• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

Mikkolaのブログ一覧

2013年07月30日 イイね!

Empire of the Sun 8 「太陽の帝国」 大日本帝國

Empire of the Sun 8 「太陽の帝国」 大日本帝國国際連盟承認の大日本帝國領土は以下の通り。

千島 1875年 日露・千島樺太交換条約
   根室海峡からカムチャツカ半島南端、千島海峡間の列島

台湾 1895年 日清戦争 下関条約 清国より割譲
   高雄市に含め領有した新南群島(南沙諸島)を含む。

樺太 1905年 日露戦争 ポーツマス条約 ロシアより割譲
   北緯50度以南を奪還。

朝鮮 1910年 国際法上合法である韓国併合ニ関スル条約
   朝鮮半島の帝國併合。

南洋群島 1922年 第一次世界大戦 敗戦国ドイツ領を国際連盟より統治委任
北マリアナ諸島(米領グアムを除く、サイパン・テニアン・ロタ他14島)
カロリン諸島(トラック・パラオ・ヤップ・ポナペ・クサイエ・サタワル・ウルシー環礁)
マーシャル諸島(クェゼリン・ビキニ他・32環礁)
南洋群島の統治領は太平洋ニューギニア赤道以北地域、ミクロネシアに相当する。


大戦前、帝國には上記の領土の他に施政権が及ぶ租借地や租界、鉄道附属地があった。



帝國の大陸進出・外地入植統治政策

1894年 朝鮮で近代化を求め清国への事大と朝貢廃止を掲げた甲申政変に続き農民戦争が発生して天津条約に基づき朝鮮に出兵した日本は日清戦争に勝利した。

日本は遼東半島、台湾、澎湖諸島を清から割譲して朝鮮を朝貢冊封体制から解放独立させ、沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放させる日清講和・下関条約を締結する。

だが仏・独・露の三国干渉と賄賂に拠り、ロシアは旅順港に艦隊を強制入港させ遼東半島を租借して不凍港を獲得すると満洲全域に勢力圏を拡大し朝鮮半島を狙う。

清から得た賠償金で軍備を増強し、ロシア帝國の南侵に対抗した日露戦争に日本は勝利して大陸に権益を獲得して朝鮮を保護下に置き、北緯50度以南の樺太を奪還する。

1905年 ポーツマス日露講和条約調印と満州善後条約締結で日清間の南満州鉄道及び附属地と吉林への路線延伸、日露戦時に日本が構築した鴨緑江に至る安奉線の継続使用、旅順・大連港を含む関東州租借、日本軍常駐、鉱山採掘、森林伐採等の権利と日本人の居留保障、沿海州沿岸の漁業権を確約して日露協約で朝鮮・満洲と内蒙古東部に於ける権益を得た。

1910年8月29日 日本の寺内正毅 韓国統監と大韓帝国の李完用 首相により日韓併合条約が調印され大日本帝國が大韓帝國を併合した。

しかしロシアから賠償金は取れず戦費返済に苦慮し、日本は工業化も進むが依然農業主体で政府は過剰な労働力の受入先でもある外地の権益領地にも活力を求める。 

外地の開拓開発事業は政府国家に拠る大掛かりな口減らしの移住政策でもあった。


日本政府は外地日本領の行政統治開発の為に拓務省を新設、朝鮮総督府・台湾総督府・関東庁・樺太庁・南洋庁の監督を行い拓務省下に南満州鉄道や東洋拓殖・南洋拓殖・南洋興発などの国策開発会社を設立する。


国策に沿い財閥民間企業も大陸や朝鮮、台湾に進出、開拓開発事業に参画した。


満州や朝鮮、台湾の農地、ダムや河川の治水、港湾、鉄道や道路、電気水道などインフラや産業が整備されて金融機関が集まり、台北、基隆、高雄、京城、釜山、平壌、大連、新京、奉天、ハルビンの都市部は近代化が進む。



帝國陸海軍の外地常駐配備

1901年の北京議定書に拠り清国に権益を持つ日本も列国に並び占領駐兵権を行使する。

1914年に日本は日英同盟に基づきドイツ帝国へ宣戦布告、連合国側で第一次世界大戦に参戦、帝国陸海軍はドイツ権益の山東半島 青島要塞を攻略、植民領の南洋諸島を占領した。

帝國陸軍は外地の日本領や租借地の駐屯守備隊に内地から師団編入して増強し台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍、遼東半島と南満州鉄道附属地警備を目的として関東軍を編成する。

帝國海軍は欧米列強海軍と同様に租借地の警備に陸戦隊を配備して旅順や鎮海などの要港部と上海・青島・天津など租界に艦艇を派遣した。

上海 黄浦江に錨泊中の軽巡洋艦「長良」  手前は米海軍砲艦「アッシュビル」


駆逐艦「初霜」 山東半島 青島


1927年3月 南京・上海を占領した中国国民革命軍の共産党派が外国領事館と居留民を襲撃する南京事件漢口事件を起こした。

南京城内の中国軍に対して揚子江に停泊中の米英海軍艦艇が艦砲射撃を加え陸戦隊を上陸させ交戦したが日本軍は無抵抗の命令を受け艦砲射撃も防御戦闘も行わなかった為に入城した中国兵の一方的な暴虐に遭い日本と欧米の外交官と宣教師が虐殺され婦女子が強姦された。

翌年4月には山東省 済南で居留民が北伐軍内共産党派に掠奪虐殺され、警備に当たる日本軍の臨時派遣隊と武力衝突した済南事件を起こす。


蒋介石は武漢国民政府左派勢力に対抗し国民党から共産主義者とソ連の顧問を排除して南京に国民政府を設立、関東軍は蒋介石に「山海関以東の満州には侵攻しない」と言質を取る。



関東軍と支那軍閥

関東軍は日露戦時にロシアから日本に寝返った満州の馬賊 張作霖の奉天軍閥に軍事顧問を送り支援していたが、朝鮮人安住や土地商租権等の約束を守らず、山海関内に進攻し北京に入城した張作霖は蒋介石の北伐軍との戦いに敗れ、大陸の覇権に出遅れた米国が接近し支援を始めた。

張作霖と旧知の仲である元満州軍参謀 田中義一首相は関係維持を模索したが勢力争いを続ける支那軍閥の統治に限界を見た関東軍高官は社会インフラを整備して親日政権国家樹立に拠る満洲の間接的な安定統治を考える様になる。

1928年6月4日 関東軍司令官 村岡長太郎中将と河本大作大佐が首謀して満洲鉄道の特別列車で移動中の張作霖を奉天近郊で爆殺する。

奉天軍閥を引継いだ張学良の合流で北伐を完遂させた蒋介石は国内の共産勢力掃討に力を注ぎコミンテルンの赤化工作の活動拠点であるハルピンのソ連総領事館を強制捜査して総領事と職員を逮捕、ソ連権益の中東鉄道に軍隊を配置して接収、ロシア人職員を排除して中国人を任命した。

1929年7月18日 日本の厳正中立と関東軍の不介入を確認したソ連は南京国民政府に国交断絶を宣告してソ連赤軍が満洲に侵攻、張学良軍を撃破し中東鉄道全線を占領して経営権と特別区の行政を握り、満洲に於けるソ連の影響力を反対に強める。

ソ連に敗れた南京政府と張学良は矛先を日本の権益と日本人に向け排日に傾く。

日清間で締結、中華民国にも継続された日清通商航海条約の破棄を一方的に宣言した南京政府は満洲善後条約も無視して南満洲鉄道に並行する鉄道路線を建設、満鉄付属地に柵を張り廻らし監視所を設けて大連港と付属地持出とに二重関税を掛け、一方的な許可の取消や事業妨害を行い林業、鉱業、商業等の日本人企業の経営不振が続出する。

満洲鉄道、及び東清鉄道の路線図

更に南京政府は「鮮人駆逐令」で朝鮮人農民から土地を奪い抵抗した530人を奉天監獄に投獄、迫害された朝鮮人が長春 西北の万宝山に入植して反発した中国人に襲撃され、日本領事館から朝鮮人農民保護の為に急行させた警察官と武装した中国人の暴徒が衝突する万宝山事件が発生して朝鮮排華事件が起こる。

1931年6月27日 対ソ戦に備えて地誌調査に蒙古興安嶺を旅行中の陸軍参謀 中村震太郎 大尉と井杉延太郎 退役兵曹長、白ロシア人、蒙古人の一行4名を張学良配下の屯墾軍が拘束、金品、護身用ピストル、その他一切の物を奪い殺害した。

これと時を同じくし日本人女学生数十人がピクニック中に集団強姦される事件も発生する。

日々この様な懸案が370件余りに達し、外務省を通じ南京政府に協議解決を申入れ関東軍も再三に渡り強く抗議するも無視され続けた。

関東軍に作戦参謀として赴任した石原莞爾中佐は満洲の地域自決・民族自決に基づく分離独立、満蒙領有計画を立案する。



満洲事変

南京政府の排日政策と満洲・東北の治安悪化に危機感を抱いた関東軍幹部達は本国の陸軍中央参謀本部に諮ることなく再び独断で行動を開始する。


1931年9月18日 石原莞爾中佐は着任した高級参謀 板垣征四郎大佐と奉天近郊の柳条湖付近で南満州鉄道の線路を爆破して張学良東北軍の犯行に見せ掛けた柳条湖事件を実行、特務機関の工作で吉林も不穏な状態に持込み満洲事変を起こす。

関東軍は僅かな兵力を以って難なく日本本土面積の3倍を有する満州・東北全域を制圧占領した。



満洲国建国

1932年3月1日 関東軍の石原莞爾主任参謀らが主導「王道楽土」「五族協和」を理念に東北三区の政都として長春を新京と命名、満州族出身で清朝最後の皇帝 溥儀が国家元首として政務を執り日本に国防・鉄道・通信の管理を委ねる親日国家 満洲国が建国される。

1933年3月 国際連盟創立以来の原加盟国で常任理事国でもあった日本は国連の総会で満洲を支那の一部分とする撤退勧告を受け国際連盟を脱退する。

当時の国連加盟独立国は60ヵ国程でアジアやアフリカ地域は欧米の植民地が殆だったが、満州国は中華民国南京国民政府をはじめ植民地を除く23ヵ国から承認された。

1932年4月 満州国軍が創設され治安維持と国境警備に当たり、日満議定書により国防は関東軍が担い、日本人将校が満洲国軍の軍事顧問や教官を務め、部隊長等は日本軍から転籍した将兵が任官する事もあった。

当初、部隊構成は軍閥の配置を踏襲したが陸軍軍官学校が設立され将校を養成、満洲国国民の満州族、漢族、蒙古族、ウイグル族、白系ロシア、日本人、朝鮮人、台湾人が入学する。

後の韓国大統領 朴正煕は新京の満洲国軍軍官学校を首席卒業後、東京の陸軍士官学校を卒業、関東軍に配属され見習士官として勤務後、満洲国軍で中尉に昇進した。




日華事変

1932年1月28日 中国国民党 第十九路軍が上海市郊外に進出、日本人僧侶襲撃や排日暴動が発生、租界を警備していた日本海軍陸戦隊が十九路軍に銃撃され90余名が死傷して戦闘に至り、第一次上海事変が勃発する。

陸軍は4個師団動員、海軍が空母 加賀・鳳翔の第一航空戦隊を派遣して中国軍を撃退した。

1936年12月 共産党と密かに接触していた張学良は西安で蒋介石を拉致監禁し息子の蒋経国も留学先のソ連で人質に捕られ、反共討伐の政策を推進し日本との対立を避けて満洲国も承認した蒋介石の国民党は共産党との内戦を停止、国共合作で排日政策に転換する。


内地では依然、世界的な大恐慌から長く続く深刻な不況とインフレ、失業、自殺増加、農村部は冷害に因る凶作飢饉に喘ぎ疲弊していた。

「五・一五事件」に続き、国家社会主義者と陸軍皇道派将官の影響を受けた青年将校が政治腐敗や農村の困窮を憂い決起、「二・二六事件」を起こすが、クーデターは失敗に終わる。

この動乱と政府の外地日本領の権益保護政策は軍の国政関与を深める。


欧米列国を対日戦争に巻込みたかったコミンテルンと中国共産党は民国政府や軍閥内に潜り込み北・中支各地で日本軍を挑発して日中開戦を嗾ける。

1937年7月 北京 盧溝橋で通達済の夜間演習中に日本軍駐屯部隊を国民革命軍 第二十九軍の兵士が狙撃、抗議と解決協議中にも迫撃砲を撃込まれる 盧溝橋事件と中国人自治政府保安隊が在留日本人・朝鮮人200人以上を猟奇的に虐殺した 通州事件を起こす。

同年8月 上海停戦協定を破り、非武装地帯にトーチカと強固な要塞線を構築したドイツ軍事顧問が指揮する最新装備で完全武装した3万の国民党中央軍の精鋭が上海国際租界の日本人居留区を包囲攻撃する 第二次上海事変 を起した。

ソ連を警戒する石原莞爾ら不拡大派の意に反し8年に及ぶ長い日中の全面戦争に突入する。



海軍は渡洋爆撃を開始、加賀・鳳翔・龍驤の3空母を派遣し制空権を掌握、航空支援を行う。

3個師3万に包囲攻撃された僅か6千の海軍陸戦隊は約3週間に渡り日本人居留区を死守。

揚子江岸に強襲揚陸、反攻を開始した上海派遣軍と第10軍は上海周辺の敵を排除して追撃戦に移り首都南京を攻略、支那派遣軍が徐州、武漢、広東、南昌、海南島を占領、中国軍は敗走した。

大陸に進出した陸海軍の航空爆撃部隊は蒋介石が遷都した重慶に戦略爆撃を開始する。

中国軍は追撃する日本軍の足止めに焦土作戦を行い長沙の街に放火して市民2万人を焼死させ、黄河の堤防を決壊氾濫させて農作物に被害を与え100万人を水死と飢餓、疫病で苦しめた。

日本軍は進撃を停止して数万の黄河流域避難民を救助し住民と共に堤防修理や流路誘導を行い、後の大飢饉でも軍糧を放出して被災地で救援活動を行った。

大洪水を起こしたうえに農民から牛や食糧を徴発する国民党軍から離反した民衆は日本軍を支持、大陸打通作戦時に河南省では民衆の自主的な協力に拠り、6万の日本軍が30万の中国軍掃討戦に成功する。


南京、武漢と二度も首都を失った蒋介石は民衆の支持まで失い共産党分子を増殖させた。




ノモンハン事件

満州国建国以来、満州・ソ連国境のアムール川(黒竜江)では越境上陸し乾岔子島を不法占拠したソ連軍に日・満軍が応戦してソ連軍砲艦を撃沈した乾岔子島事件や満州東南端の朝鮮に近接する豆満江とハサン湖間にある国境不確定な緩衝地帯の丘陵に陣地構築を謀り越境侵攻したソ連軍を日本軍が撃退した張鼓峰事件などの国境紛争が起り、満州・蒙古国境西部フルンボイル平原では哈爾哈(ハルハ)廟事件など国境哨戒中にモンゴル軍の侵犯挑発に拠る銃撃戦が頻発していた。

1939年5月11日 ハルハ河付近 ノモンハンの国境係争地で満州国軍 国境警備隊とモンゴル軍の交戦に端を発し、両国を支援する日本軍とソ連赤軍に拠る大規模な軍事衝突に発展する。

この突発的な武力衝突に即応してソ連軍 第57特別軍団は戦車、装甲車、自走砲、機関銃狙撃兵、モンゴル騎兵団を投入してハルハ河西岸に榴弾砲を据えて架橋した東岸に陣地を構築した。

日本軍は第23師団捜索隊、歩兵大隊、輜重輸送部隊、山砲、速射砲、重機関銃、満州国軍騎兵の混成支隊を送り、戦車を伴うソ連軍の装甲部隊と戦闘になる。

衝突直後は日本軍が戦闘に勝利して東岸に応急陣地を構築したが、日・ソ両軍ともに指揮通信の混乱から統制を失い組織的な展開や戦闘の連携がとれず、分散した各部隊が個々の判断で攻撃・防御と孤軍奮闘する。

ソ連軍に火力で劣る日本軍は夜襲を掛けて反撃、上空では九七式戦闘機が空戦でソ連軍機に圧勝を続けて日本軍航空隊が制空権を抑え機銃掃射や哨戒偵察、陣地爆撃で地上軍を航空支援した。

日本軍の増援攻勢を警戒した ソ連・モンゴル軍はハルハ河西岸に撤退して5月の大規模な衝突は一時的に終息する。

衝突の損害

日本軍 戦死傷者 約290名 装甲車 2輌 トラック 8台 乗用車 2台 速射砲 1門

ソ連軍 戦死傷者 約370名 戦車・装甲車 13輌 トラック 15台 火砲 3門



第二次ノモンハンの衝突

6月20日 戦車を伴う十数輌のソ連軍装甲部隊とモンゴル軍騎兵が越境し、集落内にある日本軍の宿営地を砲撃、日本軍は速射砲と機関砲で応戦し戦車・装甲車4輌を撃破、越境部隊を撃退する。

この頃、ソ連軍は日本軍飛行場への越境爆撃と小兵力の地上部隊を侵入させては威力偵察攻撃を繰り返し、452輌の戦車と装甲車旅団を投入する大規模な侵攻を準備していた。

ソ連軍を指揮するのは第一次衝突を観察分析酷評、二次侵攻を緻密に計画して地上及び航空戦力を増強して関東軍に挑み、後に屈強なドイツ第6軍をスターリングラードで包囲、モスクワ侵攻阻止、東部戦線からドイツ軍を駆逐し自らベルリンに入城、「ソビエト連邦英雄」の称号を受けて上級大将、元帥まで昇り詰めるゲオルギー・ジューコフである。

冷酷なスターリンが認める冷徹な司令官ジューコフは容赦なく自軍兵士を銃殺処刑の督戦を行い、勝利の為には兵の生命、兵力の消耗を厭わず間髪を容れぬ打撃重視の電撃戦を得意とする。

日華事変勃発で中国戦線に兵力を抽出していた日本陸軍中央の満・ソ国境紛争の不拡大方針に関東軍は第6軍と第23師団、第7師団の一部で衝突に対応するが、実際は一個師団程度の兵力であるのに対してモスクワの国防部は第57特別軍団にジューコフの要求以上の増援を送り込み、最終的にソ連軍は8個師団を投入した。

関東軍はソ連軍の火力と機動力に対して第1戦車団の戦車2個連隊を増派、自動車化歩兵大隊、歩兵1個連隊、独立野砲1個連隊、工兵連隊、砲兵に高射を加え、戦車73輌・装甲車19輌を主力とする機械化混成部隊を編成して第23師団の別動支隊とする。

 
日本軍 戦車隊・装甲機械化部隊は第23師団本隊に先行してハルハ河の前線に向かう。

夏期の辺境モンゴルの草原、砂丘でのソ連軍の戦車・装甲車旅団との戦闘になった、ノモンハンの第二次衝突が日本陸軍の戦車対戦車、両軍機甲部隊に拠る近代的な集団機甲戦の初戦となる。


7月2日 ハルハ河東岸に進出した日本軍戦車連隊はソ連 第11戦車旅団の戦車・装甲車と交戦、ソ連軍戦車20輌、装甲車12輌、トラック20台を撃破しながら、西岸の砲兵陣地から強力な榴弾砲の激しい砲撃に前進出来ず釘付けにされた歩兵第64連隊を支援、ソ連軍の防御陣地を突破して東岸の野砲陣地を蹂躙し無力化する。

一方、渡河作戦に成功しハルハ河の西岸に進出した歩兵中心とする砲兵、工兵の第23師団主力もソ連軍 第11戦車旅団、第8、第7装甲車旅団と交戦、戦車67輌、装甲車41輌を撃破撃退したが、東岸での戦闘で日本軍も戦車30輌を喪失、関東軍司令部は前線から戦車連隊を後退させた。

7月4日 第23師団は弾薬枯渇と退路遮断の危険性から橋を渡りハルハ河西岸から撤退を開始、以降、東岸での対戦車戦、砲撃戦、空中戦、空爆、夜襲、白兵戦、塹壕戦、高地攻防戦など激しい戦闘は 9月15日の停戦合意まで続いた。


第一次、第二次の参加兵力

日本軍 約3万名 戦車73輌 装甲車19輌 火砲82門 歩兵主力の混成部隊

ソ連軍 約7万名 戦車438輌 装甲車385輌 火砲370門 戦車主力の機械化部隊

加えてソ連軍は機動兵力だけでなく支援火砲でも圧倒しながら更に増派増強していた。


日本軍の損害 戦死傷者 約19,000名 戦車 約30輌 航空機 約160機

ソ連軍の損害 戦死傷者 約26,000名 戦車 約250輌 航空機 約360機


ソ連が崩壊して情報開示されるまで「ノモンハンはソ連赤軍の圧勝、日本軍の惨敗」とされてきた。

関東軍から増派も僅かな第23師団に対してソ連赤軍 第57特別軍団のハルハ河での開戦布陣は戦車輌数2倍、装甲車13倍、榴弾重砲3倍、野砲も優勢で歩兵と航空機数は互角。

戦力で日本軍を圧倒しながらソ連軍は自軍の戦車兵の逃亡を防ぐ為に乗員ハッチを外から施錠し、戦線を離脱した兵の処刑督戦に火炎放射器まで使い、戦車1個旅団と装甲車1個旅団を損耗壊滅させて戦車2個旅団、装甲車3個旅団、化狙撃兵3個師団、空挺1個旅団の30,000名以上の増援を受けて、疲労した一個師団に勝てないならジューコフも赤軍政治将校も無能である。

戦車・装甲車が8倍以上のソ連軍に日本軍は軽装甲に小口径搭載砲の戦車戦、速射砲や機関砲に拠る正確な接近射撃と死力を尽くした肉薄戦の火炎瓶、地雷、手榴弾でソ連軍戦車250輌を撃破、多勢に無勢の空戦でも360機を撃墜した。

これは精神論ではなく、兵力、火力、装備の物理的な劣性に銃砲弾薬も不足する辺境最前線での日本軍歩兵、戦車兵、騎兵、砲兵、工兵、整備兵、航空兵達の技能技術を応用駆使した奮戦敢闘は称賛されて然る可きである。

尤も敵を侮り万策を講じず、最前線からの情報や意見具申を無視した上に己の失策と用兵の責任を部下に押付け腹を切らせる無能な軍司令官や師団長、作戦参謀などは万死に値する。

このような体質がポートモレスビー、ガダルカナル、インパールなどの南方作戦で多くの皇軍兵士の命を失わせた。

1941年10月15日 停戦後の国境画定交渉に於いてノモンハン以北は従来の国境線、南地区は停戦前の日本軍占領地を満州国領土とする満州国に有利な議定書がハルビンで調印されモンゴルは1,140㎡を領土を失う。

日本は政府が関与せず、外地駐屯軍の一師団が対応し、ソ連が国家的な対日戦争として対応したノモンハンの領土争奪戦は日本の勝利に終わる。


「ノモンハン事件はソ連赤軍の圧勝、日本軍の惨敗」は共産左翼のプロパガンダである。




委任統治領 南洋群島

1922年 日本は第一次大戦敗戦国ドイツ領の南洋群島を国際連盟より統治委任された。

南洋庁パラオ支庁と逓信省パラオ電信所


民間による南洋開発を推し進める為、日本からの定期航路・空路も就航する。

内地と南洋諸島を結ぶ、大日本航空 海洋部 川西九七式飛行艇とパラオ郵便局。


また拓務省内に海外移住相談所を開設し北米や南米を含め移民の募集や指導を行っていく。

南洋諸島にも多くの人々が仕事を求め入植移住し砂糖黍栽培や製糖工場に従事した。



ミクロネシア連邦の記念切手 

スペイン時代は宣教師 ドイツ時代はコブラ農園 日本時代は学校 アメリカ時代はストア

植民地だったミクロネシアが独立建国するまでの歴代統治国の特徴をよく表している。

好意的に見れば、それぞれ宗教、農業、教育、経済をミクロネシアに齎したと言える。

しかし見方を変えれば、統治支配国に拠る現住民の洗脳教育と労役搾取でもある。

スペイン・ドイツ・アメリカへの評価は判らないがミクロネシアに於いて日本人は好感を持たれており日本に拠る島の開発は島民に感謝され、パラオと日本の友好関係は現在も維持されている。

これは当時、日本からの入植者の多くが貧しい農村部出身故に島民を一方的に奴隷として扱わず、共に汗を流しインフラを整備を行い、友好と教育を大切にした人達の功績である。

南洋の平和な島を戦争に巻き込んでしまった日本にとって唯一価値ある嬉しい財産だ。


日本は国際連盟の脱退後に絶対国防圏防衛に武装禁止だった委任統治領 南洋群島に停泊施設や航空基地を増設する。

日本軍の南洋拠点、第四艦隊司令部が置かれたトラック諸島の連合艦隊泊地 


南洋の島に配備された帝國海軍「二式水戦」





日華事変の早期から米英は香港や仏印・ビルマからの輸送ルートを使い軍需物資や石油を雲南省 昆明に送り込み蒋介石を支援していた。

1940年9月23日 世論に押された近衛内閣に蒋介石との和平交渉を潰され中国戦線を拡大して泥沼に嵌っていた陸軍はドイツのフランス占領を期に悩みの種であった援蒋ルートの遮断を目的に仏ヴィシー政権政府と仏印総督の許可を得て仏領インドシナに進駐を開始。

英軍は仏領西アフリカに侵攻して仏軍と交戦、シリアやレバノンを武力で制圧占領しておきながら、許可を得た日本の南部仏印進駐を強硬に抗議し米英は対日経済制裁を行った。

蘭印・仏印の両植民地本国をドイツが占領した事は三国同盟を進める大きな要因となった。

国共合作軍との戦闘に三国同盟、仏印進駐は植民地支配国の欧米列強に東洋の新興国日本への疑念と反感を抱かせ資源禁輸制裁を受け包囲され枯渇する日本は選択を迫られる。




南方作戦

戦うも亡国、戦わざるも亡国、戦わずしての亡国は魂までも喪失する永久の亡国。

帝國は日本の領地権益維持と経済封鎖を破るべく、欧米列強の植民地支配下にある南方資源地帯の確保を目指して米英との戦端を開いた。

1941年12月8日未明、帝國海軍聯合艦隊は米海軍太平洋艦隊ハワイ真珠湾基地の在泊艦艇を徹底的に叩き機動力を奪う事で米国の戦力戦意を削ぎ、早期和平講和に持込むべく初戦に総力を掛けて空母機動部隊と潜水艦艇に拠る奇襲攻撃を敢行する。

早朝の真珠湾攻撃に先立つこと1時間20分、山下奉文中将揮下の帝國陸軍 第25軍 第18師団 歩兵第56連隊が海岸線で英印軍第8旅団の激しい抵抗を受けながらマレー半島北部 コタバルに強襲上陸、同半島を縦断して南端に位置する英印豪軍支配下のシンガポール要塞攻略を目指してマレー作戦を開始する。

第25軍 第5師団はタイ領内に上陸して進撃、英領マレー国境の英印軍第6・第15旅団の90輌の装甲車部隊と構築した強固な防御要塞を戦車12輌と580名の特別挺進隊が短時間で突破した。

マレーの虎 山下奉文中将が率いた第25軍はコタバル上陸から自転車歩兵部隊と九七式中戦車を主力とする機械化部隊を用いた電撃戦で英軍との95回の戦闘に勝利して55日間で1,100kmを走破快進撃してマレー半島南端に到達する。

クアラルンプールを攻略した第25軍は一週間でシンガポール要塞を陥落させ占領、英領マレー軍司令官パーシヴァル中将が降伏して揮下の英印・豪軍13万名を捕虜にした

同日12月8日 英領香港攻略に酒井隆中将揮下の陸軍 第23軍が九龍北方本土側より攻撃開始、参謀長 栗林忠道少将が香港攻略を作戦立案、英軍要塞防衛線を突破して12月25日クリスマスに11,000名の英軍が降伏して僅か18日間で攻略を完了させて英領香港を占領した。



翌年1月11日 海軍横須賀第1特別陸戦隊の空挺部隊がセレベス島のランゴアン飛行場に降下、陸戦隊が上陸してメナドを制圧、陸軍もボルネオ島バリクパパン、マルク諸島アンボンへ上陸 して蘭・豪連合軍を捕虜にする。

2月14日 陸軍 第1挺進団 挺進第2連隊がスマトラ島に空挺作戦を行い、蘭印軍守備隊、連合軍装甲車部隊と交戦、飛行場とパレンバン市を制圧占領、東南アジア屈指の大油田地帯と製油所を確保した。

今村均中将揮下の陸軍 第16軍主力がバリ、ティモール、ジャワの各島に上陸、700名の挺身隊がジャワ島バンドン要塞を攻撃、蘭英豪軍8,000名が降伏、蘭領インドネシアの石油資源獲得を目指した蘭印作戦を成功させる。



ペリリューの戦い

大戦末期、連合艦隊主力は米軍の飛石作戦に拠る米機動部隊の空襲を避ける為にトラック島泊地から滑走路や通信・補給施設が整ったパラオに後退、米軍はトラック基地空襲に続きパラオを空襲し上陸作戦を行う。

当時、パラオ諸島のペリリュー島には日本軍が2本の滑走路を整備、中川州男 陸軍大佐が率いる第14師団歩兵第2連隊及び歩兵第15連隊を中心とする陸海軍守備隊が置かれ米軍の反攻上陸を予想し強固なトーチカを構築、島の天然洞窟を要塞化して持久戦に備えていた。

1944年 9月15日 ガダルカナル以来、米軍最強とも謳われた第1海兵師団が強力な艦砲射撃と航空支援のもとに上陸を開始した。


11月24日 上陸以来、激しく抵抗した日本軍守備隊は玉砕電文「サクラ サクラ」打電。

司令部全滅後、米軍の掃討網を抜け関口中尉、山口少尉以下の約50名が遊撃戦闘に移る。


11月25日迄の10日間の激烈な戦闘で日本軍守備隊は10,695名の戦死者を出した。



一方、ペリリュー島を強襲した第1海兵師団も損耗率60%を超える壊滅状態に陥り陸軍第81歩兵師団に交代、米軍は1,794名の戦死者、戦傷者 8,010名他、数千名が精神に障害を受ける。


また硫黄島の戦いでも栗林忠道中将 率いる小笠原兵団は圧倒的に優勢な米軍に対し地下要塞を構築し最後の総攻撃まで敢闘玉砕、ノルマンディー上陸に匹敵する甚大な損害を与えた。


世界最強の米軍が恐れ怯えたのは一殺必中の航空特攻だけではない。

多勢に無勢の陸戦に於ての近接戦闘、十死零生の肉弾突撃、弾幕に怯まぬ侍の斬り込み。

抜刀隊の刃󠄁、不屈の精神と長く鋭い銃剣、日本兵の白兵戦に米兵達は慄いた。


戦後、敵将ニミッツ提督が日本兵の武勇敢闘を讃えペリリュー島の神社に建てた石碑に刻む

Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.

Pacific Fleet Command Chief(USA) C.W.Nimitz


この島を訪れる諸国から旅行者は如何に日本の兵士達が愛国心と共に勇敢に戦い、この島を守り玉砕したかを知らしめるべきである。

米国太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ


ニミッツ提督は、「ペリリュー島の攻防戦は米軍が既に制海空権を握っていながらも米国の戦史上、如何なる上陸作戦にも見られない最悪の損害(米海兵師団第一連隊全滅、1万人を超える死傷者)を出し、この島を占領したことは今もって疑問である。」と回想している。


先の大戦で太平洋を挟み日米両軍は死力を尽くして戦い壮絶に殺し合い、互いに畏れ讃え尊敬したからこそ今日の信頼関係と強固な日米同盟がある。


この激戦に於いて日本軍は戦闘前に住民を退避させ島民に1名も死傷者を出さなかった。


だが大戦中、帝國が武力に拠り制圧した占領地域に於いて総てがこの限りではない。



大東亜共栄圏

日本を盟主として共存共栄の国家連合・経済共同体、新たな国際秩序の建設を目指す。

欧米の搾取に苦しみ「八紘一宇」の理想を抱く日本人やアジアの人々がにいた。 


祖国から遠く離れた南の島で日本の若者達は神州不滅、皇国の正義と繁栄を信じて戦った。   

南洋に配備した帝國海軍「零式水上観測機」と命を掛け奮闘努力した若きパイロット達。 
 


アジア人の解放、大東亜共栄圏。

それは日本の自衛戦争をアジア人の聖戦として占領国を感化する方便になった。


帝國は列強から植民地を自由解放独立させる事を目的に出兵し占領したのではない。

大戦を戦った祖父や伯父達は帝國が欧米支配下の南方資源地帯を確保してABCD包囲網を破り、有利な講和を求めて戦端を開いた資源争奪戦を大東亜戦争と呼ばなかった。


しかし大陸に於ける戦いは帝國が始めた侵略戦争ではない。

日本が日清・日露・第一次大戦の戦役で多大な犠牲を払い正当に得た所領地や鉄道付属地、租界など国際条約で保証され日本が開拓整備した施政権益まで脅かされた。

古来、山海関 即ち万里の長城東外の関東・満洲は漢民族の土地ではなく、軍閥は徴税収奪しても保護統治せず、民国政府の施政権下にも無かった。

満州を我が物顔で荒し回った馬賊の頭目 張作霖は漢族移民で満州族ではなく、蒋介石も関東への侵攻を否定し、蒋介石の黄河決壊や焦土戦を批判した国民党和平派 汪兆銘政権政府は満州国を承認し平和共存を望んでいた。

満洲国には漢族に反目する満洲族、赤化の圧政から逃れた来た白系ロシア人やユダヤ人、ソ連に抵抗する蒙古人、移住してきた台湾人や多くの朝鮮人がいた。


支那軍閥は勢力争いを続け、義和団同然に民兵は再び青龍刀で居留民を襲った。

中華民国は国の体をなさず、条約協定を破り挑発を続け共同租界を包囲攻撃した。


居留民の生命財産を武力で脅かされ日本軍が応戦反撃して守った事を侵略戦争と言うな。

自国の外地、他国での戦闘を侵略とするなら世界中の国が侵略戦争をやっている事になる。


米英は大陸に近い新興国日本の台頭に脅威を抱き排除を考え蒋介石を軍事的に支援した。

米国は日本に消耗させ日英同盟を四ヵ国条約で妨害しチャーチルはハルノートを書かせた。


世界平和を望み臣民の幸福を願う陛下の大御心は戦争不拡大、日米開戦に反対であった。

戦争は死傷者数や後先で良い悪いが決るのではなく腕力の勝ち負けで善悪が決められる。

そして戦勝国が正義を名乗り敗戦国を裁き、戦勝国にとって都合良い歴史に書換えられる。


上海市街爆撃・南京虐殺・黄河決壊、支那は自軍の蛮行を常に日本軍の暴挙として喧伝した。

帝國に保護を願い出た朝鮮、居留民を襲い自国民を水攻め放火した支那、火事場強盗のロシアに侵略戦争と言われる筋合いは無い。




独立義勇軍

帝國は武力で占領した国には軍政官を置き独立を認めず帝國を盟主とし同盟傀儡政権を樹立させ対米英戦遂行の資源供給地にした。

英国支配から独立したビルマや米国統治から民政に移行していたフィリピンでも戦時と言う事もあり民主的選挙を認めず親日政権に据え換え占領軍の軍政下に置く。

やがて戦局悪化に軍票に拠る統制経済も崩れ始め、連合軍に協力する工作や抗日ゲリラが増加、日本軍に対する破壊活動は激しくなる。

一方、占領国民には日本の文化思想を教え軍事教錬を行い対英米の同盟として期待した。

嘗て蒋介石は日本に留学し帝國陸軍に籍を置き、朴正煕も陸軍士官学校を卒業した。

彼らは自ら希望志願して陸軍士官候補生として日本まで来て兵科や用兵を学んだ。


帝國は不足する占領地での守備兵力を補う為に親日派の優秀な若者達を現地で集め特務機関や陸軍中野学校出身の情報将校らが武術、戦術、用兵、工作、語学、軍政、情報戦等を教え幹部士官を養成し民族軍を設立する。

この幹部士官の中に後のインドネシア大統領となる若き日のスハルトやビルマのアウンサン将軍、ネ・ウィン大統領がいた。

1942年 ビルマではアウンサン達の独立義勇軍が日本軍と共に戦い首都ラングーンを陥落させて英軍を駆逐したが、1945年には敗色が濃い日本軍に対して反旗を翻し英軍の指揮下に入る。

しかし英国は彼らとの約束を反故にしビルマを再び英国植民地にして独立を認めなかった。

英軍に利用されたアウンサンはビルマの独立を見ずにして政敵に暗殺されたが、帝國陸軍 特務「南機関」 鈴木敬司大佐に受けた恩義を死ぬまで忘れる事はなかった。



1943年4月26日 遣独潜水艦作戦でインド人独立運動家チャンドラ・ボースを乗せて北仏を出航したドイツ海軍 U-180とインド洋のマダガスカル島南南東400浬の洋上で日本海軍の情報技術士官 友永英夫中佐と江見哲四郎中佐が乗艦の伊29潜が密会合を行う。

ボースらは伊29潜に移乗して日本に向い、友永中佐らはU-180でドイツへ向かった。

日本軍はマレー作戦やシンガポール攻略で投降し捕虜となった英印軍インド人将兵から志願者を募り「インド国民軍」を編制していた。

日本に亡命中のビハーリー・ボースからインド独立連盟と国民軍最高司令官を引継ぎ日本占領下のシンガポールに自由インド仮政府を樹立したチャンドラ・ボースは英米に宣戦布告。

インド国民軍には英国からの解放独立を求めて東南アジア在住の多くのインド人が志願、日本軍に拠って再武装された国民軍の総兵力は約45,000名に達する。

インド領内に進撃を望むボースの再三の要求でインド国民軍 6,000名がインパール作戦に参加、その後もインド国民軍は日本軍と共にイラワジ会戦等のビルマ戦線で英軍と戦う。

1945年8月18日 独立の闘士チャンドラ・ボースは台湾から大連へ向かう爆撃機の離陸時に事故に遭い台湾陸軍病院に入院、手当を受けたが2年後のインド解放独立を見ずに亡くなる。



日本の敗戦後、アジアは欧州列強の植民地支配が再開され現地民族の独立運動が起こる。

インドネシアではジャカルタ駐在武官 前田精海軍少将がスカルノとハッタを自公邸に受入れ独立を打合せ、1945年8月17日 連合国の承認を得ずインドネシア独立を宣言する。

しかし連合軍は敗戦した駐留日本軍に対し占領国の治安維持と独立派現地民への武器引渡しの禁止を厳命した為に、この命令を忠実に守ろうとした日本軍と現地住民との間で武力衝突が生じ、ジャワ島スマランでは両者に多数の死傷者を出し日本の民間人数百名が殺された。

この武器引き渡しを巡る紛争で英軍部隊と日本軍部隊が共同で現地人武装勢力と交戦する。

だが日本軍の多くは連合軍による武装解除の前に独立義勇軍に対し密に武器を引き渡した。

植民地の再支配を宣言したオランダは地上部隊を派遣し空爆を行うが、日本軍が鍛えた現地民族軍は苦戦しながらも植民地支配から独立を勝ち取る。


また日本の降伏後も内地へ復員せず占領国独立の為に現地兵と共に独立義勇軍として戦った多くの日本軍将兵がいた事も事実である。



1946年 インドシナに駐屯していた帝國陸軍 第38軍 第34独立混成旅団 参謀 井川 省 少佐ら 高級将校から下士官、兵卒に至る 約600余名の日本人志願兵が日本の降伏後も復員帰国せず、植民地ベトナムとフランスとの間に勃発したインドシナ独立戦争に参加した。

彼らはベトミンに戦闘訓練と作戦指導を行いベトナム・ラオス・カンボジア独立に貢献する。


ベトコン NVAは強い。 

彼らは深い熱帯ジャングルと泥濘をホーチミンサンダルで駆け抜け、掘り廻らせたトンネルに潜み、降り注がれる枯葉剤とナパームの雨に耐え、ネズミを食いながら餓えを凌ぎ、物量に物を言わせる米軍との戦い勝利した。

ジャングルで動きが鈍る米兵を息を殺して待ち伏せ罠を仕掛け単純必殺の武器を使う。

ベトナムは8年に及ぶインドシナ戦争を戦い抜きフランスから独立を勝ち取り、更に米軍と10年間も戦い追返した4年後、6倍の兵力で攻め込む中共人民解放軍にも負けなかった。

ソ連の軍事支援を受けていたホーチミンを是としないが、彼は共産主義者である前に愛国者であり、主義思想を問わず 祖国の為に命を捧げ勇敢に戦った将兵には敬意を持つべきだ。

ベトナム初の士官学校 クァンガイ陸軍中学の教官と医務官は全員日本人で元日本将兵約30数名がベトナム政府から勲章や徽章を授与され、現在に至るベトナム人の日本人に対する友好感情の基軸となっている。



アジアには日本が欧米列強と戦い植民地駐屯軍を排除し、独立の引き金になった事を今でも感謝してくれる友好国がある。

日本は清国とロシアの大国に抗い、先の大戦では欧米先進国連合を相手に国土が焦土と化すまで精一杯戦った。

日露戦争での日本の勝利に西洋に植民地支配されていたアジアの人々は歓喜した。

過去数百年に及び西洋白人に絶対支配されて来たアジアやアフリカ人々に東洋の端にある小さな島国の有色人種でも白人と対等以上に戦える事を証明し、白人支配と戦う勇気と希望を与えた事は疑う余地はない事実だ。

しかし自衛と国益、生存の為であっても日本が武力で制圧した東南アジアの占領国民からは侵略と言われても仕方ない。


欧米連合国との資源争奪戦に日本は腕力で負けた。

日本は大負けしたが、同時に英仏蘭は多くの植民地と奴隷を失いアジアは勝った。

西洋に対し日本がアジア人の解放「大東亜戦争」を掲げて戦った意義だけは生きた。


現地民を奴隷の様に扱い搾取支配してきた欧米列強に正義が有った訳ではない。


だが敗戦の結果である占領していた国々の独立を日本人が自慢してはいけない。

日本は負け犬のような遠吠えをせず、潔く非は認めて轍を踏まないのが日本人だ。


富国強兵が悪い訳ではない、独立主権国家として当然の権利である。

当時、欧米列強や戦争に勝った者と負けた者が平等の条約を結べなかった。

列強との不平等条約を甘んじて受けて来た貧国弱兵だった日本は富国強兵に努力した。


今の日本は国連会議場を退席しない。

日本が強い防衛力を保持しアジア諸国と協力して国民と地域の平和を守る事は正しい。 

これは戦争する為ではなく、軍事大国からの侵略を抑止防衛する為にも必要な事だ。



インドネシア・ビルマ・ベトナム・マレーで独立戦争に参加した数千名の日本兵が戦死した。


日本は敗戦降伏したが、彼らは敗残兵などではない。

部隊も階級も思想も補給も無く、彼らは誇り高く最後まで勇猛に戦った。

独立を見届けて帰国する人、また異国に残り、その国の国民として生きた人達がいた。

彼ら、名もなき戦士の事を日本が忘れてはいけない。


正義と友情の為に戦った彼らには紛れもなくアジア人の解放「大東亜戦争」であった。




勇敢に戦い殉じた若い空兵、水兵、歩兵、陸戦隊は国の誇り。 


硫黄島やペリリューの戦いを見よ 



領土国境とは命の上に在るものである。



現在の日本国領土。


戦前の台湾、朝鮮、南満州鉄道及び付属地、南樺太、千島、南洋群島は国際社会から認められた大日本帝國の正当な領土と統治権益地であり、日本が不法占拠、略奪したのではない。

尖閣諸島・竹島・北方四島は国際社会が他国領と歴史上一度も認めた事が無い日本固有の領土である。


1945年8月15日 帝國はポツダム宣言を受諾降伏する。

8月8日 一方的に日ソ中立条約を破棄して宣戦布告したソ連は樺太・千島・満州・朝鮮に侵攻して内地である北方四島まで降伏後に武力で強奪する。

ソ連赤軍は15日を過ぎても停戦せず侵攻を続け、多くの開拓民や無抵抗の市民をなぶり殺し婦女子を連れ去り強姦と略奪を繰返した。

ソ連赤軍と八路や朝鮮パルチザンがやった犯罪、日本降伏後の満洲を見よ

蛮族は葛根廟事件敦化事件小山克事件通化事件牡丹江事件麻山事件を起こした。


千島・占守島では陸軍 第91師団、満洲から転出した戦車第11連隊と海軍警備隊が強力に抵抗しソ連赤軍を撃退して、日魯漁業の女子従業員達の脱出後に停戦、降伏した。


北支・内蒙古の警備に当たっていた駐蒙軍司令官 根本博 中将は停戦命令と武装解除に従わず、破竹の勢いで進撃してくるソ連赤軍に対して独断で反撃命令を下し、駐蒙軍は激しく抵抗反撃して八路軍の攻撃も抑えて、4万人の在留邦人が内蒙古から避難し天津へ脱出が終わる8月21日まで防衛戦闘を行い居留民を守り抜いた。

1946年8月 終戦から一年後、北支那方面軍司令官を兼任していた根本中将は在留邦人の帰国と北支那方面の将兵35万の内地復員を終わらせた最後の船で帰還した。

総てを失っても帰国出来た人達は幸運であり、無事に日本に帰れなかった方々が沢山いる。

内地の農村で貧困に喘ぎ、大陸に夢と希望を求めて移住した人々は家族や命まで失った。


ソ連は終戦後に107万人の日本人をシベリアに抑留し強制労働させ約34万人を殺した。

この不当な抑留は戦後最長13年間にも及び強奪した北方四島は今も盗まれたままである。


ポツダム宣言「日本が国民多数に拠る平和的政権を成立すれば連合軍は日本から撤退する」

北方領土に居座るロシアはカイロ宣言の条項を引継ぐポツダム宣言にも明白に反している。


カイロ宣言 「日本は1914年の第一次世界大戦以降に占領した太平洋の全島を失う」

日本は大戦に完敗し国際連盟から正式に委任された統治領まで総て失った。


北方四島は開国以前より日本施政下の日本固有の領土であり、1855年の日露和親条約に於いて択捉島と得撫島間に日露の国境が確定され、ロシア領であった事は一度もない。

1875年の樺太・千島交換条約で日本は樺太の権益を放棄、ロシアは得撫島以北、占守島までの千島18島を日本に譲渡、更に1905年のポーツマス条約で樺太の北緯50度以南を永久に日本へ譲渡した。

厳密に言えば日本は史実や条約に基づき南樺太の返還も要求しなければならない。

だがソ連邦の崩壊時に領土返還の機を逃したのは日本政府の怠慢もある。

ヤルタで密約を交わした米国も沖縄返還を盾に日露条約締結と返還交渉に圧力を掛けた。



敗戦まで日本であった台湾も朝鮮も日本国民として欧米列強と戦った。

日本は兄弟である台湾や朝鮮を戦争に巻き込んだ事を反省すべきだ。

しかし韓国は宗主国 清の支配とロシアの侵略に自ら日本に保護を求めて併合されながら敗戦後に戦勝国と称し日本から竹島を盗み70年経った今も謂れ無い謝罪と賠償を要求する。

多くの朝鮮人が豊かさを求め日本、台湾、南洋、大陸に出稼に来ていた事実を揉み消すな

兵力、輸送力も不足する日本軍が慰安婦20万人 約10個師団を強制連行したと嘘を吐くな

帝國陸軍に自ら志願し戒厳令まで敷き日韓基本条約を締結した朴正煕大統領は売国奴か

旧帝國軍朝鮮人将兵が指揮を執り臆病な李承晩より勇敢に朝鮮戦争を戦った事も忘れたか

厳しい競争を勝抜き帝國軍人となり家族と国の繁栄の為に戦った80万人の朝鮮人志願兵を裏切り者呼ばわりして親日反逆罪を負わせた韓国は情けない。

日本に「歴史を忘れた民族に未来はない」と喚く前に国連加盟国ならばSF講和条約とカイロ宣言、日韓基本条約を自国民に読ませ真実の歴史を教えるべきだ。



国共内戦に破れ共産党に大陸から追い出された蒋介石と国民党は台湾に逃れ悪政を敷く。

国民党の独裁圧政に抵抗する本省人民衆が蜂起する二・二八事件が起き、蒋介石は戒厳令を敷き知識人や反対派を弾圧した。

台湾に生まれ若き日々を日本人として過ごした李登輝氏が蒋親子の死後、国民党主席に就き台湾の民主化を推進するまで強権政治は続いた。

京都大学から学徒出陣、帝國陸軍少尉として名古屋の高射砲部隊で終戦を迎えた李登輝総統は フィリピンで戦死した帝國海軍軍人の兄 李登欽氏が奉られている靖国神社を参拝した。

台湾でも国民党に拠り反日教育は行われたが、台湾の人達が友好的なのは知性的な李登輝総統の言葉や統治だけでなく開発もした日本と苦しめに来た国民党との違いを見たからだ。


根本博中将は終戦後、在留邦人と将兵の帰国協力また国体護持への恩義を蒋介石と台湾の人達に返すべく台湾に渡り金門島の戦いを指揮し殺到する中共軍を撃破して台湾の独立に貢献する。


日本人も国籍を離脱して満洲人になるべきと五族協和の建国を目指した石原莞爾は蒋介石と共闘してソ連の南侵と共産党を抑えるべく中国戦線不拡大を主張した。

帝國は対米戦争ではなく国民党が排日に傾く以前に蒋介石と合議して毛沢東の中共と強盗強姦を働くソ連のサイコ野郎スターリンを押えるべきだった。 

アジア人の解放、大東亜共栄圏は、それからでも遅くはなかった。

旧満州国 大慶で深々度の大油田が発掘されたのは日本の敗戦後であった。



海ゆかば

自分はタンカーや木材、冷凍運搬船で千島からインド洋、マリアナ、フィリピン、インドシナ、マレー、インドネシア、ニューギニア、ポリネシアの激戦地跡へ寄港した。

今でも海図に残る沈船表記、海岸で朽ち果てた艦船、航空機、戦車、機関銃、野砲の残骸。

現地の老人方から優しい日本の兵隊さんが教えてくれたと言う日本の歌も聴き、目と耳に確りと焼付けて来た。

故郷から遠く離れた南海の孤島、熱帯ジャングル、極寒の辺境で祖父達が家族と国の為に餓えや病に苦しみながら戦ってくれた事を思う。


祖国日本の正義と勝利を信じ、戦友と助け合い気候の厳しい外地で過酷な行軍戦闘に耐える姿、現地民や敵の捕虜、戦死者に対す­る敬意、戦友と談笑、疲れて眠る姿、素朴な笑顔、家族から来た手紙を懐かしみ嬉しそうに読む姿は平和な現代を生きる私達と何等変わらない。

しかし多くの日本軍将兵が海に沈み、空に散り、遠い異国の土になり、二度と日本の地を踏む事が出来ず愛する家族との再会を果たせなかった。

多くの市民を巻込み、敵味方の兵士の血を流した大戦を美化するつもりはない

また無謀な作戦を立案強行した無能な高級参謀、将官を讃えるつもりもない

ただ左巻が家族と国の為に戦った人達を鬼悪魔、犯罪者喚ばわりするのは我慢できない


国旗国歌に敬意を払い国の歴史を知り伝統を愛し護る心は帝國主義・民族主義ではない。





日本の近代史・戦史をに書いたブログ

「太陽の帝国」その1   真珠湾攻撃・マレー・蘭印作戦

「太陽の帝国」その2   インド洋作戦・珊瑚海海戦

「太陽の帝国」その3   遣日独潜水艦・海軍技術士官

「太陽の帝国」その4   ミッドウェ-海戦

「太陽の帝国」その5   聯合艦隊旗艦

「太陽の帝国」その6   大和出撃

「太陽の帝国」その7   マリアナ諸島 テニアンの戦い

「太陽の帝国」その8   大日本帝國

「太陽の帝国」その9   運命の瞬間

Empire of the Sun 10   「太陽の帝国」その10  満州事変

Empire of the Sun 11   「太陽の帝国」その11  上海事変

Empire of the Sun 12   「太陽の帝国」その12  兵に告ぐ 二・二六事件





38度線 休戦協定破棄 「朝鮮戦争 1950 KOREA」

赤いキャビア 極東安全保障経済戦略 北方領土

Posted at 2013/07/30 17:50:07 | コメント(3) | トラックバック(0) | 太陽の帝国 | 日記
2013年07月24日 イイね!

Empire of the Sun 7 「太陽の帝国」マリアナ諸島 テニアンの戦い

Empire of the Sun 7 「太陽の帝国」マリアナ諸島 テニアンの戦い前回の「太陽の帝国」 大和出撃 から時を戻る。

1944年7月24日の早朝、米海兵隊第2海兵師団は百数十隻の上陸用舟艇を島の南西部、テニアン港沖に一斉に前進させた。

1920年 第一次世界大戦後、ドイツ領であった北マリアナ諸島は国際連盟から正式承認されて日本の委任統治領となり 無人島のテニアンに約15,700人の民間人が入植する。

サイパンとテニアンの南洋興発の砂糖黍栽培園や製糖工場には多く人が従事してコーヒーや綿花、バナナ等も生産され、昭和初期には台湾に次いで砂糖生産量は東洋第2位になる。

また漁業では鰹漁が盛んになり、島内には鰹節工場も作られて街には学校、日本的な商店や料亭、映画館にカフェなども並び人々は、この南洋の楽園で平穏に暮らしていた。


帝國海軍は戦略的に価値が高い同島に囚人1280名を横浜刑務所から派遣し飛行場建設に充当
1,450mの滑走路を持つ南洋諸島最大のハゴイ(ウシ)飛行場を完成させる。

米軍名ノースフィールド飛行場は後に滑走路を 2,500m 4本に拡長された。



闘将 角田覚治 中将

1944年2月 先のソロモン海域での南太平洋海戦に於いて、米空母に向け艦載機の作戦行動範囲外から攻撃隊を発進させ、座乗する空母「隼鷹」単艦で敵機動部隊に向かって最大戦速で突進、米空母「ホーネット」を沈没させ、「エンタープライズ」を大破し撃退した、闘将 角田覚治 中将揮下の第一航空艦隊 第1021及び第121航空隊からなる基地航空部隊がハゴイ飛行場に進出する。

空母「隼鷹」は正規建造空母に比べて速力や装甲防御力が見劣りする商船改造艦ではあったが、正規空母と並び多くの作戦に参加して活躍、爆弾魚雷の多数直撃を受けながらも終戦まで生き残り報国、正規高速空母「蒼龍」に匹敵する航空機搭載能力は帝國海軍の貴重な航空戦力を支えた。




テニアン島守備兵力

海軍の陸上兵力は第56警備隊と防空隊の約1400名 基地司令部要員等 他約3000名

帝國陸軍は満州遼陽の第29師団から、連隊長 緒方敬志 大佐揮下の歩兵第50連隊を移駐
既営の第135連隊 第1大隊と合わせて歩兵4個大隊、砲兵1個大隊 九五式軽戦車9両 
約4000名を配備した。

防御火力は14cm砲9門 12cm砲4門 12cm高角砲14門 25mm連装機銃24門

陸海軍の合わせて 約8400名の陸上兵力となる。

6月20日のマリアナ沖海戦で日本機動部隊に勝利した米軍は7月9日 サイパン島を攻略。

テニアン島に進出した第1航空艦隊は、これまでの太平洋各方面の作戦とサイパン島防衛に艦爆・艦攻・陸攻・零戦など総ての航空機を投入消耗し、航空兵力は既に消滅していた。



テニアン攻防戦

7月24日、テニアン島上陸作戦を開始した米海兵隊の上陸用舟艇が海岸から約200mまで接近、日本軍守備隊が一斉に砲撃を開始して上陸部隊を撃退、また海岸砲台は米海軍戦艦「コロラド」に対し22発の命中弾を与え、駆逐艦「ノーマンスコット」も多数の命中弾を浴び艦長以下多くの死傷者を出したが、これは米軍主力上陸の陽動作戦だった。


7月24日07時 米第4海兵師団が水陸両用装甲車等約150両を以って防御が手薄な島北西部のチューロ海岸に上陸を開始する。

テニアン守備隊は陸軍第3中隊と海軍警備隊は米艦の艦砲射撃と爆撃、水際の戦闘で全滅、

米第4海兵師団主力と第2海兵師団1個大隊、山砲(75㎜曲射砲)4個大隊が上陸する。


7月24日深夜 日本軍が反撃開始、米軍の猛烈な射撃と照明弾に拠り日本軍は2500名にも及ぶ損害を出して反撃は失敗に終わり、戦車も4両を残すのみとなった。


7月25日 米第2海兵師団主力が上陸して南下を開始、日本軍はカロリナス高地北方に新防衛線を構築、16から45歳までの民間人男子 約3500名が義勇隊6個中隊を編制する。

7月30日 米軍は防衛線を突破し、テニアン市街を占領。


7月31日 日本軍が反撃を開始、夕刻まで続いた戦闘に日本軍は敗れ、島南端へ撤退した。

島唯一の水源地マルポの井戸を米軍が占領、日本軍は長期抵抗が困難となり、緒方連隊長は夜半にグアム島の第31軍司令官小畑英良中将に対し最後の報告を打電する。

8月1日 日本軍の反撃で栗野原 海軍大佐、林技術少佐をはじめ多くの将兵が戦死した。

8月2日 残存部隊と民間義勇隊 約1000名が突撃を敢行し、緒方敬志 大佐も戦死する。

第1航空艦隊司令長官 角田覚治 中将は笑顔で「じゃあな。」と言い手榴弾を抱え壕を出て兵士と共に戦闘に参加し戦死、三和参謀長以下海軍幕僚は自決、第56警備隊司令 大家大佐も戦死。

8月3日夜明け 日本軍は玉砕、テニアン島に於ける組織的戦闘は終結した。

その後も生存者は数名単位に別れ米軍施設の破壊を続けたが、地形が平坦なテニアン島では長期遊撃戦は難しく多くが米軍に掃討され、桝谷中尉以下61名が終戦まで抵抗を続けた。 

日本軍将兵 戦死者 約8100名   米軍将兵 戦死者 389名


角田中将は米軍の上陸前に昼夜を問わずして野戦陣地構築に協力した島の住民に対して
「ありがとう、皆さんは民間人なのですから私達軍人の様に玉砕しなくともいいのですよ」と、笑顔で最後の挨拶をして回ったが、多くの島民が自ら義勇隊の戦闘参加、また上陸前の艦砲射撃や爆撃、自決等で民間人 15700人の内 約1500名が亡くなられている。

帝國海軍は、この戦いで地勢軍事的な重要拠点を失っただけではなく、第一航空艦隊の歴戦有能な参謀幹部と山口多聞少将に並ぶ勇猛な提督 角田覚治中将を失った。

またサイパン島の戦いに於いては 、陸軍は 第43師団長 斎藤義次中将 井桁敬治少将  

海軍は中部太平洋方面艦隊司令長官 南雲忠一中将 第六艦隊司令長官 高木武雄中将が自決

約30,000名が戦死、サイパン島守備隊は全滅、民間人約10,000人が亡くなっている。


北太平洋まで絶対国防圏は破られテニアン島が陥落し、マリアナ諸島全域が米軍の手中に堕ちた事により、日本本土は常に空襲にさらされ、焼夷弾に拠る無差別絨毯爆撃に脅かされるようになる。





不定期南洋航路

今から25年位前に自分は初めて北マリアナ諸島サイパン島の南隣に位置するテニアン島に入港上陸して本船は6日間ほど揚荷役で停泊した。

テニアンの小さな港には補給待ちの大型遠洋漁船の他に本船と同じような ”Freego Oceania” と ”Rose Mary”と言うパナマ籍の冷凍貨物運搬船が荷役で着岸しているだけでクルーザーやヨット等レジャーボートは一隻もなく、貿易港とは思えないほど静かでノンビリしていたが、この2隻も翌日には荷役を終え出港して行き、在泊の貨物船は本船一隻だけになり更に寂しくなった。


この頃のテニアン島は観光の島グアムやサイパンとは違い、レジャー施設や観光ホテルなども無く、店と言えば出稼ぎのフィリピン娘が2、3人いて踊れる船員相手のBARが数軒と韓国人ママがやっている雑貨店兼レンタルバイク屋くらいで米兵軍属の姿も無かった。

朝からバイクを借りて島内観光に出掛けたが、何も無い島は観光と言うより探索だった。

雑貨屋で地図が書いている古い島のパンフレットを貰い、学校や駐在所、神社跡など日本統治時代の名残と日本軍のトーチカや壕、朽ち果てた対空機銃や6インチ砲等を見て回った。

この島も他の南洋の島々と同様に静かで、僅か40数年程前に多くの将兵が戦死、玉砕して多くの民間人が亡くなった事や嘗ての島の繁栄は千年以上も大昔の出来事に思えた。


右下の建物は第一航空艦隊の司令部跡と思われる。

SanJose村を出て熱帯の草木が鬱蒼と生い茂った細く長い道を抜けると急に視界が開けた。



1944年 米軍が日本軍航空基地を接収し拡張した長距離爆撃機の滑走路に自分は立った。

この長い滑走路の先にある青く広い空は日本の空に続いている。



新型爆弾揚陸

1944年8月 テニアン島を占領した米軍はグアムやサイパンと共に日本の本土を直接空襲すべく、日本軍から接収したハゴイ飛行場を拡張しB-29戦略爆撃機を大量に配備した。

1945年7月26日 サンフランシスコから米海軍の重巡洋艦「インディアナポリス」 USS Indianapolis が、テニアンに新型爆弾を輸送して来た。

数日後に”Enola Gay”と”Bockscar”の2機のB-29に搭載される、”Little Boy” ウラニウム型と ”Fat Man” プルトニウム型の2タイプの原子爆弾だった。

この滑走路から人類初の核爆弾が日本の広島と長崎に実戦投下する為に飛立った。


昭和20年8月に投下された広島と長崎。

あの夏の日はテニアンのように暑かったのだろうか。

平和で静かな南の島に立つ自分に、日本本土爆撃の惨状は想像できなかった。




重巡インディアナポリス撃沈


7月29日 米巡洋艦「インディアナポリス」はテニアン島基地で原子爆弾の輸送揚陸任務を完了した4日後の深夜、グアム島を経由してレイテに向うパラオ島の北方250マイル付近で哨戒任務中の艦長 橋本以行 少佐の伊58潜水艦(神潮特別攻撃隊の回天搭載)浮上時に電探で発見される。

「インディアナポリス」は護衛駆逐艦を伴わず日没後は対潜回避運動もとらずに月明かりの水平線を16Ktで直進巡航を続けていた。

艦橋から双眼鏡で戦艦級の艦影を視認した伊58潜は急速潜航して右転舵、潜望鏡深度で間合いを詰めながら「インディアナポリス」の右舷側60度の攻撃位置に就き魚雷戦を挑む。

この時、回天搭乗員達多聞隊は橋本艦長に何度も出撃許可を請うが「通常魚雷で沈められる時は通常魚雷で攻撃する」と橋本少佐は若い搭乗員達を説き伏せて回天の出撃を却下する。

午後23時26分 伊58潜水艦は「インディアナポリス」に対し、九五式酸素魚雷を距離1500mから 深度4m 雷速48Kt それぞれ3度の角度を持たせ扇状に3本を発射、2,3秒間隔を開け更に3本の計6本を時差雷撃で全門発射した。

航走した初弾が「インディアナポリス」右舷1番砲塔直下と2番砲塔後部に命中、続けて時差発射した一本が初弾が引き裂いた外板の奥に入り込み炸裂、2番砲塔下部の弾薬庫が誘爆を起こし大きな火柱を上げ右舷に傾斜し艦首から海中に突っ込み行き足を停める。

伊58潜は深度30mに潜航して魚雷装填を行い止めを刺すべく再び潜望鏡深度に戻るも艦影は無く 浮上航行しながら艦隊司令部宛に戦闘戦果報告を打電する。

主砲弾薬庫の誘爆と水密扉閉鎖の不徹底も重なり急激に浸水した「インディアナポリス」は雷撃から僅か12分後に転覆沈没していた。


米海軍は「インディアナポリス」からのSOSと伊58潜が打電した暗号を傍受解読しながら不手際に拠り乗組員の捜索救助が遅れる。

7月31日のレイテ到着予定を過ぎた8月2日に米軍の爆撃機が漂流者を発見する。

雷撃の生存者約800名は最長8日間もボートも無く、水も食糧も無い状態で洋上に漂い、衰弱溺死または鮫に襲われ最終的な救助者は僅か316名だった。

乗組員1,199名の内 883名が戦死した。


重巡「インディアナポリス」は、第二次大戦中に雷撃に拠って沈んだ米海軍の最後の戦闘艦となり、伊58潜は雷撃で敵艦を撃沈した帝國海軍最後の潜水艦となった。

「インディアナポリス」の生存者が救助された8月6日 広島、9日 長崎に原爆投下。 

撃沈が原爆の輸送中であれば、広島と長崎、太平洋戦史は変わっていたかも知れない。




椰子の葉影に十字星


島内探索の帰りにタイヤがパンクして汗だくでバイクを押して歩きながら色々考えた。

レンタルバイク屋に着くと韓国人ママにパンクしたことを何故だか異常に怒られる。

それまでの感傷の総てを暫く忘れさせてしまう高額な修理代の請求と日射病で気絶しそうになりながら支払いを済ませて港まで歩く。


サンタマリア・・・

こんな時に限って目も開けていられない強烈なスコールに叩かれる。

泳ぐ様にして本船に戻り、冷房の効き過ぎた船室で着替え午後の荷役当直にデッキに出る。

スコールが強烈過ぎてシャワーは必要なかったが、南の島で風邪を引きそうになる。

ニューギニアのマノクワリ港で帰船するサンパンに乗り遅れ、錨泊中の本船まで送ってくれた現地人のカヌーが浸水転覆して鮫に食われそうになりながら必死で本船のギャングウェイタラップまで泳いだ時の事を思い出したが、また別の機会に書こうと思う。


午後の荷役終了、ホールドハッチを閉めて夕方から若い機関長と二機士と3人で上陸した。

昼間、密かに偵察してきた”ムーンライト”と言うBARを奇襲攻撃する。

店のドアを開けると最初にフィリピーナに「あなたは韓国人ですか?」と聞かれる。

「たぶん日本人だと思うよw」と答えると彼女達はニコっと笑い急に愛想が良くなった。

後から当直外のクルー達も店にやって来て皆は酒を飲み彼女達とダンスを踊った。

自分はワムやライオネル・リッチーを歌いマイケルを踊ったが。

彼女達にはアル・ヤンコビッチにしか見えなかったようで、思い切り笑われた。

マイケルに成り切れなかった敗北感より、彼女達に「日本人だよ」と言いながら話す言葉も歌う音楽もアメリカに占領されていることに気付いたが仕方ない。

この島は日本の委任統治領からアメリカ合衆国の領土になった。


自分の十八番「ラバウル小唄」がカラオケのリストに無く、南洋航路を歌えなかった。

因みに初日のお会計は、非常にリーズナブルだった。

楽しい時間を過ごし、バーから帰船する途中、星灯だけの夜路を気持ち良く歩いていると

「Korean!」て、叫び声と石コロが暗闇から飛んで来た。

「No!We are Japanese!」と口だけで反撃すると・・・

「So~rry~」ってスグに降伏謝罪された。

「こんな遠い南の島で何をしたら、ここまで韓国人は嫌われるんだ?」

と皆と笑いながら歩いた。


後でバーの女の子達に韓国の船員は日本人だと嘘を吐き飲んで暴れる。と聞いた。

しかし、これは自分が入港した太平洋中の何処の港でも同じような雰囲気であった。



翌日の午後、岸壁で荷役中の本船に店の女の子3人が、わざわざ手紙を書いて渡しに来る。


手紙の内容は「○○愛してる、今夜も遊びに来てね」

一晩、歌って踊っただけの自分を愛してくれる。   

仕事真面目で熱心な営業である。

案の定、本船は出港まで彼女達の監視下に置かれ、自分達は他の店には行かせて貰えない。

お会計も順調に上昇していったOrz。

数日後の午後に荷役は終了し出港準備に掛かる、日没前に離岸抜錨。

彼女達は律儀に岸壁に見送りに来て、見えなくなるまで手を振ってくれた。

日本の海員は酔っても女の娘を殴らない、身ぐるみ剥がれても飲み逃げ食い逃げはしない。



本船は港外に出てカロリナス岬を躱しながら針路をSEに取る。

間もなく降納する船尾にたなびく日章旗と遥か水平線に沈む夕陽に照らされたテニアン島に向かい、自分は独り敬礼し戦没者に手を合わせると目頭が熱くなった。


角田中将、ありがとう。 また来ます。


さらばテニアンよ、また来る迄は、暫し別れの涙が滲む 

恋し、懐かし、あの島見れば、椰子の葉影に十字星。  


自分はデッキの上で 独り口ずさんだ。


本船は赤道と日付変更線を越える仕向地 サモアに向け航跡を曳きマリアナ諸島を後にした。





近年、グアムやサイパンは身近になり、多くの日本人が訪れレジャーを楽しんでいる。

それは、とても良い事。 

敗戦の荒廃から立ち上がり、豊かになった日本。

終戦から、もうすぐ70年になる。

しかし未だに日本に帰れない遺骨や魂が多くいる。

沢山の日本人が家族を連れて戦地を訪れ、子供達が笑顔を見せに来る事は戦没者にとっても慰霊になると自分は思う。

ただ青い海と空、美しいこの島で多くの日本人が亡くなった事を心の隅に留め置いて欲しい



この時か2度目に入港した時か忘れたが、荷役中に現地人の若いステベ(作業員)数名から

「日本の女学生やOLはスグに股を開く、女が島の男を漁りに来て金まで貰える」

「餓えた女は廃墟や壕、戦跡など人が亡くなった場所でも平気でヤル。」

「日本の女は薬物、乱交、何でも大好き、俺には日本にSフレンドの女が3人いる。」

「彼女らは給料が高い会社で働いて毎年、金を持って日本からヤリに来る。」と聞いた。



情けない。 

本人らはアバンチュールを楽しんでいるのだろうが・・・

現地の若い男達から汚いゴミの様に思われ、日本の品格を貶めている事に気付いていない。

いや日本人の品格など考えた事も無いだろう。

日本で人目を憚り出来ない事を、外国で大胆にやるな。

家族を養う為に出稼ぎに来ているフィリピン娘の方が、母国と貞操を大事にしている。

話半分、一部のアホ女だと思いたいが、鳩山同様に政府が旅券を没収すべきだと思う。


日本は豊になっても、バカになってはいけない。


「太陽の帝国」 大日本帝國に続く。



日本の近代史・戦史を書いたブログ

Empire of the Sun 1   「太陽の帝国」その1   真珠湾攻撃・マレー・蘭印作戦

Empire of the Sun 2   「太陽の帝国」その2   インド洋作戦・珊瑚海海戦

Empire of the Sun 3   「太陽の帝国」その3   遣日独潜水艦・海軍技術士官

Empire of the Sun 4   「太陽の帝国」その4   ミッドウェ-海戦

Empire of the Sun 5   「太陽の帝国」その5   聯合艦隊旗艦

Empire of the Sun 6   「太陽の帝国」その6   大和出撃

Empire of the Sun 7   「太陽の帝国」その7   マリアナ諸島 テニアンの戦い

Empire of the Sun 8   「太陽の帝国」その8   大日本帝國

Empire of the Sun 9   「太陽の帝国」その9   運命の瞬間

Empire of the Sun 10   「太陽の帝国」その10  満州事変

Empire of the Sun 11   「太陽の帝国」その11  上海事変

Empire of the Sun 12   「太陽の帝国」その12  兵に告ぐ 二・二六事件

Posted at 2013/07/24 21:53:09 | コメント(1) | トラックバック(0) | 太陽の帝国 | 日記
2013年07月22日 イイね!

Election results 戦果発表

Election results 戦果発表艦隊司令部発表

7月21日、日本の興廃を掛け参院戦を敢行せり。

去年12月衆院戦の敗退より再起を図った海江田艦隊を自民艦隊が再び撃破し、衆参両方面での制空海権奪還に成功、絶対国防圏内の捩れを解消した。


尚、自民艦隊司令長官は安倍晋三首相である。 



各政党艦隊への損害、喪失など戦果は以下、表の通り。




空母 ミンス     大破    59   石井一 岡崎トミ子  鹿野道彦   喪失  

戦艦 ハシシタ   無傷     9

甲巡 ソウカ     無傷    20

乙巡 アジェンダ  無傷    18

駆逐艦 オザワ   大破     2    山岡賢次 森 ゆうこ 東 祥三    喪失

原潜 ムネオ    撃沈     0

掃海艇 ミドリカゼ 撃沈     0    谷岡 郁子 亀井亜紀子        喪失

蟹工船 アカハタ  無傷     11

工作漁船 ミズホ  中破     3    福島瑞穂 辞任


※ 釣りっこ太郎ヤマモトは、余りにも周波数が狂い過ぎておりレーダー射撃を免れた。
  これにより太郎は6年間、国民の血税で飯を食い国益を削ぐ活動資金を得る事になった。


海江田・小沢艦隊は壊滅状態で敗走。

国家公安委員長の席で暗躍したマルチ商法と韓犬トミ婆は沈没。

しかし海江田艦隊は掃討殲滅されたのではなく、59隻は損耗を免れ未だ浮いている。

自民艦隊は参院も115隻に増強したが、蟹工船団が増えた事を注視しなければならない。

マスコミに拠る煽動撹乱情報を信ずるべからず。

各方面の戦闘詳報は、各自で分析されたし。

長期政権とならば中韓朝露と米国までもが、これまでの日本への対応を徐々に変えてくる。

また政権内にも金や名声で買われる売国奴やエージェントはいる。


尚、一部の日本人は中国の崩壊は日本の為になると考えるが大きな誤りである。

もし中国経済が壊滅する事あらば日本のみならず、悪影響の波は欧米まで波及する。

これは自民圧勝に対する戒めの言葉ではなく、世界経済構造上の事実である。

中国経済衰退は経済のみならず領土安全保障の監視分析を厳にせねばならない。

この機の対応を誤れば日本は領土防衛にてこずり、経済回復も減速する。

しかし中共や半島に出費し、謂れ無き賠償責任を認め領土の侵犯に譲歩してならない。

中共海軍は参院選の隙を覗い対馬海峡から日本海に入り、ウラジオストク沖でロシア海軍との演習に初参加後、オホーツク海、宗谷を通過し、日本列島を初めて一周回航している。

日本は防衛を強化しつつ経済を立て直す。

企業は中国戦線から縮小撤退、南方へ進出し経済・安全保障の同盟関係強化を急ぐべきだ。


是より日本の作戦参謀には、一層賢い経済・外交・安全保障戦略を立てて貰いたい。




Posted at 2013/07/22 08:58:27 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日本の未来 | 日記
2013年07月18日 イイね!

Election to determine the future 国の未来は国民が決める

Election to determine the future 国の未来は国民が決める会社や家族の未来は社長や家長に責任がある。

民主主義国家である日本の針路や法案は国会で決める

国の未来を左右する国会議員を選出するのは国民自身

しかし、多くの国会議員は国の未来に責任を取らない。

其れ許りか己の言動行動にすら責任を取らず、嘘偽りを
並べマルチ商法や投資に誘い国民を騙す者さえいる。


北京に忠誠参拝し、天皇陛下を政治利用、悪行は全て秘書の責任にして逃げる野戦司令官。

瀕死の原発に止めを刺して被曝者を増し、反原発を善人面して嘯く北の破壊工作員お遍路。

国際協調と安全保障を無視し、元首相でありながら常に外国に利用され日本を盗人呼ばわりして 日本列島は日本人のものではないと言う本物の基地外。

国民の意思を無視して特定の外国に多額の資金を援助し、日本国民の利益にならない公約にない有害法案を通そうとする似非日本人と傀儡左翼議員。

票の欲しさに嘘を並べ手当をばら撒き、国を切売りした3年間で日本は疲弊して周辺国から領土まで脅かされるようになった。

こうなる事は民主・社民党議員の顔ぶれと思想を見れば充分に理解し予測できた事だ。


己党の無能を反省する処か現政権を批判するだけバカ集団。

民主政権は3年間、何をやっていたのか。

バカと売国のハイブリッド政党は日本の歴史に汚点と数々のアホな伝説を残した。


しかし奴らの違法な罪は追及できても悪政への責任は問えない。

情けないが、多くの国民が政権与党を安易に選んだ結果だからだ。


反米親中韓のマスコミは4年前を踏襲し、連日必死に与党を叩いている。

精神的に景気回復の足を引っ張ったのは左巻バカ経済学者と左翼マスコミだ。

目が逝ってるバカ候補達が根拠の無いアホな極論を言う政見放送も見ると頭が痛くなる。

賢く回り固める外交戦略を批難し原発事故と戦争の恐怖を煽り、選挙の時だけ被災地復興。

毎度の様に厚遇な社会保障と税制などの心地の良い話で国民を釣るな。

多くの政党は他党を口撃するだけで対案も持たず、あるのは幼稚で狭小短絡的な愚策のみ。


日本は島国、経済と技術に国際信用が命である極東の小国と言う事を忘れてはならない。

経済、通商、食糧、資源エネルギー、安全保障、就労などを欧州や大陸の地続の国と同じ条件理論で考えるべきではない。

競争の無い豊かな国など有り得ない。

学術、技術、科学は強制ではなく競争の中で磨かれる。

研究や教育、道徳を疎かにする国は発展しない。

資源もなく国際競争力の低い国は貧困に陥り属国に成り下がる。 

これは内需や企業に於ても同じ事であり、論理的且つ歴史的事実である。


強い国より優しい国? 

国力の無い優しいだけのアホな国家は国際社会の中で生き残れない。

日本企業の首を絞めて賃上を要求し、税収を上げず厚遇な社会保障を約束するのか。


国が・・・国に・・・国の・・・  

国は大金持ちでも、神様でもない、打出の小槌も埋蔵金も無い。

国とは、国家と言う同じ家で暮らす人の集合体であり、主権は国民にある。 

一部が望んでも日本は、社会主義・共産主義を掲げる名前だけの人民共和国にはならない。


有権者と全く同じ思想信条を持ち国会で代弁する議員は多くない。

国民も自己利益だけではなく国の将来をよく考え、よく調べて議員を選出すべきだ。

選挙権は政治に参加する国民の権利。


少なからず国政選挙の結果は必ず、国政国策に影響し日本の未来を変える。



「自民党が勝つわ。」

「ララァは賢いな。」


アラブの春、現在のエジプトに見る明日の乱れ、再び中東は荒れる事になる。

良くも悪くも、これが民主主義。 



日本の未来は日本国民が決める。



と、明日を信じて票を投じに日曜日は出掛けよう。


Posted at 2013/07/18 18:10:04 | コメント(6) | トラックバック(0) | 日本の未来 | 日記
2013年07月02日 イイね!

Empire of the Sun 6 「太陽の帝国」 大和出撃 

Empire of the Sun 6 「太陽の帝国」 大和出撃 帝國海軍技術士官であった、氏を偲んで生前に、お聞きした話を
故人の手記より抜粋し数回に分けて書いている。

戦争・第二部「海軍中将 平賀 譲」の続き、故人の回顧録より

戦争・第三部  「大和出撃」
昭和二十年四月七日 既に米軍は沖縄に上陸し、佐世保は朝から度々、警戒警報が発せられる日の昼過、会議室に呼ばれた。

会議室には既に造船部長、船穀主任、設計主任が列席しており、造船部長から「緊急工事だ、「大和」が損傷を受けて入渠する。 

第7船渠に至急盤木の手配をせよ。」と当時、船穀工場の技術大尉の小官に突然闇から棒の命令があった。

戦艦大和が前夜、軽巡、駆逐艦を従え描地を出発。 

豊後水道より東シナ海に出て沖縄へ向かう途中、待ち構えていた多数の米軍機の攻撃を受け左舷浸水、残った右舷機関で15節にて航行中、修理の為に佐世保に向かっている、と連絡が入った。

沖縄上陸の米軍を攻撃すべく、連合艦隊司令部は「天一号・菊水一号作戦」を発動。

伊藤 整一 中将率いる第二艦隊の戦艦「大和」 軽巡「矢矧」 駆逐艦「涼月」「冬月」「雪風」「磯風」「浜風」「朝霜」「初霜」「霞」が、海上特別攻撃隊を編成、この精鋭が大挙して南下していた。

戦艦 「大和」


軽巡洋艦「矢矧」


駆逐艦 「朝霜」

特に「大和」は「沖縄に突入、陸に乗り揚げ砲台となり攻撃すべし。」との命令を受けていたと風聞もあったが、まさか軍司令部が、そこまで血迷っていたとは思いたくない。

ともかく沖縄の作戦に従事すべく、南下中に損傷を受けた「大和」を第七船渠に迎え入れて、早急に修理し戦線へ戻さなければならない。

その為に船渠にキ-ル盤木を設置し、艦を受け入れる用意をするのが与えられた任務だ。

盤木の配置は艦の重量を均分に支え、船体に無理な荷重が掛らぬ様にしなければならない。

それ故に、大和用の「盤木配置図」(軍極秘)が作られている。

此の図面が設計主任より提示され、それを中心に技師、技手等と詳細の打ち合わせに入る。

昭和16年 呉海軍工廠で最終艤装中の戦艦「大和」


「第七 船渠」
この船渠は「大和」「武蔵」の超巨大戦艦の建造と同時期に、これら新造艦を入渠させる為の設備として計画され、大和型戦艦を超える長さ 332m 幅 47mの艦艇まで収容が可能で既に昭和16年1月に完成していた。

そして幸いな事に、此の佐世保のドックは「大和」の姉妹艦である「武蔵」を収容した事がある。

昭和16年7月 当時、長崎の三菱造船所で建造中の戦艦「武蔵」が推進機取付け工事の為に、このドックに約一ケ月間入渠した。

推進機の工事は三菱側に拠って機密裡に行われ、佐世保工廠側はタッチする事は無かったが入出渠作業は佐世保の仕事であり、その経験が今回は役立った。

図面での配置の検討、盤木の用意、作業員の割当、諸々の準備、これは大変な仕事だった。

明日の朝、艦の到着までに何としても仕上げなければならない徹夜の作業だ。

然し、燈火管制下の微かな灯りの下では、作業が進まない。第一に危険だ。

「照明を点けて作業をさせたく、灯火管制の解除をお願いしたい」と造船部長に申し出る。

勿論造船部長だけでは決定出来ない。工廠長へ、或いは鎮守府長官まで具申が行ったのかも知れないが、やがて「了承 」となり、明るい灯火の下で夜を徹して盤木の整備が進む。

「傷ついた大和を少しでも、早く修理して戦場へ戻すのだ。」と、言う使命感が作業を捗らせる。

幸い空襲も無く工事は順調に進み、漸く空が明るくなり始め、作業が八分通り済んだ頃だ。
 

「作業に及ばず」
突然、「作業に及ばず」即ち、直ちに作業を中止せよ。との司令が現場に届いた。

今になって此の指示とは、さては「大和」は沈没したのか。

張りつめていた気が一気に緩み、疲れがどっと出た。

大和の佐世保入渠が取止めになり、漸く「大和」の為に並べた盤木をバラし、小型艦艇用に配置を替える作業が情けない思いで続けられた。


「戦傷無惨」
8日朝、「大和」と戦場へ向かっていた随伴駆逐艦が無惨な戦傷の跡を見せ入渠して来た。

「冬月」「雪風」が入港し、続いて昼過ぎに「初霜」。

駆逐艦 「冬月」


駆逐艦 「雪風」


駆逐艦 「初霜」

その姿は何れも満身創い、刀折れ、矢尽きたと言う様相で激しい闘いの跡を偲ばせている。


忘れられない光景がある。 

夕刻、薄暮の頃、最後に「涼月」が漸く辿り着いた。

まさしく辿り着いたと言うべきであろう。

「涼月」は、艦前半部が完全に破壊され沈没寸前にあったが、残った後半部のみが上甲板が燃え続けるまま人力操舵により、舵、推進器を先頭に後進の姿勢で佐世保に入ってきた。

駆逐艦 「涼月」 佐世保海軍工廠 艦橋楼より前部を失っている。

自動車で言えば、バックで後進強速9節。

暗闇の東シナ海を突っ走り、今やっと辿り着いたのだ。

火災で煙を上げながら漸く艦が岸壁に近づいた時、既に帰投していた「冬月」「雪風」「初霜」の乗組員や船渠の作業員達が驚異の眼でその姿を迎え、やがて大歓声が港中に沸いた。

「よく帰って来た。」 ここに日本海海戦以来の海軍の伝統を受け継ぐ武人がいた。

「涼月」をブイに係留をしようとすると突然、艦首が沈み始めた。 

そこで急遽、船渠の扉を開き、曳船に抱きかかえられる様にして船渠に引っ張り込んだ。

排水の始まった船渠の盤木の上に「涼月」の疲れた船体がやっと落ち着いた時、船渠を囲んだ皆の顔に安堵の色が浮かんだ。

第二艦隊の精鋭のうち生きて帰ったのは、この4艦のみ。

これが天一号作戦の終焉であった。


「疑問」
終戦後、戦艦「大和」の記録を読む度に、私を捕えて離さない疑問がある。

戦記資料では「大和」の沈没は昭和20年4月7日 14:23 対空戦闘2時間余の後とある。

だが私達は、この時刻の頃から「大和」入渠準備作業を始め、徹夜で作業をを続行した。

明くる8日の朝、「作業に及ばず 」 つまり大和沈没を知らされるまで15時間もある。

この時間の差は何であろうか。

当時の戦況は、7日の払暁「大和」は大隅海峡通過して直後より、米軍機の追尾を受ける。

以降の行動は米軍に隈無く把握され、軍司令部にも通信を密にする。

12:32 敵機 百機以上の攻撃始まり、最大戦速27節を振り絞り、左に回避を続ける。

13:00 魚雷命中、すべて左舷に5本。傾斜計指度上昇し始む 右舷防水区画に注水

(以下、私の推定)
13:30  軍司令部は「大和」に応急修理の為、佐世保に回航を指示。
       一方、佐世保工廠に 修理の手配を命ず。

14:00 佐世保工廠、造船部、第7船渠準備会議

14:23 軍令部「大和」沈没を知る。
      然し、海軍は「大和』の沈没は軍機事項で公表できない。
      佐世保工廠の準備は、頬被りのまま続行させる。

16:39 軍令部 特攻作戦の中止を発令。
      然し、此の指令が現地、関係機関に届くまでには、かなりの時間を要した。

翌8日朝、損傷駆逐艦の佐世保入港を控え、止むを得ず工事の変更を指示。
      
即ち「作業に及ばず」の発動。

15時間の空白は、軍司令部が己の面目を堅守する為に、大和沈没の発表をぎりぎりまで遅らせ、佐世保に無駄な仕事をさせた事を意に介しない。

あの15時間、無駄に費やされた技術士官や、工廠作業員の徹夜の努力、敢えて言えば愛国心の凝結は何の為だったのであろうか。

根底にあるのは「海軍全体のケジメ」だ。

大和の出撃も敗戦後「大和」が残存していては、これまた己の面目を失う。

闘い抜いて全滅した航空部隊に申し訳ない、「大和」に死んで貰え。 

そこで参謀が呉へ行き「一億総特攻の魁となって戴きたい。」言い換えれば「頼む死んでくれ海軍の姿勢を見せろ」と知性派であり部下を思い兼ねて水上特攻に反対していた第二艦隊司令長官 伊藤整一中将や大和艦長 有賀大佐を説き伏せ強行したと聞くが、議論が面倒になり「死ねばいいんだろう。」と、なった様にも聞く。

帝國海軍が誇るべき戦艦「大和」は、また三千名の乗組員は海軍の、しかも一部の指導層の面子の為に海の藻屑と消えたのか。

終戦60年、今また海軍上層部に対する腹立たしさが込上げて来る。

目前の戦術のみ有って、戦略無き海軍上層部は遂に海軍を潰し、日本を敗戦に追い遣った。

百年前の日本海海戦において戦果を修めた伝統は何処に失せたか。

海軍上層部の無能が太平洋戦争の敗戦の要因であると、悲憤慷慨する。

今になっても戦火の余燼の煙を漂わせながら、後向きにヨタヨタと入港してきた「涼月」の勇姿を忘れる事は出来ない。

嘗て海軍に籍を置いた老技術士官、ここに無念のキーを措く。


・・・・・以上、故人の回顧録より。  戦争・第四部 「運命の瞬間」に続く。






戦艦「比叡」 金剛型戦艦2番艦 同型艦「榛名」「金剛」「霧島」

改装時に大和型戦艦の試験艦として新技術が導入され南雲機動部隊の一艦として行動する。

第三次ソロモン海戦で喪失。 太平洋戦争で最初に沈没した日本海軍の戦艦となった。



世界最大の戦艦、高速巡洋艦隊、駆逐艦隊、空母機動部隊、水雷戦隊、航空潜水艦。

当時の最新技術が詰込まれ様々な条件や被害を想定し配置など熟慮工夫された艦艇。

無敵の大日本帝國海軍連合艦隊。

空を舞う零戦、艦攻、艦爆、陸攻、飛行艇の勇姿を見て、若い兵達は帝國の勝利を信じた。

欧米を知らず、あの時代に生れていたら自分も、そう信じて疑わなかったに違いない。

優秀な技術者が良い物を沢山作り、祖父や伯父さんが籍を置いた日本海軍が自分は好きだ。


日本の軍人は国の為に戦い死ぬ覚悟をする。

しかし年功序列の海軍内一部上層部の石頭が艦隊決戦に固執して、新技術や思想を否定し用兵と作戦計画の失敗から勝てない戦闘、戦争に多くの将兵を死なせた。

軍縮条約を破棄してまで巨大戦艦を建造させておいて、戦艦は海戦で艦隊の先頭に立つ事はなく、帝國海軍、いや世界最強の主力戦艦を後方に温存し末期まで敵と砲火を交える事も無かった。

何時も奇襲、騙し討ちが成功する訳がない、作戦参謀は常に会敵と失敗に備えて2段、3段構えでバックアップの作戦を考える必要があった。

ミッドウェー作戦は米空母を誘出撃派を謳いながら必要の無いアリューシャン陽動に兵力を分散し、充分な護衛も付けず、4空母だけに突っ込ませ、旗艦「大和」と連合艦隊主力部隊は300マイルも後方の米艦載機攻撃範囲外、基地にも敵空母にも夜襲を掛けるには遠過ぎる安全圏で観戦。

「へぼ将棋、兵より戦艦かわいがり」 これでは違う意味の「アウトレンジ戦法」だ。

自分も「長門」や陸奥」「大和」も「武蔵」も好きだ、しかし戦艦は戦う為に生れて来た。

制空権を奪われ、防空能力に劣り足が遅い戦艦は高速空母機動部隊の足で纏いになる。

長期戦略と作戦計画に失敗した上層部は言い訳した。

浮いている物は何時か必ず沈む、絶対的不沈艦など有り得ない。

制空権の重要性、護衛戦闘機が無い戦艦、航空支援を受けられない艦隊は丸腰だ。

陸攻隊が航空雷爆撃で大英帝国海軍が誇る最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を開戦2日 僅か2時間で沈めた。


「航空主兵」

帝國海軍自らが初戦の真珠湾攻撃とマレー沖海戦で世界に証明した事だ。

大戦末期まで戦艦を温存しながら練習機や戦闘機を自殺機に改造し、次々に特攻兵器を作らせて日本の将来に必要、有望な多くの若者を人間爆弾、魚雷として敵艦に突っ込ませ体当りさせた。


百年兵を養うは、何の為か。

特攻は戦法などではない、己の失敗失策を若者達の命で穴埋めさせるな。

兵を育てず、駒として使い殺す海軍は勝利しない。 

必要以上に優秀な若い兵を無駄死にせない事が勝利に繋がる。

生き残った戦艦「大和」も最後には上層部は面目の為に多くの乗員と共に水上特攻させた。

日本の宝 沖縄を護る。 日本海軍として当然の責務である。

だが海岸に擱座させ陸上砲台にし玉砕させるのが、帝國海軍の戦艦と水兵の使い方なのか。

勇敢に戦い殉じる若い空兵、水兵、陸戦隊は国の誇り。 

彼らの命を大切にして欲しかった。



戦艦「武蔵」 1944年10月24日 レイテ沖海戦で魚雷23本 爆弾17発命中 至近弾18発以上の(武蔵副長 加藤憲吉大佐の記録に拠る)軍艦史上最多の損害を受け、初弾被雷より約9時間後にシブヤン海に沈没。

戦艦「大和」 1945年4月7日 魚雷10本 爆弾5発以上(日米戦闘詳報一致せず。)左舷に集中雷撃を受け坊ノ岬沖に沈没。

多くの海戦に出撃して奉公したかった「大和」も「武蔵」も航空機に嬲り殺しされて無念であろう。


ミッドウェー海戦で「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」正規空母4隻・艦載機289機 重巡 「三隈」沈没  戦死者3,057名

米海軍側損失 空母「ヨークタウン」駆逐艦「ハンマン」沈没 戦死者 307名


天一号作戦・坊ノ岬沖海戦では 戦艦「大和」軽巡「矢矧」駆逐艦「磯風」「浜風」「朝霜」「霞」沈没  戦死者3,700名(うち「大和」乗艦 2,740名)

米海軍側損失 艦載機 10機 戦死者12名



山本五十六、米太平洋艦隊に大打撃を与え米国の戦意を喪失させ早期に講和に持込む。

開戦前、大艦巨砲・艦隊決戦主義は日本だけでなく、世界の海軍で主流であった。

寧ろ日本海軍は列強の海軍より航空艦隊・空母機動部隊の整備は先んじていた。

山本長官は米国駐在武官でハーバード大学留学、帰国後に海軍航空本部技術部長に就き、自からも航空機の操縦を学んだ航空主兵論者だった。

だが大日本帝國軍は陸軍・海軍の軍令部はおろか、開戦に及んでも連合艦隊内ですら意志統一がなされていなかった。

また艦隊決戦主義者の中にも制空権の重要性と航空攻撃の打撃力に気付き、航空主兵に主眼を置き始めた将官も多くいたが時既に遅し。

短期で主兵を転換する工業力など日本にはない。

建造中の大和型戦艦三番艦を空母「信濃」に変更、「雲龍」「天城」は完成したが搭載する航空機も燃料も無く、魚雷と爆弾の標的となり短過ぎる艦齢を終えた。


開戦後、もっと早い時点で戦艦も前に出し主砲を撃込める作戦と機会は幾度もあった。

戦局が悪化し始めた頃でさえ、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場への戦艦に拠る夜間艦砲射撃に反対した艦隊決戦主義者がいた。



連合艦隊戦艦の戦歴

「陸奥」
1943年6月8日 一度も交戦する事なく柱島で三番砲塔火薬庫が爆発を起こし沈没。

「長門」
1944年6月19日 マリアナ沖海戦に第二航空戦隊 空母「飛鷹」「隼鷹」の護衛として参加。

1944年10月24日 捷一号作戦に参加、シブヤン海で米空母艦載機の爆撃で被弾、内地へ帰港

1945年7月18日 横須賀で米空母艦載機の爆弾3発を受け艦橋が破壊され終戦を迎える。

1946年7月29日 米海軍に接収、ビキニ環礁に回航され、実験で2発の原爆を受け沈没。


レイテ湾で米艦載機の空襲を躱す、航空戦艦「伊勢」 伊勢型戦艦一番艦 同型艦「日向」  

5・6番砲塔を撤去し射出機と飛行甲板を備え、副砲も全廃され対空兵装が強化された。

「伊勢」「日向」は、ミッドウェー海戦で喪失した航空兵力を補う為、爆発事故で五番砲塔を失っていた「日向」と姉妹艦「伊勢」を航空戦艦に改装、レイテ沖海戦に参加したが航空機は一機も搭載する事なく射出機を撤去、その後は両艦は物資輸送に投入され内地へ帰港、呉港で2度の空襲を受けて1945年7月 両艦ともに大破着底した。


戦艦「扶桑」扶桑型戦艦一番艦 同型艦「山城」

「扶桑」「山城」
1944年10月22日 第二艦隊第三部隊としてブルネイ泊地を出撃、レイテ沖海戦に参加。

「扶桑」は爆弾1発 魚雷4本が命中し沈没、「山城」もレーダー射撃と雷撃を受け沈没。


戦艦「金剛」 金剛型戦艦一番艦 同型艦「榛名」「比叡」「霧島」

空母機動部隊に随伴護衛出来る様に第二次改装で最大速力は30.3kt に引上げられた。

「金剛」「榛名」は開戦当初から南方攻略部隊の支援任務に就き、ガダルカナルの攻防戦で2隻は共にヘンダーソン飛行場を砲撃、マリアナ沖海戦は機動部隊の護衛として出撃。

レイテ沖海戦サマール島沖で米護衛空母「ガンビア・ベイ」を撃沈して両艦も損傷を受ける。

1944年11月21日 日本への帰投中「金剛」は台湾海峡で米海軍潜水艦「シーライオン」の雷撃を受け魚雷2本が命中、基隆北方で沈没。

「榛名」は内地に帰港したが、呉港で「伊勢」「日向」と共に2度の空襲に拠り20発以上の命中弾を受け浸水、1945年7月 大破着底。


戦艦「霧島」

「比叡」「霧島」は第八戦隊に編入され重巡「利根」等と南雲機動部隊と行動を共にした。

1942年11月13日 第三次ソロモン海戦で「比叡」は、集中砲火と航空爆、雷撃を受け自沈。

11月15日 「霧島」も米艦隊との夜戦でレーダー射撃に拠る9発の命中弾を受け自沈。



米空母を討ち漏らし第2次攻撃を掛けず港湾修理施設を破壊せず不十分な攻撃で機動部隊を引上げた真珠湾攻撃に於いても戦艦、巡洋艦による湾内の艦砲射撃を提案した将官もいた。

油が底を突き、動けなくなった丸腰の戦艦は巨大なスクラップ、叩き易い標的になる。

例え斬り込んで戦艦、巡洋艦隊が被害を受け、潔く早い時点で戦争に負けても戦線を拡大し無意味に長引かせ多くの人命を犠牲にして国を消耗、壊滅させるより遥かに良い。

少しでも好状態で講和を、ミッドウェー辺りでもう一撃食らわせたい気持ちは解かる。

末期には戦艦「長門」をはじめ艦艇数隻をウラジオに回航してソ連と航空機や燃料と交換するという、スターリンを信じる能天気な計画もあがった。

敗戦の原因は列強との国力、工業力だけの差だけではない、最前線を知らぬ大本営作戦部の甘い憶測から立てた無謀な作戦が常に米英軍の後手に回り首を自軍の絞めた。

米国を仮想敵としながら鉄や石油の殆どを米国に依存していた日本海軍。

海軍には自ら艦隊の先頭に出て指揮を執り闘い、三国同盟や特攻に反対する者も多くいた。

多くの高級幹部将官は武官として欧米に派遣された経験があり、日本と列強の国力や技術、生産力の差を充分に理解していた。

連合国相手の消耗戦に本気で勝てると思っていたバカはいないと思いたい。

しかし日米開戦を望んだのは大陸で中国と戦争をしていた陸軍ではなく、海軍の多数を占めた対米英強行派の連中と国民世論と政府内閣であった。

国の存亡興廃、国運を賭する国防と云うものは一部軍人軍閥の占有物であってはならない。

また文民統制、シビリアンコントロールも万能ブレーキではない。


負け戦を美化しては、いけない。 検証し反省しなければ、また負ける。


この戦争で国と家族の未来の為に戦い亡くなった総ての方への感謝と哀悼の念は堪えない。


我々子孫は、日本を彼らの死に恥じない国にしなければいけない。



旧態依然、現実と未来を予見出来ない戦艦至上主義者が制空権を軽んじ航空主兵や潜水艦に拠る補給路切断戦等の新しく合理的な考えを否定した為、日本海軍は対空防御、無線電話、レーダー、ソナーなどの新兵器の開発が遅れる。

「現有対空射撃兵器を以てしては、之を如何ほど増強し、如何に教育訓練に努力せしも、その到達する所の射撃実力には限界あり。もっとも現有の対空射撃兵器の性能は主砲、高角砲、機銃、共に極めて貧弱であり、現下の複雑困難にして熾烈なる対空戦闘には通じるものに非ず。」

レイテ沖海戦で米軍機の雷撃を受け戦列を離れた重巡「妙高」の対空戦闘の所見である。

既に海戦は平面から3次元戦闘の時代に移り、敵は海上だけでなく水中、上空から襲い掛り多くの艦艇が潜水艦に沈められ、世界最強の不沈戦艦「武蔵」も「大和」も航空機に拠って沈められた。




防空駆逐艦「秋月」 秋月型駆逐艦一番 同型艦「涼月」他、全12艦 
10cm連装高角砲4基 25mm機銃 3連装5基 13mm機銃 単装4基 4連装魚雷発射管 1基 爆雷投射器2基 爆雷投下軌条2基 基準排水量2,700トン 最大速力 33.0kt

秋月型駆逐艦は、艦対空能力に優れた防空型駆逐艦として開発され、艦隊防空を担当した。

大口径砲と攻撃に熱心だった日本海軍は防空の重要性に気付き列強に遅れ、戦艦や巡洋艦の対空防御兵装を慌てて強化を進めるが、防空巡洋艦の建造計画は中止になり、秋月型駆逐艦(軍令部が水雷戦に拘り、4連装魚雷発射管を装備した)を建造するまでは、防空専用艦は無く、高射速の高角砲を持たない駆逐艦が、艦隊の護衛に就いても分厚い対空弾幕は張れなかった。

秋月型は1944年に13号対空電探を装備したが対空目標の照準追尾及び砲角調整は人力で行っていた為、命中率は低かった。


対する米海軍は早期から防空専用艦を建造し、優秀なレーダー網と無線交信に拠り防空管制が敷けた上、レーダー自動追尾射撃システムを持ち、マリアナ沖海戦以降は対空砲弾にVT信管を採用した事に拠り、命中率と艦隊防空能力を格段に向上させた。



現代の防空護衛艦「秋月」

護衛艦 DD-115「あきづき」 あきづき型一番艦 同型艦「てるづき」「すずつき」「ふゆつき」
FCS-3A射撃指揮システム・僚艦防空対空戦闘システム・高性能対空・対潜・対艦能力を持つ2軸ガスタービンエンジンの最大速力は、公称 30kt 以上、速力は旧海軍時代と変わらないが回頭性、俊敏性などの運動能力は格段に向上している。

また仮に40kt以上出せても現代のホーミング魚雷や対艦ミサイルは振り切れず、電子音響妨害やデコイ・マスカー・迎撃ミサイル・アスロック短魚雷、CIWSレーダー射撃で対処する。



生れ変わった防空駆逐艦「涼月」

DD-117 護衛艦「すずつき」 あきづき型護衛艦 3番艦 進水。

現在、三菱重工業長崎造船所で兵装艤装中、2014年3月 就役予定。

駆逐艦 「涼月」は上記の故人の回顧録にも記述されている帝國海軍の防空駆逐艦の3番艦。

昭和20年4月 戦艦「大和」と共に沖縄特攻作戦に参加、大破しながらも帰投し終戦を迎える

先代の艦歴と爽やかに澄み切った秋の月を意味する「すずつき」の語感は同じく防空を主任務とする「あきづき」型3番艦として相応しく、2012年10月17日 進水命名された。


日本の歴代艦艇の名は美しい。 



Fleet in being 

強固な防衛力、優れた艦隊は戦わずして存在する事で国の安全を保障するべきものである。


強く優秀な不戦艦隊は、今現在の日本にも必要だ。



新造艦「すずつき」と乗組員が、初代「涼月」のように戦場に出る事なく無傷で退役する事を祈る。




「太陽の帝国」 マリアナ諸島 テニアンの戦い
 に続く。





日本の近代史・戦史を書いたブログ

Empire of the Sun 1   「太陽の帝国」その1   真珠湾攻撃・マレー・蘭印作戦

Empire of the Sun 2   「太陽の帝国」その2   インド洋作戦・珊瑚海海戦

Empire of the Sun 3   「太陽の帝国」その3   遣日独潜水艦・海軍技術士官

Empire of the Sun 4   「太陽の帝国」その4   ミッドウェ-海戦

Empire of the Sun 5   「太陽の帝国」その5   聯合艦隊旗艦

Empire of the Sun 6   「太陽の帝国」その6   大和出撃

Empire of the Sun 7   「太陽の帝国」その7   マリアナ諸島 テニアンの戦い

Empire of the Sun 8   「太陽の帝国」その8   大日本帝國

Empire of the Sun 9   「太陽の帝国」その9   運命の瞬間

Empire of the Sun 10   「太陽の帝国」その10  満州事変

Empire of the Sun 11   「太陽の帝国」その11  上海事変

Empire of the Sun 12   「太陽の帝国」その12  兵に告ぐ 二・二六事件


Posted at 2013/07/02 18:06:03 | コメント(2) | トラックバック(0) | 太陽の帝国 | 日記

プロフィール

「朝、伸び過ぎた髭も剃らずにお出掛け。
「お誕生日おめでとうございます♡」と言って
くれたのは交通安全協会のおネエちゃんだけ。
自費で5年前と同じ免許証入れのプレゼントw
毎回、焦りまくりボタン連打の深視力検査ww
今年もなんとか運転免許更新を無事にクリア。」
何シテル?   05/25 16:15
元・気楽な海上サラリーマン  現・厳しぃ陸上自営隊  時々・トランスポーター 
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2013/7 >>

 1 23456
78910111213
14151617 181920
21 2223 24252627
2829 3031   

リンク・クリップ

Mikkola’s Quattro  
カテゴリ:YouTube動画
2011/07/30 19:18:07
 
MEIWA 
カテゴリ:Car Life
2009/10/10 02:41:54
 

愛車一覧

トヨタ アリオン F/A18 スーパーホーネット (トヨタ アリオン)
Toyota ALLION 国産量産型 A18式 支援戦闘攻撃機 エンジン  嘘三百 ...
アウディ A4 (セダン) アウディ A4 (セダン)
Audi A4 B7 Sport Quattro Rally 2.0 Turbo FSI ...
プジョー 307 (ハッチバック) プジョー 307 (ハッチバック)
Peugeot 307 Rally MTI(Mikkola テキトー イイカゲンナショ ...
トヨタ パッソ プチトヨタ パッソーラ WRC (トヨタ パッソ)
Toyota Passola WRC MTI(Mikkola テキトー イイカゲンナシ ...

過去のブログ

2018年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2017年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2016年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2015年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2014年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2013年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2012年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2011年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2010年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2009年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2008年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2007年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2006年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation