
トヨタ自動車 75年史 (2012年)
> 文章で読む75年の歩み
> 第1部 『自動車事業への挑戦』
> 第2章 『自動車事業の確立』
> 第2節 自動車試作
第5項 販売組織の確立
トヨタ販売店の発足 その1.
[写真] トヨダ車販売店第1号「日の出モータース」
1935(昭和10)年8月9日、「自動車工業確立ニ関スル件」が閣議決定された。1.その趣旨は、自動車事業を許可制とし、許可の対象となる者を日本国民が株式の過半数を所有する株式会社に限ったことである。これにより、日本フォード、日本GMの両社は、今後の事業継続が困難と考えられた。一方、その前文には「相当大規模ニ大衆車ノ製造計画ヲ有シ現ニ之ヲ進メツツアル者ニ現在ノ処日産自動車株式会社及株式会社豊田自動織機製作所ノ二者アリ」とあり、日産自動車と豊田自動織機製作所が許可会社に指定される可能性が高いと予想された。
このような状況のもと、国産メーカーへ移りたいと考えるようになった日本GMの神谷正太郎は、三井物産シアトル支店時代の知人で、名古屋商業学校の先輩でもある豊田紡織の岡本藤次郎取締役を訪ね、豊田自動織機製作所への橋渡しを依頼した。その後、豊田喜一郎常務に会って、神谷の入社が決定した。
神谷は、同じく日本GMに在籍する花崎鹿之助、加藤誠之を伴って、1935年10月に豊田自動織機製作所に入社した。早速、販売部を設置して、トヨダ車の販売組織づくりに取りかかった。
喜一郎から自動車販売体制の構築を全面的に任された神谷は、日本GMの販売組織を踏襲し、おおよそ1府県を1単位として、メーカーが資本的に関与しない販売会社を設置する方針を採用した。これに対して、日本GMはシボレー販売店の国産車販売への鞍替えを黙認したところから、トヨタの販売組織は大部分がGM系販売店、特にシボレー販売店によって構成されることになった。
1935年12月8日、日の出モータース株式会社2.が「国産トヨダ号」としてG1型トラックの発表会を開催し、ボデー付名古屋渡し価格3,200円で販売を開始した。日の出モータースは、同年11月にGM系自動車の販売権を返上し、豊田自動織機製作所製自動車の販売に転向したトヨタ販売店第1号である。
注1. 「自動車工業確立ニ関スル件」(1935年8月9日)の要旨は、以下のとおりである。
(一)普通自動車ノ組立又ハ主要部分品ノ製造事業ハ之ヲ許可事業トスルコト。
(二)前項ノ許可ヲ受ケ得ル者ハ株数ノ過半数カ日本臣民又ハ帝国法令ニ依リ設立シタル法人ニシテ議決権ノ過半数カ日本臣民ニ属スルモノニ属スル株式会社ニ限ルコト。
(三)第一項ノ許可ヲ受ケタル事業ニ関シテハ産業上、国防上必要ナル監督規定ヲ設クルコト。
(四)現ニ存スル自動車工業ニシテ第一項ニ該当スルモノニ就テハ本方針決定当時ニ於ケル現存範囲内ニ於テノミ既得ノ権益ヲ認メテ其ノ事業ノ遂行ヲ許容シ其ノ後ニ於ケル新設又ハ拡張ニ就テハ法律施行ノ際遡リテ其ノ権益ヲ容認セサルコト。
(五)本工業ノ確立ヲ期スル為ニハ以上要綱ニ掲ケタル以外二原料材料ヨリ部品組立ニ至ル迄尽ク国産ニ依ルコトヲ貫徹スルヲ国防上ノ絶対要件トス。尚外国自動車トノ競争ヲ国産側ニ有利ナラシムル為各種ノ助成手段ヲ講セサルヘカラス。
注2. のちに名古屋トヨタ販売に改称、現・愛知トヨタ自動車。
トヨタ自動車 75年史 (2012年) より
≪くだめぎ?≫
現トヨタ店に元GM系販売店が多いから、シボレー「キャバリエ」を扱えた訳だ・・。
家の父親は昭和10年のことは判らないと言うが・・・。
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Posted at
2013/11/05 07:29:07