今日はインフルエンザのため家に籠っております。
病気になって気弱になると過去の事を思い出します。
年をとりましたな、ゴホゴホ、やれやれ。。。
暇なので、以下、長いです。
お急ぎの方は、本日のブログはお控えください。あなたの健康を害する恐れがあります。
我が家に最初に訪れたクルマ。1950年代。「3丁目の夕日」の頃。
(以下Wikipedia、その他より画像引用)
免許を取得した父親が運転を練習していた。色は黒。私はひそかに「山高帽」と呼んでいたが、その理由は忘れてしまった。
乗り心地は極めて悪く、いつも車酔いをした。
父親にバイオリンのお稽古(わはは、今となっては自分でも笑えますな)に代々木八幡まで送ってもらった記憶がある。
日産オースチンの動画がYouTubeにありました。な、懐かしい。
youtube.com/watch?v=Vj-_jmurPlQ
1960年代、ピカピカの新車が我が家にやってきた。高度成長期の入り口を象徴する国産ファミリーカーだ。
(引用画像)
1970年頃、父は、いすゞ117クーペと迷った末、突然中古車を買いこんできた。「あまり周囲に見かけないクルマ」を探したらしい。
(Wikipediaより)
この頃から家の車を借りて乗り回すことができるようになった。
この英フォード・コルセア(白)は2LのV型エンジンでスピードはでないが(危険な感じだった)、トルクフルでエンジンと会話しているような感覚もあり、不思議な魅力を感じた。
出かける前はオイル漏れがないか、タイヤが付いているかなどなど確認する必要があったが、ある日、父が往診に出かけた際に右前輪が右方向、左前輪が左方向に動いて走行不能になった。
この頃のセカンドカーがVW type1だった。
バタバタバタ・・・。
葉山の合宿所にヨットのセールを積んで走ったこともあった。
いつまでも、あの空冷エンジン音が記憶に残っている。
コルセアで懲りたのか、父は「絶対壊れない安全な車」を探したものと思われる。
(引用画像)
帝人VOLVO244GLEは始めて見たメタリック塗装車(色はゴールド調)だった。父が乗らない時は固形ワックスで磨くのが楽しくて仕方がない。
巨大な革製シート、左ハンドル、オーバードライブ機構付きMT、シートヒーター、3点式シートベルト、ホワイトリボン付FireStoneタイヤ、2トンを超える車重等々、様々な意味で興味が尽きなかった。
良くできた国産車より運転していて楽しいし疲れない。
私は密かに「戦車」と呼んだが、シリンダー・ヘッドが赤くペイントされていることから自動車雑誌では「耕運機」と呼ばれていた。
バイクにも乗った。峠を走るのが楽しい二輪だった。
(引用画像)
深夜、アイスホッケーの防具を着てCB250RSZに乗り品川プリンスホテルのリンクへ練習に向かった事があったが、スティックをどうやって積んだのか、今となっては思い出せない。
1980年代、大学卒業後は独立し家族が徐々に増殖し中古車を乗り継ぐことになった。世の中はバブル景気に沸いていたが、我が家には金はなかった。
(引用画像)
単気筒車SRX-4は足付が良く、小柄な自分にはちょうど良いサイズだった。
(引用画像)
(引用画像)
90年台後半、地方都市に住んでいた頃。ホンダアコードのサンルーフの水漏れが酷くなり床に浸水し、運転席ドアノブも取れてしまったので乗り替えることになった。初めて自分で買った4輪の新車となった。
VOLVO850エステート2.5-20V classicは、NAのDOHC直列5気筒横置FFで、当時の評価は賛否分かれた。
フォード資本に移行する直前の最終型850で、標準装備満載感があり、無理して購入した。
私はクルミ材のウッドパネルと排気音が気に入っていた。始動時は家の窓ガラスがビリビリ鳴った。
その後、勤務先が東京に戻った。10年ほど乗ったVOLVOの維持費が上昇するため20万円で売却。都内に住んでいたらこれで十分と考えてミラ・ジーノ(プレミアムX)を手に入れた。
そういえばミラ・ジーノも最終型で、標準装備満載のお買い得感があった。(と、錯覚していたかもしれないが)
しかし、これはこれで、便利だった。
問題あるとすれば、周囲のクルマの動きが変になって割り込まれたりする事が多かったり、同業者の会合で奇異の目で見られることだった。オジサンが運転しているとそんなにオカシイのか?
いろいろ思案の末、増車した。その後5年乗ったミラ・ジーノは78万円で売却することができた。
昨年箱根で出会ったE46AlpinaB3s40thAniv.と。
以下、
以前のブログ参照。
長文、失礼いたしました。
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Posted at
2014/03/09 22:58:02