
小田急ロマンスカー「LSE」38年の豪快な疾走
定期ダイヤでの運転終了、年度内に引退へ
小佐野 景寿 : 東洋経済 記者
2018/07/11 6:00
[写真・画像]
(上)ロマンスカー7000形LSEの定期運行最終日となった7月10日、内田克美・新宿管区長の合図とともに発車する「はこね41号」(記者撮影)
(下左)オレンジとグレーの塗装を受け継いだLSE(記者撮影)
(下右)白とワインレッドの塗装だった当時のLSE(記者撮影)
真っ赤な装いの最新型車両「GSE」をはじめ、白やブルー、シルバーと色とりどりの車両が人気を集める小田急電鉄の特急ロマンスカー。だが、特に「昭和生まれ」の世代なら、ロマンスカーといえばオレンジとグレーの車体を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。
その伝統のカラーリングをまとった最後の車種、7000形「LSE」が7月10日、定期列車としての運行を終え、38年にわたる活躍に一つのピリオドを打った。
同日は、箱根行き特急としては最後の定期運転となった新宿駅15時40分発「はこね41号」の出発に合わせ、同駅ホームで記念のセレモニーが行われた。大勢の鉄道ファンや利用客が見守る中、LSEは箱根湯本へ向け、長い警笛とともに新宿駅をあとにした。
■これほど長く現役とは
LSEが登場したのは1980年。38年という現役期間は、歴代ロマンスカーの中でも最長だ。「これほど長く現役でいるとは考えもしませんでした」。小田急やロマンスカー、鉄道全般に関する著書も多い小田急電鉄OBの生方良雄(うぶかた・よしお)さんは語る。
生方さんは1925年生まれ。1948年4月、戦時体制下で小田急などの私鉄を統合して成立した「東京急行電鉄」に入社、同年6月に小田急が分離独立した際に同社所属となり、車両部長や運輸部長などを務めた。1957年に登場し、画期的な高速車両として新幹線の実現にも大きな影響を与えたロマンスカー3000形「SE(Super Express)」の開発にも携わり、小田急とロマンスカーの発展を見つめ続けてきた。
LSEの計画が進められていたころ、生方さんは中長期的な列車の運行計画や、それに伴う車両や設備などの計画を担当する運輸計画部長。実際の車両設計にはタッチしていないが、新型特急車両の基本性能や増備などの構想を担当する立場だったという。
■ロマンスカーの伝統を受け継いだデザイン
LSEは、流線形の車体にオレンジとグレーの塗装、車両と車両の間に台車を設けた「連接車」など、その後のロマンスカーの伝統を築いたSEから数えて3代目の車両として登場。運転席を2階に上げて先頭に展望席を設けた構造は、SEの後継車として1963年に登場した3100形「NSE(New Super Express)」から受け継いだ。
外観は登場時のトレンドも反映し、丸みのあるデザインだったSEやNSEと比べて直線的なデザインに。展望席の窓ガラスの傾斜もNSEより鋭角になり、それまでのロマンスカーのイメージを保ちつつシャープなスタイルとなった。
■愛称は「豪華さ」から
LSEのLは”Luxury”(豪華な)の頭文字だ。生方さんは「『豪華』といっても、最近の特急列車のように豪華という感じとは違いますよ」と笑うが、「展望席も側面も窓が大きくなって、より明るい雰囲気になった」。ロマンスカーでは初のリクライニングシートを採用し、人気の高い展望席の座席数を増やすなどグレードアップを図ったほか、終着駅で座席を自動的に方向転換するシステムも初めて導入した。
塗装はSEから続いたオレンジとグレーのカラーリング。1990年代半ばにはのちに登場した10000形「HiSE」に合わせた白とワインレッドの塗り分けに変わったが、近年になって再び元の塗装に復元された。「最近のロマンスカーは白・青・赤と単色ですが、SE以来のこの塗装は飽きがこない。(LSEが長年愛される車両となったのは)飽きのこないデザインという点が大きいでしょうね」と生方さんはいう。
LSEに次ぐロマンスカーとして1987年に登場したHiSEや、JR御殿場線乗り入れ用として1991年に運行を始めた20000形「RSE」は、床面の高いハイデッカー構造でバリアフリー化が難しいことから2012年に引退。後輩車両が先に姿を消す中、バリアフリー対応も可能だったLSEは長らく現役の座を保つこととなった。
展望席や連接車など、SEやNSEで培ったロマンスカーの特徴を受け継ぎつつグレードアップを図ったLSE。だが、SEやNSEから設計思想を切り替えた部分もあった。重心を下げるために床面を低くする構造をやめたことだ。
■高速化の夢から輸送力へ
小田急は戦後、新宿―小田原間を60分で結ぶという目標を立てており、SEもこの目標の実現を目指して開発された。車体の大幅な軽量化などスピードアップのためにさまざまな工夫が行われた。「低重心化」もその一つで、台車のある部分以外の床を10センチ程度低くしていた。
新宿―小田原間の特急列車の所要時間は1963年には62分まで短縮され、目標まであと一歩に迫った。同年にデビューしたNSEも、展望席を設けるなど車内設備の充実を図りつつ、高速性能を重視してこの構造を踏襲した。
スピードアップを狙った構造は車両の性能だけでなく、実は当時計画が始まった複々線にもあったという。小田急の複々線は4本ある線路のうち内側の2本を特急・急行など、外側の2本を各駅停車が走る。内側の2本を各駅停車用にすればホームを1つで済ますことができるが、あえてそうしなかったのは、中央にホームをはさむ形にするとカーブが増え、高速化の妨げになるためだった。
「(特急60分運転の実現という狙いは)ありましたね。これは私が最初から言っていたことで、内側の2線は急行線ということで押し切ったんです」と生方さん。60分運転達成がいかに大きな命題だったかがわかる。
■速さから本数や快適性へ
だが、昭和40年代以降は増え続ける通勤利用者をさばくための輸送力増強に追われ、あと一歩まで近づいていたスピード面の目標達成は次第に遠ざかっていった。1970年代には新宿―小田原間の最速所要時間が62分からダウン。「特急60分運転のためには途中で待避線をつくらないといけない。だからといってこの時期に待避線をつくるなんてとんでもないということで、特急のスピードは我慢をしようという流れだった」という。
その流れの中で、LSEは床面を下げた低重心構造を採用しなかった。生方さんは「技術屋としては60分運転をやりたいけれど、ちょっともう無理だろうと思っていましたね」と当時を振り返る。
「新幹線ができちゃって、世間一般であの当時はもう普通鉄道でのスピードという要求はなかったんですよ。在来線でいくら頑張っても新幹線のスピードは出ませんからね。2分や3分速くするよりも本数を増やして乗りやすくする、そして快適に乗れる、そういう方向に流れが変わっていたんですね」。少しでも速さを追求した時代から、快適性や高級感が重視される時代へと変化する中で登場したのが、「豪華さ」のLを頭文字としたLSEだったわけだ。
■60分運転達成「まだまだいける」
生方さんは、LSEの登場から引退までの間に、新宿―小田原間60分運転が実現するとは「思っていなかった」と笑う。だが、今年3月のダイヤ改正では、複々線化の完成によってついに新宿―小田原間を59分で走破する特急が登場した。
実際に乗ってみて感慨深いものがあるという生方さん。「さらに欲を出すと、あれなら55~56分でも走れるんじゃないかと。複々線区間は踏切がないんだからもっと飛ばしたっていい。日本全体の鉄道の一つのモデルケースとして、130キロや160キロにスピードアップして55分運転をやってもらいたい」と、技術者の視点でさらなる発展を期待する。
ロマンスカーはその利用者層も変化してきた。LSEの登場時には「まだまだ観光客の利用が主体だった」というが、今では年間に約1315万人(2016年度)という特急利用者の多くは通勤客をはじめとする沿線利用者だ。LSEの定期運転ラストとなった列車も、箱根行きの観光特急ではなく通勤利用者向けの「ホームウェイ」片瀬江ノ島行きだった。
「これだけ便利になったので、もっと大衆化していいと思うんですよ。前に、藤沢からベビーカーのお母さんが乗ってきて大和(所要時間約15分)で降りるのを見たんですね。というのは、ベビーカーだと一般の列車ではなかなか座れないが、特急なら余裕を持って座れるから。そういう意味では、ベビーカーのお母さんなんかにもっと気軽に乗ってもらえるような方法を考えてほしい」。生方さんは、今後のロマンスカーの理想像についてこう語る。
■平成の終わりとともに
戦後復興の中で技術の粋を集めて登場したSE、高度成長期のレジャーブームを反映したNSEの後継車として、社会が成熟する中でゆとりや高級感を重視して誕生したLSE。7月10日に定期運用を外れたあとは臨時列車などに使われる予定だが、2018年度中には引退するという。
小田急は海老名駅(神奈川県海老名市)の隣接地に博物館「ロマンスカーミュージアム」を2021年春に開設すると発表しており、LSEもほかの歴代ロマンスカーとともにここに保存される予定だ。
38年の長きにわたって、様変わりする沿線や社会環境の中を走り続けたLSE。構想から半世紀を費やした複々線が完成し、小田急が新たな時代を迎える中、伝統のカラーをまとった特急は、平成の終わりとともにその長い歴史に幕を下ろすことになる。
東洋経済オンライン
≪くだめぎ?≫
「小田急電鉄の特急ロマンスカー」=「オレンジとグレーの車体」
1987年小田急開業60周年記念にデビューした「HiSE」10000形電車が写真下右の白とワインレッドの塗装になり、イメージの一新を図ったがその年12月23日からの運用ということもあり、昭和時代は「オレンジとグレーの車体」だった、と言っても過言ではない。
「国鉄線上での試験」として、通常のボギー車と連接車の比較試験を1982年の11月から12月にかけて行われたのは"伝説"の出来事だ。
昭和63年に朝日新聞神奈川版の短期連載「きしむ大動脈」で取り上げられ全国版にも記事が掲載された混雑する小田急線。「代々木上原駅~和泉多摩川~登戸」連続立体交差化・複々線化事業が2018年(平成30年)3月に完了した。 昭和のエコでない電車が"バリアフリー"対応出来たことで生き延び、複々線区間を走行したのは、奇跡というか伝説である。