
三連休です
11日月曜日休みを取ることができました
昨年は緊急事態宣言下で遠出はかなわず、今年も予断を許さない状況ですが、北陸へ2年ぶりに出かけることにしました
3日間の旅日記
よろしければ、お付き合いください
1月8日土曜日
未明に出発して
早めに東京駅に到着したので
長野行
東北・上越方面
乗車するのは
かがやき503号金沢行
10分ほど前に入線
定刻発車
上野、大宮の次は長野までノンストップ
金沢まで2時間半です
軽井沢
思ったより雪は少ないです
妙高
金沢駅着
旅行者で賑わっています
ここからの相棒はカローラです
先ずは15分ほど走り
にし茶屋街
最初に伺うのは
甘納豆かわむら
お店が広がり、品揃えが増えましたね
珠洲の『二三味』ということは・・
お目当ては限定品のこちら
一旦金沢を離れて富山県南砺市に向かいます
南砺市井波
八日町通り(石畳通り)
井波別院瑞泉寺門前から真っ直ぐに伸びる道沿いには彫刻工房が軒を連ねています
昼食がまだなので、開いていたこちらへ
蕎麦懐石 松屋さん
入口にはお店の紹介記事が載った雑誌が多数置かれています
メニューを見て
更科か田舎か迷いましたが・・
手打ち更科そば
手打ち十割田舎そば
両方食べて解決です
ここで
なぜこちらに伺ったかというと・・
明徳元年(1390年)本願寺五代綽如上人(しゃくにょしょうにん)は、後小松天皇の勅許(ちょっきょ)天皇より命令が下ることにより井波別院を創設したが、いく度か焼失しそのつど再建された。特に江戸時代中期、瑞泉寺本堂再建のおり、本堂彫刻のため、京都本願寺より、御用彫刻師・前川三四郎が派遣(命じて出向かせること)され、このとき地元大工・番匠屋九代七左衛門ら四人がこれに参加し、前川三四郎について彫刻の技法を本格的に習ったのが井波彫刻の始まりである。
(中略)
以後、その門流が江戸時代末期頃まで主に神社仏閣彫刻などにその技法を競っていた。明治時代に入ってから寺院欄間に工夫をこらして新しい住宅用の井波欄間の形態が整えられ、特に初代・大島五雲は欄間彫刻の研究に没頭して新生面を開いた。
昭和に入ってからも、寺社彫刻は活発で、東本願寺・東京築地本願寺・日光東照宮など全国各地の寺社・仏閣の彫刻を数多く手がけ、それと並行して一般住宅欄間・獅子頭など・置物にも力が注がれた。
(井波彫刻協同組合ホームページ『井波彫刻の由来』より抜粋引用)
井波別院瑞泉寺です
山門
総欅の重層入母屋造り
1809年上棟
富山県指定重要文化財
内外に素晴らしい彫刻を見ることができます
本堂と太子堂は雪囲いがされており、外からの全容を見ることができないのが残念です
内部は撮影禁止のため、太子堂から鐘楼堂と山門を望む写真と次の写真だけ撮ります
明治、大正期の再建ですが、井波彫刻の粋を集めた建築とだけあって見応えがあります
勅使門(ちょくしもん)
名前の通り、勅使をお迎えする(した)時だけ開かれる門と説明をいただきました
近寄ってみます
寛政四年(1792年)瑞泉寺勅使門 菊の門扉、両脇に彫刻した「獅子の子落とし」は七左衛門の代表作で、狩野派風な図柄で浮き彫りの技法が駆使され、日本彫刻史上の傑作とされている。
(井波彫刻協同組合ホームページ『井波彫刻の由来』より抜粋引用)
納経帳に御朱印をいただきます
松島八幡宮
佇まいに惹かれて
参拝します
御神木と案内板が出ているわけではないのですが、思わず足を止めて撮ります
井波彫刻総合会館
道の駅同一敷地にあり、井波彫刻の歴史を辿る常設展示と欄間・衝立・パネル・天神様・獅子頭に代表される、置物等が200点以上展示・販売されています
現代の作家による作品も素晴らしいのですが、私には手が出ないので、見るだけです
※館内は撮影禁止です
続いて
越中一宮
高瀬神社
初詣の参拝客で賑わっています
(以下高瀬神社ホームページより抜粋引用)
御鎮座は遠く神代の昔、また景行天皇11年の御代とも云われています。社伝に御祭神が北国御開拓の折、この地に守り神を祀り、国成りおえて後、自らの御魂をも鎮め祀られ、出雲へ帰り給うたとも伝えられ、のちに延喜式内社、越中一宮として崇められてきました。
越中国の人々は勿論、朝廷の崇敬も厚く、天武天皇の御代に勅使を派遣され、光仁天皇の宝亀11年に従五位、文徳天皇の斉衝元年に従三位、また同年、祢宜、祝等に把笏を許さる。貞観元年に正三位、その後も順次累進、治承4年に正一位を授かりました。
(中略)
戦国時代には社頭荒廃し、見るに忍びない状態となりましたが、前田藩主の崇敬厚く漸次神威昂揚せられて、明治6年に県社、大正12年に国幣小社に昇格されました。
大正13年には摂政の宮の御使が参向され、大正14年には皇后陛下より「神ながらの道」を奉献され、昭和3年の御大典、昭和16年の宣戦また昭和20年の終戦には勅使の参向がありました。
(以上)
さざれ石
御朱印はこの時期書き置き対応となるそうです
北陸地方としては珍しく快晴の日
日没間近でもまだ明るいので、もう一社参拝します
高岡市へ
以前国宝の瑞龍寺と古い街並みを訪れたことがあります
高岡古城公園
車を停めて
越中国一宮
射水神社
こちらも初詣の参拝客で賑わっています
(以下射水神社ホームページより抜粋引用 ご参考まで)
射水神社はもともと、霊山である二上山そのものを祀る社であったと考えられています。古記録に、当社のご祭神は「二上神」と記されており、神仏混淆(しんぶつこんこう)が主流だった江戸時代までは、「二上山大権現(ふたがみやまだいごんげん)」として人々に崇敬されてきました。その後、明治時代には政府による神仏分離令を受け、二上神は瓊瓊杵尊として祀られるようになりました。
「射水(いみず)」という社名は平安時代初期の『国造本紀』に記された「伊弥頭(いみづ)国造」に由来するとされ、平安時代より前から当地の豪族を中心に信仰されていたことが推察されます。
創祀は太古で、当初は現在の鎮座地から5kmほど北の大伴家持卿由来の名勝・二上山の山麓に鎮座され、祭祀が行われていました。当時の領域は、二上荘67ヵ村、二上神を二上権現として祀った別当寺を含めた社寺は二上全山に亘り22万余坪に達したといわれ、越中国全土の各戸より毎年「初穂米一升二合」奉納の制度があり、隆盛を極めました。以後、戦国期に戦災で社殿を焼失したこともありますが、皇室や武将の尊崇も篤く、江戸時代には加賀藩の祈祷所になるなど、越中国一宮としての格式を保持してきました。
当社はこの地で千年超を過ごし、明治4年(1871)に越中最高位の「国幣中社」に列格、その4年後、高岡城跡(国指定史跡[平成27年4月指定])の「高岡古城公園」へ遷座されました。江戸時代の城跡に社殿を構える一宮は全国で当社のみです。
(以上)
大伴家持は越中国守として5年間在任したそうです
御朱印
書き置きで二種から選ぶことができます
すっかり日も暮れてきました
金沢に戻ります
金沢市尾張町
『むさし』さん
5年ぶりに訪問します
落ち着いた雰囲気でゆっくりできます
とんかつなど揚げ物や焼き物が充実しています
あれこれと悩むのが楽しい
お通し
刺身は
甘海老
しめさば
ぶり
さわら
やりいか
かわはぎ
さわらといかが秀逸です
ポテトサラダ
白子天ぷら
油淋鶏
酒の品揃えも充実しています
定番のこちらで〆
お店を出ると、あたりは静まりかえっています
明日に備えて早めにホテルに戻ることにします
今日はこのあたりで
長くなりました
お付き合いいただき、ありがとうございました😊
ブログ一覧
Posted at
2022/01/10 18:00:18