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家村浩明のブログ一覧

2016年02月18日 イイね!

スバル・レガシィRS(1993) 《2》

スバル・レガシィRS(1993)  《2》スバルのモータースポーツ子会社であるSTi(=スバル・テクニカ・インターナショナル)福江則夫氏は、レガシィというクルマについて「バランスの良いクルマだ」と語る。そして、スバル伝統の水平対向エンジンについては、低重心であり、左右均等で、かつ「縦置き」であるため、4WDとした時にも有利だと続ける。また、この方式のエンジンマウントだと、ボンネット内の空気の“抜け”が良いのだそうだ。なるほど、レガシィの場合、フロント回りの“穴”の開き方があんまり大袈裟じゃないのは、そのせいであるかもしれない。

ただし、短所もある。それは吸気系/排気系のパイプの取り回しが苦しいというか、スペースが不自由であること。この点がパワーの“絞り出し”にまで影響を与えていた時期も、実はあったという。また、サスペンションのストロークを長く取ってあるというベース車の特徴は、ラリー・フィールドでも活きている。

さらには、クルマ以外の部分での、チームとしてのまとまりと雰囲気の良さ、熱気のあるスタッフ。それをムード作りの巧みなデビッド・リチャーズが、闘うチームとしてのSTiとプロドライブをうまくハンドリングしている、と福江氏は語った。

さて、1994年のWRCシーンに向けて、いくつかニュースがある。まずスバルは、競技車をレガシィからインプレッサにスイッチした。インプレッサは1993年の「1000湖ラリー」でデビューしており、この高速ラリーで、初戦でありながら2位という驚くべき成績を残す。ポテンシャルとしては、インプレッサは明らかにレガシィより上であり、唯一の“欠点”は「ミス」の許容範囲がレガシィより狭いこと。インプレッサの場合、ミス即リタイヤ……というリスクはあるのだが、しかし、とにかくクルマは速くなった。

また1994年から、スバルはピレリ・タイヤを独占で使用する。トヨタとフォードがミシュランであるのに対し、ピレリ唯一の供給チームになるのだ。これまた、未知というリスクはあるものの、デビッド・リチャーズが言うように「勝つためには、他に先駆けた何かが必要」ということからの積極的な選択である。ピレリは1993年シーズンの一年間を開発に当て、WRCに復活する。インプレッサ+ピレリという新鮮な組み合わせは、ひょっとしたら“大駆け”もある?

さらに、ランチアがワークス活動を中止したために不遇な一年間を過ごさなければならなかったビッグネームが、1994年はスバルに乗る。レプソルというオイル屋と深い関係にあるそのトップ・ドライバーは、他のオイル・メーカーが絡んだマシンには乗れないのだ。そして、WRCの有力コンテンダーで、オイル・メーカーとノー・コンタクトなのはスバルだけ。そのドライバーの名は、そう、カルロス・サインツ! いま、ラリーで速いのは、カンクネン、オリオール、サインツがトップ・スリーと言われているが、そのカルロスがスバルで走るのだ。

ワークス・ランチアに挑戦し続けるトヨタ──。こういうドラマとして、これまでわれわれはWRCシーンを見てきた。そのドラマは、1993年、ランチアに代わって立ちふさがったフォード・エスコートと競り合って、トヨタが勝利。メイクスとドライバーの両タイトルを得たトヨタは念願を達成し、一応の決着が付いている。しかし、先のニュージーランドでの結果でもわかるように、WRCシーンには、地味ながら着実に力をつけてきた「スバル+プロドライブ」という少数精鋭の闘う集団がいたのだ。

1994年、ディフェンディング・チャンピオンのトヨタに挑むのは、まずはフォード・ワークスであろうが、「インプレッサ+ピレリ+カルロス」という布陣は、フォード以上の爆発力を秘めた、魅力溢れるチャレンジャーになりそうである。

(了)  

(「スコラ」誌 1991年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)

○2016年のための注釈的メモ
1994年のWRCは、トヨタ/セリカの連覇という結果になった。メイクス・チャンピオンシップでは、トヨタ151ポイント、インプレッサのスバルが140ポイント、そしてフォードが116ポイントだった。ドライバー選手権では首位のディディエ・オリオール(トヨタ)が116ポイントであったのに対して、アクロポリスで勝利したスバルのカルロス・サインツは99ポイント(2位)。もうひとりのスバル・ドライバー、コリン・マクレーはニュージーランドとイギリスで2勝したものの、リタイヤも多く、獲得ポイントは49に留まった。
Posted at 2016/02/18 20:32:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年02月18日 イイね!

スバル・レガシィRS(1993) 《1》

スバル・レガシィRS(1993)  《1》英国の、あるモータースポーツ専門誌。その表紙で、いつもは赤色である誌名の色が、その号だけはグリーンになった。深い緑色はブリティッシュ・グリーンと呼ばれ、モータースポーツ・フィールドにおける英国のナショナル・カラー。英国人が達成した功績を讃えるための伝統に従ったという雑誌がそのようなお祝いをしたのは、ナイジェル・マンセルがF1で勝利した時以来だった。

英国誌が大きな活字で「歴史的快挙」と謳ったのは、若き英国人ラリースト、コリン・マクレーの勝利だ。WRCのワークス・ドライバーの中で最年少であるマクレーは、自身が23歳の1991年からWRCを走りはじめ、25歳の誕生日を迎えたニュージーランド・ラリーで、ついにWRC初勝利を挙げた。

「マクレーはついに、ラリーのスーパースターたちの仲間入りを果たした」と英国誌が書き讃える初勝利は、実は彼が操ったラリー・カーとそのメーカーにとっても待望久しい勝利だった。そのスバル・レガシィRS、ニュージーランド・ラリーのウイニングマシンが今回のクルマである。

カラーリングの「555」とは“ファイブ・ファイブ・ファイブ”と読み、1993年からスバル・チームをサポートしているブリティッシュ・アメリカン・タバコの製品名。ニュージーランド・ラリーのオフィシャル・プログラムなどの資料は、現地スバルの協力でこのクルマの写真が使われたが、実はこのラリーの冠スポンサーはロスマンズ・タバコだった。ラリーの主催者は、プログラムなどでレガシィのフォトは使いつつも、「555」の文字だけは巧みに見えないようにしていたという。

この種のこぼれ話なら、まだあって、ラリーの表彰式の前には、上位入賞車による恒例の“喜びのスピンターン”というのがある。コリン・マクレーは、白煙でクルマが見えなくなるくらいにクルクルとターンを繰り返し、その煙の中から飛び出して、もう一度、スピンターンを決めた。

続いて、6位に入賞したチームメイトのニュージーランド人ドライバー、ボッサム・ボーンも、負けずに派手なスピンターン! しかしボーンは勢い余って、カンクネン/セリカのドアにバンパーをぶつけてしまう。セリカのドアをペコッと凹ませてしまったボーンは、そこで言った、「やっぱりレガシィは頑丈だ(笑)」。

……ジョークはともかく、このニュージーランド・ラリー(1993年8月)はマイナー・イベントではなく、トヨタとフォードの二大ワークスがトップ・ドライバーを並べてポイントを取りに来た、WRCの第8戦だった。リザルトで2位以下を見ても、まずフランソワ・デルクール/フォード・エスコートがいて、ディディエ・オリオールとユハ・カンクネンのセリカが続き、4位にはカルロス・サインツのランチア・デルタが割って入ったというビッグイベントであり、そこでのコリン・マクレー/レガシィの勝利だったのである。

英国のモータースポーツ誌が「レガシィによるマクレーの勝利は英国の誇りだ」と記すのは、誇張でも何でもなかった。もっとも、さすが英国のジャーナリズムというべきか、「コリンのような、目を見張る走りをするが、同時に、目を覆いたくなるようなアクシデントも引き起こす。そんな若者をワークス・ドライバーとして使っているスバルとプロドライブの勇気には敬意を表する」と、ひと言付け加えるのを忘れていなかったが。

さて、サファリなどに参戦はしていたものの、スバルがWRCに関わるようになったのは、英国のラリー・チームである「プロドライブ」がレガシィに目を付けたからだといわれている。4WD、水平対向エンジン、コンパクトなボディ。これらにプロドライブのデビッド・リチャーズ代表が注目し、同社とスバルがWRC活動についての契約を交わしたのは、1989年の9月のことだった。

そして、ベテランのフィンランド人ドライバー、マルク・アレンをドライバーに迎えて、プロドライブ/レガシィがWRCに初登場したのは1990年のアクロポリス・ラリー。以後、休みなくチャレンジを続けたスバルは、ついに1993年9月の初勝利に至ったのだ。

ただ、実はレガシィというクルマ、いずれはラリーに出場するということなどまったく考えていない、単なるセダンだった。ドライバーのマルク・アレンは「ノー・パワー、ノー・ブレーキ……」と首を振り、しかし、ハンドリングだけには及第点を付けて「グッド・ハンドリング!」と讃えた。また、乗っていてすごくラクなラリー車だとも評して、これらを出発点に“ラリー・レガシィ”の熟成が始められた。

そして、アリ・バタネンとコリン・マクレーというベテランと新鋭のコンビになったのが、1991年の英国RACラリーからだった。1991年での最上位は3位、1992年は二つのラリーで2位を得たというのがベスト・リザルト。そして1993年から「555スバル」という態勢になり、ニュージーランドで、ついにオーバーオール・ウインをゲットしたわけだ。

(つづく) 

(「スコラ」誌 1993年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/02/18 18:01:08 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年02月17日 イイね!

トヨタ・セリカGT-FOUR(1993) 《2》

トヨタ・セリカGT-FOUR(1993)  《2》ラリー・セリカの熟成。ドライバーに、ユハ・カンクネンとディディエ・オリオールという最強の布陣。宿敵ランチアがワークス活動を縮小した……という状況の中での1993年だったが、この世界、やはり甘くはなかった。トヨタの独走を阻んだのはフォードである。そのウェポン「エスコートRSコスワース」はコンパクトで、かつ前後の重量バランスに優れ、タイヤに優しいクルマだった。エスコートはあっという間に3勝して、トヨタと並んでしまう。第9戦のアクロポリス・ラリー終了時点では、チャンピオン争いはまったく予測のつかない状況になっていた。

また、コリン・マクレーが乗るスバルの「速さ」も、トヨタにとって予想外だった。このスバル(レガシィ)にニュージーランド・ラリーでトヨタは完敗。スバルの速さは本物で、続くフィンランド1000湖ラリーに登場したニューカマーのスバル・インプレッサにも、トヨタはほとんど“負けかかる”事態となってしまう。結果としてはこのラリー、北欧人であるカンクネンが何とか制し、フォードはノー・ポイント。トヨタはようやく一息ついた。

そして、9月のオーストラリア、WRCの第10戦。ランチアの「壁」を突き崩し、立ちふさがったフォードを退け、スバルに対しても一日の長があることを示したトヨタに、1993年の──いや、20年来の栄光の日がついにやってきた。2位のアリ・バタネン/スバル・レガシィに6分近くの差をつけて、カーナンバー6のカンクネン/セリカがフィニッシュ。トヨタの1993年のチャンピオンが決定したのだ。

この優勝マシンのフロント・ウインドーには、2分のペナルティ・タイムを示すステッカーが貼ってあるが、それはカンクネンの余裕の証明でもあった。WRCの闘い方には、わざとスタートを遅らせてペナルティを食らってでも、先頭を走るリスクを負うよりはいいという作戦もあるのだ。

──WRCというのは壮大なゲームである。10ヵ国以上の異なった場での闘い。それぞれに自然条件が違い、路面の状況が異なり、雪から超ドライまで、さらに季節も変わる。年間通して闘うということは、それぞれにミートしたマシンを作り、入念にテストをして、クルマについてもきちんとしたセットアップを出さなければならない。場合によっては、そのラリーだけのスペシャル・ドライバーを用意する必要さえある。

また、3日間以上にわたるひとつのラリーに参戦するためには、ドライバーだけでなく、メカニック、タイヤ・エンジニア、そして監督、マネージャーなど、すべてのチーム・スタッフとパーツ、サービスカーも絶え間なく動き回らねばならない。その行動を決するラリー・コーディネーターという職種が存在するほどに、その闘いは複雑にして高度だ。

そして、ラリーカーというハードウェアそのものも、シーズン中であってもディベロプメントされねばならないし、停滞はまったく許されない。たとえば今年のランチアは、セミ・ワークス態勢にしてしまったために、あるラリーでは、プライベーターが乗る最新フォード・エスコートに、あのカルロス・サインツが惨敗してしまったのだ。

1993年、トヨタはメイクスとドライバーのダブル・タイトルを獲得したが、もちろん1994年も、WRCに王者として参戦する。カンクネン、オリオールがセリカで走る。そして日本人ドライバーの藤本吉郎がTTEワークスに加わり、4戦に参加する。

1994年シーズンについて、オベ・アンダーソン監督は「93年以上に、多くのチームやメーカーが勝つ年になるだろう」と言い、続けて「しかしわれわれは、93年と同じようなリザルトになるように闘うつもりだ」と、ディフェンディング・チャンピオンとしての展望を語った。ハードでタフで、そしてインテリジェントなイベントである「WRC」の1994年は、1993年以上の熱いバトルになりそうである。

(了)

(「スコラ」誌 1993年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)

○2016年のための注釈的メモ
WRCの1994年、トヨタとセリカは“防衛”に成功した。メイクス・チャンピオンシップでは、トヨタが11ポイントの差で、新星スバル・インプレッサを押さえた。ドライバーズ選手権でも、コンスタントにポイントを重ねたトヨタのディディエ・オリオールが、小差ながらもスバルのカルロス・サインツを上回った。
Posted at 2016/02/17 19:45:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年02月17日 イイね!

トヨタ・セリカGT-FOUR(1993) 《1》

トヨタ・セリカGT-FOUR(1993)  《1》1993年、WRC=世界ラリー選手権でトヨタが勝った。これで、メーカーとして、ひとつのスポーツ・カテゴリーで掛け値なしのトップに立ったことになる。1972年冬の英国、RACラリーでセリカGTVが走ったWRCへのデビュー戦から、実に20年余り。たゆまぬ挑戦の継続が結実した世界一の座の獲得だった。

いや、これ以前にも、トヨタ車に乗るドライバーが世界チャンピオンになったことはあった。1990年、そして1992年、カルロス・サインツはセリカを駆って世界一のドライバーの座を得た。ラリー・シーンにおいてトヨタは強いメーカーとして君臨してはいたのだが、メイクス・チャンピオンシップというタイトルだけは手中にできずにいた。その念願が、1993年、ついに現実のものとなった。

オベ・アンダーソンは、その優勝メッセージの中で、「日本車がワールド・チャンピオンシップを獲得したのは、歴史上、初めてのことのはず」と記した。なるほど、1960年代ホンダF1のいくつかの勝利があり、またル・マン24時間でのマツダの総合優勝(1991年)というのがあるが、これらはいわばスポット的なもの。そしてホンダ・パワーは1980年代の後半から、強すぎるほどの存在としてF1シーンを席巻しチャンピオンになっているが、これはシャシー・コンストラクターのウイリアムズやマクラーレンと分かち合うべき栄光である。トヨタ・セリカのWRC制覇とは、以上のような意味で、歴史的な快挙なのだ。

また、このWRC挑戦については、同社の徹底した「継続」に注目しなければならない。先に名を挙げたオベ・アンダーソンは現在のTTE=トヨタ・チーム・ヨーロッパの監督だが、1972年のRACラリーでセリカをドライブし9位に入ったドライバーこそ、オベ・アンダーソンその人だったのである。

そして当時、前年までアルピーヌA110に乗っていたオベをセリカで走らせることに成功したトヨタ・マンが、当時、欧州に出張滞在中の福井俊雄氏だった。彼はいま、TTEの副社長なのだが、このアンダーソン+福井+トヨタ車という“トライアングル”は、WRCデビューからチャンピオン獲得まで、まったく変わることなく続いているのである。

ただ、この「継続」にも一時期、危機があった。それはトヨタがサポートを開始してからすぐ、1974年に世界を襲ったオイルショックである。1974年・夏には、トヨタはいったんWRC参戦を中止する決定をしたともいわれる。この時に、たとえ活動を縮小してでも継続すべきであると福井氏が直訴し、ラリー参戦が途切れなかったという伝説がいまに残る。事実、一時期、「チーム・トヨタ・アンダーソン」として闘っていた頃も、ごく短期間ながらあるのだ。

では、この20年間、トヨタがWRCシーンへ送り出してきたモデルを、ちょっとたどってみよう。まず、初代セリカ、そしてTE27のカローラ・レビン。このレビンは欧州ラウンドのWRCで最初に優勝した日本車として、歴史にその名を残す。(1975年1000湖ラリー)

そして、ほとんどプロトタイプに近い「グループB」時代(1983~1986年)には“セリカ・改”を作り、これはサファリ・ラリーで勝ちまくった。1985年頃から4WDのスペシャルマシン全盛となり、2WDのセリカは耐久色が強いアフリカ・ラウンドに活路を見出したという現実もあったが、それでも1983~1986年の3年間で、サファリを含むアフリカでの6戦で6勝したというのには驚く。

そしてラリーは1987年から、現在の規格である「グループA」となる。これは量産車(年間5000台以上)をベースにすることが条件で、トヨタはとりあえずスープラでFRのラリー車を作ったが、さすがにこれはサファリでも4位が精一杯だった。

時は、4WDラリー・カーの時代である。1987年からは、“名車”ランチア・デルタ・インテグラーレがWRCを制し始める。そして、このクルマに対抗すべくトヨタが送り出したのが、4WDのセリカGT-FOURだった。また、このマシンの出現とともに、トヨタはWRCへのシリーズ参戦を決定。1989年にはWRC9戦に出場、オーストラリアでGT-FOURとして初優勝して、メイクス・ポイントでもこの年2位を得る。

ただ、この「メイクス2位」というのがこの後、1992年まで続いてしまう。「壁」は常にランチアだった。1993年こそ!……というのが、トヨタ&TTEの悲願だったのだ。

(つづく) 

(「スコラ」誌 1993年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/02/17 15:07:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年02月14日 イイね!

ニッサンR91CP 《2》

ニッサンR91CP 《2》さて、そんな“勝者”ニッサンR90C(P仕様とK仕様があった)が、1991年のレース・シーズンに向けて、新たに「R91CP」としてモディファイされた。既に本格テストに入っており、3月の「富士」に始まる実戦での闘いを待つばかりだ。また、今年のル・マン24時間にも、このレースのみの参戦が可能であれば、ターボ車というレギュレーション上のハンディキャップも構わず、参戦することを表明している。

この種のプロトタイプ・カーによる世界選手権レースが「WSPC」から「SWC」へ名を変え、エンジンもターボが不可になり、いま「Cカー」レースは“政治的変動”の季節の中にある。ル・マン24時間レース(のレギュレーション)がどうなるのか。そして、SWCという新規格レースの現状と未来もなかなか見えて来ない……というのが現状だが、ともかくニッサンは、成功したR90Cをベースに、このニュー・レーサーを作りあげた。

これまでの、ローラ製モノコック+自製カウル(R89、R90)という組み合わせから、今モデルでは100%のニッサン製として、軽量化と整備性の向上を図っている。もちろんエンジンにも手が加えられ、昨シーズンに他チームを驚かせた燃費はさらに良くなっているという。そして、カウルも新しい。国内レースを走ったR90CPが、速かったけれど、けっこう無骨で粗野な感じがあったのに較べると、この91CPはデザイン的にもぐっとスマートで、洗練されたハリのある面の美しささえ見せる。

また、「新しさ」がつねに成功の種子であるとは限らず、「保守」が正解であったことが少なくないのが「レース」だが、ローラ・コンセプトに気配りのジャパン・メイドというR91CPの組み合わせは、なかなかカタいカップリングではないのか。加えて、実戦を一年繰り返してのメカニックの立場からの意見も、100%自製したがゆえに、随所に十分採り入れることができた。これはそんなマシン作りがなされたクルマであるという。

ただ、ニッサンR91CPの海外での闘いの場がどうなるかは、実のところ未定のままだ。とにかく5000キロを走ること(ル・マン24時間の距離)を前提にしたレーシング・エンジンを作り、メルセデスが5リッターであることを知りつつ、戦闘力と燃費のバランスから「3・5リッター+ターボ」を選んだ。それがニッサンのCカー戦略である。

ただ、1990年のル・マンには、メルセデスは不出場だった。ニッサンとの「24時間」での対決の機会はなく、そして、1991年も不透明である。ニッサンの意欲がなかなか「世界」に届かない、あるいは、うまく噛み合わない。そんな感じもあるが、国内の耐久レース(JSPC)は、1991年も変わらぬレギュレーションで行なわれる。そして、海外のレースに出場しない分、ニッサンもトヨタも、国内レースをより重要なターゲットとすると宣言している。

また今年は、昨年まで“ポルシェ使い”だったある有力なチームが、ニッサンの「R90+1991エンジン」にマシンをチェンジする。英国ローラとも関係の深いチームであり、彼らが新ウェポンとした「ニッサン」の走りにも注目だ。そしてこれは、ポルシェよりもニッサンでレースをしたいと、プライベートのチームが願ったということ。ニッサンの──いや、日本のCカーのレベルは、そこまで来たのだ。残された牙城は、あのメルセデスC11のみ? この対決、さて、いったい何時になるのだろうか。

(了) ── data by dr. shinji hayashi 

(「スコラ」誌 1991年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)

○2016年のための注釈的メモ
1991年の日本の耐久レース「JSPC」では、ニッサンR91CPがシリーズで3勝を挙げる強さを見せ、チャンピオンに輝いた。世界的には1991年に「グループC」というカテゴリーが事実上消滅。ル・マンでも走れず、各社のCカーは闘いの場を失うが、ニッサンは米国のデイトナ24時間を新ターゲットとする。1992年、同レースに出場したニッサンR91CPはポルシェとジャガーを退け、2位に9ラップの差をつけて優勝した。
Posted at 2016/02/14 15:51:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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