本日の記事は、いつも以上に極めて個人的なことです。
思いをストレートに書いた箇所があります。
信心深い方は不快な思いをなさるかも知れません。
ご興味を持たれた方だけお読みいただければと思います。
9月に母親が他界しました。
79歳。
老衰、です。
このご時世、もしかしたら少し早いのかも知れません。
大病を患っていたわけではありません。
もともと食が細い質でしたが、今年の8月頃から水分も固形物も
殆ど摂らなくなり、少しずつ弱って息を引き取りました。
暑かった夏に、1日コップ一杯の水さえ飲まなかったのです。
主治医と相談の上、積極的な延命措置は取らず、穏やかに
看取ることに決めておりました。
傍目に見ても、実に楽な死に方だったと思います。
3週間ほど前、遺骨をお寺に納めました。
僕としてはこれでひと区切りです。
母親は、2009年の1月から8年間、自宅近くの老人ホームでお世話に
なっておりました。
クルマでわずか5分の近い所にあるにもかかわらず、
去年面会に行ったのはわずかに1回・・・。
今日もひとっ走り!なんて、自慢気に書く一方で
年老いた母親をほったらかしにしていたのです。
こんなことを告白すること自体に、自分を正直に見せようとする
偽善的な臭いがプンプンすると思いますが、僕はそういった人間です。
ご容赦下さい。m(__)m
当初は、必ず毎週1回は様子を見に行ったのですが、
時間の経過と共に滞りがちになりました。
ホームでの8年間はただ、横になって日々を過ごすだけの生活でした。
立って歩くだけの力はあるはずなのですが、ずい分前から気力が
完全に萎えてしまっていたのです。
かろうじて会話は成立しますが、僕と自分の姉の息子とを混同しておりました。
時間の経過もハッキリわからず、季節の流れも説明すると理解しますが、
すぐに忘れるのです。
「もうお正月やで」「もうお正月になったんね」といった具合です。
車椅子を使えば外に連れ出すことも出来たのですが、僕はそれすらしませんでした。
観光地や百貨店で、親御さんを介助なさっている姿を目にすると後ろめたい気持ちになりました。
それにしても、恐ろしいほど長い時間、母親を放置しておりました。
僕以外に身寄りもなく、どんなにか寂しかったことでしょう。
せめて月に1回、たとえ10分でも顔を見に行けばよかった。
今では心の底から後悔しています。
内臓が丈夫で、血圧その他に異常もありませんでしたので、
少なくともまだ10年は元気なものと考えておりました。
お金も続きませんから、近い将来、ホームから引き上げて、
僕が毎日つきっきりで面倒をみることになると覚悟していました。
ところが、冒頭に書きましたように、急激に衰えて、それこそ
あっけなく死んてしまったのです。
火葬場で焼かれて残るのはスカスカの骨だけで、全ては無になります。
前世も来世もへったくれもありません。
情念も怨念も、生きていればこそ、です。
今さら、ゴメンね、と100回謝ったところで、母親にはもう届きません。
僕自身が死ぬまで悔やまねばならないことを思い知らされました。
母親の遺品は小さなポシェットだけです。
中には簡易なアルバムが1冊入っていました。
オフクロがもう少し元気だったころ、ウチ嫁ハンと3人で
能登半島のよしが浦温泉へ行った時の写真でした。
その後も3回くらい、岐阜や長野に旅行しました。
母親が乏しい貯金から旅費の全額を出してくれました。
葬儀の前日、男女お二人の納棺師さんに湯灌をしてもらいました。
結局、僕自身は母親のオムツ一つ換えたこともなかったのです。
最初から最後まで何もかも全て、施設任せでした。
いわゆる老人介護に伴う苦労は一切味わうことはありませんでした。
僕はこの世に生を受けたことを親に感謝したことは一度もありませんが、
介護の苦労をせずに済んだことについては心の底から感謝しております。
葬儀の当日はウチ嫁ハンと、嫁ハンの父親、妹、
そして僕の4人だけで見送りました。
昔からお世話になっているお坊さんにお経をあげてもらって静かなお葬式でした。
お客さんを呼ばなかっただけで、お通夜、告別式は型通りキチンと行いました。
女性の司会者さんと、エレクトーン奏者さんにも入ってもらいました。
「異国の丘」「旅の夜風」「青い山脈」を演奏してもらいました。
坊さんへのお布施も含めて、一切の費用はオフクロの貯金で賄うことが出来ました。
母親が死んだことそのものについては、そんなに悲しくはないのです。
僕の中には、先に書いた放置していたことへの後悔だけが残りました。
死んだことで、母親は一切の悲しみ、苦しみから解き放されました。
実母の死に対してとは言え、不謹慎を承知で書かせてもらいますけれども、
羨ましいくらいです。
亡くなった父親もそうでしたが、中学を出てすぐに働き、贅沢をすることもなく、
何かを成し遂げたわけでもなく、ただ働いて子供を育てただけの人生でした。
そして最後はほぼ完全に寝たきりの8年間。
非常に行き届いた施設でしたので、本人はラクだったと思います。
もういいでしょう。
本人の中に生きようとする力がないのに、無理やり管をつないで
命を永らえさせることはないと、僕は判断しました。
「さようなら・・・楽になって本当によかったね、お母さん!」
これが僕の偽らざる心境です。
僕が死んだ時は、オフクロと同じようにしてくれと、
誰も呼ばなくていいよ、と言ってあります。
それにしても、どうせいつか死ぬのに、人はなぜ生まれて来るのでしょうか。
大人になればわかるのだろうと思っていたのですが、年齢を重ねるほどに
ますますわからなくなりました。
オカン!ほったらかしにしてゴメンやで!堪忍してな!・・・。
長文にお付き合い下さったみなさんに心より感謝申し上げます。
亡き母へのこの上ない供養となりました。
ありがとうございました。m(__)m