
トヨタ自動車 75年史 (2012年)
> 文章で読む75年の歩み
> 第1部 『自動車事業への挑戦』
> 第2章 『自動車事業の確立』
> 第2節 自動車試作
第1項 自動車製作部門の設置 その1.
[写真] 米国工作機械会社カーネ&トレッカー社に於ける自動車部品加工用工作機械の検討、左から2人目は大島取締役
豊田自動織機製作所の事業は、既存の自動織機に紡績機械が加わったことにより、業績が向上に転じ、先行きの見通しも明るくなった。この機をとらえて、豊田喜一郎は、1933(昭和8)年9月1日に自動車製作部門を設置し、自動車試作の準備に取りかかった。同部門は、職制上の正式な組織ではなかったが、従来から喜一郎のもとで実質的に自動車を調査・研究してきたチームであり、本格的に自動車の試作に着手した。
喜一郎は、自動車製作部門の設置に先立ち、かねてから調査済みの自動車製造用工作機械を購入するため、1933年6月に大島理三郎取締役を米欧へ派遣した。大島取締役は、海外視察の名目で鈴木利蔵取締役とともに横浜から米国へ向けて出発1.し、目的の工作機械を購入したうえで、1934年3月に帰国した。
注1. 大島、鈴木両取締役の米欧渡航について、鈴木修策(2人を横浜へ見送りに行った豊田自動織機製作所社員)が社内報『自動の友』に一文を寄せている。それには、「当社の将来の発展と、私共の幸福のために、異郷の風土と闘ひつゝ、新しい智識を求め、新しい研究の材料を蒐集せられる御両人の御苦労の程は只々感謝の外はありません」と記されている(豊田自動織機製作所社内報『自動の友』59号[1933年7月8日発行]1~6ページ)。この内容からすると、鈴木修策は大島取締役の渡航目的が自動車製造に関する調査(新しい智識)と製造用機械の購入(新しい研究の材料を蒐集)であることを熟知していたと推測できる。したがって、正式に自動車製作が決まる以前の1933年6月ごろには、実質的に自動車製作部門が活動していたと考えられる。
トヨタ自動車 75年史 (2012年) より
≪くだめぎ?≫
試作車「
アツタ号」2台の完成が1932年3月。1933年6月ごろから実質的に自動車製作部門が活動していたとのこと。豊田自動織機製作所の業績がよかったことが、それほど間を置かずに自動車製作に取りかかったことになる。
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2013/11/03 07:06:26