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2022年01月31日 イイね!

2022年の正月に見たテレビ番組の感想と妄想


学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

正月ということでネットやテレビばかり見ているおっさんだが、言うまでもなくそれらを全て真に受けているワケでは決してない。「みんカラ」も、ただそれらをネタにを古くからの友人と雑談しているような気持ちで言葉にしているだけである(もちろんこんな言葉遣いで話すワケではない)。
というかそもそもみんカラはいわゆる「SNS」という、それこそ離れた友人とまるで会話のようなやり取りを可能にするためのモノなのだが、そこはやはりおっさんである。そのような「繋がり」は全く必要としていないし、実際そういった使い方は全くしていない。こうして文章にすることは自分の頭で考えることの良い練習にもなり、脳の老化防止にもなり、老後の生活の糧とするための日本語の練習にもなる(かもしれない)というだけのことである。

この正月は去年ほど家に居なかったのでそこまでテレビは見ていないが、NHKBSの「ホンダF1」は2020年1月に書いていることもあり一応ネタとしてチェックしたので、恒例として(かつ最後として)一言。

今回の番組も予想通りの出来栄えと言うか、まずは2020年に書いた文章そのままになるが、基本的に民放レベル、浅めのタイアップ番組の類であり、おっさんが真に受けるようなものでも面白がるようなものでもなかった。そもそもこの番組のターゲットはどう考えてもおっさん世代のハズだが、少なくともそこにコミットすることは全くできていなかったと言っていいだろう。もしかしたら制作責任者はブームを全く知らない若い世代なのではないかとも思うが、逆にマニュアル通りにやることで組織の評価を得る40代50代なのかもしれないとも思う。この手の番組制作コンセプトに倣っただけの表面的な番組になってしまった感があり、NHKの番組制作者としての魂が全く感じられなかった、というかやはりホンダの広報が制作の主導権を握っていたということなのだろう(当然か)。
ただ前回と違い、一番興ざめだったレース実況風のアフレコは今回は無くフツーのナレーション形式になっていたので、恐らく相当多くの人から同じような感想が寄せられたのだろうと思う。
まあこれ以外にも、制作費の関係か知らないが静止画が異常に多いとか、レースの状況説明が全く意味不明だったりとか、番組としては褒めるところが全く無かったといってもいいだろう(ホンダをホメるための番組であってF1を魅せる番組ではないことは判るのだが)。
番組の内容についても一応言えば、一番印象に残ったのはやはり、日本グランプリの中止だろう。
これについては以前も書いたのでもはや特に言うこともないが、日本人にとって如何にオリンピック「だけ」が特別だったかということ、日本政府のダブルスタンダードとホンダの政治力不足、ということでしかない。
またレースそのものについても、正直あまり書くことがないというのが今回の感想である。最終戦最終ラップはまあ勝負のアヤというやつだとも言えるが、エンターテイメントという見方もできる。まあそういうものが一切ないと考えるほうがおかしいとは思うし、ハミルトンの引退騒動などもいろいろ勘ぐったりするが、今回は特に深くは考えないことにする(というかもはやそこまで気にもならないというのが本音である)。

もう一つこの正月見たテレビは、3年ほど前に話題となった日本映画「カメ止め」である。
自分が映画館に行ったのはここ10年で2、3回、スターウォーズとPIXER作品くらいでありまして日本映画など全く興味はない(ちなみに「ククルス・ドアン」だけは映画館に足を運ぶことを今から決意している)。
が、当時相当話題だったということで一応チェックしてみたところ、評判通りの面白さだったことにはまさに驚きだった(そもそも日本映画は見ないのだから作品としての客観的な評価は全くできないということは大前提として)。
作品性としては個人的には好きなタイプだがおそらくは好き嫌いが分かれるところだろうとは思う。それでもこれほど多くの人に評価されたのは単純に面白かったからということの他に、やはりそのコンセプトに対する評価が大きかったということのようだ。
低予算、無名キャスト、アイデア勝負、だが決して低品質ではない、そしてあくまで「映画」として成立しているというところが最大の特徴ではないかと、映画のことはよく判らないおっさんは勝手に思っている。何度も見るような、あるいは数十年後も評価されるような名作というワケでは決してないが、確実に人々の記憶に残る、そういう作品だった。フランスでリメイク版が製作されているということなので、世界中の製作者側の人々にとっても刺激となる作品だったということだろう。

この十年、日本映画でヒットした作品とと言えばほとんどがアニメなのだそうだ。直近で言えば「鬼」「呪」「エヴァ」「君の名は」といったところだろうか(自分はそれすら全く見ていないが)。
アニメ以外ではほとんどがテレビドラマ、ラノベ、マンガが原作という感じだろうか。恋愛ものかミステリーもの、マンガならだいたいヤンキーもの、そして出演者はどれも同じ、事務所のゴリ押し、そんなイメージである。テレビで大々的にCMが流され、情報番組の芸能コーナーやバラエティ番組に出演者が出まくるというのもお約束のパターンだ。要するに宣伝にカネを使う方が簡単に客を呼べる、結果広告会社が一番儲かる、そういう仕組みになっているということになるようだ。その結果、逆に宣伝で呼べる客層に合わせた内容の映画を作るということにもなるのだろう。それこそまさに「作品である前に商品である」ということだ。
まあ実際はどんないい映画でも宣伝しないと客は来ないということもまた事実だし、だとしたら初めから予算上宣伝広告費ありきなのも当然である。市場とは、消費者とはそういうものであり、それはクルマも同じことだ。結果として言ってみれば粗製乱造ということになるのだが、大量生産大量販売はこれまでの資本主義経済にとって基本中の基本である。ヒットを狙って渾身の作品を作れば売れるというワケでは決してないのだから、当たり前なのだ。
市場が成熟することで供給側が市場にコミットするということも、どのような産業にも起こることであり、言うまでもなく全ての産業において「売れる」ことが最優先なのである。結果として同じような商品ばかりとなり、価格と品質が二極化するのは一つの市場の衰退期の典型である。ケータイやスマホ、デジカメ、そしてこれまたクルマも同じだろう。日本の電機産業が陥った「ガラパゴス」化とはまさにこのことであり、世界との勝負に負けたというより、一つの市場にコミットしすぎたということになるのだろう。それまでやり方でラクにガッポリ稼げたという成功体験がそうさせるのだから、どうしようもないのだ。
また一つの市場が飽和状態に近づくに連れ、競争は徐々に弱まり寡占が進むことになる。一定程度シェアを獲得した供給者の戦略は初めから市場ありき、採算性重視となり、そして結果として効率化、コストカットに向かうのが自然の法則だ。もちろんこれは飽和から衰退に向かう産業では当たり前、自動的にそうなるというハナシであって良い悪いの問題ではない。
そう考えるとそもそも日本映画がそうなった事自体も、自然の法則であり誰のせいでもないとも言える。あくまで日本の市場で商業的に成立するという大前提の上で製作される故、大多数の作品は結果としてこうなるということでしかない(これも結局日本映画がそもそも日本市場しか見ていないということでもあるのだが)。
そんな中であくまで「作品」にこだわり続けることは産業としては間違っているということになるのだが、それでも作品に、映画にこだわる製作者がいて、彼らがあくまで中身を最優先するのは、それはまさに芸術、自己表現、ということだと言っていいだろう。結果として世界からも注目されるまでのヒットとなったのだから、世界を相手にする力はあるということになるハズだ。カメ止めのような作品が製作されているということ自体新鮮だったと言うか、そういう文化がまだ日本の映画界に存在しているというだけでも僅かな希望が残っているのかなという思いである。

映画というものは100年以上前からある技術であり、元々は映画館でしか見られないものだった。その後テレビやビデオという新しい技術が登場し、一般家庭に普及し、映画を自宅で見るということが可能となり、そして更なる技術の進歩により今ではスマホで、どこにいても見ることができる。
コンテンツとしての映像作品としてみれば、時代が変わったとしても本質は変わらないハズだ。が、こと「商品」ということになれば、媒体が変わり、視聴環境が変われば、結果として消費者となるターゲットも変わり、それに合わせて製作される作品も変わっていくのである。
そして現在は、テレビが時代の変化に喘いでいる。同じような番組ばかりというのは別に今に始まったことでもないとは思うが、ネットの投稿動画をひたすら流す番組が大量にあるということ自体、まさにテレビがオワコンだということを顕しているだろう。紅白歌合戦が史上最低視聴率だったというハナシだが、これこそまさに「ゾンビ」番組である。
これも結局、市場、ボリュームゾーンを追い続ける商品である限り、逃れられない宿命なのである。

アニメを除く日本映画は完全に停滞期なのは素人でも判るが、じゃあ逆にアニメ界は順風満帆かというと、業界としてみれば決してそういうワケでもないようだ。
半年か一年ほど前、件の「鬼」アニメの制作会社の社長が脱税で捕まったというニュースがあったが、この背景にはアニメ制作会社の苦しい経済事情があるという。
「ガンダム」の歴史的成功から40年、その制作会社では彼ら自身の立場、つまり製作者側の利益と、そして牽いては労働者の地位向上に取り組んできたというハナシもあるが、日本のアニメ産業は未だに大半が搾取される側にあるということになるのだろう。ちなみにこの夏に公開された「閃ハサ」はテレビ等での宣伝はほとんどしていないが、これほどのキラーコンテンツともなれば新作情報はすぐにネットで話題となり、そして固定客だけでも充分なボリュームとなるのだろうから、もはや宣伝の必要すらないということのようだ。結果として興行収入自体はそこそこでも、「ガンダム」全体で一つの市場であるが故一劇場作品のみでその採算性を重視する必要もないのだろう。その代わり固定客からは初めから一定の水準を求められることになるだろうし、供給側もそれを判った上で制作することになるハズだが、それは作品としても産業としても健全な形であるとは思う。ただやはりこのような理想形というのは結局極一部でしかないようだ。

今の日本のアニメにはまだ、クリエイターとしての精神を持つ製作者とそれを支えるファン多くがいるという「文化」が一定程度残っていて、結果として世界から注目される産業としてまだなんとか成立している、そんな状況だろうと思う。牽いてはそれが韓国や台湾のアニメ制作者を生み育てることにも繋がっていると言ってもいいだろう。
現在では日本のテレビアニメはもはや韓国や台湾の制作会社の協力なくしては成立しないという状況だそうだ。これは日本の現場では追いつかないということの他に、CG等のデジタル技術の比率がより大きく重要になっているという部分もあるようだ。これは別に「日本ならではのセル画タッチの方がいい」とか、そういう問題ではない。デジタル化は生産効率、牽いては制作費、利益、競争力に直結するのである。その点において韓国台湾は既に日本を完全に周回遅れにしているし、いずれ、おそらく程なくして作品そのもので日本を凌ぐ実力を獲得し、日本の下請けから脱却することだろう。

モノづくりはやはりどこまで行っても底辺の仕事である。特に成熟した経済、社会では、他人の上前を撥ねる商人が全てを得るのが自然の法則だ。
自分たちの製品は自分たちで売ることができるようにならなければ、永遠にその構図は変わらない。
中抜き、ピンハネ、中間マージン等々、業界とはそういう人間の集まりである。そしていつの時代も奴隷商人は存在するし、まして現在の日本は「ハケン」と言う名の人身売買が合法化されて10数年、テレビのCMは彼らの名前で溢れている。
その意味では、ことコンテンツ産業において言えば、ネット時代の到来は今現在搾取される側にいる人間達にとってはチャンスになるかもしれない。
宣伝に大金をつぎ込むことができなかったからこそ口コミからネットでバズった、それがまさに「カメ止め現象」ということなのだそうだ。この現象が「業界震撼」と表現される所以である。
もちろん作品としてのカメ止めが全ての答えだというわけではなく、常に様々な作品、様々な作者、様々なジャンルが生まれ、それが消費者に受け入れられるというのが文化としての理想である。とにかくいろいろな人間が、いろいろな作品を作ることで、全体としてのレベルを支えるのであって、ネット社会は再びそのような時代が訪れる一つの可能性ではあるだろう。

正月恒例なのでおっさん的サブカルネタとなったが、今現在コロナ第六波で大変な状況だ。
が、その事自体はとっくに判っていた事だし、特に新しいこともない、同じことの繰り返しである。
それより何より、自工会会長の発言がまた大ニュースとなっており、個人的には(たぶん大多数のクルマ好きは)「またか」という感じだろうが、おそらくこれからネットに多くの記事が出ることになるので、次回はこれについて考えてみることにする。

Posted at 2022/02/01 06:15:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2021年12月28日 イイね!

トヨタのBEV戦略についての感想と妄想

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

トヨタがEVを2030年までに30車種350万台にするという目標と、16車種のコンセプトモデルを発表したというニュースについての感想。
ホンダも既に方針を発表しているが、やはり日本社会に与えるインパクトの違いは歴然である。
ネットでも関連した記事が連続して多数アップされているが、概ね予想通りというのが大勢のようだ。

「エンジンを作らないホンダなんていらない! ?いったいホンダは何処へいくのか?」 文/清水和夫 ベストカーWeb 12/27(月) 7:00配信
「今年読まれた記事と、全力で止めたい超小型EV「C+pod」」(池田直渡) ITmediaビジネスONLINE 12/27(月) 7:55配信
「「業界の救世主」だった豊田章男社長はなぜ「EV推進派」に変貌したのか」 NEWSポストセブン 12/27(月) 16:15配信

東京都知事が「脱ガソリン」宣言したのが去年2020年の12月、ちょうど一年前である。
このときも書いたが、これは結局欧州と中国が仕掛けたゲーム・チェンジを受けて立つこと、彼らの土俵で闘うことが決定しただけのことだ。
グローバル資本主義で最も重要なのは世界の自動車市場であると共に、世界の金融市場である。都が発表した、というより政府が方針を決定したのは世界に対するプロモーションであり、そしてそれは言うまでもなく業界の意向である。つまりこの時点でトヨタを含む日本メーカーの方向は決定していたのであって、あれからちょうど一年、トヨタからこのような発表があったことは極々当たり前、全ては予定通りだと言っていいだろう。

EVそのものに関して言えば、現時点では航続距離、充電時間、充電場所、価格、どれをとっても何らメリットがない、何の魅力もないと言っても過言ではない。
だからこそ「環境問題」あるいはせいぜい静粛性かむりやり高級感を最前面に押し出す以外ない(スポーツ性も意外に高いようだが大衆には不要)という状況である。
更に日本に関して言えば、少子高齢化で市場は縮小し、更に実質賃金の低下でクルマの価格は相対的に上昇し、ただでさえ軽しか売れない状況であり、そこに高い(価格が)、遅い(充電が)、走らない(長距離は)では、誰もEVなど買うはずがない。そんな中でEVを売るには、もはや誰もが判っていることだが、政府の補助金以外にないのである。
もちろん現在の欧州や中国も、基本的には全く同様に政府の補助金によって市場が形成されていると言ってもいいだろう。結局これが自動車業界にとっての新たなビジネスモデルであるというのが、現時点における世界の結論なのである。
このような結論に達したからには、環境問題に対する正論など全く無意味であり、トヨタとて抗う必要性は全く無い。全世界がEV化を正義と認め、それ以外を悪と認めたのだから、もはや議論の余地はなく、むしろ堂々とEVで勝負するだけのことだ。
ここから先は、自動車メーカーにとっては技術力の、政府にとっては補助金政策の、世界との純粋な勝負ということになり、むしろ迷いがなくなったとも言えるだろう。
ただ、内輪では根回しや忖度ばかりしているくせに世界が相手のゲーム・チェンジ、戦略的仕掛け、裏工作が全く下手くそな日本政府、日本メーカーだけに、またどこかでルール自体をひっくり返されるときのことは考えておく必要があるというのがトヨタの本心、というか当然の戦略だろう。
そもそも環境問題等々もっともらしい正義を振りかざすのは有史以来シャーマンの専売特許であり、「本当の技術」の対局にあるこれもまた重要な「技術」である、ということは今回は触れずにあくまで本当の技術が社会に何をもたらすのかを考えてみる。

少なくともおっさんがまだ子供だった40年前から、いずれはバッテリーEVか燃料電池車だと言われていた。
が、それが未だに実現しないのは、技術的には偏に「電池」の問題である。
それは必ずいつかは解決できる、いつかは500km走るのに5分で充電できる日がやって来る、そういう性質のものではあるが、それが未だに実現しないのは、一言で言えば、化石燃料が最も優れているだからだ。優れているというのはあくまで便利で安価だということであり、その点においてそれ以上のメリットがなければ、若しくは何らかのデメリットがメリットを上回らなければ、わざわざ別なものを追求する必要がない。技術とはそういうものである。
地球温暖化というデメリットは長くて20年、というよりほんの10年の間に急に取り沙汰されるようになったものであり、まして今のユーザーにはほとんど実害を感じない、無関係と言ってもいいのである。
これは今の日本で言われる脱ハンコと同じことであり、色んな意味でこの方が良いなどと言われても今特に困っていないのであれば、世の中は動かないし、誰も技術など必要としない。
自動車で言えば、いよいよ化石燃料が手に入らなくなるか、本当に地球温暖化の被害が深刻化するまで変わらないだろう。

ただ逆に言うと、そこまで追い詰められたときには、技術の進歩は一気に進むことになるのが歴史の常である。
もし仮に電池の技術が劇的に向上すれば、そもそも自動車というよりエネルギー問題のブレークスルーにもなり得ると言っても過言ではないだろう。
そういう意味では、一つの技術に全世界が集中するというのも、少なくとも技術的には、一概に悪いこととは言えないのかもしれない。
そして、単純に一つの技術を追求しようとする時、日本メーカーにはその力があると、過去の栄光を振り返れば思うことができないこともない。
またそもそもモノとしてのEVとは何かといえば、まずは自動車であることは言うまでもないだろう。勘違いしている向きもないではないようだが、スマホとバッテリーにタイヤをつければEVになるワケではないことだけは間違いない。それこそクルマとしての100年の蓄積があって、そこに10年か20年のITと、未だ特異点に至らないバッテリーの問題がその後に来る、ということになる。
もちろんこれまでに比べれば誰でも作れるようになるのも間違いではないし、そもそも日本人のようにクルマ=移動手段であれば、そしてもし価格が現在の半分になるのであれば、スマホとバッテリーにタイヤが付いたモノで充分だということになるかあるいは経済的にその程度のものしか買えなくなる可能性もある。
とは言え少なくとも欧米を基準としたこれまでの「クルマ」として考えれば、フツーに考えれば技術的には既存の自動車メーカーに圧倒的な優位性があるのは間違いない。
本気の技術勝負であれば、トヨタを中心とした日本メーカーにも当然勝算はあるだろうし、多くの日本人はそう思っていることだろう。

ただ本当の問題はそういうことではない。

自動車メーカーというものは元々一つの企業でクルマの全てを生産していたワケではない(もちろん正確には現在もそうだ)。
あまり詳しくはないが、自動車の黎明期には「エンジン屋」という概念があった。BMWやダイハツの名前の由来がそうだし、ヤマハなどもそうだ。また車体メーカーを意味する「コーチビルダー」という言葉もかつては存在したし、高級車やスポーツカー、レースの分野では今でもそのような形が残っている。それが大量生産時代の到来と自動車産業の成熟につれ、エンジンメーカー=自動車メーカーという形に落ち着いていったということになる。
これはおそらくエンジンが自動車の要であったからこそだと考えられる。なぜなら走行性能、燃費、静粛性その他の質感等々、クルマとしての重要な要素が詰まっているからであり、いいエンジン=いいクルマとも言えるからである。
当面、EVにとって最も重要なのは「バッテリー」である。
航続距離、充電時間、動力性能、そして価格と、重要な要素が全て詰まっていると言って間違いない。
今までは、自動車メーカーがバッテリーを開発することはなかった。技術的には別であるため生産するより調達したほうがコストが安いことと、クルマの性能に対してそれほど大きな影響がなかったためである。
ということは、もし自動車産業が完全にEV化すれば、バッテリーメーカーが自動車産業の上流になるのはほぼ間違いない。
現在もエンジンメーカー由来ではない自動車メーカーも存在するし、自動車産業の上に鉄鋼メーカーがあり、その上に鉱物、エネルギー産業があるように、それ自体は特段フツーのことではあるが、企業の形としてバッテリーメーカーが自動車メーカーになるといった業界の再編、というより地殻変動となる可能性も充分にあるハズだ。

もしこの流れが本当だとすれば、逆に言えば新たな時代の黎明であるとも考えられる。
そうだとしたら、本来なら、無数のエンジン屋やコーチビルダーが存在した自動車黎明期のように、無数のバッテリーメーカーが生まれ、新たな産業革命となるハズだ。もう一つの重要部品であるモーターについても、とうに枯れた技術だと誰もが思っているだろうが、もしかしたら新たな時代が来るかも知れない。
そのような時代にあって、フツー、歴史的に見て、「このピンチをオールジャパンで」などという発想になるだろうか。
勝者総取り、四騎士が生殺与奪を握るIT界といえど、そもそもその技術はどこかの国がオールなんとかで作り上げたワケではおそらくないだろう。
本来であれば、日本にいくつものバッテリーメーカーが犇めくというのが技術的にも産業的にも理想であるハズだが、どうやら現在の日本の産業界ではとてもそういう発想にはならないようである(バッテリーの技術が如何に高度であるかなどということはおっさんには全く判らないが)。
つまりこのままでは世界に勝てないという日本人の技術力、というより技術に対する発想が既に終わっているのである(バッテリーの技術が如何に高度であるかなどということはおっさんには全く判らないが)。
これは日本の企業、大学、教育、社会、全てが組織の論理に収斂した結果だろう。若しくは、というよりそもそも日本が技術で世界をリードしてきたという認識すらも、戦後日本がたまたまそうなっただけ、ただの幻想に過ぎないと言ってもいいだろう。

おそらく日本では、自動車メーカー自身が(もちろん既存の電機産業を巻き込んで)バッテリーの開発に最大限注力することになるだろう。そしてトヨタがこのような発表をしたということはおそらくその枠組みの中で一定の勝負ができる、というより勝算があるというところまで来ていると考えるのがフツーだと思われる。
ただ、仮に日本の自動車メーカーがEV化において世界との勝負に勝ち残ったとしても、それは自動車メーカーにとっての勝利であって、日本の産業や雇用、労働者の賃金の勝算ということでは全く無い。
そもそも企業は雇用を守るために存在するのではない。企業の利益を追求するために存在するのである。企業にとって、労働者は企業の利益のために存在する。それは資本主義を標榜するからには当然のことであり、現在の資本主義社会は結果として成立しているに過ぎない。現在の日本の雇用と賃金がどうなったか、日本の電機産業を見れば判ることだ。つまり自動車産業もいずれそうなることが確定したと言っていいだろう。

80年代、少なくとも日本の政治家は、労働組合を潰すことに成功した。そしてそれ以降日本は賃金が低下し続けているが、日本の企業の内部留保、そして配当は増え続けているということであり、その原因が「生産性」の問題ではないことは明らかである。
そして組織の論理が社会の隅々まで行き渡った結果、単純な論理的思考力を捨てること、組織の論理に徹すること、組織の論理に選ばれた人間が社会を動かしていること、そうではない人間は社会の運営に参加できないこと、このことを大多数の人々が当然のこととして受け入れているのである。
そのような社会にあって、人々の意識を変えることによって社会を変えようなどという期待は全く無意味であり、歴史上もあり得ない。それが社会の法則であることはこの30年間を見るだけでも充分判る通りだ。
社会が変わるには、ひたすら落ちるところまで落ちるか、物理的に破壊される、つまり戦争か疫病しかないのだが、基本的には今後はそのようなことは起こらないハズだと考えるのがフツーだろう。つまり戦後のような時代は、日本人にはもはや半永久的に訪れることはない。

クルマの一つの時代が終わるとき、ようやくトヨタというメーカーの重要性を認識することができたように思う。
今ならまだ、トヨタが動けば日本が動く、そういう力、そして責任を持った企業だと思うことはできるという部分は確かにある。
ホンダが日本を捨てようとしているのも企業の選択肢としては正解だと思うが、トヨタの姿勢は、企業としては(少なくとも現時点では、あるいは少なくとも対外的には)、とりあえずは評価に値するだろう。

クルマの一つの時代が花開くとき、確かにホンダのようなメーカーは魅力的だった。
その花が枯れるのを見るのは寂しいものでしかないし、どうせなら美しいまま儚く散ったほうがいいとすら思わないでもない(というより手の届かない高嶺の花となり、自分は捨てられたという現実を認めることが哀れなおっさんには難しいというだけだ)。
F1のドライバーズチャンピオン獲得は、ネットや新聞等では一定のニュースになったようだが、テレビではほとんど取り上げられなかったようだ。
来年発売される新型ステップワゴンでは、現行型最大のウリだったワクワクゲートはどうやら廃止され、そして廃版となったオデッセイユーザーもカバーするため高級路線、相当強気の価格設定になるだろう。
おそらくは今、ホンダにとっていよいよ日本市場に別れを告げる時が来たのである。
日本のユーザーもまたホンダとは距離ができてしまったのだから、これはお互いのためなのだ。
あとのことはトヨタに任せて、自由に羽ばたくことこそがホンダらしさだと言っても何ら問題ないだろう。
我々が求めているのは、かつてのホンダのようなメーカーがクルマ界に現れることであって、ホンダがかつての姿に戻ることなどないことは判っている。
今、元ホンダ好きのおっさんの心に浮ぶ言葉はまさに「ありがとう」、そして「さようなら」である。
Posted at 2021/12/28 06:37:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2021年11月30日 イイね!

無免許都議と日大理事長と沢村賞と業界の論理についての感想と妄想

学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

無免許期間中に何度も運転した上事故を起こしそのまま逃げたとされる東京都議が、さんざん雲隠れしたうえようやく辞任を表明したというニュースの感想。

辞任会見ではこの期に及んで自分が被害者であるかのような主張するなど、常識からは信じ難い、まさに「盗人猛々しい」という言葉のとおりだが、これこそが世の中の真理なのだということを改めて思い知る良い機会だったように思う。
辞任を求める都議会の対応について、彼女の弁護士が「いじめだ」などと発言したことも常識的には到底理解不能なのだが、考えてみれば弁護士などというものはどんなに証拠が明らかであっても無罪を主張するのが仕事なのだから、ある意味当然のことなのだろう。つまり常識などという怪しげな基準で自らを縛ることこそが愚かであり、政治家や弁護士などの有能な人間ともなればそれを当然のこととして理解しているのである。彼らのような人間にとっては大衆が考える常識などというものには何の意味もなく、それ以上に遥かに重要なモノ、即ち自らの立場、利益を守るということを最優先させることができるのだ。
この弁護士のように、教育現場における「いじめ」についてもたいてい同じようなことになるのは、関係者なら誰もが嫌と言うほど知っていることだろう。つまり加害者側が「被害者側にこそ問題がある」あるいは「むしろ自分は被害者である」と強硬に主張することで、周囲もいつしか加害者を中心に回り始めるのだ。このような社会にあって、例えば「子どもたちをいじめから守る」などという発想自体が間違いであり、相手には常識が通じないのだからどんな力を使ってでも自ら闘う外ない、そうでなければ最初から闘う意味がないということを、子どもたちには教えるべきだろう。

彼女は都議として選挙で選ばれているのだから、言うまでもなく必ず投票した者、つまり支持者が相当数いることになる。犯罪議員などいくらでもいるし、非常識といえば維新の会の丸山穂高など例を上げればキリがないが、これは結局当選さえすればいいという選挙という仕組みの根本的問題であり、議員側にも大衆側にもこの問題を解決することなど不可能であって、同じことが永遠に繰り返されるのは間違いない。
政治というのは、平和な現代においては単純に一つの業界であり職業であるとも言えるが、そもそも最も古い社会の仕組みであり、権力であり、生存競争であり、突き詰めれば生きるか死ぬか、活かすか殺すかの世界である。彼女と我々の違いは、そのことを分かっている人間とそうでない人間の違いだと言ってもいいだろう。言うまでもなく何も分かっていない、ボーッと生きてるのは我々の方である。
そしてもっと言えばこのような政治の世界には必ず「バック」がいるのは間違いない。今回の一連の行動の全てをこの都議が一人で行ったということはまず考えられないハズだが、このようなことはマスコミは絶対に触れることはない。つまりそこに存在するのは言うなればアンタッチャブルである。都知事が体調不良を理由に休んでいたこともとても無関係とは思えず、政治家が入院したと聞いてその理由を真に受けるほうがよほど愚かだろう。もっと言えば、重病説を「陰謀論」としてマスコミが流すこと自体が陰謀だというのはちょっとハナシがトビすぎているかもしれないのでこの辺で止めておこうと思ったのだが、そういえばつい最近、日大の理事長が事情聴取される直前入院したということもあったし、やはり権力者の入院はそういうものだと考えるのが当然だろう。

ちなみに逮捕された日大理事長は、絶大な力を持つ相撲部や例の「悪質タックル」問題のアメフト部などで最も中心にいた人物だそうだが、その問題で辞職したコーチも予想通りいつの間にか復帰していたということだし、やはり体育会系というのは強力な政治力の原動力、「力」が全てを支配する世界であって、努力と根性と汗と涙という美談の虚飾にまみれた世界なのだということを、今回のニュースで改めて認識させられたというところである。
タックル問題で当事者となった選手もその周りの選手も、事件後の彼らの願いはこれまでの支配との決別よりむしろ全てが元に戻ること、元のようにプレーし、元のように自らの力を誇ることだったようにも思える(もちろん自分が目にするものは所詮マスコミが作り上げた、それが美談だと認識される前提で作られた情報でしかない)。やはり有名大学の体育会系は大企業にとっては魅力的な人材なのだそうで、そのような人材を育成してきたのが彼らであり、日本の大学なのである。

また最近、中国のプロテニス選手が政権幹部との男女関係を公表した後行方不明になったというニュースもあり、冬季北京オリンピック直前だけにIOCをも巻き込んだ大騒ぎとなっているが、これも大方政権内部の権力闘争と見られているようだ。そしてIOCの明らかに中国政府寄りの対応や会長のパフォーマンスはやはり批判の的となっているが、これについてはこの夏散々見慣れた光景であり多くの日本人は特に驚かないだろう。
もちろんかの選手が相手の政権幹部、まして政府と比べた場合弱い立場にあることは言うまでもない。が、他の大部分の国民に比べれば、遥かに強い力を持っていると言ってもいいだろう。そのような力を持つが故にこのような事件に巻き込まれたということにはなり、テニスプレーヤーがテニスだけをやっていればこのようなことにならなかったのかもしれないが、スポーツの力を利用しようとするこれまた強力な力に抗うこともまた難しいことなのは社会の力学上当然であり、力と力が手を結ぶのは極々自然なことである。
東京オリンピックでももはや数え切れないほどのアーティストがその栄誉と利益に群がり、結果「不祥事」によって辞任に追い込まれたことを考えれば、オリンピックに関わりさえしなければということにはなるのかもしれないが、それは土台ムリなのだろう(個人的には最近「ジュモクさん」の降板が確定したことをただただ残念に思っている)。
とにかく、スポーツ選手は清々しいなどというのは勝手なイメージであり間違いである。日大理事長もIOCもそれを利用しているのであって、そして大衆は自ら好き好んで利用されているのである。故にたとえ真実が明るみになったとしても、大衆が自ら利用されることをやめることはまずないし、利用する側はそのことを充分判っている。
つい最近、一時期一世をを風靡した悪徳占い師が死んだというニュースもあったが、彼女は徹底的にマスコミを利用し、マスコミもまた彼女を利用したし、彼女との親密さが有名だった破天荒がウリの元横綱は、母国モンゴルでやはり政治家になった。

良いことも悪いことも、真実は当事者にしか判らない。
実績や功績などもまたそんなものだ。
世の中における「評価」などというものは所詮どうにでもなるのである。

最近「沢村賞」の該当者がいないというハナシをネットで見た。
選考委員の一人は村田兆治だそうだが、彼がそう言うなら確かにそのとおりだと思う。
ただダルビッシュが言うように、時代が違うというのもまたそのとおりだろう。
ただ「賞」などというのは所詮「与える側」の問題である。
数字というものは誰が見ても同じだし、例えば投球回数なども基準を設けることはいくらでもできる。かと言って全てを数字で判断することもできないし、世の中にはそもそもそうではないものはいくらでもある。だからこそこのような賞があるということにもなるだろう。

ハッキリ言って沢村賞もベストジーニスト賞も大した違いはない。
誰が誰に与えるのか、もらって何が嬉しいのか、所詮当事者の問題である。
「〇〇映画祭〇〇賞」も全く同じであり、所詮は業界のプロモーション、宣伝、お祭りでしかないのだ。
専門家と呼ばれる人々とて、まずは商売であり自らの利益のためにやっていることは誰にも否定できないだろう。
賞が有名になり権威となればそれ自体がビジネスとなるのも社会の法則であり、選考委員は強い力を持つことになる。ハリウッドでは、有名な映画賞の選考委員の傍若無人振りが明らかとなり、それに怒った多くの有名俳優が賞を辞退したり返還したというニュースもあったが、逆に言えば賞を得るために要求に従ってきた者も大勢いるのだろう。
つい最近、メジャーリーグで大活躍した大谷翔平が国民栄誉賞を辞退したというニュースもあったが、それもまた国民栄誉賞を与えると政府の支持率が上がるという、ベストジーニスト賞と同じ理屈、支配者側の勝手な都合である。
古くは太宰治が、選考委員である川端康成に手紙で芥川賞を懇願したというハナシもあるし、毎年お上が下々を褒めてつかわす「なんとか褒章」なども、実態は業界任せ、順番待ち、だいたいもらう人が決まっているということも、この歳になると多少分かってくる。そう考えると、賞を欲しがること、もらって喜ぶこと、そんなこと自体あまり褒められたものではないとしか思えないのだが、それでもそこに何らかの意味があるとすればそれは結局「利益」のハナシでしかないのである。

もちろん全てが業界にコントロールされているかといえばそうではないようだ。
逆に大衆側から「これじゃない感」という形でレコード大賞が話題になっているそうだが、数字で全てが判断できるのであれば日本で最高の音楽は「およげ!たいやきくん」だし、時代が違うというのであれば最近ならジャニーズとか〇〇坂4〇とかその類になるだろう。そういう意味では日本で最高の酒はアサヒスーパードライか何か発泡酒になるのだろうし、そしてクルマで言えば間違いなくトヨタカローラになる。クルマ好きが評価するクルマは売れないというのはクルマ好きにとっては常識だ。
つまり大衆による評価、売れること、人気があること、ブームになることが真の評価になるかというとそれも違うだろう(だからこそカーオブザイヤーやその他似たような賞がいくつもあるとも言えなくもない)。

今年「イカゲーム」というドラマがネット配信で世界中で物凄い人気となっているそうだ(断っておくが自分は見ていない)が、10年後作品として評価されているかどうかは誰にも判らないだろう。ただ誰かがこれで莫大な利益を得ていることだけは確かであり、その誰かとは当然業界の上流工程であることもまた間違いないだろう。
最近の日本でこれほどの大ブームと言えば例の「鬼」マンガだと思われるが、どれほど大人気マンガといえど「作者」が全て書いているワケではないということはマンガ好きなら大抵知っているだろう。昔から言われていることだが、大手マンガ雑誌などでの連載ではストーリー展開などは大抵編集者の指示なのだそうだ(もちろん対外的には「指示」などという言葉は使わないだろうが)。
「ゴルゴ13」の作者が死んで話題になったとき、作者は「目」しか書いてないというのをネットで見てさすがにちょっと驚いたが、ケースバイケースとはいえ分業化はそもそも当然なのだ。

同じように、ロックバンドが全て自分たちで音楽を作っているなどということもまずない。当然これもケースバイケースということだが、有名になればなるほどアーティスト本人の手から遠ざかっていくのは一つのパターンのようである。極端に言えば、CDや配信で曲を聞いたところでそれを誰が作ったのかなど誰にも判らないのだ(ただ音楽の場合、ライブというものがある限りアーティスト自身のパフォーマンスにある程度直接触れることができるという部分はある)。
「業界」というものは大抵同じような構造であり、作者、アーティストがいて、その上に編集者、プロデューサーがいて、その上に出版社、レコード会社があって、結局それら「商人」が全てを支配しているのである。日本でその頂点にあるのが電通であり、東京オリンピックをも強行し、日本経済をも動かしている、それが社会の真の姿である。電通社員が傍若無人なのは有名な話(ほんのちょっとだが実際経験した)だが、まあ当然だろう。彼らはそれらの「作品」そのものとは全く関わりのないところにいて、それでいてその利益の大半を得ているのである。そう考えると件の辞任した渋谷系アーティストなんかも、問題の記事が出た当時は所詮業界の商品に過ぎなかったのだから、30年後ようやくいくらか上流側になったところでそこまで責められるのは酷だったのかも知れないとも思わないでもない(どのみち崇高な理念を掲げるイベントに相応しくないことは間違いないが、そもそもオリンピックも音楽業界も所詮は似たようなものだ)。

ゴッホも小林一茶も、生前は全く作品が売れなかったそうだ。
本来生前も死後もその作品の価値自体は変わるハズもないのだが、実際にそれらを評価することになるのは主に画商、商人だろう。もしかしたら敢えて作者の死後、画商達によってそのような評価を作り上げるということも可能だったのかも知れないとも考えられなくもないと思う。結局作品をカネに換算することは、画商か鑑定家を名乗る者、即ち「業界」にしかできないことだと言って間違いない。所詮、芸術も文学も音楽もドラマも映画もスポーツもクルマも全て同じであり、評価、そしてその価値などというものは経済の論理でのみ決まるのである。

いわゆる作品と呼ばれるもの全てにおいて、本当の評価というものは、自分自身の中にしかない。
そしてそれはほぼ偶発的な「出会い」と、最終的な「好き嫌い」の問題である。
世の中には、例えばYoutubeなんかには、他人が全く評価していなくても信じられないくらい素晴らしいと思えるものはいくらでもある。その最大の意義は「誰でも」発信することができるということであり、これまで必ず業界というフィルターを通ってしか届かなかった多くの「価値」が、直接人から人へと届くことが可能となったということだろう。テレビに出ているモノだけでなく、素晴らしい音楽や演奏は今まで見えなかったところにもいくらでもあるということが明らかとなったのである。これも結局「出会い」と「好き嫌い」が人にとっての「価値」の全てであるということにも繋がるようにも思う。もちろんそこには「いいね」や「再生回数」などという既存の価値観による評価も存在はするのだが、所詮それだけのことである。
そう考えるとネットとはこれまでとは違う全く新しい世界、新しい時代の到来だとも言えるし、そしてそれを可能にしたのは偏に「技術」であるとも言えるのだが、それに最も貢献したのは結局その技術を用いて徹底的に儲ける仕組みを考えたYoutubeであり、結局業界に代わって強大な力を得た新たな「支配者」ということになるのかも知れない。

散々「賞」批判をしたが最後にでどうでもいいハナシを一つ。
自分的に恒例になりつつある今年の流行語大賞についてだが、色んな意味でどこでも使える今年最強のパワーワード、「別の地平」で間違いないだろう。
Posted at 2021/12/01 06:11:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2021年10月31日 イイね!

新型コロナと社会についての感想と妄想(その7)

学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

10月に入りいきなり感染者数が激減しているということなので感想。
素人考えではワクチン接種が進んだことが要因に思えるが、ここまで急激な減少は説明がつかないということである。
確かワクチン接種が始まる前は、感染を終息させるには接種率80%でも足りないというハナシだったと記憶しているが、実際10月中旬時点で7割超えというレベルだ。
ワクチンそのものは軽症化が目的であり、医療負荷の軽減にはなっても感染拡大には効果はなくむしろ促進する恐れすらあるし、事実イギリスでは感染が拡大している。
にも関わらず日本で感染が激減しているのはやはり行動制限しか考えられないのだろうが、それでもやはり減少速度が遥かに急激である理由は謎なのだそうだ。
確かに欧米や他の東南アジア諸国に比べグダグダな対応しかしておらず、それは当初の「クルーズ船」から現在まで一貫して変わっていないし、時差出勤もリモートワークも、すっかり定着したごく一部の人間と初めから気にもしていない大多数の人間という形に落ち着いている。ましてオリンピックまで開催したのだから、ワクチン以外に改善要因など一つもないハズである。
しかし実際感染者は激減し、欧米と比べれば死亡者数もそこまで大きくならなかったことは紛れもない事実であり、それは「ファクターX」としか言いようがないというこになるのだが、2年近くが経過した今もやはりそれが「ファクターX」のままという、何とも言えない状況である。

日本で被害が少ない理由として当初から言われていたものとして、欧米諸国に比べ同調圧力が強く政府が実施する「対策」に従順だからというのがあったが、欧米はその分強制力を発動しているのだから一概には言えないだろう(欧米の実態など知るハズもないが)。
日本においてはリモートワークも時差出勤も政府や自治体が掲げる目標には程遠く、ましてその中身自体ただのやってるフリである。実績としてどれだけの数字が出ているかは知らないが実態はその半分程度だろうと思われ、それでも政府や企業の責任者は皆それで充分満足しているのであり、そもそも実態などどうでもいいのである。
ソーシャルディスタンスについても、やっていること自体は理論的に間違いないのだろうが実際の中身については統一感もなくこれも所詮やってる感であり、それも最初から現在に至るまでほぼ変わりはない。
そう考えると、行動制限にも甚だ疑問が残るというのが当然の見方だろうとは思うのだが、こと最近の欧米の感染拡大は規制の緩和によるものであることはまず明らかであり、そう考えると行動制限が大きな要素であること自体は否定もできない。
またもう一つ日本人が他国に比べ清潔好きであるということも言われていたが、このこと自体はおそらく間違いないもののもっと感染者が少ない国は他にいくらでもあり、正直東南アジア諸国やオーストラリアが日本以上に潔癖であるとは全く思わない。つまり、日本人のまじめさや清潔さといった性質に起因するなどというハナシは100%ウソであることは間違いないだろう。

だとすれば、これまでの予想が間違っていたと考えるのが理論的だろう。
ウイルスの感染力が弱かったか、ワクチンに感染防止効果が意外にあったか、若しくはウイルスが自然に減るということもあるかも知れないとも言われている。
欧米で感染が拡大しているということもあるし、台湾や韓国でも一時的に感染が拡大したこともあるが、インドでは感染が激減していると言うし、これも結局よく判らない。が、いずれにせよ日本の専門機関と政府の予想は全く当てにならないこと、そのうえでその対策などすべて非論理的で、そもそも根拠が間違っているということだけははっきりしたと言えるだろう。
科学的なシミュレーションと言えどそもそも問題はそのパラメータ自体であることは言うまでもないハズなのだが、「八割おじさん」なる人物が象徴するように、著名な科学者とされる人物の言うことですらその根拠など全く信用できないということが明らかとなっただけというのが、今回の危機における日本の「科学力」の実情なのである。
そんな中発表されたノーベル賞を「元」日本人が受賞したことで喜んでいる日本人は、まさにおめでたいとしか言いようがない。

今後行動制限は緩和されるので感染は拡大するだろうと思う。ただワクチンによって重症患者が減ったのであれば、医療の逼迫は起こらないハズだ。
この間に医療体制を柔軟にしたり強化したりということはほとんどなかったが、そのまま自分の懐を一切傷めずうまくやり過ごすことができたというのは、医療業界(医療従事者ではない)にとってはまさに「神風」だったと言えるだろう。
マスクについては供給が安定して以降あまり問題にはならなくなったが、布マスクはダメだとか、ウレタンマスクはダメだとか、そういうハナシは結局誰も明確にすることなく忘れ去られていくのである。つい最近未だにアベノマスクが大量に保管されているということもニュースになったが、何かあればまたこれを配るからいいのだという理屈には全く閉口するより外ない。言うまでもなく全ては支配者側の都合であり、そして大衆の感覚なのである。
ただやはりウイルスはすぐに変化するものである。だとすればまたいつか同じことの繰り返しになるだろう。経済は通常に戻りつつあるようだが、ただ「通常」に戻ることを大半の日本人は望んでいるのであり、日本人に「ニューノーマル」はほど遠いと言っていいだろう。
つい2ヶ月前まで、これだけ医療が充実しているハズの社会で入院もできずに死んでいく人間が大勢いたというのは事実だが、そんなことももはやなかったことになっているようだ。
何年経ってもやることは全く進歩しておらず、結局全ての結果を感覚で観ることしかできないのが日本人であり、おそらく「ファクターX」についても、1000年前から続く「神風」と同じレベルにしか認識できない民族なのだろう。

最初の頃にも書いたが、疫病はそもそも存在する社会の問題を殊更強く炙り出しているに過ぎない。
そして予想通り、根拠も理論もあいまい、なんとなくボヤかしておいて都合が悪いことは極力無視、全てが力関係で進んでいくという日本社会の法則を明確にしたのである。
対策をしているからOKなのであれば最初からそうあるべきであり、そもそもそういう指摘があったことなどは最初から完全に無視されていた。にも関わらずオリンピックではあっさりそれが覆り、パチンコやサーファー、登山まで槍玉に挙げていたマスコミも完全に掌を返した。
じゃあこれからはその考え方になるのかと言えば、オリンピックが終わればまた元のグダグダに戻っている状況である。F1日本グランプリはスルー、無視、時間切れ、理由の説明すらないという有様だ。これについてはトヨタの社長すらもコメントしているが、これも結局もはやホンダに「力」がないことの顕れであり、逆にもしこれがトヨタであれば開催された可能性は高いだろう。
また、マスクをしていないうえに密集状態で、更に酒類まで提供していた音楽フェスティバルがマスコミの槍玉に上がっていたのもつい2ヶ月前である。
個人的には確かにこの音楽イベント対しては悪いイメージしかないし、飲酒、マスク、密という誰にでも判る問題点があったことは事実だが、そのような問題が発生するのはそもそも基準があいまいな上に朝令暮改で、ましてそれが徹底されるわけでもなく都道府県が責任を負わされ、当局の判断も関係者の力関係で決まるという、社会構造そのものに原因があるのだ。
まして、そのイベントにおけるクラスターは40数名程度だったそうだが、ほぼ同時期に行われた高校生のアイスホッケー大会で100名以上のクラスターとなったことは、マスコミは完全にスルーしていた。このことをどう認識するのかなどということは、大多数の日本人は忘れる以前に考えたこともないだろう。事実を認識しないのだから、今後にそれらが生かされ、論理的な判断が行われるなどということは一切ない。
高校生のスポーツ大会は美しく、飲酒のうえの音楽イベントは汚らわしいという大衆の貧困な発想やステレオタイプな「イメージ」、そしてその「イメージ」を都合よく利用するものだけが利益を得るというのが、この社会の法則なのである。

それでも疫病は、必ずいつかは終息する。
それまでの間、大仏でも建てて、花火大会でもやって、ブルーインパルスでも飛ばしてさえしていれば、大衆はそれで満足するだろう。それが日本の支配者の仕事であり、疫病が終わった時それは自分の業績だと言い張るのである。

ただこの世の中、「業績」「功績」などというものは所詮そんなものだ。
名将と呼ばれた野村克也が監督を務めた3年間阪神は最下位だったが、その2年後に優勝した。選手としては極フツーだった栗山英樹は初めて監督を務めたシーズンで優勝したが、10年のうち最後の3年間は5位だった。球界の頭脳と呼ばれた古田敦也のたった2年の選手兼監督時代は、かなり苦しいものだったようだ。そして宇宙人と呼ばれた新庄剛志の監督就任は、下位からのスタートだけに確率だけなら評価される可能性が高いが、そんなことは球団にとっても本人にとってもどうでもいいだろう。
BARHondaが撤退に伴い全てをタダ同然で譲り渡したブラウンGPが開幕からいきなり勝ちまくったということもあったが、このときはむしろHondaが捨てたものを大事に拾ったロス・ブラウンに拍手喝采という感じだったと記憶している。そして今年、チャンピオンで有終の美を飾る可能性を残しながらも最後の日本グランプリが開催されることなくHondaがF1から消えることになるが、結果が出る頃に撤退するという前回と同じ状況を見るとは、なんとも皮肉なものである。

表面上見えることなど極々限られているのであり、誰が本当のことを言っているのかも当事者しか判らない。何らかの素晴らしい実績を残したとされる人間であっても、それがその人の人間性が素晴らしいからかどうかも全く判らない。所詮自分が勝手に思っていることがこの世の全てなのだ。
ただ、ネットが発達した現在少なくとも情報の量だけは格段に増えたし、誰にでも情報が得られるようになったし、自分の記憶や考え方が正しかったのかをある程度は検証できるようにもなった。
そう考えると、社会を変えることができるのは唯一、技術でしかないのである。
そうでなければ、日本の支配者は今頃また大仏を建てていることだろう(その当時は大仏こそが最先端技術だったということはあるかもしれないが)。

当の支配者達は、そんなこと重々承知のうえでその祭(政)に参加しているのである。
祭りと言えば、「踊る阿呆に観る阿呆」という言葉もあるように、権力者は権力者に、金持ちは金持ちになりたくてしょうがない人間、そしてその中でも幸運に選ばれたひと握りしかなれないのである。
どんなに正論を唱え権力を批判しようとも、実際にそちら側に行かなければ何にもならないし、その彼らにとってみても結局全てはゲームの結果であって、なるようにしかならないのだ。
Posted at 2021/11/01 06:21:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2021年09月30日 イイね!

日本のIT化についての感想と妄想(その4)

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。

みずほ銀行のシステム障害に対する業務改善命令において、金融庁がそのシステムを直接的に管理するという趣旨のニュースがあったので感想。

今回のニュースの最大のポイントである「システムを直接管理」するということについて、詳しい中身についてはよく判らないが実際「直接」管理するなどということはまずありえずその意味ではこれまでと同じことであるのは間違いないだろう。
金融庁が監督、指導を強化するという事自体考え方としては当然であり、従来と何ら変わりはなく、その中身としては単にあーしろこーしろ、あれはダメこれはダメ、あれもこれも報告しろということでしかない。
役所が考える「監督」「指導」の類はそもそもそれしかなく、実際これによって何かが変わるということでは全くない、あくまで形式上のモノであり、そのことに意味があるというか、それしか意味はない。
結果として現場は余計な事務と縛りが増えるだけ、組織は忖度が増えるだけで、現場は萎縮し、余計に隠蔽などが増えることもよくあるハナシだ。
ただここまで障害が続くと当然金融庁としても今まで何をやってたのかと言われる側の立場でもあり、もはやこの「直接管理」という形しかなかったということなのかもしれない。
フツーに考えればその分金融庁の責任は重くなり今度システム障害が発生すれば矢面に立たされることになる、正に火中の栗を拾うというハナシなのだが、実際何らかの形で責任を取らされることもなければ、そもそも責任を取るつもりなど全くないというのが今の政府、行政、組織のスタンダードであり何ら支障はないだろう。
実際にシステムが正常化するなどとは金融庁側もみずほ銀行側もその他の誰も思っていないし、そもそもどうなろうと関係ない、つまり全ては「やってる感」である。
みずほ銀行にとってこのシステム障害が問題となるのは、信用の低下による顧客の流出という一点でありその点において顧客にアピールするにはこの形以外ないだろう。つまり金融庁がみずほ銀行のためにやっているのは言うまでもなく、みずほ銀行側から申し出たことかもしれない。それが行政と業界の関係であり省庁のビジネスモデルである。

もう一つ、「システムを直接管理」となれば、金融業界だけでなくIT業界をも「直接管理」することになるとも言える。
件のシステムは日本の最大大手4社が手がけているということだが、これらの大手ベンダーに対しても金融庁が自らの影響力を「直接」行使しようとしているということになるだろう。そう考えるといま何かと話題の「デジタル庁」に自らの縄張りを荒らされないよう、事前に各省庁が動きを強めているということなのかもしれないとも思わないでもない。
少なくともIT敗戦後のこの20年、役所が口を出してうまくいったことなど一つもないし、今後もそうなのは間違いないだろうが、当の役人達自身にとっては立派な行動原理であり、ビジネスモデルである。今回の障害に対するみずほ銀行側の報告が「原因不明」ということもあり、だからこそ金融庁がそこに切り込んで原因を究明するのだという理屈も成立はするが、実際にそのようなことができるハズもなくあくまで大義名分、体のいい口実に過ぎない。

今回の障害の原因は不明ということなので、おそらく同じようなシステム障害は起こり続けるだろう。
本当に不明かどうかも判らないが、みずほ銀行が、というかシステムベンダー4社が不明と言えば、他の誰も原因を究明することはできない。
実際問題このシステム障害がこれだけニュースになったとして、それが彼らにとってダメージとなるかと言えば、そういうことでもない。
大手ベンダーですら、というか大手であれば尚更、実際の業務は無数の下請が行っているということであり、ベンダー本社に中身を分かっている人間などいないというハナシもある。
ただシステム障害自体はたとえ世界の巨大ベンダーであっても避けることはできないものであり、要は程度問題である。
世界的に見てこのシステム障害がどの程度の水準なのかは正直全くわからないが、もしかしたら殊更騒ぐほどのものでもないのかも知れない。
みずほ銀行にとっても、顧客が流出したとして経営全体における一定の範囲内であれば特段問題はなく、今の所一般の顧客もわざわざ別な銀行に乗り換えるほど大きな問題として認識している者は実際そこまで多くはなさそうである。というかみずほ銀行のシステム障害はもはや誰もが知るほど有名であり、最初の発生から既に10年近く立っているのだから、これが致命的問題であるのならとっくにそうなっているハズだ。つまりみずほ銀行としてはこの程度のシステム障害は現実的にほとんど問題ではないのである(今回の障害はATM関係ということだが、今後はATMがどんどんなくなっていくとハナシもあり、実際既に影響がそれほど大きくないという判断もあるのかもしれない)。
そもそも巨額の費用を投じて新しいシステムを作ったばかりで、もう一度一から作り直すなどということは誰も考えないだろう。
どのみちいつかはシステム自体が完全に古くなり新しいものに置き換える時が来るし、もはやみずほ銀行自体がなくなるのとどちらが早いかという問題である(とはいえ銀行本体がなくなったのにシステムだけ生き残った結果がこの問題の原因だったのだが)。

これは日本の組織、あるいは日本人そのものを象徴するかのようである。
不具合を抱えたまま巨大化したためもはや修正することはできない。
不具合を修正しなくても当面はそれほど実害はない。
実害が大きくなって初めて本気で原因を調べたところで、本当に判らない。
原因が判らないので対応できず、時代、環境によって淘汰される。
淘汰とは生物の進化と人類の歴史そのものであり、絶滅と生き残りの結果でしかない。
我々日本人は、日本の組織は、もはやその時が来るのを待つだけなのである。

組織を動かす立場の人間にとって、組織がどうなろうと大した問題ではない。
大半の者は既に相当の利益を得ているし、危険を察知すれば逃げ出すこともできる。
よほどのことがなければ責任問題になることもないし、その対策も随分進んだ。
もう随分順番待ちの長い列に並んできたのだから、何とか順番どおり上がりを目指す以外考えられない、正に「ババ抜き」のようなものだ。
そもそも組織とはそういうものであり、いいも悪いもない。
そして全てが組織の論理に収斂した今の日本社会そのものなのだ。
少数の有能な人間はそのことをとっくに理解している。
大多数の愚かな大衆はそのことを今からでも理解するだけでいい。
自らの利益を求めゲームに参加するか、そもそも無駄なゲームに参加しないか、どちらか選べばいいだけである。
Posted at 2021/10/03 07:05:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ

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