
写真・日産
ルークス、レスポンス2009年10月15日(木) 20時10分より
ヂャイアント
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヂャイアントは、名古屋市熱田区に本社を置く日産自動車グループの愛知機械工業株式会社が1947年から1960年まで製造した自社ブランドのオート三輪である。
・1947年7月 AA1型発売。
・1960年9月AA24型の生産打ち切りを以ってヂャイアント生産終了。
ヂャイアントの販売体制
* 当初は日本自動車株式会社など22都道府県22店で販売していたが、1950年には主要代理店が34店。1954年には38都道府県42店に拡大した。
* 愛知・岐阜両県の代理店販売を受け持っていた日本自動車名古屋支店の三輪自動車部門の業務を譲り受け、1958年3月に愛知ヂャイアント株式会社を設立した。以降、10月には福岡と札幌両支店の同部門をそれぞれ福岡ヂャイアント、北海道ヂャイアントに。11月には本社の同部門を千代田ヂャイアントにした。また、1959年5月には三重県津市にあった日東商事株式会社を三重ヂャイアントに。山口県下関市にあった防長国産自動車株式会社を山口ヂャイアントに。更に8月には静岡県にあった愛知機械の静岡営業所を静岡ジャイアントにして系列販売店が構築。以降もヂャイアント店は全国に拡大し続けた。
ヂャイアント打ち切りに伴い、店名をコニー店に逐次変更し、以降は軽自動車「コニー」の販売を行った。
最終更新 2009年4月5日 (日) 01:15より
愛知機械工業
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1959年3月 - 自社ブランド軽自動車「コニー」製造・販売開始。初代AA27型は軽三輪車。
1962年11月 - 日産自動車と提携開始。
1970年10月 - 「コニー」の製造・販売を終了。
創業以来の自動車生産については1965年のコニー・360ワイド以降は新型車の開発も無く、ホンダ、スズキ、ダイハツなどを中心とした熾烈な新型車開発競争・販売合戦からは完全に脱落、「利益確保優先」と称して積極的な販売促進策も講じられなかったことから、ついには「再建の足かせ」とまで評されるようになり、1970年10月には自社ブランドでの自動車生産から撤退、特別損失40億6800万円を計上し、堀社長は引責辞任した。なおディーラーネットワークであった「日産コニー店」は日産・チェリーの登場に合わせて「日産チェリー店」(後にチェリーに変わって登場した日産・パルサーの登場後は「パルサー販売会社」と称される。ただし、多くは「チェリー」の名を残していた)と改名し、現在の日産・レッドステージの礎のひとつとなる。
最終更新 2009年12月3日 (木) 11:48より
日産・チェリー
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ディーラー網 [編集]
新規車種のチェリーの発売に際して、日産の新たな販売系列として「チェリー店」が設立される事となり、「チェリー店」の設立には、1970年10月をもって自社ブランドの軽自動車「コニー」の生産販売から撤退した日産自動車グループの愛知機械工業の販売系列の「コニー店」の大半が、「日産コニー○○販売」から「日産チェリー○○販売」に社名変更した上で「コニー店」から「チェリー店」に鞍替えして設立されている。
「チェリー店」の取扱車種には、主力車種のチェリーの他に、上級車種のバイオレット、チェリーの名を冠したチェリーキャブ(後のチェリーバネット)が投入され、1977年にはチェリー店で取り扱われていたバイオレットがバイオレットの兄弟車種として発売されたオースターに取扱車種が変更、1978年には主力車種のチェリーの3代目へのフルモデルチェンジを機にパルサーへ車名変更され、1980年には高級車種のレパードTRXが投入された。
しかし、1978年の3代目へのフルモデルチェンジの際に、それまでのチェリーからパルサーに車名変更された後も、販売系列の「チェリー店」の名称や販売会社名の「日産チェリー○○販売」の名称が変更される事も無かったが(広告上では「パルサー販売」「パルサー販売会社」「日産チェリー販売会社」と表記)、1980年代後半に「チェリー店」の取扱車種が「プリンス店」と共通化されて、全国各地の大半の「チェリー店」が同じ地域の「プリンス店」との合併・統合が相次いで「チェリー店」の店舗が現在は岩手県のみ(日産チェリー岩手販売)となり、1999年には「サニー店」と統合されレッドステージ店となった。
最終更新 2010年1月26日 (火) 14:32より
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に販売チャンネル・5チャンネル、という項目がある。トヨタの販売店の記述は日時があり、わかりやすい。ところが日産のお店はわかりにくい。実は個々の項目には書いてあった。
1947年7月 「ヂャイアント店」設置
1960年9月 「コニー店」に改称
1962年11月 - 日産自動車と愛知機械工業が提携開始。
1970年10月コニー店の大半が「チェリー店」に改称
1980年代後半、取扱車種が「プリンス店」と共通化される。
1990年代前半 大半のチェリー系列販売会社がプリンス系販売会社へ統合。
実質4チャンネル体制になる。
1999年 「レッドステージ店」に、「サニー店」と統合される。
「ブルーステージ」の2チャンネル体制になる。
2005年5月 販売会社別での取り扱い車種を撤廃、完全併売制へ。
2007年 海外の日産販売店のような世界共通マーク始まる。
レッド/ブルーの色分けを中止。
ゴーン体制になり、一番変わったことは「軽自動車」を本気で扱い始めたこと。
『黄色い日産』のキャッチコピーはその代表格。
もし、当時の日産が、「コニー店」対「スバル店」のように取り組めば、
「コニー(店)」=『黄色い日産』
になり、結果、日産5チャンネル体制が維持できたかもしれない。
「モーター店」(ローレル販売会社)も「インフィニティ店」に改称・モデルチェンジできただろう・・・。
「トヨタ店・トヨペット店・カローラ店」が「レクサス店・ネッツ店」を経営しているように、
「日産店・プリンス店・サニー店」が「インフィニティ店・コニー店」を経営していたかもね。
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Posted at
2010/01/29 23:05:41