
手持ちの「カサブランカ」のDVDでは、字幕を英語にすることができる。試みに、英語はよくわからないがそれをオンにしたところ、ひとつ発見があった。日本語の字幕は短く意味をまとめてしまうだけなのだが、原語ではもっと細かく、いろいろと喋っている。……とは映画である以上当然だが、遅まきながら、私の場合は英語字幕によって、この物語の「時期」の設定を知ることができた。
リックがイルザと図らずもカサブランカで出会ってしまい、その夜に泥酔して、ピアノ弾きのサムにグチるという場面がある。その時、いまは「1941年の12月」だと確認した後に、「ニューヨークは、いったい何時なんだ?」とリックがサムに問いかける。「真珠湾」はまさにその「12月」だから微妙ではあるが、この映画は、太平洋方面ではまだ何も起こっていないとして物語を追ってもいいようだ。
さて本稿は、「カサブランカ」は米人のための戦意昂揚映画だという視点から、この映画を見ている。戦時という特殊状況下でのラブストーリーはデリケートでいいし、この映画が“プロパガンダ映画”の範疇に収まらないことは承知だが、今回はあえてその観点で迫ってみている。
さて、1941年の時点で、ヨーロッパはナチス・ドイツとファシスト・イタリアによって蹂躙されていた。そのため、たとえばブルガリアの若い夫婦はこんな場で子どもを育てたくないと、ルーレットで無謀な賭けをしてでも、「狂った世界」から出て行きたいと願う。これが、このアメリカ映画の世界観である。ゆえにリックとイルザの「恋」も、そんな“クレージー・ワールド”の上で踊ることを余儀なくされている。
ただ、リックは恋をしているかもしれないが、一方で彼は、スペインの内乱で反ファシスト側で闘った。また、リックことリチャード・ブレインは、パリにドイツ軍が進駐してきた時点で、既に反ドイツ分子として指名手配されている。リックはもともと、「狂った世界」と闘ってきた戦士なのでは? このことはドイツ側からも、またレジスタンス側(ラズロ)からも指摘されることだ。(イルザも、「あなたは変わってしまったわ」と、カサブランカでリックに言っている)
これがリックの個人史であれば、映画後半のテーマは、リックがいつ、そんな“戦士”であった自分に還るのかということになる。前述のように、ラズロがカフェの楽団に「ラ・マルセイエーズ」をオーダーし、バンドのメンバーがお伺いを立ててきた時にリックが「行け!」と目で合図したのは、彼が「反ドイツ」を明らかにした瞬間でもあった。
ただ、こんなリックの決意を促した事柄が、その前に起こっていたと思う。ひとつは、イルザの口から、「パリ」の時点で、既にイルザがラズロの妻であることを知った。そしてもうひとつは、そのラズロから、リックがかつては反ファシズムの闘士だったと指摘されたこと。
さらに、イルザとラズロのそれぞれと個別に話す機会を持ったリックは、ラズロの反ドイツ活動は、アメリカを舞台にした方がより効果があることを聞く。同時に、イルザとラズロの二人ともが、互いに、相方の一人だけでもいいから、安全な場所に逃がしたいと強く願っていることを知った。
リックにとっての衝撃は、イルザから、自分はカサブランカに残ってもいいから、夫ラズロだけはこの街から出したいと言われた時ではなかったか。オールマイティの通行証は二枚、リック自身が持っている。その一枚をラズロのために使うとして、では、もう一枚は? その時、イルザをこの街に残せるのか?
そして「闘い」であるなら、効果や戦術、そして戦略も考え合わせなければならない。仮にリックとラズロが二人でアメリカに行ったとして、何か効果はあるか? 一方で、通行証の二枚をリックとイルザで使ったなら、ドイツ支配のフランス領に残されたラズロの運命は見えている。リックは、人妻イルザと駆け落ち的にアメリカに逃げていいのか? リックがそうした時点で、有能な指導者であり、反ドイツ人民戦線の勇士である人物の活動と生命が失われるのだ。
また、同じようなことだが、ラズロにとってのイルザは、妻や秘書ということ以上に、立場としては、同じ闘いに従事する“部隊”での副官に近いのではないか。だからこそ副官(イルザ)は、何より指揮官を安全な場所に確保したい。そのためにも、ラズロのリスボンへの脱出を願っている。
「狂った世界」を正すための対ドイツ人民戦線において、最重要はラズロが指揮を執ること。そして、その彼の活動をさらに充実させるには、妻・イルザの存在が不可欠。戦士としてのリックは、こう判断せざるを得ない。
まあ、恋をしている(その対象はリックのはずだ)イルザが、そのことをどのくらい意識していたかは、やや不明ではある。しかし、リックではなく夫と一緒に飛行機に乗るのだと告げられたイルザが、空港で、案外簡単に納得するのは、彼女もまた“闘う女”だったからであろう。
この時にリックは、俺は俺で別の闘いを始めるので、そこには、きみ(イルザ)の居場所はない……とまで言う。言い換えれば、イルザにとって、そして自由世界のための闘いにとっての彼女のベスト・ポジションは、ラズロのパートナーであること。そういう説得である。
そして、そんなリックの覚醒と行動は、フランス軍の大尉である警察署長ルイ・ルノーの目覚めも促すことになった。この映画の中で、ずっと“食えない男”として行動してきたキャプテン・ルノーは、実はレジスタンス「自由フランス」とのコンタクトがあったのだ。
空港で、“ヴィシーの水”(ドイツに屈したフランスのヴィシー政権)の瓶をゴミ籠に捨て、さらにそれを蹴っ飛ばしたルノー署長。さらに彼は、二人の間の賭け金は、二人が「自由フランス」に合流するための旅費だとまで言う。「え、きみと、そんな腐れ縁が始まってしまうのか」と笑いながら、それに応ずるリック。
「カフェ・アメリカン」をフェラーリに売ってしまったリックは、もうカサブランカにいる理由はない。愛したイルザも、夫とともに新大陸へと旅立った。ルノー大尉はこのままリックと一緒に、空港の闇の中へ消えるのか。それとも、したたかに署長としての残務整理などをしてから、どこかでリックと合流するのか。「狂った世界」を正そうとする二人の戦士を新たに生み出して、映画「カサブランカ」はこうして終わる。
(ラブ・ストーリーとしての「カサブランカ」についてのメモは、いつかまた何かの機会に──)
(了)
追記:1930~40年代の欧米車における「右ハンドル」問題については、Coptic_Light様より、当時の事実に基づいた的確なコメントをいただきました。どうもありがとうございます。皆さまは、この連載一回目のコメント欄を、どうぞご参照ください。
ブログ一覧 |
クルマから映画を見る | 日記
Posted at
2016/02/10 18:48:50