
トヨタ自動車 75年史 (2012年)
文章で読む75年の歩み
第1部『自動車事業への挑戦』
第2章「自動車事業の確率」
第5節 戦時下の研究と生産
第2項 ディーゼル・エンジンの研究
[写真・画像] 挙母工場エンジン試験室(クルップ/ユンカース・ディーゼルエンジン試験台)
1938(昭和13)年3月作成の「挙母工場試験室機械器具配置図」に記載されたエンジン試験室の配置図には、「クルップ・ディーゼル・エンジン」「ユンカース・ディーゼル・エンジン」の試験台が記されていた。したがって、それらディーゼル・エンジンの研究は、少なくとも挙母工場の完成後には始まっていたと思われる。
ドイツのユンカース社製ディーゼル・エンジンは、一つのシリンダー内に二つのピストンを備え、ピストンが互いに対向して動く、非常に特異な構造の航空機用エンジンである。また、クルップ社製ディーゼル・エンジンは、ユンカース社製を自動車用に改造したものであった。
豊田喜一郎は、広報誌『流線型』1939年9月号に掲載された記事のなかで、ディーゼル・エンジンの研究について、「当社としても多年苦心して研究中にあるのであるが、最近その成案を見るに至り、目下試作研究中のものである」と語っている。[1]さらに、1939年8月発行の雑誌『工業評論』でも、「トヨタ自動車工業では夙(つと)にディゼル自動車の将来性に着目してドイツのユンカース会社のディゼル自動車をモデルとして極秘裏に独自のディゼル自動車の試作研究を進めていたが右試作車は此の程見事完成を見るに至ったので目下厳重なる各種の性能テストを行っており(1939年)十月頃には正式発表を見る予定で」あると報じられていた。[2]
しかし、このディーゼル自動車は発売されなかった。[3]それは、「過当競争」を理由に、販売自粛を業界や官庁から要請され、ディーゼル自動車を発売する機会がなかったからであった。
[1]「ディゼル自動車の研究」(トヨタ広報誌『流線型』1939年9月、『豊田喜一郎文書集成』311ページ)。
[2]雑誌『工業評論』(1939年8月22日、43ページ)には、「ディゼル車完成すユンカースをモデルに豊田自動車工業で」の見出しで、以下のような記事が掲載された。「今事変における実戦的経験を通じて最近ディゼル自動車の重要性は一段と認識され且つ燃料国策の見地からもこれが将来性は頗る重要視されるに至ったに鑑み各製造会社はこれが本格的生産に積極的意図を示しているがトヨタ自動車工業では夙にディゼル自動車の将来性に着目してドイツのユンカース会社のディゼル自動車をモデルとして極秘裏に独自のディゼル自動車の試作研究を進めていたが右試作車は此の程見事完成を見るに至ったので目下厳重なる各種の性能テストを行っており(1939年)十月頃には正式発表を見る予定でこれが成行は頗る注目される。右ディゼル自動車は上述の如くユンカース会社のディゼル自動車をモデルとして製作されたものであるが、ユンカースディゼル自動車のパテントには何等関係なく独自に研究試作せられたもので今後大陸用トラック並にバス用として積極的生産を行う計画である」
[3]『トヨタ自動車30年史』(435ページ)では、ディーゼル自動車を発売しなかった理由として、「わが社は、ディーゼルエンジンの研究開発の歴史は古く、すでにわが社創業まもなくスタートを切っていたもので、戦前、戦後においても、再三再四にわたって、発表の機会があったのであるが、そのつど、外部の要請もあって差しひかえて、過当競争を回避してきた」と説明している。トヨタ自工がディーゼル車を発売するのは、後述のとおり、1957年3月のDA60型ディーゼル・トラックが最初であった。
≪くだめぎ?≫
『円太郎バス』を国産化し、しかも"ディーゼル・エンジン"搭載を目指し開発中だった。1957年3月のDA60型ディーゼル・トラックの投入・トヨタディーゼル店開業で日の目を見た。
現在は2ナンバー「ハイエース コミューター」がディーゼル・エンジン搭載。
5ナンバー「ハイエース ワゴン」はガソリン・エンジン搭載、ハイブリッド化は成されないだろうだけど・・。
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2021/01/01 10:32:02