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老人ギタリストもどきのブログ一覧

2026年07月26日 イイね!

Yさんとの出会いと別れ その6

Yさんとの出会いと別れ その6また、ある時には、荒川の橋脚の外観目視をする為に、台船(四角の船です)の上に高所作業車を乗せて、アウトリガーを張り出した状態でカバーを取り付けて溶接。高所作業車のブームを伸ばす訳ですが、別の船が通ったりすると、台船の更に上にいる私達は、それこそ前後左右に激しく揺られて、最悪、ブームが折れてしまう危険性もあるので、波が来る時には、台船の監視員から笛の合図があったりしました。お台場周辺の橋脚も同じでしたね。

地上に上がっても、水の上にいる感じでフラフラ状態でした。そんな風に過ごしている内に、私のパートナーだった件のH田さんも、漸く、ノウハウを把握してくれたので、家庭の事情で夜間作業が出来なくなった協力会社の方と、交代して夜間作業に変わって貰いました。それにより、私の部屋も中夜勤2交代で使用する部屋となりました。そして、クリスマスが近付いたある日、早目に仕事が終わって部屋に帰ると、H田さんはベッドの端に座っていました。

私が部屋に入ると「お,お疲れ様です!」と吃りながら挨拶されたので、何かあるな?と勘繰った私は、「H田さん!何か心配事ですか?」と問うと、「えっ?なんで分かったんですか?」と言いながら、理由を説明してくれました。結婚相談所で知り合った彼女にクリスマスプレゼントを贈ろうと思って、取り敢えずは、キティーちゃんの物は無いかと考えて、友人に相談しようか考えていました」と言うので、「お相手の女性は38歳なんですよね?」と改めて聞いたのでした。

続けて「38歳の女性に、キティーちゃんのグッズをプレゼントするよりも、駅前の丸井に行って、アクセサリーコーナーの店員さんに、38歳の女性に贈るプレゼントを探しているので、何か選んで頂けますか?予算は〇〇です!と頼む方が良いですよ!」とアドバイスしたのでした。それから、「近々、お台場の仕事がありますけど、その時にH田さんの写真を何枚か撮ってフロッピーディスクで、プレゼントと一緒に贈ります?」と言うと「お願いします!」と言われたのでした。

年末年始が近づき、12月26日が仕事納めでした。多くの出張者が地元に帰省する中、高砂事業所のA松さんが錦糸町のウイングに有馬記念の馬券を買いに行くと言う話が伝わって来たので、馬選びから購入まで、他力本願でお願いする事にして、お金だけ預けて私も帰省したのでした。年明けに再赴任すると、A松さんに預けていたお金が、何倍にもなって返って来たので、そのお金で、草加市の餃子の王将で、夜勤チームと昼勤チーム全員に奢って、綺麗サッパリ無くなりました。

年明けに再赴任して来たH田さんに、クリスマスプレゼントの件を尋ねたところ、「お陰様で大成功でした!」に続いて、聞いてもないのに、「年明けに1発決めて来ました!」とも宣ったのでした。工事の方は終盤を迎えつつありました。その頃には、高所作業車の出番はめっきり減り、脚立を持って現地に行ったりした事もありました。極め付けは、レインボーブリッジでした。橋脚の土台近くにあるマンホールから内部に入って、エレベーターで上階に移動しました。

そんな風に工事が進み、遂に、工事完了の日を迎えます。私を含めた出張者と協力会社の人達全員で、打ち上げが行われた後で、それぞれの地元に帰任する事になったのでした。それから、何年か経って、横浜に出張する事になりました。その時の安全教育は特徴がありました。全員で体操をして動きの悪い人を落とす(入門禁止)方法だった記憶があります。私はと言えば、何とか体操は通過したものの、その後の血圧検査で引っ掛かり、辛うじての合格でした。

その時に、Yさんと再会したのでした。その仕事は船の修繕の仕事でしたが、休憩で座る事が許されてなく、全員が立ったままで休憩すると言う、何とも過酷な仕事でしたが、船底での仕事の時だけ、座って作業する事が許されており,その時にもYさんと一緒になり、暫しの楽しい時間となりました。その仕事が終わって、広島に帰任した際には、Yさん宛に、首都高の仕事を含めた御礼の意味で、お返しなしで紅葉饅頭を送ったところ、お返しに中華饅頭を送ってくれたのでした。

それから、また何年か経ったある日、広島市の中工場と言う、界隈では有名なゴミ工場の仕事にエントリーした際、偶然、Yさんと再会を果たしました。中工場は有名な建築家が設計した、割と有名な工場で、コスプレイヤーや素人写真家の撮影スポットになっていたりする場所でした。その夜は、早速、Yさんを誘って、飲み食べ放題の店で楽しい時間を過ごしたものでした。それから、音沙汰なしでしたが、ある年の正月に届いたハガキで、Yさんの急逝を知ったのでした。

直ぐに、Yさんの携帯番号に電話すると、奥様が出られたので、私とYさんの関係性も含めながら、大変、お世話になった方でもあり、時間の許す限り、在りし日のYさんとのエピソードを掻い摘んで、お話ししていると「主人は何も喋らない人だったので、〇〇さんのお話をお伺いしていて、主人の知らなかった一面が見れた気がして嬉しかったです」と仰って頂いたのでした。結局は、Yさんが急逝された病因は聞けずじまいでしたが、冥福を、祈らずにはいられないのでした。
Posted at 2026/07/26 09:45:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2026年07月25日 イイね!

Yさんとの出会いと別れ その5

Yさんとの出会いと別れ その5講師はW責任者と私、それにA松さんの3人が受け持ちました。一通りの流れを説明した後、直ぐに質問があり、それに答えている内には、新たな質問は出て来ませんでした。そこで、私が「H田さんも分かりました?」と振ると、急にドギマギし始めて「分かりません」とボソッと言ったのでした。そこで、改めて説明を開始して、ポイント毎に「H田さん!ここまでは分かりました?」と振ると、頷いてくれたので、その先に進み、レクチャーが終了しました。

「H田さん!今度は理解しましたか?」と振ると、「あれがこうだから、こうなれば良いんですよね?」と支離滅裂な事を言い出したので、責任者のWさんに「H田さんは、最初は私と組んで、しっかりと勉強して貰いますので!」と言うしかありませんでした。こうして、H田さんとは、同室の同班となったのでした。レクチャーの後で、懇意にしている鹿児島事業所のI松さんから、「〇〇さんがオーバーかと思っていたけど、ホンマに居たんやね!」と言われたのでした。

この工事の最終的な人員が揃ったところで、H所長から、既に元請け側と決定済みの話として、本格的に、昼夜2交代体制に移行する事が告げられました。それにより、2名1室で使用していた部屋を、無理筋な話だと考えながらも、部屋によっては、昼夜2交代で使う事が決められたのでした。それにより、後日、ある弊害が生まれる事になりました。鹿児島事業所のWさんの部屋には、同じ鹿児島事業所所属のM田さんを入れましたが、ある朝、衝撃的な場面を目撃したのでした。

昼勤務の私達が、1時間早くロビーに降りて来たところ、ロビーには夜勤チームのM田さんが、ソファに座ってボーっとしていました。「M田さん!お早うございます!どうされたんですか?」と振ると、言いにくそうな感じで「部屋にはWさんが、まだ寝てるので・・・。」とWさんに気を遣ってる様でした。しかも、聞いて行くうちには、Wさんは、鹿児島事業所では上司に当たる方で、部屋でも暖房をつけずに、洋書を読んでいるとの話でした。

当初は、同じ事業所だからとWさんとM田さんを同室にしましたが、このM田さんの話を受けて、Wさんも夜勤チームにコンバートする事を、H所長から指示して貰う事にしたのでした。その頃には、責任者としての職務は、特に無かったので、Wさんを夜勤専従にする事が出来たのでした。こうして、夜勤チームと昼勤チームの作業が、本格的に開始されたのでした。監督の体制は、昼勤チームにはYさんが付き、夜勤チームには直営企業のOBが付きました。

本格的に昼夜2交代がスタートするに当たり、噂通りに本社の課長(名前は忘れました)が、現地所長として赴任して来ます。それにより、朝も夕方もホテルから高所作業車置き場に出勤して、同じ場所にある現地事務所の前でラジオ体操→朝礼→KY活動という流れで、M主任の頃には、ダラダラと集まって現地に出発していた頃とは雲泥の差でした。新現地所長は、夜の道路規制ほど、危険な事はないと判断して、夜間の工事に対してだけ注意を払い、昼間はYさんに一任していました。

それにより、夜間の体制は、現地所長と直営企業のOBが協議して調整。私の会社の責任者は、鹿児島事業所のWさんが受け持つ事が、現地所長が承認して決定されました。昼間の体制は、Y監督の下に私が責任者として付きました。夜間作業において、以下の様な不祥事が発生した事がありました。首都高の夜間の道路規制は、一回、カラーコーンを張り巡らせた安全地帯に入り損ねると、その日の作業はストップしてしまうそうで、ある夜に、それが起こってしまったのでした。

その入り損ねた人が夜間の責任者のWさんだった事と、新現地所長が特にマークしていた場所だっただけに、酷く叱責された様で、Wさんもかなり落ち込んでいました。そんなシビアな環境とは違い、昼間のチームは、できる事なら仕事を回避したがるY監督の下、マッタリとした時間を過ごしていました。午後の予定が早く消化された時には、Yさんが私に「いや〜!予定より早く済んじゃいましたね!時間まで、木陰で昼寝して帰っちゃいますか!」てな調子でした。

それは昼間の監督が、元々、私と同じ単なる作業員だったYさんだったお陰で、時間が余った時には、そんな風に気楽に過ごさせてくれました。一方、夜間作業の方は、Wさんの失敗の後、作業終わりには新現地所長直々のミーティングが開かれる様にもなり、私達が朝に出勤すると、まだ居残っていた事もありました。とは言え、シビアな事もありました。隙間がない程に、電線が縦横無尽に張り巡らされた場所で、高所作業車を操作した事がありました。

先ずは、電線ギリギリでストップして、バケットを回して最初の電線を避けて、更に伸ばして、バケットを戻して、一区切りついた時、ふと下を見ると、Yさんが何やら大きな声で、早く降りて来い!とオーバーアクションで呼んでいたのでした。こちらは、電線を漸く回避して、これから作業と言う段階だったので、Yさんに「ごめんなさい!」とポーズを送って、工事を強行しました。その後、終わってから地上に降りると、Yさんから叱責を受けたのでした。

「〇〇さん!降りて来い!と言ったら降りて下さいよ!高所作業車のアウトリガーのひとつが、宙に浮いていて、かなり危険な状態でしたよ!何も無くて良かったですが!」と仰ったので、「Yさんも、川崎の小松製作所の講習会で習いませんでしたっけ?例え、アウトリガーが浮いていても、全体的なバランスを、車の方が自動で制御してくれて、それに合わせて、ブームも許容限度一杯でストップして、それ以上は伸びなくなると言う話ですが?」するとYさんも「そう言われれば、そうでしたね」と機嫌を直してくれたのでした。
Posted at 2026/07/25 08:47:11 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2026年07月24日 イイね!

Yさんとの出会いと別れ その4

Yさんとの出会いと別れ その4そんなFさんとは、10年後に再会を果たしました。とある広島県呉市の工事に、1日だけエントリーした事がありました。同僚と2人で歩いていると、後ろから「あれれ〜!後ろ姿に見覚えのある人がいるな!」と、声を掛けられたので、振り向くと、そこには工事監督として成熟した、Fさんの姿があったのでした。Fさんは、入構者リストから、既に私の入構を把握していた様でした。その後は、暫しの思い出話に花が咲きました。別れ際には「いつまで?」と聞かれました。

私が「今日だけですよ!」と答えると、「一体、何しに来たん?」と笑顔を向けて去って行かれました。再び、話を戻して、仕事が終わると、必ずH所長に連絡を入れて、有資格者の確保に向けて、積極的に話し合っていました。そんな中、全国の定修現場に余剰人員が生まれる様になって来たので、一気に有資格者を確保する流れが出来つつありました。そして、主に鹿児島事業所の有資格者が来てくれたのでした。そこで、H所長から体制の見直しが指示されました。

それは、有資格者が確保できた事で、実行可能なプラン変更でした。それは、操作に習熟している旧メンバー(後からの資格取得者を含む)が高所作業車のオペレートを担当。有資格者が外観目視から復旧工事までを受け持って、旧メンバーも補助をすると言う、高所作業車1台に付き、1チーム体制となり、作業量を増やすと言う某大企業も、その直営企業も承認済みのプランでした。有資格者が全員赴任して来たタイミングに、先ずは、作業の流れのレクチャーが開かれました。

レクチャーは、ホテルのロビー近くで行われました。それに先駆けて、ある出来事がありました。その出来事とは、広島事業所に所属するH田さんの件でした。そのH田さんは、広島事業所では問題児扱いでしたが、この工事に必要な資格保持者でした。元々は、某大企業の広島工場内にある私の会社に、新入社員時代から勤めていた人でしたが、工場内のシステムにより、指示書に従って仕事を進める事しか知らない人でした。

しかし、所属長の変更により配置転換する事になり、私が所属する広島事業所内の出張工事課に配属されて来たものの、環境と言うものは恐ろしいもので、すっかり指示が無いと動けない人間になっていました。一方で、私が所属していた出張工事課は、いつでも、出張なり出向なりと単独で動けて、責任者になる事も多々あり、自分で考えて行動する事を、常に要求される場所でした。そんな場所に、指示待ちの人間が、不幸にも配属して来たのでした。

すると、当然の結果として、常に責任者の指示の下で、動くのは分かるのですが、H田さんは自分が担当した仕事を全く理解しておらず、翌日に、昨日作業した場所はどこですか?と聞いても答えられない。作業内容も覚えていない、場所への誘導も出来ないと言う様に、大勢の人間で一斉に取り掛かる様な、責任の無い仕事しか出来ませんでした。しかし、このH田さん、人間的には、まあまあ良い人でした。

子供の頃に、分厚い財布を拾って、中に入っていた札束を友達と山分けして、あの時は儲かりました!と臆面もなく語るH田さんを見て、課員全員がドン引きした事もしかり、当時、既に40歳を超えていて、結婚相談所に10年間に渡り、金を捨て続けていたところ、最後にご縁があり、とんとん拍子に行きかけていたところ、あまりに、受け身過ぎるH田さんに嫌気がさして離れて行ったタイミングに、別のご縁が舞い込んで、その方と交際してると仰ってました。

そんなプライベートな話題も、H田さんに振ると武勇伝の様に話してくれました。その更なるご縁は、双子の姉妹の、お姉さんとの交際でした。その双子の姉妹も変わった人達でした。4畳半の部屋で38歳になるまで、2人暮らしをしていたらしく、その間、貯金に励んでいたのでは無く、福山雅治の追っかけとして、散財していたと言う、筋金入りの福山雅治ファンだったのでした。その後、順調に交際を進めていたところ、最初の交際相手から待ったが掛かったそうでした。

最初の交差点相手は、受け身のH田さんに嫌気がさして離れたものの、他にはご縁が無かった様で、ある意味、扱い易いH田さんに戻って来たようでした。結局は、その最初の交際相手に戻る事なく、双子のお姉さんと結ばれて、今では、無事に家族も増え、楽しく暮らしている様です。この首都高の工事の時は、正に双子のお姉さんと交際真っ只中でした。話を戻して、横浜事業所のH所長と人員配置の相談中に、いきなりH田さんの話が浮上しました。

「〇〇!お前んとこの、H田も呼ぼうと考えとるけど、どうや?」といきなり降って来たのでした。私が即座に「H田さんは、勘弁して下さい!H田さんは、自分で考える事が出来ないので、この仕事は到底無理だと思います!」と進言したところ、「もう他に目ぼしい人材が居らんから、一緒に組む相手次第では使えるかも知れんから要請を掛けるで!」と押し切られてしまったのでした。H田さんは、鹿児島事業所の面々が到着した後に、赴任して来る事になりました。

そのH田さんが赴任して来る前日に、懇意にしている鹿児島事業所のI松さんに、「明日、赴任して来るH田さんは、カクカクシカジカな人なんですよ!ですから、常に注意を払って下さいね!」と言うと、「〇〇さん!それは、オーバーに言い過ぎやで!世の中に、そんな人間がいる筈がない!」と断言されたのでした。そして、H田さんが赴任して来て、Wさんの忖度により、H田さんと同室になりました。そして、皆を集めてのレクチャーが行われました。

写真はホテル朋泉草加ですが、設備からして多分ここだった様な???
Posted at 2026/07/24 08:28:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2026年07月23日 イイね!

Yさんとの出会いと別れ その3

Yさんとの出会いと別れ その3しかし、その頃の作業開始は、時間が来たら集まって高所作業車を連ねて現場まで赴くと言う、作業者は作業者、指示者は指示者と言う様に、別行動を取っていたのでした。そんなある日、本社の課長視察が実施されて、M主任の基本を無視した行動が問題となって、全てが見直さられて、M主任は更迭されて現場から離れる事になったのでした。私達もしかりでした。毎日、横浜からの通いでは危険だと考えて、事務所の近くに宿泊許可が出たのでした。

それは、以前からH所長から要請されていた話だった様で、M主任が更迭された事で、漸く具体化した話だったのでした。それにより、埼玉県草加市の駅前のビジネスホテルが宿舎になりました。そのホテルの2階には、檜造りの共同風呂があったのが印象的でした。しかも、その頃には、日本全国の定修(SDM)現場が落ち着きを見せ始めていて、徐々に人材の動きが活発化しつつありました。M主任の後任の現地所長が、件の課長が来るとの噂が広がったのでした。

ここまで時系列で、様々な出来事を書いて来ましたが、私とYさんの話に戻りたいと思います。当初は、深川線の夜勤からスタートした私達でしたが、H所長との連絡や、資材の調達等々に問題が出た事で、夜勤チームと昼勤チームをメンバー変更する事なく、交代する事になりました。私のチームには、沖縄から来たI波さんと、高砂事業所のA松さんがいました。A松さんは資格は持って無かったものの、熟練者でしたが、I波さんは全くの素人でした。

高所作業車内の役回りはこうでした。高所作業車の運転と操作は私で、A松さんとI波さん、もしくは私が外観目視と復旧工事の補助に、その都度、交代で受け持つと言うものでした。最初は、夜勤と昼勤の1チームづつだったので、監督も2人しか居ませんでした。昼間の監督がYさんで、夜の監督はOBの方で高齢の方でした。私が昼間に移った事で、Yさんとの関わりが増えて行くのですが、前出の資格問題を隠していた所為で、どちらかと言えば避けていました。

メンバーの高砂事業所のA松さんは、生粋の関西人で笑いの壺を心得た奇特な人でした。私は極力、A松さんにYさんの扱いを任せて、逃げ回っていましたが、ある時、遂にその関係性が崩れる場面が訪れたのでした。それは、私の会社が関係する他の現場で、有資格者不足の問題が露呈して、大問題になったのでした。そんな事があったある日の休憩中。たまたまA松さんが居ないタイミングで、Yさんが近寄って来て、私に話しかけて来たのでした。

「〇〇さん!あの大問題って知ってます?」と唐突に尋ねられたのでした。私は「遂に来たか!」と内心思いながら軽く頷くと、Yさんは続けて「しっかし、酷い事をするもんだな。で、〇〇さん!うちってどうなんです?」と尋ねて来たのでした。それを受けて「その事なんですが、実はお話ししたい事がありまして、かくかくしかじかでして・・・。」とカミングアウトすると、Yさんからは、「これは、聞かなかった事にするしかねえな!」と笑いながら去って行かれたのでした。

それからのYさんとの関係性は一気に崩れて、一緒になって会社の悪口で盛り上がり、A松さんのかすがいが無くても一気に打ち解けたのでした。Yさんの風貌は、眉が太く、目も大きな背の高い痩せ型の男前で、若い頃には、モテたであろう、そんな人でした。そんな時、M主任の後任に、件の課長が赴任して来る噂が広がりました。その間も、私はH所長に資格保持者の補充を要請し続けていましたが、定修時期でもあったので、無理筋の話ではあったのでした。

課長自らが現地所長になるのであれば、資格の見直しは必ず実施される筈!と考えて、無資格者の責任者から、有資格者の責任者に密かにチェンジする為に、絶えず、H所長と出張者の動向を探っていました。そんな時、鹿児島事業所のWさんが仙台事業所に出張すると言う話が舞い込みました。H所長が「どうする?」と聞いて来たので「仙台に掛け合って、全力で取りに行って下さい!」とお願いしたのでした。Wさんは、O大出の秀才で元は塾講師でした。

時系列を少し戻します。昼間のチームになってからは、夜勤チームの資材サポートから、某大企業の直営企業との打ち合わせ、H所長への連絡まで、私が一手に引き受けていました。直営企業の広島事業所から出向して、現場監督の見習いをしていたFさんとは、地元が一緒と言う事もあり、いつも和気藹々と会話をしていました。そんな時、Wさんが赴任して来たのでした。私とH所長は、早速、Wさんに仔細を伝えて責任者になる事を要請しました。

すると、Wさんも快諾してくれたので、そこで、私の根回しが開始されたのでした。Yさんには、全ての裏事情を話してあったので問題はありませんでしたが、これまで、私を窓口にしていた人に対しては、中々、理解が進みませんでした。そんな時、Wさんから怒りの提言が成されたのでした。「〇〇さん!私に責任者になって欲しいと言われたので、やります!とは言いましたが、それなら全権を私に下さい!今でも窓口は〇〇さんじゃないですか!」でした。

至極、ごもっともな言葉でした。私はWさんに頭を下げて、「必ず、その様にしますので、暫しお待ち下さい」と言ったのでした。そして、それからでした。それまで、私を窓口にしていた全ての人に「これからは、完全にWさんに業務が移行しますので、私には話を持って来ないでくださいね!」と、言って回ったのでした。すると、真っ先に反応があったのが、前出のFさんでした。「〇〇さん!なんで、急にやる気が無くなったん?←広島弁」と真剣に質問されたのでした。
Posted at 2026/07/23 08:18:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2026年07月22日 イイね!

Yさんとの出会いと別れ その2

Yさんとの出会いと別れ その2横浜事業所の責任者であるAさんは、出勤途中に事故に遭ったと言う話までは、理解出来たものの、何故か、その後に退職された様で、H所長からは「〇〇!お前が責任者な!」と言われてしまったのでした。「出張者が責任者って、問題ありありですって!」と言うと「他に居らんから、お前がやってくれ!」と一任されたのでした。大企業の直営企業の方もしかりでした。元々、課長が責任者だった様で、あまりに多忙過ぎて、Yさんに白羽の矢が立っていたのでした。

こうして、ふたりの素人責任者が出来上がったのでした。一方で、某大企業も直営企業も、この空白の2ヶ月間を無駄には過ごしてはいませんでした。高所作業車のベース基地を埼玉県三郷市に設置。複数台の高所作業車もレンタルして、横浜の本社ビル内に司令室を設けていました。そして、それに呼応する様に、私の会社には、人数分のノートパソコンとPHS、それに、同じく人数分のデジタルカメラを準備する様に指示していたのでした。

しかし、定修時期(プラント関係の定期修理です)と重なってしまった所為で、新たに補充する事も出来ず、協力会社に、おんぶにだっこになってしまっていました。それにより、当初に計画していた、外観目視班と復旧工事班を単独で構成する事が出来ず、外観目視した後、直ぐに不具合箇所の復旧に入ると言う苦肉の策にシフトしたのでした。それにより、理論上では、当初の計画の半分の人員で進める事ができる事になったのでした。

しかし、そこには大きな落とし穴がありました。外観目視班と復旧工事班を一緒にした事により、復旧工事で必要な資格の圧倒的な不足でした。と言うのは、特に資格を必要としない外観目視班に、コンバートされていた人員ばかりが、戻って来たと言う側面があり、私もその一人でした。(笑)言い訳をさせて頂くと、その復旧工事に必要な資格は、私が専門にしてる業務と無関係だったので、持ってない資格でしたが、仕事は普通に可能でした。

この事がある出来事に繋がるのですが、それは後述するとして、話を戻すと、当初の体制はこうでした。先行する外観目視班は、不具合箇所があれば、その都度、デジタルカメラで撮影して、その画像をノートパソコンに保存して、作業後に、それをPHS回線を使って司令室に送ると言うもので、後追いの工事班も復旧後の撮影があり、同じ様にPHS回線で送信すると言う事でした。しかし、外観目視班と復旧工事班が一緒になった事で業務も半分になりました。

先ずは、横浜事業所の事務所内で、ノートパソコンとPHSを接続して、デジタルカメラで撮った画像を送る方法を、全員で勉強する事になりました。ある程度の勉強が進んだ時点で、もうひとつの課題である高所作業車の操作方法の習得の為に、全員で、車に乗り合わせて、横浜から埼玉県三郷市のベース基地まで、早朝から移動する日々が始まったのでした。ベース基地では、専門の業者さんを講師に迎えて、広い場所に移動して特訓が開始されました。

最初の頃は、自分が設置するアウトリガーに自信が持てず、へっぴり越しになっていましたが、その内には、専門業者さんからも、お墨付きを頂けるまでになり上達したのでした。全員が高所作業車の免許皆伝となったタイミングで、テストを兼ねて、深川線からスタートする事になりました。衆人環視のある昼間のチームには、協力会社の1チーム3人を入れて、私は沖縄からの出張者を含めた3人体制で夜勤をする事になったのでした。

しかし、そこには恐ろしい事実が隠されていました。先程も書きましたが、資格が無くても復旧工事は可能でした。その時の資格体制としては、昼間の協力会社には、資格者がいるものの、夜勤には資格者が皆無と言う事実でした。つまり、昼夜2チームの仕事を、1人の資格で回してるのでした。昼間のチームは作業終了後には、早速、司令室に向けて画像を送付した様でしたが、枚数が多かったのか、夜勤チームが出勤した時にも終わっていませんでした。

そして、夜勤チーム(私です)が送付する頃には、ある問題点が浮上しつつありました。それは、PHS回線で画像を送り続ける事で、回線がパンク状態になってしまう事でした。それにより、某大企業グループからは、「作業はそのまま続けて貰って構わないが、画像は送らないでメモリーカードだけ、うちの人間に渡して下さい!」と言われたので、結局、夜勤チーム(私です)は、画像を送らずに済んだので、早く横浜に帰る事が出来たのでした。

某大企業と直営企業の担当者は、方針を大転換して、埼玉県三郷市の某所にサーバー基地を設けたのでした。その敷地内には高所作業車も駐車する場所があり、チームが帰って来たら、メモリーカードを受け取って、直ぐに工事記録に反映させる為に、パソコン要員の女性も雇い入れていました。他にも、某大企業の何故か広島事業所からも応援者が来ていて、工事記録の作成に駆り出されている様でした。その時の某大企業の責任者はM主任でした。

Mさん主任は、生粋のパソコンオタクでした。最初からトラブル続きだった所為で、Mさんは異常に張り切っていましたが、本来、工事がある場合には設けなければならない業務が、全て御座成りになっていました。その業務とはサーバー基地とは別に、高所作業車の駐車場に、現場事務所を作り、表には各種スローガンを掲げて、朝礼やラジオ体操を行う。作業者もKY活動をしてから作業を開始すると言う、至極、基本的な事柄の数々でした。
Posted at 2026/07/22 10:25:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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「プランが崩れて衝動買い その3 http://cvw.jp/b/3142171/49234979/
何シテル?   08/08 09:00
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