2015年02月25日
『サーキット慕情』 vol.20 (80年代のコラムから)
◆“水もの”の極みであるはずの「レース」で勝ちつづける、マクラーレンって何なんだ?
「勝ち負けになる」という表現が、レーシング・フィールドではしばしば使われる。勝負になるとか、トップ争いができるとかいった意味なのだが、「調子? ええよ。今回は勝ち負けやね!」てな具合に用いられる。
そういえば、ドライバーはあまりこの表現を使わないような気がするが、それは彼らがあまりにも「勝負」の当事者でありすぎるからだろうし、「負け」という語を発するのもイヤなんだろうね……? そう、「勝てるとこへは、来てますけどね」というのがドライバー的な言い方かもしれない。
勝ち負けする、勝てるとこに、勝てる時──。要するにみな同じだが、まずはそういうレベルにまで達すること。これだけで一大事業である。チーム、ドライバー、マシン、メカニック、パワーユニット、タイヤ。あるいはスポンサー、闘うためのノウハウ……。関西風の表現では、これらを「コマ」というようだが、つまり、条件=コマが揃って、はじめて「勝ち負け」できる地平の端っこあたりに到達できるのだ。
そして、この「コマ」の中には、いくつもの“ナマもの”が入っている。タイヤ、エンジンなどだが、もうひとつ、本当のナマというか、ドライバー自身、その日の調子というようなファクターもある。さらには、レースは野外競技であるから、自然環境という係数がこれに掛かる。雨になった途端に、重要なコマの一つが欠けてしまうチームだとすれば、もう「勝ち負け」はできなくなるということだ。
加えて、厄介だなと思うのは、この「コマ」というのは、ぼくの想像ではあるけれど、カネ出せば買っちまえるかというと、どうもそうじゃないだろうと思われること。並外れた情熱とか闘志とか、チームの有機体としての働きとか、そのような意味での“ナマもの”も、この「コマ」のうちにはあるはずで、これらは簡単には手に入れることのできないものだと思う。
さらには、政治力とかヒューマン・リレーションの問題とか、まあ、ちょっとよくはワカリマセヌけれども、そういうのもカネで何とかなる問題ではなさそうで、しかしながらこれらもまた、「コマ」として何らかの作用をしそうである。
……というわけで、「条件」が揃うということが、どれほどタイヘンなことかが何とか見えてきた。ただし、ここ(勝ち負け)にまで到達し得ても、それは勝利への「有資格者」になった、そのうちのワン・オブ・ゼムに名を連ねたということに過ぎないのである。
そのような「有資格者」たち──“勝ち負けできる”までに達したいくつかのチームとドライバーが、予選という闘いを行ない、日曜日の決勝レースで何十周かのバトルをして、勝者を決める。クォリファイでもむろん勝負はあり、そしてタイムを出すには幸運も必要だろう。そしてレースが始まれば、スタート、展開、ライバルの動き、ミスの有無、そしてセッティングやタイヤや作戦など、さまざまな選択は正しかったかどうかが試される。
数え切れない《もし》《たら》《れば》……の関門と障害を乗り越えることができた、あるいは、最も巧みにそれらをくぐり抜けることができたドライバーとチームだけが「勝利者」と呼ばれる。それはサバイバル・ゲームであると同時に、「運」をどれだけ引きつけておけたかというバトルでもあるはずだ。
レースを終えた勝者が、もし「ラッキーだった……」と言ったとしても、ラッキーでさえあればレースに勝てるということではない。それは幸福な誤解であり、偶然の勝ちというのは、レースでは起こり得ない。
GC第三戦・富士で、和田孝夫が、ファイナル・ラップの1コーナーで逆転するという劇的な勝利を飾った。だが、シャンパンを抜いてから10分後、冷静さを取り戻した和田は、この逆転について、「何であそこで、リースはインを開けたのかな? もし、ガチガチにインを閉められていたら、抜けなかった。2位だったよね……」と、むしろフシギそうに、自身の勝利への展開を振り返った。
この日、このたったひとつの「もし」が、和田に今年の初勝利をもたらしたわけだが、言い換えれば、このラストでの幸運がなければ、和田孝夫は勝っていなかったということでもある。だが、あの日は、和田に《何か》が味方をした。あるいは、ル・マン24時間では、ジャガーがそうだった。ナンバー17のワークス・ポルシェが、もし、ガス欠しなかったら……?
勝者と敗者を決めるのは、最後の最後では、ほんの些細な「もし」であることがある。そして、そこに至るまでには、絶望的なまでの努力と蓄積と熱情が要る。その遠い距離を縮めていったその先に、さらにサムシングも要る。
レースに勝利するとは、このように、すべてが欠けることなく展開してはじめて訪れる一種の至福の状態、ある“頂点”を捉まえるための「出会い」でもあるように、ぼくはイメージしている。それほどに、ウイナーたることというのは、容易ではない。
1988年、6回のF1グランプリが既に行なわれた。そして、そのすべてのレースにおいて勝ちを収めたマクラーレンというチームは、こうして見ると、グレートであるというより、もはや神秘に近いのではないか。極めつけのチームが、極めつけのドライバー二人(注1)を持ち、F1史上最強といってもいいエンジン・サプライヤーと組んでいるとはいえ、このようなリザルトを残せるのは凄いというしかない。
勝てる時に、きっちり勝つ……とは、易しくはないのだ。今年のF1は、そのような意味で、一種異様なおもしろさがあると、ぼくは思う。
( 『レーシング・オン』No.031 1988年 August )
○注1:この年のマクラーレンの「二人」とは、あのアイルトン・セナとアラン・プロスト。エンジン・サプライヤーはホンダ。
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80年代こんなコラムを | 日記
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2015/02/25 06:31:43
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