2017年01月05日
父の命日
こんな個人的なこと、ブログにあげるのもどうかと思いますが、一応自分の心の記録として、記したいと思います。
ちょっと、どこかで心の中の記録を吐き出しておきたいキモチにもなったためでもあります。特にコメントなども無しで結構です・・・・・・。
2003年12月30日、難病を患っていた父が、それはそれで思いがけなく唐突に亡くなりました。
1934年夏生まれの父は、日本の治世下にあった「朝鮮」に渡って鉄道関係の仕事をしていた祖父と祖母の間に生まれました。
そして終戦。
大混乱の中、海を渡って祖父母の故郷の広島へ移り(そのドサクサの中、叔母が生まれるというオマケ付)、その後大阪へ転居・・・・・・大阪での住居も転々としていたそうです。祖父母の苦労も相当だったと思います。
そして、ようやく現在のワタシの実家の場所に居を構え、落ち着いたのですが、ほどなくして祖父が早逝(といっても63歳だったらしいですが)。既に父は働いていたそうですが、叔母は中学生、祖母は一生懸命働き、叔母を大学卒業させました(高校教師をしておりましたが定年退職、現在悠悠自適)。
父と母が結婚したのは、祖父が亡くなった後でした。ワタシが生まれたころは、祖母と両親、そしてワタシ、その後妹、でした。ワタシにとっての祖父は、仏壇の部屋に飾られている額縁に写っている、メガネをかけたオジサン、でした。祖母は、ワタシが物心ついたころには体調を崩して、療養生活でした。
定年退職する前の父親のことで、母親がいつも言っていたことが「転職してきた社員としては、父は頑張った方で、そこそこいいところまで出世できた」でした。真偽はともかく、ワタシよりも、がんばった、と思います。
だから、何不自由なく呑気な学生生活を送り、呑気に就職し、呑気に結婚できました。
全て、両親のおかげです。
父は、料理が得意で、単身赴任生活も苦にせず、また、鍋奉行を超えた鍋奉行、すき焼きのたまりづくりも母親にミリグラム単位で調味料の調整を指示したり、鉄板焼きでは選りすぐりの肉を選りすぐりのブランデーでフランベしたり・・・・・・その肉のかけらでつくる、〆のピラフも最高でした。また、正月のお節料理、黒豆には特にこだわっていて、そのツヤや、豆の皮の張り具合、味、全てを毎年厳しく評価していて、作る母親との毎年の「黒豆バトル」は、我が家の風物詩でした。((父)今年はいまいちだなぁ→(母)ならあんたが作れ!→(父)お前の仕事を取るつもりはない→(母)・・・・)
父は、着る服にもお金をかけていました。今ワタシが着ているスーツやコートでも、父からもらったものがありますが、どれも一級品。むしろ、ワタシが買った安物の方が早くダメになります(苦笑)。見栄えも気にしていて、ダンディにしていました。
父はヘビースモーカーでした。ピースやらホープやらキャスターやら、とにかくいつもタバコを喫っていました。それが当たり前のように思っていました。でも、愛娘が生まれるちょっと前に、大量の血を吐いて入院してから、タバコを止めました。医師によると、「長年の喫煙の影響で、胃の血管がボロボロで、食べた牡蠣の殻の破片で傷がついただけで、大量の出血になった」といわれ、また孫が生まれるし、ということですっぱりタバコを止めました。本当に、すっぱりやめていましたね。
その後、愛娘が生まれ、自分や妹には見せた事が無いような顔で、「目の中に入れても痛くない」とはこのことか、を体現していた父親を見て、数少ない親孝行ができたのかな、と思えました。とにかく、孫である愛娘が最優先になり、愛娘の一挙手一投足を優しく見つめ、本当に可愛がっていました。
本当に可愛がっていました。
愛娘が生まれてしばらくは、近くで住んでいたので、行き来はしやすかったのですが、幼稚園に入る年に、関西から東京へ転勤となり、その後岡山県倉敷市へ異動。
倉敷市へ異動する前に、母親から連絡があり、父親が病気であること、それも国指定の難病である「間質性肺炎」であること、を知らされました。
恥ずかしながら、それまでこの病気については全く知りませんでした。
簡単に言いますと、肺細胞が繊維質に変質し、呼吸しても酸素の吸収が困難になる、という考えただけでも息苦しくなるような病気です。病院やどこかででも、酸素ボンベをもって、鼻に管でつないで、呼吸補助をしている方がたまにいらっしゃいますが、その方の大半(と言っていいのかな?)が、そんな関係の病気でいらっしゃるそうです。
この病気は治りません。
肺細胞の線維化を緩めて、少しでも長く生き続ける事を、経過を見ながら続けるしかない、そんな状況でした。
個人的な考えですが、この病気の原因は、やはり長年のタバコだったんじゃないかな。
あいにく、ワタシは岡山県倉敷市でそれまででも一番忙しい仕事をしており、帰省もままなりませんでした。小学校2年生になった愛娘だけ、夏休みに帰省しましたが、父の様子は厳しかったようで、愛娘も心配しておりました。
でも、だからと言って、急に亡くなるというところまではいってはいませんでした。
ただ、呼吸がしづらく、たまには弱音を吐く父とずっとそばにいた母の方がつらかったかもしれません。
その年の12月、父が風邪をひいてしまい、入院することになりました。
この病気は、風邪をひくだけでも大変なんだそうです。
で、入院が長引き、その年の年末年始は、病院で迎える事になりそうだ、と母から連絡がありました。
仕事がとにかく忙しく、土日も無い毎日だったのですが、12/31から始まる年末の休みには家族で帰省する予定である旨連絡しました。父は、それをきいて「あーちゃん(愛娘の事)を連れて病院なんかに連れて来たら病気になるから連れてこないでいいのに」と言っていたそうです。
母親は毎日見舞いに行き、暖かくなったら近所に住む母親の妹夫婦と温泉旅行でも行こうか、と話をしていたそうです。
で、12/30、その日は、お節料理の黒豆ができたので、父に試食させようと母が病院へ持って行き、食べてもらいました。結果は、「まあまあだな」だったそうです。(それは、「合格」という意味です)
そして、その後母が家に帰った直後、脳出血を起こし、そのまま二度と目を開けることはなかったそうです。
母親から連絡があった時は、年末の仕事の整理をしたり、年明けの仕事の準備に奔走していた時でした。
ここで、母親の悪い癖をご紹介します。
親族の生死に関しては、ものすごくハッキリいいません。
例えば、以前母親の兄が亡くなった時なんて、亡くなっているのに「○○おじさんがヤバイいから、見舞いに来い、間に合わないこともあるかもしれないから、喪服も用意してこい」と言って、ワタシを惑わすのです。
父の時もそうでした。
「お父さんが急に悪くなった。来るのは明日でもいいかもしれないけど、早めに来れるなら、その方がいい」と言ってきました。
自分としては、「???」だったのですが、とにかく半信半疑ながら行く準備をしながら上司に相談したところ「すぐ行け!」と背中を押してくれました。
すぐに自宅へ戻り、愛妻と愛娘を乗せてクルマで入院先の病院へ急ぎましたが、途中で妹から連絡があり、亡くなったことを知りました。
自宅へ戻ったところ、冷たくなった父親が寝ていました。
安らかな顔をしていました。
こういう時は、「ありがとう」としか言えませんでした。
その年の正月に顔を見て以来、こんなことになるとは思ってもいなくって、夏も帰省しなかったのが一生悔やまれます。
家にあった古いアルバムに貼られていた学生時代の父親の写真、若々しく自信に満ちた笑顔の父を見たら、「こんな病気になって苦しんで、最後に亡くなるために父は生まれたんじゃない」と悔しく、悲しいキモチが込み上げたりしました。
まだ、69歳でしたし、覚悟していたとはいえ、突然のことだったので、とても悲しかったです。ただ、一方で、間質性肺炎というとても苦しい不治の病気から、父は解放されたんだ、というほっとした思いも、同時に心に去来しました。
がさつでテキトーなワタシの父親とは思えない几帳面な父らしく、ちゃんと準備していました。
自分が亡くなったときの連絡先一覧。
几帳面な字で、その人がどういう人か、簡単に書き添えられていました。
(余談ですが、中元、歳暮をデパートで発送手配するときも、伝票の字を一文字ずつ丁寧に時間をかけて書くので、横にいる母親はいつもイライラしていたそうです)
年末年始は葬式もあげられないので、しばらく父親と最後の年末年始を家族で過ごしました。12/31には、鍋奉行の父親が実家に戻る前提で手配していたカニが届きました。「鍋奉行がいないとわけわからん!」と泣き笑いながら、大みそかはカニスキ。母が準備していたお節を食べたりしながら、愛娘の笑顔に助けられながら、葬儀の準備をしながら、静かに過ごしました。
今思うと、父親が最後に口にしたものが、母親が作った黒豆だったなんて、なんか子どもとしては感慨深いものがあります。
あれから10数年、父に可愛がられていた愛娘も21歳となり、就活で目を回しています。
毎年年末は、どれだけ忙しくても、母親の顔を見に帰省し、仏壇に線香をあげ、お墓参りをする、ことが自分の心の中だけで決めていることなんです。
今年も、慌ただしかったのですが、やっぱり帰省しました。
気が付けば、父親の7歳年下の母親も、父親の年齢を超え、75歳。
まだ、元気でいてくれているのがありがたいです。
引き続き元気に過ごしてもらいたいと願っております。
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ひとり言 | 暮らし/家族
Posted at
2017/01/05 19:59:24
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