
永田 七恵さん(ながた・ななえ=元女子マラソン五輪代表、旧姓佐々木)
27日午前死去、53歳。岩手県大船渡市出身。関係者によると、約2年前から直腸がんの治療を受けていた。葬儀・告別式は近親者のみで行った。
日体大卒業後、教員生活を経てエスビー食品入り。女子マラソンが初めて五輪に採用された84年ロサンゼルス大会にライバルの増田明美さんとともに出場し、19位。結婚して引退したが、その後はエスビー食品でコーチなどを務めた。
女子マラソンの草分け
「努力は無限」体現(2009/6/30)
写真・1985年3月の名古屋国際女子マラソンで優勝し、中村清監督(右)と声援に手を上げて応える永田(旧姓佐々木)七恵さん=瑞穂陸上競技場
日本陸上界に29日、悲しい知らせが広がった。女子マラソンのパイオニア的存在で、1984年ロサンゼルス五輪代表の永田(旧姓佐々木)七恵さんが27日に亡くなっていたことが分かった。53歳だった。永田さんは約2年前から直腸がんの治療を受けていた。
永田さんは岩手県大船渡市出身。日体大から地元着手県の高校教員などを経て、82年に実業団の強豪、エスビー食品に入った。マラソンを始めたのは大学卒業後だった。当時監管だった名伯楽、故中村清氏の言葉を借りれば
「天才は有限、努力は無限」が、永田さんを形容する表現だった。同じ師弟関係でも高校時代から名声を博した天才肌の瀬古利彦氏に対し、努力の人だった。
東京国際女子マラソンの第1 回大会は3時間7分20秒で26位。猛練習を積み、83年の第5回大会では2時間37分9秒で日本選手として初優勝。外国選手に食い下がる粘り強い走りは、当時のテレビドラマにちなみ
「おしん走法」と形容された。
ロス五輪は19位だったが、トラック種目で際立つ実績がなくても、頑張り次第でマラソン代表になれることを示した。ライバルだった増田明美さんの日本記録を破ったのは、同じ努力型の宮原美佐子さん。日体大の後輩で五輪メダリストの有森裕子さんは「努力型の人。モチベーションの中で目標にしながら後を追ったところがある」と話した。
80年代は女子選手が結婚後も競技を続けることが難しかった時代。永田さんは85年の名古屋国際女子マラソン優勝を花道に結婚、引退したが、
「努力する心」の志は受け継がれ、日本女子マラソンはシドニー、アテネ両五輪で金メダルを獲得した。
ともに デーリー東北より
私が学生時代は「盛岡一高」の先生であった。進学校の先生だから大変だろうな、と思ったものである。すぐ近くの岩手大学のグランドで練習していたそうで、地方では割と練習環境には恵まれていた。
中距離の選手だったとあるが、むしろマラソン就職してスピードがついた、はずだ。瀬古選手のように重要な大会の前ほど、短いレース(ハーフマラソン・トラックレース)に出場してスピードアップしてきたと思う。
マラソンの練習は走り込みである。あるレベルの走り込みの上にスピードを付けなければならないからね。当時、増田選手のスピードは革新的だった。選手というより、「指導者」として中村先生の門をくぐったのだろう、と確信している。
一流選手は短命といわれることが多い。ましてや、走ることである。走ることで健康的な生活が出来ることを証明してほしかったね。まぁ、高血圧で無く、癌だったからねー。
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Posted at
2009/07/03 17:02:59