
春のような天気になった休日。
本当は雪山行こうかと考えていましたが最近、仕事が繁忙期に入ってきており仕事疲れで山への気力が少しダウン。
この暖かさでは雪山って気分では無いのでちょうど良いかな~なんて思い午前中から先週行った釈迦ヶ岳登山の写真整理とブログ書きをしておりました。
しかし、あまりの上天気でインドアーで過ごすのがもったいなく思い、ブログ書きも午前中で一旦
切り上げてまずは愛車の洗車をします。

最近はほとんど乗っていないのですがやっぱり埃が被ってしまっているのとホイールの
ブレーキダストが気になるので洗車をします。

水洗いで綺麗にしてあげます。

簡単洗車ですが綺麗になりました。

綺麗になったところで暖かい春の陽気なの中オープンにしてドライブに行っちゃいます。

向かった先は、私の生まれ育った街。
私の大先輩でみんトモさんの903さんのブログに刺激され久しぶりに訪れてみたくなりました・・

最初に向かったのは春日大社。
幼い頃の遊び場です。
地元の人は皆「春日さん」なんて呼んでいました。
ちなみに私が今立って写真撮っているところが旧東海道。

ここで目を引くのは青銅製の大きな鳥居。
桑名は昔から鋳物業が盛んで、この青銅鳥居は高さも幅もある為、東海道を通る旅人達が見て
とても驚いたとのこと。

その鳥居にまつわるお話を一つ・・

それは、この凹みや傷。

その凹み、傷の付近にはこんな文章が刻まれています。
「左右兩柱此の部位に印する窪みは 昭和三十四年九月二十六日夜半の 伊勢湾台風の
高潮により打上げら れた荷物船が横さまに激突したる 痕跡である 」
そうです、かの有名な戦後間もない頃の大きな自然災害の伊勢湾台風での傷跡なのです。
高潮で打ち上げられた貨物船がこの鳥居に激突したと書かれています。
河口よりかなり距離あるところですが、こんな所まで海水が来ていたのですね・・

まさに歴史を刻んだ鳥居です・・

鳥居の横には何か崩れかけの石碑のような物があります。
それは「しるべいし」と言われる物で、一昔前の駅の伝言版のよう物だったようです。

詳しくはこの看板を読んでみてね。

鳥居からすぐの神社境内に車駐めます。

立派な楼門。
私がこの界隈に住んでいた頃はこの楼門はありませんでした。
戦争で消失していたらしく私が今すんでいる地区に引っ越した後に再建されました。

この春日さん、正式名称は「桑名宗社」
かの有名?な日本一やかましい祭りが執り行われる神社です。
ちなみに私も中学生まではその祭りに参加していましたよ、ほんとやかましい、いや、楽しい
祭りでしたよ~笑

せっかくなので幼き頃の遊び場だった境内を散策してみます。

よく遊んだ手水舎。

手を清めるための柄杓が並んでますね。
昔は単なる手洗い場と思っていました。
この水に葉っぱ浮かべたりして遊んでました・・

手水舎の横には井戸があります。
っていうか初めて知りました。
勿論昔からあったのでしょうがそんなこと知らずに遊んでましたから・・

この井戸の由来は江戸時代に遡るらしいです。
興味ある方はこの看板を読んでみてね。

こちらが神社。

しょっちゅう遊んでいた神社でしたがきちんとお参りするのは石取り祭りの時くらいでしたね・・笑

石柱に掘られた諸戸清六さんの文字。
こんなのがあったのも初めて知りました。
この春日さんに莫大な寄付をしたのでしょうかね。

何十年ぶりにこの境内に来て一番ビックリしたのがこの木。
もう枯れちゃったのかな~?
私が小さい頃は大きく立派な楠木?だったのです。
この木に夏になるといっぱいクマゼミが鳴いていて捕まえたくてもかなり高い枝にとまって
いて捕まえることが出来なかった思い出があります。

年期のはいった灯籠。
こんな風にじっくり見たこと無かったな~。

春日さんをあとにして次に向かったのは七里の渡し跡。
愛知の熱田から続く東海道の海上ルートの三重側です。

現在はこんな感じで鳥居が見えますが、私がいた頃は大きな堤防に囲まれており
あまり鳥居は見えませんでした。
平成15年にここより河口側にもう一つ立派な堤防が出来たおかげで鳥居の付近の
堤防は取り壊されたのでしょう。

この鳥居は、伊勢神宮の式年遷宮で取り替えられた鳥居がここに移築されたものです。

東海道を示す看板。

すぐ傍に船が係留された水路があります。
この水路、この七里の渡しがある揖斐川につながってますがこれ実はお堀。
そうです、桑名城のお堀なのです。

そこで一つこのお堀にまつわる小話。
私小学校3年生ごろ、この写真の場所に繋がれた船に友人と乗って遊んでいました。
その船から石垣に戻る為に飛び移ろうと勢いを付けてステップしたとき、船が動いてしまい
石垣にわずかに届かずそのままお堀にダイブしちゃいました~。
幸い、泳ぎは得意な方だったのでパニックになることも無く石垣に這い上がって事なきを
得ました。
しかし全身ずぶ濡れで帰宅したときは母親に怒られるかと思いきや事情を聞いた母親は
何事も無く良かったと怒りませんでしたね。

お堀から車に戻るときにロド君のフロントバンパー付近に黒い物が・・
よく見るとクロネコちゃんのようです。

じっと見ていると、なんと我がロド君のフロントバンパーに何やらお尻向けてますよ~!
アレってマーキングじゃないですか~!?

何事も無かったようにそそくさと立ち去るクロネコちゃん・・

クロネコちゃんの向かった方へ先回りしてカメラ構えると私の気配を察知したのか木の陰に
隠れてこっちの様子を伺ってます・・・

次の瞬間、一目散で逃げていきましたよ~。

その後心配でロド君のフロントバンパー確認しますが何も無さそう・・
猫のマーキングって犬のようにおしっこかけるのではないのかな?
七里の渡しをあとにして次に向かったところは・・

赤レンガ倉庫前。
この倉庫、江戸から明治時代の桑名の大富豪諸戸家の倉庫。
お米の倉庫だったようです。

この倉庫の前には水路があり船でお米などを運んでいたそうです。
勿論今は船の行き来はなく優雅に鴨が泳いでいました。

諸戸さん家は現在修復工事中でした。
ちなみにこの諸戸さんとはさっき行った春日さんの石柱に掘られた諸戸清六さんのお家です。
この豪邸の傍には今は六華苑と言って諸戸清六邸が一般公開されているところがあります。
私が小さい頃は公開もされておらず、洋館がホラー映画に出てきそうなお化け屋敷に思えました。

工事中の諸戸邸の脇にある昭和の赤いポスト。

そのポストの脇から伸びる小道。
この道は昔からあり、幼き頃ザリガニを捕まえに行くのに通った記憶があります。
その頃左手から正面は諸戸の材木置き場と加工場があり、夕方5時を過ぎるとこの道の
先にある門が閉められました。
閉められるとかなり大回りしないと家に帰れなかったので時間を気にしていた記憶があります。
今は周りの景色は全く変わってしまいましたね・・・

次に向かったのが住吉神社。
ここもよく遊んだ場所、釣りなんかもよくしました。

神社の詳細はこの看板をみてね。

ここも大きな堤防が出来たおかげですっかり景色変わってしまいました。

時代の流れを感じます・・・

この神社の近くにはリバーサイドボウルなんて名前のボーリング場もありました。
今は見ての通り六華苑の庭園の一部になってしまっているようです。
当時、自宅から歩いて行けるボーリング場で家族や友人と遊びに行ってましたよ。
ここでも時代の流れを感じます・・・

次に向かったところは伊勢大橋。
揖斐川に掛かる国道一号線の橋です。

今まで何度も通った事のある橋なのですが・・
実はこの橋、戦争遺跡だったりするのです。
私がそれを知ったのは数年前でしたが・・。
なので、実際に見てみたく思い今日こうして向かったのです。

橋から少し離れたところに車駐めて歩いて行きます。

歩いて橋を渡り始めネットで調べた付近に目をやると・・・

ありました、弾痕が。
「伊勢大橋は1934年に完成した鋼鉄製のアーチ橋。東南海地震や伊勢湾台風などの天災も乗り越えてきた。
郷土史家などの調査によると、交通の要衝だった伊勢大橋は終戦直前、米軍の攻撃目標となり、艦載機による機銃掃射を受けた。鋼板が貫通して穴が開いたり、めくれ上がったりした痕跡が十数カ所残っている。」
※毎日新聞ネットニュースから抜粋

こんな感じでいくつもの弾痕lが確認出来ます。
写真、もっと撮ってきたのですが最後の写真で見て分かるように久しぶりに使う一眼レフ、
望遠レンズへ付け替えしたときに撮影モードのダイヤルを回してしまっていたようで
露出がエライ事になってしまいエライ画像になっちゃってました。
なので、弾痕の画像はこれくらいにしておきます。
戦争の傷跡を残す鉄橋が未だに現役で国道1号線の橋として使われている事が凄いですね

しかしその伊勢大橋の脇に新しい橋の建設が始っています。

2020年には新しい橋が完成するそうです。

鉄橋の上には小鳥の姿が・・

鉄橋の弾痕から漏れる光。
その向こうには長良川河口堰が見えますね。

近鉄名古屋線の鉄橋越しに見える養老山脈。

長良川越しに見る鈴鹿山脈。
おそらく山の姿は今も昔もこれからも大きく変わらないのでしょうね・・

しかし、この綺麗なアーチを描く鉄橋はあと数年で姿を消してしまうのですね~。
この昭和の建造物が消えることにさみしさを感じるのは自分が歳をとったせいなのかな・・?
なんか思いつきのドライブの思いつきブログでしたが長くなっちゃいました・・・
最後までおつきあい頂いた方ありがとうございましたm(_ _)m
終わり