
旅の2日目は熊野三山です
お付き合いいただき、ありがとうございます😊
1日目
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伊勢市を早朝に出発します
まだ、開いていない『道の駅パーク七里御浜』で一休み
世界遺産の構成要素となる美しい海岸が目の前です
明日、改めて訪れることにして
熊野那智大社
熊野速玉大社
熊野本宮大社
の順に参拝することにします
(週末混雑予想)
ここで
熊野三山とは?
熊野本宮大社のホームページに
『5分でわかる熊野本宮大社』
というページがあり、わかりやすかったので、以下そのまま引用します
「熊野」は、和歌山県南部~三重県南部の地域を指します。和歌山県南部に「熊野三山」と呼ばれる三つの大きな神社があり、熊野三山へお参りするための道を熊野古道といいます。
熊野三山はどんな神社なの?
熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を合わせて熊野三山といいます。
熊野の神々は自然信仰に根ざしていましたが、奈良~平安時代にかけて熊野は仏教・密教・修験道の聖地ともなり、神=仏であるという考え方が広まりました。
その影響を受けた三山は結びつきを深め、同じ12柱の神々(=仏たち)をおまつりするようになります。熊野三山の神秘性はますます高まり、平安時代の末には「浄土への入り口」として多くの皇族や貴族がお参りするようになりました。浄土へお参りし、帰ってくるということは、死と再生を意味します。そのため熊野三山は「よみがえりの聖地」として、今なお多くの人々の信仰を集めています。
以上
さて、駐車場にクルマを停めて
ここからが参道です
473段の石段とのことです
息が上がりはじめたところで
鳥居が見えてきます
到着
と思ったら、先があります
ようやく
熊野那智大社 拝殿
主祭神は熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ、イザナミノミコト)
夫須美(ふすみ)とは「むす」という生成発展を意味する言葉であり、同時に「結(むすび)」という意味を持っています。このため、かつては「結宮(むすびのみや)」という通称で呼ばれていました。
他の二山と違い、御滝の神様を併せ祀っているため一柱多く神様を奉斎しています。元々は御滝の近くで祀られていましたが、約1,700年前に現在の場所に遷りました。
(熊野那智大社ホームページ)
御本殿域は重要文化財
世界遺産です
この先の撮影は控えます
玉垣内には正面に五殿があります。
右から四つ目の御社殿が、熊野夫須美大神(イザナミノミコト)をまつるお宮でひときわ大きく建てられています。各社殿とも熊野造りです。
(熊野那智大社ホームページより抜粋)
八咫烏(やたがらす)・御縣彦社(みあがたひこしゃ)
八咫烏は熊野の神様のお使いである、三本足の烏です。より良い方向へ導く、お導きの神様とされ、御縣彦社でお祀りされています。
即位以前の初代天皇、神日本磐余彦命を奈良の橿原の地まで道案内をした八咫烏が、案内を終えてこの那智山で石に姿を変え休んでいると伝わる【烏石】(からすいし)があります。
(熊野那智大社ホームページ抜粋、一部変更)
樟霊社(しょうれいしゃ)
樹齢約850年の樟を御神木として祀っています。
平重盛の御手植えと伝わっています。
(熊野那智大社ホームページ)
すぐ隣に
那智山 青岸渡寺(せいがんとじ)
西国三十三所一番札所
重要文化財
世界遺産
創建は4世紀と伝わる天台宗の寺です
平安朝中期から鎌倉時代は、「蟻の熊野詣」といわれ、熊野三山の信仰が盛んになり、この時、65代花山法皇が三年間山中に参籠され那智山を一番にして近畿各地の三十三観音様を巡拝されましたので、西国第一番礼所となりました。
現在の本堂は、織田信長南征の兵火にかかり、天正18年(1590)豊臣秀吉によって再建され、桃山時代の建築をとどめ紀南で一番古い国指定の重要文化財建造物で、この堂の高さは18mで、大滝の落口の高さと同じであるといわれています。
(熊野三山協議会ホームページ 御由緒より抜粋)
おなじみのアングルで
三重の塔は青岸渡寺の一部です
ここから急坂を降り
熊野那智大社別宮
飛瀧神社
光ヶ峰(ひかりがみね)遥拝石
光ヶ峰は熊野の神様が降臨したと伝えられている御山で熊野信仰の原点、と案内板にあります
滝が御神体です
那智の滝
133mの落差は日本一
駐車場にもどります
熊野古道
大門坂の入口です
案内板から進むと石の鳥居
夫婦杉
昔からの石畳が今も残ります
本来ならば、ここから熊野那智大社を目指すべきでしょうが、雰囲気だけで・・
熊野速玉大社に向かいます
まずは
王子神社(浜王子)から参拝します
続いて
阿須賀神社(あすかじんじゃ)
朱塗が美しい立派な社殿です
後ほど参拝する『神倉神社』に降臨した熊野の神々が、次にこの地に祀られたと伝えられています
熊野速玉大社です
御神門
拝殿
奥には熊野夫須美大神を祀る結宮と熊野速玉大神を祀る速玉宮が並んでいます
(熊野速玉大社ホームページ)
順に参拝して
鳥居近くの
手力男神社 八咫烏神社
神倉神社に向かいます
目指す参拝者は多く、20台ほどの駐車場はほぼ満車です
鳥居から壁のような石段です
この場所で遥拝する参拝者も多いようです
石段は538段!
源頼朝の寄進によって造られたそうです
その石段を今歩いていることが感慨深いのですが、キツい
神倉神社
社殿の奥のゴトビキ岩が見る者を圧倒します
古代の人も畏怖の念を抱いて見上げたことでしょう
ゴトビキとはヒキガエルを指すそうです
以下引用です
「熊野権現御垂迹縁起」(1164年長寛勘文)はじめ諸書によると、熊野の神々は、神代の頃、まず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇五十八年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり、「新宮」と号したことが記されています。
初めは、二つの神殿に熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神を祀り、平安時代の初めには現在のように十二の神殿が完成しました。
日本書紀には、神武天皇が神倉に登拝されたことが記されています。悠久の古より人々から畏れ崇められてきた神倉山には、初め社殿はなく、自然を畏怖し崇める自然信仰、原始信仰の中心であったと思われます。
以上
(熊野速玉大社ホームページより)
登った甲斐のある景観です
今一度、振り返り
壁のような階段を降ります
伝わるでしょうか?
そして
いよいよ熊野本宮大社へ
鳥居
158段の石段の参道を上ります
祓戸大神
参道途中にあり、身を清めていきます
案内板がのぼり旗に隠れていて見逃す参拝者がほとんどです
御本殿のお参り順が記されています
神門
ここから先は撮影禁止です
『5分でわかる熊野本宮大社』から、また引用させていただきます
【熊野本宮大社の歴史まとめ】
当社の主祭神は、家津美御子大神(スサノオノミコト)です。
歴史を遡ると、古代本宮の地に神が降臨したと伝えられています。
三本の川の中州にあたる聖地、大斎原(おおゆのはら)に社殿が建てられたのは、崇神天皇65年(紀元前33年)のことでした。奈良時代には仏教を取り入れ、神=仏としておまつりするようになります。
平安時代になると、皇族・貴族の間に熊野信仰が広まり、京都から熊野古道を通って上皇や女院の一行が何度も参拝に訪れました。
室町時代には、武士や庶民の間にも熊野信仰が広まっていました。男女や身分を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さから、大勢の人が絶え間なく参拝に訪れる様子は「蟻の熊野詣」と例えられるほどでした。
明治22年の大洪水により、大斎原は大きな被害を受けました。当時は能舞台などもあり、今の8倍の規模を誇っていましたが、明治24年に上四社が現在地へ移されました。
今、大斎原には中四社、下四社、境内摂末社の神々がおまつりされています。
以上
八咫烏ポスト
拝殿脇には『今年の漢字』が飾られています
大斎原に向かいます
伊弉冉尊(イザナミノミコト)の荒魂をお祀りする産田社にお参りをして
大斎原の大鳥居
熊野本宮大社の旧社地です
熊野三山参拝を終えて
宿は尾鷲です
夕食はこちらへ
『鬼瓦』さん
駅近く飲食店街にある尾鷲の方々の憩いの店といった雰囲気です
ご常連なのかご家族なのか私にはわからないぐらいの賑わいで、老若男女、思い思いにお酒や食事を楽しんでいます
ご主人は現役の格闘家とのことです
料理は豪快、会計はとても良心的です
刺身
煮付
関東者の私にとっても甘く濃い味付けですが、好きな味です
フライ
大カマスは覚えているのですが・・
締めは焼魚を定食に
小鉢の一品も甘く濃い味付けでご飯が進みます
いただいた御朱印です
熊野那智大社
飛龍神社
青岸渡寺
納経帳を持っていなかったので書き置きをいただきました
熊野速玉大社
神倉神社
阿須賀神社
熊野本宮大社
2日目も歩きました
明日に備えて早めに休むことにします
大変長くなりました
お付き合いいただき、ありがとうございました😊
旅の最終日
3日目に続きます