
3月の便りを聞くと…地元のテレビ番組の様子がかわり…
ゆり返される記憶…
今年の相馬での追悼式は平日ということもあり
5人での参加です
参加できなかった皆様のお気持ちを心に抱いて…
能登にも想いを馳せて…

前日にAEONに行ったらたくさんの黄色いレシートに心打たれました

1番目に到着し、栄養補給しながら待ってます

福さん
のっちさん
ヒロユキさん
蟹江さん
ユウナ(らいらは体調不良で急遽欠席)
まだ時間は11時…
先に地元でのお魚たちを頂きます
ようやく収まってきた風評被害…
それを払拭するように皆で食べました🐟

5人なのに7人分…
しかもおひとり、「海鮮丼大盛りとカレー大盛り」を頼んだ強者が…(誰でしょう)
地元のものを美味しく頂き、お土産を買い…
それも小さな復興支援だと思っています
美味しく頂きました(◍︎´꒳`◍︎)
お魚大きくて美味しい(ミニ海鮮丼とミニ穴子天丼をご飯少なめでお願いしました)

また、今回連れていったこのこ トートバッグ
気仙沼の「オイカワデニム」さんの物です✨️
3.11で津波に流された数千本のデニムは糸1本切れてなかったと伝えられ「奇跡のジーンズ」とも言われ有名人にも愛用されています
このトートバッグには一部に流された大漁旗が使われており、自分だけのオリジナルに🍀*゜
ジーンズや小物などたくさんの商品が揃っています🍀*゜

食後にご馳走になったデザート🍨
福島の🍓がとても美味しい…
ネイルはミモザの花束💐…
「感謝と思いやり友情」という花言葉、優しさや強さ、幸せを表す花です

時間が…近づき 海の方へ…
不思議なことに…この時になると
風が強くなり寒く感じます…

のっちさんが職場の方と共に心を込めて作ってくださった
和柄の綺麗な折り鶴…

伝承館のほうで飾ってくださいました

今年もタイサンボクの葉にそれぞれの想いをこめて…
黙祷のサイレンとともに…
14年分のたくさんのことがかけめぐる…

蟹江さんが用意してくださった花とともに
この場に来られなかった娘・らいらの象徴のうさぎと2年前、ここの海に還した あかにぃの絵と
全ての人たちへ想いを込めて…海へ

ずっと流れていくのを…言葉少なにみていました

地元の方がダンボールを持ってきました
中には…

阪神・淡路などから送られてきた、メッセージいりのたくさんのタイサンボク
16000枚ほどあるそうです🌿

抱えきれないほどの想いを受け取り、皆で海に送りました
小さな子供の字で
「絵がうまくなりたい」
とあり、微笑ましかった…
当時、産まれてなかったであろう子供の未来のために…
忘れない…語り継いでいきたい…

まるで橋がかかるように…細く長く流れていくのがとても不思議な感覚でした
地元の方とお話したのですが…
数年前にようやくこれたとおっしゃっていました
私も…自身の地元の海には…行けないと思います
昨年、震災後初めて流木を拾いにいきましたが
3月11日にあの海に立てる日は……
難しいと思います…
皆が居て、支えてくれるから今年もこの日
ここで過ごすことができました
浜の駅に戻り、支援のためにお土産を選ぶ皆様と
お店の方の笑顔…たくさんの地元の産物
活気があり、力強さを感じました
いつもは夕方に離脱するのですが…今年は
名残惜しさと1人で来たので
「絆の仲間」たちと色んなお話を…
近くの橋でライトアップがあると聞き、
その時間まで待ちました

上手く撮れません💦
幻想的で綺麗でした…
あの日の夜は電気がなく星空が広がっていたのを
思い出しました

レトロチックなラパコにはアンバーのヘッドライトが似合います🍀*゜

蟹江さんがかっこよく撮ってくれました✨️

昨年、「追悼式での笑顔のオフ会」で賛否両論、
また「ネット上での絆はない」というご意見を頂きました。
一度、リアルで見て頂いたらきっと伝わるかな…
と個人的には思ってます。
上っ面なんかじゃないってこと…
現地の方の頑張りや笑顔にはこちらも笑顔でお返ししたい
同じ想いで集まり続けていれば…
細い糸だって、いつか頑丈な縄になります
もう、忘れたい…思い出したくない方もいらっしゃいます。
その人その人の考えや想いで良いと思ってます

名残惜しくて、誰も「そろそろ」を言い出せません…
あっという間のような長かったような1日

蟹江さんが月とコラボの写真を撮ってくれました

福さん いつも素敵な時間をありがとう!
繋げてくれたおかげで、笑うことが少なかった日々から 笑顔で居られることが増えました
例の物「初めて見た!」って言ってくれて嬉しかった笑
自分ではなかなか気づけないものです

のっちさん また優しい眼差しと笑顔に会えて
とっても嬉しかったです( *´꒳`* )
あれ?カーボンのトップの値段の「ピタリ賞」はなかったのですか?笑
後ろ走ってて本当にかっこよかった!

ヒロユキさん 会えてよかったぁ(´°̥̥ω°̥̥`)
また行方不明になるかと気が気じゃないです
スヌーピー見るといつも思ってますよー
お似合いです( *˙ω˙*)و グッ!
次の機会、宜しくお願いします🍀*゜

蟹江さん いつもさりげなくサポートしてくれて
本当にありがとう⸜(* ॑꒳ ॑* )⸝
今度は呪術廻戦で盛り上がれるねっ!
呼んでくれたら飛んでいきますよー✨️

絆は続くよ どこまでも(◍︎´꒳`◍︎)
~完~
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ここからは「伝えていきたいこと」「学んだこと」
「これからのこと」
を書いていきます。
関心のある方は読み進めてくださいませ
また、詳細が違っている箇所があるかもしれません
ご了承ください🍀*゜
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1978年6月12日 17時14分
宮城県沖を震源とするマグニチュード7.4の地震がありました。
まだ小さかった私は庭の池があふれるほど揺れていたこと、タンスが倒れた事などを覚えています
亡くなった方16人のうち11人がブロック塀の倒壊によるものでした。
ブロック塀の倒壊は仙台市だけで1万件をこえました。
ライフラインの復旧にも時間がかかりましたが
我が家は父が車のバッテリーで灯りを点してくれた記憶があります。
宮城県沖地震は30年周期で来ると言われており
防災意識は高い方だったと思います。
1978年の地震がおこってからは
大きな地震の後の報道では「今回の地震は宮城県沖地震ではありません」というアナウンスがありました。
それほど地元では「宮城県沖地震」を警戒していたということです。
ブロック塀の倒壊により、宮城県は積み上げただけのブロック塀を鉄心入のもの また下3段だけブロックにしてその上はフェンスなどにするよう呼びかけ、我が家もフェンスに替えました。
万が一の倒壊被害を防ぐためです。
建築基準も日本屈指の厳しさの耐震構造になったと耳にしました。
10年、20年と経つうちに次の「宮城県沖地震」への恐怖は隣り合わせになり…
子供たちにも小さな頃から地震の時の行動は伝えてきたものです。
阪神・淡路大震災での火災を教訓に宮城県では
次々とガスメーターの交換が行われていきました
大きな揺れがあるとガスが遮断されるものです。
古くから住む宮城県民は
「いつか必ずくる宮城県沖地震」
をいつも意識していました
3.11より前に震度5の地震があり、被害が少ないと「これが宮城県沖地震であってほしい」と願いました。
3.11の2日前、大きな地震がありました。
マグニチュード7.3 震度5です。
私は子供たちに
「近いうちにきっと大きな地震が来ると思う。
外にいる時は大人のそばに…歩いてたら建物から離れて。必ず迎えに行くから、その時は生きることだけ考えて」
と話しました。何故、確信を持ったのかは私にもわかりません。
あの日…本当に運命がわかれた日だと思います
私は子供たちと仙台空港の海側にある公園に行く予定でした。
娘が上級生の卒業式の手伝いをすることになり
息子と私は自宅に居ることになったのです…
そして、未曾有の3.11は33年目に来た「宮城県沖地震」としてカウントされたのです
宮城県が過去の地震や阪神・淡路大震災をきっかけに「未来への防災」をしたことが
災害被害を少しでも減らせたと思っています。
これからは津波に関する防災に役立ってほしい
伝えていきたいと思う気持ちには未来の命を守りたい一心です。
だから 「もういいんじゃないか」と言う方がいても…1人にでもいい…語り継いでいきたいのです
あれから14年…
また「30年周期」のカウントダウンが始まっています…
宮城県だけではなく、全ての地域の減災を心から祈っています
読んで頂きありがとうございました
(* ᴗ͈ˬᴗ͈)”