2018年04月16日
えー・・・・・・
そうこうするうちに、愛娘、大学を卒業


社会人になりましたw
卒業時には、殊勝なことをLINEしてきて、オヤズィの涙を誘いましたが・・・・・w

スタンプで返答するのが精いっぱい(爆)
みんカラを始めた頃は、小学校5年生だったんですけどね(苦笑)
本当に、はやいものです。
色々と忙しくしていた4年間でしたが、本人なりに充実し、楽しい4年間であったらよかったです。
大学は、神奈川県藤沢市郊外の辺鄙なところでしたが、学部の取組や研究内容などが気に入って、本人のたっての希望で入学(数年前に記載しましたが、本来だったら、大学までエスカレーターの中・高だったので、なにもしなかったらそのまま関西の方の大学だったのですが、あえてこちらに踏み出しました)
サークルにも入り、研究室も複数入り、バイトも色々経験(海外からの観光客のみなさんをガイドするベンチャー企業でのスタッフとか、お決まりの家庭教師とか、家電量販店の携帯電話売りとかw)もし、アメリカのシリコンバレーに発表にいったり(何してたのか知らない)、鹿児島県喜界島でのホームステイとか石川県金沢市や静岡県の地域活性化研究とか、なんか、知りませんが、色々やっていたみたいです。
呑気なオヤズィは、エビ中さんについて、それぞれの地域活性化に励んでいましたけどwwwww
で、就職活動は、基本的に小学校時代からの夢だったアナウンサーをはじめとしたテレビ局希望
色々な局を受験し、いいところまでいったところもあるし、書類選考で落ちたところもあるしw
結局、某地方局とご縁をいただき、もともとの夢であったアナウンサー「ではありません」が、報道に携る夢を叶え、記者として社会人生活をスタートしました。
そもそも、テレビ局とは別に内定を頂いていた、某外資系コンサルティング会社さんとその地方局さんと、どちらにするのか、親も本人も非常に悩みました。
(内定式直前には、その某コンサルティング会社さんから保護者宛に手紙が届きました。曰く「ワークライフバランスは守って、ちゃんと育成していきますよ」と・・・・・ブラッ○レッテルを貼られないよう、かなり配慮されていることが感じられましたねェ)
外資系コンサルティング会社さんは、非常に厳しい環境ではありますが、給与面でビックリするくらいもらえる(え?新人でそんなにもらえるの?と聞き返したくらいの年収)し、父的には仕事内容はとても濃密でやりがいや成長を促すチャンスがあるだろうな、と思えるところ。
勤務先が東京、という点も、実は非常に大きなメリットだと思っていましてw
但し、愛娘の性格や将来のことを考えたら、テレビ局さんの方が合っているかな?とも感じていました。
しかも、地方局の所在地は、ワタシが中高時代を過ごした、思い出の地。
本当のド田舎でもないし、その地方の中心となる大都市だし、なによりもそこの・・・・・
あーまどろこっしい!
個人情報流出とかなんか面倒くさい!
局名は言わないから許して!
仙台です、仙台!www
思い出の仙台で、社会人生活を過ごしてくれるなんて、父親としてとても嬉しいな、と思っていました。
色々な局で、ご縁がいただけない中、結局ご縁が頂けたのが仙台の局だなんて、心のふるさと仙台との縁が、しっかりと繋がっているような気がして嬉しかったりしました。
ひそかにw
とはいえ、基本的には愛娘の人生なので、愛娘の決断に委ねました。
最終的に、給与面や、東京での仕事、ではなく、自分がやりたい仕事内容ということで、放送局を選択、引越しとかいろいろと、結局ドタバタしましたが、先日無事に入社いたしました。
ワタシ自身、現在の会社に就職となったとき、去来した思いがあります。
実は、その30年ほど前、ワタシが生まれる前、行ってしまうと、両親が結婚する前、祖父が67歳で急逝したとき、まだ中学生だった伯母の学費のことや、生活のこともあり、祖母が働き始めたのが、現在ワタシが勤務している会社なんです。
(その頃、父は既に社会人になっていました)
ワタシ自身が物心ついた時には、既に体調を崩して病気療養していた、弱弱しい祖母の姿しか覚えていないのですが、明治生まれの女性としては大柄で、故郷広島から祖父の仕事で戦前日本だった朝鮮へ渡り、終戦直後の大変な中、伯母を出産(昭和20年8月生!)しながら、朝鮮から引き揚げてきた、屈強の明治女だったそうです。
大阪の実家に落ち着くまでも、色々な地域に居を移しながら、祖父母は大変な苦労をしながら、父や伯母を育て上げてくれていました。
幼稚園に入る前の数少ない記憶の中で、まだ仕事をしていた祖母に連れられて、会社の旅行かなにかで、宇治まで連れて行ってもらったり、その会社の和歌山の保養所に連れて行ってもらったことも覚えています。(保養所に行くまでの電車で、ワタシが大泣きして、母親が「コイツ捨てたろか」と思った、という逸話は、イヤというほど聞かされましたw)
ワタシ自身、就職先については、それほど悩むことが無く、しかもバブルだったので、苦労する事も無かったのですが、結局今の会社になったのは、祖母の導きだったのかなぁ・・・・・とも感じていて、今もその思いのまま仕事を続けております。
で、ひるがえって愛娘の就職ですが、ワタシ思い出の地仙台。
仙台には父親の転勤により移転したものです。
父の勤務先では、仙台営業所が東北一帯を任される事務所で、そこの所長として責任もあり、出張も多く、大変だったとは思いますが、休日には自宅から歩いて行ける廣瀬川で、好きな魚釣りをしたり、松島、山寺、閖上と家族を連れて行ってくれて、両親とも仙台はお気に入りで、思い出の場所だったのです。
愛娘が小2のときに、急逝した父ですが、愛娘が生まれた時から「目の中に入れても痛くないとはこのことか!」というくらい可愛がってくれていて、ワタシ自身も、唯一の親孝行は、孫の顔を見せてあげたことくらいかな、と思えるくらいだったものです。
なので、そんな仙台にご縁がいただけたのも、今は亡き父の導き?はからい?も、少なからずあったのかなぁ、とも思ったりしております。
親子2代、自らの祖父母の導きを感じながら、社会人生活をスタート・・・・・
新人のくせに、既に何回かニュースのレポートで出演させてもらっているそうですが、仙台とのご縁を大切にしながら、これからも健康で充実した人生を歩んで行ってもらいたいと思っております。
Posted at 2018/04/16 14:17:06 | |
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何気ない日常の一場面 | 日記
2017年06月19日
折に触れ、ワタシのブログに登場する愛娘
先日、22歳の誕生日を迎えました。
小さいころから、「(美人になれとか、東大・京大に行って、とか高望みはしないから)元気で無事に大きくなって」とだけ祈りながら、成長を見守ってまいりました。
お蔭さまで、屈託なく、頑張り屋のまま、そして何よりも元気で無事に大きくなってくれて、22歳になりました。
昨年9月に単身赴任解消して、現在の社宅で同居始めてから初めての誕生日、そして来春には就職するので、同居しているかどうかも不明なので、ひょっとしたら同居ラストの誕生日・・・・・・
お父さん、奮発して、吉祥寺の某有名イタリアンに逝ってまいりました。
とは言え、就活でスケジュールが全く読めない愛娘なもので、前日にフリーになることがわかり、急に決めたので、パパの会社の会議終了後に集まることにいたしました。
会議終了は20時、パパはダッシュで退出し、待ち合わせ場所に走りました。
待ち合わせ場所には、誕生日のプレゼントシリーズをママからせしめえてご満悦の愛娘と愛妻。
そこから、井の頭公園そばの某有名イタリアンに、そぞろ歩いて移動致しました。
とりあえずワインで乾杯しながら、22年前の話しなどをしたり、いろいろと昔話を。

ほとんど、物心がつく前の話なので、愛娘にとっては、恥ずかしい話も多かったのではないでしょうかw
それにしても、今から思えば、あっという間の22年間でした。
親も子も、ドタバタしながら小学受験したり中学受験したり、様々な地方へ転勤で移動したり。
行き当たりばったりの父親に似て、その時その時の衝動で色々なことにチャレンジして、それはそれで楽しんできてくれて、気が付いたら22歳。
今でも親にはなついてくれているのがありがたいです。
ふわふわの赤ちゃんだった時が懐かしいですが、今も赤ちゃんがそのまま大きくなった感じで、おおきな熊のぬいぐるみみたいな体型になってしまっていて、そこは親の遺伝子を恨んでいるようですwww
(母に似ればよかったのにねwww)
お蔭さまで、内々定と言われる類の立場を中々の企業様から頂いていて、ある程度親としては肩の荷が下りている中ですが、それはそれでこれからも自身の道をしっかりと歩んで行ってもらいたいものです。
就活自体はもう少しがんばって続けていて、そろそろ目処がつくのかなぁ、と思っております。
何よりも、健康で幸せにしていてくれることが、何よりの親孝行ですね。

まぁ、母親としての愛妻の気がかりは、クリスマス、正月、バレンタインデー、ホワイトデー、誕生日当日など、全ての「ポイント日」に、自宅で寝ている、という年頃の女の子としてはいかがなものか、という「男っ気」の無さ、なようですが・・・・・・(パパは安心?w)
Posted at 2017/06/19 15:13:58 | |
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何気ない日常の一場面 | 日記