ウクライナ唯一の自動車メーカー「ZAZ」(ザポリージャ自動車工場)は旧ソ連時代の1960年代から、空冷V4エンジンをRR駆動する小型車「ザポロジェッツ」を製造してきました。

しかし1970年代に入ると、時代遅れのデザインと構造の為、輸出は言うまでもなく、ソ連国内でも未来がないものと思われるようになります。
勿論、ウクライナのエンジニアはザポロジェッツの旧態化に対して、何もせず座視していた訳ではありませんでした。
●新型FF車の開発と計画の頓挫
1968年から、ZAZは社内に研究プロジェクトを立ち上げ、小型のFF車と4WD車の開発を始めます。
ノウハウがない中での独自開発は難しく、プジョー204を範とした、1.1リッターエンジンを搭載する試作車が製作されました。
【エドゥアルド・モルチャノフによるスケッチ】
【1971年以前に製作された「Pierspiektiwa」と呼ばれる試作車】
1973年、当局に対して3台の走行プロトタイプを用いたプレゼンテーションを実施し、小型FF車の開発に支持と同意を得る事に成功します。プロジェクトは国家より正式なものとして認められ、インデックス"1102" が割り当てられます。
【プレゼンテーションに用いられた試作車】
【軽トラ的農民車と位置付けられた4WDモデル(1103型)】
【1973年〜1974年に製作されたザポロジェッツ後継の2ドアセダン】
1975年にプロジェクトは完成を迎え、1978年から2ドアセダン/3ドアHB/4WD車の生産が可能な準備が整います。
【1974年〜1975年頃に完成した試作車】
しかし自動車産業省は西側のライバル車に較べて全ての点で劣ったものであるとし、徹底的に計画を修正する必要があるとの判断を下しました。
●ラーダの支援と新型試作車
そこで白羽の矢が立ったのが、日本でもニーヴァでお馴染みとなった感のある、ロシア最大の自動車メーカー「VAZ」(ヴォルガ自動車工場)こと、「ラーダ」でした。
ラーダもZAZより少し大型のFF車を開発していた為、一石二鳥であるとして、自動車産業省の主導で1976年4月より支援が始まります。
【その後の開発の始祖となった、ラーダから提供された試作車VAZ-3E1101「ラドガ」】
ラーダからの援助を受け、計画は完全に仕切り直し。1976年発売のフォード・フィエスタに「追いついて追い越す」という目標が新たに設定され、ラドガを参考に機械的に殆どゼロから開発するだけでなく、デザインの近代化も図られました。(4WD車はお蔵入り)
【エドゥアルド・モルチャノフによるスケッチ】
【スケッチをもとにしたモックアップ】

特徴的な丸型ライト、ボディ同色の樹脂製バンパーなど、当時流行していたミニマリズムに沿ったスタイリングが特徴的でした。
1978年には、この試作車を発展させたモダンでシンプルなデザインの新しい試作車が完成します。
【レオニード・スミルノフによるイメージスケッチ】
【フロントマスクはボクゾールシェベット(初代ジェミニの英国版)の影響が色濃いもの】
【スケッチを元にしたモックアップモデル】
【3角窓が廃止された、より量産仕様に近い試作車】
【共産党幹部による視察】

当時の世界基準でみても充分にトップクラスを行く性能とデザインに当局も満足し、1981年からの生産が承認されるのは時間の問題かと思われました。
ウクライナの自動車産業がヨーロッパで成功する千載一遇のチャンスがやってきたのです!!
しかし、その行く手を阻むものがいました。
そう、大ソビエトを死に至らしめた病。汚職と腐敗です。
●政治的駆け引きによる量産計画の遅延
ペレストロイカ以前の計画経済の統制下における自動車産業の構造は少し特殊で、年度ごとに中央が計上する予算を各メーカーに分配する仕組みが採られていました。
また、メーカーの稼ぎは自身の懐に入らず国庫に入る為、外貨が稼げる輸出に力が入れられました。
そうした政治的な配慮もあり、かつてラーダが開発していた試作車「ラドガ」の量産仕様「スプートニク」(輸出名サマーラ)の方が輸出市場で「発展性があり有望である」とされ、業界での財務上の優先事項はラーダに与えられる事になります。
【ラーダ・スプートニク(輸出名サマーラ)】
当然ながら、年度毎の予算には限りがあり、同時に2つのプロジェクトの進行は困難な為、本来はZAZに回される筈だった予算がラーダの物にされてしまい、量産計画は頓挫します。
一説によれば、当時の運輸省上層部の大半がラーダOBで構成されており、「ソ連初のFF小型車という栄冠を手にするのはラーダこそが相応しい」と考え、横槍を入れていたのだとか。
そこに設備投資等の問題が噴出し、最終的に党政府から生産の承認が降りるのは、ラーダ・スプートニクが発売された後の1985年にずれ込む事に・・・
その間にも自動車産業省は、フィアット・ウーノやオースチン・メトロなどの新しい外国製ライバルを超えるための要件を、次々と提唱します。その無茶ぶりに挫けることなく、魅力を維持するための涙ぐましいまでの努力が続けられました。
【フロントグリル、ヘッドライト、バンパーをリデザイン】
苦心の末、1986年には生産ラインが稼働し始め、量産試作車6台が完成します。
そのお披露目をかねた全連合大会で新型車の名前を決めるコンテストが行われ、古代ギリシア語でクリミア半島を意味する「タヴリア」が選ばれるのでした。(なんと因果な名前だろう)
●1102型タヴリア(1987年〜1998年)

1987年11月から本格的に生産を開始したタヴリアは、当初の計画よりもかなり遅れて登場したにも関わらず、ザポロジェッツに較べて非常に現代的な車であると強い関心を得ます。
ボディサイズが小さいにもかかわらず、優秀なパッケージングによる室内の広さ、トランク容量の大きさ(250リッター)から賞賛されました。
小型FF車のお手本のようにオーソドックスな、フロント・マクファーソンストラット式 独立懸架、リヤ・トーションビーム式サスペンションというレイアウトを採用しています。
ダイハツのPCDが長らく委託生産していたパブリカ由来の110mmだったように、部品や生産設備をザポロジェッツと共用しているのか、こんなに近代的な外装なのに合わせホイール仕様なのが玉にキズ。(ディスクブレーキ)
最初期の試作車時代からプジョー104に強く影響を受けていた1091cc水冷4気筒OHC・51馬力エンジンは、ザポロジェッツの空冷V4から大幅に進歩しました。
それに伴い、価格も3900ルーブルのザポロジェッツ968M型に対してベースモデルで5100ルーブルと大幅にアップ。ターゲットになる若者には購買能力がなく、逆にこの価格帯の新車を買う余裕のあるユーザーからは、コンパクトで簡素に過ぎると評価は芳しいものではありませんでした。
また製造開始直後から、構造的な欠陥や製造品質に多数の問題を抱えていました。
ルーフやピラーの接合部からボディに亀裂が広がる、バルブシール不良によるエンジンのオイル食い、電装系、駆動系のトラブルなどが多発、おまけにアフターサービスの質も低いとあって、芳しくない評価は決定的なものとなっていきます。
●マイナーチェンジモデルの開発
そんな市場からの反応を受け、すぐにソレックスキャブの高出力エンジン(通常バージョンの145 km / hから155 km / hに最高速アップ)、カセットデッキを装備、メタリック塗装の上級グレードが追加されました。
さらに1989年のマイナーチェンジ時には、より上級化を目指した時流に即する改良が加えられます。

初期の試作車に似たイメージの新しいラジエーターグリル、異型ヘッドライト(チェコスロバキア製)、ブレーキブースター、4本スポークのステアリング、リアウィンドウの熱線、リアワイパーなどを装備し、価格は5,429 ルーブルに引き上げられました。
同年には、ザポロジェッツから数えて累計300万台の生産を達成します。

ちょうど300万台目に製造されたタヴリアは、工場の若い鋳造労働者であるセルゲイ・アントノフに贈られました。
●タヴリアの輸出仕様
タヴリアも外貨獲得の為、西ヨーロッパおよび東ヨーロッパ、南米の国々に少量が輸出されました。

仕向け地によっては、インポーターの都合でラーダブランドから販売されますが、基本設計の古さからサマーラの影に隠れて販売は奮いません。
そこでフランスのインポーター「Poch」(プーチ・1993年にラーダ・フランスに吸収)は、独自のアップデート仕様「Poch・タヴリアXL」を製作しました。

1991年〜1993年まで販売され、独自のラジエーターグリル、前後エアロスパッツ、専用ホイールキャップで近代化、より高品質な内装材に張替えられています。
当時フランス市場で最も安価な新車 (基本バージョンで35900フラン、XLで38,500フラン) でしたが、わずか1606台が販売されるに留まりました。
●ソ連の崩壊
1991年にソ連は内部分裂を起こして崩壊。
ZAZは名実ともにウクライナの自動車メーカーになったのです。
しかし問題は山積みです。ソ連圏に存在したサプライヤーからは部品の供給が途絶え、必然的に調達はノウハウの無い国内からする破目に。ただでさえ低かった品質なんて、ストップ安状態です。
この期間、特にパワートレーンの製造が困難だったようで、1994年にフィアットから供給を受けたポーランド製OHV・903ccエンジンおよび、ラーダ・サマーラの1289ccエンジンを搭載したモデルが追加されましたが、全く売れませんでした。
売れないのも道理で、ハイパーインフレで麻痺した経済状況下で新車を購入する資金を持ちあわせていないユーザーの多くは、ヨーロッパの西側諸国から流入した価格が安くて品質の良い中古車に流れたのです。
製品を作る事も売る事も出来ずに、ZAZは存続の危機に立たされます。
●1102-16型タヴリア・ノヴァ(1998年〜2007年)
そんな瀕死のZAZに救いの神があらわれました。
1998年、ZAZは韓国のGMグループ企業「大宇」と合併。非公開合資会社「AvtoZAZ-Daewoo」を設立し、財政的支援、技術的支援を受けながら大宇車をノックダウン生産する取り決めが締結されます。
それと同時に、大宇車を生産する準備が出来るまでのピンチヒッターになるべく、タヴリアは信頼性と品質の向上に主眼を置いた「タヴリア・ノヴァ」に近代改修を受けます。
インパネ変更(上級グレードのみ)、電装系の再設計、機関系部品の材質向上、ボディ各部の補強、遮音剤の追加など、改修は300箇所以上に及び、同時に製造品質の向上も図られました。
再びエンジンは自社製一本に戻り、1091ccエンジンを搭載した「ベーシック」、1197ccエンジンを搭載した「スタンダード」、1197ccエンジンと1299ccエンジンを搭載した上級グレードの「Lux」、さらに「Lux」のインジェクション仕様が設定されました。
ほそぼそと輸出も継続され、輸出仕様の「Lux」は、サンルーフ(後付けべバスト製)、アルミホイールを装備し、速度計の目盛がマイル表記だったようです。(画像の個体はインポーター独自のグリルに変更)
そして2007年、ちょうど生産開始から20年という節目のタイミングで波乱に満ちた生涯を送ったタヴリアの生産は終了・・・と、思いきやバリエーション車の生産は、もうちっとだけ続くんじゃ。
次回は、このタヴリアのバリエーションモデルの秘密に迫ってみたいと思います。