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2017年11月12日
カラーで甦る50年前の仙山線:全線開通80周年によせて
こんにちは。カタナです。普段は流行の新車や鉄道イベントにまるで関心の無い私ですが、今日は少し時事ネタを絡めた記事を1つ。
さる11月10日、仙山線は全線開通80周年を迎えました。これに関連して、昨日は仙台‐山形間で485系「リゾートやまどり」を使用した記念列車が運行されていたようで、仙台駅発車前にはテープカット等の式典もおこなわれていました。(写真はレインボー氏に提供して頂きました。ありがとうございました。)
仙山線はかつて交流電化試験がおこなわれ、日本の交流電化発祥の地とも呼ばれた歴史ある路線です。特に、昭和43(1968)年の全線交流電化までは、直流区間と交流区間が混在することにより、直流用および交流用の電気機関車や蒸気機関車、さらには各種試験車両などが顔を合わせる興味深い路線となっていました。
そこで今回は、その当時の仙山線の姿をご紹介するべく、当会所蔵の写真を少しばかりご覧に入れたいと思います。せっかくなので、今回もディープランニングによる色付けをおこなってみました。
[写真] 1963年8月撮影。仙台駅に停車する491系電車です。この奇妙な外観の車両は元々、交直両用電車の試作車として登場しました。手前の四角い断面の車両は、伊那電気鉄道(現在の飯田線)という私鉄の車両で、伊那電気鉄道が戦時買収されて国鉄の車両となったのち、何の因果か交直両用試験車として白羽の矢が立って、このように改造されてしまったものです。仙山線で試験をおこなっていた当時は2両1組で編成を組んでいたのですが、試験終了後、なんとこれを旅客用に転用することに。2編成を背中合わせに連結して4両固定とし、内装などを整備して春季や秋季の季節臨時列車に充当されていました。国鉄の試験車両の中でも、試験終了後にこうして旅客用に導入された例は少なく、非常に珍しい例であると言えます。
この写真は、その旅客運用中の姿を捉えたもの。これも部分的ではありますが、当時の交直両用電車の標準色であった、ローズピンクにクリーム色の帯という塗装が再現されました。また、奥の留置線に止まっている10系気動車も、オレンジにクリームのツートンカラーが綺麗に再現されているのが興味深いですね。
国鉄72系電車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
国鉄72系電車(こくてつ72けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が製造した直流式通勤形電車のグループの一つである。
1 概要
72系とは、同一の設計思想により製造された電車を便宜的に総称したもので国鉄正式の系列呼称ではない。
書籍等によっては、これらグループの電車をクモハ73形を基幹形式とみなした73系と表記する場合や、63系とを総称して63・72・73系と呼称する場合もある。
72系と呼称する場合、狭義には63系電車の改良型として、1952年から1958年にかけて新製されたグループ(72系新製車)およびこれらの改造車を指す。
広義には、1944年から1950年にかけ製作された63系電車に1951年以降安全対策・体質改善工事を実施して改称したグループ、戦前製20m級2扉車(32系、42系)の4扉化改造車(制御車・付随車のみ)を含む。
ここでは主に狭義の72系電車(新製車)について記述することとし、63系改造編入車についても後段において記述することとするが、戦前型改造車については、それぞれの項で記すものとする。
5 72系電車の改造車
5.9 事業用車
72系は車両数自体が多かったことやモーター出力に余裕があったことなどから、事業用車両改造の種車としてもしばしば用いられた。この節では、事業用車両に改造された車両について解説する。
●クモヤ491形→クモハ491形
1958年(昭和33年)2月および3月、仙山線の仙台 - 作並間の交流電化と作並 - 山寺間の直流電化を直通する試作交直流電車としてモハ73形2両 (73033, 73050) が大井工場および吹田工場で日本で最初の交流直流両用電車に改造された。電動車は屋根上のパンタグラフが撤去され、相棒の制御車は伊那電気鉄道からのクハ5900形 (5900, 5901) とし、A編成のモハ73033+クハ5901、B編成のモハ73050+クハ5900、で編成した。塗装は、モハ73形が茶色一色にクリーム色の帯が車体裾に引かれたもの、クハ5900形は幕板と腰板を小豆色、窓周りをクリーム色に塗り分けた。また、1959年6月の称号規程改正により、モハ73形の2両はクモヤ491形に、クハ5900形の2両はクヤ490形に改称され、モハ73033+クハ5901はクモヤ491-12+クヤ490-11となり、モハ73050+クハ5900はクモヤ491-11+クヤ490-1となった。
この電車は、クモヤ491が制御電動車でモハ73形で使用されていた142kwのMT40B形を改造した4個の主電動機を2つの台車に、制御装置と抵抗器を床下にそれぞれ搭載しており、クヤ490が制御車で屋根上に交直両用のパンタグラフ・空気遮断器・交直切替器を、床下に主変圧器・水銀整流器・交直転換器・直流リアクトルをそれぞれ搭載しており、交直の切替は車上切替方式を採用していた。クモヤ491をM車、クヤ490をD車(電源車)と呼称され2両でユニットを組んでおり、直流区間では、架線からの電源が、交流区間では、主変圧器・水銀整流器により降圧・整流された直流電源が制御車を介して制御電動車に入り、制御電動車の制御装置と主抵抗器を介して抵抗制御で電動機を制御する構成となっており、制御電動車とユニットを組む制御車から電源の供給を受ける方式であった[現在でいう「M-Tp(pはパンタグラフ)」システム。JR西日本の681系、683系、521系の交直流電車で採用されているものと同じと考えていい]、また、A編成とB編成では搭載されている主変圧器と水銀整流器が異なっており、主変圧器はA編成では外鉄形、B編成では内鉄形で、水銀整流器はA編成では三菱電機のイグナイトロン、B編成では日立製作所のエキサイトロンがそれぞれ搭載されていた。水銀整流器は水銀を入れた真空タンクを加熱させて発生させた水銀蒸気の作用で整流する方式であったため、温度制御の取扱いが極めて厄介であり、出庫時に水銀整流器の予熱などで数10分の時間がかかっていたが、その後に予熱が不要で耐電圧性や容積が優れたシリコン整流器が三菱電機・日立製作所・東芝の3社で製作され、1958年(昭和33年)11月に両編成に仮設で搭載され性能試験が行われた。この時のシリコン整流器の素子には日立製作所・東芝製がGE社製、三菱電機がウェスチングハウス社製の外国のメーカーのものが使用されていたが、翌年の1959年(昭和34年)にはこの素子の国産化ができるようになり、水銀整流器に代わる形で搭載されて長期の耐久試験が行われた。[JTBパブリッシンク『415系物語』2015年 19-25項]
試験終了後は試験を行っていた仙山線で営業運転を行うこととなり、1960年10月に営業用に改造された。クモヤ491形は総括制御装置が設置されたほか、車体後方に機械室・トイレを設置し、中間の2か所の扉は締め切られてその部分にも座席および吊り革が設置された。また、両端部の扉は半自動化され、扉の下には自動ステップが取り付けられた。車体の塗装も、小豆色(赤13号)とクリーム4号の交直流電車標準塗装となった。これにより、クモヤ491形はクモハ491形に、クヤ490形はクハ490形に形式を改めた。仙山線では、同年11月から臨時列車で使用されたが、1966年2月に廃車となった。
≪くだめぎ?≫
"
交流電化"の目的は地方幹線の「無煙化」・輸送力増強である。
交流電機ED91形の交流電気機関車を開発から始まった。
次にこの試作"交直流電車"491系が誕生した。 1958年(昭和33年)2月に直流電車72系電車を改造して、交流電化(仙台 - 作並)と
直流電化(作並 - 山寺)の直通運転を目指した。後の「
常磐線」
中電を開発したのである。常磐線を電化するために直流電化区間の仙山トンネルがあった仙山線を交流電化試験区間として選ばれた、と断言出来る。
常磐線直流電化区間・取手駅以南の常磐快速線・常磐緩行線(上野 - 取手・39.6km)と運転系統を分断せずに直通運転を選んで現在に至る。交直切り換え施設として、
①地上切替方式:
1959年7月 黒磯 - 白河間交流電化開業により黒磯駅構内に設置。
2018年1月、
デッドセクションを黒磯駅構内(北寄りの高久・仙台方)に移設し廃止。
※ 2006年9月24日の北陸本線長浜 - 敦賀間・湖西線永原 - 近江塩津間の直流電源切替に伴い敦賀 - 南今庄間に交直デッドセクションが新設、
下り線(新潟方面)のセクションは上り勾配上に設置されたため、非常時のみ取扱の地上切替方式という形態での設備を設置、現在では営業区間では唯一の施設。
②デッドセクション設置による車上切替方式:
1961年(昭和36年)6月の常磐線取手 - 勝田間交流電化により、
デッドセクション:取手駅 - 藤代駅に置き、交直車両で電源を車上切替して直通する。以後はデッドセクションのみの新設になる。
複線の常磐線・水戸以南の旅客輸送が革新した。
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交流電化 | ニュース
Posted at
2020/12/01 13:54:00