
気動車
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気動車(きどうしゃ)とはエンジンを搭載した列車の車両のことで、人員・荷物もしくは貨物を積載する空間を有し、運転に必要な動力源として内燃機関や蒸気機関などの熱機関を搭載して自走する鉄道車両である。
現在の気動車は、動力として一般に内燃機関の中でも熱効率と安全性に優れるディーゼルエンジンが用いられている。そのため、日本では「ディーゼル動車」または「ディーゼルカー」(Diesel Car, DC)、「汽車」 などとも呼ばれる。対して、英語圏では動力分散方式の車両を「マルチプル ユニット」と呼ぶことから、気動車を「DMU」(Diesel Multiple-Unit) と称する[* 1]。また「レールカー」(Railcar) とも呼ばれる。
以下、特記がない限り、主に日本国内の事情に基づいて記す。
5 日本の気動車の略史
日本の非電化鉄道路線では、1872年(明治5年)の鉄道創業から長らく蒸気機関車が牽引する客車列車を主力としていた。運転経費の低減とフリークエンシー向上に効果のある「自走式車両」の開発も試みられ、1905年に蒸気機関を搭載して自走する蒸気動車が出現したが、1910年代までに限られた両数が製造されたのみで一般化はしなかった。
その後、1921年にはガソリンエンジン動力の「ガソリンカー」が営業運転を開始、列車本数頻発や運行コスト低減のメリットから1930年代には国鉄・私鉄を通じて広く普及した。ディーゼルエンジン動力の「ディーゼルカー」は日本では1928年に出現したが、エンジン技術の未発達から戦前にはほとんど普及しなかった。
1937年の日中戦争勃発以降、ガソリン不足によって内燃動車の新製および運行が年々困難となった。さらに1940年に発生した西成線列車脱線火災事故により、ガソリンカーの火災危険性が指摘された。これに伴いディーゼルカーへの転換が図られることになるが、同時期、戦時体制による燃料そのものの欠乏から、太平洋戦争中および終戦直後にかけ、内燃動車の運行自体が一時衰退する。
1950年以降、ディーゼルエンジン技術と燃料供給が改善されると、戦前のガソリンカーに代わってディーゼルカーが隆盛を極めることになった。特に1953年の液体式変速機実用化は、気動車による長大編成組成を可能とし、国鉄での著しい気動車普及の原動力となった。
蒸気機関車牽引列車に比して優れた居住性と走行性能を生かし、気動車による準急・急行列車が出現、さらに1960年には特急列車も登場した。戦後しばらくの間、国鉄線は主要幹線でも電化率が低かったこともあって、気動車は全国で広範に用いられるに至った。
1970年代までには5,000両を超える大量の気動車増備が図られ、日本国有鉄道は世界最多の気動車保有数を誇った時期もあった。しかし、同時期に主要幹線の電化が進展したことで、気動車の地位は徐々に後退する。一方で、極端な車両標準化施策及び労使関係の悪化により、気動車技術の発達も停滞した。
1980年代以降、第三セクター鉄道向け軽量気動車の開発や新型エンジンの出現、電子制御式多段変速機の実用化などの技術改良から性能は大きく改善されたが、数を減らしつつあり、運用路線は主として地方の非電化亜幹線とローカル線に限定されるようになっている。
6 現状
現在、JR各社では亜幹線・ローカル線を中心に運用され、非電化区間は気動車の独壇場である[* 10]。客車列車はすでに定期運用から完全撤退しており、イベント用としてごく僅かに残存しているにすぎない。気動車に客車を連結して運転することも可能であり、分割民営化後も北海道の夜行列車で運転されていたが、現在の旅客列車では見られない[* 11]。
国鉄継承の旧型車両から、JR移行後新製の車両まで、多彩な形式が存在する。なお、国鉄時代には気動車の荷物車・郵便車も存在したが、JR移行後は、少数の事業用車両を除いてほとんどが旅客車である。
6.2 メーカーの寡占化
かつては日本の主要な鉄道車両メーカーのほとんどが気動車製造を手がけていたが、1960年代以来大手メーカーは電車製造に重点を置くようになり、メーカーの寡占化が進んだ。1970年代以降、日本における気動車の大多数は客車ともども新潟鐵工所と富士重工業の2社で製造されるようになっていた。
しかし、2002年に新潟鐵工所が経営破綻し、さらに富士重工業も鉄道車両製造事業からの実質的撤退を発表した。その後、石川島播磨重工業(現IHI)が新潟鐵工所の当該部門へ出資したことにより新潟トランシス株式会社が設立され、上記2社の鉄道車両製造事業の一部を承継した。現在、新潟トランシスの気動車分野における日本国内シェアは約8割に達する寡占状態である。そのほかのメーカーでは日本車輌製造が近年気動車製造に力を入れていて、1970年代以降製造車両が少なかった私鉄においても納入例が増加しており、また近畿車輛も、2012年に気動車の製造に再参入することが発表されている[11]ほか、川崎重工業も2010年代に入ってJR北海道・JR東日本・JR四国・JR九州向けに気動車(電気式・ハイブリッド含む)を本格的に製造している。
なお、自身が気動車新製能力をもつ鉄道事業者は国鉄分割民営化以降JR北海道(苗穂工場)とJR西日本(後藤総合車両所)のみとなっている。
9 脚注
9.1 注釈
[* 1]^ 但し、「DMU」(Diesel Multiple-Unit) が動力分散式のディーゼル列車を意味する言葉であるのに対し、日本語の気動車は蒸気動車、ガソリンカーも含む点で異なる。日本語の気動車の意味により近い英語にはSelf-propelled Railway Vehicle(もしくはSelf-propelled Car)がある。
[* 10]^ ただし、2010年代後半には、電化区間と接する短距離の支線において蓄電池電車が使われる例も見られる。
[* 11]^ 旅客列車以外ではマヤ34形などの事業用客車を挟んで運行する例がある
9.2 出典
[11]^ “近畿車両、30年ぶりにディーゼル車両の生産再開”. 日本経済新聞電子版 (日本経済新聞). (2012年3月29日). オリジナルの2017年2月10日時点におけるアーカイブ。 2017年2月10日閲覧。
最終更新 2020年12月30日 (水) 12:26 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
西成線列車脱線火災事故
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西成線列車脱線火災事故(にしなりせんれっしゃだっせんかさいじこ)は、1940年(昭和15年)1月29日に大阪府大阪市此花区の鉄道省西成線(現在の西日本旅客鉄道桜島線)安治川口駅構内において発生した列車脱線転覆火災事故である。
駅員の分岐器切り替えの不正操作により、列車通過中に分岐器を転換したため、気動車(ガソリン動車)列車のキハ42000形3両編成のうちの最後尾の1両が2対のレールにまたがったまま進行し、同駅構内の島屋町踏切(現在も同じ名前で存在する)付近の構築物に衝突して脱線・転覆した。その結果、燃料のガソリンへの引火により車両火災が発生し、横転した車両から乗客らの脱出が困難になるなどの悪条件が重なったことから、死者189名、重軽傷者69名を出す大惨事になった。
[写真・画像] 西成線列車脱線火災事故、消火活動中の事故現場
発生日 1940年(昭和15年)1月29日
発生時刻 午前6時55分頃 (JST)
国 日本
場所 大阪府大阪市此花区島屋 安治川口駅構内
路線 西成線 (現:桜島線)
運行者 鉄道省
事故種類 脱線転覆・車両火災
原因 分岐器の不正操作
統計
列車数 1 (ガソリンカー3両編成)
死者 189人
負傷者 69人
1 事故の概要
西成線は、大阪駅と臨海部を結ぶ路線で、昭和の初めごろまで閑散路線であったが、日中戦争以降軍需産業が発達し、沿線に多数の工場が建設され、通勤客が激増していた。翌年には電化が決定していたが、輸送能力は限界に近づいており、単線区間もあったために運転本数を増やすことができず、朝夕のラッシュ時には乗車率が300パーセント以上に達していたという。
事故当時、ガソリンは戦略物資として統制され、石炭も節約が強く奨励されていた。事故が発生した1940年1月29日の朝、大阪駅を出発した西成線・下り1611列車(下り1611列車の編成は、キハ42057+キハ42012+キハ42056の3両編成)は、西九条駅を出発後、六軒家川橋梁から安治川口駅までガソリン節約のため惰性で走行するように規定されていた。1611列車が安治川口駅に到着したのは午前6時55分で、定時よりも3分遅れていた。西成線は単線であるため、安治川口駅の一つ手前の西九条駅まで来ていた臨時6001列車(蒸気機関車牽引)も出発できず遅れることになり[1][2]、同じく蒸気機関車牽引の上り旅客列車も同駅を発車できずに遅れることになった。
列車が遅延すると余計に石炭を消費するため、焦った信号係が早く線路を空けようとして十分な確認を怠り、1611列車が駅構内の分岐器を通過し終わる前に分岐器を転換した。この重大な操作規定違反のため、1611列車の最後部1両(キハ42056[3])が2対の線路にまたがったまま走行したのちに脱線し、駅構内の踏切付近の電柱に衝突して転覆した。さらに転覆時に燃料タンクからガソリンが漏れ出し、これに車体とバラストとの摩擦もしくは電気配線のショートによって発生したと推定される火花が洩れた燃料に引火して車体が炎上した。なお燃料タンクが破損した原因は転覆によるものではなく、脱線時に車輪が敷石に乗りあげた時に動力を車輪に伝達する継ぎ手(プロペラシャフト)が燃料タンクに接触したためである。事故車両は、満員の乗客の重みで車体が沈み込んでいたために継ぎ手が接触しやすい状況にあった。そのうえに折り悪く大阪湾から吹く強い西風にあおられ、瞬く間に火勢が強くなり車両は全焼した。
事故処理の時に確認されただけでも181名が焼死し、車掌を含めた8名が収容先で死亡したことにより、最終的には死者の合計は189名にのぼり、重軽傷者は69名に達するという甚大な人的被害となった。本件事故は日本の鉄道事故において、現在に至るまで正確に記録されたものとしては史上最悪の死者数を出した事故である。事故車両内には多くの焼死体が折り重なっていたが、遺体を収容していたところ、もっとも下から2名の生存者が奇跡的に発見された。なお西成線は軍事的に重要な路線であったため、事故後の復旧作業は迅速に進められ、鉄道省の職員だけでなく駅周辺の工場労働者までを動員して、事故当日の正午には同線の運行が再開された[4]。
本件事故では、数々の悪条件が重なったために、多くの通勤客が犠牲になった。耐火構造になっていない車両、脱線後の車両横転、燃料タンク破損による火災発生、乾燥した冬の気候、強い西風、超満員の状態(朝の通勤ラッシュの時間帯と重なる)などである[5]。また事故車両に乗車していた大味彦太郎車掌は、車両の横転により片側の窓からしか脱出できなくなった乗客を可能な限り助けていたため、自身も下半身に大火傷を負い、収容先の大阪住友病院で死亡した。
2 事故原因
本件事故の直接の原因は、列車が通過中にもかかわらず信号掛が分岐器を転換したことである。信号掛が転換操作を急いだ背景には、戦時体制下の社会情勢において戦略物資である燃料を節約するための政治的な強い圧力があったためであるが、そもそも列車通過中に分岐器を動かせる設計であったことが事故発生の最大要因であるのは明らかである。
通常、分岐器には鎖錠装置(ディテクターバー)という安全装置が付けられており、列車通過中は分岐器が固定されて切り替えることができないようになっている。この装置は東海道線などの複線の幹線には設置されていた。事故現場にも元々は設置されていたが、事故前に撤去されていた。したがって事故当時の西成線には同装置は備え付けられていなかった[6](参考文献「機関車と共に」に記述されている。そのことについては参考文献にある「信楽高原鉄道事故」を参照のこと)。
列車が通過中にもかかわらず分岐器が切り替わる事故は、1926年(大正15年)4月9日に横浜の桜木町駅[7]構内で既に発生していた。この事故は、鎖錠装置があったにもかかわらず、日常的に列車通過中に分岐器を切り替える不正な操作を行っていたため、分岐器が疲労破損して事故に繋がったものである。事故の状況は、上りの京浜電車5両編成が桜木町駅を出発した直後に3両目が分岐器の上で脱線し、4両目と5両目が編成から切り離されて下り線を逆走し始めた。そのときに桜木町駅に到着しようとしていた別の下り京浜電車は、下り線を逆走してくる事故車両に気付いて駅の手前で緊急停車し、下り線を後退して逆走車との衝突を回避しようとしたが、2両の逆走車に追いつかれてしまい、双方の列車は下り線上で衝突した。この事故(桜木町)では衝突速度も遅かった為、幸いにも人的被害は最小にとどまり、大事故には至らなかった。なお、桜木町の事故では分岐器を切り替えた信号掛が起訴され、裁判により有罪判決を受け、罰金200圓(旧円)の刑事処分を科せられた。
このように、実際に本件事故と類似の事故が過去に起きていたにもかかわらず、事故の教訓を活かして再発を防止する対策が取られておらず、安全を優先する意識の欠如があったとの指摘もある。すなわち、人間が通常ありえない操作を意図的に行うことを前提にして、人為的ミスが重大な結果を招かないようにする「フェイルセーフ」が重要視されていなかった。
3 事故後の経過
事故の刑事裁判であるが、事故当時に分岐器を転換した信号掛の駅員2名が起訴された。1940年10月9日に大阪地方裁判所で判決が言い渡され、服務規程に違反して事故を起こした責任があるとして、被告人2名は共に業務上過失汽車転覆致死罪 [8] で禁錮2年が宣告され、刑が確定した [9]。
また、この事故により、引火しやすいガソリンを鉄道車両の動力用燃料に使用することの危険性が指摘され、より安全な軽油を燃料とするディーゼル動車の開発が進められた。当時は、東京・大阪間を結ぶ高速旅客列車にガソリンカーをあてる構想もあったが、本件事故の影響により中止された。実際には戦争の激化に伴い燃料統制が進み、ガソリン動車の使用は縮小し、ディーゼル動車の開発も一時的に中断されることになった。一部の私鉄では戦後の1969年(昭和44年)まで若干のガソリン動車が存続していた。
キハ42000形気動車も燃料統制により使用不可能となり、しばらく放置されていたが、戦後に動力機関をディーゼルエンジンに換装して再生改造され、車両形式はキハ42500形(2代)→キハ07形に変更された。
なお西成線では、事故後にガソリン動車の使用を中止し、電化工事が前倒しで行われた。工事は急速に進められ、事故の翌年1941年に完成している。この工事は「慰霊工事」といわれ[10]、同時に西成線の分岐器には鎖錠装置が取り付けられた。
4 参考文献
・「ガソリンカー轉覆發火し百七十三名惨死す」『大阪朝日新聞』1940年1月30日。神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫
・網谷りょういち、1997年、『信楽高原鉄道事故』、日本経済評論社 ISBN 978-4-8188-0953-6
・今村一郎、1962年、『機関車と共に』、ヘッドライト社
・久保田博、2000年、『鉄道重大事故の歴史』、グランプリ出版 ISBN 978-4-87687-211-4
・坂上茂樹・原田鋼、2005年、『「ある鉄道事故の構図」昭和15年安治川口事故の教訓は生かされたか』、日本経済評論社 ISBN 978-4-8188-1794-4
・佐々木冨泰・網谷りょういち、1992年、『事故の鉄道史』、日本経済評論社 ISBN 978-4-8188-0662-7
5 脚注
[1]^ 『事故の鉄道史』192頁
[2]^ 『別冊ジュリスト・交通事故判例百選』、有斐閣〈判例百選〉.
[3]^ 事故車はその車両番号から「死に頃」「死に丸殺し」と呼ばれた。『事故の鉄道史』186頁
[4]^ 大阪朝日新聞、1940年1月30日。
[5]^ 事故車両となったキハ42000形は当時の国鉄旅客車には珍しく鋼板張り屋根を用いていたため、横転した車両の屋根に穴を開ける救出方法が採れず、これも犠牲者を増やす要因となった。
[6]^ この装置は大正時代には実用化され、主要路線には導入されていた。
[7]^ 『事故の鉄道史』203頁
[8]^ 刑法第11章「往来を妨害する罪」には「 汽車又ハ電車ヲ・・・」とあり、ガソリンカーや気動車についての規定はないが、前年に起きた中勢鉄道のガソリンカー転覆事故について大審院(現在の最高裁)は、「立法趣旨に鑑みて本質的にガソリンカーも汽車に含まれる」と判断し、1940年(昭和15年)8月22日に有罪判決を下している。 参照 中勢鉄道青谷車両脱線事故
[9]^ 裁判の判決では犠牲者は「193名」とされているが、訂正されず誤りのまま確定している。
[10]^ 『事故の鉄道史』202頁
6 関連項目
・日本の気動車史
・鉄道事故
日本の鉄道事故 (1949年以前)
最終更新 2020年6月22日 (月) 12:18 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
≪くだめぎ?≫
「ディーゼル動車・ディーゼルカー」が実用に成る前の事例である。「ガソリン動車・ガソリンカー」が実用になった所での惨事である。燃料としての"ガソリン"の危険性を世間に認識させる最大の事件だ。
東京・大阪間を結ぶ高速旅客列車にガソリンカーをあてる構想もあったが、本件事故の影響により中止された。もし実現しても、後に
ディーゼルエンジンに換装は間違いない。