
検証・東日本大震災「混乱の中で」
(2)避難所(2011/05/02)
【写真説明】
防寒着などを着込み寒さをしのぐ避難者。八戸市立江陽中学校には最大で約800人が避難した=3月11日午後10時45分ごろ
3月11日の東日本大震災の地震発生から約1時間が過ぎた午後3時50分ごろ、八戸市河原木高館の海上自衛隊八戸航空基地周辺。100人以上が沿岸部から高台の基地周辺へ歩いて避難するとともに、車約100台が渋滞を引き起こしていた。
「周辺の道路は一本道で、車が擦れ違えない状態だった」と同海自広報室。海自第2航空群司令の判断で急きょ、東門を開放して避難者を次々と基地内に誘導した。市の指定避難所ではなかったが、同基地体育館を避難所として開設した。
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市が指定する避難所は25カ所で、合計1800人の避難者を想定してきた。だが今回の震災の避難者は5倍以上、避難所は69カ所に上り、受け入れ側の対応も手間取った。
学校や公民館には地震から間もなく車が殺到。各施設は避難所の開設準備に加え、グラウンドなどへの車両誘導に人手を割かなければならなかった。
市職員が避難所に配置された後も、「停電と電話の不通で連絡が取れなかった」(市防災危機管理課)。関係機関との情報共有さえ困難な状況だった。
市が災害用に用意していた毛布は2千枚で数が不足。急いで手配したが、青森市から毛布3600枚を積んだトラックが出発したのは午後9時すぎ。信号機の停止などで輸送も遅れ、その間にも避難者は増えた。
市が毛布を配り終えたのは日付が変わった12日午前3時すぎ。毛布が行き渡らず、底冷えする寒さの中で夜を明かした人もいる。
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ピーク時で約800人が避難した市立江陽中学校。暖房の確保や支援物資の配布に加え、職員室で唯一使うことができた電話には、全国から安否確認の電話が殺到し、少ない人数で対応に追われた。混乱の中で「困ったときは誰に言えばいいのか」と不満も漏れた。
「指揮する人を明確にすることが必要だった」と振り返る同校の北山勝則教頭。学校職員と市職員で役割分担を決め、共通の黄色いストラップを下げて対応に当たった。同校に避難した生徒が、自主的に物資の配布やトイレの清掃を手伝った。
想定外の震災では行政側の対応に限界もあり、市内の別の避難所では、住民がつくる自主防災組織も避難所の運営を支援した。
江陽町内連合会の立花正志会長(71)は「自主防災会をつくろうと勉強会などを開いていたが、まだできていない。学校と連携し、住民主体で活動できるような組織づくりが大切だと感じた」と話す。
デーリー東北 より
そもそも、大地震=大津波では「江陽中学校」に避難すべきでない。新井田川河口から襲来した津波はピアドゥ、そして国道45号線を上がり、江陽中学校近くの
塩町トンネルまで来るだろう。その上を通る表通り・裏通りに徒歩で逃げるのが一番である。
気仙沼や釜石のような状態を考えると、ゾッとする。
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検証・東日本大震災 | ニュース
Posted at
2011/05/07 06:36:46