残暑と言うには少し違うかも知れませんが、突然ぶり返した暑さに干し肉気味の白兎です。
今回のお話し、特段ブログに上げようと練り上げていたものではありません。
しかし、最近になって不意に思い返すようなことが、重なって参りました。
ブログとして上げております、カウンセリングを通じて、これまで拒絶し、否定し、忌避さえしてきた過去の自分。
時間が経つに連れ、少しずつではありますが、過去の自分を見詰め直し、和解を通して共存できるようになって参りました。
そんな中、思うことがあります。
それは、「優しさ」というものです。
微かに残る記憶を辿っていく中でも、明確に思い出されるもの。それが「優しさ」というものです。
元々、私は人と接することが好きな人間でした。
内気ではにかみ屋という所は今も変わりませんが、歳の差も関係なく、多くの人間と同じ時間を過ごすことが好きでした。
そんな私は、周りを盛り上げるようなタイプではなく、陰ながら人を支えていた、と言えば良いのでしょうか。
一人でいそうなクラスメイトに、自ら話し掛けたり、困っていそうな人に声を掛けたり。
雰囲気が悪くなりそうな空気なら、間に入って調停役となったり。
そんな感じで、自分のことを置いておき、意見も言わないまま、人のことを最優先で動いていた記憶があります。
それが「優しさ」なのかはわかりませんが、そうすることが当然なことであり、そうあることが自分である、と思っていました。
いえ、最早無意識の内にそうしてきた、と言った方が正しいです。
当たり前と思ってきたそんな自分の生き方が、拒絶されるとは、思いもしませんでした。
発端は、孤立している「であろう」人間に、それまでしてきたように接したことでした。
自分よりも、人の為に。何の疑問も持たなかった私の生き方は、一瞬で拒絶されました。
最初の内は、本当に気の所為だと思っていました。
こんな自分が、否定されるなんて、あり得ない。まさか自分が、イジメられているなんて、そんなことは絶対にない。
それが時を経ていく内に、疑問へと変わっていきました。
そして、確信に至りました。
人を優先して行動していた、私の「優しさ」が、私を壊した。
「優しくすること」自体が、間違いだった。
最後は、歪んだ認識へ変貌しました。
「優しい」ことは、他人を付け入らせる「悪いこと」だ。
だったら、もう人の為に動くことは、絶対にしない。
そして、人から貰う「優しさ」なんて、いらない。
そうい思い込み、過去の自分を閉じ込め、否定し続けてきました。
困っている人がいても、見ない振りをする。
優しくされても、「どうせ恩を着せて利用するんだろ?」と、自分も、他人も拒否し続けました。
全て、拒絶しました。
……認めてしまったら、もう、二度と生きていけない。次に自分を否定されたら、今度こそ立ち直れない。
そんなどうしようもない「恐怖」が、私を歪ませ、成長を止めてしまいました。
それから、十数年が経ちました。
社会人になり、投げ出したくなることもありました。
病気もしました。
生きることを、この世界に産まれたを、憎むことも沢山ありました。
これまで、「人生なんて、所詮は諦めと妥協と惰性に過ぎない」なんて、一人格好付けたように、傀儡のような生き方をしてきました。
……でも。
今、この文章を書いている中で、強ち「そんなこともない」と思い始めている自分がいます。
切欠は、カウンセリングを通しての過去との和解。
そして、みんカラとの出会いでした。
特に、みんカラで出会った多くの皆様との遣り取りをして行く中で、多くのことを頂き、学びました。
私の過去について書いた時も、クルマについて話した時も、沢山の方からのお言葉を頂き、励まされました。
初めの内は、やはり懐疑的でした。というよりも、実感がありませんでした。
「優しさ」というものを、どこかに置き忘れてきてしまった。そんな感じでした。
ですが……。
ここ最近、掛けて下さったお言葉が、身に染みるような思いに駆られることが多くなりました。
こんな私に。
人を拒絶し、「優しさ」を遠ざけてきた私に。
優しくされる価値もないと思い込んでいた私に。
……すみません。上手く、言葉にはできません。
言葉を頂く度に、胸が閊えるような感覚。でも同時に、泣き出しそうになる程の、行き場のない感情で一杯になります。
そこで、初めて気が付きました。
これが、「優しさ」なのかな、と。
過去を省みて、あまりにも荒んだ生き方をしてきた私には、温か過ぎるもの……それが、本当の「優しさ」なんだな、と。
そして、過去の自分と照らし合わせ、もう一つ思うことがありました。
「優しさ」は、時には「お節介」という、人を不快にさせかねないものであると。
……結局、私が人の為に、と行ってきたことは「優しさ」を通り越した「お節介」に成り果てていたという思いに至りました。
きっと、そうすることで「自分の気持ちを満足させる」為の自己満足だったんだな……。
今、「優しさ」について、こう思うようになりました。
なりふり構わず振りまく「優しさ」は、人を傷付ける凶器になりかねないということを。
でも、それを恐れて自分勝手に生きることは、もっといけないことなんだと。
優しくする、優しくされると意識するのではなく、自然とそういった遣り取りが出来ること。
それが、「本当の優しさ」なのかな、と。
これまで誰に何を言われようが、頑なに、厭世家を気取るように生きて参りました。
それがここに来て、譬え僅かであるとしても、「そういう生き方もあるんだな」と、自然と変わり始めている私自身がいることに、内心驚いています。
どうしようもなかった私でも、周りの人がいてくれれば、変わることができる。
変わっても、私は私。変わりつつ自分に、不思議さ以上に喜びを感じています。
所詮は、言葉だけなのかも知れませんが。文章に過ぎないのかも知れませんが。
切欠を下さった皆様に、改めて、感謝したいと思います。
心から、申し上げます。
ありがとうございます。
変わり始めたと認識し始めた自分。
それがこの先、更にどう変わっていくのか。
今は不安よりも、楽しみという気持ちの方が大きくなってきています。