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2019年02月03日 イイね!

新型スープラの情報をネットで見た感想と妄想

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
おっさん世代にとって大注目の新型スープラの詳細が発表となったので感想。

旧型は、いわゆる70、80とも直線番長的なイメージのヘビースポーツで最大の魅力はやはりその迫力ある外見だった。70は「いかにも」なワイドアンドローの直線的なデザインで、ちょっとわざとらしいとすら思っていたが実物はそれなりに存在感があったし、80は一転曲線的なデザインで驚かされたが、国内レースのイメージ効果もありスポーツモデルとしての進化を感じさせた。FFライトウェイトや4WDターボが更に進化する中FRというのは一つの特徴でもあり、NAの「SZ-R」などは希少性もあってクルマ好きにもカッコいいと思われていた。ただ走りのモデルとしては、有名なマンガに登場することもなく同じFRでもRX-7やシルビア、スカイラインほど多くの「支持者」を集めることはできなかった。そのせいかあっさり廃版となり、80年代と90年代、つまり完全に現おっさん世代限定モデルとなってしまったのである。

新型はBMWとの共同開発だそうで、パッと見オシャレな感じで最初はやはりZ4(というかそういうイメージ)にしか見えなかった(「オシャレ」と言ったのは、単純にカッコいいと思ったワケではないということでもある)。
が、フロントはかつての面影は全くないもののワイド感のあるデザインではあり、リアはよくよく見ると80の面影もあり、タイヤサイズなどのスペック、大排気量ターボというエンジン、80とほぼ同じグレード名と、旧型を意識させる部分が明らかになるにつれだんだんスープラに見えてくる(ような気がする)から不思議である。この辺りはどこからどう見てもかつてのイメージとは全く違うクルマになったシビックタイプRとは対照的だ。
兄弟車となるBMWとは最終的な方向性は違うクルマとなったそうで、勝手な想像だがZ4はもう少し軽やかなオープンスポーツをイメージするのに対し、スープラはかつての重量級なイメージに近づけたということになるのかも知れない。
内装に関してはBMWとは若干差別化しているようで、シンプルかつエレガント、かつ日本車的(?)でおっさん的にはなかなかいいと思う。
ただオープンカーベースのクーペに特徴的なシルエットで、かつてのスープラのイメージからすると全体のバランスがイマイチに見えるのはちょっと残念ではある。

が、おっさん世代にとって今回の最大のポイントは、なぜBMWとの「共同開発」で、なぜ今「スープラ」なのかということであり、クルマそのものはもはやどうでもいいのである。

そもそも共同開発とは一体どういうことなのだろうか。
一口に共同開発と言ってもその個別の内容についてホントのところなど判るハズもない。が、少なくともトヨタとBMW双方にとって利益があるということだけは間違いない。
こういう場合ありがちなハナシとしては「お互い得意な分野、技術を融合する」「相手の組織の優れた部分を吸収する」ということになりそうだが、よほど発展途上の分野でもない限り、完全な競合他社との共同開発などまずあり得ない。まして今回は極々オーソドックスな高級スポーツカーである。仮に技術的な理由がメインだとすれば、当然BMWのエンジンや走行性能がトヨタより優れている部分ということになるだろうが、BMWにとってこのクルマのためにトヨタのどのような技術が必要だったのかということになる。
当然、世の中そんな美談で動くはずもなく、本当に重要な技術を競合他社に与えるハズがない。ということはやはりその理由は経済的メリットにあるということは明らかである。つまり、トヨタがBMWにスポーツカーの開発を外注した、ということ以外に考えられないだろう。つまり、スポーツカーを売りたい、だけど作りたくはない(もしくは作れない)、だから外注する、ということなのである。
外注と言ってもイメージ戦略の意味合いが強いスポーツカーをOEMで販売することはさすがに過去にも例がなく、現時点ではまだ誰も受け入れられないだろう。ということは「共同開発」の意味は「少なくともOEMではない」ということ「だけ」だと言っても過言ではないかもしれない。
とは言え世界的業界再編の流れもあり、「技術提携」「資本提携」「アライアンス」など全く別のメーカー同士がグループとなる場合も多くなったため、基本的なコンポーネンツを共用することも珍しくなくなった今では、それほど特別なことでもないのかもしれない。ただ少なくとも共同開発という言葉からおっさんが勝手に想像していたような、BMWから吸収したスポーツカーのノウハウを今後の「トヨタ製」スポーツカーの開発に活かす、などということでは全くなさそうだ。にも関わらず「トヨタファンは待っていたハズだ」などとまるでトヨタが社運をかけて開発でもしたかのような社長のコメントや宣伝文句を見ると、どこか虚しい気がするのは私だけだろうか(実際「トヨタファン」は喜んでいるのかもしれないが)。同じくトヨタのスポーツカー「86」もスバルとの共同開発で、最近の情報では次期型はなさそうな感じであることを考えると、トヨタがスポーツカーを語れるハズもないのだが、そんなことはトヨタにとってもトヨタユーザーにとっても全くどうでもいいことではある。既存の商品で、残り僅かな時間で、いかに効率よくビジネスができるかが最大の目的であることは言うまでもなく、そう考えるとさすがはトヨタという気はする。
クルマ好きからすれば、じゃあわざわざBMWではなくトヨタからそのクルマを買う必要があるのかと言うことになるのだが、一定数の人々には「トヨタスープラだから」ということに正に意味があるのだろうし、逆にクルマとして見ればBMW製なのだからそれはむしろ本物のスポーツカーなのであり、BMWの車種が一つ増えたと考えれば充分魅力的な選択肢でもあるだろう。そう考えればこの「共同開発」は、メーカーとメーカーだけでなくユーザーにとっても充分メリットがあると言ってもいいのかもしれない。

ではなぜ今「スープラ」なのだろうか。

BMWとの共同開発ということは、おそらくかつての和製スポーツカー「スープラ」として開発されたワケでは全く無いだろう。言うまでもなく国内ではスポーツカーは売れないので、当然メーカーも作る必要性が薄れ、実際ほとんど消滅した。
そもそもスポーツカーは自動車メーカーの技術力をアピールするためのイメージリーダー、旗艦モデルとしての意味合いが強いハズであり、元々数が売れるものではなく存在することに意味があるということだったハズだが、それすら作るのをやめたということは既にその意味合いが消滅したということになるだろう。百年に一度の変革期と言われる中、このことは正にメーカーとしての今後のクルマづくりに対する考え方がハッキリ顕れていると言える。前述のとおり「86」も次はまずないだろう。つまり国内市場には、スープラどころかスポーツカーの存在意義はないのである。
じゃあ何のためのスープラなのかと言えば、理由は当然グローバル市場にあるということになる。
グローバル市場ではSUVと並んでハイパースポーツが正に全盛期である。将来的にスポーツカーは必要ないと判断したとは言え、未だ市場としては充分な力があるのだ。スープラはそこまでハイパーなモデルではないとは言え、世界のトヨタにスポーツカーがないというのはイメージ戦略としてさすがに考えられないだろう。となればたとえそれがBMW製の新しいスポーツカーであっても、とにかくそれが「トヨタの」スポーツカーであるというイメージ作りが必要なのだ。そのためにできることといえば、「共同開発」を謳うことと、名前を付けることぐらいのものである。過去のトヨタ車でこのクルマのイメージに近いものとなれば、スープラしかない、ということだろう。
もう一つ、今回スープラはどうやら「GR」ブランドメインで展開(推し?)ということのようだが、これも大きなポイントかもしれない。GRはトヨタのスポーツブランドとして最近新たに作られたものであり、おっさん的には新ブランドとする意味があまりピンと来ていなかったのだが、あくまでグローバル戦略なのである。よくよく考えれば当たり前なのだが、今回ようやくその意味が理解できた気がする。

というわけで、国内市場はあくまで「おまけ」であり、前述のとおり食いつくのは完全におっさん世代のみである。が、価格については当然プレミアム帯であり多くのおっさんたちからすれば反感すら覚えるというのが正直な感想だ(情けないハナシだが事実である)。とは言えおっさんたちの大半は、仮に250万円でもスープラは買わない(買えない)のだ。だからこそ、これくらいの価格でなければディーラーにとっても実際ユーザーとなる人々にとっても存在価値がないのだろう。だからこそのBMW製ということでもある。結局はシビックタイプR同様、かつてのスープラとしてみるユーザーはほとんどいないだろう。

旧型の時代は、団塊ジュニアが数的ボリュームゾーンとしてスープラなどの「日本のスポーツカー」(あえてこの表現をしている)を支えていた。独身男子であれば中古ならフツーに、新車でもなんとか買える価格だった。決してステータスや収入を誇示するためのものではなく、自己表現として「日本のスポーツカー」(あえてこの表現をしている)を選ぶことができる時代だったのである。それはまさに「カッコいい」とは何かという、音楽にも似た自己表現でもあり、言い換えれば「実現できる夢」でもあったのである。
たしかに今思えば、とてもスポーツカーとは呼べるものではなかったということは理解している。が、一つ前の世代が憧れた何百万、何千万(当時)もする海外製のスポーツカーではなく、実際に手に入れて走り倒すことができるそのようなクルマたちにこそ、本当に夢を持っていたというのは決して負け惜しみではない、というかむしろ自慢できることかもしれない。今思えばそんな時代こそフツーではない、特別な時代だったのだろう。そんな時代はもう二度と来るハズもなく、単なるおっさんの郷愁なのは判っている。その時代と比べられてしまう今の開発者たちは、もしかしたらあまり楽しくないのかも知れないとすら思わないでもない(たぶんそんなことはないだろうが)。
そう考えるとその時代のスポーツカーは、若者、独身者の特権だったのである。当然ファミリーには向いているとは言えないし、現実として家族の許可が下りないということは抗えない事実なのだ。翻って現在はというと若者の人口、経済力が明らかに低下したのだから、スポーツカーが消えるのは経済の論理からすれば当然であり、メーカーのせいではない。

個人的には、だからこそ「スポーツミニバン」がもっとあれば良かったのにと思うのだが、おそらく重さ、大きさ、タイヤ等技術的物理的に難しかったのだろう。最近になってようやく各社走りがウリのモデルを(別ブランドの「コンプリートカー」としてだが)出し始めたものの、時代的にも価格的にも少し手遅れだったような気がする。結果として見た目だけの「ヤンキーミニバン」が一時代を築くこととなったのである(まあそれはそれで商売上はむしろ成立しているのだろうが、そう考えるとここでもやはり、さすがはトヨタ、である)。

結局、スポーツカーだけでなく軽自動車やSUVなどクルマ全体を通して世の中を見てみると、格差社会が日本に完全に定着したといって間違いないようだ。
とはいえこれが元々の人間社会の姿なのだろう。
「一億総中流」と呼ばれた時代が正に泡沫の夢だったのである。
日本はこれから60年代の社会に逆戻りするのであり、今のうちにその頃の文化と生き方を学んでおいたほうがいいかもしれない。
そのときクルマは、庶民の夢に戻ることができるとすれば、それも幸せなのかもしれない。
Posted at 2019/02/03 22:40:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2019年01月05日 イイね!

平成の終わりと団塊ジュニア

学歴もなく経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
正月ということでネットやテレビばかり見ているおっさんだが、言うまでもなくそれらを全て真に受けているワケでは決してない。「みんカラ」も、ただそれらをネタにを古くからの友人と雑談しているような気持ちで言葉にしているだけである(もちろんこんな言葉遣いで話すワケではない)。皆フツーにクルマが好きであり、試乗したクルマのレビューも自分が感じた全てを彼らにどう伝えるかを意識している。
というかそもそもみんカラはいわゆる「SNS」という、それこそ離れた友人とまるで会話のようなやり取りを可能にするためのモノなのだが、そこはやはりおっさんである。そのような「繋がり」は全く必要としていないし、実際そういった使い方は全くしていない。こうして文章にすることは自分の頭で考えることの良い練習にもなり、脳の老化防止にもなり、老後の生活の糧とするための日本語の練習にもなる(かもしれない)というだけのことである。

平成も今年で終わりということで、おっさんの世代はまさにこの時代と共に大人になってきたワケだが、一言で言えばバブル崩壊と失われた20年、まさにロスジェネという日本にとっても象徴的な時代だったと言えるだろう。
団塊ジュニアとしては、昭和というある意味絶対的な時代からバブルを経ていざ社会に出ようとした途端全てが悪くなる一方という少々哀れな世代となってしまったが、ミレニアルと呼ばれる一つ後の世代から「社畜」などと呼ばれるようになってしまったのは、一体なぜなのだろうか。

「戦後教育」を受け「受験戦争」をくぐり抜けてきた50代40代が行き着いた先がこのありさまなのだが、教育といえば最近よく耳にする「働き方改革」でも特に教職員、教育現場の疲弊が問題視されているようだ。が、そもそも自分たちの労働環境をどうすることもできず、教育を業務としてこなしてきただけの公畜(社畜の公務員版、本来の「公僕」とは違う意味合いで表現してみたつもりだが)に、理想の教育などできるハズもないだろう(そもそも理想の教育とは何かというのはまた大きな問題だが)。また「反戦平和」「自由平等」などという思想の中心的な存在であり、かつて一大勢力を誇った教職員の労働組合も、現在は全く見る影もない。これも結局労働組合とて所詮組織であり「組織の論理」によって崩壊するということの証明でもある。そもそも今頃になって政府主導で働き方改革が叫ばれるという時点で、労働組合もすでに終わっているとしか言いようがないのだ。
結局、戦後教育といえど組織の論理によって崩壊した旧日本軍や日本社会の反省が生かされることなど全く無かったと言えるだろう。本来であれば、組織の論理によって国家までもが崩壊するというのは自然の法則であり、それを避けるにはまずそれを認識し具体的な対策を講じるということが必要なハズだが、そのようなことは日本の教育はもとより政治、思想においても全く聞かれることはなかったように思う。教育現場に例えれば、「いじめをなくそう」「いじめはあってはならない」などという言葉だけを掲げ、何の結果を出すこともないまま何十年も同じ過ちを繰り返しているということに対して、誰一人指摘するどころかそもそも問題として認識すらされていないのである。いじめをなくすことはできない、だから起きた時の対策を講じる、そんな当たり前のことが全くできないのが日本人なのだ。
結局為政者の思い通りの教育がなされ、戦前と何ら変わりない集団主義の人間が大量に生産されてきたということは、現在の社会を見れば明らかだろう。戦後教育を受けてきた大多数の人間が今や立派な社畜(「会社」の社ではなく、「社会」の社かもしれない)となったのである。

「スクール☆ウォーズ」や「3年B組金八先生」は、自分たち団塊ジュニアの少し上の世代にあった「校内暴力」時代を描いたテレビドラマだが、数多くの我々小学生も当時そのテレビを漠然と見ていた(主に平日夕方の再放送だったが)。
世代が違うのでハッキリとは判らないが、この時代はいわゆる「受験戦争」のピークだったようであり校内暴力はその反動ということだったようである。そう考えるとまさに戦後教育、そして学校とは単なる学力による競争原理のシステムでしかなかったと言っていいだろう。「レッテルを貼る」という言葉を小学校の国語や道徳の授業などでも聞いた憶えがあるが、かたや学力だけで評価された人間、かたや学力だけで排除された人間という、格差、二極化、空洞化といった負の側面が健在化したということでもある。高度成長期の後バブルに向かう狭間であり、あまりに急激な発展というものはやはり社会の歪みを生み出すということのようだが、そもそもなぜ経済発展から受験戦争というものが生み出されたのだろうか。
それは当然その時代の大人、つまり「親」たちに原因があることは間違いない。社会が経済的に急激に発展する中、自分の子供がその社会で生きていくために必要なことは何かと考えた時、「いい大学」「いい会社」ということしか目に入らなかったということなのだ。大学、会社という「組織」に完全に依存することをのみを子供の人生の目的と考えたのである。もちろんそのほとんどは子供のためを思ってのことなのだろうが、結局それが正しかったのか、どのような問題を生み出すのかということまでは誰も判っていなかったのだろう。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というギャグが流行ったのもその頃らしい(記憶が定かではない)が、この超有名な流行語は全体主義的社会の風潮を揶揄したものであるのに対し、「非行を助長する」などとして批判するというまさに「陳腐」な「親」や「教育者」が大勢いたのも事実だったそうである。
結果としてこの世代の青少年たちの一部は「暴力」という形で「反抗」することとなったのだが、今思えばそれは人間としての自然な反応として顕れていたのであり、むしろ良かったと言ってもいいのかもしれない。おかげで如何に非論理的な日本人でも少しは反省し、考えを改めた親たちもいくらかはいたハズである。

確かに、自分より10歳ほど上、つまり現在の50代、「学力」「学歴」のみでその時代を通過してきた、そんな上司が大量にいる(ような気がする)が、逆に社会に対し明確な形で反抗してきた人々も数多くいるということにもなり、そのような人々が我々団塊ジュニア世代にある意味強い影響を与えてきたという部分も実はかなりあると思っている。というのもこの世代には現在の日本のロック界を支える人々が数多くおり、我々の世代にとってまさに兄のように影響を受けた存在となっているといっても間違いではないだろう。もちろんそれは80年代という日本経済の絶頂期とも若干重なり、所詮資本主義の一部としてのことだったというのも否定はできないが、彼らが過ごした学生時代だからこそ吸収できた、主に海外から届けられたその音楽文化と精神性を社会に発信し始めた結果、それを我々の世代が享受するという形となったようにも思える。
金八先生より少し後の時代の高校を描いたテレビドラマ「はいすくーる落書」が放送されたのが、まさに平成元年である。その主題歌が当時若者の間で強い共感を得ていたことを考えると、校内暴力時代を通過してきた世代が発信し始めた音楽と、反抗することの意味とは何かというメッセージによって、自分たちの世代は多少救われたのかもしれないとすら思う。ストーリーは全く覚えていないが、「はいすくーる落書」はそれなりに流行っていたハズであり周りの友達も結構皆見ていた。自分としては面白がって見つつもそこに描かれる荒廃した高校の様子を見て不安になったりもしたものだったが、いざ高校に入ってみると少なくとも自分が行った学校では恐れていたほど荒廃してはいなかった、というかむしろ全然フツーだった。もちろんそれなりに色々な人間がいてそれなりに色々なこともあったが、それはまさにその主題歌のとおりという感じだった。舞台となった架空の高校名が「〇〇実業」だったということで実業高校系の団体が「イメージが悪くなる」と抗議したという話を聞いた時も、大人たちの陳腐さを感じたのを記憶している。自分でいうのも何だが、少年達のほうが現実を判っていたしある意味よほど大人だったと言ってもいいだろう。少なくとも自分は校内暴力も受験戦争も実感してはいないし、高校進学は当たり前ではあったものの大学進学は個人の問題という感じだった(これについては地域性もかなりあるかもしれないが)。世代としても一つ前の世代とは明らかに違ったと思われるが、漠然とではあっても一歩引いてそのような時代を見ていたことが、無意識のうちに社会というものを認識することに繋がっていたと言ってもいいのかもしれない。
ただそのような客観的な認識を持つのはやはり一部の人間であり、日本の教育、社会の仕組みはほとんど変わることはなかったというのも、残念ながら事実である。弱い者たちが更に弱いものを叩く、それは永遠に続く人間性なのである。

昭和から平成に至るまで中学、高校を描いたテレビドラマやマンガは数限りなくあるが、それは青少年が社会に向かって成長していく中でそれらを必要としている、つまり「需要」があるからに外ならないだろう。内容的は主に部活動などスポーツや芸術を通じて人生に必要なものを学んでいくというモノもかなりの数に上るが、現在そのスポーツ界がこれまた大きな問題となっているのである。

スポーツ界の問題のまず一つ目は、選手(というよりむしろ「子供」「青少年」「未成年」)に対する「指導方法」と「指導者の資質」である。

競技活動だけに没頭することで外界から隔離し、ギリギリまで身体を酷使し、人格を否定するような暴言を浴びせる、まさに洗脳の三要素を絵に書いたような軍隊式指導法がようやく批判に晒されているというのも、戦後80年もの間何も変わっていなかったことの証明だが、そのような指導方法あるいは指導者を支持する人間が未だに大勢いるということもまた厳然たる事実だ。
一般的にチームスポーツは社会性を育むのに有用だと考えられており、もちろんそれは日本だけではないだろう。スポーツ界はまさに社会の縮図のようなものであり、そこで生きるための方法を学ぶことはその後の人生を生き抜くためのまさに社会勉強である。ただ同じ社会勉強でも、単に組織に服従する訓練をしているのが日本人であり、自分でどうするのかを学ぶのが例えばアメリカやドイツ、ということなのではないかと思う。そもそも目指すべき社会が全く違うということが、スポーツの指導方法にも顕れているということになるだろう。現実の社会や本当の自分とは何かを知らない子供達に特定の価値観を一方的に押し付けているという意味では、教育や指導というもの全てが洗脳だと言えなくもないが、だからこそ教育というものの本来の趣旨からすれば「自分で考える」こと、つまり「自主性」こそが最も重要なハズである。が、そのような話は日本のスポーツ指導者からはほとんど聞いたことがないし、いわゆる教育者ですら所詮ハナシだけで実際の現場ではほとんど見られないと言ってもいいだろう。日本人はとりわけ「自分で考える」ということが身についていないということは間違いない。自分で考えるということはそれがまさに「論理的」思考に繋がっていくのであり、「自分で考えない」ということはまさに「組織依存」「集団主義」、そして「自分で責任を負わない」という「責任転嫁」へと繋がっていくのである。例えば「エスカレーターの右側を開ける」などというあまりに愚かな発想が瞬く間に日本全国で「マナー」として定着するのは、ほとんどの日本人に自分で考える能力が欠如している証拠であると同時に、わずかな疑問を持つことすら避け、ましてそれを社会に問いかけること、闘うことなどありえないということの象徴的な現象である。このような性質は単に愚かであるだけでなくまさに「悪の陳腐さ」に通ずるものであり、恐怖すら覚えると言っても過言ではない。

一般的な競技団体(フツーのスポーツ教室など)においては、現実問題としてどんなに「凡庸」な指導者でもその組織においては「先生」であり、それ自体を批判するのもまた難しい問題ではある。が、理想を言うのであれば、だからこそ指導者は常に謙虚でなければならないのではないだろうか。また指導者も選手も、スポーツの本質とは何なのか、何のためにそれをやっているのかという哲学を必ずしも皆が持っているというワケではない。子供が一定の年齢になるととりあえず社会勉強として何かスポーツを、ということはよくあることでありそれ自体何ら問題はないとは思うが、親がそれを「続ける」ことにだけ意味を求め、子供は親の意志に従うことだけに意味を求めるということも、実際かなりあるようだ(「尾木ママ」のテレビで見ただけだが)。また進学や就職の際に少しでも有利になるようにという「利益」のためにその競技を行っているということも往々にしてあり、だからこそ指導者、組織、競技団体に「依存」してしまっているということもあるようだ。結局指導を受ける側、その多くが子供ということは実際のところその親が何の哲学も持っていないのだから、依存という形になるのも当然である。そのような選手(とその親たち)にとって判断基準となるのは「名門」「有名クラブ」「有名指導者」でしかなく、また競技団体や指導者側がその判断基準を満たそうとした時に必要なのは、その競技における「結果」や組織の「規模」でしかないというのも、どうしようもないことなのだろう。それが今の日本人にとってのスポーツ観、社会観、人生観なのである。

このような状況では数多くの「競技団体」においても社会の縮図としての現象が顕著なのは当然であり、これが今もう一つの問題となっているのである。情報化社会によって今までなら問題にならなかったことが表面化する中、それらの問題を自ら解決する能力などあるハズもなく、その組織における序列争い、勢力争いが一気に表面化するだけというのがお決まりのパターンである。これは全国規模の競技団体であればほぼ全てと言って間違いないし、また地方であっても例外ではない。
オリンピック候補すら輩出する、地方のとあるアマチュアスポーツチームで、選手である女子高校生に対し侮辱的発言を繰り返したとして指導者が解任されたところ、その指導者を支持する選手数名がチームを離脱するというニュースもあった。これもまた指導者の資質の問題でもあり、選手とチームの関係性の問題でもあり、そしてどんな組織もこのような勢力争いで崩壊するということの顕れでもある(もちろん個別には様々な事情があるハズでありそれについては当然知る由もなく当事者批判ではないので悪しからず)。
結局これらの問題こそが日本のスポーツ界の真の姿であり、マスコミが伝えるような美談は経済の論理で作り上げられた虚像でしかないのである。

とはいえ自分も実は意外にスポーツ好きではあり、そこには確かに何らかの「力」があると信じている。
が、それらはあくまで個人の中にあるのであり、組織の中にあるのでは決してない。
「悪質タックル」の日大生も、結果としてではあるが組織と決別することでようやくそれに気づくことができたのではないだろうか。多くの社会人がそれに気づくことすらできない中、大学生という若さでそれができたとすれば、まさにこれからが本当の「自分の」人生となるハズである。
いままで憶えた全部、デタラメだった、そう思えばいい。
答えはこころのずっと奥の方、必ず自分の中にある。
時代がどう変わろうと、自分を信じるしかないのだ。
Posted at 2019/01/05 23:45:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2018年12月27日 イイね!

日本の組織の不祥事に関するテレビ番組の感想

大企業に勤めているワケでもなく、経済も社会も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
ニッサンの問題で世の中盛り上がっているところに、20年前の山一證券事件を扱ったテレビ番組を見たので感想。当然これは「テレビ」であり別に番組の内容を全て真に受けているワケではないが、いかにもおっさんがハマる番組内容ではあった。

番組はいわば「実行犯」の幹部二人の証言を中心に、事件当時の組織の状況に焦点を当てるという形のドキュメンタリーだった。冒頭でいわゆる「主犯」格の歴代社長が「取材拒否」だったことに触れているのは、やはり彼らが主犯、悪の中枢であるというイメージを強調することで、実行犯である番組の主役の二人に対する風当たりを少しでも和らげるため(という形式上の)のものだろう。確かに「証言者」である彼らに対する配慮は必要だろうし、逆に主犯格の人間達にとってはもはやどうでもいいことなのだから、このような構成は番組サイドとしては理にかなったものだと思う。
ただやはり驚いたのは、20年経っても実行犯たち二人は「自分のせいではない」「自分は悪くない」若しくは「そもそも初めから何も悪いことはしていない」と思っている(ようにしか見えない)ということだ。逆に主犯である歴代社長外経営幹部を擁護するような発言をしていたことには、正直感心すらしたところである。
それもそうだろう。彼らは「組織の論理」に選別されて幹部にまで登り詰めた人間達である。そして彼らは自らの信念でそのような振る舞いをしたワケではなく、そもそもそのような人間だからこそ、組織の論理によって選ばれたのである。
人間、そして当然組織も、問題が起きた時の姿が真の姿である。組織自体が問題を起こすだけでなく、例えば災害が起きた時などがそうだ。前の大震災による原発事故の政府、東電の対応がまさにそれである。問題や失敗の対応というのはまずそれを拡大させないことに尽きると言えるが、大抵の人間はそれを取り返そうとしてしまうものなのだ。取り返すのはその失敗をハッキリさせてからでなければならないというのが、全ての問題対応の基本と言えるだろう。しかし組織に選ばれた人間は、組織における自分の居場所を失うことを恐れるあまり、失敗を認めることは絶対にできないのだ。そこに至るまでの間ずっと組織の論理のみによって生きてきた人間達であり、実際に現場で起きている問題などそもそもどうでもいいのだから、当然である。

結局事件そのものについては別にそれほど凄いことが起こっていたワケでもなく、「悪の陳腐さ」そのものという感じだった。番組の最後は、最近相次ぐ企業の不祥事を挙げ20年経っても日本企業、社会は全く変わっていないということと、それに対し個人が立ち向かわなければならないというような精神論で締めくくられていたように思う。
が、そもそもそのような考え方が根本的に間違っているのである。
組織の論理は自然の法則であり、絶対に人間の意識で変えられるものではないのだ。当然本来ならそれを前提とし対策を講じる必要があるという結論になれなければおかしいのだが、そこが論理的思考において未だ日本人が超えられない壁となっているのか、若しくは何者かによって意図的に本質をごまかされているように思えて仕方がない。

現在の日本の組織の状況を語る時、失敗組織の典型的な事例として旧日本軍が挙げられることは多く、また当然全体主義に陥った日本社会そのものも戦後においては反省点として常に挙げられてきた。「非国民」という言葉によって社会全体、そして自らをもその呪縛に陥れる愚から誰も逃れることができなかったということは、小学校でも相当聞かされたハナシである。
先の大戦後、GHQが日本社会を集団主義、アメリカ社会を個人主義と分析したというのも最近よく取り上げられる有名なハナシのようである。もちろんドイツ、イタリアとともに枢軸国と呼ばれることとなったのであり、全体主義に陥ったのは日本だけではない。またその後も共産主義国家などで同様の事例があったのは確かである。が、その時点においてのアメリカと日本との比較という一点においては間違いとも言えないだろうし、そのような組織の性質に対する危機感を強調したものとも考えられるだろう。アメリカは封建的な欧州を飛び出した人々によってゼロから建国され、全く異なるルーツを持つ多様な人々によって、数々の成功と失敗を繰り返しながら、今日の世界一の大国となったのである。しかもそれは人類の歴史的に見ればごく最近のことであり、その過程で培われてきた理念と記憶が未だに強烈に残っているからこそ、それが社会に反映されているのではないだろうか。そしてそのことが常に意図的に、明確に文化や教育で反芻されているように思われる(もちろん自分はアメリカ文化に精通しているワケでは全くないが)。
またドイツも歴史上最悪とも言える「組織」を「国家」にまで増長させた「反省」から、現実的具体的な組織運営技術を実践、発展させた結果今日の「論理性を重視した国民性」という「イメージ」に繋がっているのではないだろうか(ドイツ文化に触れる機会は一切ないので全く判らないが)。この二国については国家や民族を問わず組織、社会がどのような経過を辿るのかを論理的に理解しているからこそ、具体的な対策を実行しているということになるのだろう。
その点日本は戦後も「反戦」「平和」「謝罪」といった精神論のみが常に先行し、「組織」「社会」「国家」を自然の法則と捉え具体的な技術や理論をもって運営するという姿勢はほとんど見られなかったと言ってもいいのではないだろうか。そう考えるとそのような「非論理性」はやはり日本人の「特徴」なのかもしれない(だからといって米あるいは独が「いい国」か否かということとは全く関係ない)。
戦後の文化、教育においても日本はやはり「精神論」であり、全く前時代的、非論理的であったと言っても過言ではない。だが逆に言えば、その非論理的な精神論で社会規律を一定程度維持することができるからだと考えることもできるし、逆に米、独はそうではないということにもなるのかも知れない。だとすればそれはやはり日本人の「性質」ということになるハズだが、戦争、民族紛争が全てという歴史を持つ欧州と、そこから飛び出した人々と世界各地からやってきた移民達が作り上げた米国と、歴史的背景が全く違う日本とで、その経過の違いが「現時点」での「国民性」として顕れているのに過ぎないということにもなるのかもしれない。
確かに米国に似て本州から逃れてきた人々、つまり移民によって開拓された北海道では、人口密度が低い、歴史が浅いといった共通項が多くあり、学歴にそれほどこだわりが無かったり、女性や青少年の喫煙や飲酒に対して寛容であったりと、自主自立、自己責任という考え方や個人主義的傾向が強いということはあるそうだ(最近言われる「自己責任論」とは全く違うが)。これはやはり社会が辿った経過、歴史によるものだといってもおそらくそれほど間違いではないだろう(逆に何でも親方日の丸、公共事業頼みであるが故にかの有名なクラーク博士から「野心的であれ」と叱咤されたというハナシもあり、全然アメリカ的じゃないかもしれないが)。

とはいえどんなに歴史的経過や社会性に違いがあったとしても、いじめもセクハラもパワハラも差別も汚職も犯罪もない国など世界中どこにも存在しないことは間違いない。そういう意味ではアメリカ人も日本人も、ましてドイツ人も中国人もたいして変わらないということであり、そのようなことはただフツーに海外の映画やドラマ、音楽に触れているだけでも誰にでも当たり前に判ることではある。
一歩引いて世界から現在の日本を見れば、アメリカやドイツに比べて全体主義の危機に覆われているようには全く思えない。それにかつてに比べれば幾許かでも個人主義であることには間違いないだろう。そう考えれば社会がどんなに閉塞感に覆われていたとしても、僅かずつであっても前進はしているということになるのかもしれない。が、そのような見方は少し単純すぎると思う。常にその危険と向き合い闘い続けている欧米よりも、全く何も考えることなく誰もが闘うことを避けている日本の方が、気づいた時には全体主義に陥っているという危険性をはらんでいるのではないだろうか。

崩壊に向かいながらそれを避けることができた組織は、おそらく存在しないのだろう。数々の神話がそれを物語り、人間の歴史がそれを証明しているのだ。
Posted at 2018/12/27 22:00:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2018年11月23日 イイね!

日本のモノづくり企業の不祥事について(その2)

クルマ業界の不祥事が気になるおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
本質はどこにあるのかということになると、当然クルマ業界だけの問題ではないということで。

クルマ関係以外で思いつくまま、あくまで記憶でこの20年くらいのいわゆる不祥事を挙げてみると、モノづくりではアネハさん(耐震設計)、東洋ゴム(免震装置)、杭、原発の点検、神戸製鋼・・・といった感じだろうか。
モノづくり以外では、雪印、船場吉兆、食品偽装(芝エビ)、JR北海道のレール検査、東芝の粉飾決算、みずほ銀行、スルガ銀行、新生銀行、漢字検定、白斑、臨床試験、医大入試差別、オリンピックエンブレム、将棋、相撲、ボクシング、レスリング、体操、スケート、バスケットボール、バドミントン、日大アメフト・・・まあキリがないが、以前は食品系、経済系、最近はスポーツ界が大ブームという感じである。

モノづくりに関してはほとんどが試験や検査の不正、手抜き、データ改ざんの類ということになるようだが、不況の影響は言うまでもなく、それ以外にも「不正」と「基準」、「業界」と「行政」といったことも背景にあると思っている。実害が発生していない(と思われる)ものも多くあり、問題ない(と個人的には思っている)ものもあるが、仮に今はそうでも今後日本の工業水準が衰退していけば実害が生じる可能性もあり、当然社会全体から見れば「技術者のプライドを信じる」ということにはならないだろうし、やはりコンプライアンスを軽視するわけにはいかないだろう。
が、技術者のプライドという視点からすると「実害がなければいい」というのは「実害があってはならない」ということであり、組織の論理に毒され「自分には関係ない」「自分のせいではない」と考えることのほうがよほど恐ろしいことだと思っている。言い訳がましいかもしれないが、「不正」に近い部分は実際あったとしても、そこをギリギリのラインとしている部分は正直あるだろう。とは言えそもそも何を持って「実害」とするかも問題ではあり、それこそ技術者の傲りと言われても否定はできないのかもしれない。

モノづくり以外ではどうだろう。
こちらも当然実害がないワケでは決してないのだが、技術的問題ということはあまりなく、ほぼ倫理的コンプライアンス的問題そのものと言っていいだろう。

「雪印」の問題は、実際健康被害が発生しその原因が特段技術的でもなんでもない基本的な衛生管理という、まさに倫理的コンプライアンス的問題だったと記憶している。食品メーカーとしてこのようなことは当然許されるものではなく業績は悪化し、また地域を支える名門企業としてスポーツや文化的活動も多く行っていただけに、それらへの影響も大きかった。
「船場吉兆」は食べ残しの使い回しで話題となったが、メーカーとは違い影響が大きくないにもかかわらず高級店ということで槍玉に挙がった。その後発覚が相次いだ食品偽装関係は、特段実害はなかったもののやはり倫理的問題だったと言っていいだろう。芝エビをクルマエビと偽ってもほとんどの人は判らないのだが、その分高い価格を支払った可能性もあり、不正というより「バレなければいい」という「陳腐なウソ」か、意図的に消費者を欺いた「詐欺」という、どちらにしてもかなり悪い印象を与えたのである。

ちょっと前に話題となったオリンピックの「エンブレム問題」については、いわゆるパクリ疑惑というヤツだが、これについては「問題の本質がどこにあるのか」ということが問題だったといえるだろう。
当然一義的には「パクリなのか否か」ということなのだが、これについては「誰が見ても似ている」ことは間違いなくとも、「たまたま似ただけ」という主張を否定することは、一定の検証が行われた結果なかなか難しいようである。確かに、シンプルであればあるほど似ているものは存在する可能性があるという理屈自体は、理解できるものではある。
が、問題はそれだけではないというかむしろ別にあったのであり、それはこのデザイナーとその作品が選出される過程が、公募という形を採っているのにも関わらず業界の力関係で選定されたことが誰に目にも明らかだったから、ということなのである。
特定の人間が名声と巨額の利益を得る(だろう)ということに対し、それを業界の論理で決定したこと、それに対する批判を受けてもなお自らを擁護する姿勢が明らかだったことに対して、人々の反感を強く買ってしまったのだ。このような状況で「パクリではない」という主張をすればするほど反感を強めることになり、「確かに似てますが、それが何か?」と言っているようにしか見えない業界の姿勢は、完全に開き直っていると捉えられたのである。「デザインというのはそういうものだ」「誰でも同じことをしている」と自ら公言しているのと同じであり、おそらくそれは真実なのだろうが、それが業界の常識であっても一般人にとっては非常識であるということに気づかなかったのだ。その結果その後も「余罪」が追求されることとなり、それらが次々と明るみになることで追い詰められた末撤回するという、まさに最悪の結果となった。
「余罪」の追求は画像検索という新しいツールによって誰にでもそれができるようになったためだと言われているが、それは誰にでもできることを当時者側が確認しなかったということでもあり、誰にでもできることでなかったならバレることはなかったと考えていたとしか思えないということにもなる。やはり業界側に倫理感どころかいわゆる「センス」が完全に欠如していたのは明らかだろう。結果としてデザイン業界全体のイメージダウンに繋がったのは言うまでもない。自分たちの論理が全ての、まさにムラ社会なのである。

相撲協会の場合問題が多すぎてキリがないが、最大の事件はなんと言っても八百長疑惑だろう。これは単に八百長の有無の問題ではなく、背後にある賭博を通じた反社会勢力との繋がりの方が重要な問題だったハズだが、個人的な印象を言わせてもらえば、罪を認めた琴光喜(と一部の下位の力士)だけが解雇という最も厳しい処分となり、結局あとはお咎め無しとして片付いてしまった。正直者がバカを見る、あるいはトカゲの尻尾切りのまさに典型であり、結局暴力団との繋がりは大きく取り沙汰されることはなく、問題解決としては最悪の事例だったと言っても過言ではない。
NHKもコンプライアンス上放送中止という厳しい対応を取ったように見えるが、相撲人気がなくなって困るのはNHKであり、まさにポーズだったということは明らかである。
今思えば結局何だったんだろうという感じだが、一部の人間に全ての罪を着せ不祥事を「片付ける」ことにかけては、多くの組織にとってまさにお手本だったと言えるだろう。もちろんそれは少なくとも現時点では相当数の支持者がいる「興行」としての話ではあるが。
不祥事が起こった後は必ず、白鳳の連勝記録、稀勢の里の日本人横綱誕生といった「明るい」話題が来るのもまた不思議なものである。そういえば将棋界も、問題が起こった後に最年少記録という快挙が話題となっていた(若干ハナシが飛び気味なのでこの辺にしておくが)。

そして今流行りのスポーツ界である。とはいっても何も最近のことでは全く無い。そもそもスポーツ界とは社会の縮図のようなものだ。群れで生きることで進化してきた人間にとって、集団ができればそこに人間の根源的な性質が顕れるのであり、そしてそれは企業、国家、社会へと通じるものである。大企業が体育会系の学生を採用するのもそういった理由だ。身体能力による単純な競争原理の巨大なシステムで何年もかけて選別されてきた人間の集団であり、指導者やチームとの関係が全てという組織の論理によって生産された、「社畜」の部活版、「部畜」である。もちろんその競技においては個人の能力で評価がされるものの、それは結局その組織における序列を決定するものでしかなく、精神性においてはまさにムラ社会そのものである。そして彼らがまたその組織を連綿と担っていくのだ。経済の論理が加わる企業よりも更に原始的な世界といっていいだろう。いま問題が表面化している競技団体だけでもかなりの数に昇るが、全国的組織であればほぼ全ての競技団体が同じだと言って100%間違いない。
ちなみに自分はそれなりにスポーツ好きであり、故にこの歳になるとそれなりの経験もあったりはするので、完全な妄想だけで言っているワケではない。一部の善良な関係者は皆「どこも同じなんだな」ということを痛感しているハズである。

日大アメフト部の悪質タックル問題は、単に「悪質」であったというだけでその中身については議論するまでもない最低レベルの事例である。結果として注目を集めたのはやはり監督やコーチ、大学といった組織の問題であり、これは話題となっているボクシング協会、レスリング協会、体操協会、スケート協会その他全ての競技団体に共通する根本的問題なのだ。一言で言えば「悪の陳腐さ」であり、全ての組織はこの性質から逃れることができないということを改めて示したのに過ぎない。悪質タックルをした選手にしても、学生とは言え子供ではない。組織の論理の中で生きることを自ら「選択した」のである。「悪の陳腐さ」が示すように、組織が悪い、指導者が悪い、だから許されるというものではない。最終的には見送られたが、刑事事件の可能性すら指摘された程のことであり、罪を犯す前に気づくことができなかった自分の責任である。尤ももう少し「上手く」相手を「潰して」さえいれば、問題になるどころか「優秀」な選手として評価され、日大アメフト部の組織の論理は連綿と受け継がれていたことだろう。
ただ今回最大の社会的制裁を受けたのはやはり選手、選手達であり、これだけの経験をしたのだから今後はそれを糧にして欲しいとしか言いようがないが、言葉にするとこれもまたあまりに陳腐ではある。
一方組織の側も、刑事事件となることはなさそうだ。彼らが「指示したか否か」が最大の問題となるのだが、それを立件することは検察としてもまずできるハズがない。組織の上層部または最高指導者は当然そのことを認識しており、直接的な言葉によって問題となる行動を指示することなどあるハズがないのだ。今回もその指示内容がほぼ全て明らかになったにも関わらず、最終的に「潰せ」という言葉が犯罪行為を意味するかどうかを証明することは、当然できないのである。
大学にとっては、形式上一定の社会的制裁を受けたとはいえ最終的に日大志願者が減るワケでもなく、事業における行政的優遇措置が制限されるワケでもなく、その影響は無いに等しいだろう。おそらくほとぼりが冷めれば監督やコーチもいつのまにか復帰しているに違いない。

この事例は、東芝の粉飾決算問題の「チャレンジ」と同じ構図である。また多くの銀行の不祥事も、ジャーナリスト殺害事件も、「首相案件」も全く同様だ。
組織のトップは「知らなかった」「指示していない」と一貫して主張していれば全て「現場の暴走」「忖度」で片がつくのである。そんなことは組織にいる人間にとって当たり前であり、どんなに時間がかかろうとせいぜいほとぼりが冷めるのを待っていればいいのだ。マスコミといえど経済の論理でこれらを利用しているだけであり、おそらく来年には日大アメフト部が何らかの「快挙」を達成し、その「美談」を嬉々として伝えていることだろう。

そもそも倫理、コンプライアンスが大きく取り沙汰されることが珍しくなくなったのはこの20年程のことである。それまでいわゆる不祥事といえばほとんど政治家や公務員の汚職または「公害」レベルの実害を引き起こした企業くらいのものであり、一般企業やアマチュアスポーツ団体などはまずなかったように思う。
このような変化はやはりバブル崩壊後のいわゆる「失われた20年」に重なってくるように思えてならない。企業についてはまさに「貧すれば鈍する」という言葉で簡単に説明が付いてしまうということなのかも知れない。経済の論理が全てを支配するのはある意味当然として、何か一つが悪くなると負のスパイラルは簡単に起こるというのも組織、社会における自然の法則である。何事も悪くなるのはあっという間なのだ。
またもう一つの見方として、「不祥事が増えた」のではなく「表面化することが増えた」だけ、ということもあるだろう。事実「無資格者検査」問題は相当以前から続いていたということであり、「エンブレム」問題は昔ならバレることはなかった話である。これは情報化社会といわれるネットの普及が影響しているのは間違いないだろう。もちろん現在多く見られる炎上や晒しのような感情的非論理的な反応はその負の側面ではあるが、少なくとも組織の不祥事が明るみになることはいいことであり、社会全体としてみれば技術によって確実に進歩していると自分は思っている。また権力や富が批判の対象となるのは当然として、安全や信頼といったものに厳しい視線が向けられまたあらゆる組織に倫理感が求められるようになったのも、「技術」により誰もが得られるようになった「情報」によって、日本社会が成熟した結果とも考えられるかもしれない。

が、社会がいくら成熟しても、組織はむしろ腐敗するだけである。
技術がいくら進歩しても、人間自体が進歩することはない。
これから先、AIが社会の大部分を担うことになったとしても、肝心なところには人間が入り、そして不正を行うだろう。
倫理的問題は、永遠に解決することはない。
技術的問題は、大抵のものは、いつかは解決することができる。
未来を担う若者たちには、社会や組織で成功する技術より、本当の技術にもっと目を向けてもらいたいと、心から思っている。

というようなことをほぼ書き終えていたところ、日産CEOの巨額不正疑惑が世界的大ニュースとなりまさにいいオチになったと思っている。
早速一部で問題になっていたが、あまりに陳腐で閉口する外なかった例のキャッチコピーがこれほどまでにハマる状況になったのだから、誰もがそれを口にしたいハズだ。
あえて言おう、「やったぜニッサン」と。

今からでもいいからぜひ流行語大賞にノミネートしてほしい。
Posted at 2018/11/23 22:01:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ
2018年10月31日 イイね!

日本のモノづくり企業の不祥事について

業界の実情も経済も全く知らないおっさんの、単なる「感想」と「妄想」である。
最近、クルマ好きとしては誰でも名前だけは知っている「KYB」が話題なので。

ここ数年この手の話題には驚きもしなくなったが、あまりに多いのはどういうことなのだろうか。
自動車関連企業の不祥事と言えば、最近では無資格者検査、燃費不正だろう。
KYBは自動車に関しては部品メーカーだが、同じく免震装置関連では東洋ゴムにも同様の不正があった。
ちょっと前はタカタ製エアバッグ、もっと前は三菱ふそうのハブ強度、リコール隠し、というのもあった。
よくよく考えれば、別に最近のハナシではない。が、やはり三菱のリコール隠しが大問題となったこの20年くらいで急に増えたように思う。
あらゆる問題が「バブル崩壊」「失われた20年」に重なってくるように見えてしまうのは自分の年齢と世代のせいかも知れないが、やはり関連性がないとは言えないだろう。
ただ個別の問題となると、それぞれの中身を正確に判断する必要があるハズだ。まして「モノづくり」においては、技術的な問題はまず技術的に理解し、そこから倫理的な問題を議論する必要があるハズである。

無資格者検査の問題はとても20年どころではない相当昔からのことだそうで、だとすればその事自体にどれだけの問題があったのか、どのような実害があったのかは、もはや判らないと言っていいハズである。となればむしろ自動車の整備や検査制度そのものにも問題があるということもにもなるだろう。これについてはいわゆるコンプライアンス問題だが、「コンプライアンス」という言葉が定着したのはそれこそこの10年くらいのものであり、それ以前と以後では世の中の空気に違いがあったことは間違いない。自身も完全にその時代を生きてきたおっさんとしては、正直「実害がなければいい」という考え方自体は間違っていないとすら思っているのも事実である。
燃費不正についても、もちろん不正には違いないのだが、それによって実害が生じるワケではない、といってもそれほど間違いではないだろう。そもそも日本の燃費表示制度そのものが、欧米なら訴えられてもおかしくないほど実態と乖離した誇大広告のレベルだというハナシもあったのだから、本来ならそっちの方が問題となるハズである(最近制度も変わったようだが)。もちろんそのような制度自体、表向きは行政が作ったことになっていても、業界の利益のためにやっているということには間違いない。
ただ、同じ「不正」でもフォルクスワーゲンの排ガス規制逃れはさすがにレベルが違うとは思う。欧州ではCO2排出量が少ないディーゼルの方がガソリンより環境に良いとされ、とはいえそれもあくまで技術を磨いてきたからこそであり、経済界全体の勝手な都合でディーゼルを放置してきた日本が間違っているのだ、と思っていた自分にとっても、やはり騙されたような気持ちになり多少のショックは受けた。こうなるとさすがに仮に実害がないとしてもメーカーに対するイメージが悪くなるのは当然である。ただこれについても、いったいどのくらい環境に影響を与え、どれくらい実燃費との乖離があり、どれくらいエンジン出力に影響するのかはあまり定かではない。

結局これらのいわゆる「不正」は、「ルール」に対する「違反」が意図的に行われていた時点で確定するものではあるが、現実的にどのような影響があるかということの方が重要であり、そこまで正確に事実を認識する必要があると思う。そもそも「ルール」とは何なのか、誰が、何のために、どういう基準で作ったのか、というところも本来問題となるハズである。また例えば自動車の制限速度をいったいどれだけの人々が順守しているのかというような、そもそも実効性自体に疑問があり、ルールや規制が検査や取り締まりの矛盾を生み出すだけとなっている場合も往々にしてある、というよりむしろほとんどがそうだということも、紛れもない現実なのである。
更に、何か問題が起きた時あるいは何か特定の利益を生み出そうとする時、規制、基準、認証制度を作るのが業界と行政の常套手段となっているという側面もある。業界としては問題解決、基準達成というお墨付きを得ることになり、行政としては業界との繋がりと天下り先団体による利益に繋がるのである。
例えば大地震が起きた時、建物の耐震強度が問題となりその解決策として新たな工法や基準を行政が業界と共に作り出し、そしてそれが業界にとって新たな商品となる。KYBにしても、大震災後の耐震補強の流れに乗って販売を拡大し、「耐震補強に有効」「最新の基準を満たしている」ということを持って利益を得ているのであり、基準そのものが営利企業としての商品であり目的となっていると言ってもいいのである。技術的には、このデータの改ざんによって実際地震が起きた時にどれだけの影響があるのかなどということは、本当の意味で判るハズもなく、そして実際「影響はない」というところに落とし所を持っていくというのが問題発覚時点で規定路線なのだろう(もちろんその代償を支払う事にはなるが)。
組織というものは、一旦手にした利益は永遠に得続けられる前提で全てを判断しようとするものである。利益は全て織り込み済みとなり、それ以外は全てコストとして削減するべきものとなる。これらは組織の論理で生きる人間には当然のことであり、「不正」とはこれらの人間によって生み出されるのである。
フォルクスワーゲンの件は、当初は環境とコンプライアンス意識の低い一部の技術者の過信に基づいて安易に行われたものだと言われていたが、当然ながらそのようなことなどあるハズもなかった。三菱の燃費不正も、特定の部署の独断であるかのような情報も一時流されていたが、同様である。
現場の一技術者にはこのようなことを行う理由はそもそも存在しないし、責任は全くない。ただ、自らを一技術者ではなく組織の一部として認識していたとしたら、彼らも責任を負わなくてはならないだろう。

そしていわゆる「不正」よりもはるかに問題が大きいと言えるのは、現実に人命に関わる被害が起きたタカタ製エアバッグと三菱ふそうのハブ強度問題である。

タカタ製エアバッグの問題は、技術的な問題により重大な結果につながっていたものであり、しかもそれを認識しながら対応を怠ったということに対しては、消費者としては言うまでもなく、モノづくり、技術を尊ぶ者として憤りを禁じ得ないものである。
が、こと日本国内においては問題の重要性の割に大衆の「負」の感情はそれほど大きくなることはなく、騒動の収束も早かったように思う。おそらくそれは問題発覚後の国内自動車(完成車)メーカーの対応が、スピード的にも内容的にも的確だったからに他ならないだろう。結果としてタカタ社に全ての責任があるように大衆の意識をコントロールすることができたということもあり、自動車(完成車)メーカーの信頼が大きく揺らぐような事態とはならずに済んだのである。

その点、三菱ふそうのハブ強度問題は、さすがにかなり前のことで記憶が定かではないが、最近の問題よりも社会の関心はかなり高かったように思う。それはやはり問題の重要性に対して、メーカーの対応のまずさが際立ったことに他ならないだろう。自分も極々間接的にこの問題に関わることがあったのだが、メーカー側の対応はとても納得できるものとは言いがたいものだったと記憶している。結果として人々の「負」の感情に火を付けることとなり、メーカー自ら問題を大きくしたのである。当初この問題自体は大型車のみで一般ユーザーにはあまり影響がなかったが、この後乗用車についてもリコール隠しが発覚することとなり、メーカーとしての凋落のきっかけとなったことは間違いないだろう。20年後の今になって映画にまでなるほどの大事件だったのである(ちなみに自分は映画も原作も見ていないが)。

それまでは、「ミツビシ」と言えばWRCや「パリダカ」への参戦によるイメージ戦略が広く浸透し、海外での日本車メーカーとしての知名度はかなり高かったそうだ。国内でも「パジェロ」を筆頭に「RVR」などのSUVをはじめ、「スタリオン」「ギャラン」「ランエボ」「ミラージュ」「GTO」「FTO」などスポーツイメージも充分高かったし、またワンボックスの「デリカ」は「スターワゴン」「スペースギア」共に当時自分が住んでいた地域ではかなり人気があった。「ミニカトッポ」「ミラージュディンゴ」など個性的なコンセプトやデザイン性でも充分に魅力的だったし、「ディアマンテ」「レグナム」など保守的なセダンやワゴン、「ミニカ」「パジェロミニ」といった軽まで、こうして思い返してみると驚くほどのラインアップと国内シェアを誇っていたのである。当時F1人気が絶頂期だったホンダよりも上だったわけで、現在の状況と比べると「たった」20年でこれ程までに変わるのかという感じである(こうして考えると現在の2位というホンダの国内シェアは、ニッサンとミツビシの敵失によるところが大きいのかも知れない)。
リコール隠しによって傷ついた信頼が回復することなく、そして再び発覚した燃費不正という不祥事をきっかけについには日仏連合に吸収されることになったのは、クルマ好きとしては全く残念としか言いようがない。
が、それ以前にニッサンはこのような不祥事がなくとも業績不振に陥ったわけで、不況と構造的国内市場の縮小により、ミツビシもいずれはこうなることは避けられなかったという見方もできるのかも知れない。そもそも「三菱」という巨大な「力」の下にあったワケで、不祥事による販売不振などその気になればその巨大な「力」でどうにでもなったのかもしれない。にもかかわらずこのような事態となったのは、自動車産業の行く末をその「力」は予測していて、そしてあえて自動車メーカーとしての未来を捨てた、ということも、もしかしたらあるのかもしれない。
また逆に、それだけの「力」に溺れたというようなことが、もしかしたら不祥事の根幹にあったのかもしれない。

こうしてかつての車名を列挙すると、ミツビシはまさにあの頃の日本車絶頂期を支えていたということを改めて実感する。20年後このような状況になることなど当然誰も思っていなかったワケで、なんとも残念な気持ちになるのは単なるおっさんの郷愁だけではないだろう。
関連する企業の一社員にたまたま話を聞いたことがあるが、当然現場の人間は我々単なる外野の人間とは比べ物にならないほどつらい思いをしているハズである。リコール隠しの問題は内部告発によって明らかになったと記憶しているが、かの社員も「このようなことが起こるのは当然だ」というようなことも話していた。
社会が成熟に向かい、全てが経済と組織の論理に収れんするとき、このような問題が起きるのは自然の法則なのだろう。そしてあらゆる組織、国家あるいは社会全体も、いずれ同じ運命をたどるのであり、それは誰にもどうすることもできないのだろう。
Posted at 2018/10/31 23:57:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマ

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