
トヨタ自動車75年史 (2012年)
> 文章で読む75年の歩み
> 第2部 『自動車事業の基盤確立』
> 第1章 量産体制の確立と相次ぐ新型車の開発
> 第2節 モータリゼーションと貿易・資本の自由化
> 第4項 日野自動車との提携
[写真] ブリスカ(GY10型、1967年)
プリンス自動車との合併話の後、三井銀行から日野自動車との提携話がトヨタ自工に持ち込まれ、同銀行の仲介により1965(昭和40)年1月からトヨタ・日野の業務提携交渉が始まった。1966年に入ると、日野自動車の松方正信社長はトヨタに対し、「小型乗用車のコンテッサはやめる。その代わり小型車について生産委託などの協力、援助を」という思い切った提案をしてきた。それ以後、日野自動車工業、日野自動車販売と、トヨタ自動車工業、トヨタ自動車販売の4社の役員クラスでしばしば協議を行い、業務提携について意見が一致した。
1966年10月15日に業務提携に関する共同声明を発表し、引き続き19日に提携に関する覚書に調印した。提携内容は以下のとおりであった。
1.日野自工が製造販売する小型車に対して、トヨタ自工ならびにトヨタ自販が協力、援助を行う。
2.新製品の企画を協力して行う。
3.輸出市場の拡大、技術向上、部品資材購入の合理化を協力して行う。
4社の間に業務提携委員会が設置され、着実にその成果をあげていった。生産面では、1966年12月から半年間、日野自工から社員が派遣され、トヨタの製造・管理方式を実習した。また、1967年3月から日野自工にパブリカ・バンの生産を委託することになった。
販売面では、日野自販が販売網の整理・統合を行い、余剰の販売店、人員をトヨタ自販が引き受けることにより、トヨタ自販と日野自販との販売網の調整が進んだ。さらに1967年4月には、技術提携第1弾としてボンネット・タイプ1トン積み小型トラックのトヨタ・ブリスカ(GY10型)を発表した。
提携後10年、日野自工の荒川政司社長は、当時を振り返って次のように記している。
提携後直ちに、日野1,200人の社員をトヨタへ派遣し、その生産方法を学んでもらうことにした。トヨタ行きに選ばれた社員を前に、私自身で激励したことを思い出す。
「諸君は、帰社後直ちに羽村工場のパブリカ・ラインにつく。諸君は、今回の提携を有益なものにするため選ばれた日野の代表である。日野の将来は諸君の双肩にかかっている」
われわれは貴重なノウハウを取得し、日野の体質改善は急速に進んだ。工場の生産性は倍加し、仕掛品は3分の1に減少した。
また、新製品立ち上がり手法を学ぶことによって、われわれはニューモデルの初期品質を高めることに成功し、日野車に対するユーザーの信頼感は全国に浸透していった。
提携直後17%にすぎなかった日野のトラック・シェアは、年を追って伸び、48年(1973年)にはトップメーカーの地位を占めるにいたった。[1]
こうした一連の具体的な提携の進行に伴い、1967年半ばからは資本的・人的にも関係を強め、同年12月には日野自工が東京都西多摩郡羽村町にトヨタ小型車専門の羽村第2工場を建設するなど、両社の連帯をいっそう強固なものにしていった。
注.
[1] 『トヨタ自動車40年史 トヨタの歩み』273~274ページ。
≪くだめぎ?≫
「販売面では、日野自販が販売網の整理・統合を行い、余剰の販売店、人員をトヨタ自販が引き受けることにより、トヨタ自販と日野自販との販売網の調整が進んだ。」
"余剰の販売店"とは日野"乗用車店"も多くあったのでは。「トヨタディーゼル店」で"パブリカ"投入以前の真?の敷地の広いトラック店も"余剰の販売店"も含めて調整したのが良かったかも。ここで「トヨタディーゼル店」について触れていないのが惜しい。
"この時期のトヨタの方針は、次の2点に集約された。
1.国内の需要多様化に対応して車種系列を充実し、フルライン体制を確立する。
2.資本自由化に対処するため、200万台体制を当面の目標とした量産体制の確立と、それによるコストダウンを目指す。"
せっかく、大都市に敷地の広いトラック店「トヨタディーゼル店」を設置したのに、後に一律の様に「カローラ店」転換は良かったのか。道内で一番広いトヨタディーラーが「ネッツ店」であるのも、"もったいない"気がする。
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Posted at
2016/10/27 09:44:42