ibant obscuri sola sub nocte per umbram
(夜の闇の下を、姿もおぼろに密やかに進みゆく)
ウェルギリウス
わたしの生活は本。限られた数十の文字たち、その無限の順列と組み合わせからできています。
言葉はわたしのすべて。
黄昏に翔び立つミネルヴァの梟。
わたしはときにエペソスの痩せた大地で小川に足を浸し、ときに世界で初めて盲いた薔薇を名指します。ニーシャープールのモスクから飛び立つ無数の鳩に神を見、空しく龍の樹と名乗り、誰かに夢見られる蝶であり、異端としてアヴィニョンで万事の床に臥し、トロイアの城壁を砕く白鳥の子として生まれ、シャボン玉で月旅行をするのです。
言葉はトリトニスのアイギス。言葉はローマのサンダルと銀鷲。言葉はメロヴィングの百合。言葉はすべて。
そのほかに美も、快もこの世界にはありません。
わたしは半ば本気でそう信じています。
あるいはそう、わたしはそれが事実ではないことを知っているがゆえに、言葉よ万能であれかしと乞い願う狂信の徒であるのかもしれません。
そんなわたしがどうして車などに興味を持つことがあるでしょう?
あんな箱、タイヤがついていて動けばそれでいいのです。
父は車道楽なひとでした。
容量を別に割いているが故か、ひどく10代以前の記憶が心許ないわたしが覚えているだけでもスープラ、117クーペ、アルピナ....
夏の深夜、土砂降りの高速道路でひっくり返ったS2000とともに見つかったのはなんともらしい最期だったと、今では家族みんな笑って口にします。
ガレージに残されていたヨタハチをはじめとする車たち。車に欠片も興味のなかったわたしは、あの車たちがどこに引き取られていったのかも知りません。
父は車があればそれで他になにもいらないようなひとでした。
夕闇が過ごし夜が少しずつ街を覆いはじめる、ひとつまたひとつと明かりが灯る路地の頼りない視界のなかのようにおぼろなわたしの少年期の記憶。
ハンドルを握る父。
うんざりする暑い夏の日に助手席から見た街路。
息がつけないくらい乱暴に吹きつける風。
動くたびに軋む車。
惹きつけられるガソリンの匂いと喧しい排気音。
走りながら、運転席の父はわたしになにか言ったでしょうか?
思い出せない。記憶は覚束なく、無理に手繰ろうと触れてしまえば、波立つ水面のように乱れてなにも映りません。
でもきっとこの車のことでしょう。
家族の辟易した顔も構わず、蘊蓄ばかり楽しそうに語るひとでした。
周囲が呆れるのも気にせず、誇らしげにオンボロ車を見せびらかすのが好きでした。
いつもドライブに付き合わされるのはわたし。恥ずかしい、と乗るのを嫌がる家族のなかで、車も人目も無頓着だったわたしだけが文句を言わなかったのだそうです。
わたしの車の原体験はあの助手席だったのだと思います。
言葉はすべて。だからわたしは本を読みます。
そのほかに美も、快も世界にはないからです。
わたしは孤独が好きです。
わたしにそうあれと命じたのはゲーテ。
雨が好きです。
ミレトスのターレスから教わりました。
鏡が、暗喩が、代換法が、六歩格が好きです。
ホメロスとボルヘス。
二人は実は同じ人物なのですよ。
わたしは父が苦手です。
大胆で馬鹿みたいに情が深く、世馴れて行動力に富んでいた父はわたしと真逆で、ちっとも道標にはなってくれませんから。
わたしが父から継いだものはなにもない。
べつにそれでいいのです。
わたしは父をとても愛していますが、父とはなにからなにまで違う自分に満足しています。あんな暑苦しい人間になるのは御免です。父と母が与えてくれた本たちがわたしを作った。それで充分。なにも直接、父からなにかを受け継ぐことばかりが家族の護符ではないでしょう?
だから、そう。なにかを受け継ぐ必要などちっとも、これっぽっちもありませんとも。
父の助手席に乗った記憶のなかの車。
あの車はどこにいったのか。
いまどうしているのか。
知るすべはもうありません。
違う年式。違うエンジン。違う個体。同じ名前。
今度はわたしが運転席に座ろうと思います。
資金繰りとClioの行き先、探さなくては....
Posted at 2019/12/03 23:32:09 | |
トラックバック(0)