泥沼化した戦況のウクライナ情勢。
マスコミの垂れ流す情報は日本の報道機関にありがちな、TVの向こうの戦争といったスタンスの物ばかり。そこには市井を生きる一人ひとりの生活という視点が欠けているように感じられてなりません。
じゃあ、生活を知るにはどうすれば良いですって?
我々には自動車という共通のアイコンがあるではありませんか!!
〈ウクライナの自動車メーカーZAZ〉

南ウクライナの都市ザポリージャに本拠を置く自動車メーカー「ZAZ」(ザズ=ザポリージャ自動車工場の意味・3A3とも表記)は、旧ソ連時代からトラクターやハーベスターなど農機の製造を行ってきたメーカー「コムナール」にルーツを持つ由緒ある企業です。
1958年11月、「コムナール」はモータリゼーションの高まりに合わせ、マイクロカーを生産する役割を政府から与えられ事業を転換。1961年に「ZAZ」に改称し、ウクライナ唯一の自動車メーカーとしての道を歩みだしました。
●ザポロジェッツ965型(1960年〜1969年)
1956年、自動車・トラクター産業大臣N. I. ストローキンはソ連の大衆車メーカー「モスクビッチ」に、1955年モデルのフィアット600の車体に全輪独立懸架、RR駆動の空冷エンジンを搭載した人民の為の国民車の開発を指示します。
【ベースになったフィアット600】
モスクビッチ444の開発コードが与えられ、フィアットのボディデザインは一新されますが、 パネル分割、 組み立て設計、 組立、溶接技術は継承されました。
公式にフィアットからの技術供与は無かったと言われていますが、何らかの政治的取り引きがあったのは明白かと思われます。(フィアットがソ連大好きマンなのは公然の事実)
【開発初期のデザイン検討モデル】
何度もエンジンの選定をやり直し、水平対向エンジンの搭載が有力と見られましたが、最終的に陸軍が水陸両用車用に開発していた空冷V4エンジンを採用しました(戦前のBMWのリバースエンジニアリングエンジン)
同エンジンを搭載する為に、リアサス周りを再設計した試作車が、1957年9月に製造されました。
【ブリュッセルモーターショーのパンフレットより。650は試作エンジンの排気量?】
【同時期の試作車。おろし金と言われたエアインレット形状が特徴】
【MeMZ 965 V4エンジン】
1959 年、すべての開発作業がZAZに移管され、コードナンバー ''インデックス 965"を受け取ります。量産に向けた構造部品と設計の微調整が行われました。
【ZAZに開発が移管された時期の試作車】
1960年10月1日から正式にザポロジェッツ965型として量産を開始。年末までに約1500台がリリースされます。
ザポロジェッツ965型は、1800ルーブルと比較的安価だったのと経済性に優れた為、褒めてるのだか貶しているのかわからない「せむし」(背中が曲がる病気)の愛称で親しまれ人気を博しました。
1962年11月には、非力なあまりに「戦車のスターター」というジョークが流行したエンジン出力を強化(887ccに排気量UP)し、各部をアップデートした965A型にマイナーチェンジを受けています。
●965AE型ヤルタ(輸出仕様)
965A型から、ドイツ、ベルギー、イギリスなどに輸出も始まり、輸出市場向けに発音と綴りがより簡単な「ヤルタ」(クリミア半島の都市)の名前が付けられました。

ソ連国内仕様には存在しない、メッキモールやラジオ、灰皿をなどの豪華な装備を持つデラックス仕様でした。
●ザポロジェッツ・スポーツ900(1963年〜1969年)
ザポロジェッツ965型をベースに1963年〜1969年の間、レニングラードのNAMI(中央自動車・モーター研究所)とモスクワのMZAK (モスクワ自動車車体工場)が、共同で製作したFRPボディの試作車です。

量産も考えられていたようですが、当局は共産主義らしからぬ流麗なスポーツクーペに理解を示さず、試作車が5〜6台作られるにとどまりました。
●965P型ピックアップ
Bピラー以降をバッサリカット、荷台に作り変えたピックアップトラック。

こちらも正式な量産モデルではなく、工場内での作業用に少数が作られたのみに終わり、市販されませんでした。
●965C型郵便車(1962年〜1963年)
ソ連郵便局に650台が納入された特装車扱いのモデルで、窓を覆って後部座席の代わりにメールボックスを設置、集配がしやすいように右ハンドルに改造されています。

低速走行が多く、エンジンルームに熱が篭もるのを解消するべく、エアインレットがケーニッヒのフェラーリばりのド派手な形状に改造されています。
●LuAZ(ルアズ)-967(1961年〜1975年)
当初より軍事転用が考えられていたザポロジェッツ965型の空冷V4エンジンを搭載した4WDの水陸両用車。

朝鮮戦争時、アメリカのジープの驚異を目にして小型のオフロード車の必要性を認識した陸軍により開発されました。
空輸可能なほど軽量(950kg)で、ほとんどの地形で 400 kg (880 ポンド) の積載が可能でした。
●ザポロジェッツ966型(1966年〜1971年)
1961年には、早くもZAZ独自の設計になる次期モデルの開発が始まり、1963年のモデルチェンジを目指しますが、連合組合は頻繁なモデルチェンジは不適切かつ無駄であると考え、開発は二転三転します。
【初期に描かれたデザインスケッチ】
【1961年に試作された2台のうち1台、プロト1号車】
【別案として考えられていた「共産主義の翼」をイメージしたフロントマスクのプロト2号車】
【プロト1号車のシンプルなデザインに原点回帰したプロト3号車】
ようやく正式に党政府の認証が降り、1966年に新型ザポロジェッツ966型が登場しました(965A型も1969年まで併売)

当時世界的に流行していたシボレーコーベアに影響を受けたコーベアルックのせいで、しばしば他社との類似性を指摘されがち(特に西独NSU社のプリンツはクリソツ)ですが、メカニズム的にはフィアット由来の965型を引き継ぐものでした。
エンジンも従来の空冷V4・887ccの改良型となり、30馬力仕様の966型、40馬力仕様の966V型の2種が設定されました。
965型譲りの低廉な価格、経済性、走破性、構造のシンプルさから強い人気があり、リアのエアインテークを指して「大耳」という愛称で長年愛される事になりました。
●966B型ヤルタ
1967年、966型の輸出仕様をルノーのブリュッセル工場にて組み立てる契約がルノーとの間で締結されました。
翌1968年のブリュッセルモーターショーには、現地生産を前提にルノーR8用956ccエンジンを搭載した「ヤルタ1000」が出品されます。
ところが、この話は1969年には立ち消えになったようで、同年のアムステルダムモーターショーでヤルタ1000は存在を抹消され、かわりに「ZAZ 1200 V4」が発表されるのでした。

結局はウクライナ製に納まったヤルタが、ブルガリア、キューバ、ハンガリー、ユーゴスラビア、フィンランド、東独など多くの国に輸出されました。
●968型(1968年〜1978年)
1968年に追加された、1197cc・シングルキャブ41馬力/ツインキャブ51馬力エンジン搭載車は、従来の887ccの966型と区別する為に、968型と呼ばれました。
1972年のマイナーチェンジ時に、887ccの966 型はカタログ落ち。同時にプロト2号車のデザインコンセプトだった「共産主義の翼」にアレンジを加えたフロントマスクが新たに採用されます。
●968A型/輸出仕様968AE型(1974年〜1979年)
1973年に発表され、既存の968型と併売された968A型は、40箇所に変更を加えた上級グレードという位置付けでした。
外装は通常の968型とほぼ同一ですが、輸出先のFMVSS(連邦自動車安全基準)要件を満たす為、合わせガラス、シートベルト、衝撃吸収ステアリングコラム、クラッシュパッド付きインパネ、ステアリングロックなどの安全装備を追加。効きが悪いと不評だったブレーキをディスクブレーキ化、メンテナンスフリーのフロントアクスル、上級のラーダ車から流用したフロントシート、アームレストなどを備えていました。
1970 年代初頭に 150,000 台に増加したZAZの年間生産台数は、1977 年には 165,000 台に達し、まさに我が世の春が来た状態。

しかし、70年代後半になると、共産圏らしいグダグダっぷりが目につくようになります。
●968M型(1979年〜1994年)
世界では小型車のFF駆動への大転換が巻き起こる中、1976年に大規模な近代改修を伴ったビッグマイナーチェンジモデルの試作が始まります。当初は1977年の発売を予定するも、計画が遅れて実際に量産が始まったのは1979年末の事でした。
【量産モデルとテールレンズのデザインが異なる試作車】
各部を樹脂パーツに置き換えコストダウン、トランク拡大が目的のフロントパネル変更、エンジンへの空気供給を増加するフラットタイプのエアインテークの採用、リアエンジンフードにルーバー増設、バックランプ内蔵一体テールレンズを採用、フロントスタビライザーなどを新装備してみたところで、いかんせん旧態化は隠せません。

このモデルは、フラットなエアインテーク形状から「石鹸箱」の愛称で呼ばれました。
その後、968M型は開き直ったかのように大まかな改修を受けることなく、1994年6月まで生産が続きます。
●968MP型ピックアップ(1990年〜1992年)
市場ニーズに応える形で、かつての965P型を彷彿とさせるピックアップトラックが、モデル末期の90年代初頭に少数市販されました。(おそらく特装車扱い)

構造上エンジンフードは何も手を加えられず、リアシート部分が荷台になっただけなので実に使い勝手が悪そう。
これらのバリエーションモデルも含め、ザポロジェッツシリーズは1960年から1994年までの間で、計3,422,444 台が製造されました。
皮肉にも、リアル版デスラー総統(無印版)と化したプーチン大統領の愛車は、大学生時代に母親がスポーツくじで当選した景品をプレゼントされた1972年型ザポロジェッツなのだとか。

1度は手放したものの、後に同一個体を買い戻して今でも所有されるなんて、まるっきり車オタクの行動パターンじゃありませんか。(今となっては、そういう面白オジサン的キャラを作っていたのかと邪推せずにはいられない・・・)
そうした事もあってか、2011年に公開されたディズニー映画「カーズ2」では見事、悪役キャラに抜擢されます。

子供向けだと思って侮るなかれ、他の悪役キャラはAMCペーサー&グレムリンやらユーゴ・ザスタバだったりでヤバ過ぎます!!
子供向きと言えば、我が家の子供の絵本もおかしい。

アイエエエエ! ザポロジェッツ965!? ザポロジェッツ965ナンデ!?
●ハンプバック2(モックアップモデルのみ)
ハンプバックとは読んで字の如く、初代ザポロジェッツ965型の愛称であった「せむし」のことです。
ニュービートル、BMWミニなどに代表される、突如として1990年代末〜2000年代初頭にかけて世界中で盛り上がったリバイバルカーブーム。
ZAZも、この世界的な潮流に乗るべく、小型FF車「タヴリア」のプラットフォームに当時提携関係にあった韓国のGMグループ企業「大宇」の1.5リッター級パワートレーンを流用し、伝説の「せむし」の復活を目指します。

2002年にはモックアップモデルが公開されましたが、肝心の大宇が倒産してしまい、財政的な問題から実現はしませんでした。
次回は、「ハンプバック2」のベースになった小型FF車「タヴリア」についての調査結果をご報告できればと思います。(むしろ、そっちが本題)