
トヨタ自動車 75年史 (2012年)
> 文章で読む75年の歩み
> 第1部 『自動車事業への挑戦』
> 第2章 『自動車事業の確立』
> 第4節 自動車部組立工場と挙母工場の建設
第3項 トヨタ自動車工業株式会社の設立と挙母工場の建設
[写真] 完成間近の挙母工場全景
豊田自動織機製作所は、1936(昭和11)年9月に「自動車製造事業法」の許可会社に指定され、自動車の量産体制を確立する義務を負った。月産2,000台の挙母工場の建設計画は、是が非でも完遂しなければならなかったが、建設資金の見積もりは3,000万円に達し、資本金600万円の豊田自動織機製作所の資金調達力を超える金額であった。このため、資本金3,200万円の新会社を設立し、より広い範囲の出資者から資金を調達する方法が検討された。しかし、挙母工場の早期完成を迫る外部事情から、資本金1,200万円の新会社を設立したうえで、早急に工場建設に着工し、工事費の不足資金は借入金で補うことになった。
この方針に沿って、豊田自動織機製作所から自動車部が分離独立し、新会社としてトヨタ自動車工業株式会社が設立された。新会社の創立総会は1937年8月27日に開催され、翌28日に設立登記を完了した。設立時の概要は、次のとおりである。
事業目的
①自動車の製造販売
②製鋼製鉄其他精錬の業務
③航空機並に紡織機及一般機械の製造販売
④前各項に関する発明研究並に其利用
資本金
1,200万円(900万円払込済み)
本社所在地
愛知県西加茂郡挙母町大字下市場字前山8番地
経営陣
社長:豊田利三郎、副社長:豊田喜一郎
事業目的は、1934年1月29日開催の豊田自動織機製作所の臨時株主総会で変更された定款の内容とほぼ同じであり、「動力運搬機械」が「自動車」と「航空機」に分けられたところが異なる程度である。1.また、事業目的に「発明研究」を掲げた点も、豊田自動織機製作所と同じであり、"研究と創造"を目指す姿勢は、一貫して維持されていた。
1937年9月29日、発足して間もないトヨタ自工によって、挙母工場の起工式が挙行された。当時、わが国は戦時体制下にあり、鉄鋼価格が高騰したばかりでなく、建築用鋼材を入手することが難しい状況であった。豊田自動織機製作所製鋼部では、鉄筋コンクリート用丸棒を製造して挙母工場の建設に協力したといわれる。2.厳しい状況のもとでの工場建設であったが、豊田関係事業の総力をあげて工事に取り組んだ。
1938年4月ごろになると一部の工場建物が竣工し、刈谷から設備の移設が始まった。同年9月末には全工場の建物が完成し、翌10月末までに刈谷の製作工場と組立工場から機械設備の移転が完了した。そして、同年11月3日、明治節の祝日に社内関係者の参加により挙母工場の竣工式を行った。
トヨタ自工の創立は既述のとおり、1937年8月28日(設立登記日)であるが、創立記念日は、会社として実質的に新たに出発した1938年11月3日(挙母工場の竣工日)に決められた。
なお、テストコースや航空機研究室などの施設については、1938年11月以降に着工され、翌1939年3月までに完成した。
注1. この事業目的から判断すると、国策によって自動車事業が分離独立させられたものの、豊田利三郎や喜一郎としては、母体である豊田自動織機製作所と、いずれは一体となることを考えていたように思われる。
注2. 『愛知製鋼三十年史』12ページ。
トヨタ自動車 75年史 (2012年) より
≪くだめぎ?≫
注1.より"豊田自動織機製作所・自動車部"が「トヨタ自工(株)」に分離独立"させられた"。工販合併の後に、トヨタ自動車と豊田自動織機の合併もあり得たということか。現実は多くのトヨタ店からトヨタL&F店が分離したが・・。
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2013/11/30 11:04:16