国際連盟承認の大日本帝國領土は以下の通り。
千島 1875年 日露・千島樺太交換条約
根室海峡からカムチャツカ半島南端、千島海峡間の列島
台湾 1895年 日清戦争 下関条約 清国より割譲
高雄市に含め領有した新南群島(南沙諸島)を含む。
樺太 1905年 日露戦争 ポーツマス条約 ロシアより割譲
北緯50度以南を奪還。
朝鮮 1910年 国際法上合法である韓国併合ニ関スル条約
朝鮮半島の帝國併合。
南洋群島 1922年 第一次世界大戦 敗戦国ドイツ領を国際連盟より統治委任
北マリアナ諸島(米領グアムを除く、サイパン・テニアン・ロタ他14島)
カロリン諸島(トラック・パラオ・ヤップ・ポナペ・クサイエ・サタワル・ウルシー環礁)
マーシャル諸島(クェゼリン・ビキニ他・32環礁)
南洋群島の統治領は太平洋ニューギニア赤道以北地域、ミクロネシアに相当する。
大戦前、帝國には上記の領土の他に施政権が及ぶ租借地や租界、鉄道附属地があった。
帝國の大陸進出・外地入植統治政策
1894年 朝鮮で近代化を求め清国への事大と朝貢廃止を掲げた甲申政変に続き農民戦争が発生して天津条約に基づき朝鮮に出兵した日本は日清戦争に勝利した。
日本は遼東半島、台湾、澎湖諸島を清から割譲して朝鮮を朝貢冊封体制から解放独立させ、沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放させる日清講和・下関条約を締結する。
だが仏・独・露の三国干渉と賄賂に拠り、ロシアは旅順港に艦隊を強制入港させ遼東半島を租借して不凍港を獲得すると満洲全域に勢力圏を拡大し朝鮮半島を狙う。
清から得た賠償金で軍備を増強し、ロシア帝國の南侵に対抗した日露戦争に日本は勝利して大陸に権益を獲得して朝鮮を保護下に置き、北緯50度以南の樺太を奪還する。
1905年 ポーツマス日露講和条約調印と満州善後条約締結で日清間の南満州鉄道及び附属地と吉林への路線延伸、日露戦時に日本が構築した鴨緑江に至る安奉線の継続使用、旅順・大連港を含む関東州租借、日本軍常駐、鉱山採掘、森林伐採等の権利と日本人の居留保障、沿海州沿岸の漁業権を確約して日露協約で朝鮮・満洲と内蒙古東部に於ける権益を得た。
1910年8月29日 日本の寺内正毅 韓国統監と大韓帝国の李完用 首相により日韓併合条約が調印され大日本帝國が大韓帝國を併合した。
しかしロシアから賠償金は取れず戦費返済に苦慮し、日本は工業化も進むが依然農業主体で政府は過剰な労働力の受入先でもある外地の権益領地にも活力を求める。
外地の開拓開発事業は政府国家に拠る大掛かりな口減らしの移住政策でもあった。
日本政府は外地日本領の行政統治開発の為に拓務省を新設、朝鮮総督府・台湾総督府・関東庁・樺太庁・南洋庁の監督を行い拓務省下に南満州鉄道や東洋拓殖・南洋拓殖・南洋興発などの国策開発会社を設立する。
国策に沿い財閥民間企業も大陸や朝鮮、台湾に進出、開拓開発事業に参画した。
満州や朝鮮、台湾の農地、ダムや河川の治水、港湾、鉄道や道路、電気水道などインフラや産業が整備されて金融機関が集まり、台北、基隆、高雄、京城、釜山、平壌、大連、新京、奉天、ハルビンの都市部は近代化が進む。
帝國陸海軍の外地常駐配備
1901年の北京議定書に拠り清国に権益を持つ日本も列国に並び占領駐兵権を行使する。
1914年に日本は日英同盟に基づきドイツ帝国へ宣戦布告、連合国側で第一次世界大戦に参戦、帝国陸海軍はドイツ権益の山東半島 青島要塞を攻略、植民領の南洋諸島を占領した。
帝國陸軍は外地の日本領や租借地の駐屯守備隊に内地から師団編入して増強し台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍、遼東半島と南満州鉄道附属地警備を目的として関東軍を編成する。
帝國海軍は欧米列強海軍と同様に租借地の警備に陸戦隊を配備して旅順や鎮海などの要港部と上海・青島・天津など租界に艦艇を派遣した。
上海 黄浦江に錨泊中の軽巡洋艦「長良」 手前は米海軍砲艦「アッシュビル」
駆逐艦「初霜」 山東半島 青島
1927年3月 南京・上海を占領した中国国民革命軍の共産党派が外国領事館と居留民を襲撃する
南京事件 と
漢口事件 を起こした。
南京城内の中国軍に対して揚子江に停泊中の米英海軍艦艇が艦砲射撃を加え陸戦隊を上陸させ交戦したが日本軍は無抵抗の命令を受け艦砲射撃も防御戦闘も行わなかった為に入城した中国兵の一方的な暴虐に遭い日本と欧米の外交官と宣教師が虐殺され婦女子が強姦された。
翌年4月には山東省 済南で居留民が北伐軍内共産党派に掠奪虐殺され、警備に当たる日本軍の臨時派遣隊と武力衝突した
済南事件 を起こす。
蒋介石は武漢国民政府左派勢力に対抗し国民党から共産主義者とソ連の顧問を排除して南京に国民政府を設立、関東軍は蒋介石に「山海関以東の満州には侵攻しない」と言質を取る。
関東軍と支那軍閥
関東軍は日露戦時にロシアから日本に寝返った満州の馬賊 張作霖の奉天軍閥に軍事顧問を送り支援していたが、朝鮮人安住や土地商租権等の約束を守らず、山海関内に進攻し北京に入城した張作霖は蒋介石の北伐軍との戦いに敗れ、大陸の覇権に出遅れた米国が接近し支援を始めた。
張作霖と旧知の仲である元満州軍参謀 田中義一首相は関係維持を模索したが勢力争いを続ける支那軍閥の統治に限界を見た関東軍高官は社会インフラを整備して親日政権国家樹立に拠る満洲の間接的な安定統治を考える様になる。
1928年6月4日 関東軍司令官 村岡長太郎中将と河本大作大佐が首謀して満洲鉄道の特別列車で移動中の張作霖を奉天近郊で爆殺する。
奉天軍閥を引継いだ張学良の合流で北伐を完遂させた蒋介石は国内の共産勢力掃討に力を注ぎコミンテルンの赤化工作の活動拠点であるハルピンのソ連総領事館を強制捜査して総領事と職員を逮捕、ソ連権益の中東鉄道に軍隊を配置して接収、ロシア人職員を排除して中国人を任命した。
1929年7月18日 日本の厳正中立と関東軍の不介入を確認したソ連は南京国民政府に国交断絶を宣告してソ連赤軍が満洲に侵攻、張学良軍を撃破し中東鉄道全線を占領して経営権と特別区の行政を握り、満洲に於けるソ連の影響力を反対に強める。
ソ連に敗れた南京政府と張学良は矛先を日本の権益と日本人に向け排日に傾く。
日清間で締結、中華民国にも継続された日清通商航海条約の破棄を一方的に宣言した南京政府は満洲善後条約も無視して南満洲鉄道に並行する鉄道路線を建設、満鉄付属地に柵を張り廻らし監視所を設けて大連港と付属地持出とに二重関税を掛け、一方的な許可の取消や事業妨害を行い林業、鉱業、商業等の日本人企業の経営不振が続出する。
満洲鉄道、及び東清鉄道の路線図
更に南京政府は「鮮人駆逐令」で朝鮮人農民から土地を奪い抵抗した530人を奉天監獄に投獄、迫害された朝鮮人が長春 西北の万宝山に入植して反発した中国人に襲撃され、日本領事館から朝鮮人農民保護の為に急行させた警察官と武装した中国人の暴徒が衝突する万宝山事件が発生して朝鮮排華事件が起こる。
1931年6月27日 対ソ戦に備えて地誌調査に蒙古興安嶺を旅行中の陸軍参謀 中村震太郎 大尉と井杉延太郎 退役兵曹長、白ロシア人、蒙古人の一行4名を張学良配下の屯墾軍が拘束、金品、護身用ピストル、その他一切の物を奪い殺害した。
これと時を同じくし日本人女学生数十人がピクニック中に集団強姦される事件も発生する。
日々この様な懸案が370件余りに達し、外務省を通じ南京政府に協議解決を申入れ関東軍も再三に渡り強く抗議するも無視され続けた。
関東軍に作戦参謀として赴任した石原莞爾中佐は満洲の地域自決・民族自決に基づく分離独立、満蒙領有計画を立案する。
満洲事変
南京政府の排日政策と満洲・東北の治安悪化に危機感を抱いた関東軍幹部達は本国の陸軍中央参謀本部に諮ることなく再び独断で行動を開始する。
1931年9月18日 石原莞爾中佐は着任した高級参謀 板垣征四郎大佐と奉天近郊の柳条湖付近で南満州鉄道の線路を爆破して張学良東北軍の犯行に見せ掛けた柳条湖事件を実行、特務機関の工作で吉林も不穏な状態に持込み満洲事変を起こす。
関東軍は僅かな兵力を以って難なく日本本土面積の3倍を有する満州・東北全域を制圧占領した。
満洲国建国
1932年3月1日 関東軍の石原莞爾主任参謀らが主導「王道楽土」「五族協和」を理念に東北三区の政都として長春を新京と命名、満州族出身で清朝最後の皇帝 溥儀が国家元首として政務を執り日本に国防・鉄道・通信の管理を委ねる親日国家 満洲国が建国される。
1933年3月 国際連盟創立以来の原加盟国で常任理事国でもあった日本は国連の総会で満洲を支那の一部分とする撤退勧告を受け国際連盟を脱退する。
当時の国連加盟独立国は60ヵ国程でアジアやアフリカ地域は欧米の植民地が殆だったが、満州国は中華民国南京国民政府をはじめ植民地を除く23ヵ国から承認された。
1932年4月 満州国軍が創設され治安維持と国境警備に当たり、日満議定書により国防は関東軍が担い、日本人将校が満洲国軍の軍事顧問や教官を務め、部隊長等は日本軍から転籍した将兵が任官する事もあった。
当初、部隊構成は軍閥の配置を踏襲したが陸軍軍官学校が設立され将校を養成、満洲国国民の満州族、漢族、蒙古族、ウイグル族、白系ロシア、日本人、朝鮮人、台湾人が入学する。
後の韓国大統領 朴正煕は新京の満洲国軍軍官学校を首席卒業後、東京の陸軍士官学校を卒業、関東軍に配属され見習士官として勤務後、満洲国軍で中尉に昇進した。
日華事変
1932年1月28日 中国国民党 第十九路軍が上海市郊外に進出、日本人僧侶襲撃や排日暴動が発生、租界を警備していた日本海軍陸戦隊が十九路軍に銃撃され90余名が死傷して戦闘に至り、第一次上海事変が勃発する。
陸軍は4個師団動員、海軍が空母 加賀・鳳翔の第一航空戦隊を派遣して中国軍を撃退した。
1936年12月 共産党と密かに接触していた張学良は西安で蒋介石を拉致監禁し息子の蒋経国も留学先のソ連で人質に捕られ、反共討伐の政策を推進し日本との対立を避けて満洲国も承認した蒋介石の国民党は共産党との内戦を停止、国共合作で排日政策に転換する。
内地では依然、世界的な大恐慌から長く続く深刻な不況とインフレ、失業、自殺増加、農村部は冷害に因る凶作飢饉に喘ぎ疲弊していた。
「五・一五事件」に続き、国家社会主義者と陸軍皇道派将官の影響を受けた青年将校が政治腐敗や農村の困窮を憂い決起、「二・二六事件」を起こすが、クーデターは失敗に終わる。
この動乱と政府の外地日本領の権益保護政策は軍の国政関与を深める。
欧米列国を対日戦争に巻込みたかったコミンテルンと中国共産党は民国政府や軍閥内に潜り込み北・中支各地で日本軍を挑発して日中開戦を嗾ける。
1937年7月 北京 盧溝橋で通達済の夜間演習中に日本軍駐屯部隊を国民革命軍 第二十九軍の兵士が狙撃、抗議と解決協議中にも迫撃砲を撃込まれる
盧溝橋事件 と中国人自治政府保安隊が在留日本人・朝鮮人200人以上を猟奇的に虐殺した
通州事件 を起こす。
同年8月 上海停戦協定を破り、非武装地帯にトーチカと強固な要塞線を構築したドイツ軍事顧問が指揮する最新装備で完全武装した3万の国民党中央軍の精鋭が上海国際租界の日本人居留区を包囲攻撃する
第二次上海事変 を起した。
ソ連を警戒する石原莞爾ら不拡大派の意に反し8年に及ぶ長い日中の全面戦争に突入する。
海軍は渡洋爆撃を開始、加賀・鳳翔・龍驤の3空母を派遣し制空権を掌握、航空支援を行う。
3個師3万に包囲攻撃された僅か6千の海軍陸戦隊は約3週間に渡り日本人居留区を死守。
揚子江岸に強襲揚陸、反攻を開始した上海派遣軍と第10軍は上海周辺の敵を排除して追撃戦に移り首都南京を攻略、支那派遣軍が徐州、武漢、広東、南昌、海南島を占領、中国軍は敗走した。
大陸に進出した陸海軍の航空爆撃部隊は蒋介石が遷都した重慶に戦略爆撃を開始する。
中国軍は追撃する日本軍の足止めに焦土作戦を行い長沙の街に放火して市民2万人を焼死させ、黄河の堤防を決壊氾濫させて農作物に被害を与え100万人を水死と飢餓、疫病で苦しめた。
日本軍は進撃を停止して数万の黄河流域避難民を救助し住民と共に堤防修理や流路誘導を行い、後の大飢饉でも軍糧を放出して被災地で救援活動を行った。
大洪水を起こしたうえに農民から牛や食糧を徴発する国民党軍から離反した民衆は日本軍を支持、大陸打通作戦時に河南省では民衆の自主的な協力に拠り、6万の日本軍が30万の中国軍掃討戦に成功する。
南京、武漢と二度も首都を失った蒋介石は民衆の支持まで失い共産党分子を増殖させた。
ノモンハン事件
満州国建国以来、満州・ソ連国境のアムール川(黒竜江)では越境上陸し乾岔子島を不法占拠したソ連軍に日・満軍が応戦してソ連軍砲艦を撃沈した乾岔子島事件や満州東南端の朝鮮に近接する豆満江とハサン湖間にある国境不確定な緩衝地帯の丘陵に陣地構築を謀り越境侵攻したソ連軍を日本軍が撃退した張鼓峰事件などの国境紛争が起り、満州・蒙古国境西部フルンボイル平原では哈爾哈(ハルハ)廟事件など国境哨戒中にモンゴル軍の侵犯挑発に拠る銃撃戦が頻発していた。
1939年5月11日 ハルハ河付近 ノモンハンの国境係争地で満州国軍 国境警備隊とモンゴル軍の交戦に端を発し、両国を支援する日本軍とソ連赤軍に拠る大規模な軍事衝突に発展する。
この突発的な武力衝突に即応してソ連軍 第57特別軍団は戦車、装甲車、自走砲、機関銃狙撃兵、モンゴル騎兵団を投入してハルハ河西岸に榴弾砲を据えて架橋した東岸に陣地を構築した。
日本軍は第23師団捜索隊、歩兵大隊、輜重輸送部隊、山砲、速射砲、重機関銃、満州国軍騎兵の混成支隊を送り、戦車を伴うソ連軍の装甲部隊と戦闘になる。
衝突直後は日本軍が戦闘に勝利して東岸に応急陣地を構築したが、日・ソ両軍ともに指揮通信の混乱から統制を失い組織的な展開や戦闘の連携がとれず、分散した各部隊が個々の判断で攻撃・防御と孤軍奮闘する。
ソ連軍に火力で劣る日本軍は夜襲を掛けて反撃、上空では九七式戦闘機が空戦でソ連軍機に圧勝を続けて日本軍航空隊が制空権を抑え機銃掃射や哨戒偵察、陣地爆撃で地上軍を航空支援した。
日本軍の増援攻勢を警戒した ソ連・モンゴル軍はハルハ河西岸に撤退して5月の大規模な衝突は一時的に終息する。
衝突の損害
日本軍 戦死傷者 約290名 装甲車 2輌 トラック 8台 乗用車 2台 速射砲 1門
ソ連軍 戦死傷者 約370名 戦車・装甲車 13輌 トラック 15台 火砲 3門
第二次ノモンハンの衝突
6月20日 戦車を伴う十数輌のソ連軍装甲部隊とモンゴル軍騎兵が越境し、集落内にある日本軍の宿営地を砲撃、日本軍は速射砲と機関砲で応戦し戦車・装甲車4輌を撃破、越境部隊を撃退する。
この頃、ソ連軍は日本軍飛行場への越境爆撃と小兵力の地上部隊を侵入させては威力偵察攻撃を繰り返し、452輌の戦車と装甲車旅団を投入する大規模な侵攻を準備していた。
ソ連軍を指揮するのは第一次衝突を観察分析酷評、二次侵攻を緻密に計画して地上及び航空戦力を増強して関東軍に挑み、後に屈強なドイツ第6軍をスターリングラードで包囲、モスクワ侵攻阻止、東部戦線からドイツ軍を駆逐し自らベルリンに入城、「ソビエト連邦英雄」の称号を受けて上級大将、元帥まで昇り詰めるゲオルギー・ジューコフである。
冷酷なスターリンが認める冷徹な司令官ジューコフは容赦なく自軍兵士を銃殺処刑の督戦を行い、勝利の為には兵の生命、兵力の消耗を厭わず間髪を容れぬ打撃重視の電撃戦を得意とする。
日華事変勃発で中国戦線に兵力を抽出していた日本陸軍中央の満・ソ国境紛争の不拡大方針に関東軍は第6軍と第23師団、第7師団の一部で衝突に対応するが、実際は一個師団程度の兵力であるのに対してモスクワの国防部は第57特別軍団にジューコフの要求以上の増援を送り込み、最終的にソ連軍は8個師団を投入した。
関東軍はソ連軍の火力と機動力に対して第1戦車団の戦車2個連隊を増派、自動車化歩兵大隊、歩兵1個連隊、独立野砲1個連隊、工兵連隊、砲兵に高射を加え、戦車73輌・装甲車19輌を主力とする機械化混成部隊を編成して第23師団の別動支隊とする。
日本軍 戦車隊・装甲機械化部隊は第23師団本隊に先行してハルハ河の前線に向かう。
夏期の辺境モンゴルの草原、砂丘でのソ連軍の戦車・装甲車旅団との戦闘になった、ノモンハンの第二次衝突が日本陸軍の戦車対戦車、両軍機甲部隊に拠る近代的な集団機甲戦の初戦となる。
7月2日 ハルハ河東岸に進出した日本軍戦車連隊はソ連 第11戦車旅団の戦車・装甲車と交戦、ソ連軍戦車20輌、装甲車12輌、トラック20台を撃破しながら、西岸の砲兵陣地から強力な榴弾砲の激しい砲撃に前進出来ず釘付けにされた歩兵第64連隊を支援、ソ連軍の防御陣地を突破して東岸の野砲陣地を蹂躙し無力化する。
一方、渡河作戦に成功しハルハ河の西岸に進出した歩兵中心とする砲兵、工兵の第23師団主力もソ連軍 第11戦車旅団、第8、第7装甲車旅団と交戦、戦車67輌、装甲車41輌を撃破撃退したが、東岸での戦闘で日本軍も戦車30輌を喪失、関東軍司令部は前線から戦車連隊を後退させた。
7月4日 第23師団は弾薬枯渇と退路遮断の危険性から橋を渡りハルハ河西岸から撤退を開始、以降、東岸での対戦車戦、砲撃戦、空中戦、空爆、夜襲、白兵戦、塹壕戦、高地攻防戦など激しい戦闘は 9月15日の停戦合意まで続いた。
第一次、第二次の参加兵力
日本軍 約3万名 戦車73輌 装甲車19輌 火砲82門 歩兵主力の混成部隊
ソ連軍 約7万名 戦車438輌 装甲車385輌 火砲370門 戦車主力の機械化部隊
加えてソ連軍は機動兵力だけでなく支援火砲でも圧倒しながら更に増派増強していた。
日本軍の損害 戦死傷者 約19,000名 戦車 約30輌 航空機 約160機
ソ連軍の損害 戦死傷者 約26,000名 戦車 約250輌 航空機 約360機
ソ連が崩壊して情報開示されるまで「ノモンハンはソ連赤軍の圧勝、日本軍の惨敗」とされてきた。
関東軍から増派も僅かな第23師団に対してソ連赤軍 第57特別軍団のハルハ河での開戦布陣は戦車輌数2倍、装甲車13倍、榴弾重砲3倍、野砲も優勢で歩兵と航空機数は互角。
戦力で日本軍を圧倒しながらソ連軍は自軍の戦車兵の逃亡を防ぐ為に乗員ハッチを外から施錠し、戦線を離脱した兵の処刑督戦に火炎放射器まで使い、戦車1個旅団と装甲車1個旅団を損耗壊滅させて戦車2個旅団、装甲車3個旅団、化狙撃兵3個師団、空挺1個旅団の30,000名以上の増援を受けて、疲労した一個師団に勝てないならジューコフも赤軍政治将校も無能である。
戦車・装甲車が8倍以上のソ連軍に日本軍は軽装甲に小口径搭載砲の戦車戦、速射砲や機関砲に拠る正確な接近射撃と死力を尽くした肉薄戦の火炎瓶、地雷、手榴弾でソ連軍戦車250輌を撃破、多勢に無勢の空戦でも360機を撃墜した。
これは精神論ではなく、兵力、火力、装備の物理的な劣性に銃砲弾薬も不足する辺境最前線での日本軍歩兵、戦車兵、騎兵、砲兵、工兵、整備兵、航空兵達の技能技術を応用駆使した奮戦敢闘は称賛されて然る可きである。
尤も敵を侮り万策を講じず、最前線からの情報や意見具申を無視した上に己の失策と用兵の責任を部下に押付け腹を切らせる無能な軍司令官や師団長、作戦参謀などは万死に値する。
このような体質がポートモレスビー、ガダルカナル、インパールなどの南方作戦で多くの皇軍兵士の命を失わせた。
1941年10月15日 停戦後の国境画定交渉に於いてノモンハン以北は従来の国境線、南地区は停戦前の日本軍占領地を満州国領土とする満州国に有利な議定書がハルビンで調印されモンゴルは1,140㎡を領土を失う。
日本は政府が関与せず、外地駐屯軍の一師団が対応し、ソ連が国家的な対日戦争として対応したノモンハンの領土争奪戦は日本の勝利に終わる。
「ノモンハン事件はソ連赤軍の圧勝、日本軍の惨敗」は共産左翼のプロパガンダである。
委任統治領 南洋群島
1922年 日本は第一次大戦敗戦国ドイツ領の南洋群島を国際連盟より統治委任された。
南洋庁パラオ支庁と逓信省パラオ電信所
民間による南洋開発を推し進める為、日本からの定期航路・空路も就航する。
内地と南洋諸島を結ぶ、大日本航空 海洋部 川西九七式飛行艇とパラオ郵便局。
また拓務省内に海外移住相談所を開設し北米や南米を含め移民の募集や指導を行っていく。
南洋諸島にも多くの人々が仕事を求め入植移住し砂糖黍栽培や製糖工場に従事した。
ミクロネシア連邦の記念切手
スペイン時代は宣教師 ドイツ時代はコブラ農園 日本時代は学校 アメリカ時代はストア
植民地だったミクロネシアが独立建国するまでの歴代統治国の特徴をよく表している。
好意的に見れば、それぞれ宗教、農業、教育、経済をミクロネシアに齎したと言える。
しかし見方を変えれば、統治支配国に拠る現住民の洗脳教育と労役搾取でもある。
スペイン・ドイツ・アメリカへの評価は判らないがミクロネシアに於いて日本人は好感を持たれており日本に拠る島の開発は島民に感謝され、パラオと日本の友好関係は現在も維持されている。
これは当時、日本からの入植者の多くが貧しい農村部出身故に島民を一方的に奴隷として扱わず、共に汗を流しインフラを整備を行い、友好と教育を大切にした人達の功績である。
南洋の平和な島を戦争に巻き込んでしまった日本にとって唯一価値ある嬉しい財産だ。
日本は国際連盟の脱退後に絶対国防圏防衛に武装禁止だった委任統治領 南洋群島に停泊施設や航空基地を増設する。
日本軍の南洋拠点、第四艦隊司令部が置かれたトラック諸島の連合艦隊泊地
南洋の島に配備された帝國海軍「二式水戦」
日華事変の早期から米英は香港や仏印・ビルマからの輸送ルートを使い軍需物資や石油を雲南省 昆明に送り込み蒋介石を支援していた。
1940年9月23日 世論に押された近衛内閣に蒋介石との和平交渉を潰され中国戦線を拡大して泥沼に嵌っていた陸軍はドイツのフランス占領を期に悩みの種であった援蒋ルートの遮断を目的に仏ヴィシー政権政府と仏印総督の許可を得て仏領インドシナに進駐を開始。
英軍は仏領西アフリカに侵攻して仏軍と交戦、シリアやレバノンを武力で制圧占領しておきながら、許可を得た日本の南部仏印進駐を強硬に抗議し米英は対日経済制裁を行った。
蘭印・仏印の両植民地本国をドイツが占領した事は三国同盟を進める大きな要因となった。
国共合作軍との戦闘に三国同盟、仏印進駐は植民地支配国の欧米列強に東洋の新興国日本への疑念と反感を抱かせ資源禁輸制裁を受け包囲され枯渇する日本は選択を迫られる。
南方作戦
戦うも亡国、戦わざるも亡国、戦わずしての亡国は魂までも喪失する永久の亡国。
帝國は日本の領地権益維持と経済封鎖を破るべく、欧米列強の植民地支配下にある南方資源地帯の確保を目指して米英との戦端を開いた。
1941年12月8日未明、帝國海軍聯合艦隊は米海軍太平洋艦隊ハワイ真珠湾基地の在泊艦艇を徹底的に叩き機動力を奪う事で米国の戦力戦意を削ぎ、早期和平講和に持込むべく初戦に総力を掛けて空母機動部隊と潜水艦艇に拠る奇襲攻撃を敢行する。
早朝の真珠湾攻撃に先立つこと1時間20分、山下奉文中将揮下の帝國陸軍 第25軍 第18師団 歩兵第56連隊が海岸線で英印軍第8旅団の激しい抵抗を受けながらマレー半島北部 コタバルに強襲上陸、同半島を縦断して南端に位置する英印豪軍支配下のシンガポール要塞攻略を目指してマレー作戦を開始する。
第25軍 第5師団はタイ領内に上陸して進撃、英領マレー国境の英印軍第6・第15旅団の90輌の装甲車部隊と構築した強固な防御要塞を戦車12輌と580名の特別挺進隊が短時間で突破した。
マレーの虎 山下奉文中将が率いた第25軍はコタバル上陸から自転車歩兵部隊と九七式中戦車を主力とする機械化部隊を用いた電撃戦で英軍との95回の戦闘に勝利して55日間で1,100kmを走破快進撃してマレー半島南端に到達する。
クアラルンプールを攻略した第25軍は一週間でシンガポール要塞を陥落させ占領、英領マレー軍司令官パーシヴァル中将が降伏して揮下の英印・豪軍13万名を捕虜にした
同日12月8日 英領香港攻略に酒井隆中将揮下の陸軍 第23軍が九龍北方本土側より攻撃開始、参謀長 栗林忠道少将が香港攻略を作戦立案、英軍要塞防衛線を突破して12月25日クリスマスに11,000名の英軍が降伏して僅か18日間で攻略を完了させて英領香港を占領した。
翌年1月11日 海軍横須賀第1特別陸戦隊の空挺部隊がセレベス島のランゴアン飛行場に降下、陸戦隊が上陸してメナドを制圧、陸軍もボルネオ島バリクパパン、マルク諸島アンボンへ上陸 して蘭・豪連合軍を捕虜にする。
2月14日 陸軍 第1挺進団 挺進第2連隊がスマトラ島に空挺作戦を行い、蘭印軍守備隊、連合軍装甲車部隊と交戦、飛行場とパレンバン市を制圧占領、東南アジア屈指の大油田地帯と製油所を確保した。
今村均中将揮下の陸軍 第16軍主力がバリ、ティモール、ジャワの各島に上陸、700名の挺身隊がジャワ島バンドン要塞を攻撃、蘭英豪軍8,000名が降伏、蘭領インドネシアの石油資源獲得を目指した蘭印作戦を成功させる。
ペリリューの戦い
大戦末期、連合艦隊主力は米軍の飛石作戦に拠る米機動部隊の空襲を避ける為にトラック島泊地から滑走路や通信・補給施設が整ったパラオに後退、米軍はトラック基地空襲に続きパラオを空襲し上陸作戦を行う。
当時、パラオ諸島のペリリュー島には日本軍が2本の滑走路を整備、中川州男 陸軍大佐が率いる第14師団歩兵第2連隊及び歩兵第15連隊を中心とする陸海軍守備隊が置かれ米軍の反攻上陸を予想し強固なトーチカを構築、島の天然洞窟を要塞化して持久戦に備えていた。
1944年 9月15日 ガダルカナル以来、米軍最強とも謳われた第1海兵師団が強力な艦砲射撃と航空支援のもとに上陸を開始した。
11月24日 上陸以来、激しく抵抗した日本軍守備隊は玉砕電文「サクラ サクラ」打電。
司令部全滅後、米軍の掃討網を抜け関口中尉、山口少尉以下の約50名が遊撃戦闘に移る。
11月25日迄の10日間の激烈な戦闘で日本軍守備隊は10,695名の戦死者を出した。
一方、ペリリュー島を強襲した第1海兵師団も損耗率60%を超える壊滅状態に陥り陸軍第81歩兵師団に交代、米軍は1,794名の戦死者、戦傷者 8,010名他、数千名が精神に障害を受ける。
また硫黄島の戦いでも栗林忠道中将 率いる小笠原兵団は圧倒的に優勢な米軍に対し地下要塞を構築し最後の総攻撃まで敢闘玉砕、ノルマンディー上陸に匹敵する甚大な損害を与えた。
世界最強の米軍が恐れ怯えたのは一殺必中の航空特攻だけではない。
多勢に無勢の陸戦に於ての近接戦闘、十死零生の肉弾突撃、弾幕に怯まぬ侍の斬り込み。
抜刀隊の刃󠄁、不屈の精神と長く鋭い銃剣、日本兵の白兵戦に米兵達は慄いた。
戦後、敵将ニミッツ提督が日本兵の武勇敢闘を讃えペリリュー島の神社に建てた石碑に刻む
Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.
Pacific Fleet Command Chief(USA) C.W.Nimitz
この島を訪れる諸国から旅行者は如何に日本の兵士達が愛国心と共に勇敢に戦い、この島を守り玉砕したかを知らしめるべきである。
米国太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ
ニミッツ提督は、「ペリリュー島の攻防戦は米軍が既に制海空権を握っていながらも米国の戦史上、如何なる上陸作戦にも見られない最悪の損害(米海兵師団第一連隊全滅、1万人を超える死傷者)を出し、この島を占領したことは今もって疑問である。」と回想している。
先の大戦で太平洋を挟み日米両軍は死力を尽くして戦い壮絶に殺し合い、互いに畏れ讃え尊敬したからこそ今日の信頼関係と強固な日米同盟がある。
この激戦に於いて日本軍は戦闘前に住民を退避させ島民に1名も死傷者を出さなかった。
だが大戦中、帝國が武力に拠り制圧した占領地域に於いて総てがこの限りではない。
大東亜共栄圏
日本を盟主として共存共栄の国家連合・経済共同体、新たな国際秩序の建設を目指す。
欧米の搾取に苦しみ「八紘一宇」の理想を抱く日本人やアジアの人々がにいた。
祖国から遠く離れた南の島で日本の若者達は神州不滅、皇国の正義と繁栄を信じて戦った。
南洋に配備した帝國海軍「零式水上観測機」と命を掛け奮闘努力した若きパイロット達。
アジア人の解放、大東亜共栄圏。
それは日本の自衛戦争をアジア人の聖戦として占領国を感化する方便になった。
帝國は列強から植民地を自由解放独立させる事を目的に出兵し占領したのではない。
大戦を戦った祖父や伯父達は帝國が欧米支配下の南方資源地帯を確保してABCD包囲網を破り、有利な講和を求めて戦端を開いた資源争奪戦を大東亜戦争と呼ばなかった。
しかし大陸に於ける戦いは帝國が始めた侵略戦争ではない。
日本が日清・日露・第一次大戦の戦役で多大な犠牲を払い正当に得た所領地や鉄道付属地、租界など国際条約で保証され日本が開拓整備した施政権益まで脅かされた。
古来、山海関 即ち万里の長城東外の関東・満洲は漢民族の土地ではなく、軍閥は徴税収奪しても保護統治せず、民国政府の施政権下にも無かった。
満州を我が物顔で荒し回った馬賊の頭目 張作霖は漢族移民で満州族ではなく、蒋介石も関東への侵攻を否定し、蒋介石の黄河決壊や焦土戦を批判した国民党和平派 汪兆銘政権政府は満州国を承認し平和共存を望んでいた。
満洲国には漢族に反目する満洲族、赤化の圧政から逃れた来た白系ロシア人やユダヤ人、ソ連に抵抗する蒙古人、移住してきた台湾人や多くの朝鮮人がいた。
支那軍閥は勢力争いを続け、義和団同然に民兵は再び青龍刀で居留民を襲った。
中華民国は国の体をなさず、条約協定を破り挑発を続け共同租界を包囲攻撃した。
居留民の生命財産を武力で脅かされ日本軍が応戦反撃して守った事を侵略戦争と言うな。
自国の外地、他国での戦闘を侵略とするなら世界中の国が侵略戦争をやっている事になる。
米英は大陸に近い新興国日本の台頭に脅威を抱き排除を考え蒋介石を軍事的に支援した。
米国は日本に消耗させ日英同盟を四ヵ国条約で妨害しチャーチルはハルノートを書かせた。
世界平和を望み臣民の幸福を願う陛下の大御心は戦争不拡大、日米開戦に反対であった。
戦争は死傷者数や後先で良い悪いが決るのではなく腕力の勝ち負けで善悪が決められる。
そして戦勝国が正義を名乗り敗戦国を裁き、戦勝国にとって都合良い歴史に書換えられる。
上海市街爆撃・南京虐殺・黄河決壊、支那は自軍の蛮行を常に日本軍の暴挙として喧伝した。
帝國に保護を願い出た朝鮮、居留民を襲い自国民を水攻め放火した支那、火事場強盗のロシアに侵略戦争と言われる筋合いは無い。
独立義勇軍
帝國は武力で占領した国には軍政官を置き独立を認めず帝國を盟主とし同盟傀儡政権を樹立させ対米英戦遂行の資源供給地にした。
英国支配から独立したビルマや米国統治から民政に移行していたフィリピンでも戦時と言う事もあり民主的選挙を認めず親日政権に据え換え占領軍の軍政下に置く。
やがて戦局悪化に軍票に拠る統制経済も崩れ始め、連合軍に協力する工作や抗日ゲリラが増加、日本軍に対する破壊活動は激しくなる。
一方、占領国民には日本の文化思想を教え軍事教錬を行い対英米の同盟として期待した。
嘗て蒋介石は日本に留学し帝國陸軍に籍を置き、朴正煕も陸軍士官学校を卒業した。
彼らは自ら希望志願して陸軍士官候補生として日本まで来て兵科や用兵を学んだ。
帝國は不足する占領地での守備兵力を補う為に親日派の優秀な若者達を現地で集め特務機関や陸軍中野学校出身の情報将校らが武術、戦術、用兵、工作、語学、軍政、情報戦等を教え幹部士官を養成し民族軍を設立する。
この幹部士官の中に後のインドネシア大統領となる若き日のスハルトやビルマのアウンサン将軍、ネ・ウィン大統領がいた。
1942年 ビルマではアウンサン達の独立義勇軍が日本軍と共に戦い首都ラングーンを陥落させて英軍を駆逐したが、1945年には敗色が濃い日本軍に対して反旗を翻し英軍の指揮下に入る。
しかし英国は彼らとの約束を反故にしビルマを再び英国植民地にして独立を認めなかった。
英軍に利用されたアウンサンはビルマの独立を見ずにして政敵に暗殺されたが、帝國陸軍 特務「南機関」 鈴木敬司大佐に受けた恩義を死ぬまで忘れる事はなかった。
1943年4月26日
遣独潜水艦作戦 でインド人独立運動家チャンドラ・ボースを乗せて北仏を出航したドイツ海軍 U-180とインド洋のマダガスカル島南南東400浬の洋上で日本海軍の情報技術士官 友永英夫中佐と江見哲四郎中佐が乗艦の伊29潜が密会合を行う。
ボースらは伊29潜に移乗して日本に向い、友永中佐らはU-180でドイツへ向かった。
日本軍はマレー作戦やシンガポール攻略で投降し捕虜となった英印軍インド人将兵から志願者を募り「インド国民軍」を編制していた。
日本に亡命中のビハーリー・ボースからインド独立連盟と国民軍最高司令官を引継ぎ日本占領下のシンガポールに自由インド仮政府を樹立したチャンドラ・ボースは英米に宣戦布告。
インド国民軍には英国からの解放独立を求めて東南アジア在住の多くのインド人が志願、日本軍に拠って再武装された国民軍の総兵力は約45,000名に達する。
インド領内に進撃を望むボースの再三の要求でインド国民軍 6,000名がインパール作戦に参加、その後もインド国民軍は日本軍と共にイラワジ会戦等のビルマ戦線で英軍と戦う。
1945年8月18日 独立の闘士チャンドラ・ボースは台湾から大連へ向かう爆撃機の離陸時に事故に遭い台湾陸軍病院に入院、手当を受けたが2年後のインド解放独立を見ずに亡くなる。
日本の敗戦後、アジアは欧州列強の植民地支配が再開され現地民族の独立運動が起こる。
インドネシアではジャカルタ駐在武官 前田精海軍少将がスカルノとハッタを自公邸に受入れ独立を打合せ、1945年8月17日 連合国の承認を得ずインドネシア独立を宣言する。
しかし連合軍は敗戦した駐留日本軍に対し占領国の治安維持と独立派現地民への武器引渡しの禁止を厳命した為に、この命令を忠実に守ろうとした日本軍と現地住民との間で武力衝突が生じ、ジャワ島スマランでは両者に多数の死傷者を出し日本の民間人数百名が殺された。
この武器引き渡しを巡る紛争で英軍部隊と日本軍部隊が共同で現地人武装勢力と交戦する。
だが日本軍の多くは連合軍による武装解除の前に独立義勇軍に対し密に武器を引き渡した。
植民地の再支配を宣言したオランダは地上部隊を派遣し空爆を行うが、日本軍が鍛えた現地民族軍は苦戦しながらも植民地支配から独立を勝ち取る。
また日本の降伏後も内地へ復員せず占領国独立の為に現地兵と共に独立義勇軍として戦った多くの日本軍将兵がいた事も事実である。
1946年 インドシナに駐屯していた帝國陸軍 第38軍 第34独立混成旅団 参謀 井川 省 少佐ら 高級将校から下士官、兵卒に至る 約600余名の日本人志願兵が日本の降伏後も復員帰国せず、植民地ベトナムとフランスとの間に勃発したインドシナ独立戦争に参加した。
彼らはベトミンに戦闘訓練と作戦指導を行いベトナム・ラオス・カンボジア独立に貢献する。
ベトコン NVAは強い。
彼らは深い熱帯ジャングルと泥濘をホーチミンサンダルで駆け抜け、掘り廻らせたトンネルに潜み、降り注がれる枯葉剤とナパームの雨に耐え、ネズミを食いながら餓えを凌ぎ、物量に物を言わせる米軍との戦い勝利した。
ジャングルで動きが鈍る米兵を息を殺して待ち伏せ罠を仕掛け単純必殺の武器を使う。
ベトナムは8年に及ぶインドシナ戦争を戦い抜きフランスから独立を勝ち取り、更に米軍と10年間も戦い追返した4年後、6倍の兵力で攻め込む中共人民解放軍にも負けなかった。
ソ連の軍事支援を受けていたホーチミンを是としないが、彼は共産主義者である前に愛国者であり、主義思想を問わず 祖国の為に命を捧げ勇敢に戦った将兵には敬意を持つべきだ。
ベトナム初の士官学校 クァンガイ陸軍中学の教官と医務官は全員日本人で元日本将兵約30数名がベトナム政府から勲章や徽章を授与され、現在に至るベトナム人の日本人に対する友好感情の基軸となっている。
アジアには日本が欧米列強と戦い植民地駐屯軍を排除し、独立の引き金になった事を今でも感謝してくれる友好国がある。
日本は清国とロシアの大国に抗い、先の大戦では欧米先進国連合を相手に国土が焦土と化すまで精一杯戦った。
日露戦争での日本の勝利に西洋に植民地支配されていたアジアの人々は歓喜した。
過去数百年に及び西洋白人に絶対支配されて来たアジアやアフリカ人々に東洋の端にある小さな島国の有色人種でも白人と対等以上に戦える事を証明し、白人支配と戦う勇気と希望を与えた事は疑う余地はない事実だ。
しかし自衛と国益、生存の為であっても日本が武力で制圧した東南アジアの占領国民からは侵略と言われても仕方ない。
欧米連合国との資源争奪戦に日本は腕力で負けた。
日本は大負けしたが、同時に英仏蘭は多くの植民地と奴隷を失いアジアは勝った。
西洋に対し日本がアジア人の解放「大東亜戦争」を掲げて戦った意義だけは生きた。
現地民を奴隷の様に扱い搾取支配してきた欧米列強に正義が有った訳ではない。
だが敗戦の結果である占領していた国々の独立を日本人が自慢してはいけない。
日本は負け犬のような遠吠えをせず、潔く非は認めて轍を踏まないのが日本人だ。
富国強兵が悪い訳ではない、独立主権国家として当然の権利である。
当時、欧米列強や戦争に勝った者と負けた者が平等の条約を結べなかった。
列強との不平等条約を甘んじて受けて来た貧国弱兵だった日本は富国強兵に努力した。
今の日本は国連会議場を退席しない。
日本が強い防衛力を保持しアジア諸国と協力して国民と地域の平和を守る事は正しい。
これは戦争する為ではなく、軍事大国からの侵略を抑止防衛する為にも必要な事だ。
インドネシア・ビルマ・ベトナム・マレーで独立戦争に参加した数千名の日本兵が戦死した。
日本は敗戦降伏したが、彼らは敗残兵などではない。
部隊も階級も思想も補給も無く、彼らは誇り高く最後まで勇猛に戦った。
独立を見届けて帰国する人、また異国に残り、その国の国民として生きた人達がいた。
彼ら、名もなき戦士の事を日本が忘れてはいけない。
正義と友情の為に戦った彼らには紛れもなくアジア人の解放「大東亜戦争」であった。
勇敢に戦い殉じた若い空兵、水兵、歩兵、陸戦隊は国の誇り。
硫黄島やペリリューの戦いを見よ
領土国境とは命の上に在るものである。
現在の日本国領土。
戦前の台湾、朝鮮、南満州鉄道及び付属地、南樺太、千島、南洋群島は国際社会から認められた大日本帝國の正当な領土と統治権益地であり、日本が不法占拠、略奪したのではない。
尖閣諸島・竹島・北方四島は国際社会が他国領と歴史上一度も認めた事が無い日本固有の領土である。
1945年8月15日 帝國はポツダム宣言を受諾降伏する。
8月8日 一方的に日ソ中立条約を破棄して宣戦布告したソ連は樺太・千島・満州・朝鮮に侵攻して内地である北方四島まで降伏後に武力で強奪する。
ソ連赤軍は15日を過ぎても停戦せず侵攻を続け、多くの開拓民や無抵抗の市民をなぶり殺し婦女子を連れ去り強姦と略奪を繰返した。
ソ連赤軍と八路や朝鮮パルチザンがやった犯罪、日本降伏後の満洲を見よ
蛮族は
葛根廟事件 、
敦化事件 、
小山克事件 、
通化事件 、
牡丹江事件 、
麻山事件 を起こした。
千島・占守島では陸軍 第91師団、満洲から転出した戦車第11連隊と海軍警備隊が強力に抵抗しソ連赤軍を撃退して、日魯漁業の女子従業員達の脱出後に停戦、降伏した。
北支・内蒙古の警備に当たっていた駐蒙軍司令官 根本博 中将は停戦命令と武装解除に従わず、破竹の勢いで進撃してくるソ連赤軍に対して独断で反撃命令を下し、駐蒙軍は激しく抵抗反撃して八路軍の攻撃も抑えて、4万人の在留邦人が内蒙古から避難し天津へ脱出が終わる8月21日まで防衛戦闘を行い居留民を守り抜いた。
1946年8月 終戦から一年後、北支那方面軍司令官を兼任していた根本中将は在留邦人の帰国と北支那方面の将兵35万の内地復員を終わらせた最後の船で帰還した。
総てを失っても帰国出来た人達は幸運であり、無事に日本に帰れなかった方々が沢山いる。
内地の農村で貧困に喘ぎ、大陸に夢と希望を求めて移住した人々は家族や命まで失った。
ソ連は終戦後に107万人の日本人をシベリアに抑留し強制労働させ約34万人を殺した。
この不当な抑留は戦後最長13年間にも及び強奪した北方四島は今も盗まれたままである。
ポツダム宣言「日本が国民多数に拠る平和的政権を成立すれば連合軍は日本から撤退する」
北方領土に居座るロシアはカイロ宣言の条項を引継ぐポツダム宣言にも明白に反している。
カイロ宣言 「日本は1914年の第一次世界大戦以降に占領した太平洋の全島を失う」
日本は大戦に完敗し国際連盟から正式に委任された統治領まで総て失った。
北方四島は開国以前より日本施政下の日本固有の領土であり、1855年の日露和親条約に於いて択捉島と得撫島間に日露の国境が確定され、ロシア領であった事は一度もない。
1875年の樺太・千島交換条約で日本は樺太の権益を放棄、ロシアは得撫島以北、占守島までの千島18島を日本に譲渡、更に1905年のポーツマス条約で樺太の北緯50度以南を永久に日本へ譲渡した。
厳密に言えば日本は史実や条約に基づき南樺太の返還も要求しなければならない。
だがソ連邦の崩壊時に領土返還の機を逃したのは日本政府の怠慢もある。
ヤルタで密約を交わした米国も沖縄返還を盾に日露条約締結と返還交渉に圧力を掛けた。
敗戦まで日本であった台湾も朝鮮も日本国民として欧米列強と戦った。
日本は兄弟である台湾や朝鮮を戦争に巻き込んだ事を反省すべきだ。
しかし韓国は宗主国 清の支配とロシアの侵略に自ら日本に保護を求めて併合されながら敗戦後に戦勝国と称し日本から竹島を盗み70年経った今も謂れ無い謝罪と賠償を要求する。
多くの朝鮮人が豊かさを求め日本、台湾、南洋、大陸に出稼に来ていた事実を揉み消すな
兵力、輸送力も不足する日本軍が慰安婦20万人 約10個師団を強制連行したと嘘を吐くな
帝國陸軍に自ら志願し戒厳令まで敷き日韓基本条約を締結した朴正煕大統領は売国奴か
旧帝國軍朝鮮人将兵が指揮を執り臆病な李承晩より勇敢に朝鮮戦争を戦った事も忘れたか
厳しい競争を勝抜き帝國軍人となり家族と国の繁栄の為に戦った80万人の朝鮮人志願兵を裏切り者呼ばわりして親日反逆罪を負わせた韓国は情けない。
日本に「歴史を忘れた民族に未来はない」と喚く前に国連加盟国ならばSF講和条約とカイロ宣言、日韓基本条約を自国民に読ませ真実の歴史を教えるべきだ。
国共内戦に破れ共産党に大陸から追い出された蒋介石と国民党は台湾に逃れ悪政を敷く。
国民党の独裁圧政に抵抗する本省人民衆が蜂起する二・二八事件が起き、蒋介石は戒厳令を敷き知識人や反対派を弾圧した。
台湾に生まれ若き日々を日本人として過ごした李登輝氏が蒋親子の死後、国民党主席に就き台湾の民主化を推進するまで強権政治は続いた。
京都大学から学徒出陣、帝國陸軍少尉として名古屋の高射砲部隊で終戦を迎えた李登輝総統は フィリピンで戦死した帝國海軍軍人の兄 李登欽氏が奉られている靖国神社を参拝した。
台湾でも国民党に拠り反日教育は行われたが、台湾の人達が友好的なのは知性的な李登輝総統の言葉や統治だけでなく開発もした日本と苦しめに来た国民党との違いを見たからだ。
根本博中将は終戦後、在留邦人と将兵の帰国協力また国体護持への恩義を蒋介石と台湾の人達に返すべく台湾に渡り金門島の戦いを指揮し殺到する中共軍を撃破して台湾の独立に貢献する。
日本人も国籍を離脱して満洲人になるべきと五族協和の建国を目指した石原莞爾は蒋介石と共闘してソ連の南侵と共産党を抑えるべく中国戦線不拡大を主張した。
帝國は対米戦争ではなく国民党が排日に傾く以前に蒋介石と合議して毛沢東の中共と強盗強姦を働くソ連のサイコ野郎スターリンを押えるべきだった。
アジア人の解放、大東亜共栄圏は、それからでも遅くはなかった。
旧満州国 大慶で深々度の大油田が発掘されたのは日本の敗戦後であった。
海ゆかば
自分はタンカーや木材、冷凍運搬船で千島からインド洋、マリアナ、フィリピン、インドシナ、マレー、インドネシア、ニューギニア、ポリネシアの激戦地跡へ寄港した。
今でも海図に残る沈船表記、海岸で朽ち果てた艦船、航空機、戦車、機関銃、野砲の残骸。
現地の老人方から優しい日本の兵隊さんが教えてくれたと言う日本の歌も聴き、目と耳に確りと焼付けて来た。
故郷から遠く離れた南海の孤島、熱帯ジャングル、極寒の辺境で祖父達が家族と国の為に餓えや病に苦しみながら戦ってくれた事を思う。
VIDEO
祖国日本の正義と勝利を信じ、戦友と助け合い気候の厳しい外地で過酷な行軍戦闘に耐える姿、現地民や敵の捕虜、戦死者に対する敬意、戦友と談笑、疲れて眠る姿、素朴な笑顔、家族から来た手紙を懐かしみ嬉しそうに読む姿は平和な現代を生きる私達と何等変わらない。
しかし多くの日本軍将兵が海に沈み、空に散り、遠い異国の土になり、二度と日本の地を踏む事が出来ず愛する家族との再会を果たせなかった。
多くの市民を巻込み、敵味方の兵士の血を流した大戦を美化するつもりはない
また無謀な作戦を立案強行した無能な高級参謀、将官を讃えるつもりもない
ただ左巻が家族と国の為に戦った人達を鬼悪魔、犯罪者喚ばわりするのは我慢できない
国旗国歌に敬意を払い国の歴史を知り伝統を愛し護る心は帝國主義・民族主義ではない。
日本の近代史・戦史をに書いたブログ
「太陽の帝国」その1 真珠湾攻撃・マレー・蘭印作戦
「太陽の帝国」その2 インド洋作戦・珊瑚海海戦
「太陽の帝国」その3 遣日独潜水艦・海軍技術士官
「太陽の帝国」その4 ミッドウェ-海戦
「太陽の帝国」その5 聯合艦隊旗艦
「太陽の帝国」その6 大和出撃
「太陽の帝国」その7 マリアナ諸島 テニアンの戦い
「太陽の帝国」その8 大日本帝國
「太陽の帝国」その9 運命の瞬間
Empire of the Sun 10 「太陽の帝国」その10 満州事変
Empire of the Sun 11 「太陽の帝国」その11 上海事変
Empire of the Sun 12 「太陽の帝国」その12 兵に告ぐ 二・二六事件
38度線 休戦協定破棄 「朝鮮戦争 1950 KOREA」
赤いキャビア 極東安全保障経済戦略 北方領土