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2009年01月18日 イイね!

余談:「運転」という趣味

※自分は今こう考えている、というものであり、
 これが正しいとは限りませんので御了承ください。

前回と似たような内容ですが、前回が一般論であったのに対して今回は個人的な意見が中心です。
趣味とは?

趣味とは人生を彩る物であり、人生を楽しむ為の手段です。
趣味自体は手段であっても目的ではありません。従って如何に楽しむかが重要です。また、「まじめに取り組む」事と「本気で取り組む」事、「本腰を入れて取り組む」事は異なります。趣味で運転を楽しむ時、他の趣味に比べて比較的お金も時間も要することから、どの様な姿勢で取り組むのがよいか/自分にとってどれほどの物なのかをじっくりと考えてみる事をお薦めします。
「何処までが趣味なのか」という基準は人によって異なりますので一概には言えませんが、「何かと引き替えでなければ行えない」「何かを犠牲にして行っている」のだとすれば、それは既に趣味の範疇を越えている気がします。もちろん趣味の範疇を越える事を否定している訳ではありません。
趣味を楽しんで満喫している時、その人は輝いて見えます。この時、その趣味はその人にとって糧となり自信の礎とも成り得る物です。また、趣味を通して何かを得ることは可能です。その得た事を他でも生かすことが出来るのであれば、趣味は楽しむ手段であると共に何かを得る為の手段ともなります。

趣味での目標

趣味に目標を立てることは大いに意義があります。例えば「自分の運転を外から撮影した映像を客観的に見た時に『この車と走ってみたい♪』と思えるような運転」が出来るようになる事を目標に据えることで、技術向上の糧とすることが可能です。これを実現出来たらこれほど幸せな事は無いと思いますが、同時に「絶対実現しない」事を目の当たりにする不幸ともなります...

運転する目的

先にも触れたように運転する時の目的によりその方法論は多岐に渡り、趣味で運転をする場合も目的により多岐に渡ります。これは運転に限った話ではありませんが、趣味も慢性/惰性で行っていると「何をしたいのか」をいつの間にか見失ってしまうことがあります。「何をしたいのか」が変化していく中で目的が変化することも充分にあり得ますが、その変化を捉えることでより有意義な時間を過ごすことが可能となる為、その目的と行っていることが一致しているか自問してみる事をお薦めします。

モラルと常識

マナーは主に周りの車への配慮、モラルは主に周りの環境や社会への配慮となります。運転が趣味の場合、結果として法律に反する事・モラルが欠如した行動となってしまう事があります。法律やモラルに反する事が目的の場合に比べれば遥かに良いのですが、それでもマシなだけであって決して誉められる事ではありません。そのマシな範疇を如何に一般的な指標にあてはめるか/近づけるか、という努力が必要です。
車の場合に多いのは、スキール/排気等に起因した騒音/音害です。一般的に、車が出すスキール音/排気音を不快に感じる人は多いです。この一般的な評価≒一般常識の存在をまずは理解する事が必要です。ここで必要な事は「存在を理解する事」であり、その内容の是非を問う事ではありません。日本が民主主義国家である以上は、快い/心地良い/不快という好みを抹消する事は出来ない「はず」です。車の騒音に関する最大の問題は、その音が周りに漏れる事です。その音を不快に感じる人に対しても強制的に聞かせてしまうが故に、音害は無くならないのです。運転が趣味の場合は騒音を出す事が目的ではなく、聞いている側はその副産物である騒音を抑制したいのですから、折衷点/落とし所を模索して対策を講じる事が可能だと思っています。防音壁等はその最たる例です。
この努力を怠るとイタチごっこが始まります。車でのイタチごっこは得てしてモラルの欠如に始まり、何らかの形による封じ込めで幕を閉じます。モラルの欠如は、公道であれば封鎖や減速帯の設置、施設であれば制限事項の追加や封鎖に繋がる、という事を知り置いてください。もちろんその判断と是非は個々人にゆだねられる物です。

法律遵守

「速度違反を一度もした事が無い」という人はいないと思ってます。法定速度で走っていて、様々な車に煽られた事があるからです。
以下は極論です。速度超過=違反状態にて運転する場合、その度合いはどの様に決めていますか?速度超過をしない=法律を遵守する気があるか否かが重要であり、その面では度合いがどうであれ法律を遵守していない事に違いはありません。法律違反の面では何ら差はありませんので、例えば煽って前の車を運転しているドライバーに不快な気持ちを与えるぐらいなら、違反でも追い越しを行って先に行けばいいと思います。煽る事が目的でない限り、ですが...「速度違反をしたい」のであれば、車の限界速度で走る方がよほど目的には適っています。同様に「遅いから/ゆっくり走っているから多少ははみ出しても大丈夫」「ここは広いから路上駐車をしても大丈夫」というのも法律違反という面では何ら変わりません。車線は走る場所を定める為にひかれてますし、広さや状況に関わりなく駐車禁止です。同じ路上駐車でも、路肩に完全に治まっていればまた別の禁止事項ですが...
もちろんこれは極論であり、同じ違反をするにしても度合いが少ないに越したことはありません。しかしながら「少ないに越したことはない」のは、周りへの迷惑や事故が起きた時の損害を減らしたりイレギュラーへの対処の幅を広げる事が目的であり、大小の差はあっても違反には変わりないことは肝に銘じておく必要があります。
ちなみに法定速度は「その速度以下で走りなさい」という規定であり「その速度で走りなさい」という物でもありません。法定速度以下で走行しても、何ら違反ではありません高速道路での最低速度は除きます。遅い速度で走る事は法律遵守の問題ではなくマナーの問題となります。

Posted at 2009/01/18 13:49:13 | コメント(3) | トラックバック(0) | 運転について | 日記
2009年01月11日 イイね!

巧い運転を目指して:心構え

※自分は今こう考えている、というものであり、
 これが正しいとは限りませんので御了承ください。

今回はネガティブシンキングが多いですが御容赦下さい。

根本的に誤解して欲しくない事がありますので、それを先に書きます。

・覚悟と心構えは異なる

心構えとは、例えば「事故が起きる可能性があるので細心の注意を払う」事を指しており、「事故が起きないように対策を講じる」事につなげる為のステップです。「事故が起きた時」の覚悟を持つ事ではありませんので誤解の無きようお願いします。事故が起きた時の覚悟は、それはそれで必要です。
心構えの対象は事故/アクシデント/ハプニング等で、筆頭はもちろん事故です。

・開き直りは厳禁

開き直りは逃げなので良くありません。逃げている限り、前進も出来ない事になってしまいます。前進する為には、事実は事実と真摯に真っ向から受け止める/立ち向かう強さが必要です。
例えば「事故が起きた時」の覚悟を持つ事は、事故が起きた時にどうするかをあらかじめ考えておく、という意味では必要です。しかしながら、「覚悟があるから~」という考え方は、事故が起こりえるという事実に対して何ら対処を行わない口実にもなってしまいますので、「事故が起こりえる」事から逃げている事にもなります。「運転している以上は事故が起こりえる」という事実に対して「それを回避するにはどうすればよいのか」を考えて対策を講じる事が必要です。


心構えは多岐に渡り一概に書き表す事は困難ですので、キーワードを元に記述します。

車は凶器

車は凶器です。軽自動車でも500kg以上の重量があり、その重量が法定速度通りに走行していたとしても最低で時速30km/Hとなります。この時に車が持つ運動エネルギーに生身の人間があらがう術は到底無く、人との接触は簡単に人を死に至らしめます。
従って、「車を運転している」という事は「凶器を扱っている」事だという認識が必要です。自分か他人かは別として「車に乗るという事は一歩間違えれば簡単に死者を出す行為である」という認識を念頭に置いておく必要があります。注意力散漫、漫然運転、ながら運転はそれを近くに呼び寄せる要因とも成り得る為、厳禁です。

一寸先は闇

例えば前走車がある場合、前走車が急停止する可能性があります。ブラインドコーナーがあった時、その先に車が止まっている可能性があります。住宅街を走っていれば、横の家から子供が飛び出してくる可能性があります。「どの様な事が起こりえるか」という可能性を考えた時、そこには無限の可能性があり何が起こってもおかしくありません。もちろんそれらの可能性をいちいち考えていたら運転は出来ませんが、だからといって全く考えなくて良い事でもありません。例えば前走車がある場合は、走行速度に見合った車間距離を確保します。ブラインドコーナーでは、先が見えるまでブレーキを踏める姿勢を確保する事で、車が止まっていた場合でもブレーキが使えるようにします。住宅街を走っている場合で特に段差のある歩道等が無い場合は、端から充分に離れて(最低でも1m程度?)走行し、充分に離れて走行する事が出来ない場合はなるべく徐行します。このような形で何らかの対処を取れる準備をしておく事で、100%防ぐ事は出来ないまでも発生の抑制/被害の抑制によるリスクの低減を図る事は可能です。状況に合わせて、可能性の高い事柄から可能であれば5個程度、少なくとも1個は想定・対処を行う事をお薦めします。

思いこみは厳禁

運転する際には想像力(ここでいう想像は「予想」です。情景を思い浮かべる想像ではありません)を働かせる事は効果的ですが、その場合は思いこみとの違いに留意する必要があります。「○○が××するかもしれない」は方向性としてはネガティブですが、想像力による効果的な方法です。「○○が××するだろう」は一見ポジティブですが、実は単なる楽観であり前向きな考え方ではありません。これは思いこみによる事故を招き寄せる運転に繋がります。よく言う「かもしれない運転」「だろう運転」です。例えば右折待ちで対向車が譲ってくれたとしても、安全が確認できているわけではありません。「対向車が譲ってくれたから安全だろう」ではなく、バイク等は来ていない事を目視する等の安全確認が必要です。この安全確認の方法もいくつかの種類があります。より安全度の高い方法は、存在確認です。例えばミラー等で確認する際は、車が映れば「対向車がいる」事であり映らない時は「対向車がいる事は確認出来なかった」と、いる事のみを確認する方法です。この方法は「対向車はいない」ではなく「対向車がいる事は確認出来ていない」とする所がポイントです。「目で直に見ていない物/事は頼りにはしても信じない」というぐらいの、ある意味不信感を持っていてちょうどぐらいと考えてます。確認をしすぎても何らやりすぎではありません。
ちなみに運転には創造力と想像力(情景を思い浮かべる方)も必要となる時がありますが、それは別の話なので割愛します...

事故が事故を呼ぶ

事故を起こした/巻き込まれた場合、そこには必ず根本的な原因があります。例えば交差点を曲がる時に何を確認しているか、というような方法論であったり、確認した結果をどの様に判断しているか、というような判断力かもしれません。これらの根本原因を突き止めた上で是正しない限り、同じ原因となる同様の事故を繰り返してしまいます。これは何ら事故に限った事だけではありません。ヒヤリハットと遭遇した場合は事故にならずに済んだという意味では幸運ですが、その幸運もいつまでも続くとは限りません。ヒヤリハットを単なる幸運と済ませずに、何故そのような事態を招いてしまったのかを冷静に分析した上で対策を施す事が、事故の防止には必要です。
事故をトラブル/故障に置き換えても同じ事が言えます。

迷ったらやめる

例えば右折待ちで対向車が来ていた時に「行けるかな?」と思う時があります。この「思う」が曲者です。疑問符が付いているという事は何らかの理由(得てして距離が無いもしくは対向車が速い)で逡巡している時です。「逡巡している」という事は「大丈夫という確信を得ていない」時ですから、こういう時は行かずに、「行ける」と確信した時に行く事をお薦めします。例えば右折で一番まずいパターンは、行う時に迷って出遅れて、始めてからも躊躇して挙動が遅くなり、あげくダメだと思って車線を塞いで停止する事です。
迷ったらやめる・始めたら逡巡/躊躇しない、という踏ん切りと果断が重要です。

待てば海路の日和あり

運転する際に、何ら慌てる必要はありません。多少到着が遅くなっても、それで遅刻しても殺される訳でもありません・・・たぶん。従って、急ぐ必要も慌てる必要も何ら無いのです。何らかの理由で迷う時や不安に思う時は、多少時間がかかる事になったとしても、見送る/行わない事をお薦めします。行わない勇気/英断も時には必要です。

ルールとマナー

公道やサーキットを走る時、そこには必ずルールがあります。それらのルールが制定されている理由や背景が必ずある為、それらを度外視して運転する事は非常に危険です。どの様な背景でそのルールが作られたのかをじっくりと考える事をお薦めします。
また、明文化される事はありませんが、運転するに辺り守るべきマナーもあります。主に周りに迷惑を掛けない為の事柄ですが、得てして廻り廻って自分に返ってくる事柄も多々あります。マナーを守る事は「情けは人の為ならず」であり、マナーを守らない事は「天井に唾」する事である、というような感覚で捉えても差し支えはありません。
「マナーを守る」事を「周りに迷惑を掛けないようにする」事と捉えるのではなく、「周りの状況を掴めているかの指標」として捉える時、マナーを運転技術の向上に役立てる事も可能です。

人の振り見て我が振り直せ

マナーとも共通する話です。周りの車を見ていて「あの運転は危ないな」「周りを見てるのかな」と思う事があるかと思います。そういう時は、自分がそういう運転をしてしまっていないかを振り返る機会にする事をお薦めします。例えば煽られたりした時もむかついたりせずに、鼻で笑って流しながら先に行かせましょう(笑)
また、ネガティブな面だけでなくポジティブな面も同様です。

過信は禁物

運転技術に自信を持つ事は、次の事を行うゆとりを作る為にも必要です。しかし、自信が慣れとなると話は別です。慣れは過信の土壌ともなりますので留意する必要があります。自分の総合的な運転技術を客観的に分析し、弱いところを素直に認める謙虚さが事故予防と技術の向上には必要であり、過信はそれに何ら寄与する事はありません。実力以上に過大評価してそれを過信する時は、免れ得ない事故を自ら招き入れる事になります。

学問に王道無し

運転技術の向上に近道はありません。才能の有無はスタート地点と上達の早さに貢献しますが、それでも練習を行わない限り上達する事はありません。技術の向上を目指すのであれば、地道に努力を重ねる事が必要です。努力を重ねる際に効率よく行う事は可能です。

こうして列挙した事柄は何ら特別な事は無く、当たり前の事柄しかありません。内容も行う事も難しい事ではなく容易ですが、それらを「行い続ける事」は難しいです。ごく当たり前の事であっても、それをきちんと行う難しさを理解しない限り、続ける事も出来ません。運転技術と何ら変わらない事です。

最後に、以前書いた事をあえて再び書きます。「今日はここまでかな?」と思った時がその日のやめ時だと思います。意識してか無意識かは分かりませんが、そう思った要因がそこには必ずあります。そういう時に継続して何かがあった場合、「あ~、あの時やめておけば良かった」と後悔するのは自明の理です。運転での後悔は得てして事故につながる事が多く、何らかの経済的/肉体的ダメージを伴ってしまいます。
これはネガティブシンキングである事を認識した上で、「後悔先に立たず、後悔後を絶たず」を減らす為にも、このような時には冷静に状況を確認する事をお薦めします。
もちろん、後から「あの時」と思うような事柄にその時に気が付けれるのであれば、それに超した事はありません。


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思っている事・考えている事を全て実践出来ていれば良いのですが・・・自分で書いていて、耳が痛いところが多々あります。こういったメンタル面の練習はなかなか一朝一夕には進まない物ですが、練習と同様に意識して努力を重ねる事で徐々に手にする事が可能であると信じています。
Posted at 2009/01/11 14:29:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | 運転について | 日記
2009年01月04日 イイね!

巧い運転を目指して:車との距離

※自分は今こう考えている、というものであり、
 これが正しいとは限りませんので御了承ください。

車と走るには、車の事をよく知る必要があります。物として知っている事を前提として、物理的では無い面で車との距離を縮める事が重要です。

車を物として知るには、メンテナンスを行うのが最適です。
メンテナンスの第一歩は洗車。車のいろいろな部分を手で直に触る事で、いろいろな事や状態が分かります。また洗車以外の事でも、自分以外の人が行っている作業を見ているだけで理解できることは多々あります。
この様にして、まずは車という物を知る事が必要です。

車という物を知った後に必要なのは、今の車の状態を知る事です。
手っ取り早いのは運行前点検で、タイヤの空気圧やエンジン・パワステ等の各オイル、バッテリー等の消耗品チェックは最低でも月に一度ぐらいは実施する事をお薦めします。もちろん都度確認するに越した事はありません。分かっていても、ついおろそかになっちゃう部分でもあります。
また車は物であり工業製品である以上は、そこには必ず個体差が発生します。弄り方等による性能やスペック・特性の違いも多々発生します。車を知る際は、車種だけでなく個体差を知覚する事も必要です。これらを踏まえて車を手に馴染ませる/手の内に入れる早さも運転技術の一つとなります。自分はこれに時間がかかります。下手の証拠と思ってます。
他方で、車へ一方的に近づくだけでなく車を近づける事も時には必要となる事があります。もしかしたら単なる言葉の綾かもしれませんが、車に寄っていく事と、車を引き寄せる事は異なると考えてます。


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以下、「車は道具である」事を前提に書いている為、車が好きな人ほど違和感を感じ、また不快に思う事があるかもしれません。本文章は一つの考え方を示しているだけであり、あくまで「こういう考え方もある」という一例に過ぎない事を理解した上で、読んで頂きますようお願いいたします。
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車は道具の一つです。歴史を紐解くまでもありませんが、産業とその発展を支える重要な交通機関の一つであり、車は手段として使用する為に進化してきました。
物が進化する時、枝葉の付き方により様々な多様性を兼ね備えていきます。車も同様に進化をする過程で、改めて言うまでもなく様々な使い方がされるようになりました。その使い方については以前述べた通りですので、割愛します。


使える期間の違いはあれど、道具が消耗品である事は純然たる事実です。従って、車が消耗品である事も純然たる事実です。その事実を認めた上で、どのようにつきあっていくかを考える事が重要です。

車を手段として保有しているのであれば車に愛着を持って接する事は大切ですが、車を維持する事が目的となっては本末転倒です。所有している目的に添って活用する事が本懐であり、状況によっては手放す等、譲れる事を吟味した上でコストパフォーマンスを第一優先で考えて何ら差し支えは無いと思います。

車を所有する事≒保つ事が目的であるならば、消耗品であるが故に無駄な消耗/損耗を抑える事と共に、適度に使用して状態を保つ事が必要です。
この「適度に使用」する事が実に曖昧で難しいところです。保つ事が目的であるならば、街乗りや普段の足にする事は厳禁だと思ってます。劣化するしないの問題だけではなく、事故等による損傷リスクの低減が第一義です。個人的には、使用頻度が低い場合でも2~3週間に一度程度はエンジンに火を入れ、最低3ヶ月に一度程度はフルタンク給油が必要になる程度の走行する事が好ましいと考えています。前者は油膜切れの防止、後者は燃料関連の水分による影響を減らして可動部分を固着させない事を目的としていますが、期間に明確な根拠はありません。どの程度がよいのかは分かりませんが、まずは「どの程度がよいのかを考える」事が必要だと考えてます。
状態を保ち無駄な損耗を抑える為にあらゆる努力を惜しまないのが理想ですが、その為には多大な手間とコストが必要となってしまいます。もちろんその手間とコストに見合う物であれば行うべきですが、それに見合わないのであれば結局の所は何処で妥協するかという事になります。とはいえ妥協している中でも努力できることは多々あります。車が金属で構成されている以上は、その特性から免れる事は出来ません。急激な温度変化はもちろんの事、直射日光等による穏やかな温度変化も金属の老朽性を損ないますので避けた方がよいでしょう。化学物質(化学を知っている人は分かると思いますが、特に周りに電子を多く持つ物質)との接触は酸化(錆)を促す事から、接触を抑えると共に内装等で保護する事も効果があります。日頃の洗車とは別に、定期的に見えない部分も洗浄するとより効果的です。この様な方法で経年劣化を抑制する事も可能です。「車を保つ」というときの「車」が何を指しているかにより、何をした方がよいのかを吟味すると更に効果的です。
車を長持ちさせるには、出来る範囲での細かい努力を積み重ねる事が必要です。すぐに効果が現れる事ではありませんが、5年10年の歳月を経た時には如実に効果が現れます。


個人的には、物を擬人化するのは好きではありません。物は物であり、そこに意識や意思は無いからです。
「車が走りたがっている」状態もありますが、冷静に考えてみれば走りたがっているのは車ではなくドライバーです。車はドライバーの意志をくみ取って動きで表しているのであって、車が自らの意思を持った上で体現しているのではありません。「車が走りたがっている」状態は、実はドライバーが走りたがっている想いに気が付けていない状態であり、車に投影された想いを見る事で「車が走りたがっている」と感じるのです。鏡を見るようなものですね。車との一体感が強いが故に気が付かない事とも言えます。
同様に、車との呼吸が合わないのも原因はドライバーにあります。例えばほんの僅かな操作感覚のずれがいつもよりもタイムラグを大きくし、そのタイムラグしか知覚できない時には原因が分からない為に、この様に感じます。これは単に知覚できない事が積み重なってしっくり来ないだけであり、知覚して補正する事で呼吸が合ってきます。この呼吸を合わせる方法と早さも、運転技術の一つです。
しかしながら「車に意識や意思はなくとも意志がある」のも、ある側面では事実です。俗に言う「魂が宿る」と同意語と思ってます。

どの分野に於いても、練達の士/達人と呼ばれる人々がいます。スタート地点は人により異なったかもしれませんが、達人も初めから達人であった訳ではなく、達人となっていく課程があります。
熟練の課程では、道具を知る事自体にはある側面では意味がありません。道具を知る事で知識を得るのではなく、道具を知っていく課程で活用する為の知恵を培う事に意味があります。
道具を知っていく事で使いこなし、使いこなす為に状態を保ちます。状態が保たれ、また道具自体が淘汰されていく事で道具は一級品に育ってゆき、役に立つ状態(役に立つ、という意味での使える状態)となります。この様にして人が道具を熟練させていく課程で、人は道具を熟練させる方法を身につけます。これは、道具が練達の手助けをしている事でもあります。この様にして、人と道具はお互いがお互いを熟練させていきます。
道具は作られた(≒設計)段階で、ある程度の方向性が決まっていますが、その方向性もどの様に使われるか/どの様な意志を受け止めているかで変化します。後天的に変化するという事であり、道具の意志は使う人が育む物です。
道具は達人が持つ事で血が通い活力を得るようになります。ゆくゆくは道具その物の存在感があらわになっていき、いずれ魂が宿ります。付喪神となるかはその後次第なのかな?


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ちなみに自分は、この面が非常に弱いです。自分で洗車をした事は数えるほどしかないし、簡単な作業も全くやらなくなりました。これだけじゃ良くないって事は重々承知しているので、この件については触れないでください・・・先日も壊しましたし...
すごいなぁと思うのは、球技。グローブ等は使い続ける事でその個体へも熟練する事が可能ですが、ボールは試合中でも何らかの事由で交換します。単純に手に馴染ませるだけでも大変だと思うのですが、新たなボールとの対話を瞬く間に行っているんだろうなぁ、なんて想像しています。ちなみに自分は、球技は全くダメです(笑)
Posted at 2009/01/04 14:56:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | 運転について | 日記
2008年12月28日 イイね!

巧い運転を目指して:車が動く/車は手足

※自分は今こう考えている、というものであり、
 これが正しいとは限りませんので御了承ください。

人馬一体という言葉があります。元は身近な乗り物である馬を乗りこなす際の一体感を表現する言葉ですが、現在では特に対象は限定せずに乗り物を乗りこなす際の一体感を表す言葉として使用されるのが一般的です。
車でも人馬一体という表現を使いますが、車は馬ではありません。馬は何らかの自発的動作を行う事が可能で、例えば牧場に放すと走ったり牧草を食べたりします。車はそうはいかず、例えば駐車場に置いといても動き出しません・・・通常は
詳しくは知らないながらも考えてみると
・馬の人馬一体

乗り手の意思を如何に伝えるか、馬が乗り手の意思を如何にくみ取るか。馬が持つ能力・個性とお互いの相性にも依存

・車の人馬一体(強いて言うなら「人車一体」)
乗り手が車を理解し、如何に車を動かすか
という違いがあります。馬の場合は人と馬がお互いに歩み寄るのが可能であるのに対し、車の場合は人が動かない限りは近づかないという点が、その最大の違いです。

以前、巧い運転は
 ・車が自然に動く
と述べましたが、これは実に奥が深いです。なぜなら
 ・車を自然に動かす
とは異なるからです。後者が
 ・ドライバーが、車が自然に動くように操作している
もしくは
 ・ドライバーが自然な運転によって車を操作している
という状態を指しているのに対して、前者は
 ・車が自然に動いている
という状態を指しています。この二つの決定的な違いは、車の動きが後者は受動的であるのに対して前者は能動的である点です。
車の走行を純粋な挙動で考えると、「加速/減速/旋回」となります。車を主体に考えると「走る/曲がる/停まる」が基本要素であり一見能動態と見えますが、ドライバーの操作により車に発生する動きである為、その実は受動態となっています。この時にドライバーが行う運転は「走らせる/曲げる/停める」という指示体もしくは命令体となります。この時はドライバーと車は別体ですが、人馬一体となった時はドライバー≒車となりますので、運転の基本要素は「走る/曲がる/停まる」という実としての能動態になります。

「手足の如く」という表現がありますが、これは
 ・意のままに/自由に操る事
を指しています。これを一歩踏み込むと、
 ・感覚を共有する事
となります。表現は違えど既述の為、詳細は割愛します。「車が自然に動く」はこの延長線上にあり、二つの事を指しています。
一つ目は、車が能動的に動く事です。例えば、車が動く時には必ず慣性が働きますが、その慣性の働く方向=車が動こうとしている方向と車の進む方向=車を動かそうとしている方向が一致している時、車は何もせずに動く事になります。擬似的にですがこの時、車はあたかも能動的に動いているかのような振る舞いをします。
そして二つ目は、ドライバーが車と一体化することで、あたかも車が意思を持っているかの如く動く事です。ドライバーが車を動かす部品の一つとなった時、ドライバーも含めて車となりますので、車が動いている事になります。これは同時に「車が運転している」と表現する事も出来ます。


もう少し具体的に考えてみます。
コーナーリングを行う際にはハンドルを操作しますが、理想は車が行こうとしている方向とタイヤが向いている方向を揃える事です。これは例えば、荷重移動やアクセル/ブレーキにより、ハンドルがその方向に取られているような状態を先に作り出した上でハンドル操作を行う事です。この時、車が走行している方向とタイヤが向いている方向が異なる時には抵抗が発生する為、前を向いているタイヤは既に曲がろうとしているのを抑える方向で働いており、ハンドルを切る事でその抵抗が減って旋回を始めます。この場合、ハンドルは曲げる為の物ではなく、抑えているくさびを外す物となっています。カウンターをあてている状態からハンドルを戻した時に近いかな?また、旋回中はタイヤの角度を変えて抵抗を減らす為にハンドルを切っている事になり、その状態は車の特性やコンディション等でアンダー/オーバー双方があり得ます。この状態が「行きたい方向に車が行くようにする」運転の一つとなります。「行きたい方向に車を行かせる」ではありません。
そして、運転する際の操作感覚が車と完全に同体化する事があります。例えばお腹がかゆいと思って掻く時には、掻こうという意志を脳がくみ取って各筋肉に指令を出す事で腕が適切な場所に動き、その後に指が動いてお腹を掻きますが、これらは無意識に行われている動作となります。車と同体化している時はこれと同様に無意識に車を運転します。例えば車を曲げようという意思を脳がくみ取って、その状況に見合った適切なステアリング量を動かす事で車が曲がっていきます。この「ドライバーの判断を交えることなく状況にあった適切な操作を行える」状態が、ドライバーと車が一体化する第一歩となります。更に同化していくと車両感覚等も一体化します。人が飛び出した時に条件反射でブレーキを踏むのと同様に、「車を曲げよう」という動作がドライバーの意思に端を発するのでは無く、状況に見合った反射に基づき発生していきます。このように状況に対するリアクションも同体化していく事で、同体化する範囲が拡がっていきます。いずれドライバーの意志は「先に進む」という事のみとなり、全てのアクション/リアクションが「行おうとする」事ではなく、「必要に応じて行われている」状態になります。また、これは感覚であり実際そうなる訳ではありませんが、完全に車とドライバーが一体化している時は体と車の境目がある意味で分からなくなっている状態でもあり、一体化している事にすら気が付かない事も珍しくありません。この時は脳での情報処理量は通常時に比べて多くなる為に負担が大きく、長く続けられるようになるには相応の訓練が必要と考えられます。

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余談ですが・・・以前スポルトにてジョッキーの武豊が「馬を右に曲げたい場合には馬を右に行かせるのではなく、馬に『右に行った方が良いよ』と話しかけている」というような発言がありました。ちょうどハンドリングに行き詰まっていた時に聞いたのも手伝って、目から鱗が落ちたような思いで聞き入ってました。
Posted at 2008/12/28 19:42:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | 運転について | 日記
2008年12月21日 イイね!

巧い運転を目指して:自然体の運転

※自分は今こう考えている、というものであり、
 これが正しいとは限りませんので御了承ください。

今回は、前回触れた「自然体の運転」とはどの様な事かを考えます。

「自然体のまま運転する」とは、例えば速度の面では
 ・その人にとっての適正速度
 ・その時の自然速度
にて運転する事を指しています。
ここで言ってる適正速度は個々人により異なるもので、ポイントで持っている人/レンジで持っている人と様々です。走り慣れている速度や速くも遅くも感じない速度に近いのですが、より厳密に言えば「速度を意識しないで走っている時の速度」を指しています。
また、自然速度とは定義としての巡航速度(経済速度を指していて機械的に最も燃費が良い速度)とは似て非なる物ですが、一般に使用される巡航速度(速くもなく遅くもなく気楽に走れる≒ゆとりを持てる速度)には近い物です。人の体感速度は状況によっても変化します。自然速度とは、一般に使用される巡航速度から「速くもなく遅くもなく」を除き、代わりにその時の状況を加味した「ゆとりを持てる」速度を指しています。
これらを踏まえると、「自然体のまま運転する」事とは「速度を意識しないでゆとりを持てる速度で運転する」事と言えます。

例えば運転を行っている際に、大抵の人はある状況下で速度がある一定以上になると怖さを感じます。これは往々にしてその状況下でのその速度に慣れていない事/制御出来ないと感じる事に起因します。この延長にあるのが冷や汗をかく/パニック操作で、自然運転の対極に位置します。
「怖さ」は、何故感じるのでしょうか?その最大の理由は「知らないから」だと思います。知らない事も得てして知っている事の延長であり、そう大差ある訳ではありません。知っている事に置き換えていく事で怖さを克服する事が出来ます。また、知っている事を徐々に拡大していく事で、知らない事を知っている事に変えていく事も可能です。怖さを感じるような事を落ち着いて経験する機会に恵まれるのであれば、経験するのが一番です。
この様な形で、自然体の範囲を広げていく事が可能です。

自然速度を広げる際、その広げる方向は速い方向だけでは充分ではありません。一定速度を超えると「速い」と感じるのと同様に、一定速度を下回ると「遅い」と感じます。遅い速度では怖さ等を感じる事はありませんが、かわりに苛ついたりする事になります。前の車に追いついた時等に往往に発生する事で、これはその時は問題ありませんが、その後に反動を生む土壌ともなってしまう為に芳しくありません。精神衛生の面「だけ」で考えれば、前走車に詰まった時に煽ってフラストレーションをため込んでいくぐらいなら、おとなしく追走するかさっさと追い抜いた方がよほど良好です。
ややこしいのは「遅いと感じる速度」と「出したい速度より遅い速度」は異なる点です。速度は絶対値であるのに対して感じる速度は(おそらくは自然速度との)相対値です。例えば、前に車がいてその時の速度が走りたい速度より遅い速度である時に「もう少し速く走って欲しい」と思うのは何ら問題ありません。これに対し、前に車がいて遅いと感じるから「もう少し速く走って欲しい」と思うのは、その速度が自然速度に収まっていないから感じる事であり、自然速度を広げる余地がある事になります。
また、慣れには度合いがあります。熟練する事とも異なる為に方法論は難しいのですが、慣れの深さを掘り下げていく事も自然速度を広げていく際には必要です。厳密には慣れと自然≒普通に行える事は異なるのですが、同一の物と捉えても差し支えはありません。


自然体で運転する事は何も速度に限った事ではなく、状態や状況も同様です。
状況把握の面では、例えば車両感覚/インフォメーション等の感覚として掴む事を、無意識に行っています。代表例は車線を走る時の車両感覚で、狭い道では左右に気を使いますが、車線が広い道では気楽に走れると思いますが、この広い道で行っているのが無意識に行っている状態です。表現としては「自然感覚」という言葉が近い気がします。
状態の面で考えると、条件反射のように操作を行う事となります。条件反射とは異なり穏やかな反応も含まれます。「自然対処」という表現が近いかな?単純には、無意識に掴んだ感覚に端を発した操作となります。例えばタイヤがスリップする事も慣れてしまえば、何ら慌てることなく普通に対処を行えます。例えば低い速度域でヨーの大きさを掴めるのであれば、スピンを経験した事が無い人がスピンしそうになっても、発生前に起こるヨーの変化を検知して事前にカウンターをあてる事で、発生する事自体を抑制する事も可能です。
これら対象の種類を増やす/掴める量を増やす/精度を増す事も、自然体で運転出来る範囲を広げる事となります。


人間の慣れとはすごい物で、怖さを感じる速度やパニックを起こしてしまうような状況も、慣れればどうということなく自然に構える事が出来ます。自然に構える事で至極当然の如く最適な対処≒運転を行う事が出来る/無意識に行えるようになります。
「自然に構える」事が変化して「悠然と迎える」事が出来るようになった時、運転に対する造詣と自信は相当深くなっている事と思われます。

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知らない領域を知っている領域にするべく、自分も一生懸命に広げている最中です。現在は、息が続かないのが最大の難点。
ちなみに、スピンの話は経験談です。レンタルカートでは幾度と無くスピンした事がありますが、実車では未だに経験がありません。が、発生前より無意識に検知しているらしく、「スピンする!!」って思った時には既に条件反射でカウンター(大方はゼロカウンター)を当て始めている、という不思議な状況が幾度もあります。スピンの経験がないので本当にそれがスピンの前兆なのかが疑わしい面も否めず、また条件反射で運転を行っている範疇ですので、詳細は全く持って分かりませんが、「通常の状態ではない」事を察知した時点で無意識に対処を行っているようです。この状況は唯一スピンのみで、他の事象では起こらないのも不思議といえば不思議です。きっと他の感覚がまだまだ甘いからだと考えていますが...
Posted at 2008/12/21 10:19:08 | コメント(2) | トラックバック(0) | 運転について | 日記

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