ海軍 UIT-25 伊504潜 呉鎮守府籍の特殊警備付属となり日本本土防衛の任務に就いた。

レジナルド・ジュリアーニ Reginald Giuliani は日本まで来ることはなく、UIT-23としてドイツ海軍に編入後、ペナン沖で英潜水艦タリーホー P-317 HMS Tally-Ho の雷撃を受け沈没した。



第四次遣独艦

伊29号潜水艦(艦長 木梨鷹一 中佐)

1943年12月16日 伊豆寿一中佐から木梨鷹一中佐に艦長が交代した伊29潜は駐独大使館付海軍武官として赴任する永盛義夫技術少佐(航空機)、田丸直吉技術少佐(電波兵器)の他、鮫島龍雄 海軍大学独語教授らが乗艦してシンガポールを出航する。

1944年3月11日 ロリアンに入港、ドイツ空軍向けのタングステン約30トン他を陸揚した。

4月16日 伊29潜はMe163、Me262のエンジン資料、ウルツブルク対空射撃管制レーダー、エニグマ暗号機他を積込みロリアンを出航する。

7月14日 シンガポールに無事入港するも、7月26日 呉に向い、ルソン北方のバリンタン海峡を浮上航走中に米海軍潜水艦ソーフィッシュ SS-276 USS Sawfish が発射した魚雷3発が命中して戦没、艦長 木梨鷹一中佐以下乗員95名、乗客10名が戦死した。

シンガポールで下艦して輸送機に乗換えた巌谷海軍技術中佐が持ち出した極一部の残された資料は後に秋水・橘花の開発に活用された。



空母ワスプ撃沈

二次ソロモン海戦後の1942年9月15日 伊29潜で戦死した艦長 木梨鷹一 中佐は乗艦指揮を執る前艦の伊19潜でソロモン諸島海域の哨戒中にサンクリストバル島南東約150浬で大型艦船多数の推進器音を潜航中に感知、北上するガダルカナル島への増援部隊輸送船団の護衛に就いていた空母、巡洋艦、駆逐艦数隻からなる米海軍機動部隊を潜望鏡で確認する。

伊19潜は対潜警戒ジグザグ航行を行う米艦隊に距離900mで九五式酸素魚雷6本を発射、内3本を米空母 ワスプ CV-7 USS Wasp に命中させ浸水、艦載機のガソリンに引火する。

ワスプは格納庫で気化した航空燃料から爆弾に弾薬と次々に誘爆を起し激しく炎上、黒煙を上げながら右舷に傾斜し航行不能となり総員退艦、僚艦が雷撃処分する。

伊19潜が全門同時に放った残り3本の魚雷は更に航走を続け 10,000m 先を航行する別任務部隊に到達、戦艦 ノースカロライナ BB-55 USS North Carolina の左舷1番主砲塔真横に1本が命中して真珠湾で修理に6ヶ月間を要する損害を与え、もう1本も駆逐艦 オブライエン DD-415 USS O'Brien の艦首に命中、大破して修理回航中に船体が折れサモア沖で沈没した。


九五式酸素魚雷

当時の米海軍主力 Mk 15 艦艇用の魚雷は蒸気タービン 最大射程 5,500m 雷速 45kt 炸薬量 375kg 潜水艦用主力 Mk 18 電気魚雷は射程 3,650m 雷速 45kt 炸薬量 272kg の性能。


日本海軍の酸素魚雷 水上艦艇用 九三式は最大射程 22,000m 以上 最大雷速 52kt 潜水艦用に小径短化した九五式は最大射程 12,000m 以上 最大雷速 49kt と高速で窒素を排出しない為に、雷跡が見えず隠密性に優れ敵に発見され難い、また炸薬搭載量は九七式爆薬 490kg (TNT588kg に相当)と多く強力な破壊力は命中すれば軍艦でも一発で轟沈を可能としたが、バタビア沖海戦やソロモン海戦までは不発や自爆が多発した。

ドイツ海軍も対英開戦直後からUボート用の新型魚雷 射程 7500m 雷速 40kt 炸薬量 280kg のG7a魚雷が磁気信管の誤作動と深度調節機の欠陥で魚雷攻撃が不可能になり、デーニッツ提督は一時、通商破壊戦を中止させている。

世界で唯一日本海軍のみが実用化に成功した長い射程で雷跡が見えず破壊力も高い酸素魚雷を米海軍将兵は恐れ、戦後「ロング・ランス(長槍)」と呼ばれた。




第五次遣独艦

伊52号潜水艦(艦長 宇野亀雄 中佐)
1944年3月23日 第一次遣独で伊30潜が持ち帰ったドイツ工業製品の製造技術取得に民間技術者を派遣することになり、伊52潜は技術者とドイツからの技術供与への対価として金塊2トン、スズ、モリブデン、タングステンなど計228トンを積載してシンガポールを出港。

6月20日 喜望峰を越えて大西洋に進出、危険海域に突入した伊52潜の位置撹乱にドイツ側の提案で偽の情報の無電が発信されたが、この無線を傍受解読した米海軍は5月13日に呂501潜を沈めた護衛空母 ボーグ ACV-9 USS Bogue を日独2隻の潜水艦の会合海域に急行させた。

6月23日 伊52潜は北緯15度、西経40度の会合点に到着、U-530と合流してドイツの連絡将校が乗艦後、護衛空母 ボーグ から発進したアベンジャー雷撃機の攻撃を受ける。

翌日24日 午前1時  伊52潜は第二派攻撃を受けて北緯15度16分、西経39度55分の地点に沈没、乗員106名、便乗者9名全員戦死した。



通商破壊

第一次世界大戦にドイツは対戦相手連合国の海上輸送を妨害して食糧・燃料・材料など物資を止め経済的に疲弊させ戦況を優位に導く為に潜水艦や軽巡洋艦で商船を拿捕または沈めた。

ドイツ海軍はUボートを約300隻建造、大戦中に約5,300隻の商船を撃沈する戦果を上げた。

敗戦後ベルサイユ条約で艦艇の保有数と新造を厳しく制限され空母も航空隊も弱小なドイツ海軍は条約破棄、英独海軍協定の締結後も圧倒的に優位な海軍力を誇る英国との開戦に備えUボートの建造を優先しポケット戦艦や魚雷艇で再びシーレーンを断つ通商破壊戦を行う。

ドイツ海軍潜水艦隊司令長官 カール・デーニッツが海軍総司令官に就任、Uボートの数不足を補い効率的に複数で待ち伏せ攻撃する狼群戦術で連合国の艦船に多大な損害を与えた。

第二次大戦でUボートは1,131隻建造され商船約3,000隻 空母2隻 戦艦2隻撃沈の戦果を上げたが連合国海軍の対潜技術・戦術・兵器の進化により 849隻のUボートと乗組員を失う。



日本海軍の通商破壊作戦

帝國海軍に於いては通商破壊戦略を卑怯なゲリラ戦法と蔑み空母や航空主兵を疎む旧態依然の大艦巨砲主義の戦艦主兵や艦隊決戦に固執する者が上層部にもいたが、真珠湾攻撃の直後からハワイ作戦で哨戒偵察任務に就いていた日本海軍の潜水艦がアリューシャン・アラスカ・カナダ・米国本土・メキシコ沿岸に進出展開して南・北太平洋で通商破壊戦が行われた。

日本海軍は航続距離が長く零式小型水偵を搭載する巡潜乙型潜水艦を米西海岸に展開する。

伊17潜はクェゼリン環礁基地から2度目の西海岸出撃でサンタバーバラの製油所を砲撃。

伊26潜は横須賀を出てアリューシャンでのAL作戦参加後に南下してシアトル沖で米貨物船を雷撃撃沈、バンクーバー島のカナダ軍無線局を砲撃。

伊25潜もAL作戦でダッチハーバーの航空偵察後に南下してフラッタリー岬の沖で英貨物船を雷撃撃破してアストリア近郊のフォート・スティーブンス米陸軍基地を砲撃する。

伊25潜は3度目の米国沿岸への出撃で零式小型水偵に76kg焼夷弾2個を搭載しオレゴンの森林を2回空襲して延焼させ後、米タンカー2隻とソ連潜水艦L-16を撃沈した。


インド洋制圧

北アフリカで苦戦していた同盟国ドイツ・イタリアは日本海軍に後方支援となるインド洋での英連邦国間の通商遮断と英海軍東洋艦隊の撃滅を強く要請する。

米海軍を主敵とする日本海軍はインド洋での後方支援活動より南太平洋のフィジー・サモアに進出して米豪間のシーレーンを遮断するFS作戦を軍令部は計画、連合艦隊司令部はハワイ攻略の前哨戦となるミッドウェー作戦を立案提唱していた。

日本軍は南方作戦で英領マレー半島・蘭印インドネシア、ビルマ、フィリピンを制圧、豪州ダーウィン空襲、ペナン港とシンガポール要塞を攻略占領して要衝マラッカ海峡を押さえ、セイロン島の攻撃で英海軍東洋艦隊を駆逐してインド洋を制圧、1942年4月頃には敵艦載機や水上艦艇からの攻撃を受けず日本海軍の潜水艦や特設艦はインド洋で自由に行動できた。

特設巡洋艦 報国丸 1942年 シンガポール・セレター軍港  同型姉妹艦 愛国丸・護国丸
全長 160.8m 全幅 20.2m 吃水 8.8m 総トン数 10,439トン ディーゼル機関2基2軸 
最大出力 19,427馬力 最大速力 21.1kt 航続距離 不明 乗組員 130名 乗客定員 400名
兵装 三年式14cm砲8門 九三式13mm対空機銃連装2基4門 九六式25mm連装機銃2基
六年式53cm連装水上魚雷発射管2基4門 零式水上偵察機2機搭載

大阪商船が南アフリカ航路用に建造した貨客船を海軍が徴用し武装を施し特設巡洋艦に改装した愛国丸と報国丸で連合艦隊直隷 第二十四戦隊として南太平洋で通商破壊の任務に就く。

後に両艦は内地で潜水艦への補給設備を装備して第六艦隊 第八潜水戦隊に編入されインド洋で遣独作戦を支援し潜水戦隊と共にマダガスカル島ディエゴ・スアレスの連合軍攻撃や通商破壊戦に参加して連合国の貨物船やタンカーを拿捕または撃破した。


日本海軍潜水艦の戦果

太平洋で撃沈撃破78隻・インド洋で撃沈撃破130隻 計208隻 内商船184隻

帝國海軍潜水艦撃沈数第1位は伊10潜の撃沈数14隻 81,553トン 撃破2隻 16,198トン 

伊10潜はインド洋で同じ第八潜水戦隊の愛国丸・報国丸と行動して補給支援を受けた。


21世紀の現代に於いては無警告の無制限潜水艦戦自体が戦犯に問われ兼ねない。

1942年9月12日 大西洋リベリア沖で赤十字旗を掲げて救助活動を行うU-156とU-506に対して米軍のB-24が目視確認のうえ爆撃と機銃掃射を行い捕虜と女性や子供を含む民間人を殺害した ラコニア号事件以降、ドイツ海軍将兵は連合国船舶の乗員救助に消極的になり、潜水艦隊司令官デーニッツは撃沈艦船の生存者救出を一切禁止するラコニア指令を全部隊に通達してドイツ海軍のUボートは情報収集以外は生存者を無視するようになる。

日本も白い船体に赤十字を明示して傷病兵を乗せた病院船「ぶえのすあいれす丸」が米潜水艦の雷撃を受けB-24の爆撃で沈没、生存者が機銃掃射で殺害され、ドイツからは乗組員全滅の要請があり、日本海軍の潜水艦も伊8潜・伊26潜・伊37潜で救命ボート銃撃や生存者への拷問虐殺など武人として恥ずべき行為が行われたことは日本の海員として非常に残念だ。

当然、この命令に反対し従わない多くの潜水艦艦長が日本にもドイツにもにいた。


島国日本は海軍の将兵や艦艇数より遥かに多くの徴用商船と海員が命を失っている。


通商破壊戦は日本や英国の様に四方を海に囲まれた島国や半島国また植民地や占領地の封鎖には効果的だがロシアや中国などの大陸国家や大陸でありながら強大な海軍力を保持し資源食糧の自給率が高く工業生産力も有る米国には効力は薄い。

また日本の10倍以上の国力と25倍の国土に海岸線を持つ米国を完全封鎖できない。

カール・デーニッツは英国の通商破壊でさえ300隻のUボートが必要だと嘆いていた。


日本海軍は真珠湾攻撃で空母機動部隊やマレー沖海戦で航空主兵と制空権の重要性を証明して ドイツ海軍は潜水艦による通商破壊戦の効力を米英海軍に示し、快進撃を続け戦線占領地を拡大し過ぎた島国日本は大戦後半、週刊空母機動部隊の奇襲と潜水艦ウルフパックに補給路を断たれ飢餓作戦で海上封鎖の厳しい反撃を受けることになる。


日本海軍の潜水艦保有数

開戦時64隻 108隻建造 計172隻以下 終戦時54隻中 伊号12隻


日本海軍の潜水艦隊は艦隊攻撃の斥候や空母機動部隊の哨戒が主任務で作戦や偵察の合間に通商破壊を行う形になり、制海空権を失えば輸送任務にも就く。

補給が乏しい高額な魚雷は武力脅威となる空母や戦艦巡洋艦に使い貨物船やタンカーはなるべく砲撃で仕留めたいのが人情でもある。


現代の海上自衛隊の潜水隊群は哨戒や艦隊護衛が主任務、そうりゅう型の敵は日本の周辺海域に忍び寄るミサイル原潜や攻撃型原潜、空母や強襲揚陸艦の艦隊を深く静かに待ち伏せて沈めることで高価な誘導魚雷や対艦ミサイルを商船に使う事はない。

海峡湾の封鎖や上陸阻止には91式など高性能な複合誘導型追尾上昇機雷がある。





重巡インディアナポリス撃沈

米重巡洋艦 インディアナポリス CA-35 USS Indianapolis は7月16日 サンフランシスコ出港。

7月19日 真珠湾に寄港しテニアン島基地で原子爆弾の輸送揚陸任務を既に完了していた。

1945年7月29日深夜、レイテに向かう途中の重巡洋艦インディアナポリスをパラオ島北方約250浬で哨戒任務中の橋本以行 少佐の伊58潜水艦が浮上時に電探で発見する。

インディアナポリスは護衛の駆逐艦を伴わず、日没後は対潜回避運動もとらずに月明かりの水平線を西に向かい16ktで直進巡航を続けていた。

この時、回天搭乗員達多聞隊は橋本艦長に何度も出撃許可を請うが「通常魚雷で沈められる時は通常魚雷で攻撃する」と橋本少佐は若い搭乗員達を説き伏せて回天の出撃を却下する。

艦橋から双眼鏡で戦艦級の艦影を視認した伊58潜は急速潜航して右転舵、潜望鏡深度で間合いを詰めながらインディアナポリスの右舷側60度の攻撃位置に就き魚雷戦を挑む。

伊58潜はインディアナポリスに九五式酸素魚雷を距離1,500mから深度4m雷速48kt それぞれ3度の角度を持たせ扇状に3秒間隔で3本発射、時差雷撃で更に3本の計6本を全門発射した。

暗中を航走した初弾がインディアナポリスの右舷側1番砲塔直下と2番砲塔の後部に命中、続けて時差発射した1本が初弾が引き裂いた外板の奥に入り込み炸裂、2番砲塔下部の弾薬庫が誘爆を起こし大きな火柱を上げ右舷に傾斜し艦首から海中に突っ込み行き足を停める。

伊58潜は深度30mに潜航して魚雷装填を行い止めを刺すべく再び潜望鏡深度に戻るも艦影は無く 浮上航行しながら艦隊司令部宛に戦闘戦果報告を打電する。

主砲弾薬庫の誘爆と水密扉閉鎖の不徹底も重なり急激に浸水した重巡インディアナポリスは雷撃から僅か12分後に転覆沈没していた。

米海軍はインディアナポリスからのSOSと伊58潜が打電した暗号を傍受解読しながらも、不手際に拠り乗組員の捜索救助が遅れる。

7月31日のレイテ到着予定を過ぎた8月2日に米軍の爆撃機が漂流者を発見する。

雷撃の生存者約800名は最長8日間もボートも無く、水も食糧も無い状態で洋上に漂い、衰弱溺死または鮫に襲われ最終的な救助者は僅か316名だった。

乗組員1,199名の内 883名が戦死した。

テニアン島に原爆を輸送した重巡インディアナポリスは第二次大戦中に雷撃で沈んだ米海軍最後の戦闘艦となり、伊58潜は敵艦を雷撃で沈めた帝國海軍最後の潜水艦となった。


インディアナポリスの生存者が救助された8月6日 広島、9日 長崎に原爆が投下された。 

撃沈が原爆の輸送中であれば、広島と長崎、太平洋戦史は変わっていたかも知れない。

テニアンの戦いと原子爆弾のことは別の機会に書きたい。




最後のUボート

1945年3月24日 ドイツ海軍潜水艦U-234 艦長 ヨハン・ハインリヒ・フェーラー海軍大尉が分解された2機の戦闘機Me163・Me262とウラニウム鉱石560kg他を積載する。

東京に赴任するウルリヒ・ケスラー空軍大将、海軍法務官カイ・ニーシュリング海軍大佐、電波兵器の専門家ハインツ・シュリッケ博士、他ドイツ人技術将校と帰国する友永英夫中佐と庄司元三技術中佐(航空機エンジン)らが乗艦して日本に向けキールを出航した。

3月29日 キール出港後、バルト海で潜航中にU-1301と接触事故を起こし引返す。

4月16日 U-234は修理後、ノルウェーのクリスチャンサンドから再度出航した。

5月10日 大西洋上で浮上した際に祖国ドイツが降伏した事を知ったフェーラー艦長は二人の日本人技術将校を中立国の南米アルゼンチンまで送り届ける事に決めるが、デーニッツ海軍総司令官の降伏命令と部下の安全を優先して米海軍に投降することを決心する。

友永と庄司 両技術中佐は捕虜となる事を潔しとせず艦内で自決した。

5月14日 U-234は北大西洋上で拿捕命令を受けた米海軍の護衛駆逐艦 サットン DE-771 USS Sutton に停船を命じられ、乗組員は操艦要員を除く全員が退艦する事となった。





故人の回顧録より・・・

戦争・第一部 「ドイツから来た三人の技師達」

当時、日独両海軍の間で協定を結びドイツから日本へ小型潜水艦の実物と設計図面を譲渡

またドイツの設計技師を派遣する。

日本はそれに基づき小型潜水艦を建造しインド洋に進出、通商破壊する壮大な計画だった。

戦時中、日本とドイツの交流は潜水艦に拠るルートで行われる。

潜水艦とドイツ人の技師達は昭和十八年七月十五日、昭南港(シンガポール)に入港した。

 
目黒の技術研究所に計画室を設け、海軍の技術陣が参集しドイツ人技師と折衝した。

小型潜水艦の技術的分析、試設計の他、到来資料の高張力鋼(ST52)の研究等があった。

これらの計画を統括されたのは、艦本四部長を退任されたばかりの福田啓二技術中将。

私も調査部隊の一人に編入されたが、ドイツ語会話がさっぱり。

泥縄式に或るドイツ人のもとへ会話をならいに通った。 

ところがある日、憲兵が突然尋ねて来て「辞められた方がいいですよ」と言う。 

彼がユダヤ系と言うのがその理由だ。

それで断念したが、憲兵の眼がこんなところにも光っていた時代だった。

福田技術中将の命で、先輩の緒明亮作技術大尉と小官が

ドイツ人達の個人的な面倒をみる様に命じられた。

国技館の相撲に案内し<砂かぶり>で見て、また歌舞伎座も<かぶりつき>で見た。

後日、中将閣下が緒明大尉を呼び「あの人達、あれはどうしているか」と御下問があった。

大尉は「この頃は在京のドイツ人とも付合っている様ですから、その方面でなんとか」

と返答されたようだ。

だが大尉が何か心配顔で「この頃はあれもなかなか手にはいらないようだから・・・」

ここまで聞くと察しのよい中尉は了解し翌日横須賀へ飛んだ。 

三高時代からの友人の軍医中尉に会い所望の物を無心し、軍医は快諾した。

だが大組織の融通の利か無さで、百袋とか三百袋といった半端は分けてくれない。

一単位という段ボール一杯の支給を受ける事になり、

小脇に抱えて電車に乗るも軍服姿だから氣にしながら帰る。

手に入ったは良いが、さてどうしよう・・・この箱のままドイツ人に渡すわけにいかない。

適当に渡したが、後に残る物品の処分に困った。

下宿先の息子の若手検事に云うと喜んで手を出したがその後の分はどうしたか?

今となっては明らかではない。

その年末、私は佐世保工廠に転勤になり、ドイツ人達と別れた。

終戦となり東京に戻った時に彼等の消息を訊くと、箱根に収容されているとの由。

その後、本国へ送り戻されたものと思う。

緒明大尉は戦後、自決した。

先輩の友永、庄司中佐が志し半ばでドイツ潜水艦内にて戦死せるを悼んでの自決か。


・・・以上、故人の回顧録より。  



回顧録にある伯父さんが関わった来日ドイツ人達は1943年5月10日にフランスのロリアンを出港してドイツ海軍より日本海軍に譲渡された潜水艦 U-511(呂501潜)に乗艦して来たと思われる。

回顧録の続きは、「太陽の帝国」の中に載せていきたいと思う。

この後、伯父さんは佐世保海軍工廠で伊号潜水艦や水上艦艇の設計や建造に携わった。


今から70年以上も前に世界初のドック型強襲揚陸艦「神州丸」や「あきつ丸」、大和型戦艦、 高雄型高速重巡洋艦に空母機動部隊を建造し運用していた日本はカタパルトを装備し攻撃機を搭載して長大な航続距離を誇る世界最大の潜水艦・潜水空母も就航させていた。


伊号第四百型潜水艦(潜特型一等潜水艦)伊400・伊401・伊402潜 
全長122m 全幅12m 吃水7.02m 基準排水量 3,530トン ディーゼル機関1,925馬力4基2軸 
水上 7,700馬力 水中 2,400馬力 水上速力 18.7kt 水中 6.5kt 航続距離 37,500海里(約4ヶ月) 
潜航安全深度 100m 特殊攻撃機「晴嵐」3機搭載 四式一号一〇型カタパルト 揚収デリック1基 
22号電探1基・13号1基 40口径14cm単装砲1門 25mm機銃3連装3基・25mm単装1挺 
53cm魚雷発射管 艦首8門 九五式魚雷20本 燃料重油1,750トン 乗員 157名




資源の無い小国、日本とドイツは物量の大国に勝利する為に技術の革新に励み互いに技術の同盟を結んだ。

自分は政治的に信用できないドイツとの同盟には反対だが、ドイツ人の物造りへの気質や技術力は信頼に値する。


両国は大戦に敗れたが、21世紀の今でも良い船舶、車、鉄道、製品を作り続けている。



海上自衛隊 第1潜水隊群 第3潜水隊 そうりゅう型潜水艦 SS-504「けんりゅう」
全長 84.0m 全幅 9.1m 吃水 8.5m 基準排水量 2,900トン 満載排水量 4,200トン
ディーゼル機関2基 スターリング機関4基 電動機1基 スクリュープロペラ1軸 
蓄電池 480個 水上出力 3,900ps 水中出力 8,000ps 水上速力 13kt 水中巡航速力 20kt 
水中最大速力 33kt(推定)航続距離 非公開 AIP持久力 6,100海里 連続潜航 30日(推定)   
潜航作戦深度 非公開 最大潜航深度800m(推定) X型後舵・セイル潜舵 吸音・反射材 
ZQQ-7B ソナーシステム ZPS-6F 対水上捜索用レーダー1基 潜水艦戦術武器管制システム
HU-606 533mm 魚雷発射管6門 89式 アクティブ/パッシブ・ホーミング追尾誘導長魚雷
ハープーン級USM アクティブレーダーホーミング対艦ミサイル 対魚雷防御システム

そうりゅう型潜水艦は深深度攻撃能力、長距離水中探知能力、高い静粛性を誇り、非大気依存推進AIP機関(現在)から充放電・潜行時間を大幅に向上させるリチウムイオン蓄電システム搭載、また浅海域で目標探知、デコイを抜く新型長魚雷やハープーン等の兵装やCPUも開発と進化を続ける世界有数の高性能攻撃型潜水艦である。

そうりゅう型の次級では全個体蓄電とウォータージェット推進の採用を期待する。



Deutsche Marine Hapag-Lloyd Oldendorf

艦船のブリッジやエンジンルームを見ると生産国や乗組員の国柄人柄が判る。


「太陽の帝国」 ミッドウェ-海戦に続く。


日本の近代戦史を書いたブログ

Empire of the Sun 1   「太陽の帝国」その1   真珠湾攻撃・マレー・蘭印作戦

Empire of the Sun 2   「太陽の帝国」その2   インド洋作戦・珊瑚海海戦

Empire of the Sun 3   「太陽の帝国」その3   遣日独潜水艦・海軍技術士官

Empire of the Sun 4   「太陽の帝国」その4   ミッドウェ-海戦

Empire of the Sun 5   「太陽の帝国」その5   聯合艦隊旗艦

Empire of the Sun 6   「太陽の帝国」その6   大和出撃

Empire of the Sun 7   「太陽の帝国」その7   マリアナ諸島 テニアンの戦い

Empire of the Sun 8   「太陽の帝国」その8   大日本帝國

Empire of the Sun 9   「太陽の帝国」その9   運命の瞬間

Empire of the Sun 10   「太陽の帝国」その10  満州事変

Empire of the Sun 11   「太陽の帝国」その11  上海事変

Empire of the Sun 12   「太陽の帝国」その12  兵に告ぐ 二・二六事件
Posted at 2013/06/11 23:05:21 | コメント(2) | トラックバック(0) | 太陽の帝国 | 日記

プロフィール

「朝、伸び過ぎた髭も剃らずにお出掛け。
「お誕生日おめでとうございます♡」と言って
くれたのは交通安全協会のおネエちゃんだけ。
自費で5年前と同じ免許証入れのプレゼントw
毎回、焦りまくりボタン連打の深視力検査ww
今年もなんとか運転免許更新を無事にクリア。」
何シテル?   05/25 16:15
元・気楽な海上サラリーマン  現・厳しぃ陸上自営隊  時々・トランスポーター 
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